月別アーカイブ: 2023年12月

水式門が2024年に確実に実行する事。待っとれよ、来年。

◆倉敷本科の橋頭堡が築かれ、四国・中国地方の将来の門人らが「八卦掌じゃないか、習ってみたいな」という気持ちを思わず持ってしまう。

◆代表・水野が、愛知と富山の多拠点生活状態となり、北陸富山本科に清朝末式八卦掌の根が張り始める。北陸各県・新潟から、有志が清朝末式八卦掌を習うため、富山本科の氷見に集う。

◆団体指導で、多くの警備会社が水式門の技術を習う。その会社らは、「守ってくれる警備員」を求める病院などを始めとする顧客から仕事を得て、実際に守って感謝され、清朝末式八卦掌が護衛力の高さを実感。それが広まる。

◆遠隔地本科生が、第2・第4日曜日、入れ替わりで愛知を訪れる。来るたびに「この拳法ならいける」と感動して帰り、各地で単換掌の術理を練習する人間が増えていく。

◆各科とも、定員がいっぱいとなってしまい、狭き門となる。代表・水野が、愛知・富山に教練門人を置かざるを得なくなる。

◆各支部の支部長候補生が名乗りを上げる。「私は水野の弟子のままでいい」と言って、水野に「そんなこと言ってないでさっさと独自の境地に行け」と叱られる。

2024年に起こるこれらの出来事は、以下の水野の行動・成果によって引き起こされる。

追撃者目線から撮影された水野の後退スライド動画が増えることで、その動画が「無名でも清朝末式八卦掌になぜか興味を持ってしまった」運命的才能を持つ将来の7代目達人らの背中を押し、彼ら彼女らを愛知に導かせる。

毎日の心拍数150程度の持久力土台養成的後退スライド練習が、2024年も引き続きずっと実行されるため、そこでつちかった土台が真夏に活きる。真夏の苛酷な環境の中でも、18分の対人想定総合練習が可能となる。18分を告げるアラームが鳴るまで、初速の「勢(せい)」が保たれる。

八卦双匕首の背中越し末端斬りの成功率が、スポンジ支柱を使った毎日の背中越し対敵練習のおかげで、2023年の50%から飛躍して、80%となる。それを可能にする技術(蹴り技を使わず、すべての動作を歩きながら行う技術)が完全に身に付く。

後退スライド対敵身法のノウハウを学校戦に照準をあてて再構築した動画・解説が、水式門の「いじめ護身部」で公開されたことで、いじめに関係ない三河地方の八卦掌の有志に知られる。その内容の真剣度が彼らを動かし、愛知本科へ足を運ばせる。

倉敷で習いたい人が現れ、彼と協議することで練習場所の目安が立つ。倉敷本科の芽生えとなる。そのことで北陸・下越の潜在的有志が焦り、こぞって習いに来るようになる。

双身槍術・八卦大刀術練習における2メートル棒における間合いが、苦手の背身刀術であっても明確となる。先端より15センチも入ったところで当てて満足していた未熟な気持ちが消える。先端より5センチの部分だけで敵の袈裟、手首、膝内側痛穴を確実に打つことができるようになる。

八卦掌水式門富山本科イメージ

悲しみを話せない時。君だけは君の悲しみに寄り添って欲しい

いじめから抜け出す決意をしたとき、気分の高鳴りで、一時、勢いよく先に進む。

しかしほとんどの場合、気持ちの上下により、どうしようもなく落ち込む時がある。そのような時ほど、練習が辛いものはない。

気分の上下で落ち込むだけならいい。いずれ回復することもある。しかし、悲しいことが起き、それがもはや、取り返しのつかないこととなった場合はどうか?

落ち込むのとは比べ物にならないくらいの、心の奥底に貫通し、とどまるような悲しみの時は?

そしてその悲しみは、たいがいの場合、誰にも話せない。なぜなら、いじめの戦いの時、多くの人が孤独だからだ。誰も味方になんかなってくれない。私の場合も、話を聴いてくれる人間など周りに一人もいなかった。先生など言うに及ばず、親族ですら話すことができなかった。

その時になってみるとわかるが、目上の人の対応は・・・多くの場合、こちらの至らない点を指摘され、「がんばれ」と言われて終わる。ひどい場合叱られる。言えるはずなかろうに。

※私の場合は、親にも話すことができなかった。でも、もし可能なら、親御さんにだけは打ち明けてみて欲しい。君のその話を聴いてくれるかもしれない。ほとんど多くの親御さんは、君の悲しみを、悲しいと思ってくれる。

その場合、己の悲しみに寄り添うのは、自分しかいない。

私の場合、とにかく外に出た。外に出て、見晴らしのいいところに行って、遠く灯りを見つめた。空を見上げ、星を見ていた。

練習する、という気持ちをその時一切捨て、そこらにある棒を持って、八卦刀術で一人斬りまくった。汗をかくとか、疲れるとか、そんなことをは一切考えず、後先考えず、やみくもに振り続けた。

それができないときは、クラッシックを聴いた。歌詞付きのJ-POPではなく、クラッシックでも、神にささげる部類の曲を。

私はよく、カッチーニのアヴェマリアを聴いていた。

そしてそれは、今でも聴いている。練習をしながら聴くこともある。

私はもう、いじめで苦しんだ時から、40年近くが過ぎている。しかし未だに、あの時の敗北、同級生の泣く姿、欠席で使われない机といすがぽつんとある光景を、明確に思い出す。夢にまで見る。今年も、「うなされていたよ」と指摘されることが何回もあった。

どうしようもない悲しみが湧き上がる時は、もうその悲しみに寄り添うしかない。それだけが、己を少しばかり救ったと、実感している。

もう30数年、そうやって乗り越えてきた。

自分は、八卦掌の術理を極め、人に指導して志を実現させる道を歩き始めたならば、この苦しみや悲しみが和らぐと思っていた。しかし全く変わらなかった。何か事が実現したら、何かいい条件が起こったならば、悲しみから解放される。そう思っていたが、そうならなかった。

脅迫観念によって、どんなに体調が悪くても練習をし続け、多くの失敗を重ねてきた。練習を怠ることは、誓ったことを破ることだと思って進んできた。しかし、必要だったのは、悲しい時、一層追い込むことではなく、悲しみに寄り添うことだった。

カッチーニのアヴェマリアの旋律は、私にとって、素直に悲しみに寄り添う気持ちになるものだった。この曲に身をゆだねる時、涙があふれる。思い出す。それも無理におさえたりしない。気持ちのままに、思いだすことも頭から消さず、身をゆだねる。

何も考えず、棒を手に持って振るのと同じだ。棒を振るのは体力を奪われるし、場所も必要だが、アヴェマリアを聴くのは、いつでもできる。

練習の時も聴く、といった。その旋律が流れる時、振っていた棒を置き、空を見たりして、手を合わせ、もう戻ってこない人を想う。そうすると、少しだけ、遠くへ逝ってしまった人に、近づけたような気がして心が落ち着いたりする。

きっと君は、私と違い、まだ取り返すことできるのかもしれない。しかし悲しみは同じだ。悲しみに優劣なんてない。

「皆悲しいことの一つくらいある」「悲しいのは、辛いのはお前だけじゃない」そんな言葉は何にもならない。まったく無視しよう。悲しみを比べること自体が、意味がない。気にする必要のない心無い言葉だ。

君が悲しみに心を制され、どうにもならないときは、君が一番に寄り添ってあげて欲しい。君が君のことをもっとも大事に思って欲しいのだ。

アヴェマリアや、やたらと棒を振ることは、たった一つの例。寄り添い方は、君がもっとも心を保つことができる方法で行うのみ。

八卦掌水式門富山本科イメージ

清朝末式八卦掌三大武器術の習得で、女性護身術を完成させる

八卦掌水式門(以下「弊門」)では、武器術を大きく3つに分け、それらを必須武器術として指導する。

弊門における三大武器術は、以下の通りだ

・八卦刀術(はっけとうじゅつ)
・八卦双身槍術(はっけそうしんそうじゅつ)
・八卦双匕首術(はっけそうひしゅじゅつ)

八卦刀術は、110センチの長さの、一般刀術にくらべやや長めの刀を使用する

八卦双身槍術は、200センチの長さの長棒の両端に、10センチ程度の刃た付いたもの。

八卦双匕首術は、30センチくらいの刃物(要はナイフ)を用いる。

なぜ、これらの武器術を習う必要があるのか?それは、「護身術=我が身を守り危機から生還するための方法」であるから。ただ一つの目的「生存」のために、あらゆる手段を尽くすものであるから。

「あらゆる手段」には、自分が何かしらの武器を持って対抗する、という選択肢が当然のごとく含まれる。「あらゆる手段」には、「敵よりも有利な条件に持ち込んで戦う」という対抗方法も含まれる。

有利な条件・・・それは、相手が素手でも、こちら側が素手で対応しない、相手が何も持っていなくいなくとも、何かしら武器になりそうなモノが転がっていれば、それを武器にして対抗する、という好条件作成作業が含まれる。

敵の武器がナイフなら、我は、それよりも長いモノを手に取って、遠くから打ちのめす。だから、双身槍術まで必須であるのだ。ナイフだからナイフで・・・ではない。

意外と多くの修行者が、各武器術を練習する際、「敵は自分が持っている武器と同じ武器を持っている」と無意識に想定している。

相手が素手なら、我は、まず双身槍(長い棒)で戦う。双身槍がないなら、八卦刀(90センチ程度の棒)で戦う。八卦刀がないなら、双匕首(30センチ程度の棒2本)で戦う。双匕首がないなら、着ている服を脱いで、もしくは、持っているカバンを手にもって、果ては鞄に入っているタオル、マフラーをもって、八卦刀術の術理で振り回し、対抗する。

そういう考えを持つのだ。素手で対抗、など、もっとも最悪の、他に採るべき方法のない最終手段なのである。常に、どのような武器を使うことができるか考える。そして、どのような武器であっても、八卦刀術・双身槍術・双匕首術を練習しておけば、使いこなすことができる。

正々堂々と同じ条件で・・・は、いかにも日本武術らしい考えだ。中国では、間違っても「敵に塩を送る(※1)」ことはしない。

※1:上杉謙信が武田方に塩禁輸策を採らなかった逸話である。謙信は、今川・北条の塩禁輸策に苦しむ武田方に塩は送ってないが、武田方への塩の禁輸策・塩の価格高騰策は意図的に採らなかったため、そこから「塩を送る」という美談的故事が生まれたのだろう。

中国では、正々堂々と戦う、という発想は、「宋襄の仁(※2)」の故事になぞららえられ、笑われる。

※2:中国春秋時代、宋国の国王・襄公(じょうこう)が南方の強国・楚国軍と対峙したとき、襄公の息子である目夷が、敵の布陣の乱れがあるうちに先制攻撃を仕掛けるよう進言したが、襄公は「君子人の弱みにつけこまず」と言ってこれを退け、楚国軍の陣形が整うまで攻撃命令を下さず、その後、敗北した、という逸話。

以前「八卦掌は、冷酷な中国護身術」という記事をアップした。上記で説明した「相手が素手なら、こちらは武器を手に持ち徹底的に打ちのめして護身せよ。少しでも有利な条件で戦い、圧倒せよ」という考えは、護身術として大変重要な考えであるため、必ず頭に入れておいて欲しい。

この知識こそが女性護身術の成功のカギともなる。弊門以外で護身術を習っている女性の方は、ここでしっかり、武器術を習うことの大切さを理解してほしい。そして、今すぐにでも、武器術を練習に採り入れてほしいのだ。

大切なのは、特定の道具(例えば、スタンガンや催涙スプレー)を扱う練習をするのではなく、どんな道具でも扱うための土台的な身法を身につけるのことだ。

  • 基本姿勢走圏
  • 対敵イメージ走圏
  • 敵に背を向けないで行う後退スライド対敵身法
  • 敵に背を一瞬背を向けて行う後退スライド対敵身法
  • 前の敵にスライドして回避しながら攻撃しつつ去る対敵身法

これらは、「どんな道具でも扱うための土台的な身法」そのものである。言い換えれば、清朝末式八卦掌は、身の回りの、武器になりそうな道具を、意のままに操るための拳法と言えるのだ。

逃げる、といって、カニさん歩き(横歩き)を、ステップをして行っているようでは、たちどころに捕まってしまう。そうではなく、一番速く移動できる身法、敵の追撃をかわす後退スライドの身法を身につけること。その土台があって初めて、特定の道具が活かされるのである。

この前提知識をもって、各主要武器術を練習する意味を述べていく。

八卦刀は、八卦掌の原型となった、太平天国の乱当時の、藤牌営兵(※3)の戦場刀術に関係している(諸説あり)。

※3:片手に藤(とう)の牌(はい・盾のこと)を持ち、もう片方で90センチ超えの片刃の刀を持った、最前衛の盾歩兵のこと。

この戦場刀術から、八卦掌の原型である「単換刀」が生まれ、「単換刀」から「単換掌」ができ、主要転掌式(後方スライド転身撤退戦の身法)となり、主要転掌式から、逆輸入の形で、八卦刀術が生まれたと推定される。

中国片刃刀は、日本刀と違い、重く、刃がそれほどトキントキンに研がれていない。重たいものを敵にぶつける、という意識が強い(人数が多いため、研ぎ切れ味を維持する、という作業ができないから)。

その重たい武器を、宦官(かんがん・去勢された男性官吏のこと)であった八卦掌創始者・董海川先生が、「弱者でも操ることができるためにはどうしたらよいか」の発想から生み出したのが、単換刀である。

後方敵へ刀を振り回してけん制し、後方へ移動しながら身体移動で持ち上げ刀の下をくぐって我の身体を移動させ防御しつつ、くぐり終わったら、重さを利用して、追撃で突出した敵の身体に、刀を当てるのである。

この動作では、重い武器を動かさない(動かせない)かわりに、自分自身が移動して角度をつけ斬りシロを作って、その場から斬りつけ動作を行う。武器を振った際、我の身体をその場から移動させないとどうなるか?

刀を持ち上げたりしないと、再び斬りつけ動作ができないのだ。重い刀を、その場にとどまった状態で上げるには、大きな腕力が必要となる。宦官や女性には不可能であるのが想像できるだろう。

八卦刀術の中でも主要中の主要術である、「按刀(あんとう)」と「陰陽上斬刀(いんようじょうざんとう)」は、重い刀を身体で振り回すために、とにかく身体を移動させる。刀を持ち上げるために、5~6歩近くも移動するのだ。その「移動」こそが、八卦掌における防御となる。その場に止まらないために、敵の攻撃から常に離れ続けることができ、敵の攻撃間合いから身を避難させることになるのだ。

清朝末式八卦掌を知らない人間は、この「移動」をどうしても「防御」と認識することができない。「逃げてばっかり」として、その術理を採り入れようとしない。

結果、相手が屈強でも、技術が上でも、果ては男性でも、敵前にとどまって技で真っ向から受け、手数で圧倒された際、身体に攻撃を喰らい、敗北するのである。

主要刀術を練習することで、「技のたびに移動しながら行い、止まらない」術理が身体に入り、後退スライドによって敵の力と真っ向からぶつかることがなくなり、撤退戦によって身体を守りつつ、攻撃ができるのである。

八卦双身槍術は、対多人数の敵中を移動し続ける際の防御から生み出されている。柄の中心部を持ち、移動しながら通りすがりの敵に、柄の先端部分をぶつける。

演武で見られるような、複雑な取り回しは必要ない。必要なのは、八卦刀術で習った主要刀術操法を、双身槍を使っても同じように実行できる能力だ。

この能力の土台のもとに後退スライドすれば、後退スライド時の転身動作によって双身槍の先端部分が大きく孤を描き回って勝手に敵に当たり、敵を殺傷する。もしくは当たらないにしても、敵は回転する槍先によって、近づくことができず、足を止めることになる。

主要刀術の中でも、按刀・陰陽上斬刀・背身刀の動きをそのままに行う。それくらい、八卦刀術と双身槍術は密接に結びついている。

よって、八卦刀術術理を身体入れた後に取り組むと、実にスムーズに体得できる。弊門で、八卦刀術を理解した後に双身槍術を指導するのはそのためである。

八卦双匕首は、もっとも射程距離の短い武器である。敵が素手の場合のみ、その優位性を発揮する。射程距離が短いため、敵の胴体などの中心部分を攻撃すると、攻撃時我の身体が必要以上に敵に近づいてしまうため、危険である。

ゆえに、遠い間合いから、末端部分を、移動で敵の照準からずらしながら狙って、斬る。斬って失血死をねらう。そういう意味で、目的の明確な冷酷な護身法である。

棒であれば、敵の血管を斬ることはできないが、末端部分をねらうことで、武器を落としたり、腕を使えなくさせることは可能である。棒であるメリットは、振り回しても自分が傷つかないことだ。よって、思い切り速い速度で、手返しよく、ためらわず攻撃できる。

ナイフなど、そもそも持ち歩くことはできないし、あったとしても、一般人はそれで人を斬りつけることにためらいを感じるものだ。法律上も、過剰防衛・殺人罪の可能性が生じる。その意味で、双短棒術として練習することは、現実的護身術を習得するうえでの魅力ある選択となる。

短いリーチで末端部分をねらうため、間合いには大変気を遣って練習することになる。その気遣いこそが、各武器における間合いの間隔を養うのである。

武器術は間合いが重要である。短い武器ゆえ、他の長い武器でおろそかになりがちな間合いの感覚習得の練習に向き合うことができる。

八卦掌水式門富山本科イメージ

清朝末式八卦掌は、残酷歴史から生まれた中国産護身術の一つ

八卦掌水式門(以下「弊門」)に、「遠隔地生科」がある。

愛知から遠く離れた県に在住の方でも、弊門で指導する清朝末式八卦掌を始められるように設置した科である。

遠隔地生科は、護身術の通信講座だと思っている人が多いが、そうではない。そのため、遠隔地生科に仮入門制が採用されていることを知ると、「護身術講座なのになんで気軽さがないの?」と疑問をぶつけてくる。

このことは、あらゆる場面で触れる重要なことである。弊門で指導する八卦掌は、弱者使用前提の「弱者護身武術」的性質もあるが、実は、成立当時のままの技法を貫き伝える「護衛武術」なのだ。護衛武術であるゆえ、その内容に平和的要素がない。日本国内で見られる、他者の生命に配慮した「日本式護身術」ではない。その姿勢に欠ける「中国式護衛護身術」なのである。

参考までに触れておく。中国式護身術には、日本武道に見られる「相手を傷つけない」とか「自他共栄」のような、自制の理が存在しない。

後退スライド技法が中核ゆえ、敵を傷つけない武術、などと思い違いをしている人が多い。後退スライドは、力の強い者に負けないための技法であり、逃げているわけでない。後方へ移動しながら防御しつつ、人体急所打って、殺傷したり戦闘不能にすることを躊躇なく実行する。

話を戻す。八卦掌の護衛の仕方は、こうだ。自分が力の弱い弱者であるから、他の武術のような「敵を全員倒して護衛」することはできない。

弱者であるから、縦横無尽に移動しまくって翻弄しつつ敵を引きつけ、引きつけの渦中で突然奇襲攻撃をして敵を我に集中させ、護衛する。つまり、囮(おとり)になる。

囮になっている間に、味方が来ることを期待する。囮である以上、危険を伴う。しかし使い手の生存より、あくまで皇族などの守るべき人間の命の方が重要だったのである。昔日の宦官(かんがん)が使った拳法らしい。宦官の身分は低く、ともすれば蔑視対象でもあったゆえ、命は顧みられないのである。

清朝時代は、征服を果たした支配階級民族たる満州族の皇族と、漢民族などのその他の庶民では、命の重さに明確な違いがあった。厳しい身分制度が存在していた時代だったがゆえの、悲愴感に満ちた護衛護身拳法なのである。

囮といえども、すぐに倒されてしまっては、当然護衛を果たすことができない。そのため、一定時間敵に捕まらずに攻防し続ける技法で貫かれている。この「囮として一定時間敵をさばきつづけるための技法」があるゆえ、現在の身分制のない日本で、護身術としての価値を放つのである。

清朝末式八卦掌を指導するにあたり、「護身を果たすためには敵の命を奪うことも辞さない」技法を外すことはできない。清朝末式八卦掌もしょせん中国拳法の一つであり、人を殺傷する技法であるのは変わらないからだ。

中国は、異民族に征服された過酷な歴史を繰り返した。例え自分が正義であっても、力によって征服されれば、身の周りの大切な人や善人が、平然と虐殺された残酷な歴史を何度も何度も経験している。その過酷な経験の中で、思いやり要素が強い武術が成立するはずがない。

弊門指導の清朝末式八卦掌は、「後退スライド」要素により平和的でマイルドな印象を持たれやすいが、そのようなことはない。武器術では、遠い間合いから敵の末端を斬り失血死させることを目指す技法理念があったり、重い武器を身体で扱って敵にぶつけて殺傷を目指す技法理念が存在する。

そのような殺伐とした技法を、通信講座で、面識もない人間に指導するはずがない。これは、技法ノウハウを出し惜しみしているのではなく、殺傷技法を伴う技法を指導する団体としての、社会的・道義的責任なのである。

八卦掌が成立した当時の中国は、太平天国の争乱のため国内各地で、反乱軍や清朝正規軍によって、庶民に対する非道な暴力が加えられていた(乱により命を落とした人数は、2000万人ともいわれる)。賊や野盗だけが脅威だったのではない。いつ何時、どの集団が、自分や家族の命を奪いに来るかわからない時代である。その渦中で成立した護衛護身術である。他者に対する遠慮がない技法理念で染まっているのは当然である。清朝末式八卦掌の骨の髄までしみ込んだ遠慮無用の理念を、外して指導することはできないのは分かっていただけるだろう。

よって、日本国内で見受けられるような「誰でもできる護身術」系にすることはせず、原初のままの弱者護身のための技法のままに伝える。それはこれからも変わらない。以下が、具体的な指導法である。

  • ・徹底した反復練習によって、無意識レベルで身体を後退スライドさせ得る指導を重点的に行う。とにかく敵に捕捉されず、敵の力攻撃のベクトルに抗しない技法を指導する。
  • ・危険回避知識や護身哲学たぐいの指導はしない。そのような内容の知識は、書店に行けば、複数並んでいる護身術本で習得できるから。
  • ・武器操法を重視する。日傘、雨傘、杖など、90センチ棒で対抗できるように、八卦刀法を初日より指導する。200センチ棒による双身槍法を指導し、竹、のぼり、物干し竿、工事現場の進入停止棒で対抗できるようにする。双匕首技法を指導することにより、手持ちの水筒と折り畳み傘の組み合わせなどの二刀技術で戦うことができるようにする。

見てお判りのように、徹底した繰り返し練習と、徹底した現実的練習により、実際に危機が迫った際、力任せの攻撃によって圧倒されないことを目指している。

いくら護身哲学や心構えを学んでも、この技法ができない限り元も子もない。先ほどの、中国の歴史と同じである。いくら護身哲学や心構えが立派でも、いくら自分が正しくても、力の行使に屈したら、それらで我が身が助かることはない。結局、技法の行使で敵を戦闘不能にさせるか、敵から離脱することでしか、命を守ることはできないのである。

私は海上自衛隊の護衛艦の艦長になるのが大きな夢であった。護衛艦の艦長になるなら、防衛大学校を出るのが一般的である。当時は、防衛大学校に入学するためには、兵法や戦術知識が必要であると真剣に勘違いしており、小学生の頃から、戦史や兵法学習をしていた。その中で、多くの危機管理・危険回避知識を習得した。

しかし、そのような知識があっても、命に関わる危険を回避できなかった(野生動物の突然の襲撃や、いじめから大切な人を守ることだができなかった経験など)。

野生動物襲撃の際、私の命を守ったのは、ちまたの護身術が重視しているような護身予備知識などではなく、我の身体にしみ込んだ清朝末式八卦掌の中核技法(八卦刀術の背身刀)だった。知識だけだったら、私はイノシシの鋭い歯によって、膝付近を突かれ、外傷や感染症で、タダでは済まなかっただろう。

よって、弊門では、人をも殺傷し得る危険技法による護身術たる清朝末式八卦掌を伝えるため、遠隔地生科でも、仮入門制を採り続ける。

日本で生まれた護身術ではない。異民族に征服され続けた過酷な歴史を持つ中国で生まれた「中国産護身術」であるゆえの宿命である。

八卦掌水式門富山本科イメージ

「後退スライド」移動し続けること=女性護身術最大の防御法

女性が屈強な男性の攻撃を防ぐために、清王朝末期頃成立当時の八卦掌は、極めて有効な防御法を示してくれた。

その防御法とは「移動」である。もっと具体的に言うならば、後方への移動である。弊門で「後退スライド」と呼んで指導している一大技法である。

清朝末式八卦掌の組手(実戦模擬練習である打ち合い練習)を清朝末式八卦掌のことを知らない門外漢(近代スタイル八卦掌修行者も含む)が見ると、「ただ逃げ回っている」ようにしか見えないだろう。しかし、ただ逃げ回っている、のではない。

清朝末式八卦掌は、移動することで、敵の攻撃を防いでいるのだ。「移動」には、単換掌の術理である後退スライドを含んだすべての移動方法(ウォーキングなど)が含まれる。

単換掌の術理から導き出された「後退スライド」対敵身法によって、敵中を、速度を落とさず移動し続けながら、攻撃を避け、敵の逆をつき、捕まらず駆け巡ることができる。

後退スライドは、八卦掌の歩法の名称を借りて言うならば、

「小さな擺歩(はいほ)→小さな扣歩(こうほ)→大きな擺歩→大きな扣歩(※直歩や大きな擺歩を持ちる場合もある)」の4つの歩で実行される。

このシンプルな運足技術によって、後方・側面から急速に接近してきた敵の追撃予定を狂わせ、時に、目の前に現れた敵の斜め前をスライドしながら移動逃げ打ちを展開する。

お気づきだろうか?先ほどから、私は足の使い方しか話していない。後退スライド防御法の説明をする際、必ずと言っていいほど、手技の技法解説を求められる。

「手は、後退スライドしながら、敵に向けて出すだけでいいよ。もし出すことができないなら、出さなくてもいいよ」

と答えるようにしている。

極端に言ってしまえば、手技の種類・出し方はどうでもいいのだ。それこそ、手を相手に向けて伸ばすだけでもいい。熟練者であれば、手すら出さず、後退スライド運足技術のみで、敵の追撃をすり抜け、移動し続けることができる。

なぜ手技で防御しないのか。それは

  • 「敵の力と正面からぶつかる」
  • 「敵と距離が近くなりすぎるから」
  • 「敵の力任せの攻撃に押し込まれる」

からである。

「敵の力と正面からぶつかる」ことは、なぜ手技防御を避ける理由となるのか

女性の筋力は、男性のそれより当然低い。これは紛れもない事実だ。だから、女性護身の際の敵(多くの場合男性となる)の力に、抗してはならない。

力と力がぶつかれば、当然、力の弱い者の方が不利である。そのような単純なことなのに、多くの護身術は、当たり前のように、敵の突き・蹴りを防ぐ技法を、時間をかけて指導する。

「敵と距離が近くなりすぎるから」は、手技防御が招く、最大の欠点である。

手技で防ぐことしか防御方法がないなら、当然、敵に向かい合って、敵の近くで、敵の出してくる攻撃を防がなければならない。「敵の攻撃を手で防ぐ=敵のすぐそばにとどまる」ということだ。

明確な攻撃意思をもった敵のそばに居続けることが、どれほど危険なことであるか、容易に想像できるだろう。

そばに居て手が届く攻撃対象者の、胸三寸で、事の帰趨が決せられる。近くに居続けることは、もっとも危険な行為なのである。

最後に、手技防御が「敵の力任せの攻撃に押し込まれる」理由を説明したい。

手技を練習し、手技をもって防御するためには、敵に対し、我の身体を正面きって向ける必要がある。その状況下で、首尾よく手技が成功し続け、その戦況にイラつき、敵が猛然と力に任せて突進してきたらどうするか。

体格と筋力にものを言わせて前に出てくる敵ほど、防ぐことの難しいものはない。猛然と突っ込んでくる敵を避けるには、急所に致命的な一撃をカウンターで打ち込むか、後方に逃げるしかない。

カウンターは、訓練を積んだボクサーでも難しい技法であるため、女性護身術技法としてアテにすることはできない。

であるならば、後方へ逃げるしかない。後方へ逃げるには、正面に向けた身体を、後方へ向け返して、そこから移動する必要がある。この「向け返して」が、時間がかかる。多くの人は、突進に身体が固まり「向け返し」すらできないか、向け返している間に、敵に捕捉され、蹂躙されてしまうのだ。

向け返しもせず、後ろ走りで下がる方法もある。しかしこれは、前に突っ込んでくる敵の速度に比して、圧倒的に遅い。たちどころに捕まってしまうだろう。後方へ逃げるなら、我の身体も完全に後方へ向け、わき目もふらず前に進む必要があるのだ。

※手技で防御するならば、敵に身体正面を向けざるを得ない。武術の中には、背中越しに構えるものもあるが、絶対少数である。そのようなマニアックな武術護身法は、当然、相当の経験を積んだ使い手のものである。

・・・・手技に頼って身体を守ることが、女性の護身術にとっていかに難しいものであるか、分かっていただけたと思う。

手技防御による護身は、不可能ではない。実際、多くの護身術道場は、その技法を指導している。このような道場を選ぶなら、とにかく通って、男性と組手・スパーリングをし、その中で手技防御技法を出来るようにする必要がある。

後退スライドを利用した清朝末式八卦掌の護身身法であれば、最初から後方へ我の身体を向けて対敵し、急速離脱しながらの撤退戦技法も事前に練習できているため、「移動+最悪の際の手技けん制」の二本立てで、その場からのスライド回避が可能となる。

※この動画には、解説音声があります。

最悪の際の「手技けん制」であることに注目してほしい。ここでも、けん制によって敵の接近を防ぐことを目指している。攻撃ではなく、けん制である。けん制とは、とにかく手を出すだけ、である。足を止めればいい。止めている間も、後退スライドで移動している我は、敵から距離をとることができる。

清朝末式八卦掌において、防御の90%以上が「移動」なのである。敵の手の届かない場所に身体を自在に「移動」させることができるならば、敵が武術の技法に優れていても、力が強大でも、関係ないことになる。

清朝末式八卦掌は、宦官(去勢された男子)によって考え抜かれ、体系化された対暴力生存技術なのである。

この稀有の技法を、ぜひ女性の皆さんに利用していただき、卑劣な暴力から身を守ってほしい。

八卦掌水式門富山本科イメージ

八卦掌の有名な「構え」では護身はできない

八卦掌の有名な構えがある。映画「グランド・マスター」でチャン・ツィイーが見せた構えだ。

梁振圃伝八卦掌では、あの構えは「推磨掌」と呼ばれている。

では実際に、八卦掌の使い手は、組手でも実戦でも、あの構えをするのか?する人もいるようだ。しかし私はしない。なぜなら、あの構えをすると、身体が特定の場所に居着き、敵の突進攻撃に対応できないからである。

しかし、映画や漫画の影響で、八卦掌はあのように構えると思っている人間が多い。門外漢ならまだしも、長年八卦掌を修行している人間ですら、あの構えをするという驚きの現状がある。

※この動画には映像音声があります。

映画のワンシーンを見てもらえばわかるが、男性拳士と真っ向からぶつかって戦っている。これはもはや弱者使用前提を離れた格闘技である。映画ゆえ、派手なアクションが受けるため、このような点が誇張されている。この戦い方は、「遊撃戦」ではなく、「変則ステップ戦」である。センスと若さ、対人練習での膨大な練習量、そして運が必要である。

実際に、約束事など設定せず、遠慮も手加減も一切ない実戦で、このような構えをして対峙してみると、この構えから反応することがいかに難しく効率が悪いかすぐわかるものだ。効率悪いを通り越して、対応できないのである。

夜間警備の職務中、野生動物(1メートル超えの猪)が3メートル後方から突進してきたことがある。アスファルトの上ゆえ、3メートル以上の距離を、わずか2秒足らずで詰めてきた。まさに突進である。

私は、手に持っていた棒で、背身刀を用いて後ろ撃ちしながら転身し持ち替え、その後後退して猪と並走しながら、2発を打った。あの構えをしている暇もなく、猪のファーストアタック時、背身刀にて後退打ちしてしのぐことしかできなかった。

後退スライドが無意識にできたから、背身刀の技も出すことができたのだ。突進してくる敵に、前にでて対応する技法しかしらなかったら、ファーストアタック時に、膝付近に、口から飛び出ている歯が刺さっただろう。

突進時、自分がとっていたのは、まさに、清朝末式の基本姿勢であった。練習時、ひたすらあの姿勢から後退スライドする練習をしているため、平素でも、無意識に清朝末式基本姿勢になっているのである。

※この動画には解説音声があります。

清朝末式八卦掌の女性護身術講座であるので、ここで明確に、構え方を示したい。

基本姿勢

手を下げ、敵を背中越しに置き、逃げるように敵から遠ざかるように歩く。傍から見ると「嫌がって逃げている」かのように見える構えだ。実際に構えているように見えない。歩いて敵から遠ざかっているので、逃げているように見えるのである。

すでに身体が入っているので、敵が急速に距離を縮めてきたら、スライド並走して距離を詰めさせない。

そして状況に応じた後退スライド撤退戦の転掌式で対応する。

簡単そうに思うかもしれないが、これは意外と難しいのだ。そもそも、敵を斜め後ろに置きながら歩くことは、潜在的に恐怖を感じるだろう。事前に、この位置に敵を置いて歩く練習をしなければならない。

その練習こそが、かの有名な「走圏」なのである。

清朝末式八卦掌の走圏では、頭を円周の中心に向けたりしない。敵は四方八方にいるため、まっすぐ前を向いて歩くのである。円の中心に顔を向けていたら、円の中心にいる敵にしか注意が向かない。これでは、側面からの攻撃に反応ができない(気づかない)。

清朝末式八卦掌の基本姿勢。手を下げ、胸をくぼませ、背中が丸くなる。そしてリラックスした状態。実は、この姿勢こそが、構えの練習でもあるのだ。敵と対峙する段階は、少しだけ顔を、敵へ向けながら逃げるが、その後は、ひたすら前を見て高速ショウ泥歩で多人数の渦中を駆け抜ける(※対一人の時は、常にその敵を見て歩く)。

近代八卦掌の走圏練習で必ずと言っていいほど出てくる「八歩で一周くらい」もほぼ気にしない。水式門の正式門弟に、八歩で一周・・・といって指導することはない。移動遊撃戦になってしまえば、その時の状況で、旋回の半径もコロコロと変わるからだ。〇歩で一周、という決まりは、移動遊撃戦の弊門八卦掌では、顧みられない。

近代八卦掌の修行者が読んでいる可能性もあるため、指導許可を得て伝人にもなった先輩八卦掌家として、近代八卦掌の走圏について触れておこう。

※「伝人」の肩書は、後に無理な条件を付され事実上覆されることになる。このような行為は先生という立場でも弟子の将来を狂わし得る行為であるため承服していない。しかしこのようなくだらないトラブルに後進を巻き込ませたくないことと、梁派技法で弱者護身は難しいと判断した2つの理由から、梁振圃伝で弟子は取っていない。

近代梁派八卦掌の走圏では、腕をねじり込み、手のひらを地面の向け平行にし、指を目いっぱい伸ばして姿勢を維持する。激しい緊張状態をし続けることで、必要な箇所だけ力が入る状態へと導く練習法である。私も、梁派の第5代にまでなった人間なので、このプロセスを経て、必要な箇所だけ力が入る状態へと達した。

しかし、このプロセスの過程で、昔東京で中国人就労生の若手先生から習った八卦掌は、ガチガチの見苦しいフォームとなってしまい、八卦掌を少しだけかじった兄弟子に「水野君の八卦掌は本当にへたくそだ」とまで言われるようになってしまった。

私が指導者になったら、この「緊張の中に弛緩を見いだす」練習方法を、必ず不採用にしてやろうと考えていた。それくらい、功罪のある練習方法なのである。実際、最初の厳しい練習段階に耐えきれず、多くの人が八卦掌に挫折するか、基本姿勢をなおざりにした状態で先に進んで、軸のない動きになってしまう。

実戦では、もちろん、このような歩き方はしない。あくまで鍛錬のための姿勢なのだ。実戦時の動きではない練習法は、清朝末式八卦掌ではNGである。昔日に、実際の動きではない動きで練習している暇など無い。軍隊であれば、短期で徴収した農民兵を戦うことができるまでに育てる必要がある。

清朝末期は、今すぐに使う必要があるご時世(太平天国争乱の渦中)であった。今すぐに使うことができない武術など、昔日において必要とされない(岳家拳、楊家拳のような、秘匿性の強い門外不出の武術は例外である)し、繁栄もしない。

基本姿勢2

話を戻そう。

手を下げ、リラックスが要点となる、清朝末式八卦の基本姿勢で、敵から逃げるように歩き距離を保つ。必ず、その距離は、相手の手が届かない距離だ。理想は5メートルくらい。それくらい離れるようにする。

その状態から、敵が距離を縮めて来たら、すかさず後退スライド動作に入る。少し距離が縮まるが、その状態で、けん制となる推掌・穿掌などの攻撃を、相手の頸部めがけて放つ。

相手は突然の攻撃に足が止まるが、こちらは、歩きながら攻撃をしているため、移動速度は落ちていない。そこで距離が開く。

そのワンターンだけで、大きく引き離すこともできるが、そうでない場合も当然ある。そこで、このターンを、何度も繰り返す。自分の息も上がるが、相手は移動しながらの攻撃にほぼ慣れていないため、軸を失い、息が上がり、距離が開いていく。

その状態で、突如大きくスライドしてより一層大きく引き離し、相手の脚が止まるのを確認したら、キロメートル単位の「離脱」をして、身を守る。

ターンの最中も、常に基本姿勢を取り続ける。この基本姿勢こそが、「構え」なのである。

清朝末式八卦掌の走圏は、実戦で実際に採る姿勢で歩く練習のため、後退スライドの対人練習で試してみると、すんなり違和感なく動くことができる。

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ちまたの護身術では、女性が身を守ることが困難な理由2つ

「女性 護身術」と打ってインターネットで検索すると、実に多くの護身術が登場する。

しかしそのほとんどが、敵と相対し、敵の力のベクトルに対抗し、敵への積極的ダメージを狙うものだ。

これらの護身術のサイトを開き、実際に男性が暴漢役としてデモンストレーションを行っている動画を見ると、やはり難しいと感じる。

何が難しいか?それは、「(この)護身術で、女性が身を守ること」だ。根本的なところで、難しいと感じるのだ。これはいい加減な直感ではない。なぜなら、これほどまでの練習を重ね、中国拳法をお金をとって指導するまでに達した自分でも、「これはできない」と思うからだ。

理由はシンプルである。

一つ目は、敵と向かい合い、、敵の攻撃の力のベクトル方向に相対する技で対抗しているからだ。

女性の筋力は、男性のそれと比べて、想像以上に、低いものだ。

理性を失って自分の行動を抑制することを忘れ、欲望のままに突き進む暴漢(ほとんどが男性)の筋力は、理性の管理下に置かれた男性の筋力と比べて、数倍にも跳ね上がる。

逆に、襲われる側の女性(カテゴリーが女性の護身術なので、ここでは女性想定で話を進める)は、襲われたくない気持ち、そして、今まさに自分が局面している危機を受け入れる心の準備がなされない状態で身体が躊躇しているため、理性を失って襲う男性の筋力に対し、あまりにも低くなる。

その低い状態の中で、攻撃してくる相手の腕・足・身体の力のベクトルに対して抗したら、防ぐはずの手脚は一瞬で制され、弾き飛ばされ、たちどころに押さえられ、組み伏せられ、もしくは殴られ、蹴られる。

男性の私であっても、そのような経験があったのだ。そして残酷だが、弾かれ押さえつけられた後は、容赦ない攻撃と蹂躙が待っている。

女性の護身術をうたうなら、防御も攻撃も、いやそれにかかわるすべての動作が、敵の力・技のベクトルに向かってはいけないのだ。弱者使用前提の清朝末式八卦掌が、防御から攻撃までを一貫して、敵の力とぶつからない方法を採用しているのは、敵の力とぶつからないことを目指しているからである。

二つ目は、敵と接触している点である。ここが最も女性の護身を困難としている点だ。そして根本的な点でもある。

「女性の護身に対する考え方が変わった」と言われている護身動画を見ても、必ず敵を接触する段階がある。これのどこが革新的であるのか。根本的なところが抜けている。

敵と接触する。敵と接触する=敵を制する。敵を接触で制するには、敵の技法、筋力を上回る必要がある。敵の事情によって、護身の結果が大きく左右される。つまり「相手次第」の要素が結果の帰趨を分かち、生死を決するのだ。

護身術で「相手次第」はあってはならない。これは、私の口癖でもある。しかし確信に満ちているから何度も言うのである。護身に失敗は許されないなら、準備の段階から、「自分次第」の領域で勝敗を決する技術体系で準備をする必要がある。

「接触する」・・・この点を改善するために何ができるだろうか。「接触」の段階がある時点で、女性護身術として大きな問題が生じ、そこからほころびが生じるから、護身を考える女性であれば真剣に考えてもらいたい。

敵の攻撃を、接触して手技で受けている。先ほど、ちまたの護身術でよく採られている暴漢に対する手技による応戦例を示した。おそらくこれらは、武器が消え、人が徒手で行動するようになった場合を想定した対敵身法である。

八卦掌のルーツは刀術(盾兵である藤牌兵【とうはいへい】による戦場刀術)である。

双方が武器を持っている際、両者の間隔(つまり「間合い」のこと)は大きくなる。武器持ちで接近戦はありえない。つまり、相手の持っている武器が、持っている人の筋力や年齢などをまったく超越して、それだけで大変な脅威となるから離れるのだ。

藤牌兵の攻防でも、敵の力と抗する場面がある。その際は、藤牌を敵に差し向け、藤牌によって敵の攻撃を受け防ぎながら後退・側面移動し、もしくは藤牌の下から手持ちの刀を突き出して防御する。

私たちが現代において護身する際、軽い、手回しのよい藤牌などは持っていない。藤牌に類する防具も持っていない。

※「カバンで応用」などという無責任な説明をたまに見るが、カバンなどはアームシールドである藤牌とは比べ物にならないくらい扱いにくい代物であり、とてもじゃないが、防具にはならない。防具である以上、緊急時の想定を超えるような暴力の力を受ける必要があるのに、持ち手もないカバンなどでは、容易に押し込まれ暴力の矛先が身体に到達する。

藤牌も防具も持っていないなら、攻撃を接触して受けることはしてはならない。だから清朝末式八卦掌は、既存武術の概念を大きく超える後退スライドの移動距離をもって、敵を接触することを排して、それを最高の防御手段としているのである。

八卦掌水式門の練習では、八卦掌の中核・単換掌の術理を指導する際、接触した状態で教える。しかしそれは、初心の段階だけである。

私が有事速度で用法を示す際は、接触すらしない。接触すると、敵次第の要素が入り込み、こちらの思うように戦いを主導できないからだ。

敵が近づいてきたら、手も出さず大きく後退し、敵を並走しながら、届く段階で初めて手を出す。手を出す時、すでに身体は敵から一層離れる態勢に入っている。その瞬間・その直後から、大きく後退スライドし始めるのである。

既存武術を練習している男性、もしくは、まったくそのようなものを練習していない男性は、攻撃する際、必ず軸を作り攻撃する。軸を作る=軸を置いた場所に止まる、のである。

攻撃によって「止まる」瞬間にも、常に動き続けている清朝末式八卦掌の使い手は、その瞬間に敵を大きく引き離す。何度も繰り返し向かってくるならば、何度も引き離し、少しづつ距離をとっていき、敵が疲れた状態で一気に離脱する(離脱は、キロメートル単位で行う)。

※軸を作って行う技は清朝末式八卦掌では一切行わない。その場に止まってしまい、「勢(せい)」がそがれるから。よって、蹴り技は一切ない。近代八卦掌の用法を示す際、入門したての門弟に蹴り技を示すことはあるが、あれは、近代用法を示しているだけである。清朝末式八卦掌における移動遊撃戦の渦中では、一瞬の軸足作成動作のスキも無い。足は常に、移動という「防御」のために使っているから、軸足として使う暇がないのである。使いたくても使えないのだ。やってみればわかる。八卦掌における有名な「暗腿(あんたい)」ですら、清朝末式八卦掌ではほぼ行わない。

最後にまとめたい。もしちまたの護身術で真剣に護身を考えている女性がいるならば、「接触し、力がぶつかる」際の制敵技法が習得困難でない護身術を選ぶのがいい。

制敵技法の習得は、一般に大変な困難を伴う。そもそも、対人練習を相当に積まなければならない。サンドバックや木相手にいくら打ち込んでも、制敵技法に対する自信は湧かないだろう。

よって、近所で、通いやすく、対人練習もしっかりと実行できる道場・ジムを選ぶのが必須となる。そして積極的に、先生と組手を行うこと。

しかし、暴力の力を手わざによる防御と攻撃で制して護身する護身術は、攻撃できて護身術っぽくても、大きな危険が伴う一か八かの要素が強いことは忘れないで欲しい。とにかく練習し、有効な一撃を与えることができたら、その場からキロメートル単位で離脱せよ。私はここまでくらいしかアドバイスができない。

私は、清朝末式八卦掌を指導しているから、この拳法を例にとって話しているが、数多くある武術・格闘技の中には、清朝末式八卦掌に匹敵するくらい、敵と接触をさけ、敵の力とぶつからない技術体系をもった武術・護身術があるかもしれない。

それを見つけるのはやはり困難である。国内では、女性向けと言われる八卦掌の道場の中でも存在しない。しかしあるかもしれない。

ここで、見分け方を教えたい

(1)手技で防ぐことを指導する武術は、敵と力がぶつかる武術である。格闘技をアレンジして護身術として指導している道場の護身術は、ほとんどこの部類である。近代八卦掌は、この分類に属する。

(2)防御後、前に出て攻撃をするスタイルも、力がぶつかるスタイルである。既存の護身術は、この手のパターンも多い。しかし、攻撃で前に出る瞬間、接触し、力がぶつかる。

(3)防御も攻撃も、一貫して下がって行う技法を持つ武術なら、それは接触しない、力がぶつからない護身術となり得る。女性には、このスタイルこそが、最適の護身術となる。清朝末式八卦掌は、まさにこのスタイルである。そして、対武器を想定していた各拳法の原初スタイルもこれに該当する。攻撃を当てるよりも、攻撃に当たらないことを徹底し、手わざにほぼ頼らず、移動による身体移動で防御する。

真剣に護身を志し、護身第一を考えている女性がいるならば、(3)のスタイルを採る護身術を探し、教えを請うてほしい。

(3)のスタイルは、はたから見ていると、逃げ回っているようにしか見えない(移動して防御している、という概念が皆には理解できないのだ)。持久力も必要だ。華美な技はほぼ無い。しかし女性が護身を果たすうえで、もっとも適したスタイルだ。この言葉を念頭に入れ、あなたの命を守る技術体系とめぐりあって欲しい。

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逃げ続け「捕まえてみろ!」と一喝し戦う自分をイメージせよ

いじめ連中との戦いでは、キレイに鮮やかに「勝つ」必要なんて一切ない。そんな無駄なことは目指す必要が全くないことをここで確認しておく。

逃げ打ち、転身し、とにかく逃げること、つまり、撤退戦を正規の攻防手法とする武術・八卦掌を練習するならば、逃げ続けていじめ連中をほんろうしている自分をしっかりとイメージするんだ。

逃げ続けて逃げ続けて、「コイツ!捕まらねぇ!」と言って肩で息をして、こっちを見ているだけのいじめ連中の情けない姿をリアルに想像するんだ。そのイメージをもって練習することで、本当にそうなっていく。

「逃げ続けるだけでいじめが収まるのか?」と思うかもしれない。確信して言える。きっと収まる。

私は、いじめとの戦いで、あの時、膨大な時間と情熱を注いだ。大経験者の私が言うのだから間違いない。

逃げ続けることでいじめを打ち砕くには、周りの人間の力が必要だ。でも大丈夫だよ、そいつらに助けを求めるわけじゃない。求めても助けてなんてくれないから。そんな不確かなものにゆだねるのではなく、逃げ続けていじめ連中のみっともない姿をさらし、見て見ぬふりを決めこむ同級生の心の中に君のすごさを見せつけるんだ。

もっと分かりやすく言おう。君が逃げ続けることで、いじめ連中の「ふがいなさ」を皆に見せつけてやるんだ。いじめ連中の権威の失墜作戦である。

どういうこと?つまり、こういうことだ。日頃偉そうなことを言って命令したりパシリにしておきながら、こいつらは集団でかかっても捕まえることもできない。なんとも口ばかりで、よってたかっても大したことのない連中・・・・と思わせるんだ。

逃げ続けて、君の身体のエンジンと気持ちの高ぶりが最高潮に達したら、連中に大きい声で、堂々と、言ってやるといい。

「ほら、どうした、捕まえてみろ!」

その言葉にキレて、連中は猛然と突っ込んでくるかもしれない。しかし、猛然と突っ込んだって、私が指導した身法をマスターしているなら、恐れることはない。さっきまで通りに、移動距離を長く取りながら、逃げ続けよ。大丈夫。捕まることはない。

小回りの利く身体移動法は、下の動画で解説している。

実はこの動画中における移動方法は、多くの、小回りを要するスポーツにおいて、トップ選手が自然と行っている動きに酷似しているんだ。ハンドボールの知人が同じような動きをしていて、私に教えてくれたことがある。門弟の指摘で、サッカー選手も似たような動きをしていることを知った。

八卦掌では、この歩き方(移動方法)を、「ショウ泥歩(しょうでいほ)」と呼んでいる。

この移動方法によって、小刻みに、君の望む移動ラインをトレースでき、路面がぬれていても滑りにくくなり、かつ、敵に力を伝えやすくなる。砂浜などの足場の平面じゃない場所でも、ほぼ動きを制限されることなく動くことができるようになるんだ。

そして、逃げ続けるために必要な、スピードを落とさないで防御しながら駆け回るには、後退スライドによる撤退戦戦法をとる必要がある。この撤退戦戦法は、いじめ護身部では2つを教えよう。

八卦掌では、この方法に多くの手技技法が存在する。しかし君の戦いは、学校内であり、ナイフなども一般的に使用されない戦いを前提しているため、ふたつをマスターすれば、逃げ続けることができる。

そこでまず出てくるのが、敵に背をむけないで撤退戦をする方法。

動画では、初心者に最もやりやすい撤退戦法(推磨掌転掌式・すいましょうてんしょうしき)を指導している。

自分の子供が、突如迫ってきて手をつかもうとした中年男性から身を守った、実績のある技だ。

先ほども言ったが、後方や側面から襲ってくる敵を、自分の移動速度を落とさないでかわす方法が、八卦掌には8つある。その中で、もっとも初心者がやりやすく、八卦掌の拳理からも外れず、効果のあるやり方を選んだ。

私自身も、弟子とのやり取りの中で自然と使っている。

コツは、手を出す動きなどすべての動きを、足を止めず、歩くことを止めず、動きながら行うことだ。そうすると流れるようにうまくスライドできるし、かつ、八卦掌では、動きながら(歩きながら)行うことを義務付けられている。

「止まる=死」とすら八卦掌の中では言われるくらい、重要なポイントである。

「ただ動き回っているだけ」と、自身の拳法の常識を盾に批判するトンチンカンな馬鹿タレがいるが、八卦掌のことを何も知らない人間のたわごとである。

動き回ること、移動しまくることを正規の戦法とする八卦掌。自信をもって移動しまくってほしい。移動し続けることが、弱者に与えらえた最大の対抗手段なのだ。

次は、敵に一瞬背を向けて撤退戦をする方法。これは撤退戦、と言うよりも、身をひるがえして敵を振り切り、振り向きざまに前方にいる敵に電撃奇襲攻撃をする技である。

遊歩連捶の動画を見てほしい。振りかぶったあとの電撃戦は、この「敵に一瞬背を向ける」方法から来ている。私が最も得意とする技であり、もっとも信頼している技だ。

平面上できりもみ旋回しながら敵に手を出すことで、少なくとも君は手痛い攻撃を受けることはなく、敵の足を止めることができる。

・・・・・移動方法と、この二つの撤退戦方法を、徹底的にやり込んで、逃げ続けよ。

君が強くなるために、君は多くの時間を取ることはできないはずだ。今すぐにでも、いじめの暴力から逃げなければならない。

であるならば、多くの技など練習している暇はない。今すぐ、この動画3本を見て、練習し始めよう。

最後に再度言っておこう。

倒さなくていい。逃げまくって逃げまくって、連中に「捕まえてみろ!」と一喝するだけでいい。

それができただけで、君が取り返すための戦いは、大きな局面を迎えるだろう。

狭い教室で戦えない?だったら、連中が向かってきたら、広い廊下に出ればいい。なぜ、誰も助けてくれる奴もいない教室内にこだわるのか?どんどん広いところに行こう。先生が怒鳴っても関係ない。君は自分の身を守ることを最優先にせよ

君は今、人間として、生物として、生存をはかるための最も自然な行動をしようとしている。人の意見など、すぐに消えてしまう無責任なものだ。今すぐ、自分の身と尊厳、そして自由な意思を守るために、広い場所に突破し、逃げまくって「捕まえてみろ!」と叫ぶんだ。

「広さ」は、周りのモノは、そして移動できるその身体は、君の大きな味方だ。壁も、椅子も、机も、移動身法と後退スライド撤退戦を身につけた君ならば、すべてが味方になってくれる。

さあ、移動しよう。一緒にやっていこう。君の戦いの局面は、大きく動く。

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