一万時間の法則。
おおざっぱに説明するならば、ある特定のスキル・技術の習得に向けた練習に一万時間を費やしたら、その道の達人になる、というもの。成功法則の一つである。
私は、この法則が大好きである。そして、自身が、あの頃描いた「八卦掌の達人」のレベルを超えることができたことから、この法則が「正しかった」と実感した。
※この法則は批判が多い。努力至上主義者のバカ覚えの一つの根拠だとか、だらだら長く行うことに意味はないとか、一部の批評家がよく自身ブログ・サイト上で批判している。批評家という人種は、いつの時代も行為者と対比される存在であり、行為者たる革新者の背中に唾を吐き続けてきた。私は「批評家」としての人生ほど、送りたくない人生はない。
一万時間を越えるためには、一日3時間の練習を、9年間続ければよいことになる。9年という時間を長いと感じるか、短いと感じるか。私は、「たった9年で達人になることができるのか」と嬉しく思った。
一万時間の法則は、先ほども触れたが、批判が多い。しかし、多くの人間が、特定の分野の特定の領域に、一万時間もかけていない。この法則を批判する人間のうち、どれだけの人間が、ある分野の特定の領域に、一万時間かけているのだろうか?
昔の仕事で、多くの弁護士と接する(戦う)機会があった。彼らは法律全般のプロと言われ、多くの番組でさもすべてを知っているかのようにコメントをしている。しかし、法律にも、そしてそれに付随するトラブルにも、色んな分野・ジャンルがある。
家庭裁判所がらみの訴訟でも、離婚・親権・財産分与・未成年者後見など、多くの分野がある。そして民事の弁護士であれば、物権や債権関連の訴訟もこなさなければならない。
それらに全部精通するのは大変難しい。日本においても、それらに関わる判例(裁判例)は膨大である。
彼らは、他の弁護士が書いた要約本を、訴訟や調停の前に集中的に読むことで、急場をしのいでいた。とても一万時間におよばない。それでも「弁護士」という名前だけで一般人は恐れ、不本意な要求を冷静さを欠く判断の中で飲まされるのである。
彼らは、しょせん付け焼刃のため、いくら学生時代飛びぬけて勉強ができたとしても、皆と同じ主張しかしない。とびぬけてないのである。多くの弁護士が、司法試験予備校におけるマニュアル要約本で合格してきた。受験長期化を望ましくないものとし、最短合格を売りにする予備校で。
私は、受験時代、ひたすら基本書を読み込み、法的思考法(とても大きく要約するなら、権利と権利間の調整の視点のこと)を身につけることを心掛けた。民法で言うなら我妻栄氏の民法。刑法で言うなら前田刑法。民事訴訟法なら、伊藤眞氏の民事訴訟法だ。
読みつくされ、受験特化書籍でないため敬遠される風潮にあったこれらの本からは、まさに昔日の忘れ去られた八卦掌の、飾り気のない、術理の本質を淡々と伝える姿が重なって見えた。これらの本は、八卦掌でいうなら、根幹の身法、八卦掌となる前の「転掌」である。
著書らの、その論点に達する思考過程を何度も追体験することで、切り口を変えて論ずることを要求される論文試験を乗り越えたのだ。何度も読み込むと、エッセンスが見えてくる。楽しくなってくるのだ。受験ジャーナルという司法試験受験誌に、論文試験の模擬問題があり、添削もしてくれるのだが、読み込み回数が20回を超えるあたりから、安定した成績を残すことができるようになってきた。
八卦掌も同じである。いつも同じ角度、おなじ技でくるわけではないのだ。
後で触れるが、一つのことに集中して打ち込むと、一万時間よりもかなり早い段階で、深い疑問に達する。深刻な伸び悩みの時期である。
先生や書籍の著者が触れているような、公開されている一般的な知識・ノウハウでは、おおよそ太刀打ちできない。それくらいの深刻な壁がたちはだかる。その壁をのり超えることができなければ、一万時間まで行かないのだ。
つまり・・・ただ単に、何も考えずに、根性だけで一万時間を迎えられるわけではないのだ。批評家の批評のほぼすべては、その点について触れていない。
この壁を乗り越えるには、その時間まで積み重ねたことによって得た、自分だけのノウハウだけが頼りとなる。自分だけの、誰の後押しもお墨付きもないノウハウのため、それを信じ抜くためには、大変な勇気と意志が必要となる。
これこそが、自身の「限界」なのである。それを突破することで、とてつもない飛躍となる。拳法で言ったら、悟りであろう。今でも覚えている最初の限界が、武器の壁であった。これを乗り越えて、大きな飛躍があったのだが、その後、八卦本門に入ると近代スタイルに触れ、また大きな、実はもっとも過酷な壁が来ることになった。
私は、近代スタイルで強者を打ち倒そうと練習に明け暮れていた。仕事以外の時間を、すべて練習に充てていたこともあった。家内らが、心配するくらいに。
私にとってのその限界を超えるために、あらゆる方法を試したのだが、倒すことはままならず、ふと、後ろに下がり続けることに素直な子らの行動を見て、思うところがあった。
「思うところ」の有効性を確かめるため、その時から再び6年以上、「思うところ」のスタイルを試した。ある時、既存の定式八掌の主要技が、後退スライドの技法であったことに気づいた。
その気づきにより、昔関東で中国人就労生から習った八卦刀術(単換刀)が、八卦掌の原型となっていることに気づき、単換刀の身法が、八卦掌の中核技法『斜め後方スライド対敵身法』の2大身法を含んでいることを確信したのだ。
つながった瞬間である。八卦掌の2大転掌式・単換掌と陰陽魚掌、そしてそれらから生み出された順勢掌の術理、八卦刀術。双身槍。
その時、すでに2万時間を超えていた。しかし、八卦本門に入ってからは一万時間くらい。
現在、自身の修行期間は35年を超え、きっと3万時間も超えているだろう。しかし、もはや、時間はどうでもいいくらいにまでなった。
何が重要かというと、一定の時間とにかく打ち込み続けることで、超えるべきものが見えてくる。限界突破である。そして超えるべきものが見える頃には、自分は、歩き始めの頃とは比べ物にならない遠くの場所へと来ているのである。ここまで来たから、限界が見えたのだ。
一万時間は嘘、とか、まやかしだ、とか、そんなくだらない批判なんて無視しておけばいい。まず歩け、まず動け。そして動き始めたら、とにかく続けることだ。なにもかんがえなくていいい、ただ続けるだけでいい。効率的な努力なんて、自分が経験し失敗を重ねた後でしかわからない
八卦掌みたいな拳法ほど、自分のオリジナルの気づきが頼りになるものはない。達人になるための、唯一のパスポートだ。○○先生の伝えた型なんかじゃない。自分の練習の果てに気づいた気づきこそが、悟りへと導く一筋の光なのだ。