本当の「最初」から本当の「最後」まで、全部ひとりで学ぶ。それはあまりに大変である。まず、学ぶための教材を用意しなければならない。教材の選別作業はかなり大変である。
私が佐藤先生の本に出会うまで、多くの時間を要した。最初は空手の本で練習をしていた。それも大いに役立ったのだが、運命というものをかんじなかった。同級生をいじめていた連中の仲間が、空手をやっていて威張っていた経緯もあったため、印象もよくなかった。
八卦掌の本は、全く違った。求めていた矢先、名もなき本屋で、パッと目に入ったのだ。空手を一人で練習をしていたが、相手をあっと言わせるような違ったもので対抗したいと思っていた。何かないか?とずっと考えていた。
アンテナがはられていた状態だったんだね。独学は無理なんて言葉を気にせず、空手を練習し、本屋をめぐるという行動をしていたからこそ、佐藤先生の本に巡り会った。運命を感じたね。
そして・・・本を一通り読んだ後、「これは複数を想定したものだ、いける!」と直感したんだ。今読み返しても、本の中に、「対多人数移動遊撃戦」の文字はひとつも書いてない。掲載技法も、近代八卦掌の技法なのに。
対多人数で負け、体格で負け、武器で負けて。あの負けは、八卦掌が想定している「不利」すべてを含んだ「負け」だった。それすらも、今考えると、何かしら因縁めいたものがあった。
近代スタイルではあの時に戻ったらまた同じように負けてしまう、という気持ちが、昔日のスタイルに自分を導いた。それもまた運命的だった。
独学でスタートしたことは、これほどまでに、多くの連鎖を引き起こした。人生を変えたと断言できる。これまでは、野球とスキーにしか興味がなかった。ブルース・リーの映画は野蛮で嫌いだった(今は彼の思想が大好きです)。そんな少年が、「独学」で行動したことで、すべてが変わった。
独学をすると、本を見つけたり、道場の情報が流れ込んできたりする。
「そういえば、あそこに、なんらかの道場があったな・・・」その思い付きは、実はかなり大事。
さっそく調べてみよう。なんなら、電話して許可をもらい、訪ねて体験をしてみるといい。そういう行動が、未来につながるからね。
私のところでも、先生に学ばなければ理解できない部分がある。一人ではわからないところがある(そもそも、人に習わないとわからない部分しか水式門では教えてない)。一人で自習できる部分は、指導動画で出すが、それ以外は、やはり習いにきてもらわないと伝わらない。
もし君が、習いに行くのが面倒くさい、怖い、お金がもったいない、本でいいでしょ、なんて考えているなら、すぐやめてしまえ。拳法の練習は面倒くさい。先輩は怖い。お金はかかる。本に真実は書いてない。それが理由だ。
独学の定義はひとつではないため難しいが、拳法の練習はほとんどが独学なのは事実。しかし皆の言う独学と、私の考えている「独学」は大きく違う。
例えば、君が「本でいいや」と思ったその本に、一人の人間の膨大なノウハウと真実がつづられていたら、独学の大きな味方となるだろう。しかし味方となるだけだ。拳法なんぞ、しょせんは対人の制圧・殺傷技術。人と向き合うことをしないで完結するはずがない。
そして、さきほどもいったが、多くの八卦掌(拳法)の本を見ればわかるが、本当に伝えたい部分は書いてないもの。特に八卦掌は昔から秘匿性の強い閉鎖的な性質があるため、書いてない。
ネットでよく見る「独学では無理」の理由を見ると、先生にチェックしてもらえないから無理、とか、ちゃんとした先生でないから無理とか、実にとんちんかんな意見が多い。しかしそういう理由ではなく、独学では「強くなるための中核技法に触れる機会がないから困難なのだ。
では、先生のところに行けば強くなるか?知人に聞いたが、日本の中国拳法愛好家の中では「良師三年」という言葉が有名らしい。どういう意味かと思って聞いてみると、「良い先生に習わないと強くならない。だから良い先生を三年かけてでも探して教えをうけろ」とのことだ。
先生任せもいいところである。先生が君を強くするんじゃない。強くなるのは、強くなりたいという強いエネルギーがそうさせるのだ。
拳法の練習では、有名先生のネームバリューは、強さになんら影響しないと確信している。有名先生のもとで学んでいる人が自動的に強くなるのなら、達人だらけとなる。そして苦労もしない。
多くの有名先生の門弟と関わったが、その定義は当てはまらないようだ。自分で道場を開く際、自分の実力不足・信用度を補ううえではいいかもしれない。しかし本当の実戦では、何ら役にも立たない。
先生の名前に頼っていたら、たとえば、門に来る言うことをきかない礼儀知らずに、言うべきことも言えなくなる。自信のなさというものは、すぐに人に伝わるものだ。先生の経歴を誇るのはいいが、そんなものよりも、自分のいいところを誇ることにつながるような練習・経験を積み重ねたい。
先生の居ない環境の中で、己で考え抜き、工夫して、苦労して、パッと境地が開いた時、とてつもない自信がつく。私は、八卦掌修行期間40年のほとんどが、一人での自習である。自信があるのは、雑草のごとき這いつくばるような練習環境の中で、自分で考え、気づき、それがすべてつながったからだ。
習い始めの師匠は、佐藤金兵衛先生の本であり、次は無名な中国人就労生先生であり、次は柔道初段で小学生らにバカにされていた道場のコーチのおじさんだった。でも本や彼らに学んだことこそが、今まさに役に立っているのだ。
少ない技情報から真実を推測するくせは、佐藤金兵衛先生の本で学んでいる時に身についた。対多人数移動遊撃戦の身法と度胸は、就労生先生の薦める練習方法から学んだもの。乱戦時の弱者の身法は、柔道初段のおじさんから学んだもの。指導方針も、人を導く姿勢も、コーチのおじさんから学んだ。
後に正規の八卦掌の伝人に教えを請い、十数年を経て指導許可を得たが、その先生に習ったのは、ほぼ梁派の基本のみ。その先生も「八卦掌は対多人数想定の拳法」と言っていたが、教えてくれたのは、眼前攻防時の身法のみ。
一人でもがいていたころの失敗の経験のほうが、今のレベルを構成する大きな部分となっていることに改めて気づいた。
自分で考え、失敗し、よかれと思って取り組んだ練習が、後で役に立たなかったと気づいたとしても、そういう積み重ねこそが、実戦や、後の指導、そして自分の強さの構築に役立つのだ。確信している。
有名先生のもとで習わないと強くなることができないという意見はいまだに聞く。潜在的にそういう気持ちを持っている人間が多い。多くの人と話してみて、強く実感した。
そういう色眼鏡は、目の前にいる真の「いい先生」との出逢いを無駄にしてしまう。
みんなのやたらと大好きな拳法の達人も流派も、一般人はまず知らない。そもそも、実戦では、言う暇もないし、聞いてもくれないし、言う気持ちの余裕すらない。
「やあやあ、我こそは!○○門○○伝門人、○○先生の弟子○○ぞ!いざ尋常に勝負せよ!」
鎌倉時代の武士ではない。さすがにこんなことは言わないが、有名門派のブランドのこだわるのはそれと同じくらい実戦では意味がない。
中国拳法の練習なんぞ、先生の所にいって技を習ったら、あとはひたすら家で、膨大な数の反復練習を積み重ねるのみである。
「変なクセがつく」として独学を批判する者もいるが、そもそも、変なクセがつくためには、何千時間の積み重ねが必要である。変なクセがつくまで繰り返し練習している人など、そうはいない。だからその点についても心配する必要はまったくない。
いいクセも簡単につかないのと同じで、変なクセも簡単にはつかない。よって、悪いクセがつくという心配も批判も、練習時間をあまり取ることができない現代人にはほとんど関係がない。
先生に習って、家でひたすら自習して、何か月後かに訳が分からなくなってくるものだ。その時先生のもとにいって再び習えば、また違った理解がある。だから通うのだ。
家の自習時間と、先生の所に行って習う時間の比率は、私が通っていたころで言うと、およそ88時間:5時間(※2週間に一回、先生の所にいって習っている場合のたとえ)だった。ほとんどが自習である。
私は、自習=独学だと定義しているため、独学こそ、拳法が強くなるための基礎だと思っている。
独学を批判している人の中で、一週間のうち多くの時間を、先生のもとで学べる環境を持っている人は少ない。言っている連中だって、結局は多くの時間を一人練習に費やしている。
そしてマンツーマンでもない限り、道場にいって先生に診てもらえる時間なんぞ、たかが知れている。有名先生のもとであれば、その先生自身に見てもらえないかもしれない。見てもらえるのは、その先生の弟子や先輩であったりする。
だから、強さを構築するに、自分以外の要素はあまり関係ない、ということだ。
先生のもとにほとんどいけなくとも、先生がまったくの無名であろうとも、先生の教える拳法が、未熟で実戦的でなくとも、本人がやる気さえあれば、確実に己の設定したところにたどりつく。
回り道してしまう?回り道をすればするほど、オリジナル性が出て、強さに深みが出る。人に教える際、生きた経験として、自然と、そして自信に満ちあふれた中で、弟子に技の説明ができる。
拳法の本に載っているような、分かりにくい中国語の拳訣や拳諺、「竜のごとく・・・」のような分かりにくい比喩に頼らず、自分の言葉で説明ができるようになる。これこそが「よい先生」。
いま、君がどんな環境で学んでいようとも、それは将来の強さにマイナスの影響を与えることは一切ない。言ったはずだ。当門八卦掌は、プラス思考で考えよ。たとえその日、一回しか技の練習ができなくとも、一回分達人に近づいたのだ。だから大丈夫、前に進めばいい。
やればやるほど強くなる。まったくの独学では、自信をもって繰り返すこととができない。だから、ちかくのカルチャーセンターに教室があるなら、そこで基礎を学び、繰り返すがいい。だから行動しよう。
健康の代名詞である簡化二十四式太極拳。その教材すら、護身護衛の熱い気持ちで繰り返せば、間もなく実戦で人を守るエッセンスに君自身だけで気づき、君だけの実戦拳法と化す。断言してもいい。すべては君の気持ちが決めるのだ。
動けば、行動すれば、その分確実に強くなる。八卦掌水式門でもいい。近くの道場でもいい。どこでもいい。君が習いたい拳法があるなら、門を叩き、もしくはコンタクトをとってみるがいい。
そこで習って、繰り返すための教材を手にしよう。大丈夫。君より下手な先生なんていないから。
「今一人で練習しているのですが、どうしたらここから先に進めますか?」
先生にそう尋ねる勇気を持とう。もちろん礼儀は尽くすこと。教えてもらったら、ありがとうございました、を言う。それだけが、必要品。
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