八卦掌水式館は、その立ち上げのきっかけとなった誓いを果たすため、いよいよ、いじめ護身術の本を出版する。
私がずっと、考えてきたことだった。本として出版する以上、そこで書かれた内容は独り歩きするため、慎重さを求められる。しかし私が長年の闘いの中で得たものを、とにかく届けたいと思い、弊館のサイト内に「いじめ護身部」を創り、そこにいじめの暴力に「No!」を突きつけるための技術を公開してきた。
納得のいく書籍を作り上げるためには、実際に発刊して経験を積むのが一番、という弊館軍師どのの意見に従い、2年前から、技術を伝える練習を込めて、転掌式八卦掌の技法を伝えてきた。
今、いちばん最初に発刊した、『八卦掌原型「転掌」から学ぶ自分護衛術』の第3版執筆に取り組んでいる。この執筆に合わせ、弊館一番弟子に私の元に来てもらい、共に研鑽している最中である。彼女は、本書籍が発刊されることを心から願っている。彼女は誰より、いじめ護身部を創ることに賛同してくれた人だった。どれだけ受け入れられなくても、常に価値あることを、私に言葉で表現してくれた。
彼女はまっすぐ過ぎて、時折どころかいつも、常識やら場の雰囲気やらを強制する輩とぶつかってきた。凡人思考を極端に嫌う性格だった。そして、何より、弱き者をいじめたりするのが嫌いだった。勝気で、激烈で、燃え盛るような気概を見せる、ファイター。しかしファイターにとって、私が弱者使用前提武術を追い求める理由は、あまりに悲しいものだった。彼女の悲しみの琴線に触れた。今はなき彼女のおばに関わることだからだ。
私には同級生がいた。小学校では、その優しそうですきとおった容姿から、クラスの男子の視線を集める少女だった。表立ってちやほやされることが好きじゃなかった人だったが、それでも本人の意思に関係なく、人気者であったようだ。それがのちに、一部の女子生徒の不興を買うことになってしまう。同級生の男子生徒から、「なんでよしとごときが、○○と話してんだ」と言われたことも何度もある。私は、同じ通学班だった、ということと、歴史(特に島原の乱辺りが好きだった)好きで、武術とかが嫌いなクセにいつもサムライの絵を描いていたこともあり、変人少年として気にかけてもらっていたのである。本当に泣き虫だった私に、名前をわざと「しきひと」と呼んで笑顔を見せてくれていた、心の優しい同級生だった。
そんな同級生の学生生活は、中学生になって一変した。いじめである。それも、同級生に非の無い形で。男子にちやほやされてすましている、などというほんとうにくだらない理由で。幾度かの些細な失敗を、最悪に悪い形で解釈され、いじめ首謀連中らの行動はひどくなっていく一方だった。私は、その連中が影でしているいたずらを、朝早く教室に行って片付け、抵抗した。先生に助けを求めたりした。しかし助けてくれるどころか、「過剰反応だ」「ヒーローぶってるんじゃない」となじり、それに反発した自分を平手で殴り、押さえつけようとした。昭和の典型圧政教師だったのである。
クラスの同級生らも、誰も手を差し伸べることはなかった。それどころか、誰からも無視され、居場所のないままに震えている彼女の横で、一緒になって首謀者どもと笑い合い、わざと足をぶつけた。暴力はいけない。でも私はついに爆発してしまった。今でもあの時の激烈な感情を思い出す。笑いあっている同級生の一人に、許せん、もうだめだ、もうやめろ!と言い、押してきた同級生を殴り、絶望的な戦争が始まった。
その時から、私は本格的に武術を習い始めた。それまでは、走って、受け身をとっての練習しかしてなかった。しかし、それではいけないと思った。小学生の時から、孫子を読んでいた私だったから、武力が必要であること、防衛力の無い国家は、強者の暴力に蹂躙されることを知っていたからだ。しかし、近くの空手道場も、少林寺拳法の道場も、皆同級生らが通っていた。四面楚歌の私は、誰もしたことが無い手段(武術)で、敵となったいじめ同級生らを、圧倒する戦略を考えていた。弱かったから、奇襲しかない、と本気に真剣に、考えていたのである。
私が練習をし始めたことは、すぐにいじめで苦しんでいる同級生の知るところとなった。しきひと、どうしたの、空手なんて、どうしたの?って、理由を分かっているのに聞いてきた。私が最初に手に取ったのは、空手の解説書だったのである。何度も聞くなかで、ふとつぶやいた、「ありがとう」の言葉。絶対に忘れない。応えられなかった私は、今でも、どうしても忘れられない。
私が練習をしていることで、元気を少し取り戻した同級生と、富山県氷見市の、島尾海岸に行ったのがこの時である。一番弟子の母となる、同級生のお姉さんに富山県まで車で連れて行ってもらった。学校帰り、突如行くことになった。同級生も私も、制服のまま。工事だらけの北陸自動車道を通り、氷見へ。立山は影しか見えなかったけど、今でもあの景色、思いだす。下のイラストである。この記事を書くにあたり、再び書いてみた。同級生も、一番・三番弟子の母もたるお姉さんも、皆そこで生きていた。

「しきひとの道場なら、水式館?水式門だね」の言葉をいただいた。弊館の名前をその時、いただいたのである。水野式だから、水式館ではない。同級生が「しきひとの道場なら水式館だね」と笑顔で言ってくれたから、八卦掌水式館なのである。
」
武術を独学したきっかけは、小学館の「中学一年生」の特集記事であった。特集記事の名は、「俺も男だ、強くなるぞ!」だ。そこには、簡単な空手の技の練習の仕方、腕立て伏せやスクワットの仕方、そして学生時代いじめられていた、という段田男さんの記事の手記が乗っていた。特集ページとしては10ページもなかったが、私は激烈に心が燃え上がった。その本はしばらくとってあったから、すぐに探して読み返し、もっと詳しく知りたい、と思い、武術の本を探したのである。名古屋まで買いにいったが変わった武術の本はなく、しかたなく空手の本を買ったのである(それは後々大変役に立ったが)。
本当に一生懸命、空手を練習した。スクワット、腕立て、正拳突き、巻き藁蹴り、すべてやりこなし、走り込んだ。しかし、私は圧倒されてしまった。独りに向き合っている後ろから、椅子で殴られ、倒れたところを自在ぼうきの柄で突かれ、敗れた。その後、ここで書くのが辛いくらい悪化し、同級生は学校に来ることができなくなった。私のせいである。受け入れがたい悲しい結果となった後に、地元刈谷市の本屋で、佐藤金兵衛師範の『中国拳法 八卦掌』とめぐりあうこととなったのである。これは「流れ」だったのだろうか。その時にはもう、遅かったのに。しかし、まだ希望はあった。遅くても終わりではなかった。しかしもっと練習しておけばよかった。ここから先、いじめを受けて今まさに苦しんでいる君たちに、腹を割って話そうと思ったが、ここまでが限界です。ごめんなさい。本当に、苦しいよね。まっただ中でない自分でも、苦しいのだから、君たちはなおのことだと、心から思う。
同級生が学校にから去り、そしてこの世界から去った時に、わたしはいつかきっと、高めた技術を、世界に届けると、誓ったのである。これはもう、隠しようがないことだ。この部分を話すことを避けていたら、私の今までの行動は、説明がつかないのだから。転掌は正当なものではない、とか、〇〇先生伝とかに、私がまったく興味が無いのは、それゆえである。大切な人を守ることができれば、私にとって「正解」なのだから。
転掌ゆえ、「この技術は女性でもつかうことができるだろうか」が、技を研究するうえでの重要な判断基準となった。しかしもっと深い判断基準を持っていた。「あの時に戻ったら、いじめた連中たちを手玉にとることができるだろうか」である。私はその点をとても厳しくとらえていた。
残念ながら、私は梁派近代格闘術八卦掌で、その問いに対し、自信をもって「手玉にとることができる」と感じることはできなかった。しかし転掌式八卦掌ならば、ここ数年でやっと、捕まらない自信を持つことができたのである。私は、「今なら手玉にとることができる!」と感じたら、拳法の指導をするために全国をまわるつもりだった。しかしいつでも、旅立つことはできたのだ。すでに技術は備わっていた。覚悟が足らないだけだった。
足らないものなど、何もなかった。足らないと思っていたが、余りに多くの豊かなものに囲まれていた。まず健康な身体がある。そしてやりぬいた先に手にした、一朝一夕でない技術がある。いつでもどこでも、私を運んでくれ、雨風から私を守ってくれる相棒車がいる。私を信じ、私がこれから成し遂げることを目の当たりにするために、これまでもこれからもずっと変わらず、笑ってくれる一番弟子をはじめとする娘たちがいる。
このブログを打っている場所は、窓を開けると海の潮騒が聴こえてくる。空を見上げれば、満点の星空だ。愛知の空と同じ空とは思えないくらいの、星の祭りの下で、私はブログを打つ幸せに恵まれている。苦しいことが多い。しかしその中でも、これほどまでの「めぐみ」に恵まれているんだね。
取り返しにいこう。取返しに行く、とは、君にすでに「有る」ものを、君自身が「確かにあるなぁ」と気づく旅のことのようだ。君は取り返したら、何を真っ先にしたい?何もしたくないなら、それこそが、いまほんとうにとりかえしたいものだ




















