いじめ護身部|勇気と元気と希望が湧くブログ」カテゴリーアーカイブ

いじめに苦しんでいる君・あなたの100%味方である八卦掌水式門の代表・水野が贈る、気持ちを奮い立たせ前を見ることができる温かいメッセージ集。

ウーマン・ライト・ガード設立~八卦掌原型・清朝後宮護衛官吏武術「転掌」マスター護衛人養成へ向けて

このたび、八卦掌水式門がその名を「八卦掌水式館」と名を改め、金沢にその本拠地を移転するのに合わせ、金沢女性本科をメイン教育課程とします。それを発展させ、護衛人・警護人養成のための専門履修課程「ウーマン・ライト・ガード」を設置します。

日本において身辺警護会社を営業するには、日本の警備会社において直近5年中に3年、身辺警護の実務経験があり、そのうえで警備指導教育責任者の資格を取得して営業すること必要となります。海外での用心棒や屋敷警護などは、日本の警備会社において在職の証明をしてもらえないため、例え何年海外で経験を積もうが、自ら会社を立ち上げることはできないのです。

私には経験があり、かつ、身辺を守る技術・自らを守る技術もあるため、他社において警護業を修行する必要もありません。自ら警備会社を立ち上げることしか考えておりません。

実際、現在自らの技術・経験を活かすための日本版保鏢的警備会社の設立を準備しております。その業務の一環として、自らが修めた、清朝末期の後宮官吏の転掌拳士らが用いた護衛術を、金沢の地で指導していきます。

「ウーマン・ライト・ガード」の名称は、金沢女性本科を端的に表す通称として、用いていこうと考えました。ここで伝えるのは、警備員4号業務講習や、西洋軍隊格闘術ベースの男性向けて格闘術と一線を画します。あくまで、清朝末期の後宮官吏(宦官・女官・宮女)の護衛術として伝えられた護衛武術「転掌」に伝えられる要人警護の技術を伝承する場です。

八卦掌水式館が、最も指導において経験を積んできた、女性に対する護衛術の指導。そこでつちかわれた経験がフィードバックされて、転掌師・楊先生の伝えた内容に、水式館の女性伝承者らの視点と工夫がなされ、新たな体系へとつながりました

ウーマン・ライト・ガードの最大の特徴は、強者とぶつからない東洋武術に立脚した、アジアの女性のための護衛人養成機関である、という点です。近代軍隊式格闘術を護身術として女性に実行させる養成校・道場と一線を画します。

土台を転掌の基本功・抓地牢(そうちろう)走圏・単換掌の術理とし、土台を習得するための段階を、共通とします。

その後、自分護衛にとどめる・警護人養成課程に進む・八卦掌伝承課程に進むなど、各人の希望に応じた進路を選択していただきます。

ボディーガード養成となると、多くの場合、養成学校にて、専門的な教育を受けるパターンが多いものです。警察学校のような、ある意味世間と隔絶された空間の中に我を置き、訓練に打ち込む、そのようなスタイルを採る場合が多い。

しかし、金沢女性本科では、そのような形態を採用しません。

女性が、いままでの己の生活を送りながら、護身と護衛の専門指導を受けることが可能となる道を選択します。養成学校に入校するならば、生活を大きく変え、かつ入校時、まとまった金額が必要となります。

養成学校などは、学校ビジネスなのです。大学受験・司法試験などの予備校と同じです。最初にまとまった金額を得て、そこで指導側の利益を確定する必要があります。月々支払の月謝制形態にすると、いつ何時生徒はやめてしまうか分かりません。そこで経営側の利益収入は途絶え、以後の収入は、途中で止めてしまった生徒から、当然いただくことはできません。

つまり、入校時全額支払い制は、運営側の都合であり、生徒側の学ぶ機会を奪いかねないため、弊門では月額制を採るのです。

ウーマン・ライト・ガードでは、基礎課程のおいて、各人の熱意を見ていきます。社会的責任を果たすため、粗暴で人を傷つけることをよしとする人間に指導は一切しません。

ウーマン・ライト・ガードでは、日頃の練習を怠る者に指導いたしません。自学をおろそかにする者に、指導に応じる時間は、ありません。プロの護衛人、もしくは、八卦掌の真の実力者、そして我が身を守るセルフ・ディフェンサーを責任をもって養成するためです。

以下は、現時点における、ウーマン・ライト・ガードの履修課程・履修項目となります。

【八卦掌水式館・ウーマン・ライト・ガードのカリキュラム(仮)】

・仮入門教程・・代継門人課程・警護人養成課程・・転掌式八卦掌掌継人養成課程に分けます。

◆仮入門教程

推磨式基本功・走圏・斜め後方スライド身法・推掌転掌式 ※『最低限の時間で仕上げる「転掌式八卦掌」弱者護身術』における、各技法です。

◆代継門人課程

回肩功

転掌基本功たる推磨式基本功(推・拍・蓋・劈・平穿・撩陰)

走圏(基本姿勢・抓地牢・対敵イメージ)

斜め後方スライド身法(推掌転掌式を使用して、内転翻身・外転翻身の両法を学習)

単換掌の術理(単換刀を使用して、翻身旋理・刀裏背走理を学習する)

単換掌

双換掌

転掌刀(単換刀・上斬刀・撩陰刀・按刀・背身刀・上翻刀・叉子刀・扎刀)

勢掌の術理(振り向き様の前敵に対するスライド回避攻撃身法)と単招式(遊歩連穿・双按連穿・平穿掌など)

発力(発勁)

◆警護人養成課程(※警備員4号業務講習のような、形式的講習ではありません)

棒操術(90センチ・45センチ・200センチ棒による、刃物所持者制敵術)

移動身法(敵と依頼人との間に我の身体をおいて、後方スライド機動防御を果たす移動身法・揺身法)

ロー・プロファイル・ガードによる要人護衛行動

◆転掌式八卦掌掌継人課程

転掌式老八掌

連身藤牌

対多人数戦約束打合

対一人約束打合

八卦掌水式門富山本科イメージ

戦う時、おそらく孤独。大丈夫。苦しいけど進むがいい。

今日の題材を語る者として。語るに足る資格を有する行動をしている者としての証拠を示す。今日9回目の挑戦をする。自分の中で、9回の失敗などまだ少ない方である。講習会などは、すでの60回以上も失敗しているからだ。

だからいつも通り、しかし何かしら前と少しやり方を変えて、今回も進む。

通信講座部「護身術通信講座科」の再スタートだ。決断するとき、自分は一人で決めた。そして迷わず決めた。

言っただろう?私は、全国に転掌の、命を賭けた囮護衛の技術を伝える、と。言ったことをは守るさ。これからも、ドンドン試す。だから君よ、今日の記事をひとまず読んで欲しいんだ。

努力や頑張りが否定される時代だ。でも、繰り返さずして、物事は洗練されない。それは、失敗の中で得た、一つの真実だった。

・・・・・君が取り返すために戦う時、その生活のなかに、立ち向かうための努力の時間を入れた時、きっと孤独になる。

それはほぼ間違いない。周りに人が居ても、いなくても、孤独になる。

私が戦いを決意した時、周りに少しの人が居た。しかし間もなく私は敗れ、そして一人になった。

なぜ拳を握って一人打つのか、なぜ走って走って走り続けるのか、誰にも言うことはできなかった。もちろん親にも。友達?そんなもの、戦いを決意する前から、一人もいなかったしね。

変人だ、逃げるだけの意気地のない奴だ、先生に対する態度も知らない、問題児だ。そのくせ、声を上げる勇気もないのか?ありとあらゆる暴言を浴びせられたが、それでも、自分がしてきたことは、練習と、窓の外を見続けることだった。

孤独だった。それ以後も、友達など一切できなかった。本当のことを、言うことは誰にもなかった。同級生の、特に女子には、本当に嫌われていた。

いじめを題材にした漫画やアニメなんかを見ると、本当に一人、というシチュエーションが、意外と少ない。理解者がいることの方が、極めてまれなのに。ほとんどの場合、いじめられたり、不利な方に、理解者などいない。私は完全に理解者がいない方だった。

ある時を境に、それは当たり前となり、そしてそれが今度は誇りとなり、練習に一層熱が入った。不思議な転機だった。

だから練習は、いつも一人だった。いつも一人だったから、集中できたし、いつも一人だったから、一人で技術を上げるための方法を、常に考えていた。

今スポンジ支柱を使った練習をしているが、あれは、何度も何度も練習方法を考察し、考え出した、一つの「最善」である。間合いの感覚とつかみ、かつ、実際に打つ際の体幹力強化のために利用している。当然、完璧な練習方法ではない。

でも、多くのことを得た。それは、弱者護身の八卦掌を指導する指導者がいない孤独の中で、もがきながら見つけ出した工夫の結晶である。指先第一関節部分だけで、実戦時の思い通りにならない状況のなかで、確実に頸部を突くための、一つの答えである。

一人練習の際、周りから人は襲ってこないけど、徹底的に後方スライドで身体を移動させ身体に負荷をかけ、流れていく景色の中で、目の中に入ってきた支柱の頸部部分を、正確に突く。それを何年も何年も、一人でやり続けてきた。

しかし、対人で行うと、それでも外す。だからまた、家に帰って、いつもの場所で、一人で繰り返す。何度も、何度も。毎日、毎日。

これは練習の苦労話ではない。それが現実だった。動き始めた時、動き始めの高揚感が消えた時、ふと思う。

こんなことをやって、何になる?あの人をいじめた連中は、何の制裁も受けず、あんなにゲラゲラと笑ってるじゃないか!?

でも実は、孤独こそが当たり前だった。人も皆孤独だから、君も耐えろ、と言わない。そんな言葉は、私も本当に嫌いだった。そうでなく、孤独だからといって、君は間違ってない、ということだ。何か大きなことを成す時、孤独は当たり前となる。

きみにとって大きなこと、それは「取り返すこと」だ。

それはとてつもない大きな挑戦だ。そしてそれを成し遂げたら、君はこれからの人生で怖いものが無くなるくらい、大きな見返りが来る。

そんな壮大で悲壮な挑戦に、立ち向かってる君は、間違いなく天才だし、孤高だし、とびぬけた存在なんだ。

天才や孤高の士は、いつの時代も理解されない。理解されないから孤独だ。

私の技術を信じ、ついてくる弟子も、いつも私に生きづらさを語る。求道者の筆頭門弟、鬼っ子の一番弟子、人気に迎合せず、己を磨き続け能を隠す三番弟子、金髪の小娘と言われても、あえてそれを貫き誇りとする、中国地方の雄。

皆、人と違った道に価値を見いだし、進み続ける君の先輩だ。君も孤独なら、私たちと同じだ。きっと君も、天才だ、君の道を貫く天才だ。

誰にも言えなくて、孤独に戦っている君へ。苦しいなら、とにかく歩いてごらん。ゆっくりでいいよ。速くなくていい。

休んだ方がいい、と言わないのは、君が周りと違う天才だからだ。天才に対しては、凡人と違う言葉で接するのが、最低限の礼儀。

私は、苦しい時、孤独に襲われた時、何も考えられなかったから、何も考えなくてもできる練習をして、時間を過ごしていた。

単換掌ばかりしていた時もある。私の好きな、転掌刀術・撩陰刀を、目いっぱいに使って、練習し続けたこともある。

そして、何も考えないでやり続けたこれらの練習は、全く無駄にならなかった。むしろ、いつまでも心に残り、私の財産となった。

苦しいなら、水式門のホームページをみてごらん。直すべきところだらけだろう?それでも私は、この世に、転掌式の技術体系を提唱した。

人の反応など、どうでもいいのだ。自分が信じたならば、それでいい。

私は、今から、再び今日の戦いに出る。

八卦掌水式門富山本科イメージ

なぜ八卦掌では君でも達人になることが出来るのか

特別な身体的才能がいらないからである。

バク転する技術も要しない。深淵な持久力もいらない。

人間が、うまれてからの努力で手にすることができる範囲の能力(後天的獲得能力)だけで、八卦掌の達人条件身体能力を確保できるからである。

膨大な筋力も必要ない。動じない精神力も要しない。練習の過程で身につける程度の精神力で十分だからである。

君の練習次第なのだ。

八卦掌的にいうならば、八卦掌の達人としての最低現の要素は、すでに君に備わっている。あとは自分のおもわくどおりにその要素を利用するだけ・・・なのである。

君は、水式門の いじめ護身部~取り返すための技術解説 部分の技術を、まず始めてみて試すといい。頭でかんがえていても仕方ない。行動をし体験することで、いじめ護身部にて説明された、歩き方 すらまともにできないことが分かるだろう。

君が体格に恵まれているならば、いじめ護身部に書かれた内容は不要となろう。弱き立場にて何度も強者の思惑にほんろうされた記憶があるならば、この成立当時の『転掌』技術を学ぶ価値が大いにある。

水式門の伝承する原初八卦掌(楊家伝転掌式八卦掌)では、特に大事な者は以下の点である。

  • 抓地牢(そうちろう)
    • 基本姿勢
    • 対敵イメージ移動
    • 翻身旋理と刀裏背走理を土台とする単換掌の術理
    • 単換掌の術理を前に現れた敵に応用する順勢掌の術理

    これらを、難しい言葉を使わないで、いじめ護身部で示した。

    ちゃんと膝部分(足部分)もさらして演じているため、大いに参考にしてほしい。

    足部分(膝周辺部分)の使い方は、移動武術の極意といってもいい。もし足部分を示さないで「指導動画」と言っている者があるならば、そこの道場は止めておいた方がいい。

    転掌式の八卦掌は、習う技術が少しである。しかしエッセンスのみの技法である。

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    教室にとどまらないため「単招式」をやるんだよ

    八卦掌水式門の『最低限の時間で仕上げる八卦掌原型「転掌」式弱者専用護身術』では、単招式をとりあげてない。時間がない、そして、当面重要でない、からである。

    しかし、いじめ護身部|辛いいじめと戦う護衛武術「八卦掌」護身術では、そうはいかない。必要だから、そこに単招式の指導が加わる。専用の動画まで、作成した。

    なぜ必要なのか、それは、狭い教室から抜け出すため。その狭い、誰も助けてくれない、君にとって不利な場所から、その身を離脱させるために、単招式が必要なのである。

    ある一つの戦いにおいて、指導している4つの単招式すべてを使う必要があるわけではない。しかし4つとも知っておくと、前方向に現れ、君が自由な地に移動する際に邪魔をする敵を、いかようにもやりすごすことができる。

    電撃的におそって、ひるんだすきに、離脱する。実際の戦争・戦いにおいては、「血路をひらく」ともいう。

    古来の戦争では、取り囲まれた部隊が、敵の一面に強襲を敢行し、その部分の敵を倒して包囲網に穴をあけ、そこから敵包囲網外へ突破移動することが行われた。

    もちろん、いじめの戦いでは、取り囲んだ同級生の命をおびやかすことなど、あってはならないことだ。

    しかし君が教室にとどまっていては、狭い空間、ともすれば敵の頭数が増える可能性もあるため不利なのだ。順勢掌の術理である「前敵スライド回避攻撃」を行って、敵を振り切りつつ、攻撃、そして足が止まった瞬間に、距離を拓き、囲みを突破する。

    そこには、広い世界が広がっている。味方・助っ人などはいないが、君が練習してきた技術を、いかんなく発揮することができる広い空間が待っているのだ。

    先生に怒られたらどうしよう →→ 先生に怒られることのすべてが、正しいわけではない。君は、自分自身に危害が及ぶのをさけるために、やむを得ず電撃突破をしたのだ。合理的な理由がある。

    失敗して突破できなかったらどうしよう → 何度も突破を試みよう。狭い空間だ。自由移動がしにくい、その狭い場に居続けたならば、君は高い確率で捕まってしまうことになる。

    思いだして欲しい。君の戦いでは、全員を倒す必要なんてない。戦いの流れはこうだ。

    理不尽な要求がやってきたら、とにもかくにも、拒否する。嫌だね、お断りする、そんなことはしたくないね、と。

    暴力をちらつかせたり、何ら行ってくるかもしれない。しかしすべて無視でよい。いじめに正当性など、一切ないからだ。何を言われても、全く気にすることはない。とにかく、先制攻撃に気を付けよ。距離を無意識に保つのだ。

    敵の攻撃。すぐに斜め後方スライドせよ。戦局を見る。その場が広い空間ならば、引き続き移動遊撃戦で攻防し、引き釣りまわすこと。それだけで、君のすごさと、いじめ連中のふがいなさを見せつけることができる。

    頃合いをみて、突然一人のてきに猛然突撃せよ。ひるんでも構わず、連続攻撃で集団の外へと移動せよ。そして離脱行動を開始する。戦いの場となった教室を後方へ置き去り、先生も無視すること。

    校外へと離脱せよ、ここまで離れるから「離脱」である。当時の連中は、ここまで離脱することをもって「脱走癖」と呼んだ。何を言ってる?助けもしない連中のたわごとである。

    古来より、戦いの終盤において、弱者が頃合いをみて戦線離脱することで身を守るのは、正当な手段であった。敵はそれゆえ、思惑を失敗するのである。因縁の都度拒否し、そして手を出して来たら、かわし続け、電撃攻撃し、ひるんだら離脱せよ。

    その先に、取り返す君の時間が待っている。

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    どうしようもなく辛いことがあった時は・・練習した

    何度やってもうまくいかないときは。どうした?

    とにかく練習した。

    花火大会の最中に、普通に一人で歩いている時、警察官に職務質問され、公衆の面前で身体検査され、指紋をとられ、不良少年たちに指をさされながら、「おまわりさん!その悪い奴を捕まえて!」と言われた時は、どうした?

    とにかく練習した。

    伝染病がはやり、今まで培ってきた生徒が、一気に去って振り出しに戻った時は。どうした?

    とにかく練習した。

    流派の後押しを奪われ、問い合わせが一気に減り、途方に暮れた時は。どうした?

    とにかく練習をした。

    場所を借りて講習会を開いたが、誰も来なくてお金だけ無くなった時は、どうした?

    とにかく、練習をした。

    お金がなくて、家賃を払うことができなくなり、拠点を、選択肢のない中で失った場合は、どうした?

    とにかく、練習をした。

    疲労がたまったのか、倒れて病院に運ばれたばあいは、どうした?

    とにかく、練習をした。

    学年で上位をとりつづけても、通知表の数字があまりに低く、文句を言ったら「お前の胸に聞いてみろ」と笑いながら言われた時は、どうした?

    とにかく、練習をした。

    これらの、うまくいかなくてもいい「どうでもいい」時でも、練習したのだ

    では、どうしようもなく、辛い時は、どうした?

    やはり、とにかく、練習をした。

    どんなことがあっても、練習をした。子に頭をひっぱたかれても、それがあなたが達人になった唯一の理由だから、それがあなたが、他の人と違う、最大の武器だから、と言ってくれたから、練習をしてきた。

    なにかあった時、練習できるか?ではなく、いかにして普段どおり練習をするか?をまず、考え、そしてすぐ実行する。

    やりはじめにどれだけ辛くても、やり始めてしまえば、ほぼ使命を果たすことができる。

    私は達人である。

    達人は、練習を苦にしない。嫌なものととらえない。師の教室に行くときは、いつも希望をもって臨んでいたから、とにかく参加したかった。

    「今日は○○だから練習はいいや」は、いつか「やったりやらなかったり」となり、その後、達人となくなる

    私は、もう、何十年、練習をし続けたか、わからない。学生の時であろう、きっと、休んでしまったのは。覚えているはずが無い。

    これからも、きょうも、いまから、練習をしにいく。

    達人になるのは、これが最も重要だ。とにかく、練習すること、だ。流派とか、有名先生の指導とか、一切関係ない。君次第だ。例外はない。私は、休まないでずっとずっと積み重ねてきたから、自然と術理を極めた達人となったのだ。まだ先があるが、でも、あの日思い描いたもっと先まで、到達したのだ。

    きみもなることができる。とんでもない境地に来るだろう。

    辛い時は、せめて、未来を楽しみにするといい。正しいやり方?そんなもの、人が教えられるはずもない。そいつは、そういって、金を儲けたいだけだ。正しいやり方は、君が練習をし抜いた果てにだけ、気づくことができるものだ。安心してほしい、もっとも効果的なやり方は、君はずっとやり続けた先にのみ、待っている。

    一緒に練習しようか、私も、今日はとっても気持ちが落ち込んだ。

    一人を実感した。最も逢いたい人に、やっぱりこれからもずっと逢えないことを痛感した。花火に行って、人が笑いあう中で、それを悟った。横に居た人が、もういないことを悟って。

    最も辛い時だ。さて・・・・とにかく、練習しにいこうか!

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    夏は護衛官武術家の血が騒ぐ・・そんな風に感じてみよ

    どうせ拳法をやっていくならば、誰かを守るためにやってみよ。

    どうせ拳法をやるならば、誰かを守り切ることができるくらいまでになってみよ。

    これは、今でも私が弟子らに言う言葉である。

    「ボディーガードでもあるまいし」と思われるだろうが、私は常にド真面目に、そのように考えて練習してきた。

    自分のため、よりも、人のため、大切な人のため、とした方が、断然やる気が湧いてくる。

    大切な人たちのことを考え、その人たちに、ほんの少しでも、苦しい想いや悲しい想い、痛い想いをさせたくない

    多くの人は、きっとそのように考えるだろう。子供がいたり、配偶者がいたり、家族がいたり、恋人がいたりする人なら、共感もしてくれると思う。

    以前、夏祭りに関する話をした。護衛官らの夏、だ。

    今年も、8月に、護衛官の任務を授かった。毎年恒例ながら、私はこの任務を授かると、がぜん練習に気合が入る。わたしにとっては、この日、この時期こそが、最も身体をピークに持っていく時期だ。最高のパフォーマンスで護衛の任を遂行するために。

    護衛の依頼者も八卦掌第7世の掌継人で、もはや護衛もいらないのかもしれない。しかしこの時期、ずっと任を授かっていたために、これが恒例行事となった。

    おおげさだろうか?子供じみてるだろうか?

    ここまで人を守るために考えぬかれた護衛武術を追い求めていると、自然とそのような考えも湧いてくる。何より、血が騒ぐ。

    守りたい。確実に守り切りたい。まだこの部分が甘い、もっと磨けば、より確実に、守ることができる・・・そんなふうに、よりリアルな緊張感の中で練習もできる。

    私は、託されている。これからもずっと、守っていって、と託されている。その人も私に護衛を依頼してくれて、練習する意味を与えてくれた。その人の子も今、それを理解し、必要なあるない関係なく依頼してくれて、私に練習する意味を与えてくれる。

    「私には大切な人などいない」と言うならば、周りをみてごらん。

    皆、誰かにとって大切な人。

    嫌悪感を抱くような「嫌な奴」に対してまで、そんなことを無理に感じる必要もない。しかし君が「いい奴だなあ」とか、惹かれる人に対して、もしくは「素敵な人だなぁ」「すごい奴だなぁ」と感じる人には、「この人も誰かにとってかけがえない人」と考えてみると、何かあった時に、「ちからになってあげたい」「まもりたい」と思うことができる。

    だから誰にも、「守るべき人」は存在する。

    そして何より、君自身も、誰かにとって大切な、かけがえのない存在だ。

    天涯孤独の人でも、自分は「自分」にとって大切な存在なのだ。

    生存し続けようとすることは、生物の本能である。人間はその本能に、生きる意味や、楽しいこと、したいこと、大切な人、などが加わって、「もっと生きたい」という気持ちを持つ

    そんな気持ちを持った自分のために、練習をしてごらん。大切な君自身を守るために、練習をしてごらん。

    八卦掌は護衛武術だ。一定時間生存して敵を引きつけ、時間稼ぎをして守るべき人を守る囮(おとり)護衛の武術だ。

    一定時間生存するための技術を徹底的に磨き、まず自分を守り切るスキルを得てごらん。

    そうすると、世界が変わる。嫌な要求・いわれなき言動に対し、「おかしい」「受け入れられない」「納得できない」「それは嫌だ」と考えるようになり、それが態度にはっきりと表れ、ごく自然に、「NO!」ということができるようになるから。

    そうしたら自分の気持ちに正直になり、立ち向かうこと。相手を倒す必要なんてない。ただただ、移動し続けて、翻弄してやればいい。君は現実的な方法で護身を果たすことができ、よってたかってかかっても捕まえることすらできないいじめ側連中の権威は失墜するから。

    もし君が、いじめられている・暴力にさらされている大切な人を守るなら、その磨きぬいた移動攻防の技術で、ぞんぶんに我に気を引きつけ、引きずり回し体力を奪い、そのうえで電撃的に襲い掛かれ。

    単換掌(もしくは推磨掌転掌式)と双換掌(もしくは陰陽魚掌転掌式)、順勢掌理による単招式(平穿掌・双按連捶・一按一捶・遊歩連捶)、転掌刀理による棒操法だけでいい。

    いじめや暴力から我が身を守る方法は、いじめ護身部~取り返すための技術解説最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」護身術にすべて書いてある。

    今年の夏は、かけがえのない誰か、かけがえのない自分を守るために、時をすごしてみないか。

    君にとって「誰かを守る」という映画の主人公のような生き様は、決して非現実的な話ではないのだ。

    今この瞬間から、受け入れられないものと戦うために武術を始めた時点で、それは確実に現実的なものへと変わっていく。

    花火の下で、海で、うだるように暑い市街地の一角で、夏祭りの灯りがともる中で、心に熱い想いをもって、大切な人・大切な自分と過ごそう。

    後に続く護衛官らよ。今年の夏も、「誰かにとって大切な人」を守る任務を任せたぞ。

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    どん底・逆境の道に入って、新たな可能性が見えた

    いま私は、かなりの逆境にいる。生活拠点を失っている。

    しかし、悲愴感はない。なぜなら、すでにかなり前から、この時に備えて、事前準備をしてきたからだ。

    仕事量を増やす選択は全くなかった。拳法を磨く時間がそがれるからだ。それは私のようなプロにとって、最も避けるべきこと。

    技術があるから後進に指導する立場でいることができる。後進は、貴重な時間を使って水式門の指導の場に来るのだ。それなのに、己を磨くことに甘さを持つ指導者であるならば、なんとも申し訳ないじゃないか。

    前にも、逆境時、動画でメッセージを送ったことがある。今回はそれ以上に厳しい。そもそも、動画を編集する時間的余裕、空間的余裕がない。本ブログ記事も、少しづつスマートフォンで下描きをして、このパソコンに送信し、一気にアップしている。

    しかし、本拠地がなくとも、何とかなるのだ。トイレも、水も、日本国内である以上、公園や公共施設、買い物時のショッピングセンターで、済ますことができるからだ。

    いま私が焦点を合わせてるのが、練習と、サイトの更新作業と、清朝末式八卦掌の研究である

    練習が最も気を遣う。今は一年で最も準備が必要な時期だ。練習による体温上昇を抑えるための氷水入りのクーラーボックスの準備、6時間以上の練習・研究を乗り越えるための6リットルの経口補水液、そして、着替えウェアの洗濯準備である。

    風呂は、氷水で練習後、しっかりと身体を拭けば何とかしのぐことができる。寝ることもである。未明から練習をすれば、夜間に車を停める不審行為を避け、涼しい時間に練習できる。

    ここまで工夫するなら、いっそのこと、朝から晩まで仕事すればいいだろうと言われる。しかし6時間でも足りない練習研究時間は、今の私の最も必要な時間なのだ。

    何十年とやってきて、今こそ研究練習が最も必要だと、心から感じる。一時の安心のために、その貴重な時間を食いつぶすことは考えられない。

    私も、拠点を失った瞬間は、その苦しさから「道を違えたか!?」と思った。しかし冷静になると、そうでもないのだ。拠点が無くても、このようにブログを打つこともできる。全国の志ある者に、メッセージを送ることができるのだ。

    ネットを見ると、あまりに、不安や危険をあおる記事が多い。逆境になった際は、「頼れる人に相談しろ」とか、「支援金を申請しろ」といったアドバイスばかりだ。

    しかし、それは、満たされ過ぎた環境(今まで当然のようにあって、不安すら感じることもなかった、揃い過ぎた環境)を失うことを防ぐための手段だ。揃い過ぎた環境など、その多くが無くなっても、何とかなるのだ。

    私は迷わず、「普通に働いてそこそこ拳法と付き合う」道よりも、「とことん拳法と向き合うグランドマスターへの道」を選んだ。

    そしてその道を選んだことで、拠点を維持する重荷が消え、身軽となり、新たにできることが見えてきた。そう、全国の有志に、直接、この清末八卦掌を伝える可能性だ。

    この可能性を実現するためには、まだまだ多くの困難が待っているだろう。しかし困難など、今更珍しくもない。困難に負けているなら、とっくに私は、朝から晩までアルバイトして、「趣味・八卦掌!」とプロフィールに書いていただろう。

    逆境にいる君に・あなたに、「共に行こうぜ」と言えるのは、周りからもあきられるくらいになった自分しか出来ない。

    頑張る必要なんてない。君はすでに奮闘してきた。もうとっくに、「辛い人」そのものなんだ。

    世間はいつも、「辛い時ほど己を見つめ、出来ると信じよ」とか、「お前よりも辛い人はいくらでもいる」などといって、辛い人の中に加えてすらくれない。

    そんなことはない。君が辛いなら、もう十分「辛い人」なんだよ。

    そんな中でも、現状を嫌い、取り返したいと願い、君は少しでも前に出た。それってすごいことじゃないか!私は君を、あなたを、心から尊敬する。私も君と同類に見られたいくらいだ。

    今、打つ手を止めると、外は曇った田園地帯。誰も居ない。今日も誰も、私を認めることはなかった。でもそれが普通。

    三十数年と八卦掌を練習して来て、一体どれだけ、人の称賛を受けたことがあったか?リップサービスなど、いくらでもあった。でもそんなもの、心から言ってないことはすぐわかる。心からの称賛は、ほんんの少しだ。これだけやってきてもその程度。最近は、人に認められることに期待などしなくもなった。

    だから君は、君の心の道を進んでいいよ。行こうが行かまいが、人は気にもしてない。なにか言ってきても、言った瞬間からそいつは君をことを忘れ始めるのだから。

    そんな人間のことばなど、君の決断の参考に、少しでもしてはいけない。君の心に従え。

    わたしもそうした。明らかに、その他大勢の人間、つまり多数派が採らない道の方を選んだ。そして、先ほども言ったが、本当にやりたかったことの道が、少し見えてきた。こちらの道に進まなければ、見えなかった。

    応援している。再度言う。君の、あなたの心に従え。苦しむも楽しむも、全て君だけにかかってくる。だから、君の心に従え。人は君のために少しも、苦しんでくれない。君だけが、選択によって苦しむのだ。だから、君だけに、選択権があるのだ。

    私もまだまだいじめの戦いのど真ん中に居る。私は進み続けるよ。君も、その道を進むなら、共に進んでいこうじゃないか。

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    「息抜きだって強くなるために必要よ」の言葉を胸に

    強くなるために、前に進む。とても大事なことは、ひたむきな姿勢。

    しかし、やりすぎは時としてゼロにしかねない。燃え尽き症候群というのがいい例である。

    燃え尽きなくとも、身体が悲鳴を上げることがある。十代だから、まだ無理もきくだろうが、君には、他にすることもあるだろう。取り返すために進むことで、今だからこそ味わうことができることを、犠牲にしなくてもいい。

    私は、実感でこのことを言える。私自身、手を抜くことはなく、「強くなる」と言い聞かせ、ひたすらに進んできた。

    途中から、「強くなるため」が、「どんなことがあっても立ち続けてやる」に変わった。目的が変わっても、ひたすら練習をし続けてきたのは変わらなかった。

    練習は、ほぼ休むことが無かった。堂々と言えるくらい、ずっと練習し続けてきた。強迫観念に縛られているのもある。「オンオフをうまくわけなきゃ」とか、「休息も必要」と一番言う資格のない自分かもしれない。

    清朝末式八卦掌を極めたら、二人であらかじめ決めていた全国拠点で目的を達成しながら周るつもりだった。生徒を集め、人を育て、門を大きくし、日本各地で誰もが、弱者生存第一の護衛武術を学ぶことができる環境を作ろう、そう約束していた。

    私にとっては、同級生、あの人にとっては妹との約束である。たがいに真剣だった。互いにもう、若くないため、身体の動くうちにと思い、ひたすらに練習をし続けてきたのだが、私の技術向上が遅く、間に合わなかった。

    あの人を失ってから、「ひたすら」の練習がエスカレートし、何度も身体各所を壊した。よく一番弟子の子供に叱られる。それでも、なんとか、ごまかしながらも今日まで進んできた。

    きっと今の自分を見たら、あの時、あの頃みたいに顔をしかめて、叱ってくれるのだろうか。

    「休んでもいいんじゃないの?」と心配がる顔に、「練習せずして何の水野義人ぞ」と笑って取り合わなかったあの頃の自分を心から叱ってやりたい

    島尾や氷見漁港で、何度も、一緒に絵を描いた記憶がある。釣れない釣りをした記憶がある。

    その都度、拳法の動きをして試す自分に、笑いながら、なかば冗談まじりに、遅咲きの達人をたしなめながら言っていた。

    「釣りの時は釣りでしょう?」その言葉は、しっかりと受け継がれたようだ

    北陸富山本科の前日は、あの場所にいって海を眺めるのが常となってしまった。いまは能登地震の影響による経済的事情で、富山高岡に拠点を失ってしまったため、とても遠く感じるようになってしまったから、いくと感慨深さがわき、ぼんやりとしてしまうのだ。

    一人じっと考える時間が増えて、改めて思うのだが、この時間がとても大切だと思った。

    心が休まる時間。富山に来たら、誰も居ない海で、なにか飲み物でも飲みながら、ぼんやりする。

    前出の一番弟子の子どもが、ぼんやり時間が好きである。「たそがれ」るというようだ。彼女は、練習時は熱血闘士だが、平素はのんびりしている。オンオフを切り替える天才である。

    鬼のような顔が、この時間は、とても穏やかになる。きっと私よりはるかに短い期間で、ここまで到達したのは、休息をしっかりととっていたからだろうか。

    今回の富山本科前日、講習会の開催はなかったから、時間が空いた。「であるならば」ということで、三人で、浜辺を散策する。

    「練習は、もうしたんだから、ここでは無しだからね」とくぎを刺される

    休む時は、休め、ということである。

    前に進む意欲が強いと、そこがあいまいになり、練習が重荷になってくる。休む自分を責めるようになる。

    二番弟子たる筆頭門弟も、ここが大変下手である。私と同じである。強迫観念で練習をする悪いクセがある。

    浜辺で、筆頭門弟と打ち合い約束組手を思わずし始めた時、「ほら、また始まった」と一番弟子。言ってるはなから、休み下手の二人はたしなめられる。

    やりすぎは、治しにくい悪習慣ともいえる。疲れが蓄積される。そして、最も恐ろしい、燃え尽き症候群に陥る。強迫観念での練習へとつながる。

    何が言いたいかというと、勇気を振り絞って練習をし始めた君なのに、そんな苦しい気持ちまで持たなくていい、といことだ。

    行動し始めた、それだけで大変すばらしいこと。

    周りは強さうんぬんで君のことを判断するかもしれない。しかしそんなものいい加減なものだ。強さの尺度なんて、それぞれある。その人が勝手に決めたその人なりの尺度だ、君はそんなもので判断されるつまらない存在などでは決してないのだ。

    少しでも前に進んでいれば、周りの人間が君のことを忘れてぼんやりと過ごしている間に、君はどんどんと上に昇っていく。

    「いつの間にこんなに」と、言われるだろう。その日は必ず来る。だから焦らなくていいんだよ。

    日々の積み重ねこそ、最強だ。これこそが最強だ。だからもう君は最強なのである。日々自分のペースで少しづづ積み重ねることができている君は、最強なんだよ。時間の流れを味方につけているから。人が気づかないうちに、圧倒的な積み重ねをすることができるから。

    私に休むことの大切さを説き続けてくれた人も、その人の子の一番弟子も、言う。

    「意志の強さこそ、最強。意志の強さは達人のあかし。あなたは鉄の意志だからね、それだけで大丈夫」

    きみにもその言葉がふさわしい。

    『いじめ護身部|取り返すための技術解説』読んで練習してくれていること、わかってるよ。

    しっかりと届いている。そのまま、君のペースでいいから、進むといい。きっと知らないうちに気づく。

    「ここまで来たんだ」と。

    その時を楽しみにしていよう。そこまで行ったら、誰も君に近づくこともできない。振り回し、振り切ってしまえばいい。やり続けた君だけができる戦い方となる。

    それこそが、君にとっての八卦掌である。君にとっての中国拳法である。一緒に、達人になる道を進んでいこうじゃないか。これからも、動画とホームぺージの解説を見続けて欲しい。解説に出し惜しみは一切ないから。

    すべては、いじめという、受け入れられないものに「NO」を突きつけ、取り返すために。私自身、まだ取り返すための旅の真っ只中であるから。一緒に進んでいこう。

    『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップ

    八卦掌水式門ホームページ:いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

    いじめ護身部なくして八卦掌水式門も清朝末式八卦掌もなし

    「このコンテンツ(いじめ護身部のこと)のシリアスな内容が、影響を与えているかと」

    突然電話をかけてきたネットマーケティング会社の若者らしき男性が、そう口を滑らした。

    その瞬間「このコンテンツこそ水式門のすべて」というような返答を真面目にして、電話を切った。怒ったわけではない。

    考え方の違いである。彼は私のサイトや門の深い内容、そして自分の歴史を当然知らない。悪気があったわけではないので、自分の考えを述べて終わらせた。

    あの時の戦いは、過去の過ぎ去った話ではない。40年近くも前の話だが。

    あの時のことにリアルに関わった人間は、加害者の人間以外、皆いなくなってしまったが、私の中では、未だにあの時の戦いが終わっていない。あの時ああすればよかった、あの時このようにしておけばよかった、と仮定し続け、はや37年以上の月日が流れた。

    膨大な時間をかけ、弱者護身の可能性のある方法を見いだし、今まさに、その方法との戦いである。目途がたち、形も目に見えるようになったけど、目に見えるようになっただけである。

    今この時も、常に練習をし続けている。目指すべき地点にたどり着いても、その場からまた先が見える。まだあそにいける、まだあんなところに行かなければならない場所がある、と、昔描いた地点にたどり着いた時、見えてしまう。

    いじめ護身部だってそうである。

    まずプロトタイプとして、清朝末式八卦掌に基づいた一般的な護身術を作成し、そこから、学校戦に特化した内容へと変遷させる作業を、もうすでに3回以上繰り返してきた。

    今再び、一般的護身術たる『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術』を洗練させている段階である。これはいじめ護身部~取り返すための技術解説(修正後3回目の形)をフィードバックさせた一派的護身術である。

    伝え方がまだ甘い。もっと具体的に伝えることができるはずだ。でないと、護身という、命を賭けた一大事において使う技術の解説書として、役目と果たすことができないかもしれない。

    自分の伝える八卦掌の内容があまりにマイナーなため、現状では八卦掌に興味のある程度の初心者にすら、相手にされていない。八卦掌に数十年向き合って、八卦掌一筋でやってきた。国内の著名八卦掌家はたくさんいるけれど、彼らに劣るとは全く思っていない。

    彼らよりも勝るかどうかは不明だが、間違いなく言えることは、私は全く他の先生らに劣らないということ。彼らの熱意に負けるはずもない。なぜそのように言い切れるか。それは、自分のできる範囲内で、目いっぱい向き合ってきたからだ。

    私は自責の念から、そして同級生との約束から、いままで「怠ける(一般にいう、さぼる)」をしてこなかった。自分にまけそうになったら、その都度、厳格に戒めてきた。同級生のお姉さんが、その切羽詰まった姿勢に常に懸念を示すくらいに。

    これはすべて、いじめ護身部の内容を、練習するに値する内容に引き上げるためである。他流試合で勝つためじゃない。組手で兄弟子や弟弟子に勝つためじゃない。

    そんなことどうでもいい。いじめ護身部の内容の引き上げに役立つと思ったら、皆の前でもためらいなく試したい技法を試し、倒されてきた。それを失敗の一例としてフィードバックでき、刀術も徒手術も、どんどん洗練されていった。

    型を綺麗に演じることができても、実際に人や目標物を打つことができない人間が多い(実は、ほとんどがそのタイプである)。

    そして鍛えぬいた穿掌で、実際に人の(頸部)急所を打つことはできない。しかし思い切り、走りぬきながら打たないと、実戦では使うことができない。そこで、全力で想定敵をかわし続け、トップスピードで勢が極限に達した状態で、スポンジ棒で作った支柱を打ち抜く練習をし続けてきた。

    人は笑う。「止まったものを打っているだけ」。しかしトップスピードで、指第一関節部分だけで打つことをできた人間はいない。動画を見ていただければわかるが、手が伸びきった瞬間に、支柱が突然飛ぶ。それは、指第一関節部分だけで打っているから、そのように見えるのだ。拳でぶつけて打つなら、もっと大げさに、のっしりと倒れる。

    そこまで考えてみているだろうか。そこまで考えている人間はいなかった。ただ皆、何気なく、止まっている目標物を打っている、と認識して批判しているだけだった。

    徒手技術では、実際に人を打って技術を習得する必要がある。

    しかし、組手をやってきて分かったのだが、実際に人を打つことはできない。防具をつけるのでは、まったく感覚も違うし、防具付け組手でも、頸部を穿掌で打つことはできなかった。

    そこで、人間以外を打つ必要がある。しかし人間以外の物は、当然動かない。動かないなら、自分が極限まで移動慣性の中に己の身体を置いた状態で、正確に射抜く練習をすればいい、と考えた。

    その方法を思いついてから、はや十数年。間合いはほぼ取ることができるようになったし、いつでも穿掌を急所に入れることができるようになったが、そこからまた、新たな問題が生じてきた。

    持久力の問題である。体力が落ちてきた。息が上がる戦い方ではあるが、息の上りが速くなってきた。乳酸がたまりそれが身体を止めるまでの時間が短くなってきた。

    これは大きな問題である。また新たな旅が始まりそうだ、そう感じている。

    恐らく私がこの世から退場するまで、いじめ護身部の道は続くであろう。これまでもそうだったように。常にこのことばかりを考えてきた。

    最近やっと、「八卦掌 いじめ」で調べてきてくれる人が増えてきた。初めて「八卦掌 いじめ」で調べてやってきた人が居る足跡がアクサス解析で判明したときは、嬉しくて泣いた。

    やっと本当に見て欲しい人が訪れるようになってきた。経済的には、私はもう破綻寸前であるが、ここにきてやっと、ほんとうにやっとのことで、届きはじめてきた。あと少しだけ、ここにいさせてください。神様がいるなら、本当にもう少しだけ、ここにいて踏ん張らせてください。

    「いじめ 護身」、「いじめ 護身術」、「いじめ 辛い」でもたくさん人が来てくれることが目標。その段階に至ると、もっともっと多くの戦う君に、技術を届けることができる。

    ・・・それまで、もっと磨きます。もっと磨き続けるので、神様がいるなら、磨いたご褒美に、そのキーワードでも戦う皆が訪れるようにしてください、お願いします。

    清朝末式八卦掌は、現代護身において極めて有効である。しかし敵と打ち合う格闘技的ロマンはないため、敬遠される。人の協力もない。顔を出さなくとも、映りたがらない。無名な、人から見たら特異でマイナーな弊門に、関わっていることが恥ずかしいと感じるのだろう。有名になれば、ホイホイ寄ってくる。しかし無名であると、どんな初心者であろうと、批判され、笑われる。

    しかしそんなことはどうでもいい。新しいことをすればそうなる。宗家になる人間に一番必要なことは、結果が出なくても、笑われても、貫くことだ。忍耐こそ、宗家に求められる資質である。技術ではない。技術ならある。

    このスタイルを貫く。貫いたおかげで、梁派はほぼ破門状態となり、人も来なくなった。しかし人が来ることに合わせて得るものって何?

    お金?有名になる?どっちも中国拳法を追求している以上、大したことない。そんなちっぽけな見返りのために、自分の路線を外したりしない。

    だから、サイト上のいじめ護身部は、もっともっと、内容を濃く、いじめ対策用に、いじめられる者の視点で、洗練させていく。

    だから安心して見ていてほしい。

    いじめを克服するだけにとどまらない、学んだ者が将来も大切な人を守ることができる知識・方法として、どんなことがあっても弊門サイト上に掲載し続ける。

    これは同級生との約束でもあるし、全国でいじめに苦しむ者と、いまだにいじめと戦っている自分との、約束でもある。

    心は常に君たちと共にある。一緒に前を見て歩いていこう。

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    成功法則「一万時間の法則」は、八卦掌達人への道そのもの

    一万時間の法則。

    おおざっぱに説明するならば、ある特定のスキル・技術の習得に向けた練習に一万時間を費やしたら、その道の達人になる、というもの。成功法則の一つである。

    私は、この法則が大好きである。そして、自身が、あの頃描いた「八卦掌の達人」のレベルを超えることができたことから、この法則が「正しかった」と実感した。

    ※この法則は批判が多い。努力至上主義者のバカ覚えの一つの根拠だとか、だらだら長く行うことに意味はないとか、一部の批評家がよく自身ブログ・サイト上で批判している。批評家という人種は、いつの時代も行為者と対比される存在であり、行為者たる革新者の背中に唾を吐き続けてきた。私は「批評家」としての人生ほど、送りたくない人生はない。

    一万時間を越えるためには、一日3時間の練習を、9年間続ければよいことになる。9年という時間を長いと感じるか、短いと感じるか。私は、「たった9年で達人になることができるのか」と嬉しく思った。

    一万時間の法則は、先ほども触れたが、批判が多い。しかし、多くの人間が、特定の分野の特定の領域に、一万時間もかけていない。この法則を批判する人間のうち、どれだけの人間が、ある分野の特定の領域に、一万時間かけているのだろうか?

    昔の仕事で、多くの弁護士と接する(戦う)機会があった。彼らは法律全般のプロと言われ、多くの番組でさもすべてを知っているかのようにコメントをしている。しかし、法律にも、そしてそれに付随するトラブルにも、色んな分野・ジャンルがある。

    家庭裁判所がらみの訴訟でも、離婚・親権・財産分与・未成年者後見など、多くの分野がある。そして民事の弁護士であれば、物権や債権関連の訴訟もこなさなければならない。

    それらに全部精通するのは大変難しい。日本においても、それらに関わる判例(裁判例)は膨大である。

    彼らは、他の弁護士が書いた要約本を、訴訟や調停の前に集中的に読むことで、急場をしのいでいた。とても一万時間におよばない。それでも「弁護士」という名前だけで一般人は恐れ、不本意な要求を冷静さを欠く判断の中で飲まされるのである。

    彼らは、しょせん付け焼刃のため、いくら学生時代飛びぬけて勉強ができたとしても、皆と同じ主張しかしない。とびぬけてないのである。多くの弁護士が、司法試験予備校におけるマニュアル要約本で合格してきた。受験長期化を望ましくないものとし、最短合格を売りにする予備校で。

    私は、受験時代、ひたすら基本書を読み込み、法的思考法(とても大きく要約するなら、権利と権利間の調整の視点のこと)を身につけることを心掛けた。民法で言うなら我妻栄氏の民法。刑法で言うなら前田刑法。民事訴訟法なら、伊藤眞氏の民事訴訟法だ。

    読みつくされ、受験特化書籍でないため敬遠される風潮にあったこれらの本からは、まさに昔日の忘れ去られた八卦掌の、飾り気のない、術理の本質を淡々と伝える姿が重なって見えた。これらの本は、八卦掌でいうなら、根幹の身法、八卦掌となる前の「転掌」である。

    著書らの、その論点に達する思考過程を何度も追体験することで、切り口を変えて論ずることを要求される論文試験を乗り越えたのだ。何度も読み込むと、エッセンスが見えてくる。楽しくなってくるのだ。受験ジャーナルという司法試験受験誌に、論文試験の模擬問題があり、添削もしてくれるのだが、読み込み回数が20回を超えるあたりから、安定した成績を残すことができるようになってきた。

    八卦掌も同じである。いつも同じ角度、おなじ技でくるわけではないのだ。

    後で触れるが、一つのことに集中して打ち込むと、一万時間よりもかなり早い段階で、深い疑問に達する。深刻な伸び悩みの時期である。

    先生や書籍の著者が触れているような、公開されている一般的な知識・ノウハウでは、おおよそ太刀打ちできない。それくらいの深刻な壁がたちはだかる。その壁をのり超えることができなければ、一万時間まで行かないのだ。

    つまり・・・ただ単に、何も考えずに、根性だけで一万時間を迎えられるわけではないのだ。批評家の批評のほぼすべては、その点について触れていない。

    この壁を乗り越えるには、その時間まで積み重ねたことによって得た、自分だけのノウハウだけが頼りとなる。自分だけの、誰の後押しもお墨付きもないノウハウのため、それを信じ抜くためには、大変な勇気と意志が必要となる。

    これこそが、自身の「限界」なのである。それを突破することで、とてつもない飛躍となる。拳法で言ったら、悟りであろう。今でも覚えている最初の限界が、武器の壁であった。これを乗り越えて、大きな飛躍があったのだが、その後、八卦本門に入ると近代スタイルに触れ、また大きな、実はもっとも過酷な壁が来ることになった。

    私は、近代スタイルで強者を打ち倒そうと練習に明け暮れていた。仕事以外の時間を、すべて練習に充てていたこともあった。家内らが、心配するくらいに。

    私にとってのその限界を超えるために、あらゆる方法を試したのだが、倒すことはままならず、ふと、後ろに下がり続けることに素直な子らの行動を見て、思うところがあった。

    「思うところ」の有効性を確かめるため、その時から再び6年以上、「思うところ」のスタイルを試した。ある時、既存の定式八掌の主要技が、後退スライドの技法であったことに気づいた。

    その気づきにより、昔関東で中国人就労生から習った八卦刀術(単換刀)が、八卦掌の原型となっていることに気づき、単換刀の身法が、八卦掌の中核技法『斜め後方スライド対敵身法』の2大身法を含んでいることを確信したのだ。

    つながった瞬間である。八卦掌の2大転掌式・単換掌と陰陽魚掌、そしてそれらから生み出された順勢掌の術理、八卦刀術。双身槍。

    その時、すでに2万時間を超えていた。しかし、八卦本門に入ってからは一万時間くらい。

    現在、自身の修行期間は35年を超え、きっと3万時間も超えているだろう。しかし、もはや、時間はどうでもいいくらいにまでなった。

    何が重要かというと、一定の時間とにかく打ち込み続けることで、超えるべきものが見えてくる。限界突破である。そして超えるべきものが見える頃には、自分は、歩き始めの頃とは比べ物にならない遠くの場所へと来ているのである。ここまで来たから、限界が見えたのだ。

    一万時間は嘘、とか、まやかしだ、とか、そんなくだらない批判なんて無視しておけばいい。まず歩け、まず動け。そして動き始めたら、とにかく続けることだ。なにもかんがえなくていいい、ただ続けるだけでいい。効率的な努力なんて、自分が経験し失敗を重ねた後でしかわからない

    八卦掌みたいな拳法ほど、自分のオリジナルの気づきが頼りになるものはない。達人になるための、唯一のパスポートだ。○○先生の伝えた型なんかじゃない。自分の練習の果てに気づいた気づきこそが、悟りへと導く一筋の光なのだ。

    八卦掌水式門富山本科イメージ