月別アーカイブ: 2023年1月

どうせなら、グランド・マスター(一代宗師)になろうぜ

これは何も、映画「グランド・マスター」の中の主人公のようになろうと言ってるのではありません。

惚れ込んだもの(ここは八卦掌がらみのブログのため拳法など武術を指すが、武術に限らずなんでもいい)があるならば、徹底的に練習しまくって、独自の境地に至ろうぜ、と言っているのだ。そのほうが目指しガイがあるというもの。

そしてどんどん、己のうけた名前で、己の方法で教え、発信していけばいいと思う。到達点は、とてつもなく大きく持とう。

徹底的に練習すると、「この方法はいいぞ」と思ったオリジナルな「ポイント・要領・コツ」に、どんどんと気づくようになる。私自身、先生から使用例(用法・ようほう)やコツを教わった記憶などほとんどない。実はその方法こそが、古来よりの中国拳法の指導法でもあるようだ。

常に自分で、「八卦掌は対多人数を想定した遊撃戦の拳法(※このことに中学時代から気づいていたが、師匠に教わるようになったあと、師伝でもそのように言われ確信した)」という前提に沿って、そこから型の使用例を想定し、散手や組手、対多人数遊撃戦総合想定練習で試しながら編み出してきたものばかりだった。

発力法という言葉も分類も、身法という言葉も分類も、単招式も、連招式も、老八掌の滑歩も、基本歩法も、走圏の実戦的な練習法の工夫も、間合いを徹底的に練る対人想定練習も、買い物カゴで戦う術も、刀術を元にした40~200センチの刀棒術も、そして最も得意とする双短棒も、すべて、八卦掌の元からある技術の術理に沿って、整理し、体系化して、私の八卦掌を確立してきた。

これらの術は己の工夫と苦労の果てに、馬鹿の一つ覚え同然に繰り返して身につけたので、自信のある実用的な技術となっている。

実際、仕事で不審者やらに注意喚起をしなければならないときなどは、買い物カゴや収穫カゴなど不審者を刺激しない類似の道具を持って万が一に備えながら対処することで、多くの実戦的経験を積んできた。

※乱闘やケンカを好んできたから実戦経験が多くなったのではなく、『大切な人を守る』と言う強い信念を持って生きてきたため、不穏な状況に直面した時ごとに、その信念が実戦につながりやすくなる行動を選択させ、結果人よりそのような経験が多くなった、のだと考えている。

これらの経験を踏まえ、師伝であったり、暗黙の了解となっていたりしていた対多人数戦の口伝(教えらえた要領)を己の経験に加えまとめる作業を真剣に行っている。これは、経験の浅い人間が書く無責任で非現実的なポイント・要領ではない。

私こそ、このポイントを書くにふさわしい(最強とか、そういうおごりたかぶった意味ではない)。

対多人数遊撃戦のポイントをまとめる人間としてふさわしいと確信している理由。それは、実戦の初めてが、対多人数数遊撃戦だったから。そしてその戦いの結果で、人を苦しめ、そして自分も苦しという、真剣に向き合わざるを得ない事態を招き、以後そこから逃げることなく努力を重ねてきたから。

今まで、人と争うのが嫌いで、ケンカもしたことがなく、そして暴力を否定し、「強くあること」を真向から不要なもの、と軽視してきた。その態度が人を巻き込む思わぬ事態を招き、人を守りきることができなかった日からずっと、決意して向き合ってきた。そんな私だからこそ、腹の底から真実の声のもと、身を切るがごとく書くことができる。

目の前でいじめの精神的暴力に苦しむ人を守り切ることができず、その子を不登校へと追い詰め、そんなこと、もうさせないと必死で強さを求めてきた自分だから、書くことができる。

散手や組手・乱取りで強い人間相手に試し、話にならないくらい全く通用せず、そこで得た感覚や教訓をまた試す、という繰り返しを十数年以上にも及ぶ長い期間実行し進み続けてきた私だからこそ、書くことができる。

つまり私の伝える八卦掌は、梁振蒲先生伝八卦掌の技術を原点としてはいるものの、私の経験・練習を通して新たな原点を作り、古来のごとくの移動遊撃戦の要素が強くなった技術体系となった八卦掌。

今年の年初、梁派伝の継承を採るか、己の経験にそった八卦掌の道を進むかの決断をするとき、全く迷うことなどなかった。それくらい、自分の得た技術の根幹は、八卦掌の術理ではあるが、己の独自の経験から気づき、そして生み出され影響を受けたものばかりだった。

この境地、拳法でもなんでも、周りがあきれるくらい積み重ねたものがある人であれば、分かってくれる境地だと思う。

よく1万時間の法則(物事を極めるには1万時間くらい費やすと結果が出てくる、という目安の法則)が言われるが、自分の場合、2万時間を越えたあたりから、もう数えるのも止めてしまった。そういう世間の目安ではピンとこなくなるくらい、己の経験によって得た目安のほうが頼りになってくるから。

流派も、誰それ伝の系統も、こだわりがなくなってくる。実際に人と組み合う時、その時の状況に応じて、繰り出される技なんて、流派の違いなどほとんどない。色んな角度や色んな態勢から打つため、どんな技かもわからないのだ。

組み合った時に、私より強い人間なんていくらでもいる。しかし、大切な人が後ろに控えている時、そんなことは全く考えない。己の経験と技術、体力の限り死力を尽くし、守るのみ。その時は流派なんてももちろん、八卦掌であるか、だれであるかも関係ない。

ただ守るだけ。そのためだけに同級生の前で宣言したあの日からずっと練習してきた。だから常に護衛拳法だと言い続けてきた。

強くなりたい。もう誰も苦しめたくない。大切なこの子の笑顔、決して曇らせたくない。そのために君が八卦掌を選んでくれたならば、メッセージはひとつ。

強くなるのは間違いない。だからグランド・マスターになるくらいまで強くなってやろうぜ。グランド・マスターになって、大好きなあの人、守っていこうぜ。泣いて感謝される英雄的な瞬間が、きっと訪れる。その時、今から練習の旅で味わう苦労が、一層幸せな気分をもたらしてくれるんだ。

『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップへ

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成らぬは人のなさぬなりけり~練習!練習!知識二の次

知識だけ増やしても、うまくいった試しがなかった

長いこと八卦掌にほれ込んで練習してきたが、できないこともあった。そしてある時、改めて振り返ってみて、出来なかったことを検証してみると・・・・

大して練習もせずに、自分で「こりゃぁ無理だ」と判断したものばかりだった。できるようになった技や身法、技術に比して、圧倒的に練習に費やした時間が少なかった。

出来ないときの練習ほど辛いものはない。いくらやってもできる兆しが見えない。一日のすべてを練習のみに費やすわけにはいかないので、また次の日に、再度チャレンジをする。しかしやはりできない。

そうなるとネガティブな言葉が湧いてきて、感情の上下動が激しくなる。

上手くいっている時に「ポジティブ」を心掛けるのは容易だが、うまくいってないときにこの心を持ち続けるのは本当に大変だ。この時こそ、取り組んでいるものに対する情熱とか、本気度が試されるのだろう。

わたしは何度もそのような危機に直面したが、どんな状況下でもあっても、私が経験した最も辛い状況下であっても、やり続けることができた。あとで振り返り、そして今改めて振り返り、私の情熱と真剣度は、とてつもないものだと、誇りに思っている。

名君として名高い、上杉鷹山公の言葉である「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」がある。

自分に言い訳をし、努力を怠っていた小学生の頃は(小学生の頃、すでにこの言葉を知っていた)、なんとも厳しい言葉だと思った。

しかし毎日の積み重ねが当たり前となった今では、限りない励ましの言葉となっている。

毎日積み重ね、どんどん行動している私にとって、「行動すれば必ず成る。」は、後押しの言葉でしかない。

「成らぬ(うまくいかない・実現しない・成らない)」は、行動している自分には全く無縁のこと。だから大丈夫だ!必ずうまくいく!と心が震え立つ。

拳法の練習をしていると、色んな人に逢う。残念ながら、人のすることに口出しをしてきたりする人もいる。どうでもいいことに心を囚われ、時間を使っている人がたくさんいる。

正直、自分は若い世代とはなくなり、時間も有限であると痛烈に実感しているため、間違っても人のしていることに批判したりするなどの無駄な時間を取る余裕はない。

あと、知識もどうでもよくなった。拳法に関しては、もう八卦掌だけで十分。何それ拳法はこうこうこうだ系の知識はもういい。もともと興味がわかなかったが、ここまで向き合ってきた八卦掌を通して、色んな拳法の特色もおのずと触れてきた。もう十分である。

今はただ、前に進むための行動をしたい。そして実行している。毎日の積み重ねは当たり前。そのうえで「今日は何をしてやろうか?」と考え、実行している。そしてその考えのもと、指導し始めてから5年以上、実に多くの経験を積んだ。

分かってもないのにお金なんて取って教えて・・・と無責任な批判をする人間もいたが、そうであっても「道場を開いて指導」という行動をとったからこそ、かけがえのない経験を積むことができたんだ。これも、鷹山公の言葉に恥じぬ行為だ。

最も貴重な経験となったのが、人を見る目が養われたこと。問い合わせをしてくる人の中には、時に極めて礼を欠く人間もいるが、そのような人間は、じきに本質を見抜くことができるようになってきた。これも、幾度と様々なタイプの人間に接してきたから。

問い合わせフォームに、詳しい経歴質問欄を設けないのは、私自身が、その人をニュートラルな気分で見るためである。良い意味で、先入観を持ちたくないからだ。

有名な先生でない私のところには、問い合わせの段階で気合の入っていない、失礼な対応をとる人間がくる。無断キャンセル、質問に答えてもお礼のメールも来ない、などだ。

そのような人間には、こちらも一切興味がないため、心が動じることもない。行動し、目的に常に忠実な自分にとって、このようなことに対する対応は、脇道の無駄な積み重ねしかないため、深追いや心を乱されることなどありえない。

自分がこれからも取るのは、行動のみ。それも、自分の定めた目的に近づくための行動のみ。毎日の練習は当たり前。対多人数戦を乗り切るための、食事や体力維持などに対する配慮も当たり前。

その積み重ねの果てに、今度こそ、大切な人を守りぬくことができる結果が待っていると信じている。そこで初めて、努力の成果を感じられるのだ。

八卦掌の積み重ねの過程で、多くのトラブルに勇気をもって接し、時に人に感謝されたこともあった。しかし満足などしない。自分が自分の自由意志で動くことができる限り、「誰かにとって大切な人を守る」ための行動を選び続ける。

そこで初めて、顔向けができる。そのように行動し切ったならきっと、人生を終える瞬間、満足のファンファーレがなるだろう。

これからとる行動も、きっと何かを成す。そう信じて、今からまたルーティンをこなしに行こうか!

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大切な人・自分を守ることができる八卦掌を全国に広める

誰もが大切な人、そして自分を守ることができる対多人数遊撃戦の八卦掌を、日本全国に広める。

全国各地で遊撃戦八卦掌を学んだ人が危機に瀕した時、八卦掌で大切な人を守りぬき、そして自分の身を守る。

結果、一人でも多くの人が全国のいたるところで理不尽で卑劣な暴力から守られる。そのために、全国に広める。

全国に広めることは、一人でも多くの人を理不尽な暴力から守る、と決意した私にとって、避けて通ることができない必須の段階。

いくたび失敗しても、通信講座の開設にチャレンジしているのは、そのため。対人想定練習を重視しているのも、そのため。出張講習に力を入れているのもそのため。みんな、全国を股にかけて指導するための準備。

だから、志に共鳴する優しき未来の達人を求めている。一人では限界がある。

八卦掌水式門は、大切な人を守りたい、そう願う人が全国から来て学び、そしてそれぞれの土地で指導を展開されることを心から願っています。

全国各地で、八卦掌の指導拠点ができるなら、昔の私みたいに、突然学ぶ必要が生じた人間が、その場所にいって基礎から確実に学ぶことができるようになります。通信講座の受講生が、スクーリングの場所として、その場を利用できるようになります。

八卦掌を学んで、自分の近所で指導してみたい。そのように考えるならば、是非八卦門の一員となってほしい。

八卦掌第6代目として、八卦掌の掌理を、志ある者に誠実に伝え、7代目として活動してほしいと思います。

遠隔地等門下生は、月謝制を免除し、一回1,100円(税込)の回数制を選択できるなどの準備をしているため、愛知にて新たな可能性を学び、持ち帰ってもらいたい。

今考えている、全国16か所に点在する、八卦掌水式門の拠点。これは現時点で予定であり、拠点責任者の都合もあるが、近い未来、現実となる。

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