清末転掌式八卦掌が掲げる「護身術」の鉄則とは

護身術にロマンはいらない。これは常々、言っていることである。

敵を一撃のもとに倒す。敵を一瞬の動きで、倒す。敵を強大は発勁にて倒す。〇〇拳、〇〇先生伝、〇〇派・・・我が門派こそが正統派だ・・・・

ロマンに走ると、これらの、実際の戦闘で使うことも役立ちもしないことばかりに気が向く。現在の修行者は、本や動画で紹介されただけで、その内容を見もしないで、編集された「魅せる」ための動きで、すぐさま「強い」「実戦的だ」とし、人気店に行列をなす群れのごとく群れる。

自分も含め、真に実戦を想定して動く動きは、何とも簡素で、味気もなく、不格好である。『魅せるのも技術』というが、実際の戦いに「魅せる」時間などない。相手はそんなもの見ていない。だったら、「魅せる」のは不要である。不要なもののために自分の練習時間を使いたくない。無意味である。

私は、どんな状況でも弱者が護身を果たす技術を、もっともっと洗練させたいのだ。魅せて勝つ、は私の目指す世界と全く逆の方向性である。

八卦掌水式門が、昔日転掌のエッセンスを公開しても何の反応もないのは、多くの愛好家が、強くなりたいのか、華麗に戦いたいのか、ただ趣味でやっているから自己満足したいのか、気づいてもないからである。

有名門派に所属せず、一匹狼の私は、武術におけるエリート街道を歩んでいない。武術に関わる人間・愛子家らから、全く遠慮もされず、畏怖ももたれないため、何度もしょうもないトラブルに見舞われた。遠慮のない実戦を経験した。

野生動物は、圧倒的フィジカルで我を襲い、やんちゃな兄ちゃんたちは、警察官でない自分を侮り、幾度も一触即発の場面を味わわせてくれた。

まるで、江戸時代に、町奉行や火付け盗賊改役の下で働く、捕り方のような戦いである。その底辺の戦いの中で、清末転掌式八卦掌が諭す、実戦における生存の鉄則が理解できた。

それは以下の6つである。

  • (1)まず一番最初に「敵と向き合って構え・・」というテレビの格闘技試合や映画で植え付けられた対敵の常識を捨て去れ。
  • (2)とにかく距離を保て。距離を保つことは、対多人数・対強者・対武器における護身の絶対的基本である。
  • (3)防御はもちろん、攻撃すらも「斜め後方スライド」しながら行う「けん制撤退戦」を貫け。当てなくていい。当たらなければいい。
  • (4)「移動遊撃戦」で敵を引き回し、敵の足が止まったらキロメートル単位で離脱せよ。そのための持久力をとにかく養え。
  • (5)脚は常に移動防御・移動攻撃で使うため、蹴り技を使う暇はない。よって練習する必要もない。
  • (6)刀術ベースの棒操術を身につけ、有事の際に身の回りにある棒で対抗できる可能性を生み出せ。練習しなければ可能性は生まれない 。

清末転掌式八卦掌は、この鉄則を技術体系に反映させ修行者の身体で体現することを課し、「対多人数・対強者・対武器」における生存の可能性を生みださせる。

ロマンを求める愛好家らは、(1)~(5)までの鉄則を、大変に困惑した表情で受け止める。彼らの求める戦い方とは、全く逆の行為だからである。

ことに(4)に対する反応がすこぶる悪い。持久力で戦うことを嫌う。魔法のような身体操作で、息も上がらない状態で、涼しげに、一瞬にして、相手を倒す・・・という幻想的達人芸にこだわっているからだ。

戦いに魔法もマジックもない。あれだけ走り込んだマラソンの選手が、息も上がらない状態で完走しているだろうか。技術が上がれば、自分の動きも速く激しくなるため、息が上がることは避けられない。

実戦に向き合うこととは。息を上げるのを抑える技術を得るのではなく、息が上がっても磨いた技術を実行できるように平素から練習して慣れておく、のが「実戦的練習法」なのである。

八卦掌水式門富山本科イメージ

水式門各都道府県支部館設立へ。伝承決意ある門弟はどこに。

愛知拠点の放出は、八卦掌水式門・各都道府県支部館設立への大きな転機となった。

支部館設立について

岡山倉敷始動は、昨年末の宣言中の主要内容。必ず実現すること。私の中で、あまりにリアルにその場を描くことができる。必ず岡山に立ってくれると信じる門弟がいる。そんな中で、確信のままに淡々と行動を積み重ねてきた。

途中、能登地震による経済的打撃、それに付随する愛知の拠点の喪失、などもあったが、それらは前に進む際に立ち止まる言い訳にもならない。

こうした方がいい、ああした方がいい、何をやってるんだ、あなたは。そんなことも聞いたが、その都度してきたことは。それは、とにかく前に進むことだった。まさに、清末転掌式八卦掌そのものである。

やるかやらないかだ。ただそれだけと思って、どれだけ苦しかろうと、とにかく前に進んできた。

拠点を失った後の愛知での生活は、すでに慣れた。ブログで宣言した19時間後に、能登地震である。その激震で愛知に回避してきてから間もなく、現在の状況に陥る可能性を察知し、素早く準備をしてきた。

一番一年で不快な時期の真っ只中での拠点喪失だったが、そんなものは年初から分かっていたことだったので、事前に拠点無しでも快適に過ごすことができるように、実験を繰り返してきた。なんとか間に合ったと思う。

今では、部屋を借りて生活することすら、必須のものではなくなった。住民票を置くことができる拠点すらあれば、アドレスホッパーにはならない。

拠点を手放したことによって、難関中間目標の一つであった「全国支部館設置」すらも、具体的行動指針が見えるくらいまでになってきた。愛知拠点があれば、それは快適さと引き換えに重荷となり、機動性が落ちる。今は、どこでも行くことができる。目下の目標は、愛知での仕事からの解放である。具体的指針を見い出し、行動に移したい。

八卦掌水式門(館)全国支部館組織図

愛知の仕事からの解放よりも大きな山場は、支部館教練長を務めるほどの熱意のある門弟の獲得である。ここが一番難しい。なぜそのように感じるか。

支部館教練である以上、こころがしっかりと、八卦掌に向いている必要がある。

私は、私の伝える八卦掌原型「清末転掌式八卦掌」に当然自信がある。膨大な時間を積み重ねて、やっと思いで形にしたもの。そこらの初心者が私の動きを見て言及することがあるが、たいがい、的を外している。

最近の拳法愛好家は、拳法技術を極めるうえで必須でない知識を知り過ぎている。その浅い知識で、他にほとんど資料のない清末転掌式八卦掌を、他の拳法の特集記事や動画で得た知識でもって、判断しようとする。

私は、必須でない知識など知らない。必要ないから、覚えることもしなかった。拳法関連書籍・雑誌などほぼ見ることはない。必要ないから。

愛好家が知っていることを知らないことの方が多い。よくもここまでしっているものだな、と感心する。しかし、それまでである。「では自分も勉強しなきゃ」とならないのだ。それら雑学で、人を守り、自分を守るための技術は上がらないことを知っているから。今まで通り、練習するだけである。

愛好家はおおよそ、軸ができてない。軸ができてないのに、周辺知識ばかりあって、意識が末端部・枝葉部分にばかり向かい、軸に向かっていない。目移りしたり、素直に指導内容に従わなかったりで、進み・上達が必然的に遅くなる。

水式門の掌継人が女性ばかりなのは、偶然ではない。男性の修行者も多かった。多くの男性が、弊門を叩いた。でも、多くのことをやたらと知っている男性は、軸すらできないうちに、いなくなっていった。

女性は、さっさと軸をつくり、その先の自分の独自性すらもつくって深奥に達した。彼女らも、色んな知識に触れたが、枝葉であることを見抜いていた。

男性修行者は、すでの自分の中で修行の計画ができており、どこか第三者的な立場で接しようとする。深くかかわろうとしないのだ。まず自分の思惑があり、その思惑を通すことを最優先する。

しかし、一つの術理を得るなら、一時没頭する必要がある。渦中に飛び込み、どっぷりつかる必要がある。我が身をその術理の森に投じず、外からつついたって、本質は得られない。真に本質を得るなら、失敗、失敗を繰り返し、悩むくらい没頭し、「ああ、そういうことだったのか」と身体レベルで理解するまでやり込む必要がある。頭で考えて理解(しているつもり)、では、有事に身体は動かない。

また、伝統門の先生であればあるほど、そのような人間に深いことを教えない。

伝統門の先生に、知識をひけらかすなど問題外である。その瞬間に「お客さん」となる。一般的な型だけ教えて帰ってもらう「お客さん」となり、最も大事な術理など、まず指導してもらえない。

運よく入ったとしても、おおよそ伝統門の先生は指導経験が豊富であるため、門弟の練習頻度・熱意が分かるものである。その門弟が練習しているか否か、すぐ分かるのだ。私も、当然よくわかっている。

自分も、今でも門弟と同じく、一修行者である。やっている状態、と、やれてない状態、は、はっきりとわかる。私はその門弟が練習を「やってない」と分かっても、あまり注意しない。優しい先生は、厳しく注意し、もっと気合入れて練習しろ、と促してくれる。

没頭し家で練習している人間は、具体的な質問をどんどんぶつけたり、もしくは、練習成果を私に見せる時、間違っていようが、堂々と演じきる。心が向ききってない人間は、練習できなかった理由をいきなり語って、結局順序すら覚えていない。

拳法を志す者は、本格的なものが習いたいのなら、なおのこと、先生をなめてはいけない。うまくできなくてもいい。とにかく定期的に練習をし、言い訳などしないことだ。

清末転掌式の機縁を与えてくださった楊先生は、愛知から東京に通い、その都度、間違えて演じきってしまうくらい練習してくる中学生だったからこそ、時間外に、一般的でない八卦掌を教えた。その中学生が、習っただけで復習もしてこないだけの熱意ならば、きっとその中学生に清末転掌式八卦掌は伝わらなかっただろう。

支部館の教練長は、支部館であるがゆえの制約があるため、ちゅうちょもするだろう。熱意も必要である。清末転掌式八卦掌は術理がシンプルであるが、簡単ではないため、膨大なくり返しと、試行錯誤が必要である。現実的な持久力が求められ、マジック的な身体操作で巧妙華麗に勝つ、は一切ない。

しかし、門弟にとって、「伝統を受け継ぎ、次代に伝える」というなかなかできない『経験』をすることができる。その経験をもとに、支部館以外に自分の道場を開き、そこで自分の修行によって得られた真実をもって伝えるといい。

教練長が自分の道場を、支部館以外で別個に持つことは、当然自由であるから。

八卦掌水式門富山本科イメージ

清末転掌式八卦掌~「八」で構成される考えが無い

水式門で指導する、成立当時のままの「転掌」時代の八卦掌には、「八」で型数を構成するなどの考えがほぼ無い

転掌時代は、八卦陰陽理論などの影響は受けていなかった。

流派によっては、董海川先生の時代にすでに、八卦陰陽理論で技術体系が組まれていた、とする説もある。それについては確証もない。

しかし、董海川先生は、文字を読むことができなかったとの説も多い。当時の中国の下層の人間は、読み書きなど当然にできなかった。

宦官に身をやつし、かつ若き日の記録もほぼ無いことから、董海川先生の身分は高い地位でなかった(下層の人間であった)可能性が極めて高い。野盗や盗賊・太平天国軍の残党であった可能性すらある。

下層の人間が、複雑難解な八卦陰陽理論を読み解き、もしくは教育を受けて習得し、それを自分の練習している武術に理論的融合させたなど、実に考えにくい。

私は師伝で、転掌の技は3つのみ、と聞いている。習っている期間中、八歩で一周、とか、八〇掌とか、〇〇八式、などの型や名称を聞いたことがない。

単換掌・双換掌・勢掌(順勢掌)の三つのを、徒手・棒・長棒・双短棒にて使いこなすことを重視されていた。

先生曰く「どうせ難しい技なんて出せない。手を出すのが精一杯だ」

この3つですら、未だ練習するたびに疑問がわくときがある。追い求めても追い求めにくい、尽きせぬ興味の対象である。これ以上、型は必要ない、あったら練習に困る、練習時間がいくらあっても足らない、と、切に思う。

時間と体力がいくらでもあるなら、習う型も多くていいのだろうが、私を含めた人間には、時間は有限である。現代人はなおさら、社会的制約や多くの誘惑にさらされている。よほど集中しないと、時間の確保ができない。

わたし自身、練習時間を確保したくて、愛知の拠点を切ったのである。それほどまでして確保した時間を、多くの型の時間に費やすことはない。とにかく、この3つの基本型の術理を、もっともっと洗練させたいのである。

弊門での八卦掌には、よって老八掌や八大掌・八母掌・定勢八掌などのものが必須となっていない。

定式八掌については、そのうちのいくつかが、昔日より転掌動作として伝わっているので、指導する。しかし、定式八掌のキメの姿勢は、ほぼ指導しない。転掌式八卦掌にとって、そこが重要ではないからだ。

清末転掌式八卦掌の技術体系は、近々まとめる。

近代格闘術八卦掌とは、全く技術体系が異なるからだ。走圏などの練習のとらえ方も、全く異なっている。目的が違うから当然である。生存第一と、倒すこと重視では、その内容は全く異なる。

八卦掌水式門富山本科イメージ

清末転掌式八卦掌の初代(開祖)としての覚悟が決まった

時代の変遷により弱者使用前提から離れた八卦掌が隆盛を誇る中で、自分の中の違和感に素直に従い、八卦掌を超えるつもりで・・・つまり新門派を創るつもりで、突き進んできた。

しかし、練習をして、し抜いて、自分の追い求めているものが、練習しているものが、成立当時の原初八卦掌たる「転掌(てんしょう)」であると気づいた時、超えるべき壁が限りなく遠くへと、飛んでいくのを感じた。

超えられなかった絶望ではない、己の進んできた道は、己が最も追い求めていた道だったとわかった、涙が出るくらい、心が震えたのだ。

八卦掌原初のスタイルである「転掌」こそ、自分が求めていたものだった。身体的資源不利者(弱者)使用前提で徹底的に技術体系が組まれている武術。こんな武術は、なかなかない。

中学時代の師(楊先生)より、転掌の技術体系とシンプルな術理、術理に沿った武器術を知り感動を受け、成年から壮年時代を通して修行をしていくにつれて、弱者使用前提武術がほぼ無い事実に気付き、運命を感じてしまった。

よって私は、清末転掌式八卦掌の開祖となる。新門を拓く。

八卦掌第6世掌継人。清末転掌式八卦掌初代(再興祖)。

※「掌継人」は、楊先生による、伝承者の名称。伝承者の名称は各派によって異なる。例)梁派は「伝人」。

私の拳法修行開始のきっかけは、同級生に対するいじめに対抗するためである。受け入れられないいじめから守るため、ケンカなどしたこともなかった弱虫の私が本で空手と八卦掌を知り練習し、取り返しのつかない敗北をした。そして力任せの暴力の残酷さ・容赦のなさを知った。

何も嫌われることもしてないのにいじめられる同級生、それを守ろうとする少年。どう見ても、いじめる方が責められる。しかし数や体格差・人気や目立ち具合で勝る相手たち、そして見て見ぬふりの同級生の圧力の合わせ技で、加害側が笑いなんらおとがめも受けない結果となった。

このいじめで、何が起こったのか?同級生がわずか2箇月の中学生生活でその未来を奪われ、少年は先生に嫌われ、加害者の笑顔が一時大きく響き、何事もなかったかのように、皆忘れただけだ。

私は決して忘れない。絶対に忘れない。戦いは終わらせない。私があの学校の学区内に本部を置くのはそのためだ。あの事を誰も覚えていないなら、私だけはどんなこととがあっても忘れず、この現代に影響を与える。

弱き者は、強者の暴力に屈するしかないのか?古来より、人間の歴史はその繰り返しであるが、同級生の悔しさと無念さを目の当たりにし、弱き者でも強者の暴力に屈しない武術をとにかく求めてきた。

強い動機付けをもった少年だった私だから、転掌に巡り会ったのかもしれない。

そのような動機がなければ、近代八卦掌を女性が華麗に演じるのを見て、何の疑いもなく、女性向けの拳法、と言われてるのを鵜呑みにしていたのかもしれない。

弱者使用前提の技術体系を徹底して貫いた稀有な武術、清末転掌式八卦掌。

奇跡的に私に伝わったこの技術体系を、全国の、私のような少年少女に、成年有志に、届けなければならない。

そのためには、私がこの技術体系を曖昧さなど無い状態で明確に示し、この技術体系の最大の模範として在り続け、転掌の有効性を分かりやすく示し、暴力に立ち向かう者に希望を与えなければならない。

他の門派は、決して間違ってなどいない。魅力的であるし、合理性もある。しかし、どのような魅力的な技術体系があったとしても、ここ(転掌)にとどまる覚悟が、初代には必要なのだ。

有名流派の後押しもない。有名先生の弟子でもない。私の梁派の先生は、名前を明かすことを希望しないため公開できない。系統に公開できない箇所があるため、伝統性も公には強調出来ない(本門生や仮入門生には、私の属した梁派に沿った系統は、しっかりと示している)。

だから、初代となる。昔日の転掌の技術体系を受け継いだものとして、私が現代に復活した転掌式八卦掌の初代となって、技術のみで有志の心をつかむ必要があるのだ。開祖となって宣言するのは、拳法の伝承者としての責任を全うするためである。

覚悟することで、すべきことがパッと目に開く。

練習を一層する、ではない。もちろん練習は従来通りどんどんやる。練習するのは当たり前のこと。

その技術体系に我が身を投じるのだ。身を託すと言ってもいい。迷いなく託すのだ。前に出て打ち合う、格闘技試合の影響を受けた格闘技的価値観(格闘ロマン)を未練なく置いていく。

どんな状況でも、開祖は、転掌の斜め後方スライドの術理で対応するのだ。開祖はとにかく、馬鹿の一つ覚えでなくてはならない。

董先生がしたように、私も転掌復活の祖として、前に出て戦う格闘技的スタイルではなく、斜め後方スライドの生存第一主義を貫く。

そうすることで、転掌スタイルに共感をしめす有志に巡り会うことができる。

最初はだれにも相手にされないだろう。実はこの3年、このことを嫌というほど思い知った。家内の生前は家内に、その後は、一番弟子たる長女に、いつも励まされて立ち上がる、を繰り返す苦しい日々だった。

でも、苦しい中で、私の指導する内容に共感し、積極的に学ぶ弟子と、新たに巡りあうことができた。

何の後ろ盾もない無名道場を、わざわざ選んでやってくる門弟は、間違いなく将来伝説の達人となる天才である。系統や○○伝などの外面よりも、本質を見極めることを優先し、それに従う勇気と選ぶ決断力・行動力があるから、初代に続く2代目は天才であり伝説となるのである(初代の非効率的な遠回りをしないのも大きな要因)。

その天才らに、出来る限り最高のパフォーマンスで指導をしたい。天才をこのスタイルに縛るのではない。天才らに、このスタイルで戦う選択肢を示し委ねるのだ。私があたえることができる外面的肩書など、「八卦掌第7世」でしかない。それよりも、天才は各々のノウハウによった真実を、きっと確立してくれる。

繰り返し言う。この記事は、初代・再興の開祖となる私の覚悟である。他の武術の技術体系と隔離を図って、我の技術における転掌の純度を高めるためである。

この記事は後々追記して、完成させる。富山への道中のため、今日はこれまで。

興味のある方は、都度ごとに覗いてみて、全文を読み、私の決意を見て欲しい。

八卦掌水式門富山本科イメージ

『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップ

八卦掌水式門ホームページ:いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

間もなく電子書籍出版。行動が生み出した大きな一歩。

近いうち、電子書籍を発表する。年初の能登地震で、その時期が大きく遅れてしまったのは事実だ。

しかし昨年大みそかのブログで打った通り、コツコツと用意をしてきた。

まずプロトタイプとして、『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術』を上げた。どのような形であれ、まずその内容を公開できるくらいまで整理整頓して出すことが重要だった。

そこで初めて、具体的な欠点が見えてくる。このWEB上フリー護身術講座を開いたおかげで、目安がたった。どのようにまとめたらよいのかが分かってくるのだ。

自費出版するお金は全くない。

複数社に企画書を出しても、相手にされない。

SNS利用したり、時にノウハウ本を真似てトライしてみたり、相談してやってみたりしたが、「○○だから売れない、だから○○なら売れますよ」といったアドバイスを受けて自分の意図と違うことでチャレンジしても、やはり結果は出なかった。

出版コンサルタントは、「あなたの○○は××だから売れない」「売れる人の本は○○を実行している」といって、相談料をせしめるが、そんなことをやってみたところで、自説を曲げられ、全く面白くもない。

売れることが目的にすげかわってしまい、自分の努力だけで積み重ねてきたノウハウまでも否定され、全くもって面白くないことに気づいたのだ。

そんな愚に気づき、私は年末、改めて行動をし直すことを決意した。

己の努力だけで得てきたノウハウを信じ抜くことから始めた。

そのノウハウだけを頼りに、とにかく形にした。それは不完全ではあるだろうが、ノウハウは、惜しみなくつぎ込むことができる。やっていて、本当に楽しかった。自分が発表したいものの内容に、一切妥協しなくていい。それがとてつもなく心地よかった。

人を守る護衛武術である。命がかかっているんだ。だから、研ぎ澄まされたノウハウに、削るところなんてない。出版をするために、蓄積のノウハウに嘘をついて迎合し始めた途端、私はその積み重ね自体を失うことになる。

「清朝宮中内囮護衛武術「八卦掌」から学ぶ、弱者生存の護身技術」

題名の大まかなイメージである。

何度となく失敗を繰り返し、やっと反応が良くなってきた題名だった。しかしまだ不完全のようである。

いつも思うが、「誰でもできる」類のものは、多くの人がとりあえずチャレンジするため、最初はまず、うまくいかない。人に言えば、「それ言った通りだ」と言われる。

しかしたいがいの場合、言った人間は何もしてないで言ってる。だから全く気にならない。なぜなら、自分はすでに行動して、失敗という名の貴重な経験をしているからだ。

これから、実際に出版という形で練習をしていく。目標は、紙での商業出版だ。それも自分の希望の通りの内容でだ。節を曲げての出版なんぞ何の意味もない。

紙での商業出版も、しょせんは通り過ぎる目標に過ぎない。目的は、全国各地に、この弱者使用前提護衛武術を学ぶことができる環境を用意し、誰もが取り返すための技術を学ぶことができる機会を創り、いじめ撲滅の大きな力となること。

引き続き進んでいこう。

八卦掌水式門富山本科イメージ

夏は護衛官武術家の血が騒ぐ・・そんな風に感じてみよ

どうせ拳法をやっていくならば、誰かを守るためにやってみよ。

どうせ拳法をやるならば、誰かを守り切ることができるくらいまでになってみよ。

これは、今でも私が弟子らに言う言葉である。

「ボディーガードでもあるまいし」と思われるだろうが、私は常にド真面目に、そのように考えて練習してきた。

自分のため、よりも、人のため、大切な人のため、とした方が、断然やる気が湧いてくる。

大切な人たちのことを考え、その人たちに、ほんの少しでも、苦しい想いや悲しい想い、痛い想いをさせたくない

多くの人は、きっとそのように考えるだろう。子供がいたり、配偶者がいたり、家族がいたり、恋人がいたりする人なら、共感もしてくれると思う。

以前、夏祭りに関する話をした。護衛官らの夏、だ。

今年も、8月に、護衛官の任務を授かった。毎年恒例ながら、私はこの任務を授かると、がぜん練習に気合が入る。わたしにとっては、この日、この時期こそが、最も身体をピークに持っていく時期だ。最高のパフォーマンスで護衛の任を遂行するために。

護衛の依頼者も八卦掌第7世の掌継人で、もはや護衛もいらないのかもしれない。しかしこの時期、ずっと任を授かっていたために、これが恒例行事となった。

おおげさだろうか?子供じみてるだろうか?

ここまで人を守るために考えぬかれた護衛武術を追い求めていると、自然とそのような考えも湧いてくる。何より、血が騒ぐ。

守りたい。確実に守り切りたい。まだこの部分が甘い、もっと磨けば、より確実に、守ることができる・・・そんなふうに、よりリアルな緊張感の中で練習もできる。

私は、託されている。これからもずっと、守っていって、と託されている。その人も私に護衛を依頼してくれて、練習する意味を与えてくれた。その人の子も今、それを理解し、必要なあるない関係なく依頼してくれて、私に練習する意味を与えてくれる。

「私には大切な人などいない」と言うならば、周りをみてごらん。

皆、誰かにとって大切な人。

嫌悪感を抱くような「嫌な奴」に対してまで、そんなことを無理に感じる必要もない。しかし君が「いい奴だなあ」とか、惹かれる人に対して、もしくは「素敵な人だなぁ」「すごい奴だなぁ」と感じる人には、「この人も誰かにとってかけがえない人」と考えてみると、何かあった時に、「ちからになってあげたい」「まもりたい」と思うことができる。

だから誰にも、「守るべき人」は存在する。

そして何より、君自身も、誰かにとって大切な、かけがえのない存在だ。

天涯孤独の人でも、自分は「自分」にとって大切な存在なのだ。

生存し続けようとすることは、生物の本能である。人間はその本能に、生きる意味や、楽しいこと、したいこと、大切な人、などが加わって、「もっと生きたい」という気持ちを持つ

そんな気持ちを持った自分のために、練習をしてごらん。大切な君自身を守るために、練習をしてごらん。

八卦掌は護衛武術だ。一定時間生存して敵を引きつけ、時間稼ぎをして守るべき人を守る囮(おとり)護衛の武術だ。

一定時間生存するための技術を徹底的に磨き、まず自分を守り切るスキルを得てごらん。

そうすると、世界が変わる。嫌な要求・いわれなき言動に対し、「おかしい」「受け入れられない」「納得できない」「それは嫌だ」と考えるようになり、それが態度にはっきりと表れ、ごく自然に、「NO!」ということができるようになるから。

そうしたら自分の気持ちに正直になり、立ち向かうこと。相手を倒す必要なんてない。ただただ、移動し続けて、翻弄してやればいい。君は現実的な方法で護身を果たすことができ、よってたかってかかっても捕まえることすらできないいじめ側連中の権威は失墜するから。

もし君が、いじめられている・暴力にさらされている大切な人を守るなら、その磨きぬいた移動攻防の技術で、ぞんぶんに我に気を引きつけ、引きずり回し体力を奪い、そのうえで電撃的に襲い掛かれ。

単換掌(もしくは推磨掌転掌式)と双換掌(もしくは陰陽魚掌転掌式)、順勢掌理による単招式(平穿掌・双按連捶・一按一捶・遊歩連捶)、転掌刀理による棒操法だけでいい。

いじめや暴力から我が身を守る方法は、いじめ護身部~取り返すための技術解説最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」護身術にすべて書いてある。

今年の夏は、かけがえのない誰か、かけがえのない自分を守るために、時をすごしてみないか。

君にとって「誰かを守る」という映画の主人公のような生き様は、決して非現実的な話ではないのだ。

今この瞬間から、受け入れられないものと戦うために武術を始めた時点で、それは確実に現実的なものへと変わっていく。

花火の下で、海で、うだるように暑い市街地の一角で、夏祭りの灯りがともる中で、心に熱い想いをもって、大切な人・大切な自分と過ごそう。

後に続く護衛官らよ。今年の夏も、「誰かにとって大切な人」を守る任務を任せたぞ。

八卦掌水式門富山本科イメージ

己のノウハウだけで勝負する講習会に最高の価値を感じる

2024年6月16日の講習会を終えて、充実した気分でこの時を過ごしている。

講習会で心掛けていることは

  • 練習することで積み重ねてきた己のノウハウのみで勝負すること
  • 講習会では、必ず何かしらの成果を得て帰ってもらうこと
  • 人が来なくても、全力を尽くして準備し、遂行すること

である。

本日は、清朝末式八卦掌の刀術たる「転掌刀」の主要型を伝授する講習会であったため、主要型たる「陰陽上斬刀」の型練習だけは、必ず伝えようと考えていた。

陰陽上斬刀を理解するためには、徒手における転掌式たる「陰陽魚掌」または八卦掌に大基本の一つ「双換掌」を理解してもらわなければならないため、そこに多くの時間を割いた。

本日は、参加者の方が、八卦掌の術理を再現することが上手だったため、陰陽魚掌ではなく、双換掌を指導した。

刀術講習会を開くに当たり、参加者さんが後日、なんらかの形で習った動作を復習する際のよりどころとなる場を作っておきたかった。そのため、八卦掌水式門の武器の解説のカテゴリーの中に、転掌刀術主要型の説明ページを事前に作っておいた。

清朝末式八卦掌刀術「転掌刀」解説

これらを全部準備するために、講習会を開く前は大いに忙しい。ましてや、現在私は愛知における拠点を失っているため、効率が悪く大変である。

しかし、講習会を開くにあたっての上記心掛けを思い出し、向き合ってきて、なんとか間に合わせることができた。

全力で用意することと、自信をもって独学できるツール(型)を持ち帰ってもらうことは、講習会に来てくれた方への、感謝の気持ちである。これからも、各講習会ごと、感謝の気持ちを、言葉だけでなく、事前準備と成果で表したい。

私は、八卦掌修行初期、独学で学ぶことの不安さを身をもって体験している。最初にして最大の対面指導恩師・楊先生に教わった時、とても嬉しく、不安の多くから解放され、安心した。その感動と安心感を味わってもらいたいのである。

心掛けている事項の最初に挙げた、「練習することで積み重ねてきた己のノウハウのみで勝負すること」について。

これは、私が講習会を開くにあたって最も意義を感じている事項である。

講習会というものは、私にとって、己の名で告知し、己のノウハウで指導することでなければ、開く意味がないものだと感じている(有名先生を招いて開く講習会を、意味のないものと言っているのではないことに注意)。

私は、清朝末期成立当時の『転掌』だった頃の八卦掌「清朝末式八卦掌」を、ほぼ己の研鑽だけで確立し、発表している。

私が清朝末式八卦掌を、先生から習ったのは、中学生から高校生にかけてのわずか2年少しだけだ。あとは皆、自分でトライ&エラーを繰り返し、単換掌と双換掌・勢掌(順勢掌)の型と、それに連動した武器術の動きだけを頼りに、術理の真髄を探り当ててきた。

期間にして、35年以上の積み重ねである。もはやここまでくると、他人の説く理論や技術に頼る必要もない。単換掌・双換掌・勢掌と武器術に、己の練習からくるノウハウが積み上げられすぎた。

人の説く身体操作法やコツというものは、たいがい経験してきたのだ。今更、名前が知られているからという理由だけで、有名先生を招くことは、己のノウハウを伝えるうえで効率を悪くするだけである(その先生にも失礼にあたる)。

そして、中国国内の先生らの示している八卦掌は、そのほぼ全部が、近代格闘術八卦掌、つまり強者使用前提・対一人・他流試合用の格闘技的八卦掌だ。中国語の本を取り寄せて研究しても、皆近代格闘術八卦掌である。

私は講習会では、清朝末式八卦掌の真髄を最低限の形ではあるけれど、本門生以外の人にも伝えたい。清朝末式八卦掌を日本国内で最も知っているのは間違いなく私である(※国内にもいるかもしれないが、発表してない時点で教えていないのも同じである)。

日本の中国武術指導者の開く講習会は、有名先生を招く者が多い。人を多く集めることができるからである。日本の中国武術愛好家は、先生の動きで実力を判断しない。習った先生の肩書で先生の実力を判断している。だから中国の有名先生を招くだけで、人が来やすくなる。

私はそれは嫌である。上手く実行するための最も練習時間を要し、かつ最も実力を上げるうえで効率的だった「スポンジ支柱を指第一関節部分だけで打つ練習」を、誠実にアップする。当然、再生速度を加工なんかしてない。人が撮影した、人の眼から目線の後退スライド動画も、全神経を集中しての一発撮りである。

斜め上からの撮影は、横から撮影するよりも遅く見えるが、その位置からみる方が、学習者が動きを理解するうえで役立つため、斜め上からの動画にこだわっている。

そして・・・短パンの薄着で撮影し、脚・膝の使い方を明快に示す。最も重要な八卦掌真髄「斜め後方スライド」時の膝の動きを明確に分かるようにしている。

※指導動画と言いながら、脚の動きを見せてない動画が多すぎる。私はそのような不十分な動画だけは、極力避けたいと心掛けている。

有名先生の名で開かないから、いつも参加者はごくわずかである。一人も来ないのも当たり前にある。しかし、一人でもいいから、絶滅しかけの弱者使用前提武術・清朝末式八卦掌の真髄を伝えたいのだ。

就労生だった楊先生の教えてくれた、攻撃すら斜め後方スライドして行う生存第一の原初八卦掌。董海川先生に習った南方出身の弟子によって福建省に伝わり、田舎ゆえに他流派の影響をうけず、成立当時のままで奇跡的に残りつづけ、弱者使用前提の武術を必要としていた遠く離れた日本の少年に伝わったのだ。

その日本の少年は、自身の弱さゆえに大切な人を守る約束を果たせず取り返しのつかない悲しみを生み、それゆえ、後方スライドする原初八卦掌に並々ならぬ意義を見出した。

これは運命である。奇跡であると確信している。我が人生における最大のミッションが、この奇跡の出逢いによって、与えられた。弱者使用前提の囮護衛の武術を世に広め、昔日の八卦掌を蘇らせ、弱者が泣く現実に一石を投じる。

この奇跡の前に、人を呼んで開くことが意味がないことが分かるだろう。一番わかっているのは、水野義人だ。だから開くのは、指導するのは、水野義人が実行する。当たり前のことである。

・・・・外は激しい夕立の後である。湿気と熱さの中、心はさわやかである。

今回も、講習会を開くにあたっての決意に、忠実であり続けることができた。この達成感は、なんとも心地いい。

また7月6日(土)に、富山県小矢部市にて、清朝末式八卦掌における護身技術の講習会がある。この三週間、全力を尽くしたい。

志のある者、真に弱者護身に興味のある者は、小矢部市のクロスランドに集まって欲しい。

八卦掌水式門富山本科イメージ

どん底・逆境の道に入って、新たな可能性が見えた

いま私は、かなりの逆境にいる。生活拠点を失っている。

しかし、悲愴感はない。なぜなら、すでにかなり前から、この時に備えて、事前準備をしてきたからだ。

仕事量を増やす選択は全くなかった。拳法を磨く時間がそがれるからだ。それは私のようなプロにとって、最も避けるべきこと。

技術があるから後進に指導する立場でいることができる。後進は、貴重な時間を使って水式門の指導の場に来るのだ。それなのに、己を磨くことに甘さを持つ指導者であるならば、なんとも申し訳ないじゃないか。

前にも、逆境時、動画でメッセージを送ったことがある。今回はそれ以上に厳しい。そもそも、動画を編集する時間的余裕、空間的余裕がない。本ブログ記事も、少しづつスマートフォンで下描きをして、このパソコンに送信し、一気にアップしている。

しかし、本拠地がなくとも、何とかなるのだ。トイレも、水も、日本国内である以上、公園や公共施設、買い物時のショッピングセンターで、済ますことができるからだ。

いま私が焦点を合わせてるのが、練習と、サイトの更新作業と、清朝末式八卦掌の研究である

練習が最も気を遣う。今は一年で最も準備が必要な時期だ。練習による体温上昇を抑えるための氷水入りのクーラーボックスの準備、6時間以上の練習・研究を乗り越えるための6リットルの経口補水液、そして、着替えウェアの洗濯準備である。

風呂は、氷水で練習後、しっかりと身体を拭けば何とかしのぐことができる。寝ることもである。未明から練習をすれば、夜間に車を停める不審行為を避け、涼しい時間に練習できる。

ここまで工夫するなら、いっそのこと、朝から晩まで仕事すればいいだろうと言われる。しかし6時間でも足りない練習研究時間は、今の私の最も必要な時間なのだ。

何十年とやってきて、今こそ研究練習が最も必要だと、心から感じる。一時の安心のために、その貴重な時間を食いつぶすことは考えられない。

私も、拠点を失った瞬間は、その苦しさから「道を違えたか!?」と思った。しかし冷静になると、そうでもないのだ。拠点が無くても、このようにブログを打つこともできる。全国の志ある者に、メッセージを送ることができるのだ。

ネットを見ると、あまりに、不安や危険をあおる記事が多い。逆境になった際は、「頼れる人に相談しろ」とか、「支援金を申請しろ」といったアドバイスばかりだ。

しかし、それは、満たされ過ぎた環境(今まで当然のようにあって、不安すら感じることもなかった、揃い過ぎた環境)を失うことを防ぐための手段だ。揃い過ぎた環境など、その多くが無くなっても、何とかなるのだ。

私は迷わず、「普通に働いてそこそこ拳法と付き合う」道よりも、「とことん拳法と向き合うグランドマスターへの道」を選んだ。

そしてその道を選んだことで、拠点を維持する重荷が消え、身軽となり、新たにできることが見えてきた。そう、全国の有志に、直接、この清末八卦掌を伝える可能性だ。

この可能性を実現するためには、まだまだ多くの困難が待っているだろう。しかし困難など、今更珍しくもない。困難に負けているなら、とっくに私は、朝から晩までアルバイトして、「趣味・八卦掌!」とプロフィールに書いていただろう。

逆境にいる君に・あなたに、「共に行こうぜ」と言えるのは、周りからもあきられるくらいになった自分しか出来ない。

頑張る必要なんてない。君はすでに奮闘してきた。もうとっくに、「辛い人」そのものなんだ。

世間はいつも、「辛い時ほど己を見つめ、出来ると信じよ」とか、「お前よりも辛い人はいくらでもいる」などといって、辛い人の中に加えてすらくれない。

そんなことはない。君が辛いなら、もう十分「辛い人」なんだよ。

そんな中でも、現状を嫌い、取り返したいと願い、君は少しでも前に出た。それってすごいことじゃないか!私は君を、あなたを、心から尊敬する。私も君と同類に見られたいくらいだ。

今、打つ手を止めると、外は曇った田園地帯。誰も居ない。今日も誰も、私を認めることはなかった。でもそれが普通。

三十数年と八卦掌を練習して来て、一体どれだけ、人の称賛を受けたことがあったか?リップサービスなど、いくらでもあった。でもそんなもの、心から言ってないことはすぐわかる。心からの称賛は、ほんんの少しだ。これだけやってきてもその程度。最近は、人に認められることに期待などしなくもなった。

だから君は、君の心の道を進んでいいよ。行こうが行かまいが、人は気にもしてない。なにか言ってきても、言った瞬間からそいつは君をことを忘れ始めるのだから。

そんな人間のことばなど、君の決断の参考に、少しでもしてはいけない。君の心に従え。

わたしもそうした。明らかに、その他大勢の人間、つまり多数派が採らない道の方を選んだ。そして、先ほども言ったが、本当にやりたかったことの道が、少し見えてきた。こちらの道に進まなければ、見えなかった。

応援している。再度言う。君の、あなたの心に従え。苦しむも楽しむも、全て君だけにかかってくる。だから、君の心に従え。人は君のために少しも、苦しんでくれない。君だけが、選択によって苦しむのだ。だから、君だけに、選択権があるのだ。

私もまだまだいじめの戦いのど真ん中に居る。私は進み続けるよ。君も、その道を進むなら、共に進んでいこうじゃないか。

八卦掌水式門富山本科イメージ

7月6日(土)小矢部市開催『「清朝末式八卦掌」における護身技術練習会IN富山クロスランドおやべ』について

かねてより周知のとおり、水式門Web上フリー講座『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」護身術』 の対面での練習会を、
富山県小矢部市クロスランドおやべの交流ひろばにて開催します。

※当日は、イベント開催によるクロスランドセンター内貸し切りと、移動遊撃戦指導のため、屋外交流ひろばでの開催となります。

クロスランドおやめ交流ひろばとクロスランドタワー

7月の高気温高湿度の時期での開催のため、各自熱中症対策をしてご参加ください。

『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」護身術』において、対人練習によって理解すると技術上達に大きな効果を発揮する部分を重点的に指導します。

その部分は

  • 八卦掌の最重要基本技・単換掌を素早く発出するための歩き方
  • 移動遊撃戦における敵のかわし方
  • 斜め後方スライド撤退戦対敵身法の実際の使い方
  • 斜め後方スライドをより洗練させるための、脚の運用方法(翻身旋理・刀裏背走理)

となります。

攻撃すらも後方スライドしながら打つことによって、敵の攻撃に「当たらないこと」を最善とし、生存の可能性を見い出す、動乱期清王朝末期に誕生した、弱者使用前提の護衛武術が、八卦掌です。

成立当時の八卦掌(弊門では「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)は、使用する人間の想定を宦官(かんがん※去勢され宮中内で雑役を行う男性官吏)・女官とし、一定時間移動遊撃戦で敵の攻撃をかわし生存することで時間稼ぎをして囮(おとり)となって囮護衛を実行できるように技術体系が組まれた護衛武術となります。

八卦掌水式門は、八卦掌歴38年の八卦掌マスター・水野義人の主宰する八卦掌専門の伝統門道場です。

その技法は、時に敵の命を脅かすものも含まれるため、指導対象は、仮入門期間を経た正式門弟のみとなります。

富山は八卦掌水式門の発祥地であり、かつ北陸地方の本拠点でもあるため、定期的に、正式門弟以外の一般の方向けに、八卦掌の技法による護身技術を対面指導します(※愛知県でも開催中)。

成立当時の八卦掌は、現在日本国内外で普及している近代格闘術八卦掌と違い、弱者使用前提・対多人数想定・対強者想定・対武器想定であるため、徹底した移動遊撃戦による「生存第一」の理念で全技術・全戦闘理論が構成されています。

弱者が強者相手に、生存の可能性を生じさせる戦い方とはどのようなものか?

弱者でも命を守ることができる技法として、昔日ではどのような方法を考えたのか?

弱い自分でも、自分の命と安全だけは守りたい!

そのように考える方は、7月6日(土)の講習会にて、清朝末期の護衛武術の精華を学んでください。

【開催日・開催時間】
2024年7月6日(土):10時00分~13時00分 ※13時~より変更

【開催場所】

富山県小矢部市 クロスランドおやべ 交流ひろば

※小雨決行。大雨時は中止。開始2時間前までに、メールにて連絡します。

【講習会のタイムスケジュール】

・基本姿勢走圏・対敵イメージ走圏

・斜め後方スライド身法

・指導者と行う、対人想定練習

【参加人数】

先着定員10名まで

【受講料について】

◆受講代金
4,400円(税込)

当金額を当日の練習開始前に、必ずお釣りのない形で現金で、水野にお支払いください。

◆受講料についての注意事項
※必ず申しこむ前に、後述する「キャンセルポリシー」をお読みください。

事前にお申し込みいただいても、講習会開始前までに受講代金をお支払いいただけない場合、例外なく指導いたしませんのでご了承ください。

【応募締切日】

2024年7月3日(水)

※事前連絡参加者がいない場合は、講習会は開催しません。参加希望者は必ず事前にご連絡ください。

※当日に、キャンセルメールをいれず欠席されました申込者様は、次回以降の水式門活動への参加はお断りさせていただきます。

【参加資格】
中学生以上の男女で、清朝末式八卦掌を真摯に学びたい方。

【参加に際しての注意事項】

・公園内での開催となるため、模造刀・木刀の使用はできません。弊門にて、スポンジ棒を用意いたしますので、そちらをご使用ください。

・当練習会に参加するに際しては、募集期間中における事前の申し込みと支払期日までの受講料のお支払いが必要となります。支払期日を過ぎても支払を確認できない場合、例外なくキャンセルとして扱わせていただきます。

・真摯に学ぶ姿勢の参加者を求めます。指導者の指示に従わない者は、それ以後指導せず、帰宅していただきます。

・参加できなくなりましたら事前にメールにてご連絡ください。連絡無しでキャンセルした方は、今後の水式門の活動への申込みはお断りさせていただきます。

・発熱・体調不良・心身故障中の状態の中での無理な参加は、受講生の安全な受講に配慮する立場からお断りしています。

・一般参加者の学習環境配慮と技法のいたずらな漏えいを防ぐため、保護者・知人・親族等による見学行為は例外なくお断りしています。

・本講習は、有料の特別指導であるため、見学目的・無料体験目的での参加はお断りします。

・当講習会内容では、実際に参加者同士が手を交える対人練習が行われますが、屋外で開催するため、マスクの着用は義務としません。気になる方は、各自マスク着用での参加をお願いします。

八卦掌水式門富山本科イメージ

清朝末式八卦掌=生徒集め用に護身術化してない純な護衛武術

清朝末期成立当時のままの転掌と言われていた頃の八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)は、単なる護衛武術である。

八卦掌が説明される時、女性向けの護身術と言われたり、最も真伝を得るのが難しい高級内家拳と言われたり、変幻自在の神秘の拳法、などと言われているが、原初スタイルの八卦掌は、単なる護衛武術である。

自分は、近代格闘術化した八卦掌である梁振圃伝八卦掌の指導許可を得たが、ある程度の段階まで上がっても、勝ったり負けたりはあるな、と感じ、不安だった。その不安を払拭するための、神秘的な攻防技法・理論(螺旋をひんぱんに使った変則攻撃・八卦陰陽理論など)も実際に使ってみたが(使っている余裕がないほど力と速さで押し切られ)無理を感じ、実行できないと痛感した。

つまり、近代格闘術八卦掌は、女性向けのものでは到底なかった。武術経験のある屈強な男性向け、もしくは体格・筋力のある若い男性向けの武術である。

映画や演武大会で、女性が優美に流れるように演じ戦う映像を見つづけ、かつ各道場が「女性向け」と明確な理由を明示せずに発信するため、多くの人の中で八卦掌は「女性向け」「女性が使ってこそ」という認識が生まれた。

変則攻撃や斜めに移動して技を発出するも、女性向け、と言われる原因となっている。しかし、これらの攻防技術だけでは、身体的資源不利者に有利さを生み出さない。

身体的資源不利者が変則攻撃や斜めに入る攻防を行うならば、それらは単なる『遠回り』に成り下がる。身体的に不利な者が、遠回りなんてしたら、一層攻撃が当たりにくくなるのは明らかである。

有利者が最短距離で攻撃してくるのに対し、ただでさえ攻撃速度や技術が低い不利者が遠回りなんてしていたら、到達時間も長くなるうえに丸見えとなり、当たらないのどころか「格好の的」となってしまうのだ。これは十数年と練習して倒され続けたがゆえに分かったことである。

今まで、「女性をはじめとする、筋力・体格等身体資源要素で格闘するに不利な者」に向く理由を明確に説明できる指導者がいなかった、のである。

私が女性に向いている、と説明するには、明確な理由があるから、「女性をはじめとする身体的資源不利者に適した」とはっきり言うことができ、女性クラスの門弟も募集することができるのである。

女性をはじめとする身体的資源不利者に八卦掌が向いている理由は以下のとおりである。各自吟味し、実行してほしい。

先制攻撃などしないで、敵が少しでも近づいてきたり、威圧をかけてきたら、ためらうことなく力のぶつからない場所(一番望ましいのは敵のいない場所)へ移動(という名の防御)を開始する。そうすると、勝手に敵は接近してくるため、移動を止めることなく移動の勢いを保って自分の攻撃がまったく当たらないくらい遠い間合いを維持しながら、斜め後方へスライドしつつ攻撃をする(撤退戦)。そのため自分の攻撃は相手に当たらなくなるが、生存第一なので敵の攻撃さえ自分に当たらなければ成功なので問題ない(自分の攻撃が当たる、ということは、敵に近いことを意味し、敵の攻撃が当たりやすい状態でもあるから)。
移動し続けることで敵と接近攻防することがなくなるため、技術・筋力の影響を受けない位置で一定時間敵の攻撃を喰らわないための攻防ができる。そのため、その「一定時間」を長引かせるための練習を、日頃よりすればいい。螺旋功や変則歩法で敵の力をいなすような、複雑で人との練習でしか技術を高めることができない技法に頼る攻防スタイルであると、対人練習が毎日できる恵まれた環境を持つ人間にしか、技術を高めることができないことになる。清朝末式八卦掌は、敵との接触攻防をしない技術体系であるため、一人練習メインでも十分に練度を高め、男性なみに攻防持久力を作り上げることができる。そのため、いざという場面でも、相手から間合いをとり『自分次第』の領域を保つ技術さえ発揮できれば、生存できる可能性をもって戦うことができる。

撤退戦の最も基本的な技が「単換掌」である。移動し続ける際の移動練習が「走圏」である。実行するための練習方法も、明確に示すことができる。

単換掌をはじめとする型をたくさん覚え綺麗に演じることに時間を費やしたり、走圏に神秘的な内功要素を詰め込むことが、実戦において有効でないことがよくわかるはずだ。

理由だけが明確でもいけない。実際に使ってみて、本当に一定時間護身し続けられなければならない。その点は、昔日の実績があるから安心である。

その実績とは?成立当時の八卦掌(転掌)が、宮中内で仕える者が使用する武術として採用された実績である。屈強な武術経験ありの男性しか使うことができないシロモノであれば、採用されることはない。宮中に、屈強な男性(宦官以外の男性)が入ることはできなかったからだ。

※董海川先生は、武術教官・護衛官吏として出世するために、自身の経験してきた武術(戦場刀術)を元に、身体的資源不利者向けの拳法を編成し、アピールした、戦略的野心家であった。

もっと明確に理由を学んでみたい方は、『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」護身術』の前半にて詳しく説明してある。ぜひ読み、試しに練習し、講習会などへも参加してほしい。

一貫しているのは、弱者使用前提という点。私が護身術として指導するために、30数年時間がかかったのは、護身術として攻防理論が矛盾しない技術体系を持つ武術を見つけることにこだわったことが原因であった。

近代格闘術八卦掌では、矛盾が払しょくできなかった。昔就労生先生に習った、昔日スタイルの清朝末式八卦掌を再現するまで時間がかかったのである。

言い換えるならば、強者使用前提のあまたの武術の一つとなった近代格闘術八卦掌を、護身術としてカスタマイズするのではなく、弱者護身を目的として作られた技術体系を見つけるための模索をしぬいたから、教えるまでに時間がかかったのである。

模索の徹底が、十代初期に習った後方スライドする八卦掌こそが、弱者護身術となりうる武術であると気づかせ、清朝末式八卦掌の成立の道を拓かせたのだ。

ほぼすべての道場では、たまたま自分が習った近代格闘技(例えば空手やキックボクシングなど)を、弱者護身の護身術にカスタマイズして指導している。

もともと強者使用前提の格闘技を、弱者護身にカスタマイズするのである。格闘技と護身術は、全くの別物である。

倒すのが第一義の格闘技と、生存の可能性を生みだすのが第一の護身術。使用者の前提が強者と弱者。いくらか攻撃をもらうことを前提とする試合前提ならではの格闘技と、刃物や強者の強打が一発でも当たると命取りとなる命を賭けた戦いの場が前提の護身術。

その真逆の前提を克服せず、技法を少しカスタマイズしただけであるから、その護身術は身体的資源不利者を救わないのである。そもそも、敵と向き合っている時点で、その技法は、強者使用前提を証明しているようなものである。

まったく別物の格闘術を、護身術へ換えるならば、そもそも根本から換えなければならない。しかしその作業は極めて大変である。自ら新しい拳法自体を、作らなければならないからだ。

※日本国内にも、自ら拳法を創り出し、指導をしている先生らがおられる。これは大変すごいことであり、心から尊敬する。

自ら拳法を創るなど、学生の頃の自分には想像もつかなかった。よって、弱者護身の技術体系をもつ武術を探したのである。

私は本当に運が良かった。一番最初に巡り会った拳法の原型が、弱者護身の技術を取り扱う拳法だったから。厳密に言うと、自ら護身し、一定時間生存することで囮(おとり)となり要人を守る、囮護衛の武術だった。

「自ら護身し、一定時間生存することで囮(おとり)となり」・・この箇所が極めて護身術として役立つ点である。護衛まで念頭に置くなら、電撃奇襲攻撃に関わる技法と、攻防を支える移動遊撃戦持久力に一層の磨きをかける必要がある。

独学で始めた八卦掌は、近代化した後の八卦掌であったが、それが弱者による護衛を実現するためのものであることは、薄々気づいていた。就労生先生に、後方へ下がりながら攻防をする単換掌を教えてもらった時、「やはりさがるのだな」と納得した記憶がある。

時を重ね、多くの八卦掌を見たが、皆、近代格闘術スタイル八卦掌である。

これは、日本だけの傾向かと思った。理論の学習をしようと考え、中国から本を直接取り寄せたが、何十冊にも及ぶ八卦掌の本は、皆、近代格闘術八卦掌であった。

成立当時の董海川先生の教えが盛り込まれていると伝えられる八卦三十六歌訣も、その解説はすべて、近代格闘術八卦掌であることが前提で解説をされていた。

そうならば、以後、私が、成立当時の八卦掌の術理で、三十六歌訣などの理論を解説していくのみである。

八卦掌水式門ホームページ内の、清朝末式八卦掌全伝 では、昔日スタイルの清朝末式八卦掌の術理を解説していく。

弱者護衛の真髄を学びたい方は、清朝末式八卦掌全伝を参考にするといい。

そして、頭で理解したと考えたならば、水式門の門を叩いて欲しい。直接私の指導を受けることで、「龍の絵に瞳を描き魂を入れる」のだ。

八卦掌水式門富山本科イメージ