代表・水野からのメッセージ」カテゴリーアーカイブ

どこが悪い?行きたい場所へいつでも自在に行ける技術が。

自分は、『行きたい場所へいつでも自在に行けること』を目指して、練習してきた。

誰よりも練習したかどうかはわからない。しかし自分の出来る範囲を超えて、練習してきた。

生活レベルが最も低いレベルをまたいでも、マイナスになろうとも。

こういうことって、人との比較じゃない。自分次第で完結したい。人との比較ほど意味のないものはない。清朝末式八卦掌は、護身術で『他人次第』ではない。目指すところは『自分次第』の領域だ。

『自分次第』として目指す境地・段階。それは、『自分の行きたい場所へいつでも自在に行けること』ができる段階だ。

技術とか、メンタルとかで相手に勝つとか、ではない。武勇伝を見聞きすると、たいがい、相手をねじ伏せたりする話がおおい。

そうではなく、相手が何を言ってこようと、どのような立場だろうと、どんな技術を持っていようと、その場をやり過ごす技術があり、その場から離脱したり、相手から逃げ続けて長時間時間稼ぎができるなら、それでいいではないかと考えた。

そしてその段階を目指し、焦点を定め、練習してきた。気が楽になったね。敵の攻撃を、成功するかどうかわからない手技で対抗する不安から解放されたから。見た目はカッコよくもない。

逃げてばっかりと、八卦掌の目指す深いところを理解しない人には呆れられるが、そんなものはどうでもいい。心の平安、我が身安全第一、弱者なりの護衛方法を極めたいと思って、まい進してきた。

『自分の行きたい場所へいつでも自在に行けること』ができる段階に至るならば、私はどのような境遇に至ってもいいと考えた。そして、あと少しのところまで近づいてきたとき、息が上がっても動き続けることができるようになった。

息が上がっても、振り切ることができるようになった。そして自分行きたい場所へ、行きたい、行こうと判断した時、行くことができるようになった。行くことすら考えないで、無意識に、パッと目に入った誰も居ない場所へ、言い換えるなら、己の感覚が命じる敵のいない安全な場所へ、行くことができるようになった。

「本当に、野生なんかから・・・倒したのかよ」と言われた時、

「倒してないですよ、逃げてくれただけ。すぐ動ければ、やられないですね、見てみますか」

と堂々と言うことができる

野生との戦いをなめているのではない。野生の前では、人間など逃げるのみだ。野生の前では、武術のスキルなど、ほんのささいな差でしかない。

しかし、武術によって磨いた『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルは、野生の前でも、瞬間的な回避行動の発動として、威力を発揮する。この部分だけが有効である。

最近上げた動画は、その部分について少し触れた。瞬間的に、大きな力を発し、今居た場から少しでも移動する。これも自分次第である。瞬間的の大きな力で相手を打つ。当たらなかったらどうする?攻撃なんて、ほぼ当たらないもの。であるなら、自分を安全な領域に移動させる方に、発力(発勁)を使った方が確実ではないか。

今回の動画でも一定数のマイナス評価がつく。マイナス評価をする行為ほど、バカげたことはない。自分次第の領域で完結させるための発力に、なんのケチがつけようか。

この領域に至るまでに、どれほどの練習をしているか、どれほど考え抜いたか、どれほど繰り返したか、そんなことを想像もできず、ただ人のしていることにケチをつけるつまらない人間が嫌いである。

自分次第であり続ければ、たとえ誰かが、強大な力で人を倒すことを売りにして威勢が良かろうと、それはそれ、とみることができる。

自分のところに人は集まらないかもしれない。ロマンがないから。でも八卦掌なんて、護衛護身術。見世物ではない。自分を守ることで大切な人を囮(おとり)護衛できるなら、私はそれで必要十分だと確信する。

よって、人を強大な力で打つ練習などしない。手技で真っ向から、華麗に防御して攻撃するコンビネーション練習などしない。斜め後方へ安定して移動しながら、『勢』を保って対処する方法ばかりを練習している。

決して簡単ではない。難しいし、身体軸の安定が求められる。やればやるほど、『翻身旋理・刀裏背走理』の重要性を痛感する

まだ足りない。自分の目指す領域に到達すると、また新たな行きたい場所が見える。このシチュエーションで、より完成度を高めたい、そう思う。この道具を使っても、この術理で何なく実行したい、と思える。そう考えて、刀も、長棒も、双短棒も、連身藤牌も、扱ってきた

私の仮想敵は、野生である。イノシシである。鹿である。カモシカである。とんでもな筋肉とキバ・角で、命がけで立ち向かってくる脅威の敵である(熊は想像もつかない。逃げることすらも想像できない)。

『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルを磨いて磨いて、その場から回避する。その技術があることで、職責たる「闇を照らす」ことで犯罪を未然に防ぐことができる。野生が怖いからといって、闇を照らさないわけにはいかない。その職責を果たすために、『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルは欠かすことができないのだ。

その視点で、発勁動画もみて欲しいものだ。自分が身体移動に、瞬間的に大きな力を使う理由を。

これは、自分の動画に定期的にマイナスをつけて満足しているどうしようもない阿保たれに言ってるのではない。清朝末式八卦掌に価値を見いだしている、才能ある未来の仲間に言っている。

ブログ内容は、すべてこれらの天才に向けて発している。彼ら彼女らになら、届く。

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清朝末式八卦掌恩師・楊先生との思い出

私のサイトに、宦官(かんがん)として宮中に入っていた頃の、董海川先生のイラストが出てくる。

これは、清朝末期成立当時の頃の原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)を私に指導してくださった恩師・楊先生をモデルにしている。

※楊○○先生。下の名称の漢字が不明である。当時私が記したメモ帳は、ほとんどがひらがなだった。技の名称も皆ひらがなのため、八卦掌水式門サイト上で記した技の漢字も、従来とずれている可能性がある。突然教室が無くなったこと、名前公表について先生の許可を当然得てないことから名字での呼称にとどめる。

董先生は、諸国漫遊の中で、異人と出逢い、八卦の術を授かったという。異人とは、平たく言えば、外国人・異民族のことだ。

当時の中国には、様々な民族がいた。そして外国人も。日本人もいたであろうし、インド人、ヨーロッパ人、ロシア人もいた。

漢民族でない誰かに、あのハイブリッドな拳法を習ったことは、一種のロマンである。そして私も、清朝末式八卦掌を、私とって「異人」の、楊先生に習ったのだ。

私が発する伝承証明書に、楊先生の名前は載せない(私の八卦掌のメインの先生の名前は当然記載している)。なぜなら、楊先生に習った期間は4年近くに及ぶが、内弟子となったり、指導許可を得たりしてないからだ。

事情は不明であるが、私が高校生の時、突如先生の道場が無くなり、清朝末式八卦掌の指導を受けることが無くなってしまった。

無くなる一年前近くから、多くの武器術を習うようになった。刀術から始まり、双身槍、遊身大刀、双匕首、果てに、連身藤牌まで。連身藤牌は、先生の演じる虎衣藤牌兵演武がかっこよかったので、なかば積極的に頼み、教えてもらった。

先生が高齢者の方々向けに指導している公民館っぽい施設の近くの広場で、八卦掌を習った。当時から外で習っており、習うのは外であることが、当時から当たり前だった。

今思えば、教えることができなくなるから、愛知から東村山まで習いに来る熱心な少年に、出来る限り伝えてくれたのだろう。

私は大学に行き、ある程度お金を稼ぐようになった(夜間大学だった)ため、機会を見つけては上京し、何度も何度も探した。

しかし結局見つけられず、お会いすることはなかった。大学を卒業し、結婚などを経ても、なお探し続けた。

私の八卦掌のメインの先生は、北京の高名な先生から指導を受け、正規ルートで伝承をする一種のエリートである。中国の体育大学を出て、有名な先生に複数師事している。楊先生のように、片田舎で、父親や祖父から習っただけの無名先生とは大きな違いである。しかし、メインの先生は「八卦掌は多人数戦専用の拳法」と言うなれど、正規に指導許可を得て八卦掌の第6世となっても、対多人数戦の技法を教えてくれることはなかった。

私が信頼されてなかったのか?とも思ったが、その先生の同門の有名先生の指導内容から、そうでないとわかった。

同門の先生は、公のメディアで、「八卦掌は螺旋の拳法」と発言をしており、明らかに多人数戦ではないことが分かったからだ(それは間違っている、とかではない。スタイルの違いだけなのである)。

まさかメディアで、指導しているものと違うことを言うまい(もしそうならば、それはそれでかなり問題である。一部の中国人の先生は、金をとってもへっちゃらで、日本人に違うことを指導するが)。

私が習った梁派は、対一人・対他流試合・強者使用前提の近代格闘術スタイルだったのである。清朝末式八卦掌は、「勢(せい)」の拳法である。目的からして、全く違うのである。目的が違うならば、当然、技術体系も違う。

全く無名の、福建省アモイ近郊の農村出の楊先生の道場は、名目上、太極拳の道場だったけれど、単換掌・双換掌は、斜め後方にスライドをしていたのだ。横に下がるのではない、斜め後方スライドなのである。これは大きな奇跡だったと感じる。

私が八卦掌を独学で練習していることを知るや、特別に、八卦掌を教えてもらった。その頃は、斜め後方スライドなど知るはずもない。

先生に就いて習うのは、楊先生が初めてだったから、八卦掌は、後ろに下がりながら去り打ち・後ろ斬りをする拳法だとなんとなくわかったし、そう思っていた。

※独学当時の佐藤先生の本は、近代スタイルだった。しかしその本からも、後ろに下がるのではないか、と薄々気づいていた。楊先生に習った時「やっぱり下がるのだな」と納得した記憶がある。

楊先生に出逢ったのは、まさに運命だったと思っている。当時は、日本に八卦掌の道場など無く、太極拳のクラスがある程度。

その中で、八卦掌に出逢い、またそれが、斜め後方スライド技法の残る、原初式八卦掌だったからだ。

なぜ楊先生の八卦掌は、近代格闘術化しなかったか?それは、先生が八卦掌を習った経緯にある。楊先生の実家は、先生によると、福建省アモイ近郊の片田舎(失礼)だったから。アモイは大都市だけれど、そこから何日単位で移動するほど、外れていたようだ。
 
八卦掌の本場たる北京や、近郊の黄河流域付近であれば、八卦掌を公に指導する有名先生の道場も多い。

そこで名をあげるには、他流試合で強い必要がある。移動遊撃戦で撤退戦を演じている場合ではないのだ。そして、他流派との交流の中で、近代格闘術化していくのは自然の流れである。

しかし楊家は、福建省の田舎、という孤立した土地柄にある。割と外界(特に八卦掌界)とは隔絶された状態で原初のままのスタイルが残ることになったのだと推測される。

私にとって、弱者護身のスタイルを学び、指導者となることは、目的を達成するための、大きな現実的目標であった。よって先ほど触れたように、楊先生を探し続けたのである。

メインの先生に習った近代八卦掌は、私の子らに教えることはなかった。そういう意味で、彼女らは純粋に昔日スタイル八卦掌家である。子らの修行の完成をも願ったゆえに、探し続けたのだが、叶わなかった。

日本の中国拳法愛好家は、やたらと先生の出自にこだわる。そして練習も大してしないくせに、有名先生に師事していることに異常に固執するのだ。○○先生伝という上っ面の看板だけで実力を判断し、使えもしない技術ばかりを増やしている。

八卦掌の門を開いていると、「○○先生に紹介状を」などというくだらない問い合わせがまれに来る。「○○先生は紹介状なんて条件を掲げてないから、問い合わせて習いに行けばいい」と最初は答えていた。しかし最近は無視している。

有名先生に最初から特別扱いをしてもらいたいのだろう。しかし、特別扱いしてもらう方法はただ一つだ。門に入り、地道な基礎を積み重ね、練習に誠実に向き合う長きの実績で、認めてもらうことだけなのである。私が楊先生にそうやって認めてもらったように。

私が梁派の継承の道を捨て、その記載をサイト上から消した以後は、本当に問い合わせが減り、そして無礼者の問い合わせが増えた。舐めているのだ。

しかし実戦を幾度も経験した者として言うならば、有名先生に師事していることなんかは実戦では何の役にも立たない。暴漢やならず者、輩(やから)らは、有名先生や達人の名前なんて一切知らない。そもそも、「○○先生にならったんだぞ」なんて馬鹿げたことを言う暇もない。鎌倉武士じゃあるまいし。野生動物なら、そもそも言葉も通じない。

楊先生は、そのような日本の愛好家からすれば、何ら価値もない先生であろう。しかし私にとっては、ずっと探したい人であり、追い求めたい先生なのである。

落ち着いたら、アモイの近郊にも行ってみたいと思っているくらいだ。きっとご存命であろう。およそ60代後半くらいであろうか?ぜひお会いし、あの時のように身振り手振りで習ってみたい。

今私は、楊先生から習った楊家伝の技術を整理している。近代梁派とごちゃまぜになっているからだ。楊家連身藤牌の型を公開したのは、その一環である。

楊先生から習った技法は、私の代で責任をもって整理し、公開し、後代に伝えるつもりである。連身藤牌は、すでに子らに伝えたが、その他の技法は、まだまだ伝え足りない。

清朝末式八卦掌全伝」のカテゴリーにて、術理を公開し、修行者の参考に供する。また機会があれば見て欲しい。まだまだ未完成であるのはご容赦してほしい。

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春先の富山~立山連峰に匹敵する悲しく美しい人形山

春先富山を尋ねる際、見たいもの。それは、立山連峰と人形山。

氷見と言えば、富山湾上に浮かぶ立山連峰である。この景色を自身の生活の一部にしたくて、氷見に移住してくる人もたくさんいるらしい。

私も、何度もこの絶景を見たが、何度見ても、キレイだと思う。初めてこの場所に連れてきてもらったときは36年前。突如の訪問だった。

免許取りたての家内によって、海に浮かぶ立山の存在を知り「式人に見せてあげる」とのことで、家内の妹と、私の三人で氷見に来た。

北陸道しかなかった時代。とんでもなく時間がかかったこと、そして、6月だったからうっすらと山の稜線しか見ることができなかったこと、家に帰ってひどく怒られたことを鮮明に思い出す。

その人と一緒に見ることが当たり前になり、立山を見る感動が少しづつ薄らぎ、見ることにこだわりがなくなってからしばらくして、一緒に見ることが難しくなり、そして一緒に見ることができなくなって、気が付いたら一人で見ることになって、改めてこの景色の美しさに気づいた。

見える時はここしえに美しく、気づいたら、また全く見えなくなって・・・そこに在るのに、見えない。

意図せずして見えることがあるが、心底見たいと思った時は、なぜかずっと見ることができない。今の自分の状況に、重ねてしまう。富山県人でない私にとって、ないがゆえに特別な存在となってしまった。

今は、感動ではなく、胸に迫るものがある。美しさは何ら変わらない。自分と自分を取り巻く環境が変わったようだ

「今日は山は見えないのか」「今日は山は見えるなぁ」これらは、私の無意識の口癖らしい。たまに、一番弟子に「また言ってる」と指摘され、言ってる自分に気づいていない自分に驚く。富山本科の門弟は、この口癖を耳にするかもしれないが、気にせず聞き流して欲しい。

むかしよく足を運んだ雨晴海岸には、今は立派な道の駅ができて、多くの人が訪れている。なぜか電車好きの三番弟子が、はしゃいでキハ40(という気動車の名前)を撮っていた。

富山の山は、私にとってはかないものである。

昔、小学生の頃、日本昔話でやっていたお話。五箇山の人形山。にんぎょうさん、にんぎょうやま、ひとかたやま、色々と呼名があるようだ。

「平村(たいらむら)の貧しい農家に、農業の無理がたたって父親を亡くした、幼い姉妹を持つ母親がいた。

母親は、その姉妹を育てるべく、自身が信仰している白山権現様にお祈りしつつ、毎日懸命に働いた。

そしてその姉妹も、身を粉にして働く母親の姿を見て、懸命に働く。しかし母親は、無理がたたって病に伏す。姉妹はそれでも、白山権現様にお祈りしつつ、母親の分も働きつづける。

ある時、姉妹は同時に、白山権現様から夢の中で、母親の病を治すいで湯があるから、そこに母親を連れいけと、お告げを受ける。姉妹はそのお告げ通りに、その湯に母親を何度も連れていき、その甲斐あって母親は病が回復に向かう。

姉妹はある日ふと思い立って、白山権現にお礼参りをしに行こう、と思い立ち、山に入る。しかし山は女人禁制の厳しいおきてがあり、それがためなのか、帰りにひどい吹雪に巻き込まれる。姉妹は母親のもとに、戻ることはなかった。

辛く悲しい冬が過ぎ、その母親が残雪残る山をふと見ると、そこには、手を取り合って天に昇るかのような、姉妹の形をした雪形が残っていた

地元の人は、春先になると必ず現れるその雪形を悲しみあわれみ、いつしか山を「にんぎょうやま」と呼ぶようになった・・・」

そのあまりに悲しい話を聴いてから、いつしか、その雪形を見たいと、何度も通った。そして何枚も撮った。春先富山の来訪時には、東海北陸自動車道では五箇山インターで降りて、その雪形を見に行くのが恒例となった。

姉妹が、まるで今自分が置かれている苦しい現状から解放され、手を取り合って共に天に向かって旅立つかのような形である。その形があまりに悲しい。

「今でも見えるのがすごいよね。なんかとても不思議」といつの時か、二番弟子がそうつぶやいた。

「ただ、嬉しくて、お礼がしたかっただけなのに・・・今で本当に良かった」と一番弟子が続く。

本当にそう思った。昔話を聴くと、神が畏怖の対象であったのが分かる。時に願いも聴いてくれるが、何か約束を違えるようなことをしてしまうと、その時の事情も何もなく、容赦なく・・・。まさに、自然の摂理だな・・・と。

この話はきっと江戸時代の頃のお話しだろう。ある時、何らかの形で大切な人を失った誰かが、もしくはそのような話を知っていた誰かが、山に見える残雪を見てその形に大切な人の姿を重ね、ひとに話し、それが広まったのかもしれない。

しかし長い時を経てもなお、それを見る人に悲しみやはかなさの感情を引き起こさせる。

もしその話が本当にあったことであったなら、全く同じでなくても本当にあったことを題材にした話ならば、今なお多くの人の心に残って、心を揺さぶっていることは、少しの救いではないか。

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北陸富山本科開講。前人未踏だからこそ、私は行動していく。

2024年4月21日(日)、24年度の北陸富山本科が開講する。

北陸富山本科は、少数精鋭の状態だ。今北陸富山本科に来た者は、少数精鋭の中で、内容の濃い指導を受け、そして達人へと駆け足で上がっていくだろう。

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富山本科門弟は、行動した。だから八卦掌の術理に、ハイペースで近づいていくのだ。

行動こそ、すべての成果の源なのである。

あなたはどうだっただろうか?行動できただろうか?

草創期門弟が言っていた。先生の八卦掌が受け入れられないこと。

それは、既存のものと違うから。前人未踏の領域へと進んでいく道だから。

八卦掌水式門の八卦掌は、八卦掌成立当時の、「転掌」だった頃のままの八卦掌。よって、全く新しいものではない。

しかし、国内外の八卦掌は、そのほぼすべてが、近代化した流れの果ての八卦掌であり、本来の八卦掌の目的から大きく移動した八卦掌である。

悩んだ時期もあった。人にあまりにも受け入れられない。そんな時、「自分のやっていることは、必要ないことなのでは」と。

間違ってないのは間違いない。八卦掌誕生から100年以上たった異国の地・日本にて、原初のスタイルに気づいた自分には、八卦掌と生涯関わっていく運命があるのだと確信している。

なぜあの時、同級生に対するいじめがひどくなりかけた時、八卦掌に巡りあったのか。

なぜ初めて指導者に習った時、その指導者が、力のぶつからない、後ろに下がる技術を知っていたのか。

なぜ自分は弱かったのか。弱かったことが重大な結果を招き、弱者護身の強烈な動機へとつながった。なぜそのような強烈な動機を持つことになったのか

認めたくなかったが、やはり運命的なものをかんじずにはいられなかった。

認めたくない点。武術ごときを習得するきっかけなんかに、かけがえのない人の悲痛な経験がなってしまったことが認めたくない。この人の悲しい経験があったから、私が八卦掌の原初の姿に達したのは、間違いない。しかしそれを考えたくなかった。

武術の成就ごときのために、人の犠牲なんていらなかった。絶対にいらなかった。もしそれが、神様とか、宇宙の意思とかなら、なぜそんなことをしたんですか。あまりにもひどいじゃないですか。もし時を戻して、過ちとかを修正できるならば、私は間違いなく、戻っていじめ自体をなくしたい。

いじめがなくなって、同級生が悲しいことに翻弄されなかったら、私は八卦掌を習得することもなかっただろう。

それで全くいい。これまでの積み重ね、八卦掌の技術が無くなってもいい。そうすれば、この、どうしようもない無念な現実も失くすことができる。あの時のことがなかったなら、きっと今、どこかで、私のはるか上で君臨して輝いていたあの笑顔の人が、幸せの中でどこかの場所で、素敵な人と存在し続けてくれていただろう。

それがたまらなく無念。身を切られるとはこのこと。自分の今の苦しみとかなんてどうでもいいこと。とるに足らないこと。自業自得だから。

戻すことも、やり直すこともできない。ならば・・・あの事実を、せめて、意味のあったことにしたい。でなければあまりにもむごいじゃないか

意味あることにするためには、弱者として招いてしまったことに、向き合う必要があった。向き合うこと、それは「弱者でも、受け入れられないものに立ち向かい、克服することができる方法」を確立することだった。

「弱者は、強い者の思惑を甘んじて受ける運命にある」だと?

冗談じゃない、絶対に屈しない、絶対に認めない。思いやりのない、強者の理屈だ、認めない、ゆるせない。

弱者でも、きっと道はある。それを私がこれからも確立する。

その方法が、地味で人気のないものとなっても、地道に積み重ねたならば、きっと護身できる、身をまもることができる、大切は人の盾となることができる、一筋の光として提供する。

その決意が、私を、人と違う道へと導いた。

これから先も、きっと変わらない。この道だ。この進路だ。

私のプロフィールページに載っている、苦しみが始まってしまった渦中における、あの、一時の安らぎの笑顔。

氷見の海で見た、あの笑顔。水式門の名前をくれた時の、あの笑顔。あの場所にまたあさっても立つ。北陸富山本科の中で、立つ。

さあ、2024年の新しい時が始まる。伝承に全力を尽くす。この日に備えて練習をしてきた。最高のパフォーマンスを見せて、門弟の良きイメージであり続ける覚悟だ。これは私の、最大の実戦なのである。全国の勇気ある者たちの見本であり続けるための、最大の実戦が、今年もやってきた。

これからもずっとずっと、走り続けていきますよ。とりあえず明日、会いに行きます。この冬のこと、報告します。

この日のために、冬の間、駆け抜け続けてきた。さあ・・・富山だ!

弱みを強みに。逆転発想の清朝末式八卦掌~女性の護身具携帯

女性は男性に比べて筋力等で、格闘の際に不利となる。

男性の力づくの攻撃に押し込まれる。護身の場でもそのようにとらえらえれる。そこを強みに変えることで、屈強な男性から生存する活路を見いだす。

女性=弱者=人を襲ったりしない=護身具の携帯に、寛容性が認められる(男性はほぼ認められない)。持つことに、一定の正当性が認められる。

身の危険を感じる事態が発生している女性、もしくは、仕事等で人気の居ない場所を歩くことが常態となっている女性は、護身具を持つことにしっかりとした理由があるのだ。

男性に、その正当性はほぼ認められない。

そこを優位と捉える。常に持ち歩く可能性ある道具と捉え、その使い方を事前に、徹底的に習得しておくのだ。『事前の準備』という最強のアドバンテージをもって、体格差・筋力差をしのぐのである。もっと分かりやすく言えば・・・

社会的に弱い立場=護身具を持つことに正当性が認められやすい=危険が予想される状況で護身具が携帯できる=危険時に持っている可能性の高い道具として、その使い方を事前に練習する目的意識が持て練習に身が入り上達する=有事の際に、練習を積み重ねて得た動きの洗練さというアドバンテージにより、筋力・体格をしのぐ優位さで対応できる

である。

持つべき護身具(持てる可能性のある護身具)を決めたら、その護身具を危険が降りかかることが予想される場合に携帯することを前提に、使いこなすための練習をひたすらに積み重ねるのだ。

護身具でなくてもよい。女性なら、傘を常に持ち歩くことができる。日傘だ。そして、肩が凝りやすいなら、どこでも背中部分まで押すことができる、すりこぎ棒のようなマッサージ棒を持つこともできる。男性は、そんな棒を持っているだけでも、職質の際、疑われたりする。

護身具携帯につなげるプロセスは、男性では難しいことが分かっていただけただろうか。護身具を持つことが基本的に許されないため、あてにできない。あてにできない護身具の練習に目的意識を持つことができないから、練習のモチベーションが上がらず、危機感すらもわかず、大して上達しないのである。

これまで述べたことは、まさに『逆転の発想』なのである。

社会一般的に弱者(暴漢等のターゲットとなりやすい立場)とみられることで、道具の携帯合法性が認められる余地が生じ、そこから携帯可能道具として使い方をマスターしようという意欲が湧き、上達につながる。そしてその上達が、我が身を屈強な暴漢から守るのである。

弱者だから強者の思うがままになる宿命、とあきらめるのではなく、弱者だから認められることに目を向け、そこから生じるメリットを最大限に伸ばし、他方向からの優位さで、強者の暴力に対抗するのである。

八卦掌の後退スライドは、まさにその逆転の発想のたまものなのだ。

強者に真っ向からぶつかっても、技術・筋力・体格差で勝てない=向かってきたら後ろに逃げる=敵は追っかけて攻撃しようとする=敵は追っかけて攻撃することに慣れていない=こちらは事前に後退しながら攻撃する練習をし尽している=強者が、追撃により息が上がり、追跡の慣性で身体を操作できなくなった時に打つ=距離が離れる=離脱する

大まかに言うとこのような感じである。

清朝末式八卦掌が、強者の追撃をかわし、生存を果たすために、ささいだけど重要な要訣(重要ポイント)がたくさん伝わっている。それを学習し、体得していくのが、清朝末式八卦掌の上達の過程なのだ

まず大きな全体像をつかむ。要訣を理解し、要所要所を洗練していく。あっけにとられるくらい単純でシンプルな所作で、瞬間的にあしらう。これは、他の拳法と同じである。

これだけなら八卦掌は、他の武術と変わらない。清末八卦掌が他の武術と大きく異なるのは、弱者であることに徹底的に開き直って必倒を捨て、生存を採ったこと。弱者という弱みを、開き直るいいきっかけにして開き直り、生存主体の体系に変えたこと。

そしてその開き直り、逆転の発想の典型例として挙げられるものの一つが、女性の護身具携帯なのである。

今一度、自分の置かれてる状況を考えて欲しい。あなたの『弱み』は何ですか?その弱みがあるがゆえに、あなたにだけ認められやすいものは何ですか?

「あなたの強みは何ですか?」の言葉は、至る所で聴かれるが、「あなたの弱みは何ですか?」は言われない。

この視点は、人生の各所においても、使ってみたい。もしかしたら、自分が常日頃から苦々しく思っていた「弱み」が、とんでもないアドバンテージを生み出すかもしれないのだ。

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初代へそ曲がり。2代目変わり者。変革者であれ!

変革者であれ!いつの時代も、ある一定の状態が続くと、ことの流れは停滞する。

停滞し、まどろむ流れを打ち砕くのは、いつの時代も、大勢や既存、定番にそぐわないへそ曲がりや変わり者である。

山田玲司氏は、その著書「非属の才能」の中で、大勢がはまる定番を「定置網」と表現した。目の前にある、「みんなやってること」に違和感を感じ、先生や上司からの「こうしなさい」に素直に従うことができないマインドを、「非属の才能」と評した。

であるならば、私は完全に非属である。

そもそも、この著書を読む前から、私は自分が「天才」であると自覚していた。

※天才=最強ではない。その辺、間違えないように。天才は最強である必要などない。最強に価値などない。いずれ取って変わられるもの。既存の群れによる同調圧力に屈しない、我が道を行くマインドこそが天才なのだ。

天才であると自覚する前は、先生や同級生、近所のおじさん、その他いろんな人に「なんで同じようにできないのか!」とイラつきまじりに言われたものだ。小さい頃は当然天才などと自覚してなかったので、自分はダメな子、自分はいけない子、自分はどんくさい子、と思って落ち込んでいた。

クラスの男子には馬鹿にされ、クラスの女子には嫌われ、小学校時代、友達なんてほとんどいなかった。遠足に行っても、誰とも過ごさない。これは友達がいないから仕方なく(実際にいなかったが)、したくもないことを、皆がしてるから参加する、というのが嫌だったので、遠足先の許された行動範囲の一番端っこで、一人ずっと、見知らぬ土地の景色を眺めていた。

小学校のころから、相当の、へそ曲がりだったのである。

小5の時、(おもちゃの)兵隊の絵を描く機会があった。自分は、当時日露戦争の戦術の研究していたため、日露戦争当時の日本陸軍の軍服のデザインで兵隊の絵を描いた。

渾身の出来栄えで、ほめられると思ったが、「これじゃない」「なにこれ」「知ってるからって見せつけか」とさんざんに言われたため、先生の前で怒って破り捨て、また余計に怒られた記憶がある。

見せつけたつもりなど一切ない。自分が知っているもの、自分のなじみのあるもの、自分が描きたいと思ったものを、素直に描いただけだ。自分に素直なのだ。

おもちゃの兵隊といって、皆同じようなものを描いていたが、私にとってはなじみの薄い、描いたこともないイギリス兵のような絵だった。だからなじみある、得意な日本陸軍兵士の軍服で描いたのだ。それが「特異」に映ったのだろう。

その天賦の才は、八卦掌においても、存分に活かされたようだ。八卦掌に価値を見出し、現行八卦掌が、八卦掌の昔の姿と違うことに、始めてから3か月足らずで気づいた。

今佐藤金兵衛先生の「中国拳法 八卦掌」を読んでも、どこにも、対多人数・対強者・弱者使用前提などと書いてない。それでも気づいたのだから、当時から相当天才だったのだろう。全く疑うこともなく、気づいた以後から、昔日スタイルに戻す旅が始まったのである。

私には、弱者使用前提・対多人数にこだわらなければならない理由があったため、ブレることは全くなかった。その目的を実現させるため、目指す職業・選ぶスポーツも定まった。

その理由で選ぶと、選ぶものも、いつも超少数派のものばかり。変人・水野と言われ続けた。本当の理由を言うはずもない。言ったところで「重い」とか言われるだけだったから、黙ってとにかく前進してきた。一番身近にいる家内だけは分かってくれたから、何ら問題もなかった。本当に恵まれていた。

既存のものに従い、進んできたら、きっと今と違った景色を見ていることだろう。皆と同じ景色を見て、流行りものをなんとなく試し、そしてすぐ飽き、また世間が用意したものをとりあえず試し、飽きて・・・と。

こだわったおかげで、この場所にたどり着いた。よく「後悔はない」というが、私は後悔だらけだった。これだけへそ曲がり人生を送っても、素直に手を出すことができなかったこともあったからだ。

「もっともっと、自分に正直になればよかった。」が正直な気持ちである。

私のもとには、多くの?2代目修行者がいる。水式門の八卦掌がまったく評価されない中、私の元に集った、変わり者たちである。

彼女彼らは、自分に正直で、外野の妨害など関係なく、練習場所にやってくる。〇〇先生直伝、などという言葉に流されず、己の判断を信じ、水式門にやってくるのだ。なんたる変わり者だ。だから2代目は「変わり者」なのだ。

しかし、既存に囚われない、己の目のみを信じる姿勢は、これから彼女彼らが取り組むものを、大いなる領域へと導くだろう。他人から習ったものを消化し、自分の価値を付加し、自分の領域へと進むことで、その人の真実が生まれる。まさに『達人』の領域である。

2代目が伝説の達人となるのは、そのためだ。今私の元にいる人間らは、伝説となる素養があるのだ。これからも、私の元にくる変わり者はいるだろう。彼らの会うのが楽しみで仕方ない。

批判したり、笑ったりする人間に接するとき、いつも思う。会ったことも技を見たこともない昔の達人の話のみで自分のやっていることを限定し、少しばかり生徒増やすために、その肩書めいたものを打ち出して枠組みに縛られる。

一度しかない自分の人生なのに、なぜ昔の、過ぎ去った人間のやり方に、自分を縛るのか?君は君だろう?君は君として、その人生を一回しか送ることができないのに。なぜ君の名で、世に名を通さないのか。

「自分のやり方を説いても、それが役に立たないものなら、自然と淘汰される」

そうだろうか?淘汰されてもいいじゃないか。世間が君のやり方を理解できなかっただけのことだ。ほとんどの人間は、定置網に引っかかった、既存の価値観の中でしかモノを選択できない凡人ばかりだ。天才の君が示した真実を理解できる可能性の方が低い。

見てみたまえ。ネットで「バズる」ものの内容を。暇つぶしにしかならない、その時の好奇心をみたすだけのものばかりだ。人に注目される=価値がある、では決してない。

くしゃみが2回だと笑われている・・・よくそんなことを言うが、私はいつもくしゃみが2回出る。そのたびごとに、「ああ、また笑われてるな」と思い嬉しくなる。

既存のものに囚われた凡人らに笑われることは、私の最大の栄誉だ。嬉しくてしょうがない。それだけ、私は独自の世界を進んでいるのだ。現状を打破する可能性のある道を、進んでいるのだ。

三十数年を経て、原初八卦掌の姿をやっと、世に問うことができた。原初八卦の姿を、もう少し鮮明にし、その技術スタイルで役に立ちながら、当スタイルをより進化させる。護身護衛のスタイルを、現代にしっかりマッチさせる作業が待っている。

原初スタイル八卦掌の本を書き、原初スタイルの優れた護身性能を存分に活かした、洗練された独習用護身術を創り(まだ洗練中なのだ)、それを全国有志が学ぶことができるようにして、大いに広める。

※あと・・・警備員らがあまりに運動不足で何も言えない事なかれ主義が多いので、警備員用の護身術も作りたいね。

さあ、ふたたび進むとしよう。いま私の元にいる変わり者(天才)らよ、そしてこれから私の元に来る変わり者らよ、遅れずついてこい。

変革者の旅は、これからもずっとずっと続いていくのだ。

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女性護身術科の失敗~3年間最大の成功は、3年間失敗し続けたこと

2024年1月27日の女性護身術科の開講に向けて、試行錯誤を繰り返し、誰でも真に護身ができるように、試してきた。

しかし応募は一切なく、これを読んだ人間なら、女性護身術科は「失敗」ととらえるだろう。そうだろうか?

多くのものが残った。開講に向けて、女性門弟たる子供らと試行錯誤を重ね、真の女性護身術をまとめ上げた。女性護身術科を開講しなければ、ここまで完成度の高い護身術はできなかったであろう。

まだ改良の余地はある。それは実感する。しかし、現時点でちまたの女性護身術の次元を超えたと自信がある。全く問い合わせがなかったのは、あまりに弊門の女性護身術が、ちまたの女性護身術よりもリアル・実用的で先を行きすぎていて、理解できなかったからだ。

年初からの「失敗(経験値が上がった出来事)」で、顧みる機会があった。八卦掌水式門を本格的に始動させ、サラリーマン武術家でなく、職業武術家として歩み始めてから、間もなく3年が立とうとしている。

人生最大の悲しみを経験した3年前から歩んできて、世間一般の物差しで測るなら、「失敗だらけ」だった。

振り返ってみて、この3年間、上手くいったことって、なんだっけ?とふと思ったので考えてみた。

意外とすぐに頭に浮かんだ。

それは、職業武術家として後戻りできない環境の中で、3年間、失敗し続けたこと。これってすごいことだ。

手放し失った数多くの物、背負った負債、崩した体調、去っていった人間、自ら絶ち切った人間関係・・・持っていたもの・ことを失ったのがあまりにも膨大で、それだけを見たら、私は完全な敗北者となろう

しかし、ここまでしても職業武術家としてこの場にとどまり、誇りと技術を磨き上げ、そのおまけに、納得できる情報発信の場まで、創り上げた。

私が目指していた理想の技術を一層磨き上げ、堂々と自信を持って発信できるまでに至った。

これらは失敗する中で、得たものだ。そして、「失敗」ごときであきらめなかったから得たのだ。「やっぱだめだわ」といって諦めたら、これらの最大副産物を、一つも得ることはなかっただろう。

2年半前くらいに、一度、追い詰められた者として、追い詰められている君へ、メッセージを送ったことがある。見てくれただろうか。あの最高傑作の動画を。

あの時、動画の中で、あきらめない、決してあきらめない、と誓った。それ以後、罵倒をうけたり、笑われたり、見下されたりもした。辛いこともあり、泣いたこともあった。

でも誓い通り、私は今でも、この場に踏みとどまっているぞ。約束は守った。君に宣言した約束は守った。

そしてこれからも、この誓いは変わらない。私の最大の武器は、「鉄の意志」だ。なんたって私は、八卦掌の達人であると同時に、「意志の強さの達人」なのだから。

失敗してもやり続けたおかげで、上手くいかなくても動じないマインドを手に入れた。

追い詰められても、職業武術家として、プロとして、練習だけは全力でやりぬいてきたため、そこから揺るぎないプロ意識がつちかわれた。私が自分の技術を、無料で垂れ流さないのはそのためだ。こび売って安売りしないのはそのためだ。

私の技術を学ぶ際に、常識的設定の水式門の月謝代金すらも出し惜しむ人間がいたが、文句なく去らせたのは、揺るぎない誇りがあったからだ。ケチるくらいなら、さっさとどこか行ってしまえ。

君も失敗しているだろうか?

何度つまずいてもいい。練習した技術を自信にして立ち向かい、倒されてしまうかもしれないが、それも構わない。

やり続けてみることだ。

もし怖いなら、私と一緒に、失敗していこう。私はこれからも挑み続ける。死ぬまできっと挑み続けるから、失敗は避けられまい。私と一緒なら、怖くないだろう?

失敗を乗り越えた先の景色は、辛いことも多いが、心地いいぞ。乗り越えた先でも、失敗や悲しみのマイナス要素はある。しかしそのたびごとに、君の顔つきは変わってくる。私のように。

その境地、そこの景色、その心地よさを、味わってみたくないか?

味わってみたいなら、この瞬間から、水野と一緒に歩き出そう。

恥ずかしい話、私も昨日、お金やら事業の未来やらいなくなった人への寂しさやらで不安になり、一人布団の中で泣いていた。でも立ち上がって、とりあえず何か前に進もうと思い、「遠隔地生科・護身術通信講座科」の解説ページをまとめ、立ち上げた。

この行動が己を上に引き上げるための 最重要行動となるのだ。そしてまた一つ、可能性が生まれた。八卦掌水式門が、全国にその技術を伝えるための、新たな可能性を生んだのだ。

女性護身術科。私が最も経験を積んできた、女性護身術の分野。多くの女性門弟を掌継人に導き、そのうちの一人は、水式門最強の筆頭門弟となった。護身術拳法・清朝末式八卦掌を、愛知の女性は学ぶ絶好に機会であったのに、失ったのだ。なんとももったいないではないか。

悔しさもあるが、やり切った実感はある。一連の女性護身術科最後の仕事だ、本日10時30分、刈谷総合運動公園バス停横芝生啓がに立とう。そこで、職業武術家としての誇りを、再確認しよう。

失敗し、また一つやり切った誇りを積み上げ、また何のためらいもなく次の手段を打ち出し、可能性をつなげる。それを繰り返す水式門の目標が、叶わないはずがない。

きみも、今回の私の「失敗」という名の経験を、参考にしてもらいたい。上掲の動画の気持ちはまったく変わっていない。

あきらめるはずがない。前に進むだけだ。君も、取り返す予定なら、一緒に前に進もうではないか。迷わず、水式門の公開する技術を練習せよ、きっと未来は明るいぞ。

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カラスの猛追を流すタカの姿で悟った「清朝末式」八卦掌

昨年からずっと、肌寒くなりタカが練習場所に来始めると、ビデオカメラをすぐに撮影できる場所において、撮影していた。

撮りたかったのは、タカとカラスの空中戦である。なわばりを侵されたカラスが、タカを追いかけまわす動画である。

何十本と撮り、何度も何度も失敗して、やっと撮ることができた。私が大きな悟り(開き直り)を得た野生のやり取りを、、当ブログを読む方に紹介するためである。

見てもらいたいと思ったのは、清朝末式の八卦掌の戦い方に似ていて、かつ、命を賭けた真剣なやり取り(戦い)として、この両者の戦いこそが最も分かりやすくふさわしいと思ったから。少し小さく、かつ、対象物の動きが速いため見にくいと思うが、是非参考にして欲しい。

※動画には、BGM(ロッシーニ歌劇・ウィリアムテル序曲)があります。

動画中のタカは、身体も大きく、追跡しているカラスと戦っても、フィジカル面が原因の敗北などしないだろう。私が今までこの場所で見てきた幾多の空中戦においても、カラスに体格で劣るケースは少なかった。

このように、追われるケースというのは、タカがカラスの縄張り付近でエサを探して飛び回るから起こるケースが多い。タカは自分がカラスの縄張りに入っていることを認識しているかもしれない。

ここからは想像も加わっての解説となる。その点、ご了承いただきたい。

眼の前のカラスと戦ってもいいが、なわばりにいる他のカラスも戦いに加わってくる可能性もあるため、無駄に争わず、離脱第一で対処していると思われれる。

タカとタカが互いに戦う場合は、どちらかが傷つくまで戦う。しかしここで体格に勝るタカがカラスと敢えて戦わず早々に離脱するのは、そういった理由からであると推測される。

理由はさておき、タカの対敵行動に注目をしてもらいたい。

タカは常にカラスを後ろに置き、追わせている。向かってくるカラスに、正面切って戦ってないことがわかる。敵の力のベクトル方向に向かうようなことは一切していない。力に抗しない戦いを貫いている。

そして、移動向きを変える時に、後方カラスに、一瞬けん制攻撃をしているのもわかる。もしくは、移動の進行方向を変え、カラスをその都度ごと引き離しにかかる。

カラスにあえて背を見せ自分自身を追わせ、追いつかれそうになったら、さっと身をひるがえし、進行方向を変えて、カラスの逆をつくのだ。カラスはタカの一連の対敵行動のため、なんとかタカの身体に触れることができたとしても、致命傷を与えることなどはできない。

追わせ、引きつけ、カラスが速度を上げて追いつく瞬間に向きを変え引き離し、また追わせ・・・を繰り返す。

人間に例えよう。追跡者が速度を上げて追いつこうとすると、その瞬間に動きを高めるため、一気に息が上がる。インターバルトレーニングのようなものである。インターバルトレーニングは、息の上げ下げを意図的に行って心肺に負荷をかけ、心肺機能を高める。

トレーニングでこれを行うならいいのだが、実戦でこれを強いられるとスタミナを著しく奪われる。たとえ怒りや欲望を満たすために猛然と襲い掛かっても、息が上がると、とたんに戦う気持ちが失せてくる。

1分足らずの空中戦の中で、カラスは何度も何度も、急速接近攻撃を試みてはタカにかわされている。明らかにカラスの方が、羽ばたいている回数が多い。これは疲れるだろう。タカはカラスのチェイスのたびに、少し向き変え、流している。

清朝末式八卦掌においては、使用者が弱者であることが前提となっているので、最初から敵と距離を置く。

そのためには、敵がいいがかりをつけてきた瞬間から後方へと小走り状態に移動し始め、勢(いきおい)を身体に付ける。敵の急接近がくるまで待っていない。すでに勢がついている状態なら、敵が言いがかり状態から急接近してきた時、すぐさま日頃連取している後退スライドへと移行することができるのだ。

敵の速度に合わせることはない。サッサと、自分の日頃練習している後退スライド時速度へと引き上げて対応すればいい。まさに『先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制せらるる所と為る』(司馬遷「史記」項羽本紀)である。

言いがかりをつけてきた段階から後方へと小走りに移動し始めるため、いきなり敵との間に一定の距離(2~3メートルくらい)がを作り出すことができる。敵は我を倒そうとするならば、いきなり開いたこの間合いを詰め、かつ、移動しながら強力な一撃を入れなければならない。移動して離れていく攻撃対象に、強烈な一撃を加えることは男性でも大変難しい。

移動し始めて推進力が身体に加わっているため、攻撃される側は、敵の急速接近に対し、すばやく後退スライド対応ができる。

動画を見ればわかるが、タカは常に前をむいて逃げている。カラスの方向を向きながら逃げているわけでないのだ。八卦掌走圏でいうならば、前を見て進行方向にまっすぐ進み、敵がチェイスをしてきたら、後退スライドで勢を保ちながらけん制し、向きを変え、再び別方向の前方へと移動しなおす。

対一人戦であれば、この動きを繰り返す。

距離を保ち、チェイスをしてきたらその都度転掌式でかわし、けん制し、向き変えてふたたび移動する。自分の息も上がるが、日頃から息が上がった状態で練習して慣れているため、息があがっても、割と冷静に対応できるのだ。

動画の最後に、タカは急上昇し、悠然とその場から離脱を図っている。動画中では分かりにくいが、カラスが突然追跡を止めたのは、タカが縄張りから離れたからではない。カラスの追跡体力が切れたからである。

カラスの脱落を確認したから、タカは悠然とその場(カラスの縄張り上空)を離脱するために上昇している。ただ「逃げる」のではない。カラスが体力がある時に逃げても、すぐに追いつかれることを知っているのだろう。疲れ果てて脱落させてから逃げるのだ。

私も、何度も後退スライドで繰り返し相手の息を上がらせ、敵の足が鈍り少し距離が離れた瞬間に、一気に離脱する。その瞬間、多くの敵は、あきらめる。この戦法は、タカの戦いの終わらせ方から学んだのである。

宝蔵院の胤栄は、池面に浮かぶ月を見て術理の大きなヒントを得た。少林寺の王朗は、蟷螂が獲物を補足する瞬間を見て、蟷螂拳への道をひらいた。

水野義人は、タカがカラスを移動遊撃戦で翻弄し、翻弄のすえに脱落させた後離脱する戦い方を見て、清朝末期頃の成立当時の八卦掌の姿・術理に気づき、そこからの修行やり直しで、清朝末式八卦掌を確立した。

それを複数人に話したことがある。「であるならば、やってみよう」という話になった(友達とか知人である)。相手には武術未経験者もいたが、剣道の有段者や空手の有段者もいた。体格も私より大きかった。誰一人、私に痛烈な一撃を加えることができなかった。私がすごいのではなく、敵の力に抗しない対敵身法を徹底したからあしらうことができたのだ。

この戦い方は、誰でもできる(※膨大な反復練習は、当然必要である。勘違いしないように)。一人でも練習できる(※術理を会得した指導者の最初の導入は必要)。人の協力はさほど必要ではない。圧倒的なくり返しで身体に染み込ませ、息が上がる状態に慣れ、そのスキルをもって敵を翻弄し、間合いを一層広げた後、命を賭けてキロメートル単位で離脱するのだ。

タカはカラスに対し弱者ではない。そんなタカでも、カラスと敢えて抗しないのだ。これぞ護身術のあるべき姿である。

倒す必要なんてない。倒すことは最終目的ではなかった。身を守るための一つの手段であったはずだ。八卦掌が近代格闘スタイルへと変遷したがため、倒すことが大きな目的となり、「八卦掌の勁力は強い」などというフレーズが言われるようになった。

圧倒的な打撃力を求めるのは、弱者使用前提だった清朝末期頃の八卦掌ではない。護身術として八卦掌を考えるならば、そこをしっかりと頭に入れておく必要があろう。

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2024年が明けて。

年初からとても悲しいことが起こってしまい、その対応に追われていた。

今後もしばらく、自分にできることに集中して動く。大原則、「自分の影響力の範囲内で」を守る。

正直、衝動にかられるが、何の技術もない自分が、勇んで駆けつけるようなことは絶対にしない。今行っても、何もできない。必ず、最大限に、家族のために、役立つことができる「その時」が来る・・・と何度も言い聞かせてきた。

「その時」が来るまで、現在状況を見続け、把握し、計画を立てる。今愛知でも、しっかりとできることがある。1日・2日は、気持ちが落ち込んだが、冷静になって分析することはできた。

家内と二人で歩きソフトクリームを食べた番屋街も、一番弟子・二番弟子らと練習し続けた比美乃江の芝生広場周辺も、大きな被害を受けた。私の心の支えとなって存在し続けてくれた氷見の街と人に想いを馳せながら、動き出す。

年初は、抱負を書こうと思ったが、昨年末の最後のブログでそれは書いた。今日は、書く時間を、1月27日の準備に充てることにする。それが今の私にできる最大のことだ。

八卦掌水式門の2大拠点にして、発祥の地、氷見市。ここまで来させてくれてありがとうございました。

こころからお見舞い申し上げます。今は心から復興を願います。「その時」が来たら、必ず駆けつけます。

八卦陰陽理論は、考えた人間にだけの真実。君の真理に従え!

八卦陰陽理論なんて知らなくても、八卦掌で十分に達人になることができる。確信している。

もっと言えば、たくさん伝わっている八卦掌の理論も、知らなくてもいい。

知ったところで、最初に素晴らしいスタートをきることができるわけでもない。途中で知ったところで、修行が大きく前進するものでもない。行き詰っている時知ったところで、その行き詰まりが解消されるものでもない。

37年の歳月の中で、理論を読み解いて技術が改善した記憶など無い。私の八卦掌の先生は理論を学べと言っていたが、私は同じ助言を、私の後に続く門弟に言うつもりは全くない(学ぶのはまったく自由)。

八卦掌成立時の、清王朝末期頃は、庶民の識字率など極めて低かった。中国王朝時代は、庶民が字を知り、反逆の知識・知恵をつけるのを恐れていたため、庶民に対する字の普及は意図的に避けられた。国体を維持するための国策だったのだ。

つまり、多くの拳法名手を生み出した清王朝末期~中華民国初期頃の修行者は、字など読むことも書くこともできず、ゆえに理論で技術を理解することもできなかった。それでもあれだけの達人らが出たことは、理論の学習が拳法深奥到達に必須でないことを意味するのである。

私は、冒頭に出た「八卦陰陽理論」など、勉強もしてないからほとんど知らない。ただ一つの箇所を除き。

後ろから迫る敵を引きつけ後退スライドして撤退戦をするとき、後ろから迫る敵は深追いをして「前方向に進む」慣性にどっぷりつかった状態となっている。

そこで追撃を狂わされ反撃される事態が生じたら、敵はその事態に対応できない。つまり、追撃という圧倒的有利な「陽」の状態のなかに、追いかける相手の変化に対応できない「陰」の要素が生じるのだ。

昔日スタイルの八卦掌は、その部分で撤退戦を仕掛ける。撤退戦を成功させるために、対敵イメージ走圏をし、ショウ泥歩で歩ごとに居着かない歩き方をし、扣歩→擺歩の後退スライドを練習する。

私が正式門弟となった人間に話す八卦陰陽理論は、その部分だけだ。それ以外を話したことがない。読んだことはある。

敵が入ってくる方向や、それに対する変化などを、八卦の卦にて説明する、極めて難解なものだった。八卦掌の術理に気づき、身体を自在に動かして捕まらない状態と、電撃戦をどこからでも仕掛けられる状態となった後のことだった。

しかし、その理論で我の動きの裏付けをすることなどできないと即座に感じた。

移動遊撃戦は、相手や我のその時の動きによって、その都度変わるもの。到底理論などで、移動遊撃戦の緒戦から終戦までを、説明できるものではない。

私の成長とともに技術を上げてきた女性門弟たちも、その考えになっていった。洗脳したわけではない。彼女らは、私に匹敵するくらい練習する。その中で、十代半ばにして、そのことに気づいたのだ。

「理論で、私の動きを妨げないで欲しい」と、強がりでなく、誇り高く宣言する彼女らに、私は大きな手ごたえと嬉しさを感じた。

理論に触れず、「これは大事だ」と、我の修行の過程の中の気づきだけで判断した「中核部分」で、門弟が強くなる過程を目の当たりにすることができたからだ。

八卦陰陽理論は、それを作った人(八卦掌の技術体系を八卦陰陽理論で裏付けた人)、作った人に直接学ぶ門弟、陰陽理論に触れて心底感動して悟った者とその者に直接習った者のみ、意味がある。

八卦陰陽理論は、自然の法則を人間が頭で考えて、当てはめたもの。であるならば、当てはめた人は、彼の表現としてまとめ上げたのだから、大変意味がある。そして、彼に習う門弟も、八卦陰陽理論を通して八卦掌をとことん理解した彼に習うのだから、意味があるのだ。

残念ながら、八卦掌水式門の水野義人には、この理論はしっくりとこなかった。しっくりこない理論なのに、八卦掌内で権威があるから、有名だから、という理由だけで理論教授や技術指導をされても、水野義人の門弟が分かるはずが無いのだ。そもそも、水野が深い箇所まで、説明しつくすことができないのだから。

私は八卦掌が、(1)創始者が、清王朝の宮廷に入った宦官(身体能力的弱者)であったこと、(2)斜進戦法を特徴とする力のぶつからないスタイルを採っていること、(3)手の動き、創始者の逸話のなかに、刀術のにおいが立ち込めていたこと、(4)師から「八卦掌は多人数専用の武術である」と言われ続けたこと、(5)八卦掌が、おとり作戦で守るべき人を守る悲壮な護衛拳法であること、などから、長い繰り返しのなかで、「単換掌の術理」と「前敵スライド離脱攻撃の術理(順勢掌の術理)」に気づいた。

気づいた時、すべてがつながり、目の前が開け、身体の動きが今までの次元を大きく超えたことを、抑えられないくらいに実感した。あの時の感動と胸の高鳴りは、今でも忘れられないくらいだ(どれくらい泣いたか覚えてないくらい、ずっと泣いていた)。

私にとって、単換掌の術理は、八卦陰陽理論で八卦掌を説明した天才にとっての「八卦陰陽理論」に匹敵するくらい、重大な真理なのである。

だから、この真理は、正式な門弟にしか指導しない。講習会や体験で時折来る、斜に構えて様子をうかがいに来る、八卦掌の「初歩の初歩」すらわかってない人間、デモンストレーションと実戦を区別もできない暇つぶしの動画視聴者になど、教えるはずもないのである(習う気もないからである)。

私はいつも思う。修行をしている者には、他の門派の内情や、他の拳法のデモンストレーションなんかに目もくれず、とにかく習っている門派の中核部分を繰り返して欲しい、と。

繰り返す理由はただ一つ。習っている中核部分を、その修行者の身体を通して、その修行者の理解方法で、理解してもらいたいからだ。

水式門の承継人には、いつも言っている。「君の気づいた理解プロセスに絶対的自信をもち確信し、君の理解の仕方で解釈したものを、八卦掌の術理として伝えよ」と。

修行者から指導者となったその者にとって、気づいた術理は、どんな有名先生の説く理論よりも真実に近い。その瞬間、彼にとっては、彼の理解の仕方で悟った八卦掌理こそが、「真実」なのだ。

彼に習う門弟は、彼が気づいた「真実」をもとにして、また新たな、門弟にとっての「真実」へと進むことができる。これこそが、伝承である。

先生は、自分自身の、膨大なくり返しによって気づいた真理に忠実となり、それをあますところなく伝える義務がある。その義務をしっかりと果たす指導者こそが、「良師」なのである。

誰それ先生に習った、とか、そんな上っ面なものにこだわっているだけの先生は、間違っても良師ではない。

そういう点で私は、梁振蒲伝八卦掌の伝人の道を捨ててでも、我の真理に向き合って指導しているため、「良師」なのである。我の真理に従って進んでいるから、胸を張って指導することができるし、これからも進化していくだろう。

講習会や体験で、一回習っただけで来なくなるような人間はいくらでもいた。きっと期待外れだったのだろうが、それについて、何ら気にもならない。

指導者になる際それを心配する人もいるが、「大丈夫だよ、そうなったからといって、君の真理がつまらないとかではない」と心の底からアドバイスしている。

八卦掌をやるなら、ここまで行こう。人を導く立場になろう。そのために、君の真理まで行こう。そこまで行くと、指導する以外にも、色んなことができる。

仕事で、自信をもってお願いができる。危険かどうかがわかる。野生動物の気配を感じとることができる。その瞬間、トップスピードで、その場から離脱することができる。これらは具体例。もっと素晴らしいことができるかもしれないのだ。

その世界を見てみたいと思わないか?誰それ先生の名でなく、君の名で、自由に堂々と、伝承活動をしてみたいと思わないか?

不安なんて感じる必要はない。私自身、人が来ないだけで、すべてうまくいっている。自分が目指す世界へまっしくぐらだ。

水式門でなくてもいい。君が習いたいものがあるなら、今すぐ動くがいい。人生は短いぞ。動けば、大変なこともあるけど、それがまた、君の「真実」へと、君を連れていく。

習っている最中は、先生の真実に素直になれ。でないと、上達しないし、失礼でもある。なぜなら、君は何もわかってないからだ。しかしひとたび一通り学んでわかってきたら、人の考えたものを崇拝するな。君の真実への、足掛かりとせよ。

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