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順勢掌理を成功させるための無意識レベルでの技術習得

順勢掌理の対敵身法に沿った単招式の解説をし始めた。

「順勢掌理」?八卦掌家でも聞いたことがない言葉だろう。名称はどうでもいい取るに足らないことだが、ここで少し説明をする。

力がぶつからない、後方スライド撤退戦の術理(単換掌理)を、移動遊撃戦時前方向に現れた敵に応用する術理である。

梁派では、「老八掌」という、代表的な8つの技で構成された基本型(原点型)が伝わっている。後方スライド撤退戦術理は、単換掌で習うから、「単換掌理(単換掌で習う術理、の略称)」、前敵スライド離脱攻撃術理は、順勢掌で習うから、「順勢掌理(順勢掌で登場する単換掌理の派生術理、の略称)」としている。

※私の習った梁派は、近代スタイルゆえ、老八掌でも、前に出る力がぶつかる技術体系が元になっている。清王朝末期頃の八卦掌は、この術理・体系であったことは考えにくい。よって水式門では、全老八掌の型を、単換掌理・順勢掌理の術理で構成しなおして指導している。

順勢掌理には、敵を横切りながら攻撃するだけではなく、敵にぶつかってしまった際も、敵の身体に触れつつスライドして技を打つ間合い自らを作って、すかさず打ちながら離脱・・・という使用例も含まれる。

実は、この技術までできてこそ、順勢掌理の対敵身法をマスターしたことになる。

この技術は、ぶつかった瞬間考えていたら間に合わない。ぶつかった瞬間、身体が無意識に、敵の身体と接触しながらスライドし間合い作成動作を開始しなければ、空いた間合いを作ることもできないし、結果として、ぶつかったままの状態で力に勝る敵の攻撃を受けてつぶされることになる。

つまり、順勢掌理も無意識レベルの技術なのである。

双按連穿を見てみればわかるが、通り過ぎる一瞬の間に、敵に当たりやすいと工夫された順序で、2回の「按」と2回の「穿」が立て続けに行われる。少し画質の低い動画で見たら、その動き・順序など分からないほど、瞬間の無意識レベルの動作でなのである。

順勢掌理に基づく双按連穿では、最初はあまり歩かない「基本型」で練習するが、技の順序を覚えたら、すぐに歩きながら打つ練習を始める。初心者であるとかは関係ない。

八卦掌は移動しながら打ち、守る拳法である。移動スタイルを徹底的に貫いた拳法である。

そのような拳法が、止まって打つ練習に必要以上に時間を費やしているのは効率が悪い。

他の拳法をおもんばかって、もしくは体力のなさを言い訳にして、いつまでも歩き打ち・ショウ泥滑歩打ちの練習に取り組まないならば、実戦で使うレベルまで上げることはできない。

順勢掌理でこのようにスライド離脱にこだわる理由は、ただ「勢(せい)を維持することで、四方八方にいる敵に捕捉されず、かつ、勢を利用して敵に我の攻撃を当たりやすくする」ためである。

そして・・・勢を保つことの最大の理由。それは、相対する複数人の敵に、「気が抜けない」状態を作り出し、「守るべき人」に手を出させないことである。

気が抜けなければ、複数人の敵は、八卦掌家が必死で守っている「守るべき人(敵にとっては、襲う予定の人)」に手を出すことができない。

勢があると、縦横無尽に動き回る八卦掌家の攻撃が、いつ自分に向かってくるかわからない。その状況下で、八卦掌家が必死で守っている人に手を出すことは危険である。襲った瞬間、電撃攻撃が容赦なく自分に向けられるからである。

そして、守るべき人に魔の手が伸びそうになった瞬間、急速旋回にて近づき、襲おうとした敵の断絶急所を後方(側面)から正確に射抜くのも、やはり無意識レベルでの作業となる。

私が、対人練習よりも、実際に打つことができる目標物を使った「対人想定練習」に明け暮れたのも、そのためである。

弊門の動画を見ていただくとわかるが、接近時、トップスピードで近づき、もしくは身体バランスをわざと崩した状態で近づき、その状態で命中させる練習を繰り返している。

対人練習は、練習相手の都合もあるため、多くできない。ジム等に通っている人でも、プロでもない限りそれほど組手練習はしない(やらせてもらえないし、相手もそれほどやりたがらない)。

しかし対人想定練習であれば、やる気さえあれば、いつでも、どこでも、何回でもできる。

もしあなたが、対人練習の時間を持つことができず劣等感にさいなまれているなら、順勢掌理の対敵身法による単招式の対人想定練習を、何百回も、何千回も繰り返せ。

そこまでやり込むと、あなたの技術は無意識レベルとなり、対人練習ができなかったことなどまったく関係がないくらい、技が洗練され、身体が勝手に動き、あなたの放つ突きが敵の断絶急所に命中することになるだろう。

八卦掌水式門富山本科イメージ

リアル護身を実現する「悟り」の心境とは

以前法律関係の仕事をしていたが、債権回収(未払賃金)で、何度も、リアルに護身が必要な場面に出くわしたことがある。

残念ながら、穏便な支払請求でも、(債権者であるにもかかわらず)危険な思いをすることがある。

昨今の企業窓口担当者は、考えられないくらい「開き直る」一線が低い。ちょっとでも気にくわないと、自分に非があっても、すぐにくってかかる。

突然悪口雑言の嵐となり、一切聞く耳をもたない。その会社の窓口にいること、そして、その態度が、信用の城を一気に灰にしてしまうことなど、お構いなしに(だから人を雇用するのは怖い)。

その開き直りの修羅場で、何度も、「てめえの家はどこだ(いい大人が本当にこのように発言するのだから驚愕である)」などという言葉を浴びせられたことがある。つまり家に押しかけるぞ、という脅しである。

しかし害悪を加える直接的な言葉は発しないため、警察も動くことはない

大事なのは、「動けない」のではなく「動かない」のだ。動いてあげたい、という気持ちがほぼ無いのである(ここが、警察が被害を未然に防ぐことができない最大のポイント)。

インターネットでは、あらゆる事例の中で、「警察を呼んでください」というコメントを見る。明らかにあしらわれる場面の相談の事例でも、である。

私がまだ、警察に期待を抱いていたころ、相手方に請求をしたところ、家に押し掛けるぞ、住所を言え、てめえの家に行って、望みをかなえてやる、とすごまれ、電話を切った後、ひたすら電話を変え続けられたことがある。

その電話の合間を縫って、110番通報をしたら、「悪いけど、動けないんですわ」と明るく言われ、「○○へ電話して。えっ、わからないの?自分で調べてね」と対応されたことがある。

ひっきりなしに電話がかかってくる状況で、そんな悠長なことはできない、と懇願しても、ちょっとごめんね、大人の対応をしてね、と言って、一方的に切られた。愕然とした。その時、はっきりと思い出した

あの時も、倒れた自分を先生がつかみ上げ、頬に平手をくらわしてきたことを。おんなじだ

まっとうに生きていても、平凡と生きていても、そして・・・・自分に非がなくとも、心無い人間にかかると、一気に窮地に立たされ、かつ、誰も助けてくれないことを。

護身術は必要か?

本当に必要である。いつ何時、上の事例のような事態が起こるかわからない。どこに開き直る人間がいるかわからない。

こういう人間は、反社会的組織のなかにいるだけではない。名の通った会社の、しかるべき地位にいる人間の中にも当たり前に生息している。だから怖い。そして、だから護身の術というのは、誰にでも必要となりうる技術なのだ。

いざという時、警察に通報するのはまず考えつく当然の対応である。しかし、通報できないときもある。

いや、むしろ、通報できないケースの方が圧倒的に多い。私の実戦経験でも、通報できた事例は、一切なかった。電話を持っていないとき、不意を突かれた時など、警察に首尾よく通報できないのは、容易に想像がつくだろう。

自分の身は、自分で守るしかない。先ほども言ったが、人は(状況的にも立場的にも)守ってくれない。これは当たり前である。皆、誰かが襲われていたら、遠巻きに囲んで、見ているだけである(最悪の場合、スマホで撮影してる連中もいる)

護身力を磨く際、技術を磨くだけでは不十分である。最も大切なのは、いつでも、対応できる準備をしておく。

この、「いつでも対応できる準備をしておく」姿勢に向き合い続けることこそが、題目の『リアル護身を実現する「悟り」の心境とは』を知るために直結する。

すこし例をとって話してみよう。

昔の武士は、刀をいつでも抜くことができるように、あのように腰に差し、そして、腰に差した状態から相手を斬り、自分を守るための技術を磨いた。昔日の武士の習得した剣術は、徹底的に実戦を想定した武術である。

スターウォーズを見たことがあるだろうか。ジェダイの騎士は、マントをまくってフォースでライトセーバーを手に寄せ、すぐに刃を出す。その合理的な動きは、日本の剣術をも参考にした動きならではである。

私が鴛鴦鉞をほとんど練習しないのは、そのためである。あの武器の形状は、特に、対人では大きな効果を発揮する。

鴛鴦鉞も、PPC素材の製品が販売されている。私も持っている。銃刀法にも引っかからないと書いてある(現実は、警察に見つかると厄介なことになる)が、あれを持ち歩くことはしない。

持ち歩かない=いつでも使うことができる道具でない=実戦はいつどこで訪れるかわからない=その時(実戦)に役立たたない

ということになるから、練習しないのである。

自分が練習するのは、護身を第一に考えて、一に短棒術(30センチ~90センチ)、二に、双短棒(30センチ程度の短棒の両手持ち)、そして三に、200センチ程度の長棒術だ。

これなら、そこらにある、傘、木、工事用停止棒、のぼり、水筒などを使って、その技術を活かすことができる。

水式門の四大習得武器が、単短棒・双短棒・90センチ棒・200センチ棒なのは、そのためである。そしてこれらは、清王朝末期頃の八卦掌の主要武器でもあった、双匕首・90センチ程度の柳葉刀、双身槍の動きそのものなのである。

よく制服で練習している門下生のイラストを見かけるはずだ。

あの子は、実戦のことを考えて、週に2回ほど、制服で練習していた。

「最も外で来てる服がこれだから、これで練習するのは理にかなってるでしょ」と言い始めてから、ずっとそのスタイルで練習をしてきた(着物を着る機会があった際、それで練習しようとした際はさすがに止めたが)

実戦練習のイメージ

少し例が長くなったが、身を守ることの準備とは、一瞬で訪れる実戦に、対応できる準備(無意識レベルで動くことができるほどの技術の習得、身体の一部ともなりうるレベルの道具の操法の習得、練習した道具をいつ何時でもすぐに使うことができるための準備)である。

そこまで練習したものは、どうしようもない状況での最後の切り札となる。

最後の切り札を構築しつつ、未然に危険を防ぐための、危険回避能力、受けたダメージを受け入れながら対応する能力を養なっていく。、

つい最近も、家に行く、住所を教えろ、お前は俺が怖いのか?とすごまれた。

住所を教えて、「来るなら来てみろ」は、護身的には最悪の対応である。そんなので撃退しても、ともすればケンカとしてしか見てくれず、危険のみならず、傷害罪で逮捕されかねない。

すぐに警察に相談し、記録に残し、バックボーンを構築する(動いてくれることは期待しない)。

住所を教えないのは当然の対応である。教えてしまったならば、家族を避難させる。しばらく全員で避難する。

自分ひとりだけならば、常に家に入る時、気を付ける。そして、実際に相手がやってきたら、即警察官に来てもらう。それが一番である。

そして、警察に連絡できないとき、はじめて、ひたすら練習していきた技術に、命運を託す。ここでやっと、あれだけ積み重ねた練習が活きてくるのだ。

私は・・・・・その時にために、その時、自分と、大切な人を守るために、ずっと練習をしてきている。

護身術が、いかに、お手軽なものでないかはわかっていただけただろう。そこまで覚悟を決め、練習を重ねているから、脅しに遭っても、すべき日常を送ることができる。

これこそが、一線を越した境地である。おおげさでもない。この心境に達した時、ふっと心が下に落ちる気持ちがした。いつでも準備ができている。大丈夫。きっと守る。そのようにゆるぎない心で言い切ることができる。

皆も、もっともっと練習を重ね、いい意味での覚悟が出来る境地を、目指して欲しい。キレイに鮮やかに勝つ必要なんてない、自分を守り、大切な人を守り、生存できればいいのだから。

八卦掌水式門富山本科イメージ