宮女開祖は、転掌八卦門において極めて重要な人である。なぜなら、転掌式八卦掌の開祖であり、かつ董海川先師が伝えた転掌の技術体系を、自身の没落にもめげず守り、後世に伝えるきっかけを作った方だから。
宮女開祖は、清朝の後宮に出仕していた際、そこで武術教官となった董海川先師から転掌を直接習うこととなった。その指導内容は、きわめて現実的であり、かつ理論の指導などほぼないシンプルこのうえないものだった。
私は楊家先代師から、八卦陰陽理論なるものを一切習ったことがない。当然である。楊師は、八卦陰陽理論は、北京後代拳師らの後付けのものだと、明確におっしゃられていた。それは近代格闘術八卦掌門でも、自認している。私は楊師から、孫子の兵法のくだりをいささか聞いたのみである(私は小学生のころか戦史の読書をしていたので、孫子兵法は知っていた)。
宮女開祖は、後宮を出宮後、転掌の技術体系を維持することに腐心した。董海川先師から指導を受けた、単換掌に関わるいくつかの変化形は、「転掌式」として整理した。そして、身の回りのモノを扱って戦うための武器術は、董先師の指導のままに双換掌にリンクさせ、修業期間が長くならないように気を配った。
宮女開祖の最大の功績は、冒頭で述べた通り、転掌の技術体系を、後代にまで守らせたことである。それ故私は、董海川先師が伝えた転掌の技術体系を、現代において習うことができたのである。守らせた、ということは、董先師が後宮内で伝えた技術、つまり原初のスタイルが楊家転掌門の武術には残っている、ということである。

残念なことに、後ろに下がりながら戦うスタイルは、向き合って戦うことが主流となった他流試合用武術全盛期に、受け入れられることはなかった。転掌はいつしか楊家の人間のみが練習する家伝武術となり、それが閉鎖的な指導状態へとつながり、歴史の中に埋もれたのである。
しかしこれはマイナス面ばかりではない。広く多くの人が練習し始めると、武術の大衆化を招く。それが防がれたのだ。
大衆化することによって、武術の発展、という名の改変により、衆人の気を引くための装飾が加わり始める。護身技術に最も不要なもの「見栄え・美しさ」が加味され、長い型がいくつも生み出される。飽きっぽい門人を引き留め、ビジネスを維持・発展させるための不要な活動が展開される。
宮女開祖は、名称を転掌から八卦掌へと変えた。これは、開祖が家伝武術として転掌を伝承していく意図がなかったことを示している。本当は、広く広めたかったのである。当時北京で有名になりつつあった、転掌から名称を変えた「八卦掌」にすることで門人を集めようとした。
しかし、転掌のスタイルを変えることをしなかった。転掌スタイルを「転掌式(てんしょうしき)」、向き合って打ち合う他流試合用格闘術を「交手式(こうしゅしき)」とし両者を明確に分け、開祖自身が感じる「気づき」が交手式に流れないように、自らを律したのだ。
そのストイックな姿勢が、八卦掌の名によって集まった門人らの心を、楊家転掌門から離れさせた。門諺(門内に伝わる宮女開祖の言い伝え)に、「我、門弟の出奔多きにより一人となっても、此の技を守る也」がある。多くの門人が流れたことを示している。
近代格闘術八卦掌は、北京で、美しさと知名度、かつ高級理論を携え、中国拳法四大門派への道を歩む。宮女開祖は、それらの発展を、別武術への変遷と捉え、改変を禁止し、後宮護衛官武術としての転掌を守らせた。
私は、よくぞ決断をしてくださったと、感謝している。時代の流れの中で自身の信じるスタイルから人が離れている現状を目の当たりにし、それでも己の道を貫いたのだ。
Youtube動画で、中国拳法の大家が総合格闘技に倒されたのを見て、その裏側にある諸事情を考慮もせず、「時代遅れ」「フェイクマスター」などと言って安易にバカにしている暇な凡人どもとはひどく違う。多くの人間が、このように、たったひとつの事象によってたちまち洗脳され、流される。この暇人どもの認識の総意として、「向き合って戦う=格闘技・武術」のような無茶な常識が成り立ったのである。
私のもとに集まるのは、この常識に違和感を感じ、現実を直視し続ける真摯な者ばかりだ。彼ら彼女らには、きっと宮女開祖の真摯な思いが伝わることだろう。















