どこが悪い?行きたい場所へいつでも自在に行ける技術が。

自分は、『行きたい場所へいつでも自在に行けること』を目指して、練習してきた。

誰よりも練習したかどうかはわからない。しかし自分の出来る範囲を超えて、練習してきた。

生活レベルが最も低いレベルをまたいでも、マイナスになろうとも。

こういうことって、人との比較じゃない。自分次第で完結したい。人との比較ほど意味のないものはない。清朝末式八卦掌は、護身術で『他人次第』ではない。目指すところは『自分次第』の領域だ。

『自分次第』として目指す境地・段階。それは、『自分の行きたい場所へいつでも自在に行けること』ができる段階だ。

技術とか、メンタルとかで相手に勝つとか、ではない。武勇伝を見聞きすると、たいがい、相手をねじ伏せたりする話がおおい。

そうではなく、相手が何を言ってこようと、どのような立場だろうと、どんな技術を持っていようと、その場をやり過ごす技術があり、その場から離脱したり、相手から逃げ続けて長時間時間稼ぎができるなら、それでいいではないかと考えた。

そしてその段階を目指し、焦点を定め、練習してきた。気が楽になったね。敵の攻撃を、成功するかどうかわからない手技で対抗する不安から解放されたから。見た目はカッコよくもない。

逃げてばっかりと、八卦掌の目指す深いところを理解しない人には呆れられるが、そんなものはどうでもいい。心の平安、我が身安全第一、弱者なりの護衛方法を極めたいと思って、まい進してきた。

『自分の行きたい場所へいつでも自在に行けること』ができる段階に至るならば、私はどのような境遇に至ってもいいと考えた。そして、あと少しのところまで近づいてきたとき、息が上がっても動き続けることができるようになった。

息が上がっても、振り切ることができるようになった。そして自分行きたい場所へ、行きたい、行こうと判断した時、行くことができるようになった。行くことすら考えないで、無意識に、パッと目に入った誰も居ない場所へ、言い換えるなら、己の感覚が命じる敵のいない安全な場所へ、行くことができるようになった。

「本当に、野生なんかから・・・倒したのかよ」と言われた時、

「倒してないですよ、逃げてくれただけ。すぐ動ければ、やられないですね、見てみますか」

と堂々と言うことができる

野生との戦いをなめているのではない。野生の前では、人間など逃げるのみだ。野生の前では、武術のスキルなど、ほんのささいな差でしかない。

しかし、武術によって磨いた『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルは、野生の前でも、瞬間的な回避行動の発動として、威力を発揮する。この部分だけが有効である。

最近上げた動画は、その部分について少し触れた。瞬間的に、大きな力を発し、今居た場から少しでも移動する。これも自分次第である。瞬間的の大きな力で相手を打つ。当たらなかったらどうする?攻撃なんて、ほぼ当たらないもの。であるなら、自分を安全な領域に移動させる方に、発力(発勁)を使った方が確実ではないか。

今回の動画でも一定数のマイナス評価がつく。マイナス評価をする行為ほど、バカげたことはない。自分次第の領域で完結させるための発力に、なんのケチがつけようか。

この領域に至るまでに、どれほどの練習をしているか、どれほど考え抜いたか、どれほど繰り返したか、そんなことを想像もできず、ただ人のしていることにケチをつけるつまらない人間が嫌いである。

自分次第であり続ければ、たとえ誰かが、強大な力で人を倒すことを売りにして威勢が良かろうと、それはそれ、とみることができる。

自分のところに人は集まらないかもしれない。ロマンがないから。でも八卦掌なんて、護衛護身術。見世物ではない。自分を守ることで大切な人を囮(おとり)護衛できるなら、私はそれで必要十分だと確信する。

よって、人を強大な力で打つ練習などしない。手技で真っ向から、華麗に防御して攻撃するコンビネーション練習などしない。斜め後方へ安定して移動しながら、『勢』を保って対処する方法ばかりを練習している。

決して簡単ではない。難しいし、身体軸の安定が求められる。やればやるほど、『翻身旋理・刀裏背走理』の重要性を痛感する

まだ足りない。自分の目指す領域に到達すると、また新たな行きたい場所が見える。このシチュエーションで、より完成度を高めたい、そう思う。この道具を使っても、この術理で何なく実行したい、と思える。そう考えて、刀も、長棒も、双短棒も、連身藤牌も、扱ってきた

私の仮想敵は、野生である。イノシシである。鹿である。カモシカである。とんでもな筋肉とキバ・角で、命がけで立ち向かってくる脅威の敵である(熊は想像もつかない。逃げることすらも想像できない)。

『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルを磨いて磨いて、その場から回避する。その技術があることで、職責たる「闇を照らす」ことで犯罪を未然に防ぐことができる。野生が怖いからといって、闇を照らさないわけにはいかない。その職責を果たすために、『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルは欠かすことができないのだ。

その視点で、発勁動画もみて欲しいものだ。自分が身体移動に、瞬間的に大きな力を使う理由を。

これは、自分の動画に定期的にマイナスをつけて満足しているどうしようもない阿保たれに言ってるのではない。清朝末式八卦掌に価値を見いだしている、才能ある未来の仲間に言っている。

ブログ内容は、すべてこれらの天才に向けて発している。彼ら彼女らになら、届く。

八卦掌水式門富山本科イメージ

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