八卦掌水式門の「代継門人」と「掌継人」の公認は厳しく行う

中国拳法の世界でよく聞く「拝師弟子(はいしでし)」。

師匠の前で、その門派内で決められた儀式を行って先生を師と仰ぎ、いくらかの誓約を誓い行う。おおよそ、その儀礼を経て、指導許可なり、系譜に○代目として名を連ねる。

近年は、その前近代的?儀礼を好まず、拝師・系譜を渡さないで代目を与えたりする。

私の八卦掌の先生もそのようであった。先生が志す昔日武術家が、形式的拝師制を採ってなかったため、踏襲していた。

水式門では、「何もしない」内弟子化は、採らない。明確に認め、明確に伝承図を渡し、証書にて代継門弟なるを認める。そしていったん認めた以上は、取り消さない。

内弟子となりたがらない人間もいる。その門派に囚われたくないからである。

そのような者に、こちらから代継弟子になってください、などと決して頼みはしない。するはずもない。そもそも、そのようなことは、昔日では考えられなかった。師匠が弟子に、「なってください」などということは考えられないことだ。

強い弟子や、有望な弟子に、こちらからスカウト、などという話を聴くが、私はしない。上から目線ではない。師弟関係だって、ギブアンドテイクなのである。

師匠は、弟子に教える段階において、すでにあまりの多くの時間をかけているのである。練習を毎日行うために膨大な準備をして犠牲を払い練習場所に毎日立ち、情熱を維持するためにあらゆる悩みを抱えても心を保ち、一般サラリーマンが行う無駄遣いもせず、多くのお金を学習にかけている。

指導するにあたっても、法外な金額を吹っ掛けるのではない。月々1万円以内の金額である(弊門本科は、月々5,000円程度である)。常識的な金額である。

その設定金額のうえで、先生が片手間にサラリーマンしながらほどほどにやってきたものを、空いた時間で・・・ではない。長年積み重ねてきた技法を指導するのである。

出し惜しみをし、少しでも安く習おう、あわよくば極力お金を払わずに・・・と考える輩もたくさんいる。お金も問題ではない。たかだか5,000円程度の金額だ。その程度の額ですら、膨大な時間を費やして指導している師匠に払うのを渋り、ケチる人間に、私は指導の情熱を注ぐことはできない。

このように、その拳法について先んじてより多くの時間を費やしているのである。少しばかり技法の飲みこみが早かろうと、ただそれだけをもって先達が初心者に頭を下げるなど、あるはずもないし、あってはならない。その弟子が慢心するだけである。私は決してすることはない。

代継弟子になろうと、八卦掌の修行過程では、まだ入り口に立ったばかりである。これから先、膨大な「自分なりのノウハウ」を積み重ねていく必要ある。この段階では、全体像が分かっていないため、気づきも、その多くは一過性のものである。私もそうであった。

「これこそ真理か!」と初期段階で気づいたことなど、今思えば、途中段階の未完成なものばかりであった。成長の過程でその気づきは必要ではあるのだが、それが八卦掌のすべてを悟らせるもの、ではなかったのである。成長過程における、成長の一段階に過ぎないものである。

代継弟子でもその状態である。まして代継弟子になる前の状態は「初心者」だ。初心段階の人間に、おおよそ3万時間以上を費やした師匠が頭を下げるなど、ありえない。

掌継人は、もっと先の段階である。

掌継人は、弟子に明快に術理を示さなければならない。自分でできるのと、その出来る技術を人に伝える、のでは、また違った段階となる。代継弟子になってから掌継人までの道のりは厳しい。

弊門を修了した掌継人は、皆例外なく、掌継課程で膨大な時間を費やしている。すべからく毎日練習場所に立ちつづけ、悩み、時に泣き、時に苦しさの中で続けることすら苦痛の中でも、とにかく向き合ってきた者ばかりである。

ここまでやるのは、いざという時命を賭ける今すぐ使う技法を、弟子に示す必要があるからである。掌継人は、八卦掌の技法を、後代に伝える立場の人間である。自分だけで修行しているだけの立場ではない。

今すぐ使う技法が、清朝末式八卦掌の特徴である。いますぐ、明日にでも使う技法ゆえ、術理は明快でなければならない。

何年先使用を前提とするならば、あいまいで抽象的な説明でも、今この時点でごまかすことができる。しかし今すぐ使う予定の、清朝末式八卦掌では、それはゆるされない。

今、目の前にいる教えを請いに来た弟子に、明快に術理を示さねばならぬ。その技法は、その弟子が間もなく誰かを守るために使う可能性もある。そのような重大な技法をを伝える作業をしなければならない。

つまり、その責任ある作業を実行できる実力者だけが、掌継人になることができるのだ。

今までの掌継人は、皆それができたから、女性でもなったのだ。それが出来なければ、屈強な男性でも、掌継人になることはない。弊門では、認めることはない。

多くの屈強な男性は、掌継人どころか、代継門弟にすらもならなかった。清朝末式八卦掌の技法に、心を向けきることができなかった。一時でも心を向けきることのできない人間に、先に進むのは難しい。

女性は、力と力がぶつかるスタイルに未練もないため、代継門弟・掌継人ともになりやすい。

八卦掌水式門では、以後も、代継門弟・掌継人にたいする公認は、厳しく行う。でないと、技術伝承において一定のレベルを確保できないからである。

八卦掌水式門富山本科イメージ

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