よく自己啓発本なんかに出てくる言葉である。
私ほど、定めたもののために毎日決まったルーティンを繰り返している人間が言うのだから、説得力がある。好きなことだけして生きているわけではない、生活のためにしたくないこともしている。
しかし、それって好きなことをするためにしていること。だからこれらのことは、必要最小限しかしない。そして毎日の積み重ねをもって、「生活のため」の活動を駆逐している。
このような考え方は、最近のYoutube動画では大変評判が悪い。人生での苦しみの元凶のように言われている。
しかしYoutube上のにわか人生教師どもが取り上げる成功者たちほど、定めた目標に没頭していたはずだ。それって一種の執着だろう?前も言ったが、仏陀は悟りとか苦しみからの脱却に執着した果てに、彼の真理に気付いたのだ。成功者たちだって、いつもハッピーでその道にとどまっていたのではない。苦しみもあった。それは彼ら自身が語っているではないか。
「熱く幸せな時代であったが、戻りたくない」と。
私にとって拳客になることは、道半ばの「在るべき」姿だった。究極は、転掌が全世界に広がっている状態の中で、世界の生徒に、大好きな指導をすることだ。私は転掌を人に教えるのが大好きである。なぜなら、この技術体系には、徹底した合理性があるからだ。
100%の成功を保証しないが、自分次第の領域でいくらでも、その確率を100%に近づけることができる。
生活のために工場機械工や公務員であった頃、胸が躍ることなどなかった。今は違う。心から辛いこともある。例えば毎日の水風呂などね。泣きながら身体洗ってるよ。でもそれも、それがあるからこそ、どっぷりと好きなことに浸かっていることができる要素だから、今はあきらめもつく。自分なりに受け入れたんだ。
好きなことをしなくても好きな事だけしていても、どちらにしろ苦しいのなら、好きなことをしていた方がいい。
私はどうしてもしたくないことがある。今ここであきらめ、死に際、「止めなければよかった」と後悔することだ(※にわか人生教師どもにかかると、死は終わりでなく、輪廻転生とかグダグダいうが、今は置いておく)。
今止めたら、そうなる自信がある。間違いなく。だってまだ、終わりなんて認めていないから。誰にも相手にされなくても、董海川先師と宮女開祖が私に示した道は、間違いなく弱者を窮地から逃れさせるものだと、信じて疑わないから。その信じる気持ちが私に、窮地になった時、指導している150年前の光景を夢で見させる。

転掌八卦門には人が来ない。しかし一時も、この技術体系を疑ったことは無い。自分自身の目を信じて道を選択できる武術志願者が金沢にはいないだけだ。それくらい、この技術体系に惚れ、好きなんだなぁ。
一番弟子の娘は、転掌式八卦掌のことを「楊家拳」と呼び、独り占めしたいくらい、大事にしている。彼女が練習するのは、宮女開祖が残した楊家門転掌式。彼女は武器術を、転掌式に合わせて練習する。いまだに、推掌転掌式と、その型で行う転掌双短棒を愛する。その愛に答えてくれたのか、推掌転掌式は彼女を有事に守ってくれた。
世界に旅立つには、足場を固めたい。しかし2県しか、掌継人(楊家門正式伝承者)を残せていない。全国の諸氏に届ける手段はないものか、と幾年も失敗を重ねてきた。チャレンジは続く。
とあるコンサルタントが、「人のしていないことはしない方がいい。なぜならうまくいかないから誰もしていないのだから」とYoutube動画の広告で言っていた。人と同じことをしていて達成できる道ではないのだよ。一般人向けのコンサル動画はその程度である。私はもっと大きなものを見ている。150年前の続きをするのだ。清朝国内だけで終わってしまった転掌を、まず復活させ、そして世界へ届けるのだ。前人未踏の道でチャレンジすることこそがふさわしい。
私が本当に好きなのは、楊家拳であるのはもちろんのこと、本当に熱くなっていることは、この普及活動なのだ。この道を進むために起こるあらゆる苦闘を乗り越えるとき、魂の底から湧き上がる、泣けるくらの歓喜が訪れる。後進に指導して彼ら彼女らが育つ時、あまりの嬉しさに、笑いが止まらなくなる。これこそが大好きなのだ。
この身体の動く限り、私は転掌を学び練習し、指導する。それに伴い起こることは、あまねく受け入れる。もはやここまで貫くと、起こることは受け入れざるを得ない状況になっている。
理解者など、一人でもいてくれれば十分だ、私にはいる、一人ではない、たくさんいる。この世だけでない、空にも、我が胸の中にもいるのだ。大丈夫、大丈夫。いつもそう言って、空を見上げると言ってくれる人がいる。その人の分身が今傍で、言ってくれる。













