いじめ護身部|勇気と元気と希望が湧くブログ」カテゴリーアーカイブ

いじめに苦しんでいる君・あなたの100%味方である八卦掌水式門の代表・水野が贈る、気持ちを奮い立たせ前を見ることができる温かいメッセージ集。

歩いている道が自分の道なら、どこに出ようが問題なし

「どこに行ってしまうのか?」「俺はどこに向かっているんだろうか」

何からしらの目的を立て、行動している人なら、必ずと言っていいほど、このような不安を感じたことがあるだろう。

私はいま、人生で最も厳しい状況にあるため、このような不安を感じない日はない。その不安が湧き上がると、未来への希望を胸に強引に湧き上がらせ、自分を鼓舞している状態だ。

自信満々のように見えて、いつも君とまったく同じ。仲間だぜ。

「ゴーイング・マイ・ウェイ」。私が今まで過ごしてきた学校や職場では、この言葉は常にマイナスの言葉として使われてきた

職場で嫌われている人を揶揄する言葉として使われたり、悪い社員の典型例として上司がたとえ話として使ったりしていた。

日本語に訳せば「我が道を行く」だが、なぜそれが悪口になるのか、全く理解ができなかった。とっても潔くて、とっても心が躍る言葉だったのに。

「同調圧力(どうちょうあつりょく)」が特に強い日本、と言われるが、まさにその通りで、周りに合わせることを強く意識する国民性と相まって、考えることや行動様式はまったく同じと化していく。

例えば、パワハラ研修をしている研修中の研修員によるパワハラに、こちらが「おかしい」というと、なんと誰も賛同者は出ず、かつ賛同者どころか「そんなこと言って・・めくじら立てて・・」と周りからひんしゅくを買う。

そんな涙がちょちょぎれるようなことが、何度も行われていた。学校や会社というのは、掲げている理念こそ「生徒(社員)の個性を重んじ豊かな発想による・・・」が多いが、やっていることは「没個性」作業そのもの。

自分の目指すものに理解を示さず、それならまだしも、攻撃したりけなしたりする集団から、私はある時から、徹底的に距離を置くようになった。集団の中で戦うのもよいが、中で戦う必要がないなら、あえて外に出て、我が道を行く、そう決めた。

「毎日まいにち、望む道に進むための行動をしていないのに、自分の決めた道を歩いてないのに、未来に自分の望む場所にたどり着くはずがない。今だとどんどんずれている」と考えた。

飛び出した後の日々は、不安と、当たり前だったことが当たり前でなくなった、嵐の中に裸でいるようなむき出しの状況だったけど、その中では常に、自分の望むことができる状態だった。

そして実際に歩いてみると、飛び出さず中途半端だったころにはわからなかった色んなことが判明した。それが到達点であろうと思っていた景色・方向性を若干変える。その変化は、まさに自分が歩いた証となる。自分が他人を導く立場になったら、現場での奮闘の中で生まれた変化・独自性こそが武器になる。

自分で工夫し、編み出した技や練習方法、戦法や技の連環スタイルが、従来他人が行ってきたものと違っていたとしても、己の歩んできた結果であるならばどうどうとしていればいい。

どこに行くかは重要ではなかった。どこに行くか、どの場所にたどりつくか、なんて、途中の道の過ごし方でいくらでも変わってしまう。

それは、自分の道を歩いてなくとも、である。ならば、自分の道を歩いていた方がいい。君は現状が嫌で、このサイトにたどり着き、単招式や連招式を練習しているんだろう?また今までの道に戻るか、そのまま進むか、君次第だが、違う景色にたどり着きたいならば、違った道を歩くのが一番だ。

いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

試合に勝つため、ブランドを得るため、遊撃戦スタイルにこだわるのではなく既存の道を歩くのも一つの価値ある道。

しかしそれは今の自分が望むことではない。私は、この瞬間も、自分の道を歩くがゆえのスリリングさと高揚感を味わっていたい。

苦しいこともある。だけど、黙って進む。苦しいと言えば「好き勝手やってるんだから、文句言うなよ。俺なんてもっと苦しい」なんて言われるだけだし、人に言っても何も解決もせず気も晴れることはないため、そんな無駄な時間は過ごさない。

自分の道を歩んで、それがまったく相手にもされないものならば、それは確実に独自性があふれる「自分ウェイ」なので、大喜びだ。

君が取り組んでいる八卦掌は、今でも日本では珍しい存在。だから迷わず進め。上手くなって独自性が出て来たら、それはますます「君ウェイ」となる。何も考えないでいいから、とにかく八卦掌を信じて進め。

待っているのは、いじめや暴力、理不尽を圧倒的に超えていくマインドだ。英雄的な結果が待ってるぞ。伝説になるぞ。楽しみにまっていようぜ。間もなくやってくるその現実を。

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いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

どうせなら、グランド・マスター(一代宗師)になろうぜ

これは何も、映画「グランド・マスター」の中の主人公のようになろうと言ってるのではありません。

惚れ込んだもの(ここは八卦掌がらみのブログのため拳法など武術を指すが、武術に限らずなんでもいい)があるならば、徹底的に練習しまくって、独自の境地に至ろうぜ、と言っているのだ。そのほうが目指しガイがあるというもの。

そしてどんどん、己のうけた名前で、己の方法で教え、発信していけばいいと思う。到達点は、とてつもなく大きく持とう。

徹底的に練習すると、「この方法はいいぞ」と思ったオリジナルな「ポイント・要領・コツ」に、どんどんと気づくようになる。私自身、先生から使用例(用法・ようほう)やコツを教わった記憶などほとんどない。実はその方法こそが、古来よりの中国拳法の指導法でもあるようだ。

常に自分で、「八卦掌は対多人数を想定した遊撃戦の拳法(※このことに中学時代から気づいていたが、師匠に教わるようになったあと、師伝でもそのように言われ確信した)」という前提に沿って、そこから型の使用例を想定し、散手や組手、対多人数遊撃戦総合想定練習で試しながら編み出してきたものばかりだった。

発力法という言葉も分類も、身法という言葉も分類も、単招式も、連招式も、老八掌の滑歩も、基本歩法も、走圏の実戦的な練習法の工夫も、間合いを徹底的に練る対人想定練習も、買い物カゴで戦う術も、刀術を元にした40~200センチの刀棒術も、そして最も得意とする双短棒も、すべて、八卦掌の元からある技術の術理に沿って、整理し、体系化して、私の八卦掌を確立してきた。

これらの術は己の工夫と苦労の果てに、馬鹿の一つ覚え同然に繰り返して身につけたので、自信のある実用的な技術となっている。

実際、仕事で不審者やらに注意喚起をしなければならないときなどは、買い物カゴや収穫カゴなど不審者を刺激しない類似の道具を持って万が一に備えながら対処することで、多くの実戦的経験を積んできた。

※乱闘やケンカを好んできたから実戦経験が多くなったのではなく、『大切な人を守る』と言う強い信念を持って生きてきたため、不穏な状況に直面した時ごとに、その信念が実戦につながりやすくなる行動を選択させ、結果人よりそのような経験が多くなった、のだと考えている。

これらの経験を踏まえ、師伝であったり、暗黙の了解となっていたりしていた対多人数戦の口伝(教えらえた要領)を己の経験に加えまとめる作業を真剣に行っている。これは、経験の浅い人間が書く無責任で非現実的なポイント・要領ではない。

私こそ、このポイントを書くにふさわしい(最強とか、そういうおごりたかぶった意味ではない)。

対多人数遊撃戦のポイントをまとめる人間としてふさわしいと確信している理由。それは、実戦の初めてが、対多人数数遊撃戦だったから。そしてその戦いの結果で、人を苦しめ、そして自分も苦しという、真剣に向き合わざるを得ない事態を招き、以後そこから逃げることなく努力を重ねてきたから。

今まで、人と争うのが嫌いで、ケンカもしたことがなく、そして暴力を否定し、「強くあること」を真向から不要なもの、と軽視してきた。その態度が人を巻き込む思わぬ事態を招き、人を守りきることができなかった日からずっと、決意して向き合ってきた。そんな私だからこそ、腹の底から真実の声のもと、身を切るがごとく書くことができる。

目の前でいじめの精神的暴力に苦しむ人を守り切ることができず、その子を不登校へと追い詰め、そんなこと、もうさせないと必死で強さを求めてきた自分だから、書くことができる。

散手や組手・乱取りで強い人間相手に試し、話にならないくらい全く通用せず、そこで得た感覚や教訓をまた試す、という繰り返しを十数年以上にも及ぶ長い期間実行し進み続けてきた私だからこそ、書くことができる。

つまり私の伝える八卦掌は、梁振蒲先生伝八卦掌の技術を原点としてはいるものの、私の経験・練習を通して新たな原点を作り、古来のごとくの移動遊撃戦の要素が強くなった技術体系となった八卦掌。

今年の年初、梁派伝の継承を採るか、己の経験にそった八卦掌の道を進むかの決断をするとき、全く迷うことなどなかった。それくらい、自分の得た技術の根幹は、八卦掌の術理ではあるが、己の独自の経験から気づき、そして生み出され影響を受けたものばかりだった。

この境地、拳法でもなんでも、周りがあきれるくらい積み重ねたものがある人であれば、分かってくれる境地だと思う。

よく1万時間の法則(物事を極めるには1万時間くらい費やすと結果が出てくる、という目安の法則)が言われるが、自分の場合、2万時間を越えたあたりから、もう数えるのも止めてしまった。そういう世間の目安ではピンとこなくなるくらい、己の経験によって得た目安のほうが頼りになってくるから。

流派も、誰それ伝の系統も、こだわりがなくなってくる。実際に人と組み合う時、その時の状況に応じて、繰り出される技なんて、流派の違いなどほとんどない。色んな角度や色んな態勢から打つため、どんな技かもわからないのだ。

組み合った時に、私より強い人間なんていくらでもいる。しかし、大切な人が後ろに控えている時、そんなことは全く考えない。己の経験と技術、体力の限り死力を尽くし、守るのみ。その時は流派なんてももちろん、八卦掌であるか、だれであるかも関係ない。

ただ守るだけ。そのためだけに同級生の前で宣言したあの日からずっと練習してきた。だから常に護衛拳法だと言い続けてきた。

強くなりたい。もう誰も苦しめたくない。大切なこの子の笑顔、決して曇らせたくない。そのために君が八卦掌を選んでくれたならば、メッセージはひとつ。

強くなるのは間違いない。だからグランド・マスターになるくらいまで強くなってやろうぜ。グランド・マスターになって、大好きなあの人、守っていこうぜ。泣いて感謝される英雄的な瞬間が、きっと訪れる。その時、今から練習の旅で味わう苦労が、一層幸せな気分をもたらしてくれるんだ。

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成らぬは人のなさぬなりけり~練習!練習!知識二の次

知識だけ増やしても、うまくいった試しがなかった

長いこと八卦掌にほれ込んで練習してきたが、できないこともあった。そしてある時、改めて振り返ってみて、出来なかったことを検証してみると・・・・

大して練習もせずに、自分で「こりゃぁ無理だ」と判断したものばかりだった。できるようになった技や身法、技術に比して、圧倒的に練習に費やした時間が少なかった。

出来ないときの練習ほど辛いものはない。いくらやってもできる兆しが見えない。一日のすべてを練習のみに費やすわけにはいかないので、また次の日に、再度チャレンジをする。しかしやはりできない。

そうなるとネガティブな言葉が湧いてきて、感情の上下動が激しくなる。

上手くいっている時に「ポジティブ」を心掛けるのは容易だが、うまくいってないときにこの心を持ち続けるのは本当に大変だ。この時こそ、取り組んでいるものに対する情熱とか、本気度が試されるのだろう。

わたしは何度もそのような危機に直面したが、どんな状況下でもあっても、私が経験した最も辛い状況下であっても、やり続けることができた。あとで振り返り、そして今改めて振り返り、私の情熱と真剣度は、とてつもないものだと、誇りに思っている。

名君として名高い、上杉鷹山公の言葉である「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」がある。

自分に言い訳をし、努力を怠っていた小学生の頃は(小学生の頃、すでにこの言葉を知っていた)、なんとも厳しい言葉だと思った。

しかし毎日の積み重ねが当たり前となった今では、限りない励ましの言葉となっている。

毎日積み重ね、どんどん行動している私にとって、「行動すれば必ず成る。」は、後押しの言葉でしかない。

「成らぬ(うまくいかない・実現しない・成らない)」は、行動している自分には全く無縁のこと。だから大丈夫だ!必ずうまくいく!と心が震え立つ。

拳法の練習をしていると、色んな人に逢う。残念ながら、人のすることに口出しをしてきたりする人もいる。どうでもいいことに心を囚われ、時間を使っている人がたくさんいる。

正直、自分は若い世代とはなくなり、時間も有限であると痛烈に実感しているため、間違っても人のしていることに批判したりするなどの無駄な時間を取る余裕はない。

あと、知識もどうでもよくなった。拳法に関しては、もう八卦掌だけで十分。何それ拳法はこうこうこうだ系の知識はもういい。もともと興味がわかなかったが、ここまで向き合ってきた八卦掌を通して、色んな拳法の特色もおのずと触れてきた。もう十分である。

今はただ、前に進むための行動をしたい。そして実行している。毎日の積み重ねは当たり前。そのうえで「今日は何をしてやろうか?」と考え、実行している。そしてその考えのもと、指導し始めてから5年以上、実に多くの経験を積んだ。

分かってもないのにお金なんて取って教えて・・・と無責任な批判をする人間もいたが、そうであっても「道場を開いて指導」という行動をとったからこそ、かけがえのない経験を積むことができたんだ。これも、鷹山公の言葉に恥じぬ行為だ。

最も貴重な経験となったのが、人を見る目が養われたこと。問い合わせをしてくる人の中には、時に極めて礼を欠く人間もいるが、そのような人間は、じきに本質を見抜くことができるようになってきた。これも、幾度と様々なタイプの人間に接してきたから。

問い合わせフォームに、詳しい経歴質問欄を設けないのは、私自身が、その人をニュートラルな気分で見るためである。良い意味で、先入観を持ちたくないからだ。

有名な先生でない私のところには、問い合わせの段階で気合の入っていない、失礼な対応をとる人間がくる。無断キャンセル、質問に答えてもお礼のメールも来ない、などだ。

そのような人間には、こちらも一切興味がないため、心が動じることもない。行動し、目的に常に忠実な自分にとって、このようなことに対する対応は、脇道の無駄な積み重ねしかないため、深追いや心を乱されることなどありえない。

自分がこれからも取るのは、行動のみ。それも、自分の定めた目的に近づくための行動のみ。毎日の練習は当たり前。対多人数戦を乗り切るための、食事や体力維持などに対する配慮も当たり前。

その積み重ねの果てに、今度こそ、大切な人を守りぬくことができる結果が待っていると信じている。そこで初めて、努力の成果を感じられるのだ。

八卦掌の積み重ねの過程で、多くのトラブルに勇気をもって接し、時に人に感謝されたこともあった。しかし満足などしない。自分が自分の自由意志で動くことができる限り、「誰かにとって大切な人を守る」ための行動を選び続ける。

そこで初めて、顔向けができる。そのように行動し切ったならきっと、人生を終える瞬間、満足のファンファーレがなるだろう。

これからとる行動も、きっと何かを成す。そう信じて、今からまたルーティンをこなしに行こうか!

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対多人数遊撃戦八卦掌は「失敗」で出来あがるから、大丈夫!

対多人数遊撃戦を想定した八卦掌の成立の歴史は、「失敗(敗北)」の歴史であったと言ってしまってもいいです。

それくらい、試してきたことのほとんどは、失敗や(組手・散手・実闘での)敗北となった。しかし、本当にまれに、うまくいくことがあるんですね。しかしうまくいったことって、あまり覚えていない。

失敗した時だと、原因や理由を考えざるを得ないから、よく覚えているんですが、成功の時ってついつい熟考を怠るので、あまり記憶に残らない。

そして、成功したことって、失敗して失敗し続けて改善してきたことがやっとうまくいった場合がほとんどであるため、成功したことも失敗した記憶でしか残っていないんですね。

例えば、八卦掌の三大身法の一つ、「内転翻身法(ないてんほんしんぽう)」。外転翻身法や斜進翻身法に比べてどうしても速く気持ちよく回ることができず、様々な対策を施してきました。脚力強化、走圏時の歩の迅速化など、あらゆることを試してきたのです。

内転翻身法の身法で自在に動くためには、急速転身をする上での脚力や、軸を保つための脚力が必要となります。そして身体を維持し、内転翻身時の速度を増すために、八卦掌の主要三発力「翻身発力(ほんしんはつりょく)」で身体を支え瞬発力を後押しする必要が生じます。

そもそも、手取り足取り教えてもらう感じでもなかった(中国拳法はそのような教え方が多い)ので、型や単式練習の中で試すしかありませんでした。

そんな中、習った八卦刀術の中に、刀先で敵の刃を引っかけてしたに巻き込んで、ひるがえって刃先を押し付ける動作があるのを思い出し、その動作を徒手で行ってみました。そうしたら、その動きが翻身発力の力の出し方そのものであり、そこから大きなヒントを得て、ぐっと前に進むことができました。

そして昔独学で練習していた、佐藤金兵衛先生の本にのっていた程派八卦掌の・八母掌「単換掌」の翻身動作に通じると気づき、昔の練習を掘り下げて徒手での動きの理解を深めるために大いに役立てました。

翻身発力は結果的に会得出来、「成功体験」と言ってもいいのですが、自在に使用できるようになるまであまりに失敗数が多かったため、「失敗体験」として記憶に残っています。

そして過程であまりに多くのことをトライしたため、いったん会得したあとはいかようにも対応できることができ、それが自信につながっています。ですから、組手とかで内転翻身法に基づく技をしかけてかわされても、ブレることなく次!次!へと進めることができるんですね。

そもそも対多人数遊撃戦における各技法なんて、簡単に決まらない、失敗が前提のものばかりなので、当たらなくても気持ちが折れないのです。

失敗前提の拳法だから、と師伝として伝えても、多くの人は当たらないことに不安となり、八卦掌に疑問を持つことがあります。やはり練習の中で、失敗を繰り返して技術を積み上げることによって、当たらないこと、攻撃失敗への免疫力がつくようです。

私は野球部に所属していましたが、本当にへたくそだった。練習もしていたし、真面目だったのに。なぜ?と今考えると、その原因が分かります。

あまりに試合に出る経験が少なかった。昔の野球部って、いったんレギュラーと違う補欠の立場になると、ほとんど試合に出させてもらえない。そしてレギュラーとの差がどんどんつくんです。

そして自信を無くし、本当にたまに試合に出ても、試合経験がないから自信もなく雰囲気にのまれ、またエラーしたりする。失敗経験ばかりで、成功経験をする場もないため、相対的にどんどん下手になっていきます。

私は多くのスポーツをしてきましたが、レギュラー・補欠の区別のあるスポーツだけが飛びぬけて下手だった。それは、飲み込みの遅い私が、初期段階で実力がない状態で補欠にされ、実戦経験も積むことができず自信を無くしていくからだったと思っています。

スキーやマラソン、八卦掌など個人で行うスポーツや武術は、人並を越えて進むことができたのは、その証だと思っています。

もしあなたが今、どうしてもうまくいかないことがあったとしても、どんどんチャレンジしてほしい。失敗してあらたにチャレンジしても、また失敗するでしょう。それでいい。

「あなたが失敗し続けるのは、〇〇が足らないからだ」なんて言葉がネットにあふれるが、そんなものは無視していい。たいがい、そのような言葉の裏には「だから私の会社のこのサービスを購入しましょう」という導入がある。

失敗を成功にしてしまうのは、行動による経験のみ。他人のノウハウは、参考程度です。私のサイトに載っている練習法も、きっと君には参考程度にしかならない。真実をつかむのは、君自身による練習の継続と、チャレンジ、そして少しの工夫だから。

その工夫とは、君が練習や失敗をすることでしか、なかなか巡り会えない。だから、どんどん行動してほしい。

ある「成功」の陰には、膨大な数の失敗経験がある。失敗経験が多ければ多いほど、その技は君のピンチを救い、大切な人を守る強力な武器となる。だから、大丈夫。迷わず進め。

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取り返すために大事なこと。手を出し続ける。動き続ける。

対多人数遊撃戦。まったく練習したことがない者にとっては、荒唐無稽な絵空事のように思うこと。

しかし、今まさにいじめや対多による暴力にさらされている者は、その技術が不可能なものだとは決して思いたない切羽詰まった状態にある。

よって、自分の本当の気持ちを通し、平穏な生活を取り戻し、同級生らと笑いあえる日々を取り返すために戦う際、対多の暴力から身を守るためのポイントを書いていきたい。

単刀直入に言えば、複数人の素手の相手と戦う際、大事なことは、「動き続けること」「手を出し続けること」。この二つさえできるなら、君は相手が複数人であろうと、暴力に屈することはない。

動きつづけることで、敵の攻撃照準にとどまることを避け、攻撃をかわすこと(もしくは痛恨の一撃を回避すること)ができる。

手を出し続けることで、敵が我の防衛ラインに簡単に侵入する事態を防ぐことができる。

この二つは、大変重要なこと。過去の多くの戦い(戦争など)でも、相手が複数で束になって襲ってくるときは、この二つのポイントが勝敗を決してきた。

具体例を話そう。大平洋戦争。軍艦が、敵飛行機の爆撃攻撃機・雷撃攻撃機から身を守る際の方法だ。

軍艦は当然少数で敵攻撃機は時に100機くらいで襲ってくる。的(まと)としても大きい。そして海面から飛び立つこともできず、海面上を移動するしかない。その際、軍艦はどのようにして、圧倒的多数の敵から身を守ったのか。

それは、海面上を操船テクニックで移動しまくって、敵攻撃機が定めている照準からズレ続けて投下される爆弾や魚雷をかわしていた。

そして、対空砲火によって敵攻撃機が自由に防衛ラインに侵入し、止まり続けないようにプレッシャーを与えて、自由な攻撃をさせないようにしていた。

日本海軍は大戦末期、ベテラン搭乗員の損耗が激しく、軍艦を護衛する戦闘機が有効に機能せず、操船技術で敵攻撃機を回避しまくっていた。その技術はすさまじく、物量と合理的戦略によって向き合ってきたアメリカ軍ですら、多くの犠牲を強いられた。

対多人数遊撃戦も、実は全く同じ。

複数人と対決する際は、とにかく戦闘開始から敵が皆動かなくなるまで、我はひたすら動き続ける。動くことで、ほんの少しでもいい、照準からずれることで、深刻なダメージを避ける。敵の的にならない。

動き続けるだけでは厳しいので、手を出し続ける。そうすることで、敵が自由に我に近づくことを防ぎ、距離を保つことができる。とにかく手を出し続ければ、敵はうかつに我に近づくことをためらうようになる。

この二つの戦略を実現するために、遊撃戦八卦掌では、練習時から歩き続けて技を打つことに徹底的に慣れ、打ちながら移動する際の持久力を養う。

習熟したら、息が上がらなくなる、ではない。対多人数戦は、そんなに穏やかなものではない。どれだけ練習しても息は上がってしまうので、息が上がった状態で、動き、手を出し続ける練習をする。その苦しい状況を自ら体験し、準備しておくんだ。

この練習は、正直苦しい。しかし取り組んでおくことで、いざという時、身体が我の動きを妨げなくなる。

手を出し続けるためには、肩に力が入っているのは致命的。よって、走圏(下搨掌・かとうしょう)の姿勢を維持する練習で、「指だけに力が入り、肩や腕はリラックスしている状態を保っている」状態を維持することができるように、練習をし続ける。

話を具体例に戻そう。

攻撃を受け、舵が壊れ、動きを止めた軍艦は、もはや敵の的となるしかなかった。いくらたくさんの砲台が備わっていても、うごけなければ、四方八方からの手数攻撃で痛めつけられていく。大戦末期、石油不足で呉近海に停泊せざるを得なかった軍艦らは、激しい抵抗もむなしく、その場で撃沈され、船体を傾けた。

海戦時、敵戦闘機の機銃攻撃などで船上の砲台がすべて破壊された軍艦は、敵爆撃機の自由な接近を許し、近距離からの攻撃でその命を散らした。

遊撃戦八卦掌の練習のメインは、技の習得ではなく、移動しながら敵に力を伝えつつ攻撃して、それを維持していく練習だと思っていい。習う技はシンプルで単純だが、簡単ではない。

しかしポイントをずらさないで練習し続ければ、練習するたびに強くなっていく。取り返す力がついてくる。だから、今すぐ動こう。

きっと間に合う。思いは通じる。私もそうして動いてきた。私は同級生を守ることはできなかったけど、君は、遊撃戦八卦掌のノウハウがあるからきっと間に合う。

取返しに行こう。苦しいこともある。しかしきっと、望む未来が待っている。

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「あの技ができるようになった」ごとにその都度行動してきた

次から次へと行動して、数多くの失策や嘲笑(あざわらい)を受けてきた。

辛いこともあったし、人前で恥をかいたこともあったけど、行動して得たものの方が圧倒的に多かったと、今この時点で振り返って思う。

いつも、今までできなかった技や身法ができているとふと気づいた時、「これはいける、チャンスだ」とよりどころにして行動してきた。例えば、その技をメインとして講習会を開いたり、その技の動画を元に生徒募集動画作って、生徒を募集したり。

今思うと、その時は今より一層未熟だったので、生徒さんの前で失敗したり、答えた内容に整合性がなく矛盾を生じたり・・・、そんなミスばっかりだった。

しかしその失敗が、今自分に足らないものを教えてくれる。身をもって教えてくれるその教授方法は、精神的にはかなりこたえる教え方。ふと「やめてしまうか」と思う時もある。しかし「やめてしまったら、全国指導旅で逢って伝えるはずだったみんなに逢えない」と考えて思いとどまった。

本当に心からそう考えていたし、今でも思っている。

今水式門のホームーページには、多くの解説動作がある。そのなかで、通信受講生をとって教える目的で作成している自分が納得できる動画は、ほんのわずか。

圧倒的に、通信講座教材として耐えうることができないものばかり。それは無駄だったのか。それらの動画を作成して、失敗作が試作と化したから、次に作る動画の質が少しづつ上がっていく。だから決して無駄になってない。

その意味もあって残してある。その軌跡があるからこそ、今の場までたどり着くことになった。

指導動画を作成をし続けてきたから、どこでつまづいたのかが分かり、それが弱点として認識され、次の動画に活かされ指導動画作成技術が上がってきたのだ。何かしらの理由をつけて行動しなかったら、作成技術は昔のままで何らの変化も、無かっただろう。

いきなり動画作成から入ったが、これは、対多人数遊撃戦の練習でもまったく同じこと。

「絵空事」「漫画や映画の中だけの話」と決めつけて行動しなかったら、そこで完全に終わっていた。

自分が対多人数遊撃戦の習熟を願い、行動し始めた時も、そこに詳しい方法を示した書籍やサイトは無かった。そのような中での模索ゆえ、多人数組手中で試行錯誤するたびに徹底的に打ちのめされた。

これは武術の経験などほとんどない仕事仲間が相手の時の話。武道や武術の経験を持つ人たちが相手だと、10秒ももたず打ちのめされたり、掴まれたりした。

きっと私の所属していた会の仲間たちは、私が倒されているイメージしかもっていないはずである。地面に倒され、時には疲れて勝手に倒れ込み、砂だらけになっているイメージしかないはずである。

しかしそれを「恥」だと思ったことはない。人に教える立場となっても、同僚や門の生徒さんたちの前で失敗してできなくても、それはいい機会ととらえ、その都度できるように努力してきた。

できなくて大したことないとして、去っていった人もいる。それは寂しいことだが、それも行動したことで経験できた貴重な財産であり、そこから何かを生み出すことができたため、良かったと、思っている。

自分の描く「理想の状態」になってから行動しようと考えた時もあった。しかしその時は今まで一度も訪れたことがないことにある時気づき、もうそんなためらいは止めてしまおうと思った。

極端な話、練習をしていて、ある一つの新技をマスターしたと思ったら、それを材料に発信したり、多人数組手で堂々と試したりした。もちろん、うまくいかない。うまくいかないけど行動はしたため、その行動から、新たな展開が生まれたりもした。

この「新たな展開」こそが、きっと思いがけない世界へと私を連れて行ってくれるのだろう。実際、今の自分の位置も、昔では想像できない位置。

八卦掌練習し初めに、家族に撮ってもらった動画の中で、「大したものでしょう」と笑っている自分が居た。今撮影した動画と見比べてみると、天と地ほどの差がある。当時はあの動きで、よかれと思っていたのだろう。そこまで自分は進んできたのだなと思った。

当時のその動画の中で「(この動画も)使うんでしょ?」と問われたので、「そんな、これを人に見せるなんて」と私。

「せっかく撮ったんだから。そんなこと関係ないのに。」と話が続いたのをハッキリと覚えている。そこまで撮り続けておけばよかった。本当にその通りだね。その通り。なんて言い得てるんだろうか。

きっと今も同じことを言うだろうから、その言葉を胸に、ささやかな機会あるごとに、どんどん行動していく。

思い立った時に、すぐ練習を始められるような役立つ動画、ぜひ待っていてほしい。

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なぜ君にとって対多人数遊撃戦は「実現可能」な戦法なのか

強くなりたいと願い行動し始めた君は、毎日少しづつ、自分の身体が変わっていくことを実感している。

この前までできなかった行動が、ある日ふと、できるようになっていることに気づく。

自分で撮影をしてみたら、ダメだと思っていた動作が、手本動画の動きとほぼ変わらなくなっていた。自分は、結構うまくなっているんだな、と否が応でも気づく。

練習時「ここ!」という場面で、スッと手が出る。身体が崩れた状態でも、手が届くならば、自然と打っている。考えて見れば、こんなこと、以前では想像できなかった。

今ならば、後ろから突然敵が襲ってきても、その場から身体を移動させ、なんらかの行動をとることができる。この前は、無意識に手が出た。この前は身をひるがえして、敵中から外回りで逃げおおせた。

今ならば、「対多人数遊撃戦」がリアルに感じられる。この前は「私にできるのだろうか」と不安だった。他人の「そんなこと妄想であり、できっこない」に気を落とし自信を無くし、そう感じていた。

ではなぜ、他人には妄想で、君にはリアルに感じられるのか?

理由は簡単。君が、対多人数遊撃戦と向き合い、簡単ではないその技法を己の身体で実行するための準備を、日々積み重ねているからだ。

準備を積み重ねていると、日に日に、遊撃戦を実行するための身体的土台が出来上がってくる。

足の運足がスムーズになった。以前はここで足を上げることができず、足を軸足に引っかけ、動きが止まっていた。今は、軸足を越えて自分の望む場所にもう片方の足を移動させ、そこから新たな遊撃戦を展開できる。

右方面に居る敵に穿掌で突撃攻撃をした後、すぐさま後方の敵へ攻撃を仕掛けたかったが、昔はそこで慣性が働き動きが止まって、敵に捕まっていた。この弱点に気づいてから、慣性の働いた状態から転身しながら穿掌を放つための練習を重ね、今は当たり前にできるようになった。これは、使えるぞ!

君のその日々の積み重ねが少しづつ厚みを増し、以前は想像できなかった場所へ君を自然と連れていき、そこで君は初めて気づく。

「いつの間にかこんなこともできるようになっていたんだな。今なら、敵に捕まらないで戦う自分が想像できる。できるかもしれない・・・・いや、きっとできる!」

君がそうなっても、他人はこう言う。

「そんなこと、漫画の世界じゃあるまいし、できるはずない。生兵法は大けがのもと」

以前はここで「やはりそうなんだ、絵空事なんだ」と落ち込んでいた。しかし今はすぐさま、自然にこう答えていた。

「そう?実際動かすことができるし、できるよ。なんなら見せてあげようか?この動きのことだろう?」

私の例を言おう。記録できないくらい徹底的に繰り返し、リストアップした「できるようになったら便利だけど苦手パターン」を知らないうちに克服していた。

以前はここで動きが止まっていたが、今はすぐさま、穿掌を打ちながらその場からエスケープできる。多人数想定組手でも捕まらない。当てられない。そうなったのに、他人からの言葉は変わることがなかった。

決定的な違いは、行動した者と行動してない者の違い(行動してないから悪い、という意味ではない)。他人にとっては、対多人数遊撃戦は、絵空事の妄想であるため当然実現させるための準備をしない。だからずっと妄想や絵空事のままなんだ。

君は苦労しながらもその場にとどまり、コツコツと土台を築きあげて来たからこそ、対多人数遊撃戦がリアルに感じられるんだ。

リアルに感じられる→やる気が出てくる→引き続きルーティンを繰り返すのみ→知らないうちにできるようになっている場所にたどり着いている。なのです。

第三者に、言われたことがある。

「○○○○(有名道場)のベテランたちが、ある日、一日を使って、多人数戦の組手を徹底的に練習したんだって。その猛者たちでも結局できるようにならなかったらしいぞ。そこで悟ったんだって。こりゃ無理だって。だからお前のやっていることは無理だと思うぜ」

「そう?で、その人たちは、それ以後も練習し続けたの?」

「だから!無理だと悟ったんだから、もうそんなことしないだろ。話をちゃんと聞けよ。」

「私は、今もずっとやり続けているが、おかげで、できないこともできるようになったよ。」

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思い込みは現実へ~靴底が平らに減る私は将来達人

物事を成すうえで最も大事なことは、己のやっていることを信じ抜くこと。

言い古された、耳にタコができそうな言葉だが、大変難しいことでもあります。

己の信念に揺さぶりをかけてくる出来事は、まるで、天は私のことだけを狙い撃ちしているのではないか?と思うくらい、次から次へと起こる。

天のみならず、周りの人間も、絶妙なタイミング(最もメンタルがやられている時)で、適当な批判や中傷を浴びせてくる。

打ち立てた目的に到達する過程では、きっとそんなことだらけだろう・・・事前から覚悟もしていたし、分かってもいた。事実、歩き出した瞬間に、人は怒涛の如く消え去り、ほぼ誰も居なくなってしまった。

やっぱりそうか・・・仕方ないこと。割り切っているのだが、そんなことにずっとずっとさらされているので、毎日、不安や焦りを感じない日はないんですね。

そんな時に考えること。

「自分は天才だから、誰からも理解されないんだ。」

そう考えるのは自由だし、誰もにも迷惑もかけない。自分は真剣にそう考えているし、ずっと取り組んでいると、その考えを裏付ける出来事が起こってくる。

練習し始めの30年以上前、拳法の練習は靴への負担が大きくて、一カ月くらいでダメになっていた。はっきりと覚えているだが、左足の親指付け根付近だけが減り、それで靴寿命が縮まっていた。

長いこと、その状態が続いたが、ふっとした瞬間に、靴の減り方に変化が起きたのです。まず、左右の親指付け根わずか下が均一に減るようになり、立て続けに、今度は、靴底全体が、ほぼ均一に減るようになってきたのですね。

遊撃戦練習における、外転翻身・内転翻身・半斜翻身、そして滑歩外転が左右両方、時計回り反時計回り両方とも、対多人数遊撃戦総合練習の中で自在に用いることができるようになったあたりからです。

昔、下駄の歯が均一に減ってないのを見た達人が、挑戦者に「未熟者、出直してこい」と言った逸話を思い出し、「ってことは、自分は達人になったってことか?」と思ったのです。

実際、そのあたりから、態勢がバラバラでもいかようでも打つことができるようになったし、身体流の慣性状態から、全方向への身体展開ができるようになってきました。そして何より、型どおりでなくなったこと。大きな変化を感じました。

それ以後、辛いことや無気力状態が訪れるたびに、靴底全体減りを己を鼓舞する材料としてきました。

現在、靴の寿命周期は、40日くらい。少しだけ伸びました。均一に減るため、どこが一番最初に穴が空くかわからない状態ですね。一番減りやすいのは、土踏まずより少し前方。

思い込んだもん勝ち。信じたもん勝ち。それは誰にも迷惑もかけない。そして、なにより、思い込むことができるなら、それは間違いなく真実になってしまうということ。

そうならば、自分にとって都合のいい出来事を材料に、自分にとって望ましい内容を思い込んでしまおう。それは間もなく、真実となる。

もし君が、あなたが、自分のサイトや、他の情報をもとに、真摯に練習をしているなら、きっと強くなるし、未来に大きな変化が起きる。もうすでに起こり始めている。それは「そうなるといい」のレベルではなくて、「間もなくやってくる」こと。

さっそく思い込もう。俺は、私は、強くなる。取返し、望む生活を送る。想い出を作る。好きなあの人の前に堂々と立つ。

思い込んでしまえば、望むものは近づいてくる。苦しいことが起こっても大丈夫。その都度、思い込んだらいい。

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心に残る言葉は、きっと真理。信じて前に進もう。

「大丈夫だと思うよ。」

優しいその言葉に、長いこと助けられてきました。人の優しさから出たささやかな、そんな短い言葉が、長い時間、今もずっと心に残り続け、私を励ましてきてくれました。

その言葉をかけてくれた時の場所、表情、天気・・・克明に覚えている。多くを忘れてしまったが、優しい言葉は忘れられない。

「誰からも相手にされない」「みんなにバカにされる」「何にも期待されない」

自己否定の言葉に溺れてしまったあなたでも、ふとした時、誰かから優しい言葉をかけられたこともあると思う。

なんの根拠もなくていい、その言葉、全面的に信じよう。心から信じよう。この世の真理にしてしまおう。

人は、なかなか人など褒めない。私自身も、褒められたことなど数えるほど。

「大切な人を守る八卦掌を広めて、少しでも多くの人が暴力から守られるようにしたい」と真面目に語れば、たちどころに笑われ、「現実を見ろ」「で、生活は成り立ってるの?」「拳法で守るなんて、妄想もいいとこ」なんて言葉を機関銃で打ち込まれるがごとく浴びせられる。

でも、そんな言葉、全く心に残らない。私の中では、ずっとずっと、優しさから出た言葉が心のそばにあって、癒してくれる。

言ってくれた本人に聴いてみると、「そんなこと言ったっけ・・・・」との返答。

言った本人すら覚えていない言葉でも、その言葉が心に響き、心を揺さぶるならば、ずっとずっと残り続けるんだ。

そして、残り続けた言葉は、いつしか真理となり、何度も何度も失敗をしている私を、いまでもずっと支えている。

もしあなたの中で、言った本人すら覚えていないような言葉であっても、あなたの心の中に残り続けている言葉があるならば、その言葉はきっとあなたにとって真理なのだから、信じ、支えとしよう。

いいことがきっとたくさん起こるよ。私もそうだから。

対多人数遊撃戦八卦掌は、道なき道を行くようなもの。答えなど用意されてないし、拳法界で市民権も得てない未踏の領域。

手ごたえを感じなかったり、人からドタキャンやウソをつかれてタダ受講されたりして、屈辱のなみだを流す時も、いつもそばにいて支えてくれた。

多人数戦総合練習で、身体が動かず手が止まってしまった時も、カッと心に思い出され、手や足に力が入る。「手を止めない、あきらめない」って、何度も思い直すことができたことか。

私はその人からもう二度と、直接言ってもらうことはできないけれど、きっと自分の人生の最後までずっと忘れず、支えてくれる。本人が覚えていない言葉でも。

ある時、改めて聞いてみたことがあったのだけど、その時言ったことも、忘れられない。

「意思の強さの達人だからね。覚えてないけど、今でも大丈夫って、言うと思う」

人の優しさは、本当に偉大で、かけがえのないもの。私も、そんな言葉を、少しでもかけていけるなら嬉しい。

護衛護身五型、更新し、より詳しく説明しなおしているので、全国で孤軍奮闘して強く成ろう、取り返そうと思っている、君やあなた、是非とも見て欲しい。

きっと大丈夫!

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「レッテル」なんて何の価値もない。君の道を進め!

高校を卒業した後、卒業証明書が必要となり、母校に取りに行ったことがあった。

いい思い出と嫌な思い出が交錯する場所。嫌な思い出の中に、高校2年の時の担任の先生に見下ろされていた記憶、があった。

だから、高校に行くならば、その先生だけには遭遇したくないなと思っていたのだけれど、よりによって、遭遇してしまったんだよね、それも校舎に入った瞬間に。

その時出会い頭に言われた言葉が、「ちゃんと社会で生きていけてるか?」という侮辱的な言葉。ニヤニヤ笑いながらだった。ほほえましい中で言われたものではなく、高校の時見下ろされていた時と同じ言い方。

彼はその言葉を、安易な気持ちで言ったのかもしれないが、あれから30年近くたった今でも、言った態度も内容も、その時の悔しい気持ちも、はっきりと覚えている。

それくらい不快だった。

恐ろしいことは、何かうまくいかないことがあるたびに、その言葉を思い出してしまい、「やはり俺はダメな奴なのか」と考えてしまうこと。そんな気持ちになると、ダメな状況はますます悪化する。

その状況が収まると、痛烈に思う。人にレッテルを貼るのは、本当にしてはならないことだ、と。そのレッテルは、私に何の教訓もプラスの影響も与えない。苦しい時、戒めにもならない。落ち込む気持ちを、余計落ち込ませるだけの、無価値なもの。

だから自分は、、人に対して、「○○さんは◇◇だね」を始めとした、軽いものですら、言わないようにしている。言葉は本当に恐ろしい。

元担任の、無責任で思いやりのない無配慮なレッテルに、これほど苦しめられとは。自分のすることをある程度こなしきった今、やっとそのようなレッテルに対抗できるようになった。

今まで散々、あらゆる人からレッテルを貼られてきた。振り返ってみて思うのは、身近な人が貼り付けてきたレッテルが、もっとも深刻な影響を与えた、ということ。

両親によって、「おまえは本当に不器用だ」と言われた。その言葉は、何かができたないたびに、私に「おれはなんて不器用なんだ、やはりいう通りだ」とという気持ちを湧かせ、行動を止めてきた。

友達によって「お前に責任のある立場はこなせない。俺だったらお前を任命しない」と言われた言葉は、社会人になってから仕事がこなせないたびに頭の中に蘇り、自信を奪ってきた。

レッテルに苦しめられ、落ち切った自分だったが、八卦掌だけはやり続けた。

そしてやり続けた結果、修行開始直後自分が思い描いていたよりもっと先のところまで来ていた。そこでやっとレッテルに対抗できる心構えが出来上がってきた。

気持ちの持ちようで、ここまで苦労しなくても、克服できる方法がインターネットにはたくさん載っているが、私はそれらを活用できなかった。だからこれだけの時間がたってしまった。本当にもったいない時間だった、とつくづく思う。

この記事をここまで読んだ君は、きっと今、周りの人間の無責任なレッテル貼りで、苦しんでいるのだと思う。

前に、護衛護身五型の練習をする人の中で「しょせん弱い奴は何をやっても弱いままで、強い奴は何もしなくても強い」という言葉を浴びせられて、悩んでいる人が居た。

そこで「練習すれば、その分可能性は生まれる、自力が強い人間の虚をつくことができるようになるかもしれない、練習しなければ、可能性はゼロに近いまま」と言葉を掛けました。

私の経験から言って、レッテル貼りには、大方根拠なんてない。言った人間の、一時の情報・記憶から発せられた無責任なもの。言われた人間は、言われた時に比べて、何らかの努力や行動で、言われた時よりも進化している。

だから、レッテルなんて、「ふんっ、何言ってやがる」とあしらえばいい。

レッテルほど、百害あって一利なしを地で行くものはないから。

強くなる過程では、「決めたノルマをこなさなければ弱くなっていく」という引き算的法則ではなく、「今日はこれだけやったから、その分これだけ強くなった」という足し算的法則が成り立つ。

だからもし「自分は弱い奴だ、その通りだ」と思って、練習や体力づくりに不安を感じてしまうなら、聴いて欲しい。

やった分だけ確実に強くなり、やった分だけ未来の可能性が生じる。例外は一切ない。一切ないんだよ。だから安心して進んでいこう。

確かに言えることは、毎日少しづつでも行動するならば、あなたの未来は、ゆっくりと確実に変わっている、ということ。

君は、戦うと決めて動いたから、、このサイトを見つけることとなった。見つけたから、理不尽な強者に立ち向かうための強力な五型を知ることとなった。

このサイト、いじめや暴力に対し穏健策を取る他のサイトに比べて、ストレートに戦うことを前提にして、究極の具体策(対暴力制圧法たる五型)を示した究極のスタンスをとる内容。

戦う決意をした者でないと、巡りあうことは極めて難しい。戦う決意を固めた者でないと、心に届かず、目に入ってもスルーしてしまうだろう。

しかし君は巡りあった。スルーしなかった。それだけも大きな成果だ。勇気をもって戦う決意をし、動いたゆえの成果だ。動かなかったら、ネット上にあふれる「強い者にはしょせん勝てない」「護身術など無駄」という決めつけの意見に絶望するだけだった。

無駄なことなんてない。五型をとおして八卦掌を練習し、身にしみ込ませたら、君の気持ちは変わり、大きく未来は変わっていく。その時、他人がはりつけたレッテルの内容に大きな違和感を感じるだろう。

「何言ってるんだ、的外れもいいところだ。私はそんなんじゃない。残念だったな。私はこうだ。私が言うのだから間違いない。」

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