月別アーカイブ: 2023年11月

清朝末式八卦掌は、現存流派に縛られない成立当時原点八卦掌

八卦掌水式門で指導する八卦掌には、名前がある。「清朝末式八卦掌」だ。

名前なんてどうでもいい?いや、国内主流の近代スタイル八卦掌と同一視されると問題があるため、この名をつけた。それくらい、清朝末式八卦掌と近代スタイル八卦掌は、別物体系なのである。

程派、尹派、梁派・・・それら著名流派に加え、八卦掌にはたくさんの流派がある。

そもそも「派」とは「派生」や「枝分かれ」のニュアンスを含む。

だから私は、自分が指導する八卦掌に、「~派」という名称はつけない。つけたくもないし、そもそも、~派という名称の入り込む余地がない。

なぜなら、私のたどり着いたものは、原初のままの、枝分かれする前の八卦掌だからだ(原初と近代に優劣はない。スタイルの違いである)。

「原初のやり方に忠実に従った原初のスタイルによる」の意味なら、「~式」こそがふさわしい。よって、清朝末式八卦掌と題うっているのである。私は、この呼び名を大変気に入っている(~派と呼ばれるのは、本当に嫌だった)。

この呼び名は、サイト上にて言うにとどめている。門弟にとって、このようなことはどうでもいいことだからだ。私に続く門弟は、各人思うように進むのがいい。

そもそも、弊門指導の八卦掌が、原初スタイルと言い切ることができるのはなぜか。

それは、各流派に共通して残っていた型・姿勢から推しはかり、そのうえで、30年以上もかけて実戦・組手・単独練習の果てに確信したものだからだ。他人の文献をを参考にしたからではない。現在の中国国内の著名先生の書籍にも、清朝末式八卦掌に関わる記述はなかった。隠しているのか、それは分からない。しかし書いてないのは事実である。

拳法は、書物での伝習は難しいとされる。すべてを書物から、では確かに大変だ。しかし、究極の達人先生から教わらずとも、(指導許可を得るくらいの実力を持つ)先生から、動作の仕方・手順を教わりさえすれば、あとは、ひたすら繰り返すことで、技の術理も含め、すべてを君の身体が教えてくれる、のも実感している。

私たちの身体は、あまりにもすごい有機体である。科学の力をもってしても複製することなどできない、奇跡の物体である。

その奇跡の物体が、教えてくれたものだ。「このやり方・・・いいな」「やっとわかった、こういうことか!」突然感じるその悟り・サインこそ、真実が分かった時だ。そのサインを積み重ねていき、たどりついたのが、この清朝末式八卦掌。だから「確信」しているのである。

もちろん、いまだに謎の部分もある。しかしそれは、これからの研究の果てに、きっと明確にわかるもの(つまり、引き続き、死ぬまで、ずっとずっと追い求める、ということだ)

よく人は言う。原点回帰ですか?原理主義ですか?と。いいや、違う。「清朝末期頃のスタイル」にたどり着くのは、ゴールではない。通過点だ。

私は、もっともっと先を見据えている。しかし、ここまで時間がかかり過ぎてしまったのも、事実。試合想定・強者使用前提となり、本来の八卦掌が持っていた最大の特徴から離れてしまった現在主流の近代八卦掌からの離脱は、想像以上に大変であった。

習っていた門を事実上追い出される形となり、当時は相当憤っていたが、考えようによっては、全く自由に行動できる、ということ。

事実、所属門を辞してからの技術の向上は、すさまじいものがあった。所属していた時は、梁派の技術体系に疑問を持ちながらも、それに追随する自分がいた。しかし今は、問題なく離れ、どんどん後退スライドし、縦横無尽に駆け巡っている。

練習の最中、敵前にとどまる練習を少しだけ行っている。その後、後退スライド術理に沿った清朝末式で練習をし始める時、いつも思う。「なんて自由に動くことができることか!」

私は気づかないうちに、著名流派の形式主義に陥っていたらしい

近代スタイルでは、敵の力とぶつかるのを避けられない。どこかしこで必ず、敵の力と積極的に抗する場面がある。その抗する瞬間をやり過ごす技法が、あまりにも難しく、成功を妨げる

やり過ごす技法を完璧にこなす人を、ほとんど見たことが無い。「相手次第」という極めて厳しい技術体系を克服するような技法は、相当習得が困難だ。

それには、膨大な対人練習(相手を必要とする練習)が必要となる。清朝末式は、最初こそ術理をマスターした人間の導入が必須であるが、その後は、対人想定練習(対人を想定した一人練習)でかなり上まで技術を上げることができる。しかし、近代における力とぶつかる瞬間を制する技術は、対人練習でないと独りよがりとなってしまう。

正直、近代八卦掌を練習している者の中で、対人練習を定期的に行えている人間はどれほどいるだろうか?私は、師の会に所属していた時、必ず、対人練習に積極的に挑んだ。

相手に圧倒されても、そこから得るもののために立ち上がって臨んだ。あれほど積極的に対人練習に挑んでいる人がどれくらい、近代八卦掌修行者にいるだろうか?八卦掌の経験者と手合わせをしたことは何度もあるが、対人練習をやり込んだと推定できる人に出会ったことが無い。

これでは力任せの攻撃をいなす技法は手にすることができない。「相手は体格がいいから仕方ないね」とよく耳にする!が、それは実戦では「死」もしくは「蹂躙」を意味する。私は身をもって経験したから間違いない。

これからますます、清朝末式八卦掌の指導を加速させていく。弱き者が立っているためには、このスタイルしかないと信じているからだ。

全く迷いがない。梁振圃伝八卦掌で指導許可を得た自分だが、指導許可をひっくり返され、一方的に苛酷な条件を付された経緯があり、梁派に未練すら湧かない。

個別指導科では、梁派近代八卦掌コースを新設している。しかし、当コースは仮入門制なしで教える(グループでの指導にも応じる)。仮入門制を採らないくらい、梁派の名にこだわってないということだ。(梁派近代八卦掌コースでは、それだけの履修修了で八卦掌第7代掌継人にはしない。護身や指導ができないからである)。

強者の力任せの攻撃に圧倒されているなら、弊門で清朝末式八卦掌を練習しなさい

女性に護身術は意味がない、と言われて行き詰っているなら、弊門女性本科で、清朝末式八卦掌の術理を学びなさい。

いじめで体格のいい複数人の同級生に、意に反する要求をのまされているならば、いじめ護身部の動画を参考に練習をし、遠隔地生科を利用して学びなさい。

本当に身を守ることができる護身術を学びたいならば、君が・あなたが、よほど体格や筋力等で恵まれてない限り、力がぶつかるスタイルの格闘技をもとに作った護身術では、護身を果たすのは難しい。清朝末式八卦掌の護身術そのものの技術体系を味わいなさい。

後退スライドし、縦横無尽にかけめぐり、護身のみであれば、頃合いをみて、キロメートル単位で離脱しなさい。確実に護身を果たすことができる。既存武術のような小手先の手技で防御するな、清朝末式八卦掌の術理による、圧倒的な移動距離で防御せよ。

趣味やファッションで護身術を学ぶなら、それはそれでいい。しかし、本当に護身が必要ならば、力がぶつかるスタイルは、対人練習環境が整っている道場でない限り、避けよ。

もし一人で練習するしかないなら、八卦掌水式門の入り口を叩け。清朝末式八卦掌の術理を学びに来なさい。やる気のある者との出逢いを楽しみにしている。

八卦掌水式門富山本科イメージ

後退スライド身法は、弱き者同士で模索した形。今からだ!

相手の状況や技術、体格などに影響されないこと。

そのためには、相手と接触することは極力さけること。私が習ってきた武道・武術・護身術は、皆、敵の力とぶつかるものばかりだった。

敵の攻撃を、手で防御している時点で、すでに敵の力とぶつかっている。武術・武道をやる男性の中で、私は確実に体格が劣る。体重は少なく、背も低い。自分の未来を変える戦いの後、ずっと、力任せの攻撃に、弾き飛ばされてきた。

八卦掌に初めて出会った時、間もなく、この技術が力のぶつからないスタイルを目指しているものだと分かった。普通はその点に気づかない。佐藤先生の本には、力がぶつからないスタイルであることにあまり触れていなかった。それでも分かった自分は、やはり八卦掌の天才のようだ。

それ以後習っていく八卦掌技法は、まともに力がぶつかるものが多く、中国拳法の会得の方法が「師匠から習う」ことしか思いつかなかった当時の自分は、愕然とした。

力がぶつかった時に、それを補うため、繊細な技法、秘伝めいた技法、何年も練習しないと習得できない技法が必要となるからだ。

その現実を知った時、一部の高度技術を習得した人間の周りでしか、弱者は守られない、と思った。この先、たとえ自分がその技術を習得したとしても、自分の周りの人間しか守ることができない。何も、現実は変わらない、と思った。

目指していたのは、「誰もが習得できる弱者向けの護身術」だった。一部の才能ある武術家と、その周りの人間だけしか救われないのでは、やっている意味がない、とまで思った。

「何か突破口はないか・・・」その現実に気づいたときから、人知れずの、探求の日々が始まった。人知れず・・・本当にほぼ誰にも言わなかった。

協力してくれた(シャアを敬愛している)バイトの後輩とその友達たちには話したが、「その(拳法)のことって、よくわかんねぇえっすよ!」とのことで、さりげなく襲って(協力して)くれた(本当にありがとう)。

だから、自分の目指すものは、誰にも知られることはなかった。身内以外は。

時間がないと思った。体が動くうちにその技術体系を確立し、志ある者に伝えたいと思った。

その瞬間、自分を偽って合わせている集まり・人との関係から、一切身を引き、ひたすら練習をする態勢を作り始めた。

うっすらと分かり始めてから、すでに20年以上、やっと形になって、何が重要で何が重要でないか、分かった。そこから初心者や武術にまったくなじみのない人が練習できるようなものを考え出して・・・やっと公開することができる。

攻撃の成功よりも、移動による防御の成功を目指す昔日の体系。難しい言葉、実在しない空想の動物の名を冠して気取りたくなりから、そのままの名称で呼ぶことにした。

斜め後方スライド撤退戦対敵身法。

清朝末期頃、この技法をどう呼んでいたかはわからない。しかし水野義人という中興の祖の中で再び体系化したのだから、このように呼ぶ。

単換掌の術理による、力がぶつかるのを避ける清朝末頃の八卦掌の中核技法を出来る限り簡素化したもの。

今まさに、いじめにあっていて、理不尽な要求をのまされる屈辱を味わっている君に練習してほしいもの。あの時から、ずっと君たちと同じく、戦ってきた成果を、やっと少し形にできた。

自分も、すべてを自分自身で考え出したのではない。やはり協力してくれた人がいた。ほぼ同時の一番弟子で、傍にいて、一番一緒に練習してくれた二人。まもなくまた一人加わって三人。

記念すべき動画の見出しイラストは、後退スライドを海岸で一緒に練習している時の一番弟子の子供の写真をイラストにしたもの。

女性でも通用する技法にたどり着いたのは、彼女らが試し、時にダメ出しをし、時に「これいける!」とはしゃいでくれたからだった。繰り返しになるが、あの時から今日まで、何度言っても言い足りないくらいのありがとうがあった。

理不尽な暴力を跳ね飛ばすことを夢見た君は、跳ね飛ばすための才能がある。この技法を見て、自分にもできるのでは?と思ったならできる。この技法を見て、興味を持った君ならできる。

自分も、敗北から始まって、力任せや体格による圧倒に負け続けて、それでも食い下がってきたもの。膨大な失敗の果てにたどりついた境地は、まさに弱者使用前提の技術体系なんだ。

実績もある。ある子は、言い寄ってきた中年男性の手を触れる前に振り切り、1キロ先まで後退スライド離脱して、難を逃れた。

ある子は、どさくさに紛れて後ろから抱き着いてきた男性に拍打ではたいて弾き、二度とその集まりに参加しなかった。

私は、アスファルトの上で突進速度がすさまじかった猪の突進を何とかかわし、後退しながら応戦することで、なんとかその難を逃れた。

かっこいい戦いではないが、君の戦いにも、きっと役立つ。何より、練習すれば、自信がつく。今までではできなかった動きができるようになり、空が高くなり、開放感に満ち、「さあ、やってやろうか!」と気持ちが前向きになる。そして、君が君自身を誇りに思うだろう。

動画は是非見てほしい。そして解説ぺージも読んで欲しい。動画では触れることができなかったポイントも書いてある。堅苦しい解説ではなく、いじめで自分と大切な人を苦しめられた先輩として、詳しく真剣に解説している。他人事(ひとごと)じゃないから当然のことさ。

君の健闘を祈る。きっとうまくいく。きっと取り返すことができる。

失ったものがある。取り返せないことがある。しかし、動いたことで、色んな景色を見て、色んな人の優しさに気づき、自分なりのドラマが生まれた。さあ、今から、主人公になって歩き出そうぜ。

八卦掌水式門富山本科イメージ