月別アーカイブ: 2022年11月

「あの技ができるようになった」ごとにその都度行動してきた

次から次へと行動して、数多くの失策や嘲笑(あざわらい)を受けてきた。

辛いこともあったし、人前で恥をかいたこともあったけど、行動して得たものの方が圧倒的に多かったと、今この時点で振り返って思う。

いつも、今までできなかった技や身法ができているとふと気づいた時、「これはいける、チャンスだ」とよりどころにして行動してきた。例えば、その技をメインとして講習会を開いたり、その技の動画を元に生徒募集動画作って、生徒を募集したり。

今思うと、その時は今より一層未熟だったので、生徒さんの前で失敗したり、答えた内容に整合性がなく矛盾を生じたり・・・、そんなミスばっかりだった。

しかしその失敗が、今自分に足らないものを教えてくれる。身をもって教えてくれるその教授方法は、精神的にはかなりこたえる教え方。ふと「やめてしまうか」と思う時もある。しかし「やめてしまったら、全国指導旅で逢って伝えるはずだったみんなに逢えない」と考えて思いとどまった。

本当に心からそう考えていたし、今でも思っている。

今水式門のホームーページには、多くの解説動作がある。そのなかで、通信受講生をとって教える目的で作成している自分が納得できる動画は、ほんのわずか。

圧倒的に、通信講座教材として耐えうることができないものばかり。それは無駄だったのか。それらの動画を作成して、失敗作が試作と化したから、次に作る動画の質が少しづつ上がっていく。だから決して無駄になってない。

その意味もあって残してある。その軌跡があるからこそ、今の場までたどり着くことになった。

指導動画を作成をし続けてきたから、どこでつまづいたのかが分かり、それが弱点として認識され、次の動画に活かされ指導動画作成技術が上がってきたのだ。何かしらの理由をつけて行動しなかったら、作成技術は昔のままで何らの変化も、無かっただろう。

いきなり動画作成から入ったが、これは、対多人数遊撃戦の練習でもまったく同じこと。

「絵空事」「漫画や映画の中だけの話」と決めつけて行動しなかったら、そこで完全に終わっていた。

自分が対多人数遊撃戦の習熟を願い、行動し始めた時も、そこに詳しい方法を示した書籍やサイトは無かった。そのような中での模索ゆえ、多人数組手中で試行錯誤するたびに徹底的に打ちのめされた。

これは武術の経験などほとんどない仕事仲間が相手の時の話。武道や武術の経験を持つ人たちが相手だと、10秒ももたず打ちのめされたり、掴まれたりした。

きっと私の所属していた会の仲間たちは、私が倒されているイメージしかもっていないはずである。地面に倒され、時には疲れて勝手に倒れ込み、砂だらけになっているイメージしかないはずである。

しかしそれを「恥」だと思ったことはない。人に教える立場となっても、同僚や門の生徒さんたちの前で失敗してできなくても、それはいい機会ととらえ、その都度できるように努力してきた。

できなくて大したことないとして、去っていった人もいる。それは寂しいことだが、それも行動したことで経験できた貴重な財産であり、そこから何かを生み出すことができたため、良かったと、思っている。

自分の描く「理想の状態」になってから行動しようと考えた時もあった。しかしその時は今まで一度も訪れたことがないことにある時気づき、もうそんなためらいは止めてしまおうと思った。

極端な話、練習をしていて、ある一つの新技をマスターしたと思ったら、それを材料に発信したり、多人数組手で堂々と試したりした。もちろん、うまくいかない。うまくいかないけど行動はしたため、その行動から、新たな展開が生まれたりもした。

この「新たな展開」こそが、きっと思いがけない世界へと私を連れて行ってくれるのだろう。実際、今の自分の位置も、昔では想像できない位置。

八卦掌練習し初めに、家族に撮ってもらった動画の中で、「大したものでしょう」と笑っている自分が居た。今撮影した動画と見比べてみると、天と地ほどの差がある。当時はあの動きで、よかれと思っていたのだろう。そこまで自分は進んできたのだなと思った。

当時のその動画の中で「(この動画も)使うんでしょ?」と問われたので、「そんな、これを人に見せるなんて」と私。

「せっかく撮ったんだから。そんなこと関係ないのに。」と話が続いたのをハッキリと覚えている。そこまで撮り続けておけばよかった。本当にその通りだね。その通り。なんて言い得てるんだろうか。

きっと今も同じことを言うだろうから、その言葉を胸に、ささやかな機会あるごとに、どんどん行動していく。

思い立った時に、すぐ練習を始められるような役立つ動画、ぜひ待っていてほしい。

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なぜ君にとって対多人数遊撃戦は「実現可能」な戦法なのか

強くなりたいと願い行動し始めた君は、毎日少しづつ、自分の身体が変わっていくことを実感している。

この前までできなかった行動が、ある日ふと、できるようになっていることに気づく。

自分で撮影をしてみたら、ダメだと思っていた動作が、手本動画の動きとほぼ変わらなくなっていた。自分は、結構うまくなっているんだな、と否が応でも気づく。

練習時「ここ!」という場面で、スッと手が出る。身体が崩れた状態でも、手が届くならば、自然と打っている。考えて見れば、こんなこと、以前では想像できなかった。

今ならば、後ろから突然敵が襲ってきても、その場から身体を移動させ、なんらかの行動をとることができる。この前は、無意識に手が出た。この前は身をひるがえして、敵中から外回りで逃げおおせた。

今ならば、「対多人数遊撃戦」がリアルに感じられる。この前は「私にできるのだろうか」と不安だった。他人の「そんなこと妄想であり、できっこない」に気を落とし自信を無くし、そう感じていた。

ではなぜ、他人には妄想で、君にはリアルに感じられるのか?

理由は簡単。君が、対多人数遊撃戦と向き合い、簡単ではないその技法を己の身体で実行するための準備を、日々積み重ねているからだ。

準備を積み重ねていると、日に日に、遊撃戦を実行するための身体的土台が出来上がってくる。

足の運足がスムーズになった。以前はここで足を上げることができず、足を軸足に引っかけ、動きが止まっていた。今は、軸足を越えて自分の望む場所にもう片方の足を移動させ、そこから新たな遊撃戦を展開できる。

右方面に居る敵に穿掌で突撃攻撃をした後、すぐさま後方の敵へ攻撃を仕掛けたかったが、昔はそこで慣性が働き動きが止まって、敵に捕まっていた。この弱点に気づいてから、慣性の働いた状態から転身しながら穿掌を放つための練習を重ね、今は当たり前にできるようになった。これは、使えるぞ!

君のその日々の積み重ねが少しづつ厚みを増し、以前は想像できなかった場所へ君を自然と連れていき、そこで君は初めて気づく。

「いつの間にかこんなこともできるようになっていたんだな。今なら、敵に捕まらないで戦う自分が想像できる。できるかもしれない・・・・いや、きっとできる!」

君がそうなっても、他人はこう言う。

「そんなこと、漫画の世界じゃあるまいし、できるはずない。生兵法は大けがのもと」

以前はここで「やはりそうなんだ、絵空事なんだ」と落ち込んでいた。しかし今はすぐさま、自然にこう答えていた。

「そう?実際動かすことができるし、できるよ。なんなら見せてあげようか?この動きのことだろう?」

私の例を言おう。記録できないくらい徹底的に繰り返し、リストアップした「できるようになったら便利だけど苦手パターン」を知らないうちに克服していた。

以前はここで動きが止まっていたが、今はすぐさま、穿掌を打ちながらその場からエスケープできる。多人数想定組手でも捕まらない。当てられない。そうなったのに、他人からの言葉は変わることがなかった。

決定的な違いは、行動した者と行動してない者の違い(行動してないから悪い、という意味ではない)。他人にとっては、対多人数遊撃戦は、絵空事の妄想であるため当然実現させるための準備をしない。だからずっと妄想や絵空事のままなんだ。

君は苦労しながらもその場にとどまり、コツコツと土台を築きあげて来たからこそ、対多人数遊撃戦がリアルに感じられるんだ。

リアルに感じられる→やる気が出てくる→引き続きルーティンを繰り返すのみ→知らないうちにできるようになっている場所にたどり着いている。なのです。

第三者に、言われたことがある。

「○○○○(有名道場)のベテランたちが、ある日、一日を使って、多人数戦の組手を徹底的に練習したんだって。その猛者たちでも結局できるようにならなかったらしいぞ。そこで悟ったんだって。こりゃ無理だって。だからお前のやっていることは無理だと思うぜ」

「そう?で、その人たちは、それ以後も練習し続けたの?」

「だから!無理だと悟ったんだから、もうそんなことしないだろ。話をちゃんと聞けよ。」

「私は、今もずっとやり続けているが、おかげで、できないこともできるようになったよ。」

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思い込みは現実へ~靴底が平らに減る私は将来達人

物事を成すうえで最も大事なことは、己のやっていることを信じ抜くこと。

言い古された、耳にタコができそうな言葉だが、大変難しいことでもあります。

己の信念に揺さぶりをかけてくる出来事は、まるで、天は私のことだけを狙い撃ちしているのではないか?と思うくらい、次から次へと起こる。

天のみならず、周りの人間も、絶妙なタイミング(最もメンタルがやられている時)で、適当な批判や中傷を浴びせてくる。

打ち立てた目的に到達する過程では、きっとそんなことだらけだろう・・・事前から覚悟もしていたし、分かってもいた。事実、歩き出した瞬間に、人は怒涛の如く消え去り、ほぼ誰も居なくなってしまった。

やっぱりそうか・・・仕方ないこと。割り切っているのだが、そんなことにずっとずっとさらされているので、毎日、不安や焦りを感じない日はないんですね。

そんな時に考えること。

「自分は天才だから、誰からも理解されないんだ。」

そう考えるのは自由だし、誰もにも迷惑もかけない。自分は真剣にそう考えているし、ずっと取り組んでいると、その考えを裏付ける出来事が起こってくる。

練習し始めの30年以上前、拳法の練習は靴への負担が大きくて、一カ月くらいでダメになっていた。はっきりと覚えているだが、左足の親指付け根付近だけが減り、それで靴寿命が縮まっていた。

長いこと、その状態が続いたが、ふっとした瞬間に、靴の減り方に変化が起きたのです。まず、左右の親指付け根わずか下が均一に減るようになり、立て続けに、今度は、靴底全体が、ほぼ均一に減るようになってきたのですね。

遊撃戦練習における、外転翻身・内転翻身・半斜翻身、そして滑歩外転が左右両方、時計回り反時計回り両方とも、対多人数遊撃戦総合練習の中で自在に用いることができるようになったあたりからです。

昔、下駄の歯が均一に減ってないのを見た達人が、挑戦者に「未熟者、出直してこい」と言った逸話を思い出し、「ってことは、自分は達人になったってことか?」と思ったのです。

実際、そのあたりから、態勢がバラバラでもいかようでも打つことができるようになったし、身体流の慣性状態から、全方向への身体展開ができるようになってきました。そして何より、型どおりでなくなったこと。大きな変化を感じました。

それ以後、辛いことや無気力状態が訪れるたびに、靴底全体減りを己を鼓舞する材料としてきました。

現在、靴の寿命周期は、40日くらい。少しだけ伸びました。均一に減るため、どこが一番最初に穴が空くかわからない状態ですね。一番減りやすいのは、土踏まずより少し前方。

思い込んだもん勝ち。信じたもん勝ち。それは誰にも迷惑もかけない。そして、なにより、思い込むことができるなら、それは間違いなく真実になってしまうということ。

そうならば、自分にとって都合のいい出来事を材料に、自分にとって望ましい内容を思い込んでしまおう。それは間もなく、真実となる。

もし君が、あなたが、自分のサイトや、他の情報をもとに、真摯に練習をしているなら、きっと強くなるし、未来に大きな変化が起きる。もうすでに起こり始めている。それは「そうなるといい」のレベルではなくて、「間もなくやってくる」こと。

さっそく思い込もう。俺は、私は、強くなる。取返し、望む生活を送る。想い出を作る。好きなあの人の前に堂々と立つ。

思い込んでしまえば、望むものは近づいてくる。苦しいことが起こっても大丈夫。その都度、思い込んだらいい。

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