投稿者「mastery」のアーカイブ

「清朝末式八卦掌通信講座部」始動。全国で水式門を叩け。

清朝末式八卦掌通信講座部とは、弱者向けの護身術に特化した「護身術通信講座科」と、伝承者を目指し八卦掌の術理を学ぶことに力を入れる「清朝末式八卦掌代継門人候補科」で構成される遠方有志向けの学習部です。

従来は、遠隔地生の愛知来訪向け学習部としていましたが、本科における一回定額制で対応するため、「通信講座部」としました。
現在「清朝末式八卦掌通信講座部」には以下の

  • 八卦掌第7代目の伝承者を目指し術理を学ぶことを重視した「清朝末式八卦掌代継門人科」
  • 『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」護身術』に沿って学ぶ独習者向けの「護身術通信講座科」

が開設されています。

愛知県在住者以外の方で清朝末式八卦掌を学習したい方には、大きく2つの傾向があります。

『清朝末式八卦掌という武術に興味があり、本格的に習ってみたい方』『清朝末式八卦掌の弱者護身術的側面に興味があり、護身術として習ってみたい方』。

「全国の志ある者に門を開く」という弊門の理念に沿って、『成立当時のままの八卦掌に興味があり、本格的に習って極めたい方』の希望に合わせ「清朝末式八卦掌代継門人科」を、『清朝末式八卦掌の弱者護身術的側面に興味があり、護身術として習ってみたい方』には「護身術通信講座科」を開設しました。

基本的に「教材を作って、売って、学習させる」の一般的形態を採りません。

このような「売り切り」にすると、よほど自分を追い込むことができる人間でない限り、だらけるからです。

通信講座を運営する側としては、最初に教材作成さえしてしまえば、あとは放っておいてもよいため、手間がかかりません。しかし、弊門は、己を守り、大切な人を守る確かな技術を、伝えることが使命。この方法では、伝わりにくいものがあります。

よって、通信部を利用して入門した遠隔地門弟にURLを用意し、仮入門教程以後の本入門教程においては、当門弟向けに代表が自ら技を選んで技を追加し、本人に合わせた学習段階をとらせることで、愛知対面指導に近い形式で指導を進めていくこととします。

掲載の上記イラストは、弊門筆頭門弟が代継門弟にとなり、承継人教程において修行していた頃のものとなります。

私が富山を離れていた頃、彼女と共に学習形態を工夫することから生まれた本通信部の学習形態です。

動画と撮って、解説をつけて、教材としてまとまったお金で売って・・・では、当門弟の技術の上達に合わせた指導ができません。

遠隔地で学習していても、「常に先生のもとで学習している」という一定の、いい意味での緊張感を持ってもらいたく、工夫したうえでの、「門弟ごとURL上指導」形態となります。

各科において、入門時の条件や、月謝が違います。

詳しい内容については、弊門サイト上の「清朝末式八卦掌通信講座部|護身術コースと代継門人候補コースで学ぶ全国対応型八卦掌通信講座」にてご確認ください。

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4/20(土)・5/18日(土)富山県氷見市開催『「清朝末式八卦掌」単換掌の術理講習会』開催

2024年4月20日(土)・5月18日(土)富山県にて、『弱者護身術たらしめる「清朝末式八卦掌」中核術理(単換掌の術理)』講習会を開催します。この場を借りて、当講習会の詳しい内容を説明していきたいと思います。

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【開催日・開催時間】

◆2024年4月20日(土)13時00分~16時

◆2024年5月18日(土)13時00分~16時

【開催場所】

富山県氷見市 島尾海浜公園 芝生広場

※基本雨天決行となります。荒天による中止の際は、午前10時までに頂いたメールアドレスまで連絡します。ご不明の際は、電話にて遠慮なくお尋ねください。

【講習会のタイムスケジュール】

・単換掌の術理の全体像~斜め後方スライド撤退戦の対敵身法

・単換掌の術理を支える、土台術理「翻身旋理」と「刀裏背走理」

・単換掌と単換刀の型を通して、術理を理解する

【参加人数】

先着定員10名まで

【受講料について】

受講代金:4,400円(税込)

当金額を、下記の指定口座に支払期日までにお支払いください。

◇受講料 振込先情報

銀行名  :三菱UFJ銀行
支店名  :知立(ちりゅう)支店 店番号 412
預金種別 :普通口座
口座番号 :1213489
口座名義人:ミズノ ヨシト

◇受講料についての注意事項
※必ず振り込む前に、当ページで後述する「キャンセルポリシー」をお読みください。

※下記支払期限までに金額を上記指定口座に受講料としてお振込みください。申込みがありましても、期日までにお支払いが無い場合、申込みのキャンセルがあったということで扱わせていただきます。

※講習会後日における支払いには一切応じておりません。ご了承ください。

◇応募締切日・講習会代金お支払い期限日

・4月20日講習会は、2024年4月18日(木)まで

・5月18日講習会は、2024年5月16日(木)まで

※事前連絡参加者がいない場合は、講習会は開催しません。参加希望者は必ず事前にご連絡ください。

※お申込みがありましても、4月20日講習会は4月18日24時時点で、5月18日講習会は5月16日24時時点で、上記指定口座において申込者様からの講習会代金振込が確認できない場合は、1理由のいかんを問わずキャンセルされたものとして扱わしていただきます。

※お申し込み後、代金お支払い期限までに振込みがなく、かつキャンセルメールをいただけなかった申込者様は、次回以降の参加はお断りさせていただきます。

【参加資格】

中学生以上の男女で、清朝末式八卦掌を真摯に学びたい方。

【参加に際しての注意事項】

・当練習会に参加するに際しては、募集期間中における事前の申し込みと支払期日までの受講料のお支払いが必要となります。支払期日を過ぎても支払を確認できない場合、例外なくキャンセルとして扱わせていただきます。

・真摯に学ぶ姿勢の参加者を求めます。指導者の指示に従わない者は、それ以後指導せず、帰宅させる。

・一日単位での参加希望者のみの対象講習会となります(午前と午後の内容が密接に結びついているため)。

・参加できなくなりましたら事前にメールにてご連絡ください。連絡無しでキャンセルした方は、今後の水式門の活動への申込みはお断りさせていただきます。

・発熱・体調不良・心身故障中の状態の中での無理な参加は、受講生の安全な受講に配慮する立場からお断りしています。

・一般参加者の学習環境配慮と技法のいたずらな漏えいを防ぐため、保護者・知人・親族等による見学行為は例外なくお断りしています。

・本講習は、有料の特別指導であるため、見学目的・無料体験目的での参加はお断りします。

・当講習会内容では、実際に参加者同士が手を交える対人練習が行われますが、屋外で開催するため、マスクの着用は義務としません。気になる方は、各自マスク着用での参加をお願いします。

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倒すならば、振り向きざまの電撃攻撃で。護衛武術にもなる。

「いつ敵を倒すのですか?」

気持ちは分かるが、成立当時スタイルの八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)の戦闘法を深く理解してない状態の質問である。

しかし大変よい質問だと言える。中核に触れる、そして中核を理解するきっかけとなる質問だからだ。

このような疑問を師に尋ねることは大変素晴らしい。その疑問に師匠が実演付きで答えることで、疑問に対する答えが明確にされ、深い理解を得られる。自分で考えた末の質問である。どんどん師に質問するとよい。

質問に答える。さんざん練習している「単換掌」で倒すのではない。八卦掌は、「倒す」よりも「倒されない」を目指す拳法である。その拳法が最重要と位置付けている技である。その技が「倒す」ためのものでないことはおのずと理解できよう。

後退スライドは「斜め後方スライド撤退戦」である。「撤退戦」というフレーズは何気なく使っているのではない。古来より、戦争における撤退戦において敵を倒すことはなかった。

味方の犠牲を最小限に食い止め本隊を被害なく本国へ撤退させるために、しんがり部隊が「追撃してくる敵の足(進軍)を止める」ことが目的だったのだ。撤退戦を扱った講談などでは、一矢報いたことだけがクローズアップされ誇張されるが(例えば三国志演技における蜀軍撤退の際の『死せる孔明生ける仲達を走らす』など)、撤退する者が圧倒的不利な状況からかろうじて逃げた状態だったケースがほとんどだったのである。

単換掌はまさにそれを実行する技法なのである。

対多人数移動遊撃戦は、まさに絶体絶命のピンチの戦いなのである。八卦掌は対多人数専用の拳法である。専用の拳法、と書くと、八卦掌の術理をマスターすれば、いとも簡単に多人数相手に戦うことができるようになる、と思いがちであるが、そうではない。「八卦掌の術理をマスターすれば、「対多人数戦の絶対的不利の中から生還できる可能性が生じる」だけなのである。

私は今でも、弟子らに多人数戦の戦い方を実演する際、大変緊張する。息も上がる。決して「楽々」ではないのだ。かろうじてかわしている状態なのである。自分の身体を移動遊撃戦渦中における複数敵の絶え間ない猛接近からやり過ごし続ける必要がある。その、不確定で急速対応の必要にあふれた世界が、どれほど過酷か想像すればわかる。

敵が3人以上となると、敵のアタックは次から次へと、息つく間もなく到達する。その過酷な戦況に対抗する手段として、ひたすら前に向かって、高い移動推進状態を保って移動し続ける「勢(せい)」の維持による対処法が考えられる。

前に移動し続けないと、後ろの敵に捕捉される。周りの敵に詰められ、捕まれる。前敵に速度を伴った電撃戦が実行できない。いいことがないのだ。

勢を維持するためには、スピードが落ちる可能性が最も高い、斜め後ろから接近してくる敵をやり過ごす瞬間「斜め後方スライド」時を克服することが最大の課題となる。

翻身旋理(ほんしんせんり)による切れある後方スライド技術、刀裏背走理(とうりはいそうり)による、自分の手や武器などを自分の身体軸に近付けて引っ張り身体移動時のブレを無くす方法は、この課題を克服するためのものだ。つまりこれらの術理は、スピードを落とさないために創始者が考え抜いた術理なのである。

この術理を実行するならば、敵猛追の都度「受けて攻撃をして倒す」という近代格闘術八卦掌が用いる攻防方法はできない。

する必要もなくなったからだ。近代格闘術八卦掌は対多人数移動遊撃戦ではなくなった。人を「倒す」ことに焦点をあてた。倒すならば、軸を作って大きな力を発揮し、戦闘不能にする必要がある。軸を作って打つ=その場にとどまる、ということだ。

近代格闘術八卦掌が移動遊撃戦という前提を離れた瞬間、強者使用前提の動きが加速し、両者は別物の拳法となった。

私に八卦掌を対面で教えてくれた若き中国人就労生の楊先生(八卦掌を「八卦転掌」と呼び、単換刀を教えてくれた青年先生)は、明確に、昔日と近代の違いを意識した指導をしていた。

連身牌法は、楊家のオリジナルであろう。しかしその動きは、八卦掌主要刀術の動きそのもの。虎衣藤牌兵舞踏を練習していた楊家では、それが八卦掌と融合するのは自然なこと。虎衣藤牌兵舞踏は、後退スライドではないが、楊家の代々の人たちは、昔日の転掌術理に、あえて合わせた。そこで連身牌法が生まれたと思われる。

手を出したならば後退スライドによって身体を操作し、身体の操作によって出した手を引っ張り身体軸に近付けてから、(肩が入ると同時に)スッと穿掌を突き出し、相手を驚かせ、その敵の足を止めるのである。まさに『けん制攻撃』である。

身体はけん制穿掌を放つ際、肩を入れて次なる場所へ移動する段階に入っているため、この攻撃の成否は分からないのだ。肩を入れて次なる場所へ・・・は、攻防における「防御」そのものなのである。

長くなったが、斜め後方スライド時、いかに倒すつもりで打ってないかが分かっただろう。「倒す」つもりで向かっても、ほとんど倒すことはできない。攻撃はなかなか当たらないもの。そこで割り切って、単換掌の術理は「けん制」に徹した。

そこで、単換掌で後退スライドし、振り向いた際、その場所で居着いている敵に電撃攻撃をしかける。不意を突かれた敵のほとんどは、その場から移動できず、攻撃を喰らうのである。

上の動画は、振り向き様のけん制攻撃の練習である。あえて敵を大きな動きでさばいた動作を繰り返し身体を振り、その中で確実に(頸部)急所を打ち抜くための練習法である。

よく見て欲しい。動かない的を打っている、などと、うんざりするような批判をする前に、練習の意義を考えろ。翻身拍打から遊歩一穿の攻撃を演じているが、その激しい展開攻撃においても、指先第一関節部分までで攻撃しているのがわかる。

極力遠い間合いで、通り抜けながら、斜め後ろ打ちをしているのだ。前敵攻撃に生じるリスクを最小限にした、「前敵スライド回避攻撃対敵身法(順勢掌の術理・順勢掌理)」である。

※楊家では、順勢掌のことを、「円勢掌」もしくは「勢掌」と呼んでいた。単換掌・拗進転掌(陰陽魚掌に該当)・勢掌の3つを原初最重要技、単換刀を、八卦転掌の源泉として指導してくれた。

敢えて「倒す」方法と段階を説明するならば、この順勢掌の術理である前敵スライド回避攻撃で倒す以外ないと考えられる。

よって皆には、もっともっと単招式を練習してほしいのだ。やりたがらない人も多い。単換掌と単換刀の陰に隠れるのもある。

しかし私は、上の動画のような練習を通して、今でも毎日、何回も何回も、前敵スライド回避攻撃を練習している。

単招式をもっともっと練習しよう。敵の脅威であり続けよ。そうすることで、敵は大切な人に手を出すことができなくなる。八卦転掌本来の姿、護衛武術に引き上げるならば、単招式は大変重要なのだ。

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いじめ護身部なくして八卦掌水式門も清朝末式八卦掌もなし

「このコンテンツ(いじめ護身部のこと)のシリアスな内容が、影響を与えているかと」

突然電話をかけてきたネットマーケティング会社の若者らしき男性が、そう口を滑らした。

その瞬間「このコンテンツこそ水式門のすべて」というような返答を真面目にして、電話を切った。怒ったわけではない。

考え方の違いである。彼は私のサイトや門の深い内容、そして自分の歴史を当然知らない。悪気があったわけではないので、自分の考えを述べて終わらせた。

あの時の戦いは、過去の過ぎ去った話ではない。40年近くも前の話だが。

あの時のことにリアルに関わった人間は、加害者の人間以外、皆いなくなってしまったが、私の中では、未だにあの時の戦いが終わっていない。あの時ああすればよかった、あの時このようにしておけばよかった、と仮定し続け、はや37年以上の月日が流れた。

膨大な時間をかけ、弱者護身の可能性のある方法を見いだし、今まさに、その方法との戦いである。目途がたち、形も目に見えるようになったけど、目に見えるようになっただけである。

今この時も、常に練習をし続けている。目指すべき地点にたどり着いても、その場からまた先が見える。まだあそにいける、まだあんなところに行かなければならない場所がある、と、昔描いた地点にたどり着いた時、見えてしまう。

いじめ護身部だってそうである。

まずプロトタイプとして、清朝末式八卦掌に基づいた一般的な護身術を作成し、そこから、学校戦に特化した内容へと変遷させる作業を、もうすでに3回以上繰り返してきた。

今再び、一般的護身術たる『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術』を洗練させている段階である。これはいじめ護身部~取り返すための技術解説(修正後3回目の形)をフィードバックさせた一派的護身術である。

伝え方がまだ甘い。もっと具体的に伝えることができるはずだ。でないと、護身という、命を賭けた一大事において使う技術の解説書として、役目と果たすことができないかもしれない。

自分の伝える八卦掌の内容があまりにマイナーなため、現状では八卦掌に興味のある程度の初心者にすら、相手にされていない。八卦掌に数十年向き合って、八卦掌一筋でやってきた。国内の著名八卦掌家はたくさんいるけれど、彼らに劣るとは全く思っていない。

彼らよりも勝るかどうかは不明だが、間違いなく言えることは、私は全く他の先生らに劣らないということ。彼らの熱意に負けるはずもない。なぜそのように言い切れるか。それは、自分のできる範囲内で、目いっぱい向き合ってきたからだ。

私は自責の念から、そして同級生との約束から、いままで「怠ける(一般にいう、さぼる)」をしてこなかった。自分にまけそうになったら、その都度、厳格に戒めてきた。同級生のお姉さんが、その切羽詰まった姿勢に常に懸念を示すくらいに。

これはすべて、いじめ護身部の内容を、練習するに値する内容に引き上げるためである。他流試合で勝つためじゃない。組手で兄弟子や弟弟子に勝つためじゃない。

そんなことどうでもいい。いじめ護身部の内容の引き上げに役立つと思ったら、皆の前でもためらいなく試したい技法を試し、倒されてきた。それを失敗の一例としてフィードバックでき、刀術も徒手術も、どんどん洗練されていった。

型を綺麗に演じることができても、実際に人や目標物を打つことができない人間が多い(実は、ほとんどがそのタイプである)。

そして鍛えぬいた穿掌で、実際に人の(頸部)急所を打つことはできない。しかし思い切り、走りぬきながら打たないと、実戦では使うことができない。そこで、全力で想定敵をかわし続け、トップスピードで勢が極限に達した状態で、スポンジ棒で作った支柱を打ち抜く練習をし続けてきた。

人は笑う。「止まったものを打っているだけ」。しかしトップスピードで、指第一関節部分だけで打つことをできた人間はいない。動画を見ていただければわかるが、手が伸びきった瞬間に、支柱が突然飛ぶ。それは、指第一関節部分だけで打っているから、そのように見えるのだ。拳でぶつけて打つなら、もっと大げさに、のっしりと倒れる。

そこまで考えてみているだろうか。そこまで考えている人間はいなかった。ただ皆、何気なく、止まっている目標物を打っている、と認識して批判しているだけだった。

徒手技術では、実際に人を打って技術を習得する必要がある。

しかし、組手をやってきて分かったのだが、実際に人を打つことはできない。防具をつけるのでは、まったく感覚も違うし、防具付け組手でも、頸部を穿掌で打つことはできなかった。

そこで、人間以外を打つ必要がある。しかし人間以外の物は、当然動かない。動かないなら、自分が極限まで移動慣性の中に己の身体を置いた状態で、正確に射抜く練習をすればいい、と考えた。

その方法を思いついてから、はや十数年。間合いはほぼ取ることができるようになったし、いつでも穿掌を急所に入れることができるようになったが、そこからまた、新たな問題が生じてきた。

持久力の問題である。体力が落ちてきた。息が上がる戦い方ではあるが、息の上りが速くなってきた。乳酸がたまりそれが身体を止めるまでの時間が短くなってきた。

これは大きな問題である。また新たな旅が始まりそうだ、そう感じている。

恐らく私がこの世から退場するまで、いじめ護身部の道は続くであろう。これまでもそうだったように。常にこのことばかりを考えてきた。

最近やっと、「八卦掌 いじめ」で調べてきてくれる人が増えてきた。初めて「八卦掌 いじめ」で調べてやってきた人が居る足跡がアクサス解析で判明したときは、嬉しくて泣いた。

やっと本当に見て欲しい人が訪れるようになってきた。経済的には、私はもう破綻寸前であるが、ここにきてやっと、ほんとうにやっとのことで、届きはじめてきた。あと少しだけ、ここにいさせてください。神様がいるなら、本当にもう少しだけ、ここにいて踏ん張らせてください。

「いじめ 護身」、「いじめ 護身術」、「いじめ 辛い」でもたくさん人が来てくれることが目標。その段階に至ると、もっともっと多くの戦う君に、技術を届けることができる。

・・・それまで、もっと磨きます。もっと磨き続けるので、神様がいるなら、磨いたご褒美に、そのキーワードでも戦う皆が訪れるようにしてください、お願いします。

清朝末式八卦掌は、現代護身において極めて有効である。しかし敵と打ち合う格闘技的ロマンはないため、敬遠される。人の協力もない。顔を出さなくとも、映りたがらない。無名な、人から見たら特異でマイナーな弊門に、関わっていることが恥ずかしいと感じるのだろう。有名になれば、ホイホイ寄ってくる。しかし無名であると、どんな初心者であろうと、批判され、笑われる。

しかしそんなことはどうでもいい。新しいことをすればそうなる。宗家になる人間に一番必要なことは、結果が出なくても、笑われても、貫くことだ。忍耐こそ、宗家に求められる資質である。技術ではない。技術ならある。

このスタイルを貫く。貫いたおかげで、梁派はほぼ破門状態となり、人も来なくなった。しかし人が来ることに合わせて得るものって何?

お金?有名になる?どっちも中国拳法を追求している以上、大したことない。そんなちっぽけな見返りのために、自分の路線を外したりしない。

だから、サイト上のいじめ護身部は、もっともっと、内容を濃く、いじめ対策用に、いじめられる者の視点で、洗練させていく。

だから安心して見ていてほしい。

いじめを克服するだけにとどまらない、学んだ者が将来も大切な人を守ることができる知識・方法として、どんなことがあっても弊門サイト上に掲載し続ける。

これは同級生との約束でもあるし、全国でいじめに苦しむ者と、いまだにいじめと戦っている自分との、約束でもある。

心は常に君たちと共にある。一緒に前を見て歩いていこう。

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「ぶつける」に徹する現代刀術~逆転発想の清朝末式八卦掌

逆転の発想で護衛護身武術を八卦掌を極め、現代における護身を果たす。

今回は、刀術について考えてみたい。

私は、常日頃から疑問に思っていた。刀術だからといって、「斬る」ことに現代もこだわらないといけないのか?

なぜなら、現代(特に日本)では刀など持ち歩くことができないからだ。刃がついてない模造刀であっても持ち歩けないのである。

武士は常に、刀を持ち歩き、かつ、いつでも抜けるように腰に差していたので、剣術を練習する意味があった。裏を返せば、帯刀を許されなかった庶民にとって、剣術など、いざという時に役立たない無用のものであった。

例えば、庶民が襲われた時、ありえない話であるが、何らかの理由でその場に日本刀が転がっていたとしても、日頃扱ってない(練習してない)から、意味が無いのだ。

慣れないのに真剣など使用したら、自分を斬ってしまうのがオチである。

私は自分で技術体系を編み出す過程で、まず長年引っかかっていた、「斬る」技術をなんとか処理しようと考えた。これから先、いくら社会情勢が変化しようとも、刀を庶民が持つことができる時代は来ないだろうと考えたからだ(海外では不明)。

そして「斬る」よりも「斬られない」ことを目指した。暴漢は、法律で禁じられても持つ。刃物で襲われることは、十分想定できる。「斬られない」ために、刀を棒で防ぎ、生還することを目指した。

「斬られない」ための技術は八卦刀術なのに、「斬る」をあてにしない。「斬る」をしないなら、その分、八卦刀術の他の攻撃技法「ぶつける」をメインにしようと考えた。

「ぶつける」だけにするなら、不利なのでは?

ぶつけるために、重く、長い物を振り回す。長くなくてもよい。遠心力がかかるものを、身体操作(移動)で自在に操り、自分は重たい物の柄の付近にとどまり、自分と敵の刃物との間に、重たい物の先を常に回し続けて刃物の到達を妨害し、防御・攻撃する。

「斬る」だと、刀(刃物)が必要であるし、所持が法律違反なので、多くの不安が残る。しかし重たい棒であれば、そこら辺に転がっているし、使う際に手にするだけなので、法律を犯すリスクもないのだ。

つまり「斬る」手段に見切ることの代わりに、「ぶつける」ことで身を守ることに意識を集中させることで、法律を犯してないという安心感と、その時の環境を味方につける現場対応力・事前準備をするモチベーションを得るのである。

護身術は、事前の準備が必要である。事前の準備には、当然「練習」も含まれる。練習と同じくらい、実際に使うことが想定される場面で、自分が持っている物で何が一番確率が高いか?もしくはどの「物」であれば、いつも持っていられて、かつ有事に身を守る道具に流用できるか、を考えるのである。

持ち歩くことができる道具と、自分の生活環境の中で「これならいざという時流用できる」と想定できる道具を特定し、それらは間違いなく「刃物」でなく「斬る」攻撃ができないのだから、それらの物で「ぶつける」技法を磨くのだ。

私の場合、自前のシャッターフック棒であったり、細長い径の小さい水筒であったり、長めの降りたたたみ傘であったりする。

私の環境の中で振り回すことができる物は、物干しざおであったり、シャッターフック棒であったり、カバンであったり、工事現場にある進入停止バーなど。

それらは「斬る」ことはできないが、「ぶつける」攻撃に流用できる。ならば、それら「ぶつける」ための武器でない物を使って、「ぶつける」攻撃ができる事前の練習を徹底的に実行ことで、「ぶつける」攻撃と心中するのである。

刀は現代で使うことができない→ざという時護身の技術となり得ない→「斬る」型は見切りをつけ、『ぶつける』技法を磨く

という逆転の発想で、大切な人を守って欲しい。

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八卦六十四掌を練るより、単換刀を練る先に生存がある

「八卦六十四掌」はいらない。六十四掌を知らなくても、問題なく実戦で生き残ることができる。これは確信である。

六十四掌は、取るに足らない技法ではない。時の名拳士が創った型である。だからといって、この技法を知らなければ、八卦掌が極められない、などということはないのだ。

そして、この技法を知らなければ護身が果たせない、ということもないのだ。

よってやらなくていい。ゆえに水式門では指導してない(※これは私の師匠の指導方針でもあった)。

異世界忍者漫画の影響で、やたらと有名な八卦六十四掌である。漫画の六十四掌は、全く別物で八卦掌にも関係ないフィクションである。しかし習いたがる人間が多い。

「それは指導してないぞ」というと、残念がってこない。

日本では、中国拳法に実戦性を求める人間が多い。しかし、彼らは、昔見た漫画やゲームの影響を受けすぎている。その枠から抜け出せないのだ。

いい例が、同じく少年誌に掲載されていた中国拳法漫画である。私の周りの拳法をやっている・興味がある人間で、この漫画を知らない人はいない。

そのストーリーの中で紹介された流派や先生しか認めない。そしてその中で登場した流派・先生に、無条件の崇拝をする。完全にとらわれているのだ。

フィクションだとわかっているよ、と言いながら、あの動きを出来ると考えている。できない人間を認めない。そして、自分では練習をしない。明らかに練習不足である。練習もしないのに、指導者にフィクションの再現を求め、有名先生にいつか「特別待遇」でお近づきになることを夢見ている。

私の元にも、「○○先生に紹介してほしい」と何度も打診があった。私は何ら人脈もないため、当然お断りした。そしてその先生の道場案内を見てみると、紹介状など必要としていない。ならば、そんなことしてないで、すぐさま申し込めばいいのに。

有名先生の道場で特別に目をかけてもラう方法はただ一つ。入門して、地道に努力を重ね、数年後に、薄紙を積み重ねるがごとくの過程で積み上げた成果を、その先生に認めてもらうことなのだ。

冒頭の八卦六十四掌。習いたがる人間は、さすがにパラレル世界の六十四掌が実物だと思っていない。しかし習いたがる。なぜ?なぜもっと、実の戦いで使う姿を想像しやすいシンプルで簡素なものを追い求めないのだろうか?

実際、実の戦いで使うことができるものは、模擬実戦や本当の実戦で試すしかない。なかなか実戦とは、経験できないものだ。

※それを後ろめたく思う必要はない

要は、その技が自分にとって、有事に身を守る切り札となるか、練習の中で考えながら繰り返すのである。

そして、最初は「なんだこれ、使えない」と思ったものが、動作を洗練させると、「使える」と感じるようになる。おおよそ、創始者が編み出した拳法の原点型というのは、シンプルである。そしてその原点型は、練習すればするほど、上達の段階を感じることができる。

私にとって、「単換刀」がその典型例技であった。下の動画が「単換刀」である。初学段階の練習方法とはいえ、機動力と身法にからめた刀操法を垣間見ることができる。原点型であったことを念頭に、用法などを想像してみて欲しい。

八卦掌の原型にして、最大のエッセンスの一つである。この動作の奥深さは、成立当時の名称であった「転掌」だったころの八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)の真髄が分かっていないと、理解しがたい。とてもおおざっぱに言ってしまえば、「生存を第一に考えた生存のための刀術」なのである。

東京と埼玉の境、清瀬市の公民館らしき施設で、三十数年前に中国人就労生と思われる若い先生に習った、一番最初の刀術「単換刀」。それがとても重要なものであるとは気づかなかった。

その先生が突然指導を止めたあと、数年経った時、程派の初心者修行者がつたない技法で練習していたのをみて、ハッとした。

「これは!重要なのでは?」

その初心者は、試しにその動きをしただけだったようだ。所属道場の先生から習ったわけでなかった。意外と、他の流派で習っている人はいなかったのである。

その清瀬の先生は、虎衣藤牌兵(こいとうはいへい)の演武を知っていたため、おそらく、福建省か浙江省の出身であったと思われる。強制的に教室が無くなったため、足取りも不明であるが、「単換刀」を習ったのは、きっと大きな運命であったのだろう。

最も清朝末式八卦掌に近い指導をする先生であったため、何度も東京に行き、過去の新聞なども閲覧して後日探したのだが、見つけることは叶わなかった。

単換刀は、斜め後方に刀を出して、その下をくぐって、刀を下げるだけの動作。実にシンプルである。初心者の多くは、口をそろえてこう言う。

「どこに攻撃があるのですか?」

その発想は、まさに近代八卦掌の発想である。思い出して欲しい。清朝末式八卦掌は、「生存」が第一である。上げた刀の下をくぐって、その後刀を下ろすのは、まさに「生存をまず図ったうえで、ついでに行う撤退戦攻撃を行う」なのである。

単換刀は、刀の持ち手を変えない。それは、敵が猛然と命をとるために向かってくる場合、持ち替えている時間的余裕と、精神的余裕がないからである。

敵は突然向かってくる場合もある。私にとって最大の恐怖であった、イノシシによる後方からの突進攻撃も、3メートル強の距離をわずか2秒足らずで縮められる僅差の実戦であった。

とてもではないが、刀など持ち替えている暇はないのである。イノシシに襲われた時も、最初の斬撃直後こそ背身刀理で棒を持ち替えたが、あとは、ひたすら、按刀理にもとづく単換刀動作であった。

つまり、このシンプルな動きしかできないのだ。六十四掌、それどころか老八掌で習う基本的な動作ですら、複雑すぎると、命がけの経験によって実感した。

八卦六十四掌や老八掌・八母掌に代表される型(套路・とうろ)は、演じれば結構長く、覚え甲斐が在りかつ見栄えもよく、皆習いたがる。気持ちはわかるが、「長い=全技を無意識レベルに高めるのは膨大な時間がかかる」のである。

私の場合、いつ何時、イノシシや野生動物がチェイスしてくるかわからない環境にある。圧倒的にフィジカルが上の野生動物に対し、ロマンや華麗さは考慮している暇がない。

ひたすら、単換刀を練っている。90センチ棒で、時には、2メートル棒で、練習をする。タオルでも練習する。

単換刀は清朝末式八卦掌最大のエッセンスである。内転翻身・外転翻身の両斜め後方スライド撤退戦対敵身法に基づく、身体操作主導の技法である。移動によって攻撃し、移動によって身を守る、真のエッセンスなのである。

シンプルな動きの中にも、多くのポイントがある。水式門の本科では、単換刀に多くの時間をかける。単換刀ができずして、代継門人になることはできない。最低限にして最大の、エッセンスだと確信しているからだ。

いま、『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術』『いじめ護身部|取り返すための技術解説』でも、それぞれの場に合わせた技法でもって単換刀理を解説するため、準備している。いつか講習会も開きたい。

上記の単換刀の動画を参考に、詳しい内容・技法を、所属教室の先生に聞くとよい。もし知らなければ、その先生は、近代格闘術八卦掌の専門なのだ。清朝末期頃成立当時の八卦掌を知っているなら、必ず知っている。

八卦刀術の最大のポイントは、上げた刀の下をくぐって下ろすところにある。上げて、くぐりながら、我と敵との間に、刀を下ろす、この一連の動作に、攻防がすべて含まれている。

分からなければ、弊門に習いに来るとよい。興味のある真摯な求道者との出逢いを楽しみにしている。

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練習が「実戦的である」とは。遊身大刀術に見る練習の実戦性

八卦掌水式門の承継人教程にて必須となる「遊身大刀術」について、よく聞く言葉「実戦的」の意味をからめて話したい。

遊身大刀術は、実戦から離れ武術ロマンやカンフーイメージに走った練習の典型例だからだ。

実戦的武術・・・よく聞く言葉である。

その内容・捉え方は、各武門によって異なる。よって正解は無いと考えられる。

成立当時のままの原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)では、実戦的、とは、その「技法が、カスタマイズなしに、いきなり有事の際に使うことができるかどうか」である。

水式門独自のこの定義を示す好例が、冒頭でいった遊身大刀術である。一般的な名称で呼ぶならば、「八卦大刀」術だ。

※水式門では、遊身大刀と呼び、八卦という名称を付けない。大刀術が、八卦掌という名になる前の「転掌」時代の練習だからである。

多くの八卦掌道場では、八卦大刀というと、決まって150センチくらいのキラキラ輝くドでかい刀を振り回して練習する。

あれが模造刀でなく、真剣であったら、極めて脅威である。とても近づくことなどできない。では、それが実戦的であろうか。

清朝末期成立当時の頃の転掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)では、あのような練習をしない。あのような刀を使った練習はしない。遊身大刀術は、いつも双身槍術練習で使っている長棒を使って練習する。

つまり、2メートル前後の長棒を使って、長い棒を振り回して戦う技術を養うのだ。

考えてみて欲しい。150センチの八卦大刀が、都合よく転がっているだろうか?

「150センチくらいの棒なら、そこら辺に転がっているぞ」

ならばなぜ、150センチくらいの棒を使って練習しないのか。

清朝末式八卦掌で、八卦大刀を使わずに、2メートル長棒で練習するのは、長さに慣れるだけではなく、双身槍術において、片方の先端をもって、自在に間合いを変えて攻撃できるようにするためにも行うのだ。

つまり、双身槍の片方をもって、振り回す技術レパートリーを加え、より変化に富んだ双身槍術を可能とするため、2メートル程度の長棒で練習をする。そこまで考えているから、あえて八卦大刀を使わないのだ。実際に戦う場面における優位性の確保のためである。

この長棒、現在でも工事現場にいけば、侵入防止バーなど、たくさんある。物干しざおも一般的なものは2メートル40センチくらい。店頭の「のぼり」も2メートルくらい。至る所に存在する武器である。

長い棒は、短い棒に比して、振り回すのに独特の技術が必要となる。長棒が回っている間に、自分の位置を自在に変えて、打つ角度などを変化させ、攻撃力や攻撃射程を変えていく。

この攻撃スキルを習得するための型は、八卦刀術主要技である「按刀」・「陰陽上斬刀」・「背身刀」・「上翻サイ刀」そして八卦掌の源の「単換刀」である。だから、特別に長い型があるわけではない。

近代八卦掌では、「八卦コン手刀」なる長い型もあるが、清末八卦掌では、既存の八卦刀術で、長棒が回っている最中の慣性を利用した戦い方を養う。

つまり「遊身大刀」術とは、演武でよく見るような「八卦大刀」を使いこなす練習ではなく、実際にそこらにある長棒を振りまわして戦うための技術習得練習なのだ。

実戦的とは、そういうことである。下のイラストで、かつ女性護身術科の冒頭をかざるイラストを見て欲しい。八卦遊身大刀を練習している一番弟子を描いたイラストだ。いつもこの子は、大刀術の練習の際、普通の長棒で、かつ普段着で練習していた。

一番弟子は、学校の制服を着てよく練習していた。有事の際に着ている可能性の高い服だったから、当時ひんぱんに制服で練習していたのだ。セーラー服というのは胸元に襟があり、やや動きにくい(らしい)。運動ウェアのようにはいかないとのことだ。

有事の際に、着ている可能性の最も高い服装で練習していたのである。そして、有事の際に、最も使うことが出来そうな可能性のある道具で練習していたのである。

ここまでしているから、有事の際に、スッと違和感なく、反応できる。

清朝末式八卦掌が考える「実戦的」とは、そういうことである。いかに有事を想定し、その時の状況に合わせた練習をするか。

水式門では、「トン級の強大な力で打つ」とか「一撃で急所を打って絶命させる」とか、は実戦的と考えていない。それらは実の戦いではない。それらは多分に格闘ロマン要素が入っているフィクションの世界ととえらえるのだ。

※現代社会において、人命を危険にさらす技術も、現実的ではない。後日普通の社会生活ができなくなる

よって私を含め、水式門の女性掌継人らは全員、練習時、模造刀は使わない。刀術の際、刃の向きを参考にするために、自作した木の柳葉刀を使う程度である。

私は今でも練習中、頻繁に、警備職務中の厚い外套を着て練習する。靴は、警備職中の靴とおなじもので練習している。

雪が降れば、喜んで、一番寒い明け方6時くらいに、滑りやすい状況での体験のため練習する。

経験しておくことである。「実の戦い」にて想定できることを、練習中に経験しておくことである。

刀術で、手首を返して刀を振り回す見栄えのいい技術が無いのは、練習における経験で、女性が実行できないとわかったからである。

単換刀が、敵に差し出した刀を、そのまま身体の移動力を使ってあげて、その下をくぐり、下ろす、のは、その技術が有効だからというより、それしかできないから、なのである。これらは、練習の大刀術の経験にて分かったことだ。

清朝末式八卦掌の「実戦的」を、是非とも参考にしてほしい。技術ではない。「実戦的」とは、その練習が、いかに有事において違和感なくその成果を発揮するか、である。

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おとりになって守るべき人を守る、身分制社会の護衛護身武術

以前、「八卦掌は、自らが囮(おとり)となって一定時間護身し続け、大切な人を守る護衛武術」と触れたことがあった。

成立に関わる話ゆえ、拳法を修行するうえで大して重要でないと思われがちである。しかし私は、このことに気づいたことで、成立当時の原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)の戦闘スタイルの根本に気づいた。

なぜなら、「護衛武術」という前提で、技術体系が組まれているからである。

もともと「護身術」ではないのだ。ただ、護衛を果たす過程で、苛酷な状況下で一定時間護身して生存し続ける技法を採用したため、現代において護身術として成り立つのである。

創始者(伝・董海川先生)は宦官(かんがん)であった。宦官である以上、筋力は通常男性より劣る。よって自分は弱者であるが、王族を守らなければならない。

賊徒の襲来であれば、相手はおよそ多人数である(暗殺であれば単独もあるだろうが)。おそらく武器を持っている。襲いに来る以上、腕に自信のある強者である。その過酷な条件で、どのように守るか?

そこで、以下の点が挙げられたと考えられる。

  • (1)まず、全員倒すのは非現実的。自らが囮となり逃げまくり(かわしまくり)、時間稼ぎをして、味方の援護を待つ。移動遊撃戦の採用。
  • (2)かわし続けるための方法を考える。敵の方向に自ら向かって、やり過ごすのではなく、敵の居ない方向へ向かって、近づいてきた敵を流す。この際の対処法が、転掌式。斜め後方スライド撤退戦の対敵身法とする。
  • (3)敵にとって我が「獲物を蹂躙するためには、まず倒さなければならない脅威」であり続けるために、敵を油断させず我に注意を引かせ続けるための、前敵に対する電撃奇襲攻撃を行う。

(1)対多人数に対処する原則として、徹底して移動し続ける「移動遊撃戦」を採用し、その戦法をもとに技術体系を作る。

まず大きな戦闘スタイルを決定する必要がある。自分弱者、対多人数、対武器である以上、敵とまともに向き合っていたら、たちどころに倒されてしまう。倒されたら、その後、守るべき人が命を奪われたり、蹂躙されてしまう。

よって、弱者が苛酷な状況をやり過ごすためには、一定時間移動し続け翻弄し、自分以外の味方の支援を待つ方法が有効だと考えれる。

やり過ごすことが前提のため、倒す技術よりも、移動しながらかわし続ける技術が必要だと、ここではっきりさせたのだ。ここではっきりと戦法を絞ったから、走圏や後退スライドの技法が生まれたのである。

(2)移動遊撃戦を実現するために、近づく敵を認識しながら敵の居ない方向へ移動し続ける技術(走圏)と、いない方向へ移動している最中に寄ってきた敵に対処する技術(後退スライドによる転掌式)を開発し、中核とする。

敵と向き合って構え、スキを見てそこを攻撃する、敵の攻撃を防ぐ、返す・・・この従来のスタイルでは、対多人数は戦うことができない。

一人の敵に時間がかかりすぎるため、後ろから来る敵に、ほとんど対応できない。

そこで、一瞬で一人の敵に対処する方法が考えられた。前方向に進み続けたら、前から向かってくる敵の力とぶつかる。あくまで、敵から逃げながら、敵の力に抗せずに受け流しつつ攻撃する「撤退戦」となった。

敵を後ろに置きながら進み続け、我の視界に入ってくる敵に、サッと手を出して、肩を入れながら攻撃し、去る・・・この一連の動きは、まさに『走圏~単換掌』なのである。

走圏は、内功を練るのではない。まっすぐ顔を前に向け、ショウ泥法で、高速で、進み続けるための練習法である。単換掌は、その状態の中、視界に入ってきた敵に対応するための最も基本的な動きなのだ。だからエッセンスなのである。

この「単換掌の術理・単換掌理」を理解している修行者はほぼいない。この記事を見た未来の天才の君は、是非とも頭に入れておいて欲しい。

(3)守るべきを人にうかつに手を出させないために、すべての敵の注意を我に引き寄せる前敵スライド攻撃を確立する

後退スライド対敵身法は、我の護身として大変有効である。しかし、勘のいい敵なら、「こいつは逃げてるだけ、攻撃してこない」と気づく。

そうすると、一部の人間に常に追わせ、一部の人間を守るべき人に差し向けてくる可能性が生じる。

そこで電撃戦が考えらえた。後退スライドで対処し、その先に敵がいるならば、スライド回避しながら、少しでも敵の力とぶつからない状態で逃げ打ちをするのだ。

そうすると、敵は常に我を見ている必要がある。まず護衛者たる我を倒す必要があるため、そこで意識が守るべき人から我に向いて、囮となり得るのである。

電撃奇襲戦を達成するためには、戦いの最中、ずっと「勢」が維持されていなければならない。清末八卦掌が、蹴り技を行わないことは、以前にも触れた。動きが止まるから。横歩きで逃げないのは、前に進んで移動するより勢がないため、攻撃が脅威とならないから。

護衛の観点からも、勢の保持は生命線なのである。

・・・・(1)・(2)・(3)の解説でお分かりのように、清朝末期成立当時の八卦掌には、明確な想定使用状況が見える。

想定使用状況から考えると、現在伝わっている、なんらか意味の分かりにくい練習方法も、その狙いがはっきりとわかるのだ。

最後に意味のある重要な余談をしたい。

自らが犠牲になって・・・という行為は、支配階級たる満州民族王族への崇拝が絶対であった中国では、しっかりと成り立つ。「人のために死ぬなんて・・・」と切り捨てられないのだ。それに見合った見返りがあったのだ。

自分が死んでも、あとに残された家族へは、栄誉と称賛が与えられる。もっと言えば、称賛することを、征服王朝政府である清王朝によって強制された。満州王族のために死んだ人間に、無条件の称賛があたえられることで、間接的に満州民族の高貴さ・貴さが庶民に示されたのである。

栄誉・称賛与えられることは、身分の低い人間には、大変意味のあることだった。遺された家族が、生活の保障と尊敬を得られる可能性もあるからだ。北方民族間では、功績のあった者に十分な恩賞を与えることは、己のステータスを示す最も有効な手段の一つだった。清朝を打ち立てた満州民族たるツングース系女真族も、そんな北方民族の一つ。王族の威信にかけて、功労者には、宦官であるを問わず、大きな栄誉が施された。

このことは、身分の低い人間には、大きなチャンス・転機となりうる。董海川先生も、後宮(粛王府)への奉仕前は謎だらけであった。単なる庶民であり、何も記録もされない、その他大勢のうちの一人であったはずだ。

「太平天国軍の間者(すぱい)だったから」とか、「大切な人を清朝王族に奪われたからその復讐のために宮中に入り込んだから身を隠していた」と、記録のないことについていろいろな説・作り話がある。

しかし多くの場合、記録がない人間とは、身分が低かったからだけである。董海川先生も、そのうちの一人であった。ましてや、当時蔑視の対象であった宦官である。たまたま、自らが確立した八卦掌という武術が王族に認められたため、その後の記録がなされるようになっただけだと思われる。

本人の努力、幸運から、八卦掌は世に広まった。

その奇跡的な幸運は、高貴な人たる王族を守ることに焦点をあてた技術体系づくりから招かれた。その点から、私は、董海川先生が、宮中に入った理由が「立身出世」だったと感じる。

王族に認められる可能性を生じさせる技術体系づくり。そこに一抹の野心を感じるのだ。

上掲イラストは、八卦掌を修めた一人の宦官が、日頃身分の低い宦官たる己に温かい気遣いをしてくれる女性王族のために、命を賭けて戦う決意をする場面を描いたもの。

弊門三番弟子でイラスト作成協力者たる子が、私の八卦掌修行開始のきっかけを絡めて描いてくれた大切な一枚である。

武術の練習は地味で辛いことも多い。このような、心揺さぶる理由がなければ、続かないかもしれない。私自身、はじめたきっかけが強烈であったため、続けられた。

大切な人を守りたいから、という学習志望動機をもって弊門を訪れる人をひいき目に見てしまうのは、このためであろう。

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清朝末式八卦掌では、蹴り技を使う暇はないため練習しない

清朝末期成立当時のままの八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)を、護身術的側面を一切変えないで使うならば、蹴り技を練習する必要ない。

なぜなら、蹴り技を出している暇が一切ないからである。脚は常に「勢(せい)を保った移動」という名の「防御」のために使うため、蹴り技を使う暇がない。

八卦掌で大事なことを一文字で示すならば、「勢」を私は迷うことなく選ぶ。

技法の要領がよくわからず、もしくは解釈につき、ふたつの分岐点がある場合、「どちらが勢を保つことができるだろうか」の視点は、大変役に立った。

近代から昔日への回帰と、失われた当時の練習方式をよみがえらすためには、毎日試行錯誤の繰り返しだった。昔東京のはずれで、若い中国人就労生の八卦掌の先生に習った、藤牌兵の戦場刀術(先生曰く「八卦の連身牌法・れんしんはいほうだ、とのこと。それが名前なのかは不明である」)と、「どちらの道を採るのが、勢を保つことができるだろうか」の視点、の二つは、疑問を解消し、清朝末期頃スタイルにたどり着くための、偉大な先生であった。

後退スライドの使用例を見ていただければわかる。とにかく「移動速度を下げないこと(勢を保つこと)によって敵との距離を保つ」観点から、移動を少しでも妨げるような技・動きはしない。

つまり、脚を止める類の動きは一切しない。蹴り技は、脚を止める類の動きに入るため、まず打つことはない。

通常蹴り技を放つ際は、身体を支える身体軸を、蹴る方の脚の反対側の脚で作ることになる。

身体軸を形成する際は、軸足として身体を支えるため、一時、敵の前面もしくは側面にて止まることになる。その瞬間だけ移動(=防御)ができないことを意味する。

清朝末式八卦掌では、「止まる=死」である。移動ができなくなり、敵にとって「動かぬ的(まと)」となってしまう。後方から迫る他の敵に捕捉され、囲まれ、多人数に押しつぶされてしまう。勢がなくなると、後方スライドから転身して反対方向へ進む際に目のまえに現れた敵に、電撃戦を仕掛けることができない。

このように、蹴り技を打つ時の少しの間であっても、多人数戦では我が追い詰められることにつながる。それくらい、多人数戦渦中におけるプレッシャーは激しい、少しの間で敵は我のすぐそばに迫るのである。

敵に連続攻撃を打つこと、敵に巧妙は技を仕掛けること(手足を取って脚を絡めて倒すetc)は、心がけて行わない。

よって、使わないように心がける対象となった「蹴り」技を、貴重な時間を使って練習する必要はない。

これは、清朝末式八卦掌をじっくり練習する時間・期間がある弊門の門下生でも同じこと。

そもそも護身を使う場面は、いつ来るかわからない。突然来る。「では、護身にとって重要な練習は、また来週に教える」といったその週の間に、必要となることもある。

よって、『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術講座』では、短いページの中に、エッセンスのみを採りあげて掲載・指導している。出来る出来ない、よりも、まず知っておき、そのうえで少しでも練習し少しでも上達させる。その上達速度を速めるために、「最低限」にしているのだ。

「最低限」まで厳選する作業は、清朝末式八卦掌を極めた者にしかできない。『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術講座』では、私(水野)が責任をもって厳選した。よって、蹴り技が一切入ってなくとも、安心して学習してほしい。

護身術の道を歩み始めたばかりの者にとって、弊門サイト上で示す最低限の護身術だけでも、練習するのは大変だろう。既存の八卦掌とは戦闘スタイルがまったく異なるため、不安もあるだろう。

愛知や富山の本科などであれば、定期的に動きをみてもらうことができるため、ベストである。

定期参加が難しいならば、講習会や護身術通信講座などを利用して学習してほしい。何も利用せず、ただサイト内の情報のみで練習するのは、八卦掌の先生に就いて習っている人でも大変である。日本国内の八卦掌道場は、ほぼすべてが近代スタイルのため、同じ八卦掌でも、使用前提の違う体系となっており、それが各技法の意味を根本から変えてしまっているからだ。

「八卦掌水式門で指導する八卦掌とは?」カテゴリー内の記事、もしくはいじめ護身部技術解説、女性護身術講座なども参考にし、あなたの就いている先生にも聞いてもらいたい。そのうえで、じっくりと取り組んで欲しい。

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成功法則「一万時間の法則」は、八卦掌達人への道そのもの

一万時間の法則。

おおざっぱに説明するならば、ある特定のスキル・技術の習得に向けた練習に一万時間を費やしたら、その道の達人になる、というもの。成功法則の一つである。

私は、この法則が大好きである。そして、自身が、あの頃描いた「八卦掌の達人」のレベルを超えることができたことから、この法則が「正しかった」と実感した。

※この法則は批判が多い。努力至上主義者のバカ覚えの一つの根拠だとか、だらだら長く行うことに意味はないとか、一部の批評家がよく自身ブログ・サイト上で批判している。批評家という人種は、いつの時代も行為者と対比される存在であり、行為者たる革新者の背中に唾を吐き続けてきた。私は「批評家」としての人生ほど、送りたくない人生はない。

一万時間を越えるためには、一日3時間の練習を、9年間続ければよいことになる。9年という時間を長いと感じるか、短いと感じるか。私は、「たった9年で達人になることができるのか」と嬉しく思った。

一万時間の法則は、先ほども触れたが、批判が多い。しかし、多くの人間が、特定の分野の特定の領域に、一万時間もかけていない。この法則を批判する人間のうち、どれだけの人間が、ある分野の特定の領域に、一万時間かけているのだろうか?

昔の仕事で、多くの弁護士と接する(戦う)機会があった。彼らは法律全般のプロと言われ、多くの番組でさもすべてを知っているかのようにコメントをしている。しかし、法律にも、そしてそれに付随するトラブルにも、色んな分野・ジャンルがある。

家庭裁判所がらみの訴訟でも、離婚・親権・財産分与・未成年者後見など、多くの分野がある。そして民事の弁護士であれば、物権や債権関連の訴訟もこなさなければならない。

それらに全部精通するのは大変難しい。日本においても、それらに関わる判例(裁判例)は膨大である。

彼らは、他の弁護士が書いた要約本を、訴訟や調停の前に集中的に読むことで、急場をしのいでいた。とても一万時間におよばない。それでも「弁護士」という名前だけで一般人は恐れ、不本意な要求を冷静さを欠く判断の中で飲まされるのである。

彼らは、しょせん付け焼刃のため、いくら学生時代飛びぬけて勉強ができたとしても、皆と同じ主張しかしない。とびぬけてないのである。多くの弁護士が、司法試験予備校におけるマニュアル要約本で合格してきた。受験長期化を望ましくないものとし、最短合格を売りにする予備校で。

私は、受験時代、ひたすら基本書を読み込み、法的思考法(とても大きく要約するなら、権利と権利間の調整の視点のこと)を身につけることを心掛けた。民法で言うなら我妻栄氏の民法。刑法で言うなら前田刑法。民事訴訟法なら、伊藤眞氏の民事訴訟法だ。

読みつくされ、受験特化書籍でないため敬遠される風潮にあったこれらの本からは、まさに昔日の忘れ去られた八卦掌の、飾り気のない、術理の本質を淡々と伝える姿が重なって見えた。これらの本は、八卦掌でいうなら、根幹の身法、八卦掌となる前の「転掌」である。

著書らの、その論点に達する思考過程を何度も追体験することで、切り口を変えて論ずることを要求される論文試験を乗り越えたのだ。何度も読み込むと、エッセンスが見えてくる。楽しくなってくるのだ。受験ジャーナルという司法試験受験誌に、論文試験の模擬問題があり、添削もしてくれるのだが、読み込み回数が20回を超えるあたりから、安定した成績を残すことができるようになってきた。

八卦掌も同じである。いつも同じ角度、おなじ技でくるわけではないのだ。

後で触れるが、一つのことに集中して打ち込むと、一万時間よりもかなり早い段階で、深い疑問に達する。深刻な伸び悩みの時期である。

先生や書籍の著者が触れているような、公開されている一般的な知識・ノウハウでは、おおよそ太刀打ちできない。それくらいの深刻な壁がたちはだかる。その壁をのり超えることができなければ、一万時間まで行かないのだ。

つまり・・・ただ単に、何も考えずに、根性だけで一万時間を迎えられるわけではないのだ。批評家の批評のほぼすべては、その点について触れていない。

この壁を乗り越えるには、その時間まで積み重ねたことによって得た、自分だけのノウハウだけが頼りとなる。自分だけの、誰の後押しもお墨付きもないノウハウのため、それを信じ抜くためには、大変な勇気と意志が必要となる。

これこそが、自身の「限界」なのである。それを突破することで、とてつもない飛躍となる。拳法で言ったら、悟りであろう。今でも覚えている最初の限界が、武器の壁であった。これを乗り越えて、大きな飛躍があったのだが、その後、八卦本門に入ると近代スタイルに触れ、また大きな、実はもっとも過酷な壁が来ることになった。

私は、近代スタイルで強者を打ち倒そうと練習に明け暮れていた。仕事以外の時間を、すべて練習に充てていたこともあった。家内らが、心配するくらいに。

私にとってのその限界を超えるために、あらゆる方法を試したのだが、倒すことはままならず、ふと、後ろに下がり続けることに素直な子らの行動を見て、思うところがあった。

「思うところ」の有効性を確かめるため、その時から再び6年以上、「思うところ」のスタイルを試した。ある時、既存の定式八掌の主要技が、後退スライドの技法であったことに気づいた。

その気づきにより、昔関東で中国人就労生から習った八卦刀術(単換刀)が、八卦掌の原型となっていることに気づき、単換刀の身法が、八卦掌の中核技法『斜め後方スライド対敵身法』の2大身法を含んでいることを確信したのだ。

つながった瞬間である。八卦掌の2大転掌式・単換掌と陰陽魚掌、そしてそれらから生み出された順勢掌の術理、八卦刀術。双身槍。

その時、すでに2万時間を超えていた。しかし、八卦本門に入ってからは一万時間くらい。

現在、自身の修行期間は35年を超え、きっと3万時間も超えているだろう。しかし、もはや、時間はどうでもいいくらいにまでなった。

何が重要かというと、一定の時間とにかく打ち込み続けることで、超えるべきものが見えてくる。限界突破である。そして超えるべきものが見える頃には、自分は、歩き始めの頃とは比べ物にならない遠くの場所へと来ているのである。ここまで来たから、限界が見えたのだ。

一万時間は嘘、とか、まやかしだ、とか、そんなくだらない批判なんて無視しておけばいい。まず歩け、まず動け。そして動き始めたら、とにかく続けることだ。なにもかんがえなくていいい、ただ続けるだけでいい。効率的な努力なんて、自分が経験し失敗を重ねた後でしかわからない

八卦掌みたいな拳法ほど、自分のオリジナルの気づきが頼りになるものはない。達人になるための、唯一のパスポートだ。○○先生の伝えた型なんかじゃない。自分の練習の果てに気づいた気づきこそが、悟りへと導く一筋の光なのだ。

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