月別アーカイブ: 2023年5月

最低3連・目標5連・究極10連~対一人で必ず当てるために

八卦掌水式門で指導する八卦掌の中核技法は、単換掌で学ぶ術理「単換掌理(たんかんしょうり)」である。

単換掌理は、後敵対応の技法であり、力と力がぶつからないための、弱者のための術理である。これができないと、昔日の八卦掌の提唱する、弱者生存は実現できない。

八卦掌は対多人数移動遊撃戦である。遊撃戦の渦中では、対敵のパターンはこちらの想像を超えるのが常だ。後敵だけで済むものではない。前敵に対する攻防も考えておかなければならない。

しかし前敵に対して、一般の拳法のごとくまっすぐ入り身をして攻撃したのでは、まともに力がぶつかり、勢をそがれ、移動速度が遅くなり、体力を奪われ、前敵のみならず後ろから迫っている敵にも捕捉される。

よって単換掌理からの派生術理として、前敵に対するスライド離脱攻撃が考えられた。これを弊門では、「順勢掌理(じゅんせいしょうり)」と呼んでいる。

名前はどうでもいいのだが、少し言及する。順(じゅん)とは、逆らわないこと。となると、順勢掌とは、勢(せい)に逆らわない技となる。順勢掌の名付け親の意図もくんで、ではないが、我々も、移動遊撃戦を乗り切るため、この名の通り、勢に逆らわない身法でもって前敵に対することにしよう。

私が自身の拳法スタイルを確立するうえで、極真空手の拳士の方のアドバイスは、極めて大きな転機となった。

対多人数移動遊撃戦の技術が確立されてきた際、当然想定される、対一人眼前攻防になった際の攻防が乱れる事態が生じた。

長いこと、近代スタイルに取り組んできたが、対多人数移動遊撃戦身法を、激烈に繰り返したことによって、身体推進力が大幅にあがり、敵の側面にとどまることができなくなった。

そこで基本に立ち返り、清朝末期頃スタイル八卦掌の三身法のうちの一つ、内転翻身法を磨いて、敵側面から、移動推進力によって弾かれない技術を磨きなおした。

敵側面にとどまるスキルを磨いていく際、敵側面にとどまってどれくらい圧力をかければ、敵にダメージや圧力をかけることができるかの疑問が生じた。この疑問は、眼前攻防専修時代であっても明確に把握してなかった。

その時である。極真拳士の方からアドバイスをいただいたのは。五連続攻撃まですると、手技で防御する敵になら、攻撃を当てることができる、と教えていただいたのだ。

このアドバイスは、大きな目安となった。五連続攻撃という目安があるならば、それを実行し得る技術を磨けばよい。

最初は、三連続攻撃あたりで、移動推進力に負けて敵側面から弾き飛ばされた。

内転翻身法の技術、そして斜め後方スライドの運足技法の円滑化、定式八掌身法の無意識化によって、五連続までの滞在が可能となった。

しかしこれは、あくまで攻撃をしてこないスポンジ支柱の横での話。実際の敵は、当然に動き、攻撃し、防御する。よって、自分は、10連続攻撃をやり通すノルマを課した。

回数を増やそうとすると、大きな問題が生じる。回数を稼ぐために、移動しなくなるのだ。それでは八卦掌ではない。

一箇所にとどまって攻撃をすれば、前敵の攻撃をまともに受ける可能性が生じ、かつスライド離脱攻撃ができなくなる。

私は、対一人攻防の技術を、対多人数移動遊撃の渦中でも活かすことを考えていたため、とにかく移動しながら打つことにこだわっていた。

結局、アドバイスを受けてから、そのアドバイスを活かして技法が展開できるようになるまで、1年と半年近い時間がかかった。

拳士の方に報告した際、とても嬉しそうに対応していただいた。私は、真摯にアドバイスをしてくれた方に、その技法をマスターして示すことが、最大の恩返しであると考えている。

このブログは、その拳士の方も見ておられる。今日は、10連攻撃の動画をもって、ささやかな成果報告をしたい。あの節は、本当にありがとうございました。

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原動力は、君だけのもので。君だけの原動力が、未来をひらく

原動力。人に言うのが恥ずかしいようなものでもいいのではないか。

犯罪めいたものや、人を悲しませたりするうえで成り立つようなものでない限り、君だけのオリジナルでいいと思っている

長年、八卦掌を練習してきたが、その原動力は、常に学生時代のいじめだった。自分に対するものではなかったが、自分の弱さが原因で人が苦しみ、自分が思いつめて抱えたことが原因で、人の未来が変わった。

人に言わせれば「極めて重たい」原因だと思う。信頼できる人に話したこともあった。しかしその人は対応に困り、嫌がり、自分が原因で人を追い詰めていることを痛烈に批判した。

その指摘は間違っていないのだろうが、10代の少年にその言葉と内容はあまりに過酷で、人に話すことが怖くなってしまった。その後、完全に心を閉ざしていたと思う。

せめて人を守る仕事に就こうと考えて、柔道を習ったり、勉強をし続けた。人には、「なんでそんなに凝り固まるのか」とあきられたが、その原因を決して言わなかった。

この場は、いじめを受ける君へのメッセージでもあるため、腹を割って話しているが、一般の人には理解されないようだ。仕方ない。

八卦掌を練習し始めてから、すぐに、人に教えることを考え始めた。技術がうまくなるにつれて、その願望はより具体的なものになっていった。

『弱者生存の理で貫かれた護衛護身術「八卦掌」を日本全国各所に広め、誰もが、大切な人・自分を守る技術を学ぶことができる環境を創る』

しかし現実は厳しく、無名な自分、流派の後押しなど無い自分に、誰も気をとめることはなかった。試みすべてがうまくいかない。周りから「それ見たことか」と嬉しそうに揶揄され、無礼な問い合わせにも翻弄され、気持ちが何度も折れそうになった。

でも、忘れられない言葉や想い出が、ここぞという時に、背中を押して支える。何度それを感じたことか。

うまくいかなくて、ふとんに顔をうずめ叫ぶ。当然視界は真っ暗だが、そうすると、どこかの底に落ちるような気がして、そこで、フッと、思い出すシーンがある。

「八卦掌水式門」。門の名前の由来は、私のプロフィールでも軽く触れている。

同級生の、いじめを受けている辛い時期のさなかの、つかの間の笑顔での同級生との会話。

「水野式人(しきと)だから・・・・水式館?水式塾?・・・・・やっぱり水式門だね」

そんな他愛もない言葉だったが、自分には確かに、嬉しそうに見えた。正直、イラストのように、その場が海岸であったのか、田んぼの土手であったのか、覚えていない。しかし、同級生の後ろには、青い空が広がっていて、同級生が笑顔であったことだけは覚えている。

もう、40年近く前の話なのに、心から離れず、何度夢見たことか。

対多人数移動遊撃戦の練習では、日によって、設定した時間を到底もたせることができないと感じる日がある。そういう時、自分に負けそうになる。手が止まり、足がふらふらになり、そのみじめさが余計動きをにぶらせる。

でもそんなときも、いつも思い出す。そうすると、もう動かない、と決めつけていた身体に、思わぬ力が入り・・・それが一層自分の息を切らすのだが、やり切ってしまう

このシーンは、練習時だけではなく、全国展開のイメージの原動力ともなっている。

八卦掌を教える際、名称に全く迷うことはなかった。

「水式塾?水野式のことか?宗家きどりか」と批判されることもあったが、まったくどうでもよかったね。理由を言う気にもならない。水野式のつもりではなかったが、八卦掌成立当時の移動遊撃戦を指導しているところは国内では水式門だけ。

事実上の「水野式」になってしまってる。八卦掌を超えることはないが、人から見れば、水野式に見えるのだろう。それで結構。

私は、同級生のその言葉があるから、前に進む。たとえ、誰にも相手にされない現状でも、信じて疑わない、とはまさにこのこと。

原動力は、君のオリジナルであればあるほど、力が発揮される、間違いない。

何が言いたかったのかというと、原動力を見直してほしかったのだ。君の原動力たる理由を語る時、それが本当の心で選んだものなのか?そして君の心を動かすものなのか?

人に話すものでもない、鳥肌が立つような、心が震えて泣けるようなものが、原動力たりえる。

社会に適合させる必要もない。私は、ずっと、社会に適合させるために、夢の軌道を変えたりした。そのようなものでは、辛い時の動きを維持できない。

原動力を明確にし、時間をかける覚悟をしたとき、八卦掌は多くの人を救う存在となる。そう信じている。

君にとっては、何が原動力となる?

みんなと友達になりたい・・・素敵だね、叶うと、きっと思い出だらけの学生生活なるよ。

あの子が好きだから、情けない自分でいたくない・・・素晴らしい、それこそ青春だよ。

彼女に怖い思いとか、一切させない・・・・なんて崇高な想いなんだ。かっこいいよ。彼女は幸せ者だね

私は、このような、心から湧き上がった、シンプルな原動力がまぶしくて大好きだ。

心からのものだからこそ、辛い時、倒れそうなとき、支えられるのを実感できる。

自分を支えるものくらい、自分の心の直感でえらんでみないか?きっと未来が変わる。

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独学では無理?描いた未来を得るカギは独学に有り

本当の「最初」から本当の「最後」まで、全部ひとりで学ぶ。それはあまりに大変である。まず、学ぶための教材を用意しなければならない。教材の選別作業はかなり大変である。

私が佐藤先生の本に出会うまで、多くの時間を要した。最初は空手の本で練習をしていた。それも大いに役立ったのだが、運命というものをかんじなかった。同級生をいじめていた連中の仲間が、空手をやっていて威張っていた経緯もあったため、印象もよくなかった。

八卦掌の本は、全く違った。求めていた矢先、名もなき本屋で、パッと目に入ったのだ。空手を一人で練習をしていたが、相手をあっと言わせるような違ったもので対抗したいと思っていた。何かないか?とずっと考えていた。

アンテナがはられていた状態だったんだね。独学は無理なんて言葉を気にせず、空手を練習し、本屋をめぐるという行動をしていたからこそ、佐藤先生の本に巡り会った。運命を感じたね。

そして・・・本を一通り読んだ後、「これは複数を想定したものだ、いける!」と直感したんだ。今読み返しても、本の中に、「対多人数移動遊撃戦」の文字はひとつも書いてない。掲載技法も、近代八卦掌の技法なのに。

対多人数で負け、体格で負け、武器で負けて。あの負けは、八卦掌が想定している「不利」すべてを含んだ「負け」だった。それすらも、今考えると、何かしら因縁めいたものがあった。

近代スタイルではあの時に戻ったらまた同じように負けてしまう、という気持ちが、昔日のスタイルに自分を導いた。それもまた運命的だった。

独学でスタートしたことは、これほどまでに、多くの連鎖を引き起こした。人生を変えたと断言できる。これまでは、野球とスキーにしか興味がなかった。ブルース・リーの映画は野蛮で嫌いだった(今は彼の思想が大好きです)。そんな少年が、「独学」で行動したことで、すべてが変わった。

独学をすると、本を見つけたり、道場の情報が流れ込んできたりする。

「そういえば、あそこに、なんらかの道場があったな・・・」その思い付きは、実はかなり大事。

さっそく調べてみよう。なんなら、電話して許可をもらい、訪ねて体験をしてみるといい。そういう行動が、未来につながるからね。

私のところでも、先生に学ばなければ理解できない部分がある。一人ではわからないところがある(そもそも、人に習わないとわからない部分しか水式門では教えてない)。一人で自習できる部分は、指導動画で出すが、それ以外は、やはり習いにきてもらわないと伝わらない。

もし君が、習いに行くのが面倒くさい、怖い、お金がもったいない、本でいいでしょ、なんて考えているなら、すぐやめてしまえ。拳法の練習は面倒くさい。先輩は怖い。お金はかかる。本に真実は書いてない。それが理由だ。

独学の定義はひとつではないため難しいが、拳法の練習はほとんどが独学なのは事実。しかし皆の言う独学と、私の考えている「独学」は大きく違う。

例えば、君が「本でいいや」と思ったその本に、一人の人間の膨大なノウハウと真実がつづられていたら、独学の大きな味方となるだろう。しかし味方となるだけだ。拳法なんぞ、しょせんは対人の制圧・殺傷技術。人と向き合うことをしないで完結するはずがない。

そして、さきほどもいったが、多くの八卦掌(拳法)の本を見ればわかるが、本当に伝えたい部分は書いてないもの。特に八卦掌は昔から秘匿性の強い閉鎖的な性質があるため、書いてない。

ネットでよく見る「独学では無理」の理由を見ると、先生にチェックしてもらえないから無理、とか、ちゃんとした先生でないから無理とか、実にとんちんかんな意見が多い。しかしそういう理由ではなく、独学では「強くなるための中核技法に触れる機会がないから困難なのだ。

では、先生のところに行けば強くなるか?知人に聞いたが、日本の中国拳法愛好家の中では「良師三年」という言葉が有名らしい。どういう意味かと思って聞いてみると、「良い先生に習わないと強くならない。だから良い先生を三年かけてでも探して教えをうけろ」とのことだ。

先生任せもいいところである。先生が君を強くするんじゃない。強くなるのは、強くなりたいという強いエネルギーがそうさせるのだ。

拳法の練習では、有名先生のネームバリューは、強さになんら影響しないと確信している。有名先生のもとで学んでいる人が自動的に強くなるのなら、達人だらけとなる。そして苦労もしない。

多くの有名先生の門弟と関わったが、その定義は当てはまらないようだ。自分で道場を開く際、自分の実力不足・信用度を補ううえではいいかもしれない。しかし本当の実戦では、何ら役にも立たない。

先生の名前に頼っていたら、たとえば、門に来る言うことをきかない礼儀知らずに、言うべきことも言えなくなる。自信のなさというものは、すぐに人に伝わるものだ。先生の経歴を誇るのはいいが、そんなものよりも、自分のいいところを誇ることにつながるような練習・経験を積み重ねたい。

先生の居ない環境の中で、己で考え抜き、工夫して、苦労して、パッと境地が開いた時、とてつもない自信がつく。私は、八卦掌修行期間40年のほとんどが、一人での自習である。自信があるのは、雑草のごとき這いつくばるような練習環境の中で、自分で考え、気づき、それがすべてつながったからだ。

習い始めの師匠は、佐藤金兵衛先生の本であり、次は無名な中国人就労生先生であり、次は柔道初段で小学生らにバカにされていた道場のコーチのおじさんだった。でも本や彼らに学んだことこそが、今まさに役に立っているのだ。

少ない技情報から真実を推測するくせは、佐藤金兵衛先生の本で学んでいる時に身についた。対多人数移動遊撃戦の身法と度胸は、就労生先生の薦める練習方法から学んだもの。乱戦時の弱者の身法は、柔道初段のおじさんから学んだもの。指導方針も、人を導く姿勢も、コーチのおじさんから学んだ。

後に正規の八卦掌の伝人に教えを請い、十数年を経て指導許可を得たが、その先生に習ったのは、ほぼ梁派の基本のみ。その先生も「八卦掌は対多人数想定の拳法」と言っていたが、教えてくれたのは、眼前攻防時の身法のみ。

一人でもがいていたころの失敗の経験のほうが、今のレベルを構成する大きな部分となっていることに改めて気づいた。

自分で考え、失敗し、よかれと思って取り組んだ練習が、後で役に立たなかったと気づいたとしても、そういう積み重ねこそが、実戦や、後の指導、そして自分の強さの構築に役立つのだ。確信している。

有名先生のもとで習わないと強くなることができないという意見はいまだに聞く。潜在的にそういう気持ちを持っている人間が多い。多くの人と話してみて、強く実感した。

そういう色眼鏡は、目の前にいる真の「いい先生」との出逢いを無駄にしてしまう。

みんなのやたらと大好きな拳法の達人も流派も、一般人はまず知らない。そもそも、実戦では、言う暇もないし、聞いてもくれないし、言う気持ちの余裕すらない。

「やあやあ、我こそは!○○門○○伝門人、○○先生の弟子○○ぞ!いざ尋常に勝負せよ!」

鎌倉時代の武士ではない。さすがにこんなことは言わないが、有名門派のブランドのこだわるのはそれと同じくらい実戦では意味がない。

中国拳法の練習なんぞ、先生の所にいって技を習ったら、あとはひたすら家で、膨大な数の反復練習を積み重ねるのみである。

「変なクセがつく」として独学を批判する者もいるが、そもそも、変なクセがつくためには、何千時間の積み重ねが必要である。変なクセがつくまで繰り返し練習している人など、そうはいない。だからその点についても心配する必要はまったくない。

いいクセも簡単につかないのと同じで、変なクセも簡単にはつかない。よって、悪いクセがつくという心配も批判も、練習時間をあまり取ることができない現代人にはほとんど関係がない。

先生に習って、家でひたすら自習して、何か月後かに訳が分からなくなってくるものだ。その時先生のもとにいって再び習えば、また違った理解がある。だから通うのだ。

家の自習時間と、先生の所に行って習う時間の比率は、私が通っていたころで言うと、およそ88時間:5時間(※2週間に一回、先生の所にいって習っている場合のたとえ)だった。ほとんどが自習である。

私は、自習=独学だと定義しているため、独学こそ、拳法が強くなるための基礎だと思っている。

独学を批判している人の中で、一週間のうち多くの時間を、先生のもとで学べる環境を持っている人は少ない。言っている連中だって、結局は多くの時間を一人練習に費やしている。

そしてマンツーマンでもない限り、道場にいって先生に診てもらえる時間なんぞ、たかが知れている。有名先生のもとであれば、その先生自身に見てもらえないかもしれない。見てもらえるのは、その先生の弟子や先輩であったりする。

だから、強さを構築するに、自分以外の要素はあまり関係ない、ということだ。

先生のもとにほとんどいけなくとも、先生がまったくの無名であろうとも、先生の教える拳法が、未熟で実戦的でなくとも、本人がやる気さえあれば、確実に己の設定したところにたどりつく。

回り道してしまう?回り道をすればするほど、オリジナル性が出て、強さに深みが出る。人に教える際、生きた経験として、自然と、そして自信に満ちあふれた中で、弟子に技の説明ができる。

拳法の本に載っているような、分かりにくい中国語の拳訣や拳諺、「竜のごとく・・・」のような分かりにくい比喩に頼らず、自分の言葉で説明ができるようになる。これこそが「よい先生」。

いま、君がどんな環境で学んでいようとも、それは将来の強さにマイナスの影響を与えることは一切ない。言ったはずだ。当門八卦掌は、プラス思考で考えよ。たとえその日、一回しか技の練習ができなくとも、一回分達人に近づいたのだ。だから大丈夫、前に進めばいい。

やればやるほど強くなる。まったくの独学では、自信をもって繰り返すこととができない。だから、ちかくのカルチャーセンターに教室があるなら、そこで基礎を学び、繰り返すがいい。だから行動しよう。

健康の代名詞である簡化二十四式太極拳。その教材すら、護身護衛の熱い気持ちで繰り返せば、間もなく実戦で人を守るエッセンスに君自身だけで気づき、君だけの実戦拳法と化す。断言してもいい。すべては君の気持ちが決めるのだ。

動けば、行動すれば、その分確実に強くなる。八卦掌水式門でもいい。近くの道場でもいい。どこでもいい。君が習いたい拳法があるなら、門を叩き、もしくはコンタクトをとってみるがいい。

そこで習って、繰り返すための教材を手にしよう。大丈夫。君より下手な先生なんていないから。

「今一人で練習しているのですが、どうしたらここから先に進めますか?」

先生にそう尋ねる勇気を持とう。もちろん礼儀は尽くすこと。教えてもらったら、ありがとうございました、を言う。それだけが、必要品。

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