いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集。」カテゴリーアーカイブ

いじめに苦しんでいる君・あなたの100%味方である八卦掌水式門の代表・水野が贈る、気持ちを奮い立たせ前を見ることができる温かいメッセージ集。

いじめ護身部なくして八卦掌水式門も清朝末式八卦掌もなし

「このコンテンツ(いじめ護身部のこと)のシリアスな内容が、影響を与えているかと」

突然電話をかけてきたネットマーケティング会社の若者らしき男性が、そう口を滑らした。

その瞬間「このコンテンツこそ水式門のすべて」というような返答を真面目にして、電話を切った。怒ったわけではない。

考え方の違いである。彼は私のサイトや門の深い内容、そして自分の歴史を当然知らない。悪気があったわけではないので、自分の考えを述べて終わらせた。

あの時の戦いは、過去の過ぎ去った話ではない。40年近くも前の話だが。

あの時のことにリアルに関わった人間は、加害者の人間以外、皆いなくなってしまったが、私の中では、未だにあの時の戦いが終わっていない。あの時ああすればよかった、あの時このようにしておけばよかった、と仮定し続け、はや37年以上の月日が流れた。

膨大な時間をかけ、弱者護身の可能性のある方法を見いだし、今まさに、その方法との戦いである。目途がたち、形も目に見えるようになったけど、目に見えるようになっただけである。

今この時も、常に練習をし続けている。目指すべき地点にたどり着いても、その場からまた先が見える。まだあそにいける、まだあんなところに行かなければならない場所がある、と、昔描いた地点にたどり着いた時、見えてしまう。

いじめ護身部だってそうである。

まずプロトタイプとして、清朝末式八卦掌に基づいた一般的な護身術を作成し、そこから、学校戦に特化した内容へと変遷させる作業を、もうすでに3回以上繰り返してきた。

今再び、一般的護身術たる『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術』を洗練させている段階である。これはいじめ護身部~取り返すための技術解説(修正後3回目の形)をフィードバックさせた一派的護身術である。

伝え方がまだ甘い。もっと具体的に伝えることができるはずだ。でないと、護身という、命を賭けた一大事において使う技術の解説書として、役目と果たすことができないかもしれない。

自分の伝える八卦掌の内容があまりにマイナーなため、現状では八卦掌に興味のある程度の初心者にすら、相手にされていない。八卦掌に数十年向き合って、八卦掌一筋でやってきた。国内の著名八卦掌家はたくさんいるけれど、彼らに劣るとは全く思っていない。

彼らよりも勝るかどうかは不明だが、間違いなく言えることは、私は全く他の先生らに劣らないということ。彼らの熱意に負けるはずもない。なぜそのように言い切れるか。それは、自分のできる範囲内で、目いっぱい向き合ってきたからだ。

私は自責の念から、そして同級生との約束から、いままで「怠ける(一般にいう、さぼる)」をしてこなかった。自分にまけそうになったら、その都度、厳格に戒めてきた。同級生のお姉さんが、その切羽詰まった姿勢に常に懸念を示すくらいに。

これはすべて、いじめ護身部の内容を、練習するに値する内容に引き上げるためである。他流試合で勝つためじゃない。組手で兄弟子や弟弟子に勝つためじゃない。

そんなことどうでもいい。いじめ護身部の内容の引き上げに役立つと思ったら、皆の前でもためらいなく試したい技法を試し、倒されてきた。それを失敗の一例としてフィードバックでき、刀術も徒手術も、どんどん洗練されていった。

型を綺麗に演じることができても、実際に人や目標物を打つことができない人間が多い(実は、ほとんどがそのタイプである)。

そして鍛えぬいた穿掌で、実際に人の(頸部)急所を打つことはできない。しかし思い切り、走りぬきながら打たないと、実戦では使うことができない。そこで、全力で想定敵をかわし続け、トップスピードで勢が極限に達した状態で、スポンジ棒で作った支柱を打ち抜く練習をし続けてきた。

人は笑う。「止まったものを打っているだけ」。しかしトップスピードで、指第一関節部分だけで打つことをできた人間はいない。動画を見ていただければわかるが、手が伸びきった瞬間に、支柱が突然飛ぶ。それは、指第一関節部分だけで打っているから、そのように見えるのだ。拳でぶつけて打つなら、もっと大げさに、のっしりと倒れる。

そこまで考えてみているだろうか。そこまで考えている人間はいなかった。ただ皆、何気なく、止まっている目標物を打っている、と認識して批判しているだけだった。

徒手技術では、実際に人を打って技術を習得する必要がある。

しかし、組手をやってきて分かったのだが、実際に人を打つことはできない。防具をつけるのでは、まったく感覚も違うし、防具付け組手でも、頸部を穿掌で打つことはできなかった。

そこで、人間以外を打つ必要がある。しかし人間以外の物は、当然動かない。動かないなら、自分が極限まで移動慣性の中に己の身体を置いた状態で、正確に射抜く練習をすればいい、と考えた。

その方法を思いついてから、はや十数年。間合いはほぼ取ることができるようになったし、いつでも穿掌を急所に入れることができるようになったが、そこからまた、新たな問題が生じてきた。

持久力の問題である。体力が落ちてきた。息が上がる戦い方ではあるが、息の上りが速くなってきた。乳酸がたまりそれが身体を止めるまでの時間が短くなってきた。

これは大きな問題である。また新たな旅が始まりそうだ、そう感じている。

恐らく私がこの世から退場するまで、いじめ護身部の道は続くであろう。これまでもそうだったように。常にこのことばかりを考えてきた。

最近やっと、「八卦掌 いじめ」で調べてきてくれる人が増えてきた。初めて「八卦掌 いじめ」で調べてやってきた人が居る足跡がアクサス解析で判明したときは、嬉しくて泣いた。

やっと本当に見て欲しい人が訪れるようになってきた。経済的には、私はもう破綻寸前であるが、ここにきてやっと、ほんとうにやっとのことで、届きはじめてきた。あと少しだけ、ここにいさせてください。神様がいるなら、本当にもう少しだけ、ここにいて踏ん張らせてください。

「いじめ 護身」、「いじめ 護身術」、「いじめ 辛い」でもたくさん人が来てくれることが目標。その段階に至ると、もっともっと多くの戦う君に、技術を届けることができる。

・・・それまで、もっと磨きます。もっと磨き続けるので、神様がいるなら、磨いたご褒美に、そのキーワードでも戦う皆が訪れるようにしてください、お願いします。

清朝末式八卦掌は、現代護身において極めて有効である。しかし敵と打ち合う格闘技的ロマンはないため、敬遠される。人の協力もない。顔を出さなくとも、映りたがらない。無名な、人から見たら特異でマイナーな弊門に、関わっていることが恥ずかしいと感じるのだろう。有名になれば、ホイホイ寄ってくる。しかし無名であると、どんな初心者であろうと、批判され、笑われる。

しかしそんなことはどうでもいい。新しいことをすればそうなる。宗家になる人間に一番必要なことは、結果が出なくても、笑われても、貫くことだ。忍耐こそ、宗家に求められる資質である。技術ではない。技術ならある。

このスタイルを貫く。貫いたおかげで、梁派はほぼ破門状態となり、人も来なくなった。しかし人が来ることに合わせて得るものって何?

お金?有名になる?どっちも中国拳法を追求している以上、大したことない。そんなちっぽけな見返りのために、自分の路線を外したりしない。

だから、サイト上のいじめ護身部は、もっともっと、内容を濃く、いじめ対策用に、いじめられる者の視点で、洗練させていく。

だから安心して見ていてほしい。

いじめを克服するだけにとどまらない、学んだ者が将来も大切な人を守ることができる知識・方法として、どんなことがあっても弊門サイト上に掲載し続ける。

これは同級生との約束でもあるし、全国でいじめに苦しむ者と、いまだにいじめと戦っている自分との、約束でもある。

心は常に君たちと共にある。一緒に前を見て歩いていこう。

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成功法則「一万時間の法則」は、八卦掌達人への道そのもの

一万時間の法則。

おおざっぱに説明するならば、ある特定のスキル・技術の習得に向けた練習に一万時間を費やしたら、その道の達人になる、というもの。成功法則の一つである。

私は、この法則が大好きである。そして、自身が、あの頃描いた「八卦掌の達人」のレベルを超えることができたことから、この法則が「正しかった」と実感した。

※この法則は批判が多い。努力至上主義者のバカ覚えの一つの根拠だとか、だらだら長く行うことに意味はないとか、一部の批評家がよく自身ブログ・サイト上で批判している。批評家という人種は、いつの時代も行為者と対比される存在であり、行為者たる革新者の背中に唾を吐き続けてきた。私は「批評家」としての人生ほど、送りたくない人生はない。

一万時間を越えるためには、一日3時間の練習を、9年間続ければよいことになる。9年という時間を長いと感じるか、短いと感じるか。私は、「たった9年で達人になることができるのか」と嬉しく思った。

一万時間の法則は、先ほども触れたが、批判が多い。しかし、多くの人間が、特定の分野の特定の領域に、一万時間もかけていない。この法則を批判する人間のうち、どれだけの人間が、ある分野の特定の領域に、一万時間かけているのだろうか?

昔の仕事で、多くの弁護士と接する(戦う)機会があった。彼らは法律全般のプロと言われ、多くの番組でさもすべてを知っているかのようにコメントをしている。しかし、法律にも、そしてそれに付随するトラブルにも、色んな分野・ジャンルがある。

家庭裁判所がらみの訴訟でも、離婚・親権・財産分与・未成年者後見など、多くの分野がある。そして民事の弁護士であれば、物権や債権関連の訴訟もこなさなければならない。

それらに全部精通するのは大変難しい。日本においても、それらに関わる判例(裁判例)は膨大である。

彼らは、他の弁護士が書いた要約本を、訴訟や調停の前に集中的に読むことで、急場をしのいでいた。とても一万時間におよばない。それでも「弁護士」という名前だけで一般人は恐れ、不本意な要求を冷静さを欠く判断の中で飲まされるのである。

彼らは、しょせん付け焼刃のため、いくら学生時代飛びぬけて勉強ができたとしても、皆と同じ主張しかしない。とびぬけてないのである。多くの弁護士が、司法試験予備校におけるマニュアル要約本で合格してきた。受験長期化を望ましくないものとし、最短合格を売りにする予備校で。

私は、受験時代、ひたすら基本書を読み込み、法的思考法(とても大きく要約するなら、権利と権利間の調整の視点のこと)を身につけることを心掛けた。民法で言うなら我妻栄氏の民法。刑法で言うなら前田刑法。民事訴訟法なら、伊藤眞氏の民事訴訟法だ。

読みつくされ、受験特化書籍でないため敬遠される風潮にあったこれらの本からは、まさに昔日の忘れ去られた八卦掌の、飾り気のない、術理の本質を淡々と伝える姿が重なって見えた。これらの本は、八卦掌でいうなら、根幹の身法、八卦掌となる前の「転掌」である。

著書らの、その論点に達する思考過程を何度も追体験することで、切り口を変えて論ずることを要求される論文試験を乗り越えたのだ。何度も読み込むと、エッセンスが見えてくる。楽しくなってくるのだ。受験ジャーナルという司法試験受験誌に、論文試験の模擬問題があり、添削もしてくれるのだが、読み込み回数が20回を超えるあたりから、安定した成績を残すことができるようになってきた。

八卦掌も同じである。いつも同じ角度、おなじ技でくるわけではないのだ。

後で触れるが、一つのことに集中して打ち込むと、一万時間よりもかなり早い段階で、深い疑問に達する。深刻な伸び悩みの時期である。

先生や書籍の著者が触れているような、公開されている一般的な知識・ノウハウでは、おおよそ太刀打ちできない。それくらいの深刻な壁がたちはだかる。その壁をのり超えることができなければ、一万時間まで行かないのだ。

つまり・・・ただ単に、何も考えずに、根性だけで一万時間を迎えられるわけではないのだ。批評家の批評のほぼすべては、その点について触れていない。

この壁を乗り越えるには、その時間まで積み重ねたことによって得た、自分だけのノウハウだけが頼りとなる。自分だけの、誰の後押しもお墨付きもないノウハウのため、それを信じ抜くためには、大変な勇気と意志が必要となる。

これこそが、自身の「限界」なのである。それを突破することで、とてつもない飛躍となる。拳法で言ったら、悟りであろう。今でも覚えている最初の限界が、武器の壁であった。これを乗り越えて、大きな飛躍があったのだが、その後、八卦本門に入ると近代スタイルに触れ、また大きな、実はもっとも過酷な壁が来ることになった。

私は、近代スタイルで強者を打ち倒そうと練習に明け暮れていた。仕事以外の時間を、すべて練習に充てていたこともあった。家内らが、心配するくらいに。

私にとってのその限界を超えるために、あらゆる方法を試したのだが、倒すことはままならず、ふと、後ろに下がり続けることに素直な子らの行動を見て、思うところがあった。

「思うところ」の有効性を確かめるため、その時から再び6年以上、「思うところ」のスタイルを試した。ある時、既存の定式八掌の主要技が、後退スライドの技法であったことに気づいた。

その気づきにより、昔関東で中国人就労生から習った八卦刀術(単換刀)が、八卦掌の原型となっていることに気づき、単換刀の身法が、八卦掌の中核技法『斜め後方スライド対敵身法』の2大身法を含んでいることを確信したのだ。

つながった瞬間である。八卦掌の2大転掌式・単換掌と陰陽魚掌、そしてそれらから生み出された順勢掌の術理、八卦刀術。双身槍。

その時、すでに2万時間を超えていた。しかし、八卦本門に入ってからは一万時間くらい。

現在、自身の修行期間は35年を超え、きっと3万時間も超えているだろう。しかし、もはや、時間はどうでもいいくらいにまでなった。

何が重要かというと、一定の時間とにかく打ち込み続けることで、超えるべきものが見えてくる。限界突破である。そして超えるべきものが見える頃には、自分は、歩き始めの頃とは比べ物にならない遠くの場所へと来ているのである。ここまで来たから、限界が見えたのだ。

一万時間は嘘、とか、まやかしだ、とか、そんなくだらない批判なんて無視しておけばいい。まず歩け、まず動け。そして動き始めたら、とにかく続けることだ。なにもかんがえなくていいい、ただ続けるだけでいい。効率的な努力なんて、自分が経験し失敗を重ねた後でしかわからない

八卦掌みたいな拳法ほど、自分のオリジナルの気づきが頼りになるものはない。達人になるための、唯一のパスポートだ。○○先生の伝えた型なんかじゃない。自分の練習の果てに気づいた気づきこそが、悟りへと導く一筋の光なのだ。

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女性護身術科の失敗~3年間最大の成功は、3年間失敗し続けたこと

2024年1月27日の女性護身術科の開講に向けて、試行錯誤を繰り返し、誰でも真に護身ができるように、試してきた。

しかし応募は一切なく、これを読んだ人間なら、女性護身術科は「失敗」ととらえるだろう。そうだろうか?

多くのものが残った。開講に向けて、女性門弟たる子供らと試行錯誤を重ね、真の女性護身術をまとめ上げた。女性護身術科を開講しなければ、ここまで完成度の高い護身術はできなかったであろう。

まだ改良の余地はある。それは実感する。しかし、現時点でちまたの女性護身術の次元を超えたと自信がある。全く問い合わせがなかったのは、あまりに弊門の女性護身術が、ちまたの女性護身術よりもリアル・実用的で先を行きすぎていて、理解できなかったからだ。

年初からの「失敗(経験値が上がった出来事)」で、顧みる機会があった。八卦掌水式門を本格的に始動させ、サラリーマン武術家でなく、職業武術家として歩み始めてから、間もなく3年が立とうとしている。

人生最大の悲しみを経験した3年前から歩んできて、世間一般の物差しで測るなら、「失敗だらけ」だった。

振り返ってみて、この3年間、上手くいったことって、なんだっけ?とふと思ったので考えてみた。

意外とすぐに頭に浮かんだ。

それは、職業武術家として後戻りできない環境の中で、3年間、失敗し続けたこと。これってすごいことだ。

手放し失った数多くの物、背負った負債、崩した体調、去っていった人間、自ら絶ち切った人間関係・・・持っていたもの・ことを失ったのがあまりにも膨大で、それだけを見たら、私は完全な敗北者となろう

しかし、ここまでしても職業武術家としてこの場にとどまり、誇りと技術を磨き上げ、そのおまけに、納得できる情報発信の場まで、創り上げた。

私が目指していた理想の技術を一層磨き上げ、堂々と自信を持って発信できるまでに至った。

これらは失敗する中で、得たものだ。そして、「失敗」ごときであきらめなかったから得たのだ。「やっぱだめだわ」といって諦めたら、これらの最大副産物を、一つも得ることはなかっただろう。

2年半前くらいに、一度、追い詰められた者として、追い詰められている君へ、メッセージを送ったことがある。見てくれただろうか。あの最高傑作の動画を。

あの時、動画の中で、あきらめない、決してあきらめない、と誓った。それ以後、罵倒をうけたり、笑われたり、見下されたりもした。辛いこともあり、泣いたこともあった。

でも誓い通り、私は今でも、この場に踏みとどまっているぞ。約束は守った。君に宣言した約束は守った。

そしてこれからも、この誓いは変わらない。私の最大の武器は、「鉄の意志」だ。なんたって私は、八卦掌の達人であると同時に、「意志の強さの達人」なのだから。

失敗してもやり続けたおかげで、上手くいかなくても動じないマインドを手に入れた。

追い詰められても、職業武術家として、プロとして、練習だけは全力でやりぬいてきたため、そこから揺るぎないプロ意識がつちかわれた。私が自分の技術を、無料で垂れ流さないのはそのためだ。こび売って安売りしないのはそのためだ。

私の技術を学ぶ際に、常識的設定の水式門の月謝代金すらも出し惜しむ人間がいたが、文句なく去らせたのは、揺るぎない誇りがあったからだ。ケチるくらいなら、さっさとどこか行ってしまえ。

君も失敗しているだろうか?

何度つまずいてもいい。練習した技術を自信にして立ち向かい、倒されてしまうかもしれないが、それも構わない。

やり続けてみることだ。

もし怖いなら、私と一緒に、失敗していこう。私はこれからも挑み続ける。死ぬまできっと挑み続けるから、失敗は避けられまい。私と一緒なら、怖くないだろう?

失敗を乗り越えた先の景色は、辛いことも多いが、心地いいぞ。乗り越えた先でも、失敗や悲しみのマイナス要素はある。しかしそのたびごとに、君の顔つきは変わってくる。私のように。

その境地、そこの景色、その心地よさを、味わってみたくないか?

味わってみたいなら、この瞬間から、水野と一緒に歩き出そう。

恥ずかしい話、私も昨日、お金やら事業の未来やらいなくなった人への寂しさやらで不安になり、一人布団の中で泣いていた。でも立ち上がって、とりあえず何か前に進もうと思い、「遠隔地生科・護身術通信講座科」の解説ページをまとめ、立ち上げた。

この行動が己を上に引き上げるための 最重要行動となるのだ。そしてまた一つ、可能性が生まれた。八卦掌水式門が、全国にその技術を伝えるための、新たな可能性を生んだのだ。

女性護身術科。私が最も経験を積んできた、女性護身術の分野。多くの女性門弟を掌継人に導き、そのうちの一人は、水式門最強の筆頭門弟となった。護身術拳法・清朝末式八卦掌を、愛知の女性は学ぶ絶好に機会であったのに、失ったのだ。なんとももったいないではないか。

悔しさもあるが、やり切った実感はある。一連の女性護身術科最後の仕事だ、本日10時30分、刈谷総合運動公園バス停横芝生啓がに立とう。そこで、職業武術家としての誇りを、再確認しよう。

失敗し、また一つやり切った誇りを積み上げ、また何のためらいもなく次の手段を打ち出し、可能性をつなげる。それを繰り返す水式門の目標が、叶わないはずがない。

きみも、今回の私の「失敗」という名の経験を、参考にしてもらいたい。上掲の動画の気持ちはまったく変わっていない。

あきらめるはずがない。前に進むだけだ。君も、取り返す予定なら、一緒に前に進もうではないか。迷わず、水式門の公開する技術を練習せよ、きっと未来は明るいぞ。

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己を貫け。批判も、貫いた者だけの証~万葉の地・富山高岡で

富山県高岡市は、万葉集ゆかりの街である。

市内には、「万葉線」が走り、有名観光地の雨晴海岸(あまはらしかいがん)は、かの有名な万葉歌人・大伴家持(おおとものやかもち)ゆかりの地である。

今年の歌会始では、敬宮愛子内親王様の御歌が大評判であられた。力強くストレートな内容でありながら、千年の時の流れをも感じさせる壮大な歌。歌風敵には、ますらおぶりの、男性的な壮大な歌。まさに万葉風である。

万葉歌人といえば、やはり大伴家持。家持の生きた時代は和歌が盛んになり始めた頃の時代。歌の名手ひしめく奈良時代に、敬宮様の御歌は、どう庶民に響くだろうか?

その内容。「難き時代」・・・で、能登地震の被災者のお気持ちにも寄り添う、感動的な御歌であられた。

そんな中で、秋篠宮佳子内親王様のお歌につき、敬宮様との比較にて、批判をするコメントを見て、とても悲しく思った。

私は・・・以前も触れたが、眞子様のご結婚問題で、いじめにも近い集中砲火的な中傷が横行した際、お姉さまのために身体をはってお味方になられた佳子様に、深いお優しさを感じた。

いっしょに暮らす親族が批判にさらされ、心を痛め、その人のために力となる。当たり前のことではないか。相手がどうとか、過去がどうとか、そういう問題ではなく、今現在、結婚したいと思う両者がいて、それが親族で、いじめに等しい批判を受けている。

なんとかしなきゃ、いや、なんとかする、私が味方になる、当たり前のことではないか。

私もきっとそうする。私もそうした。突き動かされるがままに動いた。そこで立ち上がれば、自身もどうなるか想像はついた。

佳子様も、きっと想像がついたであろう。心無い、辛辣な批判に、自身もさらされることなど、容易に想像つく中、お姉さまのために寄り添われた。想像すればするほど、怖いこと。

そしてその危惧は、現実のものとなった。今佳子様に寄せられる批判的コメントは、貫いた人間こそを受ける、貫いた証である。

目に見えない、匿名という安全(彼らは安全だと思っているが安全でない場所)なところで、多数派の流れに乗って、思いやりの気持ちを忘れ、配慮なく辛辣な言葉を並べる連中と、佳子様のように貫いたがゆえに言われない言葉を浴びせられる人間のふたつがあるならば、私は後者の方に文句なしの敬意を感じる。

後者でありたい。今までも、そうあり続けようと心掛けてきた。先も触れたが、実行してきた。

佳子様のお歌につき、自身の結婚をにおわすものだとか、己のことのみだ、とかいう意見もある。何をやっても文句を言われるのだ。私はこのお歌を、素直で素敵だと思う。

昔の和歌を見ても、恋の歌ってとても多い。それでも名歌として選ばれ、後世にしっかりと残っているではないか。

もし、自身の結婚や恋について歌っているにしても、己の気持ちに正直で、いい意味で衝動的で、素敵だと思う。心に沿って歌ったのだろうと、感嘆してしまう。

私も、内親王様のように、まっすぐに進みたい。そして、今日も進んでいる。このブログを打つのだって、そうだ。今トレンドのキーワードで記事を書くのではなく、己が打ち立てた誓いに近づくために、記事の内容を選び、心をこめて書く。

文もイラスト(※イラストは助けてもらっている)も、皆オリジナルだ。己の今の気持ちに沿ったものを挙げている。

そしてその気持ちは、いじめで守ることができなかったあの時から、変わっていない。貫いている。

貫ききった証が、清朝末式八卦掌なのだ。多くの人に笑われ、ダメ出しをされたが、何の問題もない。笑う連中は、私をとらえることができないため、倒すことができない。

倒してみろ!簡単に、倒されないぞ!私の後ろにいる人に、手を出してみろ!どんなことがあっても、倒されないぞ!

そう念じて、貫いてきた。倒す、攻撃して打ちのめす。そうではなく、勝算があっても、カラスを流すタカのごとく、悠然と引き回し、頃合いをみて突き放す。

そのようにぶれずに進んで来たら、八卦掌の原型に気づいたのだ。貫いた者に与えられた、紛れもない証である。

貫いて欲しい。失うことだらけだったが、誓いと信念を曲げない意志だけは失わなった。それゆえに、少数であるが、本当に私のことを理解してくれる人・技術だけが残った。

君も貫いたら、多くを失うだろう。しかし、貫くことで生み出されるものもある。それはほんの少しかもしれないけど、それが支えだったと、実感できる時が、近い未来にやってくる。安心してほしい。

きっと大丈夫、大丈夫。

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悲しみを話せない時。君だけは君の悲しみに寄り添って欲しい

いじめから抜け出す決意をしたとき、気分の高鳴りで、一時、勢いよく先に進む。

しかしほとんどの場合、気持ちの上下により、どうしようもなく落ち込む時がある。そのような時ほど、練習が辛いものはない。

気分の上下で落ち込むだけならいい。いずれ回復することもある。しかし、悲しいことが起き、それがもはや、取り返しのつかないこととなった場合はどうか?

落ち込むのとは比べ物にならないくらいの、心の奥底に貫通し、とどまるような悲しみの時は?

そしてその悲しみは、たいがいの場合、誰にも話せない。なぜなら、いじめの戦いの時、多くの人が孤独だからだ。誰も味方になんかなってくれない。私の場合も、話を聴いてくれる人間など周りに一人もいなかった。先生など言うに及ばず、親族ですら話すことができなかった。

その時になってみるとわかるが、目上の人の対応は・・・多くの場合、こちらの至らない点を指摘され、「がんばれ」と言われて終わる。ひどい場合叱られる。言えるはずなかろうに。

※私の場合は、親にも話すことができなかった。でも、もし可能なら、親御さんにだけは打ち明けてみて欲しい。君のその話を聴いてくれるかもしれない。ほとんど多くの親御さんは、君の悲しみを、悲しいと思ってくれる。

その場合、己の悲しみに寄り添うのは、自分しかいない。

私の場合、とにかく外に出た。外に出て、見晴らしのいいところに行って、遠く灯りを見つめた。空を見上げ、星を見ていた。

練習する、という気持ちをその時一切捨て、そこらにある棒を持って、八卦刀術で一人斬りまくった。汗をかくとか、疲れるとか、そんなことをは一切考えず、後先考えず、やみくもに振り続けた。

それができないときは、クラッシックを聴いた。歌詞付きのJ-POPではなく、クラッシックでも、神にささげる部類の曲を。

私はよく、カッチーニのアヴェマリアを聴いていた。

そしてそれは、今でも聴いている。練習をしながら聴くこともある。

私はもう、いじめで苦しんだ時から、40年近くが過ぎている。しかし未だに、あの時の敗北、同級生の泣く姿、欠席で使われない机といすがぽつんとある光景を、明確に思い出す。夢にまで見る。今年も、「うなされていたよ」と指摘されることが何回もあった。

どうしようもない悲しみが湧き上がる時は、もうその悲しみに寄り添うしかない。それだけが、己を少しばかり救ったと、実感している。

もう30数年、そうやって乗り越えてきた。

自分は、八卦掌の術理を極め、人に指導して志を実現させる道を歩き始めたならば、この苦しみや悲しみが和らぐと思っていた。しかし全く変わらなかった。何か事が実現したら、何かいい条件が起こったならば、悲しみから解放される。そう思っていたが、そうならなかった。

脅迫観念によって、どんなに体調が悪くても練習をし続け、多くの失敗を重ねてきた。練習を怠ることは、誓ったことを破ることだと思って進んできた。しかし、必要だったのは、悲しい時、一層追い込むことではなく、悲しみに寄り添うことだった。

カッチーニのアヴェマリアの旋律は、私にとって、素直に悲しみに寄り添う気持ちになるものだった。この曲に身をゆだねる時、涙があふれる。思い出す。それも無理におさえたりしない。気持ちのままに、思いだすことも頭から消さず、身をゆだねる。

何も考えず、棒を手に持って振るのと同じだ。棒を振るのは体力を奪われるし、場所も必要だが、アヴェマリアを聴くのは、いつでもできる。

練習の時も聴く、といった。その旋律が流れる時、振っていた棒を置き、空を見たりして、手を合わせ、もう戻ってこない人を想う。そうすると、少しだけ、遠くへ逝ってしまった人に、近づけたような気がして心が落ち着いたりする。

きっと君は、私と違い、まだ取り返すことできるのかもしれない。しかし悲しみは同じだ。悲しみに優劣なんてない。

「皆悲しいことの一つくらいある」「悲しいのは、辛いのはお前だけじゃない」そんな言葉は何にもならない。まったく無視しよう。悲しみを比べること自体が、意味がない。気にする必要のない心無い言葉だ。

君が悲しみに心を制され、どうにもならないときは、君が一番に寄り添ってあげて欲しい。君が君のことをもっとも大事に思って欲しいのだ。

アヴェマリアや、やたらと棒を振ることは、たった一つの例。寄り添い方は、君がもっとも心を保つことができる方法で行うのみ。

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逃げ続け「捕まえてみろ!」と一喝し戦う自分をイメージせよ

いじめ連中との戦いでは、キレイに鮮やかに「勝つ」必要なんて一切ない。そんな無駄なことは目指す必要が全くないことをここで確認しておく。

逃げ打ち、転身し、とにかく逃げること、つまり、撤退戦を正規の攻防手法とする武術・八卦掌を練習するならば、逃げ続けていじめ連中をほんろうしている自分をしっかりとイメージするんだ。

逃げ続けて逃げ続けて、「コイツ!捕まらねぇ!」と言って肩で息をして、こっちを見ているだけのいじめ連中の情けない姿をリアルに想像するんだ。そのイメージをもって練習することで、本当にそうなっていく。

「逃げ続けるだけでいじめが収まるのか?」と思うかもしれない。確信して言える。きっと収まる。

私は、いじめとの戦いで、あの時、膨大な時間と情熱を注いだ。大経験者の私が言うのだから間違いない。

逃げ続けることでいじめを打ち砕くには、周りの人間の力が必要だ。でも大丈夫だよ、そいつらに助けを求めるわけじゃない。求めても助けてなんてくれないから。そんな不確かなものにゆだねるのではなく、逃げ続けていじめ連中のみっともない姿をさらし、見て見ぬふりを決めこむ同級生の心の中に君のすごさを見せつけるんだ。

もっと分かりやすく言おう。君が逃げ続けることで、いじめ連中の「ふがいなさ」を皆に見せつけてやるんだ。いじめ連中の権威の失墜作戦である。

どういうこと?つまり、こういうことだ。日頃偉そうなことを言って命令したりパシリにしておきながら、こいつらは集団でかかっても捕まえることもできない。なんとも口ばかりで、よってたかっても大したことのない連中・・・・と思わせるんだ。

逃げ続けて、君の身体のエンジンと気持ちの高ぶりが最高潮に達したら、連中に大きい声で、堂々と、言ってやるといい。

「ほら、どうした、捕まえてみろ!」

その言葉にキレて、連中は猛然と突っ込んでくるかもしれない。しかし、猛然と突っ込んだって、私が指導した身法をマスターしているなら、恐れることはない。さっきまで通りに、移動距離を長く取りながら、逃げ続けよ。大丈夫。捕まることはない。

小回りの利く身体移動法は、下の動画で解説している。

実はこの動画中における移動方法は、多くの、小回りを要するスポーツにおいて、トップ選手が自然と行っている動きに酷似しているんだ。ハンドボールの知人が同じような動きをしていて、私に教えてくれたことがある。門弟の指摘で、サッカー選手も似たような動きをしていることを知った。

八卦掌では、この歩き方(移動方法)を、「ショウ泥歩(しょうでいほ)」と呼んでいる。

この移動方法によって、小刻みに、君の望む移動ラインをトレースでき、路面がぬれていても滑りにくくなり、かつ、敵に力を伝えやすくなる。砂浜などの足場の平面じゃない場所でも、ほぼ動きを制限されることなく動くことができるようになるんだ。

そして、逃げ続けるために必要な、スピードを落とさないで防御しながら駆け回るには、後退スライドによる撤退戦戦法をとる必要がある。この撤退戦戦法は、いじめ護身部では2つを教えよう。

八卦掌では、この方法に多くの手技技法が存在する。しかし君の戦いは、学校内であり、ナイフなども一般的に使用されない戦いを前提しているため、ふたつをマスターすれば、逃げ続けることができる。

そこでまず出てくるのが、敵に背をむけないで撤退戦をする方法。

動画では、初心者に最もやりやすい撤退戦法(推磨掌転掌式・すいましょうてんしょうしき)を指導している。

自分の子供が、突如迫ってきて手をつかもうとした中年男性から身を守った、実績のある技だ。

先ほども言ったが、後方や側面から襲ってくる敵を、自分の移動速度を落とさないでかわす方法が、八卦掌には8つある。その中で、もっとも初心者がやりやすく、八卦掌の拳理からも外れず、効果のあるやり方を選んだ。

私自身も、弟子とのやり取りの中で自然と使っている。

コツは、手を出す動きなどすべての動きを、足を止めず、歩くことを止めず、動きながら行うことだ。そうすると流れるようにうまくスライドできるし、かつ、八卦掌では、動きながら(歩きながら)行うことを義務付けられている。

「止まる=死」とすら八卦掌の中では言われるくらい、重要なポイントである。

「ただ動き回っているだけ」と、自身の拳法の常識を盾に批判するトンチンカンな馬鹿タレがいるが、八卦掌のことを何も知らない人間のたわごとである。

動き回ること、移動しまくることを正規の戦法とする八卦掌。自信をもって移動しまくってほしい。移動し続けることが、弱者に与えらえた最大の対抗手段なのだ。

次は、敵に一瞬背を向けて撤退戦をする方法。これは撤退戦、と言うよりも、身をひるがえして敵を振り切り、振り向きざまに前方にいる敵に電撃奇襲攻撃をする技である。

遊歩連捶の動画を見てほしい。振りかぶったあとの電撃戦は、この「敵に一瞬背を向ける」方法から来ている。私が最も得意とする技であり、もっとも信頼している技だ。

平面上できりもみ旋回しながら敵に手を出すことで、少なくとも君は手痛い攻撃を受けることはなく、敵の足を止めることができる。

・・・・・移動方法と、この二つの撤退戦方法を、徹底的にやり込んで、逃げ続けよ。

君が強くなるために、君は多くの時間を取ることはできないはずだ。今すぐにでも、いじめの暴力から逃げなければならない。

であるならば、多くの技など練習している暇はない。今すぐ、この動画3本を見て、練習し始めよう。

最後に再度言っておこう。

倒さなくていい。逃げまくって逃げまくって、連中に「捕まえてみろ!」と一喝するだけでいい。

それができただけで、君が取り返すための戦いは、大きな局面を迎えるだろう。

狭い教室で戦えない?だったら、連中が向かってきたら、広い廊下に出ればいい。なぜ、誰も助けてくれる奴もいない教室内にこだわるのか?どんどん広いところに行こう。先生が怒鳴っても関係ない。君は自分の身を守ることを最優先にせよ

君は今、人間として、生物として、生存をはかるための最も自然な行動をしようとしている。人の意見など、すぐに消えてしまう無責任なものだ。今すぐ、自分の身と尊厳、そして自由な意思を守るために、広い場所に突破し、逃げまくって「捕まえてみろ!」と叫ぶんだ。

「広さ」は、周りのモノは、そして移動できるその身体は、君の大きな味方だ。壁も、椅子も、机も、移動身法と後退スライド撤退戦を身につけた君ならば、すべてが味方になってくれる。

さあ、移動しよう。一緒にやっていこう。君の戦いの局面は、大きく動く。

八卦掌水式門富山本科イメージ

後退スライド身法は、弱き者同士で模索した形。今からだ!

相手の状況や技術、体格などに影響されないこと。

そのためには、相手と接触することは極力さけること。私が習ってきた武道・武術・護身術は、皆、敵の力とぶつかるものばかりだった。

敵の攻撃を、手で防御している時点で、すでに敵の力とぶつかっている。武術・武道をやる男性の中で、私は確実に体格が劣る。体重は少なく、背も低い。自分の未来を変える戦いの後、ずっと、力任せの攻撃に、弾き飛ばされてきた。

八卦掌に初めて出会った時、間もなく、この技術が力のぶつからないスタイルを目指しているものだと分かった。普通はその点に気づかない。佐藤先生の本には、力がぶつからないスタイルであることにあまり触れていなかった。それでも分かった自分は、やはり八卦掌の天才のようだ。

それ以後習っていく八卦掌技法は、まともに力がぶつかるものが多く、中国拳法の会得の方法が「師匠から習う」ことしか思いつかなかった当時の自分は、愕然とした。

力がぶつかった時に、それを補うため、繊細な技法、秘伝めいた技法、何年も練習しないと習得できない技法が必要となるからだ。

その現実を知った時、一部の高度技術を習得した人間の周りでしか、弱者は守られない、と思った。この先、たとえ自分がその技術を習得したとしても、自分の周りの人間しか守ることができない。何も、現実は変わらない、と思った。

目指していたのは、「誰もが習得できる弱者向けの護身術」だった。一部の才能ある武術家と、その周りの人間だけしか救われないのでは、やっている意味がない、とまで思った。

「何か突破口はないか・・・」その現実に気づいたときから、人知れずの、探求の日々が始まった。人知れず・・・本当にほぼ誰にも言わなかった。

協力してくれた(シャアを敬愛している)バイトの後輩とその友達たちには話したが、「その(拳法)のことって、よくわかんねぇえっすよ!」とのことで、さりげなく襲って(協力して)くれた(本当にありがとう)。

だから、自分の目指すものは、誰にも知られることはなかった。身内以外は。

時間がないと思った。体が動くうちにその技術体系を確立し、志ある者に伝えたいと思った。

その瞬間、自分を偽って合わせている集まり・人との関係から、一切身を引き、ひたすら練習をする態勢を作り始めた。

うっすらと分かり始めてから、すでに20年以上、やっと形になって、何が重要で何が重要でないか、分かった。そこから初心者や武術にまったくなじみのない人が練習できるようなものを考え出して・・・やっと公開することができる。

攻撃の成功よりも、移動による防御の成功を目指す昔日の体系。難しい言葉、実在しない空想の動物の名を冠して気取りたくなりから、そのままの名称で呼ぶことにした。

斜め後方スライド撤退戦対敵身法。

清朝末期頃、この技法をどう呼んでいたかはわからない。しかし水野義人という中興の祖の中で再び体系化したのだから、このように呼ぶ。

単換掌の術理による、力がぶつかるのを避ける清朝末頃の八卦掌の中核技法を出来る限り簡素化したもの。

今まさに、いじめにあっていて、理不尽な要求をのまされる屈辱を味わっている君に練習してほしいもの。あの時から、ずっと君たちと同じく、戦ってきた成果を、やっと少し形にできた。

自分も、すべてを自分自身で考え出したのではない。やはり協力してくれた人がいた。ほぼ同時の一番弟子で、傍にいて、一番一緒に練習してくれた二人。まもなくまた一人加わって三人。

記念すべき動画の見出しイラストは、後退スライドを海岸で一緒に練習している時の一番弟子の子供の写真をイラストにしたもの。

女性でも通用する技法にたどり着いたのは、彼女らが試し、時にダメ出しをし、時に「これいける!」とはしゃいでくれたからだった。繰り返しになるが、あの時から今日まで、何度言っても言い足りないくらいのありがとうがあった。

理不尽な暴力を跳ね飛ばすことを夢見た君は、跳ね飛ばすための才能がある。この技法を見て、自分にもできるのでは?と思ったならできる。この技法を見て、興味を持った君ならできる。

自分も、敗北から始まって、力任せや体格による圧倒に負け続けて、それでも食い下がってきたもの。膨大な失敗の果てにたどりついた境地は、まさに弱者使用前提の技術体系なんだ。

実績もある。ある子は、言い寄ってきた中年男性の手を触れる前に振り切り、1キロ先まで後退スライド離脱して、難を逃れた。

ある子は、どさくさに紛れて後ろから抱き着いてきた男性に拍打ではたいて弾き、二度とその集まりに参加しなかった。

私は、アスファルトの上で突進速度がすさまじかった猪の突進を何とかかわし、後退しながら応戦することで、なんとかその難を逃れた。

かっこいい戦いではないが、君の戦いにも、きっと役立つ。何より、練習すれば、自信がつく。今までではできなかった動きができるようになり、空が高くなり、開放感に満ち、「さあ、やってやろうか!」と気持ちが前向きになる。そして、君が君自身を誇りに思うだろう。

動画は是非見てほしい。そして解説ぺージも読んで欲しい。動画では触れることができなかったポイントも書いてある。堅苦しい解説ではなく、いじめで自分と大切な人を苦しめられた先輩として、詳しく真剣に解説している。他人事(ひとごと)じゃないから当然のことさ。

君の健闘を祈る。きっとうまくいく。きっと取り返すことができる。

失ったものがある。取り返せないことがある。しかし、動いたことで、色んな景色を見て、色んな人の優しさに気づき、自分なりのドラマが生まれた。さあ、今から、主人公になって歩き出そうぜ。

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清朝末式八卦掌は、”相手次第”を排したから護身術たりうる

八卦掌という武術に興味を持ち、八卦掌を護身術として考え、取り返すために練習をし始めた君へ。

この拳法は、他の拳法と、大きく異なるところがある。それは、相手の状況いかんにも屈しない対処法を身につける、という点である。そのことを念頭に入れて、少し長いが、読んで欲しい。

私の八卦掌修行の過程は、常に「”相手次第”を排すること」に費やされてきた。

八卦掌は護身によって護衛を実現する拳法。護身術である以上、相手次第の要素が多いのは致命的である。相手の状況によって、生死が決するならば、そのような技術に時間を費やす意味がない。

その点について、話していきたい。

近代八卦掌を練習している時は、どれだけ練習しても、体格がいい手足が長い、それだけの理由で、自分よりも圧倒的に練習の少ない人間に圧倒されることがたくさんあった。

勝ち負けなんてどうでもいい。負けることは悔しくなかった。それよりも、「相手次第」の攻防スタイルしか採ることができない自分の無力さ・至らなさに、悲しさよりもいきどおりを感じていた。

八卦掌は護衛術である。護衛術・・・しかしその「守り方」とは、我をおとりにして守る悲愴な方法である。

そのような悲愴な方法であっても、自滅などという破滅的な戦い方はしない。そこを創始者は、考え抜いていた。

単換掌は実に合理的な考えのもとに考えられた戦法である。複数の敵の中を、勢(せい)を落とさずに立ち回るための根幹的身法である。しかし敵は、後ろから来るだけではない。

単換掌の術理でやり過ごし転身した先にも敵はいる。どこにも敵は居る。その都度、後退スライドが合理的な対処法であるとは限らないと創始者は考えた。そこで、前の敵に対処する方法が考えられた。

順勢掌(梁派における順勢掌の術理を持つ前敵対処の技法)が考えられた。そこから、単式練習が考えれ、近代にいたり、スライドのない単式練習となった。

近代にいたる過程で、勢の大原則から離れた。対多人数戦の八卦掌では、勢は外すことのできない絶対的に近い原則である。そこを離れた時点で、近代と昔日の八卦掌は、ほぼ別物となったと言っていい。

これは、マイナスの進化ではない。戦いの場が、殺し合いから割と穏やかになった他流試合となり想定が対一人がメインとなり、体格も同じくらいの人間と戦う配慮もされ、修行者も拳法経験者の男性が多くなったから生じた、自然の変遷である。

近代の拳法を取り巻く状況の下で、後退スライドで、我の攻撃が当たらなくても敵の攻撃が当たらないために、スライド離脱を繰り返す生存第一スタイルなど採る必要はない。私がこだわっているのは、過去の敗北と蹂躙の出来事と、教える門弟が、ほぼ女性ばかりであったから。

敵のそばにとどまって、勢に頼らず技法で戦うということは、相手の都合(技術・体格など)に左右されることを意味する。

あれだけ回り込むことが難しかった近代変則スタイル斜進攻防でも、相手の技術や体格が自分より不利であったりすると、十分に通用する。逆に、不利な面が少しでもあると、ほとんど通用しない。

その現実に対抗するために、膨大な時間の対人練習が必要だったりする。螺旋功などの精密で才に左右されるような技術の会得が必要だったりする。事の帰趨は、多分に相手にかかっている。

相手次第・・・これは、わが身を守ることの成否も、わが身を守って立ち続け、守るべき人を守ることの成否も、相手の事情にかかってくる。どれだけ練習しても、相手次第で左右されてしまう技法に、わが身ならともかく、大切な人の命を預けることはできないのは当然の考えである。

相手の側面にとどまれば、我も連続攻撃ができるため、あてることができるだろう。しかし相手の攻撃をもらう可能性も生じる。そして、相手は我よりも強大である。時間の経過とともに、我の様々な資力は減り、いずれ動くことができなくなるだろう。敵よりも早くに。

孫子の兵法における『小敵の堅(けん)なるは、大敵の擒(とりこ)なり』に通じる事態である。

ここで原則に戻りたい。八卦掌の大切な人の守り方は、我をおとりにすることである。ならば、喰らってはいけない。止まってもいけない。そして止まらずに、移動のついでにランダムに、敵に襲い掛かる必要がある。

そうなると、前敵対処法におけるスライド攻撃の方法は外すことができない。スライドしないと、敵にぶつかり、勢がそがれ、我の攻撃が敵に脅威を与えなくなる。「いつ襲ってくるかわからないから、見てないといけない」と敵に思わせないと、敵の魔の手が守るべき人に伸びてしまう。最悪である。

スライド攻撃することで、敵の事情による勝敗結果の左右を、大きく下げることができる。はなから防御するつもりなんてない。通り過ぎながら手を出す。手を出して当たるスライド軌道を、練習の時からひたすら繰り返している。

私の修行で、清朝末期頃の八卦掌に回帰するために、この方法で考え続けてきた。常に原則に立ち返る。この方法をとったら、勢に影響はないだろうか?

AとBの方法がある。どちらかで迷ったならば、八卦掌のおとりによる護衛を実現するために、どちら方法が有効か?の視点で考える。おとり戦略による護衛のためには、「勢」だけはぜったいに外すことはできない。

この試行錯誤の作業をずっと繰り返し、二十数年の歳月ののち、気づいたのである。単換掌の術理に。”相手次第”との格闘の果てに、やっと気づいた。先生に教えてらったわけではない。先生は、「八卦掌は多人数戦専門の拳法」と言っていたが、具体的な方法は示さなかった。中国拳法らしく、自分で考えろ、とのことだったのだろう。

単換掌の術理は、誰にも言うことなく過ごしてきた。前に所属していた道場の兄弟子らにも言ってない。

後ろに下がる、後ろに下がりながら攻撃もする、が、あまりに特徴的なので、否定されるのが不本意だったのがある。隠して独り占め・・・なんてことを考えていたわけではない。

その時は、まだ、相手次第、の要素をぬぐいきれていなかったから。もっともっと磨く必要があったから。その時すでに、後退スライド撤退戦の対敵身法を採るようになってから数年が過ぎていたが、まだ相手次第の要素に翻弄されていた。

「相手次第を排する」という視点に立って物事を考えていると、中国拳法を習うにあたって当たり前である常識的基本技に対しても、○○次第でないか?と考え、「これは本当に極限で使い得るだろうか」と一考するようになる。

槍術の基本を例にとる。「モノ次第」と考え、技術体系を組み直したいい例である。

中国拳法界でなぜかやたらと有名な、槍の基本である「ラン・ナ・サツ」であるが、ランとナはともかく、サツは、実戦では非常に使用が厳しい。技が難しいとかではなく、槍の柄部分を、手の平の中を滑らせる行為が、実戦では己を傷つけることにつながるからだ。

身の回りのモノで戦うのは、実戦の大基本である。しかし槍の代替品たるものは、そこらの長い竹や、緑の農業用支柱、工事現場の進入抑止バーである。

それらは通常野ざらしで表面が傷んでいるのが普通で、 手の平を滑らせたら、とたんに皮膚を傷つけてしまう。つまり、滑らせる技は使用できないのだ。管槍(くだやり)でもない限り、これは厳しいと感じた。

昔の武芸者は、手入れしたお気に入りの槍を常に持ち歩き、かつ戦場では手袋をしていたため、あの技法を活かすことができたのだ。そもそも、置かれた状況や使用環境が違う世界での技法となる。であるならば、それは使うことができない。

よって弊門では、槍術に関して、「モノ次第」の要素を排するために、双身槍の操法に忠実になり、手のひらの中を滑らす技法は使用しない。皆、槍の中央付近で持ち替えて、先端部分で攻撃をする。

※ランとナに相当する技法(名称も動作の大きさも違うが、やっていることはよく似ている)は、八卦双身槍の基本であり、もちろん一番最初に指導しているため、中国拳法界の常識にとらわれている人でも、納得して練習している。

○○次第を排するための技法の総見直し(オーバーホール)の作業に多大な時間がかかり、清朝末式八卦掌のある程度の確立までに、単換掌の術理に気づいてから、十数年の歳月を費やした。これでも短い方である。身近に、単換掌の術理に素直な子達がいて、常に練習をして重ねることができたから、十数年で済んだのだ。

時折問い合わせの中で、とらえ方は違うが、年齢や相手との体格差とかで、行き詰まり・疑問を感じ、申し込んでくる人がいる(そのうちのほとんどは、その後、何らの断りもなく消える)。この前も、そのような疑問を感じて真摯に問い合わせて来たので、仮入門を認めアドバイスをした(その人も来なかった。いつものことであるが)。

質問後・問い合わせ後の態度・対応はともかく、相手次第に疑問を感じている人は一定数いるようだ。私は、その中で、その疑問をそのままにせず行動できる人に、指導していきたい(行動しないで待ってるだけの人間には教えようもないし、指導してもすぐいなくなる)。

他武術の経験が長い人間は、力と力がぶつかるスタイルからなかなか離れることができない。プライドが邪魔をするときもある。習いに来ているのに、後退スライドに勝負を挑む馬鹿タレもいた(そういう人間は、当然叱る。なんのために来てるんだと)。

相手次第を排することを至上命題として常に意識して練習を積み重ねても、十数年もかかったのだ。わたしから術理を教わることができるとはいえ、清朝末式八卦掌の力のぶつからない術理を採りいれる気のない以上、いつまでたってもうまくなることはない。

後退スライド撤退戦対敵身法はシンプルゆえ、さわりだけを習っただけで、来なくなる人間もしかり(講習会に来る人間に多かった。講習会を開かなくなった一因である)。最初から、核心部分になど触れることはできない。シンプル=すぐできる、ではない。シンプルでも、こちらは段階に応じて指導内容を変える。自分が理解してきた道に沿っているのだ。命がかかっている技法だから心底理解させないと危ない。当然である。

護身術を考えているなら、術理が最も大事である。どこで開催される、とか、室内だから快適に練習できるから、などというどうでもいい理由で、命を賭ける技術を習う場所を選ばないことだ。もし力がぶつかるスタイルの護身術を習うなら、対人練習をコンスタントに行うことができる道場がいい。家の近くで、かつ、対人練習を積極的に行ってくれる道場となろう。

弊門は力のぶつからない術理ゆえに、遠方の人間でも後退スライドの練習方法をしっかり理解し地道に積み重ねるならば、実戦に耐えうるレベルまで上がる。練習による上達においても「相手次第」を排し、「本人次第」としている。

君が、あなたが我が身を守り、大切な人を守りたいなら、「相手次第」を克服せよ。その先に、大切な人の笑顔が待っている。

大切な人、の中には、当然、君やあなた自身も含まれる。君も、あなたも、誰かにとって、大切な人。そして自分にとっては、間違いなく大切な人だから。

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やめない。人が来ない以外全てうまくいってる。君も進め。

新しい科を立ち上げれば、しばらくずっと、人がひとりも来なかったり。

SNSを始めれば、毎日役立ち情報を上げても、フォロワーもいいねも、お気に入り登録も、全く増えない。

そうすると、外野は決まって、もう止めた方がいいんじゃない?と言ってくる。しょせん無理なんだって、と言ってくる。

でも考えてみたら、それ以外のことは、すべてうまくいっている。

たかだか、人が来ないだけのこと。人が来ないのは、自分のせいでもなんでもない。

自分のやっていること、自分の教えていることに揺るぎない自信があるため、なんら問題もない。

むかし憧れ、出来なかったことが、今ではなんら苦も無くできている。これって、振り返ってみるとすごいことであり、当時の自分が今の自分を見たら、圧倒されてしまうだろう。

そんな状態なのに、なんで、たかだか八卦掌に関して私より技術的に未熟な者たちに認められないからといって、落ち込まないといけないのか。

人が来ないのは、世間の人間の見る目がないからである。それか、自分のスタイルが人にとって、何らかの理由で、魅力的に見えないからである。

魅力的に見えない=価値がない=お前が悪い、という構図を押し付けてくる連中がいるが、冗談じゃない。勝手に決めつけるな、といいたい。改善するのは、私ではなく、周りの人間の「見る目」であろう。

実際、批判やマイナス評価の内容を見ると、何も全体像が分かっていない。

過去に、講習会や体験等で、拳法を語りたがる参加者と話してみると、知識だけは豊富だが、技術がそれに見合っているケースは、ほとんどなかった(上手くなりたいと願い参加することは素晴らしいが、先生相手に知識で張り合っても意味がない。知識や誰それ先生のもとで習っている、で護身はできない)。

厳しいことを書いているが、それくらい、自分のなかでは、言い切ることができるほどの積み重ね、バックボーンが備わっているのだ。

そして今も、練習の時間を惜しまない。自分がたどり着いた、本当に必要な昔日スタイル八卦掌において重要な術理・技法のみを、ひたすら繰り返している。

練習が練習のためだけにならないように、実際に使う場面に合わせて、常に実闘をイメージして、繰り返してる。同じ長さの棒を使ったりして。ますます、技術が磨かれていく。

そこまで来ているのに、やめるはずがない。

実際の戦闘において恐怖に打ちかつために必要なのは、積み重ねだ。そして、スイッチを入れることをすぐにできること。

スイッチを入れる方法は、人それぞれである。私の場合、大きな声を上げて手を広げることで、戦うことのスイッチを入れている。

年初に野生動物(猪)の突撃に遭った際は、大きな声が瞬間に出ていた。猪が去った後も、大きな声を上げて、震える身体と衝撃の受けた心ををコントロールした。

スイッチをいれることは、今までの積み重ねがあって、身体がそれなりに動くからこそ。やはり圧倒的な積み重ねが、私の身体を守ったのだ。

人は、猪を棒で応戦し、やり過ごしたことを見るが、私は、積み重ねが我の身体を無意識に動かしたことを誇りに感じた。そのことが一番うれしかった。

君は今、拳法を練習しているかもしれないが、それ以外にも、何か、譲れないもの、好きなものがあるかもしれない。

そのことを、誇りに思っていい。やり始めの拳法しか誇ることがないなら、この「やりかけ」の拳法を上手くなるために行動したことを誇りに思え。

取り返すために動いた。言わせないために動いた。黙らせるために動いた。されるがままの受け入れられない状態から、さよならをするために動いた。

いいじゃないか。その動機が、時に、将来の道筋すらも変える。そのような動機で動いて、とんでもない境地に達した少女もいる。動くと、未来がどうなるかわからなくなる。なんとも心が弾む。

多くの人間は、大人ですらも、頭で考えるだけで行動しない。君は立派に行動し、今向き合っているじゃないか。

それが今、うまくないからといって、なんで他人に批判される必要があろうか。大丈夫だ、私が一番に、君を評価しよう。

「君はよくやってる。技術がまだ発展途上なことを除けば、すべてがうまくいっている」

そう信じていい。なぜなら、それが真実だからだ。

迷わず進め。私がついてる。マスターがついている。

そして、取り返したら、さっさと人を打ち倒すようなくだらない体系に見切りをつけ、本当に君がやりたかった世界へ行こうじゃないか。

きっと楽しいことが待っている。

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原動力は、君だけのもので。君だけの原動力が、未来をひらく

原動力。人に言うのが恥ずかしいようなものでもいいのではないか。

犯罪めいたものや、人を悲しませたりするうえで成り立つようなものでない限り、君だけのオリジナルでいいと思っている

長年、八卦掌を練習してきたが、その原動力は、常に学生時代のいじめだった。自分に対するものではなかったが、自分の弱さが原因で人が苦しみ、自分が思いつめて抱えたことが原因で、人の未来が変わった。

人に言わせれば「極めて重たい」原因だと思う。信頼できる人に話したこともあった。しかしその人は対応に困り、嫌がり、自分が原因で人を追い詰めていることを痛烈に批判した。

その指摘は間違っていないのだろうが、10代の少年にその言葉と内容はあまりに過酷で、人に話すことが怖くなってしまった。その後、完全に心を閉ざしていたと思う。

せめて人を守る仕事に就こうと考えて、柔道を習ったり、勉強をし続けた。人には、「なんでそんなに凝り固まるのか」とあきられたが、その原因を決して言わなかった。

この場は、いじめを受ける君へのメッセージでもあるため、腹を割って話しているが、一般の人には理解されないようだ。仕方ない。

八卦掌を練習し始めてから、すぐに、人に教えることを考え始めた。技術がうまくなるにつれて、その願望はより具体的なものになっていった。

『弱者生存の理で貫かれた護衛護身術「八卦掌」を日本全国各所に広め、誰もが、大切な人・自分を守る技術を学ぶことができる環境を創る』

しかし現実は厳しく、無名な自分、流派の後押しなど無い自分に、誰も気をとめることはなかった。試みすべてがうまくいかない。周りから「それ見たことか」と嬉しそうに揶揄され、無礼な問い合わせにも翻弄され、気持ちが何度も折れそうになった。

でも、忘れられない言葉や想い出が、ここぞという時に、背中を押して支える。何度それを感じたことか。

うまくいかなくて、ふとんに顔をうずめ叫ぶ。当然視界は真っ暗だが、そうすると、どこかの底に落ちるような気がして、そこで、フッと、思い出すシーンがある。

「八卦掌水式門」。門の名前の由来は、私のプロフィールでも軽く触れている。

同級生の、いじめを受けている辛い時期のさなかの、つかの間の笑顔での同級生との会話。

「水野式人(しきと)だから・・・・水式館?水式塾?・・・・・やっぱり水式門だね」

そんな他愛もない言葉だったが、自分には確かに、嬉しそうに見えた。正直、イラストのように、その場が海岸であったのか、田んぼの土手であったのか、覚えていない。しかし、同級生の後ろには、青い空が広がっていて、同級生が笑顔であったことだけは覚えている。

もう、40年近く前の話なのに、心から離れず、何度夢見たことか。

対多人数移動遊撃戦の練習では、日によって、設定した時間を到底もたせることができないと感じる日がある。そういう時、自分に負けそうになる。手が止まり、足がふらふらになり、そのみじめさが余計動きをにぶらせる。

でもそんなときも、いつも思い出す。そうすると、もう動かない、と決めつけていた身体に、思わぬ力が入り・・・それが一層自分の息を切らすのだが、やり切ってしまう

このシーンは、練習時だけではなく、全国展開のイメージの原動力ともなっている。

八卦掌を教える際、名称に全く迷うことはなかった。

「水式塾?水野式のことか?宗家きどりか」と批判されることもあったが、まったくどうでもよかったね。理由を言う気にもならない。水野式のつもりではなかったが、八卦掌成立当時の移動遊撃戦を指導しているところは国内では水式門だけ。

事実上の「水野式」になってしまってる。八卦掌を超えることはないが、人から見れば、水野式に見えるのだろう。それで結構。

私は、同級生のその言葉があるから、前に進む。たとえ、誰にも相手にされない現状でも、信じて疑わない、とはまさにこのこと。

原動力は、君のオリジナルであればあるほど、力が発揮される、間違いない。

何が言いたかったのかというと、原動力を見直してほしかったのだ。君の原動力たる理由を語る時、それが本当の心で選んだものなのか?そして君の心を動かすものなのか?

人に話すものでもない、鳥肌が立つような、心が震えて泣けるようなものが、原動力たりえる。

社会に適合させる必要もない。私は、ずっと、社会に適合させるために、夢の軌道を変えたりした。そのようなものでは、辛い時の動きを維持できない。

原動力を明確にし、時間をかける覚悟をしたとき、八卦掌は多くの人を救う存在となる。そう信じている。

君にとっては、何が原動力となる?

みんなと友達になりたい・・・素敵だね、叶うと、きっと思い出だらけの学生生活なるよ。

あの子が好きだから、情けない自分でいたくない・・・素晴らしい、それこそ青春だよ。

彼女に怖い思いとか、一切させない・・・・なんて崇高な想いなんだ。かっこいいよ。彼女は幸せ者だね

私は、このような、心から湧き上がった、シンプルな原動力がまぶしくて大好きだ。

心からのものだからこそ、辛い時、倒れそうなとき、支えられるのを実感できる。

自分を支えるものくらい、自分の心の直感でえらんでみないか?きっと未来が変わる。

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