投稿者「mastery」のアーカイブ

楊家転掌式八卦掌開祖・宮女開祖

宮女開祖は、転掌八卦門において極めて重要な人である。なぜなら、転掌式八卦掌の開祖であり、かつ董海川先師が伝えた転掌の技術体系を、自身の没落にもめげず守り、後世に伝えるきっかけを作った方だから。

宮女開祖は、清朝の後宮に出仕していた際、そこで武術教官となった董海川先師から転掌を直接習うこととなった。その指導内容は、きわめて現実的であり、かつ理論の指導などほぼないシンプルこのうえないものだった。

私は楊家先代師から、八卦陰陽理論なるものを一切習ったことがない。当然である。楊師は、八卦陰陽理論は、北京後代拳師らの後付けのものだと、明確におっしゃられていた。それは近代格闘術八卦掌門でも、自認している。私は楊師から、孫子の兵法のくだりをいささか聞いたのみである(私は小学生のころか戦史の読書をしていたので、孫子兵法は知っていた)。

宮女開祖は、後宮を出宮後、転掌の技術体系を維持することに腐心した。董海川先師から指導を受けた、単換掌に関わるいくつかの変化形は、「転掌式」として整理した。そして、身の回りのモノを扱って戦うための武器術は、董先師の指導のままに双換掌にリンクさせ、修業期間が長くならないように気を配った。

宮女開祖の最大の功績は、冒頭で述べた通り、転掌の技術体系を、後代にまで守らせたことである。それ故私は、董海川先師が伝えた転掌の技術体系を、現代において習うことができたのである。守らせた、ということは、董先師が後宮内で伝えた技術、つまり原初のスタイルが楊家転掌門の武術には残っている、ということである。

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残念なことに、後ろに下がりながら戦うスタイルは、向き合って戦うことが主流となった他流試合用武術全盛期に、受け入れられることはなかった。転掌はいつしか楊家の人間のみが練習する家伝武術となり、それが閉鎖的な指導状態へとつながり、歴史の中に埋もれたのである。

しかしこれはマイナス面ばかりではない。広く多くの人が練習し始めると、武術の大衆化を招く。それが防がれたのだ。

大衆化することによって、武術の発展、という名の改変により、衆人の気を引くための装飾が加わり始める。護身技術に最も不要なもの「見栄え・美しさ」が加味され、長い型がいくつも生み出される。飽きっぽい門人を引き留め、ビジネスを維持・発展させるための不要な活動が展開される。

宮女開祖は、名称を転掌から八卦掌へと変えた。これは、開祖が家伝武術として転掌を伝承していく意図がなかったことを示している。本当は、広く広めたかったのである。当時北京で有名になりつつあった、転掌から名称を変えた「八卦掌」にすることで門人を集めようとした。

しかし、転掌のスタイルを変えることをしなかった。転掌スタイルを「転掌式(てんしょうしき)」、向き合って打ち合う他流試合用格闘術を「交手式(こうしゅしき)」とし両者を明確に分け、開祖自身が感じる「気づき」が交手式に流れないように、自らを律したのだ。

そのストイックな姿勢が、八卦掌の名によって集まった門人らの心を、楊家転掌門から離れさせた。門諺(門内に伝わる宮女開祖の言い伝え)に、「我、門弟の出奔多きにより一人となっても、此の技を守る也」がある。多くの門人が流れたことを示している。

近代格闘術八卦掌は、北京で、美しさと知名度、かつ高級理論を携え、中国拳法四大門派への道を歩む。宮女開祖は、それらの発展を、別武術への変遷と捉え、改変を禁止し、後宮護衛官武術としての転掌を守らせた。

私は、よくぞ決断をしてくださったと、感謝している。時代の流れの中で自身の信じるスタイルから人が離れている現状を目の当たりにし、それでも己の道を貫いたのだ。

Youtube動画で、中国拳法の大家が総合格闘技に倒されたのを見て、その裏側にある諸事情を考慮もせず、「時代遅れ」「フェイクマスター」などと言って安易にバカにしている暇な凡人どもとはひどく違う。多くの人間が、このように、たったひとつの事象によってたちまち洗脳され、流される。この暇人どもの認識の総意として、「向き合って戦う=格闘技・武術」のような無茶な常識が成り立ったのである。

私のもとに集まるのは、この常識に違和感を感じ、現実を直視し続ける真摯な者ばかりだ。彼ら彼女らには、きっと宮女開祖の真摯な思いが伝わることだろう。

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アルミ特殊警棒を使った護身術

アルミ特殊警棒を進める理由は、「軽い」からである。軽いから丈夫でない、とか、威力がない、とかの心配はいらない。

有事に練習し抜いた「斬撃」に、しっかりと耐えうる。軽い=弱い、ではない。そもそも、特殊警棒で敵を倒すつもりだろうか。日本の護身術教室は、敵を制圧することばかり念頭に置きすぎる。

教えている対象者が屈強な男性であれば、持ち前の筋肉と体重の重さで、襲撃者を倒すこともできよう。しかし私も含めてだが、身体が小さくて体重も軽い女性などに、その道を行かせるのは困難である。

私は現実を教える。それがある人にとって無味乾燥であってもよい(私は長年転掌と向き合っているが、無味乾燥などと感じたことは無い)。ロマンなどいらない。機能美に価値を見出すものだけでよいのだ。

その観点からの、アルミ特殊警棒で在る。アルミ特殊警棒は軽い。重たくない。携帯に苦にならない。私の一番弟子は、双短棒の名手である。特殊スチール(鉄製)特殊警棒を二つも持っている。二つも入っている時のカバンは、重くたくてしょうがない。カバンを代わりにもってやると、カバンの中に入っている特殊警棒が、脚に当たって痛くてしょうがない。

これはなんとかならないのか?と言ったら、さすがに本人も困っていたらしくて、アルミ特殊警棒2本に変えていた。やはり軽いのである。入っていることに気付かない。これはメリットである。私たちは武士ではない。身を守ることを第一に考え、常に重たい攻撃力のある武器を、カバンの中や身体に、身に付けたり追随させておくことはできない。

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女性の場合、カバンに護身具を入れておくことは、割と許されやすい。法律違反ではない。女性は男性よりも、襲われやすいものだ。女性が身体の危険を少しでも感じるならば、護身具を入れておくことは携帯するにあたり正当な理由ありと、認められやすい。そもそも、女性自身
が職質されることも少ない。常に入れておくこともできるだろう。

アルミは、棒自体の軽さから、伸ばした状態から緩みやすい。しかしそれは、転掌では問題ない。なぜなら、転掌で行う技法はすべて引っ張る刀術だからである。他の警棒護身術は、我の腹前で行われる。刀で受け、刀で前方向に居る敵に斬りつける。ゆるみやすい警棒術だと、警棒を使った護身技術が意味をもなたくなってしまう。

転掌刀術は去り斬りに徹しているため、前方向に向かって「斬り伏せる」のでもない、「突く」もほとんどしない。引っ張る形となるため緩んでいても問題ないのである。

実際私は、緩んだ状態で攻撃対象物を打つことができるか試したことが何度もある。去り斬りゆえ、問題ない。降るたびに伸びるため、攻撃に支障はない。もちろん、突く動作でダメージは与えられないだろう。しかし転掌刀術に関しては、「当たらなくていい」ため、緩んでいても問題ない。突く動作など、転掌刀術においてはほぼけん制攻撃だからである。

しっかりとしたメーカーのアルミ特殊警棒は、強度に問題はない。敵の末端部(主に手)の痛穴を打つことができれば、いずれ敵の猛攻は収まる。何度も打てば、たとえフィジカルに優れた相手であっても、当初の欲望を達成しようとは考えなくなるのだ。

イノシシ戦の時、私の攻撃は相手の身体を損傷させなかったと思われる。しかし相手の攻撃意欲は停止させた。だから、相手が脱出口の根元に飛んだ際、そのまま去っていったのである。あの時使ったのは、樫材90センチの棒である。重たいため手返しが悪い。アルミ製で在れば軽いため、手返しよく攻撃できる。

移動しながら末端部をとにかく打ち続け、相手の攻撃が収まるのを待つことだ。連打ではなく、移動して打ち、移動して打ち・・・を繰り返すこと。連打すると、その場に止まることになる。屈強な人間の攻撃の圧力につぶされてしまうのを避けるために、とにかくいどうせよ。

先ほどのイノシシ戦では、一打一打の中に移動が入っている。でなければ、突進による刺突の餌食となっていた。イノシシの動きを、私は止めることができなかったからだ。なぐっても効かないのである。固くて重たくて、打っている実感はあれど、構わず向かってくるのだ。

理性を失った屈強な暴漢の攻撃と同じである。狂ったように殴ってくる。技など通用しない。移動して、距離を保ちながら、臨機応変に打て。叩け。突くのもいいが、とにかく叩け。

手返しの良さが、ここで生きてくる。打てると思ったら、とにかくうつことだ。何度も打たれると、打たれて血が上った状態から、戦意が覚めてくる。獲物が容易に蹂躙できないことを悟るのだ。そして有効な一打が入る時、そこで間隔が広がる。そこまで耐えるしかないのだ。それが持久力が大切である理由だ。

軽さは、持久力の温存につながる。持っている武器の重さは、戦闘の継続時間にまともに影響する。女性は一度、検討してみるといい。

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好きな事だけして生きる=起こることに身をゆだねる

よく自己啓発本なんかに出てくる言葉である。

私ほど、定めたもののために毎日決まったルーティンを繰り返している人間が言うのだから、説得力がある。好きなことだけして生きているわけではない、生活のためにしたくないこともしている。

しかし、それって好きなことをするためにしていること。だからこれらのことは、必要最小限しかしない。そして毎日の積み重ねをもって、「生活のため」の活動を駆逐している。

このような考え方は、最近のYoutube動画では大変評判が悪い。人生での苦しみの元凶のように言われている。

しかしYoutube上のにわか人生教師どもが取り上げる成功者たちほど、定めた目標に没頭していたはずだ。それって一種の執着だろう?前も言ったが、仏陀は悟りとか苦しみからの脱却に執着した果てに、彼の真理に気付いたのだ。成功者たちだって、いつもハッピーでその道にとどまっていたのではない。苦しみもあった。それは彼ら自身が語っているではないか。

「熱く幸せな時代であったが、戻りたくない」と。

私にとって拳客になることは、道半ばの「在るべき」姿だった。究極は、転掌が全世界に広がっている状態の中で、世界の生徒に、大好きな指導をすることだ。私は転掌を人に教えるのが大好きである。なぜなら、この技術体系には、徹底した合理性があるからだ。

100%の成功を保証しないが、自分次第の領域でいくらでも、その確率を100%に近づけることができる。

生活のために工場機械工や公務員であった頃、胸が躍ることなどなかった。今は違う。心から辛いこともある。例えば毎日の水風呂などね。泣きながら身体洗ってるよ。でもそれも、それがあるからこそ、どっぷりと好きなことに浸かっていることができる要素だから、今はあきらめもつく。自分なりに受け入れたんだ。

好きなことをしなくても好きな事だけしていても、どちらにしろ苦しいのなら、好きなことをしていた方がいい。

私はどうしてもしたくないことがある。今ここであきらめ、死に際、「止めなければよかった」と後悔することだ(※にわか人生教師どもにかかると、死は終わりでなく、輪廻転生とかグダグダいうが、今は置いておく)。

今止めたら、そうなる自信がある。間違いなく。だってまだ、終わりなんて認めていないから。誰にも相手にされなくても、董海川先師と宮女開祖が私に示した道は、間違いなく弱者を窮地から逃れさせるものだと、信じて疑わないから。その信じる気持ちが私に、窮地になった時、指導している150年前の光景を夢で見させる。

転掌八卦門には人が来ない。しかし一時も、この技術体系を疑ったことは無い。自分自身の目を信じて道を選択できる武術志願者が金沢にはいないだけだ。それくらい、この技術体系に惚れ、好きなんだなぁ。

一番弟子の娘は、転掌式八卦掌のことを「楊家拳」と呼び、独り占めしたいくらい、大事にしている。彼女が練習するのは、宮女開祖が残した楊家門転掌式。彼女は武器術を、転掌式に合わせて練習する。いまだに、推掌転掌式と、その型で行う転掌双短棒を愛する。その愛に答えてくれたのか、推掌転掌式は彼女を有事に守ってくれた。

世界に旅立つには、足場を固めたい。しかし2県しか、掌継人(楊家門正式伝承者)を残せていない。全国の諸氏に届ける手段はないものか、と幾年も失敗を重ねてきた。チャレンジは続く。

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とあるコンサルタントが、「人のしていないことはしない方がいい。なぜならうまくいかないから誰もしていないのだから」とYoutube動画の広告で言っていた。人と同じことをしていて達成できる道ではないのだよ。一般人向けのコンサル動画はその程度である。私はもっと大きなものを見ている。150年前の続きをするのだ。清朝国内だけで終わってしまった転掌を、まず復活させ、そして世界へ届けるのだ。前人未踏の道でチャレンジすることこそがふさわしい。

私が本当に好きなのは、楊家拳であるのはもちろんのこと、本当に熱くなっていることは、この普及活動なのだ。この道を進むために起こるあらゆる苦闘を乗り越えるとき、魂の底から湧き上がる、泣けるくらの歓喜が訪れる。後進に指導して彼ら彼女らが育つ時、あまりの嬉しさに、笑いが止まらなくなる。これこそが大好きなのだ。

この身体の動く限り、私は転掌を学び練習し、指導する。それに伴い起こることは、あまねく受け入れる。もはやここまで貫くと、起こることは受け入れざるを得ない状況になっている。

理解者など、一人でもいてくれれば十分だ、私にはいる、一人ではない、たくさんいる。この世だけでない、空にも、我が胸の中にもいるのだ。大丈夫、大丈夫。いつもそう言って、空を見上げると言ってくれる人がいる。その人の分身が今傍で、言ってくれる。

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全国キャラバン指導について

転掌八卦門オンライン全国道場の活動の一環として、全国各地へ指導の旅に出る「キャラバン指導」を考えています。

転掌八卦門オンライン門下生が30名を越えた時点で、定期的に各地を回ります(30名を越えないと、指導旅を支える資金の調達に無理が生じるため)。

秋期3カ月(9月~11月)に日本海側、夏季3カ月(5月~7月)に東北地方・北海道地方、冬季3カ月(12月・2月~3月)に大平洋側・四国・九州地方となります。

4月・8月・1月は、その時の拠点(現在は石川県金沢市)での指導とします。

冬季に日本海側や東北地方で開催することは、天候の関係上、開催が不透明となってしまうためです。冬季は雪の影響の少ない、太平洋側・四国・九州地方で開催します。

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オンライン全国道場における主な指導内容は、転掌八卦門の修行初期段階の「一定時間生存術」と、「基礎武器術」となります。独学を念頭に置き、大変シンプルにまとまった技術体系となっておりますが、師の導きがまったく不要、というわけではありません。

弟子自身が、実際に師(水野)に攻撃を仕掛け、師がそれに対処するのを、間近で見てもらうことで、模範動作が門下生自身の頭の中に残り、一人練習に大きな効果をもたらします。

また師が襲撃者役となって。技を掛け合いながら指導を受けることで、確実な動作チェックをしてもらうことができます。

キャラバン指導では、一つの地方に基本的に一週間とどまり、開催地近隣の門下生が極力参加できるように配慮します。オンライン門下生である以上、キャラバン指導講習への参加は無料で自由なので、必ず参加してもらいたいと思います。

キャラバン指導に出発する1カ月前に、サイト上で指導の予定を掲載しますので、オンライン門下生は事前に予定を合わせることができます。門下生となった以上、対面指導の場に参加することは、上達のための最低限採るべき行動とみなします。これは平素より、門祖の水野がおっしゃっていることです。

オンライン全国道場の門下生には、道場における初伝課程が修了した時、修了証を配布します。しかし転掌八卦門公認の、転掌護身術インストラクターとなるには、一定時間の対面での指導と上達が必須となります。

北陸金沢に全国各地から来訪することは大変なことだと思います。しかしキャラバン指導講習を利用すれば、近隣での開催時、集中的に指導を受けることができます。この機会を最大限に活かし、本当に使える護身術として間違いのない、護衛官武術・転掌の一定時間生存術を、習得してください。

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転掌八卦門オンライン全国道場 募集要項

全国の転掌修行者の皆様へ。準備が整いましたので、転掌八卦門の全国展開の一環として、転掌八卦門オンライン全国道場の本格的な募集を開始致します。

通信講座の諸点を改良し、全国展開時に対応するため、オンライン全国道場へと本格的に移行していきます。

現在八卦掌水式館の拠点は、石川県金沢市ですが、後進の育成の目途が立ち次第、拠点の移動を考えております。

転掌の初期修行段階である「一定時間生存術」の学習を対象に、オンライン全国道場を展開します。

定員は、現在35名を考えております。業務の進捗状況により、定員は前後しますので、希望者はお早めに、入門フォームより申請し、入門時選考を受けてください。

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◆教授料

・月謝制 6,050円(税込)

・入門費:6,600円(税込)

・年会費:なし

◆課題動作動画提出について

一回一課題動作のみ。動作の指導は他の掌継人も行う。修行の疑問については、提出時一つ可。修行の疑問については、水野が行う。

◆全国キャラバン指導について

門下生が30名を越えた時点で、開始。オンライン全国道場門下生は追加指導料なしで参加可(門下生以外は5,500円)。よって近隣で開催される場合、極力参加すること(一定時間生存術インストラクターには、最低回6の参加条件があるため)。

◆ネット上武器術型習得講座

オンライン全国道場Topページにて、武器術(刀術・藤牌術)のネット上動画講習あり。

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転掌八卦門オンライン全国道場・初伝課程

転掌八卦門のオンライン全国道場の初伝課程の骨子が完成しました。

・清朝後宮護衛官武術「転掌」~伝説はいらない。成立に関わる歴史と実情。
・推掌定歩基本功
・転掌移動法
・斜め後方スライド時の運足技術
・「推掌転掌式」で学ぶ斜め後方スライド時運足技術
・緒戦行動技術
・武器術基本功「単換刀」で学ぶ翻身旋理・刀裏背走理
・換掌
・勢掌
・単換掌
・双換掌
・一定時間生存術の対人想定練習法

詳細は、オンライン全国道場の紹介ページにてご確認ください。初伝課程は、転掌初期段階の『一定時間生存術』を指導します。オンライン上の特別講義として、転掌刀術を指導します。転掌刀術は、直接館長が口頭で模範を示しながら指導した方がいいためです。

オンライン道場門下生が30名を越えたら、全国キャラバン指導にて全国をまわり、各地で講習を開きます。一般参加者は参加料が発生しますが、オンライン道場門下生は、参加料無しで参加可能です。指導が近所で行われる際は、極力参加してください。対面指導に参加しない場合、初伝課程を修了はできますが、次課程(代継門人候補課程)へ進むことができません。

対象は、全国の学習希望諸氏です。内容に真伝を含めるため、学習希望者の質を確保する必要から、北陸転掌八卦門と同様の、入門時選考を実施します。

中国拳法は、館長が習った当時も含めて、極めて閉鎖的な性質を持っています。それは、中国武術の技術体系に、人格を修養するようなプログラムはほぼ無く、人を殺傷する技法のみで構成されているからです。学習者が粗暴であれば、技法の習熟とともにその学習者は人を傷つけるようになり、指導者をも殺める可能性が生じます。誰彼構わず教えて門伝が漏れ手の内が知られ、襲撃時不覚を取るのを防ぐためもありました。また、粗暴者に指導してその者が他の門派といさかいを起こし、門同士の争いになることを防ぐ狙いもありました。

つまり、教える側の身を守るために、中国拳法は門戸を固く閉ざしたのです。転掌八卦門は、その考えを支持します。全国各所で門戸を広げ学習者を募集したが、応募者の常識の欠如に頻繁に直面したためです。

しかし、常識的な態度で、かつ他の者(師・兄弟子・弟弟子・一般の人など)に対する通常程度の思いやりを持つことができる者であれば、その門戸は開かれます。

館長自身、家伝武術と化した楊家伝転掌式八卦掌・楊家伝董式転掌を習う際、固く閉ざされた門戸のマイナス面にも直面しました。その点を改善し、かつ学習者の一定レベルの質の確保のため、転掌八卦門オンライン全国道場は、オンラインであってもその門戸の解放に一定の制限をかけ、始動します。

対面での指導はキャラバン講習以外で行われないため、門弟には、型の正確な習得を手助けすることをメインとします。

執着するから、その苦しさの果てに何かが見えるのだ

苦しくて苦しくて泣き叫んでしまう。

そんなどうしようもない状況なのに、プラスの思考でなければ願望は実現しない、などと連中どもは断言する。「今在る」とか 「私は満たされてる」などと言い、そちらに目を向けろ、とか、アドバイスをする。そんなこと、真剣に向き合っていればいるほど、考えれるわけないだろうが。消しても消しても湧いて出てくる、匿名連中の願望実現動画が、真剣に嫌いである。達人養成と関係ないだろうが。

それができるとしたら、それはごく一部の変わった人間しかできないはずだ。格闘技ベースの護身術と同じである。エリートの選ばれし武術みたいなものだ。

それなのに この動画の、顔どころか、遠近撮影自画像すら出さない匿名どもたちは、誰でもできる、今この瞬間あなたは変わり、人生を大きく動かせることができる、などと言いきってしまうわけだ。

理解に苦しむことだ。そんな簡単なこと言えるのか?それは連中が何もそんなことを経験してないからだ。顔を出さず、管理者の名称すら似たり寄ったりの連中は、「サラリーマンの副業」連中だからだ。連中はお金のために、耳当たりのいい言葉だけを並べて動画の再生回数を稼ぐだけなのでそんないい加減なことを平然と言ってのけるのである。視聴者が願望を実現するかどうかなど、どうでもいいのである。

連中の最大の罪は、「願う=今叶っていないことを前提に思考している」からあなたの夢はかなわない、とこじつけみたいなことを言って、視聴者の責任にすることである。なんでこの連中どもが、そのようなことを言うのだ?自分は何も悟っても、成しても居ないのに、適当なごたくを並べているだけなのに、挙句に、苦しんで藁をもつかむ思いで動画を見ている真摯な視聴者を、「おまえの責任だ」と言って一層苦しめる。なんて連中だ。

ハッキリという。このような動画を見ることに、メリットなど無い。一時満足するだけだ。希望を持てる?希望を持ってどれだけの人間がその場にとどまり、この動画の「だからあなたは成功しない」に苦しめられ、去っていったか。

このような動画を見るならば、心の落ち着く音楽をかけ、自分の作業に没頭した方がいい。この動画どもは何も現状を変えないが、あなたの行動は、ほんの少しであっても、あなたの現状を変えるのだ。あなたの苦しい現状を、顔も出さないような連中たちに、ほんの少しでも影響させてはいけない。あなたはそれらの動画を見て、心が休まったか?真の平安は、自分で歩き、苦しみ、たどりついた「諦念」のなかにある。

行動して、そこで苦しんで苦しんで苦しんで、苦しんだ先に見えるものがあるんじゃないのか?この連中がよく引き合いに出すブッダだって、最初から執着がない状態で進んで、そして悟りを開いたわけじゃないだろう?悟りというものに執着して苦しんで、苦行を積んでその上で、やっと気づいたんじゃないのか?執着すること苦しみを生んでいたと。何もやってない人間は、そこから何も生まれない。行動こそ全てである。

苦しみを伴う行動は努力と化し、結果あなたの願望は叶わないと断言する。なぜなら、動画の視聴者の多くは、努力が嫌いだからだ。努力不要で夢実現、と謳った方が、視聴回数が稼げるからだ。そこに、あなたを真の苦しみから解放する真実はない。これらの動画は、あなたの一層の苦しみと、連中の副収入しか生まない。

行動すれば苦しいことだってあるだろう。苦しくなった瞬間 努力と決めつけて、努力になったから叶わないという帰結では、何もできないではないか。何か一つの物事を極めるには、うまくいかなくて心が落ち込む時もあるのだ。心が沈んで波動が低くなったから、それはもう努力なのだから、あなたの願望は叶わない、では、私たちはどうすればいいのか。真に受けてはいけない。連中は何も悟っていない。同じことばかり、異口同音に垂れ流されているのが、証拠である。

連中の好きな成功者たちは、皆、行き止まりになって、現実が止まってしまい、苦しい思いをして、それでもその先に進んでやっと栄冠を手にしてきた。そういう人たちばっかりだろう?連中が言う状態の真逆を歩み続けてきた人ばかりだ。

行動せよ。行動しながら、真に望む姿を明確にせよ。あなたは理想が100であるとする。その瞬間、あなたは、理想の状態中5しかできなくても、その「5」分は理想の状態で在るのだ。それを少しづつ増やしていけばいい。それに集中せよ。積み重ねが必要である。小さくてもいいので何かをして、昨日と違う状態とせよ。

タイミングよく、必要なお金や人など、やってこない。やってこないから、私も家を何度も失い、成功者たちも多くが破産を経験しているのだ。大丈夫、その時になったら、受け入れる、どころかどうにもならない状態で、現状に流されるしかないのだから。

そのようなときに、無理に「これも必要なプロセス」などと考えないことだ。そのようなこと、その時に苦しむ私たちには分からないのだ。泣き叫んで、声をからして、ふらふらになりながらも、次のドアをノックして、そしてその先に・・が現実だ。そのようなことを動画内容にしたら、誰も視聴しないだろう?

苦しみを伴った継続は、あなたの夢実現を阻害しない。努力は願望実現を妨げる?適当なことを言うな!動いた者こそが、真実に近づく。真摯に追い求めると、執着する。しかしそれはあなたの願望実現を妨げない。仏陀は、悟りに執着した果てに、悟りを得た。

苦しいよね。分かるよ。私もいま、苦しさの真っただ中にいる。でも進み続けるのだ。いつも叫んでいるよ。マイナスの感情だらけだ。止めたいと思っている。苦しいよ、誰か助けてよ、って言ってる。でも誰も、助けてなどくれないのだよ。ほとんどの人は、自分だけがすべてであるのだ。それを思い知るだけでも、人生は大きく動く。

親族でも、私に手を差し伸べてくれたのは、たった一人だけだった。いわんや赤の他人をや、だ。血のつながりを越えたつながりの方が、思いやりを感じる場合がある。そのような存在が無くて、たった一人でも、大丈夫だ。それが普通だ。進めばいい。他人は私の命までは採ることができない。しぶとくとどまって、ノックし続けよ。私が絶対したくないこと。死ぬ間際に、「やっとけばよかった」と思うこと。

私も君も、貴女も、まだ時間があろう。「だってあなたは生きられるじゃない。大丈夫だよ」。大切な人の言葉だ。時間がある。行動して、苦しみ、その先に何があるのか、見に行こう。

「転掌式」と「交手式」~昔日と近代格闘術を分けるもの

年越しの記事である。あけましておめでとう・・・などどうでもいい。年初から、読んで役立つものを届ける。

転掌式とは、斜め後方スライドの術理で構成された、転掌スタイルだ。交手式とは、敵と向き合って手を交え、打ち合う近代格闘術スタイルだ。それは明確に分けられて伝承された。

宮女開祖は、交手式になること断じて拒否した。一時でもそのスタイルに染まると、それが他の八卦掌と同じ末路を迎えると判断したからだ。

転掌式は、現代においてほとんど評価されない。護身の世界では必須の身法であるのに、護身術の世界においてもその技法は軽視される。転掌式は、昔日、転掌だけに限定されたスタイルではなかった。庶民用武術は皆、転掌式と採用していたのだ。

なぜなら、打ち合うことができなかったから。甲冑を身に付けることが許されなかった。武器を持つことが許されなかった。ただ、敵から逃げ続け、その中で活路を見いだすしかなかったからだ。その意味で、極めて不利な状況を生き抜く知恵が結晶された、大変シビアで技術的な世界である。

であるのに、敵の力とぶつからないために下がる技術を、「技術なし」と知らない者は判断する。愛好家レベルの者が言うのは仕方ないが、指導者レベルの人間が言っているのを見た時、大変驚いた。それも八卦掌の指導者が、である。あなたの拳法の源泉は、移動して活路を見いだす庶民用武術だったのだぞ。

私が梁派八卦掌の伝承者の道を選ばなかった大きない理由の一つが、梁派のスタイルで護身を果たす自信がなかったからだ。我が身を守る技術として自信のないものを、他人に「護身に!」と言って指導することはできない。それは不誠実であると映るからだ。命がかかっているのだ。私は、自分で実際に使って、実際に我が身を守ったものだけしか、教えることはできない。

梁派八卦掌では、兄弟子との組手の中で、勝ったり負けたりした。いや、体格のいい、武術経験者の兄弟子には、全く歯がたたなかった。結局、体格のいい人間は武術のスキルではなく、フィジカルで圧倒してくる。それを嫌というほど、思い知らされた

弊館の一番掌継人たる筆頭門弟も、一番に弟子となった一番弟子も、梁派八卦掌を習うことを明確に拒否した。彼女らは、筋力や体重で圧倒的に上回る男性らと戦うにあたって、技術でその差を埋める近代八卦掌に、直感的に「無理」をかんじたのである。そしてその直感は、正しかった。

私は指導者として、力がぶつからないスタイルだけに取り組むわけにはいかなかった。力がぶつかるスタイルも経験して、その欠点と長所も含め、総合的に理解したうえで、転掌を伝承していく方が合理的で誠実だと思ったのだ。

転掌も近代格闘術八卦掌も修行を終わらせたうえで、やはり私は、近代格闘術八卦掌を指導することは控えようと思った。「私は近代格闘術八卦掌で護身を果たす自信が無い指導者ですが、それでも大丈夫ですか」と了承を求めたうえで、それでもいいと思う者にしか教えることはできない。

日本の八卦掌の指導者は、そのすべてが近代格闘術八卦掌の指導者である。きっと彼らは、その技術を使って武術的目的を果たすことができるから、お金を取って指導しているのだろう。私は、自信を持つことができなかった。近代格闘術八卦掌の巧妙な技で相手を倒し、我が身を守ることができない。そのようなものを指導できない。

私はプロの職業武術家である。プロである以上、自信のあるものしか指導できない。教えるものの価値が揺るぎないものしか、指導できない。これは当然である。

交手式も指導者レベルまで修行したうえで、転掌式の技術の奥深さを痛感する。四半世紀以上もずっと練習してきたが、董先師や宮女開祖の示した技法を、未だに超えることはできない。技術がないなど、とんでもないのだ。

私は、董先師・宮女開祖の伝えたものを超越した時、自分の名前で新たに転掌門を立ち上げるのが夢だった。自分で流派を創る。それはプロの武術家であれば、一つの大きな夢である。しかし越えてないのに、自分の名前で立ち上げることなどできない。ましてや、自分で創ったなどとウソをつくのは、先代師に対する冒とくであろう。その時が来るまで、プロならではの夢はとっておこう。

昔日の岡山にこのような逸話がある。

野盗の襲撃に悩まされていた農民が、在野の柔術の達人に、その技の指導を請うた。そこで達人は、大きな円を描き、そこでひたすら、鬼ごっこのような掴み合いをさせた。時に一人対複数、時にそれぞれ自由につかみ合わせるなど。

最初は上手くいかなかった。達人は彼らに、捕まらない技術を徹底的に指導した。相手を攻撃する技法を、一切指導しなかったのである。

農民らの逃げきる技術が上がり、もはやその円の中でも逃げ切る技術が着いた時、農民らは不満を漏らす。逃げる技術ばかりで、相手を倒す技術を教わっていません、と。

達人は言った。

「お前たちは農民だろう。相手を倒す技術など、その本分から外れすぎている。お前たちが相手を制する技術を習うと、お前たちはそれにのめり込み、本分がおろそかになる。そして何より、相手を倒そうという欲が出て、逃げ切る技術が下がり、命を落とす。お前たちの中で必要なものは、相手を倒す技術ではなく、相手に絶対捕捉されない技術だ。それこそがお前たちの柔術である。」と。

農民らはハッとする。自分たちの置かれた立場の中で、その達人は、最善最適のものを教えてくれたのだ、と。農民らは以後、郷のものに移動技術を指導し、襲撃があった際は、個々人が自分だけをそれぞれ守ることで、襲撃に対する護身に大きな効果を発揮した・・と。

董先師が、宮女宦官に、最初から必倒護衛ではなく、おとり護衛に絞って技術を指導したのも、これと似ている。各人が置かれている状況に応じた技術ことが最善最適である。各人の状況を無視し、弱者を強者に変貌させるような技術体系を指導してしまうから、力任せの攻撃に圧倒されてしまうのである。

時間があり、練習環境がそろっており、かつ攻撃力の高い武器を携帯でき、かつ打ち合って斬られても大丈夫ならば、交手式でよいだろう。しかし私たちは、武官でもなければ、警察官でもないのである。武器はもつことができない。筋力に頼めば、体格のいい男性に圧倒される。

現状を見つめよ。あなたは護身で使うのか、試合で勝つためなのか。試合で使うなら、負けてもいい。命を落とすことは無い。練習して、次に挑めばいい。

護身ならば、次は無い。常に生還のために確率の高い道を選べ。私が交手式でイノシシに挑んだら、私は今頃、感染症にかかり命が無かったかもしれない。転掌式で瞬時に反応したからこそ、かろうじてイノシシの突進をかわし、けん制の連打で追い払うことができたのだ。

これは、ずっと練習し、技術をみにつけてきたからこそである。転掌式は技術である。技術である以上、練習をせよ。練習して練習して、生還を果たせ。大切な人を守る遊子となれ。

遊子として動き回り、暴漢の攻撃を一身に受け、ぜったいに守りきれ。

職業武術家(プロ)で在るということ

私が師事した一人が、職業武術家などなるものではない、という考えを私に紹介してくれた。師の知り合いの中国人指導者が、そのように言っていたようだ。

私はその考えに、賛同しない。私は、中国武術の指導者である以上、職業武術家としてのみ活動したい。いや、もうそうすると決意し、そうで在るのだ。そしてその事実・現状は、どのような状況になろうと、節を曲げないことを意味する。生徒が来なくて生活が困窮しようとも、大切な人の死に目に立ち会えなくとも。

私は常にプロ(職業武術家)で在り続ける。私はアマチュアになるために、多くのものを失ってきたのではない。

所持金が無くなり、寒空の中で水で身体を洗う事態に陥っても、私は先に進み続ける。

毎月末に請求書に心を追い詰められ、そのような状況下で約束を違えらえても、私はプロで在り続ける。

サラリーマンに戻るのは簡単なことだ。十数年も経験しているが、今の方がはるかに苦しいし、不安である。プロを貫くことは、想像をはるかに超える苦しさを伴う。この瞬間も、このように打ち続けている。家で、ではないぞ。ショッピングセンターのフードコートや、公共の場で、時に白い目で見られながら。でも構わない。心には熱い志がある。

指導のために多くの手段をうってきた。そのほとんどが失敗である。多くの時間をかけ、それが水泡に帰すとも、君は向き合い続けることができるか。心を保ち、次のドアをノックすることができるか。

何の理屈もない。ただこの道に、揺るぎない使命を持っているからである。転掌を世界に広げ、そして、多くの人が、自分を、そして大切な人を、守ることができる世界を創造する。これは約束だから。理不尽な暴力の果てに、人生を意に反して終わらせてしまった人に誓ったのだから。

心が壊れそうになり、目の前が真っ暗となった時。絶望すると同時に、あの時の、悲しみに打ちひしがれる人々の姿が見える。目がカッと見開く。時に泣きながら、時にさけびながら、時に泣き叫びながら、再び立ち上がり、進んできた。

職業武術家である以上、自分を養う必要がある。だから当然、安売りなどしない。法外な金額ではない。月7,000円程度だ。受けて然るべき、報酬である。でないと、全国キャラバン指導ができない。

私は楊師に習う時、稼いだ金額をすべてかけて習った。伝統門である。やる気のない、ご都合主義の愛好家に用は無い。真に技法の伝承をのぞむ者のみと向き合っていく。

転掌八卦門は、オンライン全国道場を展開する。それは、拳客として、全国諸氏に逢いにいくための大きな一歩である。その一歩を踏み出すため、伝える内容を厳選し、整理してきた。これは、拳客として全国展開をする上で、軍師弟子が私に示してくれた策である。よって転掌八卦門の初代バナーには、軍師門弟を掲載した。ずっと支えてくれた恩人だからだ。

倉敷で一緒に練習していた頃の瀬戸大橋の写真であるが、門弟のイラストは高校時代のものである。

現状で全国キャラバンをしても、習いに来る者は少ないだろう。多くの者は、近代格闘術スタイルに染まり、移動戦を特異・亜流なものとみる。しかし護身護衛を真剣に考えるならば、移動戦の有効性がすぐわかるはずだ。私はすでに中学生の時、そのことに気付いていた。だから移動戦技法を求め、求めたがゆえ、楊家拳にたどりついたのである。

もし愛知にいなければ、北陸に行く。北陸にいなければ、全国に行く。その間に、絶え間ない発信を続け、転掌を広める。私は我が身が朽ちるまで、可能性あり限り、目指すべき世界に向けて進み続ける。

前述の軍師門弟は、愛知にて、私に献策をし続けることを誓ってくれた。頼もしい存在である。私には、先に進み続けるためのものがすべて備わっている。達成する目的。技術。揺るぎない情熱。すべて存在している。

軍師門弟らの存在は、あまりに恵まれ過ぎた要素だ。それらがあるのだ、先に述べた創造が、達成されないはずが無いのだ。

達成するために、この命終わるまで、プロの転掌マスターで居続けよう。これは使命である。

転掌刀術の構え~練習した型がそのまま「構え」となる

転掌刀術において、「構え」はあるのか?

一般の剣術や、剣道のように、向き合って相手の隙を伺いつつ・・・というものはない。なぜなら、初撃を、剣で受けることをしないからだ。

その緒戦方法だと、敵の予測できない斬撃に対し対処できない場合が生じる。むしろ、対処できない場合が多くなり、一瞬で斬られて、命を落とす。

よって、どのような敵がどのような手段で襲ってきても一定時間生存する必要があった転掌では、向き合って構えるようなことは決してしない。これは、徒手でも、双身槍でも、連身藤牌でも同じである。

肩を入れ半身となり、敵が少しでも動いたら、けん制斬撃しつつ後方へ移動することができるようにする。だから脚を止めず、移動し続ける。「敵が動いたら」なのである。どのように受けるとか、そのようなことをいささかも考える必要はない。ただ、動いたら、敵の反対側へ移動するのである。

上掲イラストは、遊身大刀の「大上斬」の型で、対峙している状態である。この構えで当然に居着かず、移動し続け、敵が前に出て来たら、けん制の「単推刀」をしながら身体を刀の下をくぐらせ、反対側へ移動しつつ、刀を自分の身体の後ろで移動斬りさせるのである。

「ただ反対側へ移動するだけかよ」

というバカげたツッコミをする人間がいる。安易で誰でもできるから、技術が無いと勘違いしているのである。指導者レベルでもそのようなことをいう人間がいる。そのような人間のいう後方移動とは、単なる「後ずさり」である。転掌の緒戦技術は全く異なるものだ。

格闘技試合や映画、アニメに洗脳され、敵の攻撃と交差した状態の中で勝利をつかみ取る格闘法を、実戦での戦闘だったと勘違いしているのだ。審判がいて、武器を持つことが禁止されている、正々堂々の「試合」ではないのである。このような戦闘法(交差法)は、小手などの甲冑を身に付けることができた武人か、斬撃の危険がない「試合」でのみ成り立つ戦い方である。

武術である以上、それが現代格闘技の価値観に合わなくとも、多くの人の気を引くような華麗な戦い方でなくても、命を守るために確率の高い道を選ぶ必要がある。

それを実行し、貫き、後代にまで守らせたのが、楊家拳(楊家転掌式八卦掌)の開祖でもあった、宮女開祖なのである。董海川先師ですら、自分の後に続く男性修行者の影響を受け、転掌の術理から離れる転掌を傍観した中で、宮女開祖は、生存のために確率の高い道を、勇気をもって選び続けたのである。それが例え、指導門として衰退する結果となっても。

転掌刀術を習うにあたり、緒戦技術から示した、演武のみの動画をアップしたことがある。その動画を見ると、敵を肩越しに見て、いきなり移動し、間隔が開いた状態で、技に入る。初心者用でもあるが、実戦では最も有効で、最も安全な方法である。

上記イラストの弊館一番弟子は、今でも、いきなり移動する緒戦行動による刀術を、真剣に練習している。後方移動を安易な防御法だと揶揄する考えがあると知った時、気性の激烈な一番弟子は

「私なんぞ、二十数年以上も、練習し続けているのに!」

と激高していた。

転掌刀術の真価を見出すことができた者のみに言う。洗脳され、自分のやっていること以外のものにマイナス評価して得意がっている暇な凡人に用は無い。

敵の眼の前で、いつも行っている刀術型を演じよ。敵が少しでも動いたら、すぐさま後方へスライドせよ。初撃を、刀や棒で決して受けてはならない。

その緒戦法に徹することで、相手次第から自分次第の戦いへと入っていけるのだ。