水式門唯一指導の成立当時のままの原点・清朝末式八卦掌とは」カテゴリーアーカイブ

八卦掌水式門が、国内外で唯一指導する、八卦掌成立当時のままの原点スタイルの八卦掌「清朝末式八卦掌」について、八卦掌第6代目掌継人である伝承者の水野が詳しく解説をする。

翻身旋理・刀裏背走理習得で自然とできるようになる発勁

中国拳法を志す者の中で、知らない者はいないくらい有名な言葉。

しかし私は、アルバイト先の空手の方に聞くまで、よく知らなかった。なぜなら、八卦掌にそのようなものがないからだった。

清朝末期成立当時のままの原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」)では、発勁を重視しない。一大コンテンツでもない。

題名のままである。翻身旋理・刀裏背走理をできた先に、自然と待っているものである。

ここで注意が必要である。翻身旋理・刀裏背走理習得は、発勁を出来るようになるための練習ではない。あくまで、敵が移動遊撃戦時、斜め後方や横から急接近してきた際の、移動速度を落とさないための要訣なのである。

この両理の土台の先に、発勁は待っている。

敵が突然横方向から襲ってきた際、急速移動回避をする必要がある。その秒単位の世界では、複雑な技・日頃行っていないような技などできない。

あくまで、日頃取り組んでいる技で、もしくは身法で対応する。そしてその日頃の動作に、少しだけ大きな力を込めて、瞬間的に速度を増し回避したり、急に敵に迫ったりするのだ。

あくまで、普通の動きの中で、である。そして、特別な呼吸法や、特別な力伝達意識が必要なわけではないのである。

普通の動きの中で行うから、日頃の絶え間ない移動、の流れを止めないで済むのである。

あまりに大きな力を出すのなら、ある程度ためて、瞬間的に発する、という流れも必要となろう。他の拳法の発勁は、おおよそこの流れを採用している。

八卦掌は、とにかく持続可能な限りの速い速度を保って移動し続ける武術であるため、蓄~発は極力避けたい。八卦掌は、蓄~発よりも、縮~展の動きの流れの中で、大きな力を出すのだ。

扣擺発力・翻身発力は、まさに縮~展へ続く展開力を利用した発力である。遊歩発力も、移動する際の、押し広げ動作たる、展開の中で、通常よりほんの少し大きな力を発する。

よって、各対敵身法時の練習においては、まず翻身旋理・刀裏背走理の要訣を守って、洗練された後退スライド習得を目指す。

そしてその練習の中で、たとえば私のように、時間を区切った移動遊撃戦想定練習の中で、敵が横から球速チェイスしてきたのを予想して、突如向きを変えてみたりする。

ここでは、瞬間的に大きな力でもって、我が身を転身・移動させなければならないため、発勁で説かれる非常時力発出法も役立つのである。

八卦掌水式門富山本科イメージ

倒すならば、振り向きざまの電撃攻撃で。護衛武術にもなる。

「いつ敵を倒すのですか?」

気持ちは分かるが、成立当時スタイルの八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)の戦闘法を深く理解してない状態の質問である。

しかし大変よい質問だと言える。中核に触れる、そして中核を理解するきっかけとなる質問だからだ。

このような疑問を師に尋ねることは大変素晴らしい。その疑問に師匠が実演付きで答えることで、疑問に対する答えが明確にされ、深い理解を得られる。自分で考えた末の質問である。どんどん師に質問するとよい。

質問に答える。さんざん練習している「単換掌」で倒すのではない。八卦掌は、「倒す」よりも「倒されない」を目指す拳法である。その拳法が最重要と位置付けている技である。その技が「倒す」ためのものでないことはおのずと理解できよう。

後退スライドは「斜め後方スライド撤退戦」である。「撤退戦」というフレーズは何気なく使っているのではない。古来より、戦争における撤退戦において敵を倒すことはなかった。

味方の犠牲を最小限に食い止め本隊を被害なく本国へ撤退させるために、しんがり部隊が「追撃してくる敵の足(進軍)を止める」ことが目的だったのだ。撤退戦を扱った講談などでは、一矢報いたことだけがクローズアップされ誇張されるが(例えば三国志演技における蜀軍撤退の際の『死せる孔明生ける仲達を走らす』など)、撤退する者が圧倒的不利な状況からかろうじて逃げた状態だったケースがほとんどだったのである。

単換掌はまさにそれを実行する技法なのである。

対多人数移動遊撃戦は、まさに絶体絶命のピンチの戦いなのである。八卦掌は対多人数専用の拳法である。専用の拳法、と書くと、八卦掌の術理をマスターすれば、いとも簡単に多人数相手に戦うことができるようになる、と思いがちであるが、そうではない。「八卦掌の術理をマスターすれば、「対多人数戦の絶対的不利の中から生還できる可能性が生じる」だけなのである。

私は今でも、弟子らに多人数戦の戦い方を実演する際、大変緊張する。息も上がる。決して「楽々」ではないのだ。かろうじてかわしている状態なのである。自分の身体を移動遊撃戦渦中における複数敵の絶え間ない猛接近からやり過ごし続ける必要がある。その、不確定で急速対応の必要にあふれた世界が、どれほど過酷か想像すればわかる。

敵が3人以上となると、敵のアタックは次から次へと、息つく間もなく到達する。その過酷な戦況に対抗する手段として、ひたすら前に向かって、高い移動推進状態を保って移動し続ける「勢(せい)」の維持による対処法が考えられる。

前に移動し続けないと、後ろの敵に捕捉される。周りの敵に詰められ、捕まれる。前敵に速度を伴った電撃戦が実行できない。いいことがないのだ。

勢を維持するためには、スピードが落ちる可能性が最も高い、斜め後ろから接近してくる敵をやり過ごす瞬間「斜め後方スライド」時を克服することが最大の課題となる。

翻身旋理(ほんしんせんり)による切れある後方スライド技術、刀裏背走理(とうりはいそうり)による、自分の手や武器などを自分の身体軸に近付けて引っ張り身体移動時のブレを無くす方法は、この課題を克服するためのものだ。つまりこれらの術理は、スピードを落とさないために創始者が考え抜いた術理なのである。

この術理を実行するならば、敵猛追の都度「受けて攻撃をして倒す」という近代格闘術八卦掌が用いる攻防方法はできない。

する必要もなくなったからだ。近代格闘術八卦掌は対多人数移動遊撃戦ではなくなった。人を「倒す」ことに焦点をあてた。倒すならば、軸を作って大きな力を発揮し、戦闘不能にする必要がある。軸を作って打つ=その場にとどまる、ということだ。

近代格闘術八卦掌が移動遊撃戦という前提を離れた瞬間、強者使用前提の動きが加速し、両者は別物の拳法となった。

私に八卦掌を対面で教えてくれた若き中国人就労生の楊先生(八卦掌を「八卦転掌」と呼び、単換刀を教えてくれた青年先生)は、明確に、昔日と近代の違いを意識した指導をしていた。

連身牌法は、楊家のオリジナルであろう。しかしその動きは、八卦掌主要刀術の動きそのもの。虎衣藤牌兵舞踏を練習していた楊家では、それが八卦掌と融合するのは自然なこと。虎衣藤牌兵舞踏は、後退スライドではないが、楊家の代々の人たちは、昔日の転掌術理に、あえて合わせた。そこで連身牌法が生まれたと思われる。

手を出したならば後退スライドによって身体を操作し、身体の操作によって出した手を引っ張り身体軸に近付けてから、(肩が入ると同時に)スッと穿掌を突き出し、相手を驚かせ、その敵の足を止めるのである。まさに『けん制攻撃』である。

身体はけん制穿掌を放つ際、肩を入れて次なる場所へ移動する段階に入っているため、この攻撃の成否は分からないのだ。肩を入れて次なる場所へ・・・は、攻防における「防御」そのものなのである。

長くなったが、斜め後方スライド時、いかに倒すつもりで打ってないかが分かっただろう。「倒す」つもりで向かっても、ほとんど倒すことはできない。攻撃はなかなか当たらないもの。そこで割り切って、単換掌の術理は「けん制」に徹した。

そこで、単換掌で後退スライドし、振り向いた際、その場所で居着いている敵に電撃攻撃をしかける。不意を突かれた敵のほとんどは、その場から移動できず、攻撃を喰らうのである。

上の動画は、振り向き様のけん制攻撃の練習である。あえて敵を大きな動きでさばいた動作を繰り返し身体を振り、その中で確実に(頸部)急所を打ち抜くための練習法である。

よく見て欲しい。動かない的を打っている、などと、うんざりするような批判をする前に、練習の意義を考えろ。翻身拍打から遊歩一穿の攻撃を演じているが、その激しい展開攻撃においても、指先第一関節部分までで攻撃しているのがわかる。

極力遠い間合いで、通り抜けながら、斜め後ろ打ちをしているのだ。前敵攻撃に生じるリスクを最小限にした、「前敵スライド回避攻撃対敵身法(順勢掌の術理・順勢掌理)」である。

※楊家では、順勢掌のことを、「円勢掌」もしくは「勢掌」と呼んでいた。単換掌・拗進転掌(陰陽魚掌に該当)・勢掌の3つを原初最重要技、単換刀を、八卦転掌の源泉として指導してくれた。

敢えて「倒す」方法と段階を説明するならば、この順勢掌の術理である前敵スライド回避攻撃で倒す以外ないと考えられる。

よって皆には、もっともっと単招式を練習してほしいのだ。やりたがらない人も多い。単換掌と単換刀の陰に隠れるのもある。

しかし私は、上の動画のような練習を通して、今でも毎日、何回も何回も、前敵スライド回避攻撃を練習している。

単招式をもっともっと練習しよう。敵の脅威であり続けよ。そうすることで、敵は大切な人に手を出すことができなくなる。八卦転掌本来の姿、護衛武術に引き上げるならば、単招式は大変重要なのだ。

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八卦六十四掌を練るより、単換刀を練る先に生存がある

「八卦六十四掌」はいらない。六十四掌を知らなくても、問題なく実戦で生き残ることができる。これは確信である。

六十四掌は、取るに足らない技法ではない。時の名拳士が創った型である。だからといって、この技法を知らなければ、八卦掌が極められない、などということはないのだ。

そして、この技法を知らなければ護身が果たせない、ということもないのだ。

よってやらなくていい。ゆえに水式門では指導してない(※これは私の師匠の指導方針でもあった)。

異世界忍者漫画の影響で、やたらと有名な八卦六十四掌である。漫画の六十四掌は、全く別物で八卦掌にも関係ないフィクションである。しかし習いたがる人間が多い。

「それは指導してないぞ」というと、残念がってこない。

日本では、中国拳法に実戦性を求める人間が多い。しかし、彼らは、昔見た漫画やゲームの影響を受けすぎている。その枠から抜け出せないのだ。

いい例が、同じく少年誌に掲載されていた中国拳法漫画である。私の周りの拳法をやっている・興味がある人間で、この漫画を知らない人はいない。

そのストーリーの中で紹介された流派や先生しか認めない。そしてその中で登場した流派・先生に、無条件の崇拝をする。完全にとらわれているのだ。

フィクションだとわかっているよ、と言いながら、あの動きを出来ると考えている。できない人間を認めない。そして、自分では練習をしない。明らかに練習不足である。練習もしないのに、指導者にフィクションの再現を求め、有名先生にいつか「特別待遇」でお近づきになることを夢見ている。

私の元にも、「○○先生に紹介してほしい」と何度も打診があった。私は何ら人脈もないため、当然お断りした。そしてその先生の道場案内を見てみると、紹介状など必要としていない。ならば、そんなことしてないで、すぐさま申し込めばいいのに。

有名先生の道場で特別に目をかけてもラう方法はただ一つ。入門して、地道に努力を重ね、数年後に、薄紙を積み重ねるがごとくの過程で積み上げた成果を、その先生に認めてもらうことなのだ。

冒頭の八卦六十四掌。習いたがる人間は、さすがにパラレル世界の六十四掌が実物だと思っていない。しかし習いたがる。なぜ?なぜもっと、実の戦いで使う姿を想像しやすいシンプルで簡素なものを追い求めないのだろうか?

実際、実の戦いで使うことができるものは、模擬実戦や本当の実戦で試すしかない。なかなか実戦とは、経験できないものだ。

※それを後ろめたく思う必要はない

要は、その技が自分にとって、有事に身を守る切り札となるか、練習の中で考えながら繰り返すのである。

そして、最初は「なんだこれ、使えない」と思ったものが、動作を洗練させると、「使える」と感じるようになる。おおよそ、創始者が編み出した拳法の原点型というのは、シンプルである。そしてその原点型は、練習すればするほど、上達の段階を感じることができる。

私にとって、「単換刀」がその典型例技であった。下の動画が「単換刀」である。初学段階の練習方法とはいえ、機動力と身法にからめた刀操法を垣間見ることができる。原点型であったことを念頭に、用法などを想像してみて欲しい。

八卦掌の原型にして、最大のエッセンスの一つである。この動作の奥深さは、成立当時の名称であった「転掌」だったころの八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)の真髄が分かっていないと、理解しがたい。とてもおおざっぱに言ってしまえば、「生存を第一に考えた生存のための刀術」なのである。

東京と埼玉の境、清瀬市の公民館らしき施設で、三十数年前に中国人就労生と思われる若い先生に習った、一番最初の刀術「単換刀」。それがとても重要なものであるとは気づかなかった。

その先生が突然指導を止めたあと、数年経った時、程派の初心者修行者がつたない技法で練習していたのをみて、ハッとした。

「これは!重要なのでは?」

その初心者は、試しにその動きをしただけだったようだ。所属道場の先生から習ったわけでなかった。意外と、他の流派で習っている人はいなかったのである。

その清瀬の先生は、虎衣藤牌兵(こいとうはいへい)の演武を知っていたため、おそらく、福建省か浙江省の出身であったと思われる。強制的に教室が無くなったため、足取りも不明であるが、「単換刀」を習ったのは、きっと大きな運命であったのだろう。

最も清朝末式八卦掌に近い指導をする先生であったため、何度も東京に行き、過去の新聞なども閲覧して後日探したのだが、見つけることは叶わなかった。

単換刀は、斜め後方に刀を出して、その下をくぐって、刀を下げるだけの動作。実にシンプルである。初心者の多くは、口をそろえてこう言う。

「どこに攻撃があるのですか?」

その発想は、まさに近代八卦掌の発想である。思い出して欲しい。清朝末式八卦掌は、「生存」が第一である。上げた刀の下をくぐって、その後刀を下ろすのは、まさに「生存をまず図ったうえで、ついでに行う撤退戦攻撃を行う」なのである。

単換刀は、刀の持ち手を変えない。それは、敵が猛然と命をとるために向かってくる場合、持ち替えている時間的余裕と、精神的余裕がないからである。

敵は突然向かってくる場合もある。私にとって最大の恐怖であった、イノシシによる後方からの突進攻撃も、3メートル強の距離をわずか2秒足らずで縮められる僅差の実戦であった。

とてもではないが、刀など持ち替えている暇はないのである。イノシシに襲われた時も、最初の斬撃直後こそ背身刀理で棒を持ち替えたが、あとは、ひたすら、按刀理にもとづく単換刀動作であった。

つまり、このシンプルな動きしかできないのだ。六十四掌、それどころか老八掌で習う基本的な動作ですら、複雑すぎると、命がけの経験によって実感した。

八卦六十四掌や老八掌・八母掌に代表される型(套路・とうろ)は、演じれば結構長く、覚え甲斐が在りかつ見栄えもよく、皆習いたがる。気持ちはわかるが、「長い=全技を無意識レベルに高めるのは膨大な時間がかかる」のである。

私の場合、いつ何時、イノシシや野生動物がチェイスしてくるかわからない環境にある。圧倒的にフィジカルが上の野生動物に対し、ロマンや華麗さは考慮している暇がない。

ひたすら、単換刀を練っている。90センチ棒で、時には、2メートル棒で、練習をする。タオルでも練習する。

単換刀は清朝末式八卦掌最大のエッセンスである。内転翻身・外転翻身の両斜め後方スライド撤退戦対敵身法に基づく、身体操作主導の技法である。移動によって攻撃し、移動によって身を守る、真のエッセンスなのである。

シンプルな動きの中にも、多くのポイントがある。水式門の本科では、単換刀に多くの時間をかける。単換刀ができずして、代継門人になることはできない。最低限にして最大の、エッセンスだと確信しているからだ。

いま、『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術』『いじめ護身部|取り返すための技術解説』でも、それぞれの場に合わせた技法でもって単換刀理を解説するため、準備している。いつか講習会も開きたい。

上記の単換刀の動画を参考に、詳しい内容・技法を、所属教室の先生に聞くとよい。もし知らなければ、その先生は、近代格闘術八卦掌の専門なのだ。清朝末期頃成立当時の八卦掌を知っているなら、必ず知っている。

八卦刀術の最大のポイントは、上げた刀の下をくぐって下ろすところにある。上げて、くぐりながら、我と敵との間に、刀を下ろす、この一連の動作に、攻防がすべて含まれている。

分からなければ、弊門に習いに来るとよい。興味のある真摯な求道者との出逢いを楽しみにしている。

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練習が「実戦的である」とは。遊身大刀術に見る練習の実戦性

八卦掌水式門の承継人教程にて必須となる「遊身大刀術」について、よく聞く言葉「実戦的」の意味をからめて話したい。

遊身大刀術は、実戦から離れ武術ロマンやカンフーイメージに走った練習の典型例だからだ。

実戦的武術・・・よく聞く言葉である。

その内容・捉え方は、各武門によって異なる。よって正解は無いと考えられる。

成立当時のままの原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)では、実戦的、とは、その「技法が、カスタマイズなしに、いきなり有事の際に使うことができるかどうか」である。

水式門独自のこの定義を示す好例が、冒頭でいった遊身大刀術である。一般的な名称で呼ぶならば、「八卦大刀」術だ。

※水式門では、遊身大刀と呼び、八卦という名称を付けない。大刀術が、八卦掌という名になる前の「転掌」時代の練習だからである。

多くの八卦掌道場では、八卦大刀というと、決まって150センチくらいのキラキラ輝くドでかい刀を振り回して練習する。

あれが模造刀でなく、真剣であったら、極めて脅威である。とても近づくことなどできない。では、それが実戦的であろうか。

清朝末期成立当時の頃の転掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)では、あのような練習をしない。あのような刀を使った練習はしない。遊身大刀術は、いつも双身槍術練習で使っている長棒を使って練習する。

つまり、2メートル前後の長棒を使って、長い棒を振り回して戦う技術を養うのだ。

考えてみて欲しい。150センチの八卦大刀が、都合よく転がっているだろうか?

「150センチくらいの棒なら、そこら辺に転がっているぞ」

ならばなぜ、150センチくらいの棒を使って練習しないのか。

清朝末式八卦掌で、八卦大刀を使わずに、2メートル長棒で練習するのは、長さに慣れるだけではなく、双身槍術において、片方の先端をもって、自在に間合いを変えて攻撃できるようにするためにも行うのだ。

つまり、双身槍の片方をもって、振り回す技術レパートリーを加え、より変化に富んだ双身槍術を可能とするため、2メートル程度の長棒で練習をする。そこまで考えているから、あえて八卦大刀を使わないのだ。実際に戦う場面における優位性の確保のためである。

この長棒、現在でも工事現場にいけば、侵入防止バーなど、たくさんある。物干しざおも一般的なものは2メートル40センチくらい。店頭の「のぼり」も2メートルくらい。至る所に存在する武器である。

長い棒は、短い棒に比して、振り回すのに独特の技術が必要となる。長棒が回っている間に、自分の位置を自在に変えて、打つ角度などを変化させ、攻撃力や攻撃射程を変えていく。

この攻撃スキルを習得するための型は、八卦刀術主要技である「按刀」・「陰陽上斬刀」・「背身刀」・「上翻サイ刀」そして八卦掌の源の「単換刀」である。だから、特別に長い型があるわけではない。

近代八卦掌では、「八卦コン手刀」なる長い型もあるが、清末八卦掌では、既存の八卦刀術で、長棒が回っている最中の慣性を利用した戦い方を養う。

つまり「遊身大刀」術とは、演武でよく見るような「八卦大刀」を使いこなす練習ではなく、実際にそこらにある長棒を振りまわして戦うための技術習得練習なのだ。

実戦的とは、そういうことである。下のイラストで、かつ女性護身術科の冒頭をかざるイラストを見て欲しい。八卦遊身大刀を練習している一番弟子を描いたイラストだ。いつもこの子は、大刀術の練習の際、普通の長棒で、かつ普段着で練習していた。

一番弟子は、学校の制服を着てよく練習していた。有事の際に着ている可能性の高い服だったから、当時ひんぱんに制服で練習していたのだ。セーラー服というのは胸元に襟があり、やや動きにくい(らしい)。運動ウェアのようにはいかないとのことだ。

有事の際に、着ている可能性の最も高い服装で練習していたのである。そして、有事の際に、最も使うことが出来そうな可能性のある道具で練習していたのである。

ここまでしているから、有事の際に、スッと違和感なく、反応できる。

清朝末式八卦掌が考える「実戦的」とは、そういうことである。いかに有事を想定し、その時の状況に合わせた練習をするか。

水式門では、「トン級の強大な力で打つ」とか「一撃で急所を打って絶命させる」とか、は実戦的と考えていない。それらは実の戦いではない。それらは多分に格闘ロマン要素が入っているフィクションの世界ととえらえるのだ。

※現代社会において、人命を危険にさらす技術も、現実的ではない。後日普通の社会生活ができなくなる

よって私を含め、水式門の女性掌継人らは全員、練習時、模造刀は使わない。刀術の際、刃の向きを参考にするために、自作した木の柳葉刀を使う程度である。

私は今でも練習中、頻繁に、警備職務中の厚い外套を着て練習する。靴は、警備職中の靴とおなじもので練習している。

雪が降れば、喜んで、一番寒い明け方6時くらいに、滑りやすい状況での体験のため練習する。

経験しておくことである。「実の戦い」にて想定できることを、練習中に経験しておくことである。

刀術で、手首を返して刀を振り回す見栄えのいい技術が無いのは、練習における経験で、女性が実行できないとわかったからである。

単換刀が、敵に差し出した刀を、そのまま身体の移動力を使ってあげて、その下をくぐり、下ろす、のは、その技術が有効だからというより、それしかできないから、なのである。これらは、練習の大刀術の経験にて分かったことだ。

清朝末式八卦掌の「実戦的」を、是非とも参考にしてほしい。技術ではない。「実戦的」とは、その練習が、いかに有事において違和感なくその成果を発揮するか、である。

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おとりになって守るべき人を守る、身分制社会の護衛護身武術

以前、「八卦掌は、自らが囮(おとり)となって一定時間護身し続け、大切な人を守る護衛武術」と触れたことがあった。

成立に関わる話ゆえ、拳法を修行するうえで大して重要でないと思われがちである。しかし私は、このことに気づいたことで、成立当時の原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)の戦闘スタイルの根本に気づいた。

なぜなら、「護衛武術」という前提で、技術体系が組まれているからである。

もともと「護身術」ではないのだ。ただ、護衛を果たす過程で、苛酷な状況下で一定時間護身して生存し続ける技法を採用したため、現代において護身術として成り立つのである。

創始者(伝・董海川先生)は宦官(かんがん)であった。宦官である以上、筋力は通常男性より劣る。よって自分は弱者であるが、王族を守らなければならない。

賊徒の襲来であれば、相手はおよそ多人数である(暗殺であれば単独もあるだろうが)。おそらく武器を持っている。襲いに来る以上、腕に自信のある強者である。その過酷な条件で、どのように守るか?

そこで、以下の点が挙げられたと考えられる。

  • (1)まず、全員倒すのは非現実的。自らが囮となり逃げまくり(かわしまくり)、時間稼ぎをして、味方の援護を待つ。移動遊撃戦の採用。
  • (2)かわし続けるための方法を考える。敵の方向に自ら向かって、やり過ごすのではなく、敵の居ない方向へ向かって、近づいてきた敵を流す。この際の対処法が、転掌式。斜め後方スライド撤退戦の対敵身法とする。
  • (3)敵にとって我が「獲物を蹂躙するためには、まず倒さなければならない脅威」であり続けるために、敵を油断させず我に注意を引かせ続けるための、前敵に対する電撃奇襲攻撃を行う。

(1)対多人数に対処する原則として、徹底して移動し続ける「移動遊撃戦」を採用し、その戦法をもとに技術体系を作る。

まず大きな戦闘スタイルを決定する必要がある。自分弱者、対多人数、対武器である以上、敵とまともに向き合っていたら、たちどころに倒されてしまう。倒されたら、その後、守るべき人が命を奪われたり、蹂躙されてしまう。

よって、弱者が苛酷な状況をやり過ごすためには、一定時間移動し続け翻弄し、自分以外の味方の支援を待つ方法が有効だと考えれる。

やり過ごすことが前提のため、倒す技術よりも、移動しながらかわし続ける技術が必要だと、ここではっきりさせたのだ。ここではっきりと戦法を絞ったから、走圏や後退スライドの技法が生まれたのである。

(2)移動遊撃戦を実現するために、近づく敵を認識しながら敵の居ない方向へ移動し続ける技術(走圏)と、いない方向へ移動している最中に寄ってきた敵に対処する技術(後退スライドによる転掌式)を開発し、中核とする。

敵と向き合って構え、スキを見てそこを攻撃する、敵の攻撃を防ぐ、返す・・・この従来のスタイルでは、対多人数は戦うことができない。

一人の敵に時間がかかりすぎるため、後ろから来る敵に、ほとんど対応できない。

そこで、一瞬で一人の敵に対処する方法が考えられた。前方向に進み続けたら、前から向かってくる敵の力とぶつかる。あくまで、敵から逃げながら、敵の力に抗せずに受け流しつつ攻撃する「撤退戦」となった。

敵を後ろに置きながら進み続け、我の視界に入ってくる敵に、サッと手を出して、肩を入れながら攻撃し、去る・・・この一連の動きは、まさに『走圏~単換掌』なのである。

走圏は、内功を練るのではない。まっすぐ顔を前に向け、ショウ泥法で、高速で、進み続けるための練習法である。単換掌は、その状態の中、視界に入ってきた敵に対応するための最も基本的な動きなのだ。だからエッセンスなのである。

この「単換掌の術理・単換掌理」を理解している修行者はほぼいない。この記事を見た未来の天才の君は、是非とも頭に入れておいて欲しい。

(3)守るべきを人にうかつに手を出させないために、すべての敵の注意を我に引き寄せる前敵スライド攻撃を確立する

後退スライド対敵身法は、我の護身として大変有効である。しかし、勘のいい敵なら、「こいつは逃げてるだけ、攻撃してこない」と気づく。

そうすると、一部の人間に常に追わせ、一部の人間を守るべき人に差し向けてくる可能性が生じる。

そこで電撃戦が考えらえた。後退スライドで対処し、その先に敵がいるならば、スライド回避しながら、少しでも敵の力とぶつからない状態で逃げ打ちをするのだ。

そうすると、敵は常に我を見ている必要がある。まず護衛者たる我を倒す必要があるため、そこで意識が守るべき人から我に向いて、囮となり得るのである。

電撃奇襲戦を達成するためには、戦いの最中、ずっと「勢」が維持されていなければならない。清末八卦掌が、蹴り技を行わないことは、以前にも触れた。動きが止まるから。横歩きで逃げないのは、前に進んで移動するより勢がないため、攻撃が脅威とならないから。

護衛の観点からも、勢の保持は生命線なのである。

・・・・(1)・(2)・(3)の解説でお分かりのように、清朝末期成立当時の八卦掌には、明確な想定使用状況が見える。

想定使用状況から考えると、現在伝わっている、なんらか意味の分かりにくい練習方法も、その狙いがはっきりとわかるのだ。

最後に意味のある重要な余談をしたい。

自らが犠牲になって・・・という行為は、支配階級たる満州民族王族への崇拝が絶対であった中国では、しっかりと成り立つ。「人のために死ぬなんて・・・」と切り捨てられないのだ。それに見合った見返りがあったのだ。

自分が死んでも、あとに残された家族へは、栄誉と称賛が与えられる。もっと言えば、称賛することを、征服王朝政府である清王朝によって強制された。満州王族のために死んだ人間に、無条件の称賛があたえられることで、間接的に満州民族の高貴さ・貴さが庶民に示されたのである。

栄誉・称賛与えられることは、身分の低い人間には、大変意味のあることだった。遺された家族が、生活の保障と尊敬を得られる可能性もあるからだ。北方民族間では、功績のあった者に十分な恩賞を与えることは、己のステータスを示す最も有効な手段の一つだった。清朝を打ち立てた満州民族たるツングース系女真族も、そんな北方民族の一つ。王族の威信にかけて、功労者には、宦官であるを問わず、大きな栄誉が施された。

このことは、身分の低い人間には、大きなチャンス・転機となりうる。董海川先生も、後宮(粛王府)への奉仕前は謎だらけであった。単なる庶民であり、何も記録もされない、その他大勢のうちの一人であったはずだ。

「太平天国軍の間者(すぱい)だったから」とか、「大切な人を清朝王族に奪われたからその復讐のために宮中に入り込んだから身を隠していた」と、記録のないことについていろいろな説・作り話がある。

しかし多くの場合、記録がない人間とは、身分が低かったからだけである。董海川先生も、そのうちの一人であった。ましてや、当時蔑視の対象であった宦官である。たまたま、自らが確立した八卦掌という武術が王族に認められたため、その後の記録がなされるようになっただけだと思われる。

本人の努力、幸運から、八卦掌は世に広まった。

その奇跡的な幸運は、高貴な人たる王族を守ることに焦点をあてた技術体系づくりから招かれた。その点から、私は、董海川先生が、宮中に入った理由が「立身出世」だったと感じる。

王族に認められる可能性を生じさせる技術体系づくり。そこに一抹の野心を感じるのだ。

上掲イラストは、八卦掌を修めた一人の宦官が、日頃身分の低い宦官たる己に温かい気遣いをしてくれる女性王族のために、命を賭けて戦う決意をする場面を描いたもの。

弊門三番弟子でイラスト作成協力者たる子が、私の八卦掌修行開始のきっかけを絡めて描いてくれた大切な一枚である。

武術の練習は地味で辛いことも多い。このような、心揺さぶる理由がなければ、続かないかもしれない。私自身、はじめたきっかけが強烈であったため、続けられた。

大切な人を守りたいから、という学習志望動機をもって弊門を訪れる人をひいき目に見てしまうのは、このためであろう。

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清朝末式八卦掌では、蹴り技を使う暇はないため練習しない

清朝末期成立当時のままの八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)を、護身術的側面を一切変えないで使うならば、蹴り技を練習する必要ない。

なぜなら、蹴り技を出している暇が一切ないからである。脚は常に「勢(せい)を保った移動」という名の「防御」のために使うため、蹴り技を使う暇がない。

八卦掌で大事なことを一文字で示すならば、「勢」を私は迷うことなく選ぶ。

技法の要領がよくわからず、もしくは解釈につき、ふたつの分岐点がある場合、「どちらが勢を保つことができるだろうか」の視点は、大変役に立った。

近代から昔日への回帰と、失われた当時の練習方式をよみがえらすためには、毎日試行錯誤の繰り返しだった。昔東京のはずれで、若い中国人就労生の八卦掌の先生に習った、藤牌兵の戦場刀術(先生曰く「八卦の連身牌法・れんしんはいほうだ、とのこと。それが名前なのかは不明である」)と、「どちらの道を採るのが、勢を保つことができるだろうか」の視点、の二つは、疑問を解消し、清朝末期頃スタイルにたどり着くための、偉大な先生であった。

後退スライドの使用例を見ていただければわかる。とにかく「移動速度を下げないこと(勢を保つこと)によって敵との距離を保つ」観点から、移動を少しでも妨げるような技・動きはしない。

つまり、脚を止める類の動きは一切しない。蹴り技は、脚を止める類の動きに入るため、まず打つことはない。

通常蹴り技を放つ際は、身体を支える身体軸を、蹴る方の脚の反対側の脚で作ることになる。

身体軸を形成する際は、軸足として身体を支えるため、一時、敵の前面もしくは側面にて止まることになる。その瞬間だけ移動(=防御)ができないことを意味する。

清朝末式八卦掌では、「止まる=死」である。移動ができなくなり、敵にとって「動かぬ的(まと)」となってしまう。後方から迫る他の敵に捕捉され、囲まれ、多人数に押しつぶされてしまう。勢がなくなると、後方スライドから転身して反対方向へ進む際に目のまえに現れた敵に、電撃戦を仕掛けることができない。

このように、蹴り技を打つ時の少しの間であっても、多人数戦では我が追い詰められることにつながる。それくらい、多人数戦渦中におけるプレッシャーは激しい、少しの間で敵は我のすぐそばに迫るのである。

敵に連続攻撃を打つこと、敵に巧妙は技を仕掛けること(手足を取って脚を絡めて倒すetc)は、心がけて行わない。

よって、使わないように心がける対象となった「蹴り」技を、貴重な時間を使って練習する必要はない。

これは、清朝末式八卦掌をじっくり練習する時間・期間がある弊門の門下生でも同じこと。

そもそも護身を使う場面は、いつ来るかわからない。突然来る。「では、護身にとって重要な練習は、また来週に教える」といったその週の間に、必要となることもある。

よって、『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術講座』では、短いページの中に、エッセンスのみを採りあげて掲載・指導している。出来る出来ない、よりも、まず知っておき、そのうえで少しでも練習し少しでも上達させる。その上達速度を速めるために、「最低限」にしているのだ。

「最低限」まで厳選する作業は、清朝末式八卦掌を極めた者にしかできない。『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術講座』では、私(水野)が責任をもって厳選した。よって、蹴り技が一切入ってなくとも、安心して学習してほしい。

護身術の道を歩み始めたばかりの者にとって、弊門サイト上で示す最低限の護身術だけでも、練習するのは大変だろう。既存の八卦掌とは戦闘スタイルがまったく異なるため、不安もあるだろう。

愛知や富山の本科などであれば、定期的に動きをみてもらうことができるため、ベストである。

定期参加が難しいならば、講習会や護身術通信講座などを利用して学習してほしい。何も利用せず、ただサイト内の情報のみで練習するのは、八卦掌の先生に就いて習っている人でも大変である。日本国内の八卦掌道場は、ほぼすべてが近代スタイルのため、同じ八卦掌でも、使用前提の違う体系となっており、それが各技法の意味を根本から変えてしまっているからだ。

「八卦掌水式門で指導する八卦掌とは?」カテゴリー内の記事、もしくはいじめ護身部技術解説、女性護身術講座なども参考にし、あなたの就いている先生にも聞いてもらいたい。そのうえで、じっくりと取り組んで欲しい。

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清朝末式八卦掌は、残酷歴史から生まれた中国産護身術の一つ

八卦掌水式門(以下「弊門」)に、「遠隔地生科」がある。

愛知から遠く離れた県に在住の方でも、弊門で指導する清朝末式八卦掌を始められるように設置した科である。

遠隔地生科は、護身術の通信講座だと思っている人が多いが、そうではない。そのため、遠隔地生科に仮入門制が採用されていることを知ると、「護身術講座なのになんで気軽さがないの?」と疑問をぶつけてくる。

このことは、あらゆる場面で触れる重要なことである。弊門で指導する八卦掌は、弱者使用前提の「弱者護身武術」的性質もあるが、実は、成立当時のままの技法を貫き伝える「護衛武術」なのだ。護衛武術であるゆえ、その内容に平和的要素がない。日本国内で見られる、他者の生命に配慮した「日本式護身術」ではない。その姿勢に欠ける「中国式護衛護身術」なのである。

参考までに触れておく。中国式護身術には、日本武道に見られる「相手を傷つけない」とか「自他共栄」のような、自制の理が存在しない。

後退スライド技法が中核ゆえ、敵を傷つけない武術、などと思い違いをしている人が多い。後退スライドは、力の強い者に負けないための技法であり、逃げているわけでない。後方へ移動しながら防御しつつ、人体急所打って、殺傷したり戦闘不能にすることを躊躇なく実行する。

話を戻す。八卦掌の護衛の仕方は、こうだ。自分が力の弱い弱者であるから、他の武術のような「敵を全員倒して護衛」することはできない。

弱者であるから、縦横無尽に移動しまくって翻弄しつつ敵を引きつけ、引きつけの渦中で突然奇襲攻撃をして敵を我に集中させ、護衛する。つまり、囮(おとり)になる。

囮になっている間に、味方が来ることを期待する。囮である以上、危険を伴う。しかし使い手の生存より、あくまで皇族などの守るべき人間の命の方が重要だったのである。昔日の宦官(かんがん)が使った拳法らしい。宦官の身分は低く、ともすれば蔑視対象でもあったゆえ、命は顧みられないのである。

清朝時代は、征服を果たした支配階級民族たる満州族の皇族と、漢民族などのその他の庶民では、命の重さに明確な違いがあった。厳しい身分制度が存在していた時代だったがゆえの、悲愴感に満ちた護衛護身拳法なのである。

囮といえども、すぐに倒されてしまっては、当然護衛を果たすことができない。そのため、一定時間敵に捕まらずに攻防し続ける技法で貫かれている。この「囮として一定時間敵をさばきつづけるための技法」があるゆえ、現在の身分制のない日本で、護身術としての価値を放つのである。

清朝末式八卦掌を指導するにあたり、「護身を果たすためには敵の命を奪うことも辞さない」技法を外すことはできない。清朝末式八卦掌もしょせん中国拳法の一つであり、人を殺傷する技法であるのは変わらないからだ。

中国は、異民族に征服された過酷な歴史を繰り返した。例え自分が正義であっても、力によって征服されれば、身の周りの大切な人や善人が、平然と虐殺された残酷な歴史を何度も何度も経験している。その過酷な経験の中で、思いやり要素が強い武術が成立するはずがない。

弊門指導の清朝末式八卦掌は、「後退スライド」要素により平和的でマイルドな印象を持たれやすいが、そのようなことはない。武器術では、遠い間合いから敵の末端を斬り失血死させることを目指す技法理念があったり、重い武器を身体で扱って敵にぶつけて殺傷を目指す技法理念が存在する。

そのような殺伐とした技法を、通信講座で、面識もない人間に指導するはずがない。これは、技法ノウハウを出し惜しみしているのではなく、殺傷技法を伴う技法を指導する団体としての、社会的・道義的責任なのである。

八卦掌が成立した当時の中国は、太平天国の争乱のため国内各地で、反乱軍や清朝正規軍によって、庶民に対する非道な暴力が加えられていた(乱により命を落とした人数は、2000万人ともいわれる)。賊や野盗だけが脅威だったのではない。いつ何時、どの集団が、自分や家族の命を奪いに来るかわからない時代である。その渦中で成立した護衛護身術である。他者に対する遠慮がない技法理念で染まっているのは当然である。清朝末式八卦掌の骨の髄までしみ込んだ遠慮無用の理念を、外して指導することはできないのは分かっていただけるだろう。

よって、日本国内で見受けられるような「誰でもできる護身術」系にすることはせず、原初のままの弱者護身のための技法のままに伝える。それはこれからも変わらない。以下が、具体的な指導法である。

  • ・徹底した反復練習によって、無意識レベルで身体を後退スライドさせ得る指導を重点的に行う。とにかく敵に捕捉されず、敵の力攻撃のベクトルに抗しない技法を指導する。
  • ・危険回避知識や護身哲学たぐいの指導はしない。そのような内容の知識は、書店に行けば、複数並んでいる護身術本で習得できるから。
  • ・武器操法を重視する。日傘、雨傘、杖など、90センチ棒で対抗できるように、八卦刀法を初日より指導する。200センチ棒による双身槍法を指導し、竹、のぼり、物干し竿、工事現場の進入停止棒で対抗できるようにする。双匕首技法を指導することにより、手持ちの水筒と折り畳み傘の組み合わせなどの二刀技術で戦うことができるようにする。

見てお判りのように、徹底した繰り返し練習と、徹底した現実的練習により、実際に危機が迫った際、力任せの攻撃によって圧倒されないことを目指している。

いくら護身哲学や心構えを学んでも、この技法ができない限り元も子もない。先ほどの、中国の歴史と同じである。いくら護身哲学や心構えが立派でも、いくら自分が正しくても、力の行使に屈したら、それらで我が身が助かることはない。結局、技法の行使で敵を戦闘不能にさせるか、敵から離脱することでしか、命を守ることはできないのである。

私は海上自衛隊の護衛艦の艦長になるのが大きな夢であった。護衛艦の艦長になるなら、防衛大学校を出るのが一般的である。当時は、防衛大学校に入学するためには、兵法や戦術知識が必要であると真剣に勘違いしており、小学生の頃から、戦史や兵法学習をしていた。その中で、多くの危機管理・危険回避知識を習得した。

しかし、そのような知識があっても、命に関わる危険を回避できなかった(野生動物の突然の襲撃や、いじめから大切な人を守ることだができなかった経験など)。

野生動物襲撃の際、私の命を守ったのは、ちまたの護身術が重視しているような護身予備知識などではなく、我の身体にしみ込んだ清朝末式八卦掌の中核技法(八卦刀術の背身刀)だった。知識だけだったら、私はイノシシの鋭い歯によって、膝付近を突かれ、外傷や感染症で、タダでは済まなかっただろう。

よって、弊門では、人をも殺傷し得る危険技法による護身術たる清朝末式八卦掌を伝えるため、遠隔地生科でも、仮入門制を採り続ける。

日本で生まれた護身術ではない。異民族に征服され続けた過酷な歴史を持つ中国で生まれた「中国産護身術」であるゆえの宿命である。

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清朝末式八卦掌は、現存流派に縛られない成立当時原点八卦掌

八卦掌水式門で指導する八卦掌には、名前がある。「清朝末式八卦掌」だ。

名前なんてどうでもいい?いや、国内主流の近代スタイル八卦掌と同一視されると問題があるため、この名をつけた。それくらい、清朝末式八卦掌と近代スタイル八卦掌は、別物体系なのである。

程派、尹派、梁派・・・それら著名流派に加え、八卦掌にはたくさんの流派がある。

そもそも「派」とは「派生」や「枝分かれ」のニュアンスを含む。

だから私は、自分が指導する八卦掌に、「~派」という名称はつけない。つけたくもないし、そもそも、~派という名称の入り込む余地がない。

なぜなら、私のたどり着いたものは、原初のままの、枝分かれする前の八卦掌だからだ(原初と近代に優劣はない。スタイルの違いである)。

「原初のやり方に忠実に従った原初のスタイルによる」の意味なら、「~式」こそがふさわしい。よって、清朝末式八卦掌と題うっているのである。私は、この呼び名を大変気に入っている(~派と呼ばれるのは、本当に嫌だった)。

この呼び名は、サイト上にて言うにとどめている。門弟にとって、このようなことはどうでもいいことだからだ。私に続く門弟は、各人思うように進むのがいい。

そもそも、弊門指導の八卦掌が、原初スタイルと言い切ることができるのはなぜか。

それは、各流派に共通して残っていた型・姿勢から推しはかり、そのうえで、30年以上もかけて実戦・組手・単独練習の果てに確信したものだからだ。他人の文献をを参考にしたからではない。現在の中国国内の著名先生の書籍にも、清朝末式八卦掌に関わる記述はなかった。隠しているのか、それは分からない。しかし書いてないのは事実である。

拳法は、書物での伝習は難しいとされる。すべてを書物から、では確かに大変だ。しかし、究極の達人先生から教わらずとも、(指導許可を得るくらいの実力を持つ)先生から、動作の仕方・手順を教わりさえすれば、あとは、ひたすら繰り返すことで、技の術理も含め、すべてを君の身体が教えてくれる、のも実感している。

私たちの身体は、あまりにもすごい有機体である。科学の力をもってしても複製することなどできない、奇跡の物体である。

その奇跡の物体が、教えてくれたものだ。「このやり方・・・いいな」「やっとわかった、こういうことか!」突然感じるその悟り・サインこそ、真実が分かった時だ。そのサインを積み重ねていき、たどりついたのが、この清朝末式八卦掌。だから「確信」しているのである。

もちろん、いまだに謎の部分もある。しかしそれは、これからの研究の果てに、きっと明確にわかるもの(つまり、引き続き、死ぬまで、ずっとずっと追い求める、ということだ)

よく人は言う。原点回帰ですか?原理主義ですか?と。いいや、違う。「清朝末期頃のスタイル」にたどり着くのは、ゴールではない。通過点だ。

私は、もっともっと先を見据えている。しかし、ここまで時間がかかり過ぎてしまったのも、事実。試合想定・強者使用前提となり、本来の八卦掌が持っていた最大の特徴から離れてしまった現在主流の近代八卦掌からの離脱は、想像以上に大変であった。

習っていた門を事実上追い出される形となり、当時は相当憤っていたが、考えようによっては、全く自由に行動できる、ということ。

事実、所属門を辞してからの技術の向上は、すさまじいものがあった。所属していた時は、梁派の技術体系に疑問を持ちながらも、それに追随する自分がいた。しかし今は、問題なく離れ、どんどん後退スライドし、縦横無尽に駆け巡っている。

練習の最中、敵前にとどまる練習を少しだけ行っている。その後、後退スライド術理に沿った清朝末式で練習をし始める時、いつも思う。「なんて自由に動くことができることか!」

私は気づかないうちに、著名流派の形式主義に陥っていたらしい

近代スタイルでは、敵の力とぶつかるのを避けられない。どこかしこで必ず、敵の力と積極的に抗する場面がある。その抗する瞬間をやり過ごす技法が、あまりにも難しく、成功を妨げる

やり過ごす技法を完璧にこなす人を、ほとんど見たことが無い。「相手次第」という極めて厳しい技術体系を克服するような技法は、相当習得が困難だ。

それには、膨大な対人練習(相手を必要とする練習)が必要となる。清朝末式は、最初こそ術理をマスターした人間の導入が必須であるが、その後は、対人想定練習(対人を想定した一人練習)でかなり上まで技術を上げることができる。しかし、近代における力とぶつかる瞬間を制する技術は、対人練習でないと独りよがりとなってしまう。

正直、近代八卦掌を練習している者の中で、対人練習を定期的に行えている人間はどれほどいるだろうか?私は、師の会に所属していた時、必ず、対人練習に積極的に挑んだ。

相手に圧倒されても、そこから得るもののために立ち上がって臨んだ。あれほど積極的に対人練習に挑んでいる人がどれくらい、近代八卦掌修行者にいるだろうか?八卦掌の経験者と手合わせをしたことは何度もあるが、対人練習をやり込んだと推定できる人に出会ったことが無い。

これでは力任せの攻撃をいなす技法は手にすることができない。「相手は体格がいいから仕方ないね」とよく耳にする!が、それは実戦では「死」もしくは「蹂躙」を意味する。私は身をもって経験したから間違いない。

これからますます、清朝末式八卦掌の指導を加速させていく。弱き者が立っているためには、このスタイルしかないと信じているからだ。

全く迷いがない。梁振圃伝八卦掌で指導許可を得た自分だが、指導許可をひっくり返され、一方的に苛酷な条件を付された経緯があり、梁派に未練すら湧かない。

個別指導科では、梁派近代八卦掌コースを新設している。しかし、当コースは仮入門制なしで教える(グループでの指導にも応じる)。仮入門制を採らないくらい、梁派の名にこだわってないということだ。(梁派近代八卦掌コースでは、それだけの履修修了で八卦掌第7代掌継人にはしない。護身や指導ができないからである)。

強者の力任せの攻撃に圧倒されているなら、弊門で清朝末式八卦掌を練習しなさい

女性に護身術は意味がない、と言われて行き詰っているなら、弊門女性本科で、清朝末式八卦掌の術理を学びなさい。

いじめで体格のいい複数人の同級生に、意に反する要求をのまされているならば、いじめ護身部の動画を参考に練習をし、遠隔地生科を利用して学びなさい。

本当に身を守ることができる護身術を学びたいならば、君が・あなたが、よほど体格や筋力等で恵まれてない限り、力がぶつかるスタイルの格闘技をもとに作った護身術では、護身を果たすのは難しい。清朝末式八卦掌の護身術そのものの技術体系を味わいなさい。

後退スライドし、縦横無尽にかけめぐり、護身のみであれば、頃合いをみて、キロメートル単位で離脱しなさい。確実に護身を果たすことができる。既存武術のような小手先の手技で防御するな、清朝末式八卦掌の術理による、圧倒的な移動距離で防御せよ。

趣味やファッションで護身術を学ぶなら、それはそれでいい。しかし、本当に護身が必要ならば、力がぶつかるスタイルは、対人練習環境が整っている道場でない限り、避けよ。

もし一人で練習するしかないなら、八卦掌水式門の入り口を叩け。清朝末式八卦掌の術理を学びに来なさい。やる気のある者との出逢いを楽しみにしている。

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久々の八卦連身牌(盾)指導~習った背景・盾の準備

前の記事で、少し牌術(はいじゅつ)について触れた。牌術とは盾術のこと。主に、虎衣藤牌兵の伝説について触れたと思う。

今回は、八卦牌を連身牌として習ったいきさつと、実際に練習するための準備について、少し触れていきたい。伝説話から、実用への橋渡しである。

八卦連身牌(はっけれんしんはい)。名前は適当である。なぜなら、教えてもらった先生も、そのように(おそらく)呼んでいたし、その都度、呼び方も変わっていた。

その技術を指導するとき、「八卦の連身牌だ、牌は・・・盾ね」と言っていたことだけ、明確に覚えている。

教えてもらった時は、まだドラゴンクエストがメジャーでなかったときだ。日本で盾を持った戦いはなじみがない。当時から、日本と世界に歴史についてはそれなりの知識があったため、盾術を教えてもらった時は、強烈なインパクトを受けた。

先生は片言で、「タイカーソルチャー」と言いながら、虎の動きを模倣し、その後、生徒さんの御年輩の方らに手拍子をさせながら虎衣藤牌兵(こい・とうはいへい。この呼び名は後で知った)の演武を見せてくれた。あの時の驚きと衝撃は忘れられない。カッコよかった。

次に教えてもらった時は、なぜか牌術のまた呼び名が変わっていた。その名を覚えていない。今となっては、そもそも八卦掌に関係した牌術なのかも不明である。

いろいろと八卦掌の文献(中国語の文献)を見たが、八卦の牌術について記されたものはなかった。だからといって、「そんなものは八卦掌ではない、違う。」と決めつけるは当然しない。

衝撃と、魅力、そして高い実戦性は、長年の練習で実感した。きわめて後退スライド術理と相性がいい。そのことは、わたしにとって、習った牌術が八卦掌のものであるという確信的なよりどころである。

だからあの時、横方向への、半円軌道の打ち方を教えてくれたのか(ホンロウ勁)。先生は、形意拳を教えるために、劈拳を教えたのではなかった。であるならば、斜めに進む劈拳など教えない。斜進の劈拳には、八卦掌の打ち方の一つであることと、それが牌術における重要技法であったために触れたのだ。意味があったのだ。

東京まで行って、八卦の連身牌術だ、と言われながら八卦掌の先生から教わったこと。それはきっと、大きな縁であり、意味がある。自分の求めてきた八卦掌のスタイルに到達し、技術も備わり、八卦掌の本当に意味、何が重要で何がそうでないかが分かった今でも、牌術を練習する必要性を感じる。

定式八掌に中にも、牌術でなければ説明しにくいものがある。そして、相性のいいものもある。仙人観棋掌、そして・・意外と、推磨掌。推磨掌は、手で刀を持ちかえるより、盾と刀の両方で、その都度の位置に対応する動きをすると、大変やりやすいのだ。

牌術技法は、武器術の必須ではないが、術理の説明では必ず登場する。よって、興味をもって取り組み、今でも続けている門弟もいる。

興味をもって練習するには、当然、盾が必要となる。

盾など、当然そこらのショッピングセンターには売ってない。かといって、中国から本物の藤牌を取り寄せるのも大変だ

よって自作となる。

私は、ホームセンターで必要なものを買ってきて、一気に仕上げる。ゴミ箱のフタで作った盾である。ゴミ箱の青いフタであれば、60センチほどの盾を作ることができる。

  • ゴミ箱のフタ(直径60センチ)
  • 木の取っ手
  • ソフトまな板(大サイズ)
  • アウトドアとかで使うベルト

実際に藤牌兵が持っていた盾は、直径が80センチくらいの大きなもの。野戦時、藤牌兵が前衛に立ち、盾を掲げ身を隠しながら敵の陣形に突撃をする。あとの槍兵らは、後からついていくのだ。突撃時、敵陣から飛んでくる弓や、待ち構える敵兵の長い槍や騎兵による手持ち槍による突き攻撃を防ぐため、藤牌は必然と大きなものとなる。

時の流れとともに、この戦法は主流から外れていく。列強の中国侵略時、虎衣藤牌兵は、そのままのスタイルで近代装備と近代戦法で武装・編成されたイギリス軍と対決。

藤牌は、弓矢・槍による刺突攻撃・火縄銃の弾丸には、それなりの防御力を持った。しかしイギリス軍の主装備は、マスケット銃とカノン式野戦砲・榴弾式野戦砲である。マスケット銃の弾丸は藤牌を突き破り、榴弾式野戦砲の炸裂弾の破片は、四方から無差別に清朝兵を殺傷する。

下の写真は、アヘン戦争時の履門(アモイ)攻防戦である。藤牌営らを含めた清朝正規兵営は、イギリス軍のアイルランド連隊をはじめとする近代軍団の優勢な火力により押され、多大な犠牲者を払った。どさくさにまぎれたイギリス軍・野盗らによる略奪・暴行などで、周辺は蹂躙され多くの惨劇を生む。

「虎衣藤牌兵」の名は、「栄光の部隊」から、「悲劇の部隊」の代名詞へと変わり、福建省周辺で伝説となり、その舞が民間に伝承されていく。

水式門では、盾の代わりとなるものをもって戦う場面の練習であるため、そこまで大きなもので練習しない。

しかし、大円に沿った刀の円孤軌道による斬撃を実感してもらいため、大きな径の盾(40~60センチ)を使用してもらう。動作を学ぶには、動きは大きい方がいい。大きい盾の円孤で練習すれば、動作も自然と大きくなる。

これは直径60センチのゴミ箱フタでつくった牌である。

一般的には、アームシールドとなる。アームシールドを持った手は、八卦掌の手法で操ることができれば、敵に勝手に当たり、ダメージが大きい。

振り回せばいい・・・簡単そうに思えるが、丸い物体を振り回せば、徒手の場合よりも腕の軌道を身体より離す必要がある。徒手の場合を同じように降っていたら、当然盾の端が自分に当たってしまうからだ。

基本は、後退スライドからの斬撃である。なるべく身を牌の後ろに置き、牌の外径に沿って刀を半円を描きながら斬り下ろす。

上からと下からの両方ともを練習する。持ち替えはできない(持ち替えている暇などない)。

持ち手を変えないで、敵に近い側の手で、敵前で居着かず、歩きながら対処する練習をするのだ。体幹を鍛えるのに、極めて大きな効果をもたらす。

八卦掌の移動遊撃戦における牌では、守るのは、側面・前面だ。後方は、自分は勢を保って猛然と進みながら攻防するため、いることが分かっていても、とにかく前に進む。

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虎衣藤牌(盾)兵刀術は、後方スライド撤退戦と相性がいい

八卦掌は、「掌」となっているが、多くが武器である。

できるかぎり武器をもつ。武器は、現代では「物」で代用されなければならない。武器の携帯は、(日本では)許されないからだ。

しかしもし武器を携帯していいならば・・・・私は円の盾と、棒を持つ。棒は、刀ではないの?と言われるが、刀だと、自分も相手も殺傷してしまう。

平和な時代に生きている私は、人を刃物で傷つけるなど、許されても想像できない。いや、絶対したくない。よって棒である。

水式門の指導する八卦掌は、清王朝末期頃スタイルの八卦掌である。刃物武器で殺し合っていたころの殺伐とした時代のスタイルである。技法は単純明快。難しい理論はいらない(当時の中国の民衆の識字率は大変低く、それが机上学習に対する人々の関心を低くし、理論は完全に必須ではなかった。弊門では、今でも理論は任意である。)

単純明快な技法は、すぐに戦う必要があったから。大変天国の乱によって何百万単位の人間が命を落とし、清朝の権威が失墜し、治安が乱れた頃に、年単位でしか習得できない技術体系など栄えなかった(家伝武術のみである)。

盾兵は、当時の軍団の重要な構成要素であった。戦場という極限の中で生まれ、用いられてきた武器術なのだ。

清王朝康熙帝治世時代、清は近接のロマノフ朝ロシアと、たびたび国境紛争を起こしていた。

1600年代は、武器も刀剣が主流であった。銃は火縄銃・大砲は、砲筒内の火薬の爆発で、鉛玉を飛ばし当てるのが威力のメインの時代だった。

そのような時代背景もあって、今日触れる虎衣藤牌兵は、その刀剣術と牌術(盾術)で、ロシアとの国境紛争において後世に名を残す活躍をした(アルバジン戦争時のアルバジン包囲戦において、藤牌を使った伝説的な働きをし、ネルチンスク条約の締結に貢献をした)。

詳しいことは不明だが、台湾征服後の鄭氏王朝接収の際の、王朝直下の藤牌兵部隊が前衛だったと言われている。

清王朝においては、虎の毛皮に身を包み、虎の顔を模した藤製の盾を持ち、鍛えぬいた刀剣術で、敵に斬り込み、牌で身を守った。虎の毛皮と盾は、敵の軍馬を恐れさせるためだったと言われている。

東京で名もなき先生に拳法を習っていた際、その先生は牌術の使い手であった。その印象がとても強かった。

現在も、中国福建省付近では、虎衣藤牌兵の武術(舞)が伝わっている。成人後、先生の消息を追ったが、結局わからずじまいであった。

しかし虎衣藤牌兵の武術を知っているならば、福建省付近の出身かもしれない(しかしやっていた徒手武術は、形意拳や八卦掌などの北の拳法だった)。

実はこの藤牌術、後退スライド撤退戦(単換掌理)対敵身法と大変相性がいい。後退しながら盾で受け、盾を越えて突き刺すホンロウ勁による刀操術を用いるならば、我が身を盾の中に収めながら攻防できるのだ。

使う場面や用法は限られるが、護身に徹するならば、きっとこの技術は何らかの形で役立つだろう。

・・・ということで、私は頻繁に藤牌術を練習してきた。盾は、ホームセンターで売っている大きなザルを3枚くらい重ね、それを結束バンドで絞め、後ろに腕を通す輪を作り、持ち手を付する簡単なもの。

盾で攻撃する技術を集中的に磨いていた時は、ゴミ箱のフタで作り練習をしていた。この青い盾は、つい最近まで持っていたが、ついに壊れてしまった(耐久性はなかなかだった。ナイフくらいの斬撃ならば、十分に防ぐことができる)

指導の中で、子供たちにも教えた。刀術専門の子は、藤牌兵刀術を大変気に入り、今でも練習をしている(目立つのがたまにキズ)

牌術は八卦掌の必須科目ではないため、指導は、一通り修行が終った承継人の希望者のみに教えている。今まで教えたのは、二人のみ。二人とも刀術が好きなため、非常に熱心に取り組んでくれた。

演武の中国盾術では、身体が盾を乗り越えて斬撃・刺突を行うが、実際は、盾から身を乗り出さない。乗り出すと、その瞬間に斬られるからだ。盾操法の発達した西洋では、この辺は徹底している。

水式門の藤牌術も同じである。よって、直線的な攻撃はできない。そこで登場するのが、ホンロウ勁である。

ホンロウ勁を使用する代表的拳法が、形意拳である。形意拳の劈拳は、ホンロウ勁で打つ技だ(だから最初に取り組み、修行期間を通じてずっと学び続ける最重要技なのだ。名人の逸話に囚われ、初心者のくせにホンロウ勁の学習がしにくい崩拳をやりたがる連中が多すぎる)。

東京・清瀬の先生も、形意拳をやっていた。ホンロウ勁は後の八卦掌の先生にも習ったが、私はその時すでに習っていた(当然ホンロウ勁という名前など教えてもらっていないが)。だから劈拳とホンロウ勁は、それなりにできる。指導許可は得てないから、形意拳の名で生徒は募集出来ないが。

ホンロウ勁による半円軌道の打ち下ろし操法にて、盾を下弦軌道で乗り越えて(もしくは下から、刃先を上弦軌道でまたがせて)刃先を相手に届かせる。牌術はその技法がほぼすべてである。

牌術を練習することで、カバンなどをもって盾とし、我が身を守りつつ戦う概念を獲得できる。

コンビニでバイトをしていた時も、番重(ばんじゅう。商品を運んできたパレット)を使用して戦う方法を思いつき、ホームセンターで番重をかってきて練習していた。

虎衣藤牌兵刀術を習うことが最も重要なのではなく、盾の代わりになるようなもので戦う発想と、事前準備が大切なのだ。

水式門に来たらならば、是非とも藤牌兵術も習ってもらいたい。

八卦掌水式門富山本科イメージ