生存か、必倒か、の違いである
そのあたりは徹底している。大切な人を守る剣術、と言いながら、緒戦から一か八かの戦術を採っている剣術アニメが多すぎる。
あれは全く非現実的である。甲冑具足に身を包んだ戦場の武者なら理解できる。多少斬られても、具足や小手が、我が身を守ってくれるからだ。
しかし、服一枚しかまとってない剣士が、敵の眼の前から後退せずに斬り合っているのは、明らかに非現実的である。
服で戦っているイメージの強い新選組だって、小手や銅は身に付けていたし、頭を斬られた際のヘッドガードはつけていた。
宮本武蔵が吉岡一門に報復された時の状況は、四十数人対一であった。まともに斬り合うはずが無い。私が研究の果てに知った説はこうだ。
吉岡一門の若き新責任者たる14歳くらいの少年を、いきなり叩き斬って距離を空け、追ってくる敵に対し、斬っては逃げ、けん制しては逃げ、突出して我に近づいてきた敵を、各個撃破していったのである。そのうち、多勢であっても、足を止め、追撃をためらうようになる。その機を逃がさず、決闘の場から離脱したのである。
14歳の少年をいきなり斬ったことについての、道義的判断はここでしない。これが実戦である。相手は、自分の命を、なりふり構わず奪いに来たのである。こちらもあらゆる手段で対抗しなければならないのは当然のことだ。
前の公園警備では、私はイノシシ・二ホンジカと夜に相対する脅威があった。そこで私が考えたのは、敵の把握である。
クマが出るならば、いきなり逃げる対策はかえって危険である。しかしその公園では、過去に熊が出た記録はなかった。よって最も脅威となる、イノシシ対策に特化したのである。
イノシシの突進速度を考えると、特殊警棒を取り出し、それを伸ばしている暇はない。よって特殊警棒を練習する意味が薄いのである。
そこで私は、シャッターフック棒を110センチの樫材で自作し、護身の切り札としての棒としての機能を兼ねさせ、それと同じものをもう一個作り、家で練習をした。
警備員は、闇を照らすのは義務である。よって、野生動物が潜んでいる可能性があるからといって、闇を照らすのを躊躇することはできない。
そして、襲われる時とは、闇を照らした瞬間なのである。そこで音がした瞬間に、その場から離脱する戦法を採る必要がある。実はその戦法こそが、転掌刀術で習った型なのである。円を回りながら練習するバージョンは、狭い場所で練習するための工夫である。間違っても、八卦掌の走圏によるものではない(転掌と転掌式八卦掌に走圏はない。)
カッコよさは要らない。美しさに至っては、本当に不要なものなのである。人生が終るか否かの瀬戸際に、見栄えなど、必要あろうか?
生存のために、一定時間生きなければならないのである。おとり護衛を実現するためには、まず下がることである。動画のサムネイル(表紙)にある、「一太刀目を外せ」は、真実なのである。一太刀目を確実に避ける方法、それは、受けの剣術技を磨くことではない。とにかく、後方へ下がってから、その後対応する流れを磨くことである。
具体的には、斜め後方スライド移動の移動身法をマスターし、去り斬りたる、刀裏背走理を実行し、けん制斬撃することである。
スターウォーズや、アニメの剣士らの動きは、フィクションである。見栄えを重視している。当たり前である。あれは魅せるためのものだから。しかし私が、護身を果たしたい、本当に大切な人を守りたいと考えるあなたに教えるものは、生き残るためのものである。
生き残ってこそ、あなたは大切な人、大切な自分を守ることができるのだ。いきなり斬られたら、後は誰が、あなたの大切な人を守るのだろうか?フィクションを捨てよ。現実を見よ。剣術の師範ですら、それに気づいていない。名前や名声、雑誌によく登場する師範か否かで、その者の実力を測るな。
私の教える転掌刀術で、最強剣士にはならない。しかし生存をすることができる。実戦では、生存こそが、最終目的である。それで十分ではないか。
