投稿者「mastery」のアーカイブ

執着するから、その苦しさの果てに何かが見えるのだ

苦しくて苦しくて泣き叫んでしまう。

そんなどうしようもない状況なのに、プラスの思考でなければ願望は実現しない、などと連中どもは断言する。「今在る」とか 「私は満たされてる」などと言い、そちらに目を向けろ、とか、アドバイスをする。そんなこと、真剣に向き合っていればいるほど、考えれるわけないだろうが。消しても消しても湧いて出てくる、匿名連中の願望実現動画が、真剣に嫌いである。達人養成と関係ないだろうが。

それができるとしたら、それはごく一部の変わった人間しかできないはずだ。格闘技ベースの護身術と同じである。エリートの選ばれし武術みたいなものだ。

それなのに この動画の、顔どころか、遠近撮影自画像すら出さない匿名どもたちは、誰でもできる、今この瞬間あなたは変わり、人生を大きく動かせることができる、などと言いきってしまうわけだ。

理解に苦しむことだ。そんな簡単なこと言えるのか?それは連中が何もそんなことを経験してないからだ。顔を出さず、管理者の名称すら似たり寄ったりの連中は、「サラリーマンの副業」連中だからだ。連中はお金のために、耳当たりのいい言葉だけを並べて動画の再生回数を稼ぐだけなのでそんないい加減なことを平然と言ってのけるのである。視聴者が願望を実現するかどうかなど、どうでもいいのである。

連中の最大の罪は、「願う=今叶っていないことを前提に思考している」からあなたの夢はかなわない、とこじつけみたいなことを言って、視聴者の責任にすることである。なんでこの連中どもが、そのようなことを言うのだ?自分は何も悟っても、成しても居ないのに、適当なごたくを並べているだけなのに、挙句に、苦しんで藁をもつかむ思いで動画を見ている真摯な視聴者を、「おまえの責任だ」と言って一層苦しめる。なんて連中だ。

ハッキリという。このような動画を見ることに、メリットなど無い。一時満足するだけだ。希望を持てる?希望を持ってどれだけの人間がその場にとどまり、この動画の「だからあなたは成功しない」に苦しめられ、去っていったか。

このような動画を見るならば、心の落ち着く音楽をかけ、自分の作業に没頭した方がいい。この動画どもは何も現状を変えないが、あなたの行動は、ほんの少しであっても、あなたの現状を変えるのだ。あなたの苦しい現状を、顔も出さないような連中たちに、ほんの少しでも影響させてはいけない。あなたはそれらの動画を見て、心が休まったか?真の平安は、自分で歩き、苦しみ、たどりついた「諦念」のなかにある。

行動して、そこで苦しんで苦しんで苦しんで、苦しんだ先に見えるものがあるんじゃないのか?この連中がよく引き合いに出すブッダだって、最初から執着がない状態で進んで、そして悟りを開いたわけじゃないだろう?悟りというものに執着して苦しんで、苦行を積んでその上で、やっと気づいたんじゃないのか?執着すること苦しみを生んでいたと。何もやってない人間は、そこから何も生まれない。行動こそ全てである。

苦しみを伴う行動は努力と化し、結果あなたの願望は叶わないと断言する。なぜなら、動画の視聴者の多くは、努力が嫌いだからだ。努力不要で夢実現、と謳った方が、視聴回数が稼げるからだ。そこに、あなたを真の苦しみから解放する真実はない。これらの動画は、あなたの一層の苦しみと、連中の副収入しか生まない。

行動すれば苦しいことだってあるだろう。苦しくなった瞬間 努力と決めつけて、努力になったから叶わないという帰結では、何もできないではないか。何か一つの物事を極めるには、うまくいかなくて心が落ち込む時もあるのだ。心が沈んで波動が低くなったから、それはもう努力なのだから、あなたの願望は叶わない、では、私たちはどうすればいいのか。真に受けてはいけない。連中は何も悟っていない。同じことばかり、異口同音に垂れ流されているのが、証拠である。

連中の好きな成功者たちは、皆、行き止まりになって、現実が止まってしまい、苦しい思いをして、それでもその先に進んでやっと栄冠を手にしてきた。そういう人たちばっかりだろう?連中が言う状態の真逆を歩み続けてきた人ばかりだ。

行動せよ。行動しながら、真に望む姿を明確にせよ。あなたは理想が100であるとする。その瞬間、あなたは、理想の状態中5しかできなくても、その「5」分は理想の状態で在るのだ。それを少しづつ増やしていけばいい。それに集中せよ。積み重ねが必要である。小さくてもいいので何かをして、昨日と違う状態とせよ。

タイミングよく、必要なお金や人など、やってこない。やってこないから、私も家を何度も失い、成功者たちも多くが破産を経験しているのだ。大丈夫、その時になったら、受け入れる、どころかどうにもならない状態で、現状に流されるしかないのだから。

そのようなときに、無理に「これも必要なプロセス」などと考えないことだ。そのようなこと、その時に苦しむ私たちには分からないのだ。泣き叫んで、声をからして、ふらふらになりながらも、次のドアをノックして、そしてその先に・・が現実だ。そのようなことを動画内容にしたら、誰も視聴しないだろう?

苦しみを伴った継続は、あなたの夢実現を阻害しない。努力は願望実現を妨げる?適当なことを言うな!動いた者こそが、真実に近づく。真摯に追い求めると、執着する。しかしそれはあなたの願望実現を妨げない。仏陀は、悟りに執着した果てに、悟りを得た。

苦しいよね。分かるよ。私もいま、苦しさの真っただ中にいる。でも進み続けるのだ。いつも叫んでいるよ。マイナスの感情だらけだ。止めたいと思っている。苦しいよ、誰か助けてよ、って言ってる。でも誰も、助けてなどくれないのだよ。ほとんどの人は、自分だけがすべてであるのだ。それを思い知るだけでも、人生は大きく動く。

親族でも、私に手を差し伸べてくれたのは、たった一人だけだった。いわんや赤の他人をや、だ。血のつながりを越えたつながりの方が、思いやりを感じる場合がある。そのような存在が無くて、たった一人でも、大丈夫だ。それが普通だ。進めばいい。他人は私の命までは採ることができない。しぶとくとどまって、ノックし続けよ。私が絶対したくないこと。死ぬ間際に、「やっとけばよかった」と思うこと。

私も君も、貴女も、まだ時間があろう。「だってあなたは生きられるじゃない。大丈夫だよ」。大切な人の言葉だ。時間がある。行動して、苦しみ、その先に何があるのか、見に行こう。

「転掌式」と「交手式」~昔日と近代格闘術を分けるもの

年越しの記事である。あけましておめでとう・・・などどうでもいい。年初から、読んで役立つものを届ける。

転掌式とは、斜め後方スライドの術理で構成された、転掌スタイルだ。交手式とは、敵と向き合って手を交え、打ち合う近代格闘術スタイルだ。それは明確に分けられて伝承された。

宮女開祖は、交手式になること断じて拒否した。一時でもそのスタイルに染まると、それが他の八卦掌と同じ末路を迎えると判断したからだ。

転掌式は、現代においてほとんど評価されない。護身の世界では必須の身法であるのに、護身術の世界においてもその技法は軽視される。転掌式は、昔日、転掌だけに限定されたスタイルではなかった。庶民用武術は皆、転掌式と採用していたのだ。

なぜなら、打ち合うことができなかったから。甲冑を身に付けることが許されなかった。武器を持つことが許されなかった。ただ、敵から逃げ続け、その中で活路を見いだすしかなかったからだ。その意味で、極めて不利な状況を生き抜く知恵が結晶された、大変シビアで技術的な世界である。

であるのに、敵の力とぶつからないために下がる技術を、「技術なし」と知らない者は判断する。愛好家レベルの者が言うのは仕方ないが、指導者レベルの人間が言っているのを見た時、大変驚いた。それも八卦掌の指導者が、である。あなたの拳法の源泉は、移動して活路を見いだす庶民用武術だったのだぞ。

私が梁派八卦掌の伝承者の道を選ばなかった大きない理由の一つが、梁派のスタイルで護身を果たす自信がなかったからだ。我が身を守る技術として自信のないものを、他人に「護身に!」と言って指導することはできない。それは不誠実であると映るからだ。命がかかっているのだ。私は、自分で実際に使って、実際に我が身を守ったものだけしか、教えることはできない。

梁派八卦掌では、兄弟子との組手の中で、勝ったり負けたりした。いや、体格のいい、武術経験者の兄弟子には、全く歯がたたなかった。結局、体格のいい人間は武術のスキルではなく、フィジカルで圧倒してくる。それを嫌というほど、思い知らされた

弊館の一番掌継人たる筆頭門弟も、一番に弟子となった一番弟子も、梁派八卦掌を習うことを明確に拒否した。彼女らは、筋力や体重で圧倒的に上回る男性らと戦うにあたって、技術でその差を埋める近代八卦掌に、直感的に「無理」をかんじたのである。そしてその直感は、正しかった。

私は指導者として、力がぶつからないスタイルだけに取り組むわけにはいかなかった。力がぶつかるスタイルも経験して、その欠点と長所も含め、総合的に理解したうえで、転掌を伝承していく方が合理的で誠実だと思ったのだ。

転掌も近代格闘術八卦掌も修行を終わらせたうえで、やはり私は、近代格闘術八卦掌を指導することは控えようと思った。「私は近代格闘術八卦掌で護身を果たす自信が無い指導者ですが、それでも大丈夫ですか」と了承を求めたうえで、それでもいいと思う者にしか教えることはできない。

日本の八卦掌の指導者は、そのすべてが近代格闘術八卦掌の指導者である。きっと彼らは、その技術を使って武術的目的を果たすことができるから、お金を取って指導しているのだろう。私は、自信を持つことができなかった。近代格闘術八卦掌の巧妙な技で相手を倒し、我が身を守ることができない。そのようなものを指導できない。

私はプロの職業武術家である。プロである以上、自信のあるものしか指導できない。教えるものの価値が揺るぎないものしか、指導できない。これは当然である。

交手式も指導者レベルまで修行したうえで、転掌式の技術の奥深さを痛感する。四半世紀以上もずっと練習してきたが、董先師や宮女開祖の示した技法を、未だに超えることはできない。技術がないなど、とんでもないのだ。

私は、董先師・宮女開祖の伝えたものを超越した時、自分の名前で新たに転掌門を立ち上げるのが夢だった。自分で流派を創る。それはプロの武術家であれば、一つの大きな夢である。しかし越えてないのに、自分の名前で立ち上げることなどできない。ましてや、自分で創ったなどとウソをつくのは、先代師に対する冒とくであろう。その時が来るまで、プロならではの夢はとっておこう。

昔日の岡山にこのような逸話がある。

野盗の襲撃に悩まされていた農民が、在野の柔術の達人に、その技の指導を請うた。そこで達人は、大きな円を描き、そこでひたすら、鬼ごっこのような掴み合いをさせた。時に一人対複数、時にそれぞれ自由につかみ合わせるなど。

最初は上手くいかなかった。達人は彼らに、捕まらない技術を徹底的に指導した。相手を攻撃する技法を、一切指導しなかったのである。

農民らの逃げきる技術が上がり、もはやその円の中でも逃げ切る技術が着いた時、農民らは不満を漏らす。逃げる技術ばかりで、相手を倒す技術を教わっていません、と。

達人は言った。

「お前たちは農民だろう。相手を倒す技術など、その本分から外れすぎている。お前たちが相手を制する技術を習うと、お前たちはそれにのめり込み、本分がおろそかになる。そして何より、相手を倒そうという欲が出て、逃げ切る技術が下がり、命を落とす。お前たちの中で必要なものは、相手を倒す技術ではなく、相手に絶対捕捉されない技術だ。それこそがお前たちの柔術である。」と。

農民らはハッとする。自分たちの置かれた立場の中で、その達人は、最善最適のものを教えてくれたのだ、と。農民らは以後、郷のものに移動技術を指導し、襲撃があった際は、個々人が自分だけをそれぞれ守ることで、襲撃に対する護身に大きな効果を発揮した・・と。

董先師が、宮女宦官に、最初から必倒護衛ではなく、おとり護衛に絞って技術を指導したのも、これと似ている。各人が置かれている状況に応じた技術ことが最善最適である。各人の状況を無視し、弱者を強者に変貌させるような技術体系を指導してしまうから、力任せの攻撃に圧倒されてしまうのである。

時間があり、練習環境がそろっており、かつ攻撃力の高い武器を携帯でき、かつ打ち合って斬られても大丈夫ならば、交手式でよいだろう。しかし私たちは、武官でもなければ、警察官でもないのである。武器はもつことができない。筋力に頼めば、体格のいい男性に圧倒される。

現状を見つめよ。あなたは護身で使うのか、試合で勝つためなのか。試合で使うなら、負けてもいい。命を落とすことは無い。練習して、次に挑めばいい。

護身ならば、次は無い。常に生還のために確率の高い道を選べ。私が交手式でイノシシに挑んだら、私は今頃、感染症にかかり命が無かったかもしれない。転掌式で瞬時に反応したからこそ、かろうじてイノシシの突進をかわし、けん制の連打で追い払うことができたのだ。

これは、ずっと練習し、技術をみにつけてきたからこそである。転掌式は技術である。技術である以上、練習をせよ。練習して練習して、生還を果たせ。大切な人を守る遊子となれ。

遊子として動き回り、暴漢の攻撃を一身に受け、ぜったいに守りきれ。

職業武術家(プロ)で在るということ

私が師事した一人が、職業武術家などなるものではない、という考えを私に紹介してくれた。師の知り合いの中国人指導者が、そのように言っていたようだ。

私はその考えに、賛同しない。私は、中国武術の指導者である以上、職業武術家としてのみ活動したい。いや、もうそうすると決意し、そうで在るのだ。そしてその事実・現状は、どのような状況になろうと、節を曲げないことを意味する。生徒が来なくて生活が困窮しようとも、大切な人の死に目に立ち会えなくとも。

私は常にプロ(職業武術家)で在り続ける。私はアマチュアになるために、多くのものを失ってきたのではない。

所持金が無くなり、寒空の中で水で身体を洗う事態に陥っても、私は先に進み続ける。

毎月末に請求書に心を追い詰められ、そのような状況下で約束を違えらえても、私はプロで在り続ける。

サラリーマンに戻るのは簡単なことだ。十数年も経験しているが、今の方がはるかに苦しいし、不安である。プロを貫くことは、想像をはるかに超える苦しさを伴う。この瞬間も、このように打ち続けている。家で、ではないぞ。ショッピングセンターのフードコートや、公共の場で、時に白い目で見られながら。でも構わない。心には熱い志がある。

指導のために多くの手段をうってきた。そのほとんどが失敗である。多くの時間をかけ、それが水泡に帰すとも、君は向き合い続けることができるか。心を保ち、次のドアをノックすることができるか。

何の理屈もない。ただこの道に、揺るぎない使命を持っているからである。転掌を世界に広げ、そして、多くの人が、自分を、そして大切な人を、守ることができる世界を創造する。これは約束だから。理不尽な暴力の果てに、人生を意に反して終わらせてしまった人に誓ったのだから。

心が壊れそうになり、目の前が真っ暗となった時。絶望すると同時に、あの時の、悲しみに打ちひしがれる人々の姿が見える。目がカッと見開く。時に泣きながら、時にさけびながら、時に泣き叫びながら、再び立ち上がり、進んできた。

職業武術家である以上、自分を養う必要がある。だから当然、安売りなどしない。法外な金額ではない。月7,000円程度だ。受けて然るべき、報酬である。でないと、全国キャラバン指導ができない。

私は楊師に習う時、稼いだ金額をすべてかけて習った。伝統門である。やる気のない、ご都合主義の愛好家に用は無い。真に技法の伝承をのぞむ者のみと向き合っていく。

転掌八卦門は、オンライン全国道場を展開する。それは、拳客として、全国諸氏に逢いにいくための大きな一歩である。その一歩を踏み出すため、伝える内容を厳選し、整理してきた。これは、拳客として全国展開をする上で、軍師弟子が私に示してくれた策である。よって転掌八卦門の初代バナーには、軍師門弟を掲載した。ずっと支えてくれた恩人だからだ。

倉敷で一緒に練習していた頃の瀬戸大橋の写真であるが、門弟のイラストは高校時代のものである。

現状で全国キャラバンをしても、習いに来る者は少ないだろう。多くの者は、近代格闘術スタイルに染まり、移動戦を特異・亜流なものとみる。しかし護身護衛を真剣に考えるならば、移動戦の有効性がすぐわかるはずだ。私はすでに中学生の時、そのことに気付いていた。だから移動戦技法を求め、求めたがゆえ、楊家拳にたどりついたのである。

もし愛知にいなければ、北陸に行く。北陸にいなければ、全国に行く。その間に、絶え間ない発信を続け、転掌を広める。私は我が身が朽ちるまで、可能性あり限り、目指すべき世界に向けて進み続ける。

前述の軍師門弟は、愛知にて、私に献策をし続けることを誓ってくれた。頼もしい存在である。私には、先に進み続けるためのものがすべて備わっている。達成する目的。技術。揺るぎない情熱。すべて存在している。

軍師門弟らの存在は、あまりに恵まれ過ぎた要素だ。それらがあるのだ、先に述べた創造が、達成されないはずが無いのだ。

達成するために、この命終わるまで、プロの転掌マスターで居続けよう。これは使命である。

転掌刀術の構え~練習した型がそのまま「構え」となる

転掌刀術において、「構え」はあるのか?

一般の剣術や、剣道のように、向き合って相手の隙を伺いつつ・・・というものはない。なぜなら、初撃を、剣で受けることをしないからだ。

その緒戦方法だと、敵の予測できない斬撃に対し対処できない場合が生じる。むしろ、対処できない場合が多くなり、一瞬で斬られて、命を落とす。

よって、どのような敵がどのような手段で襲ってきても一定時間生存する必要があった転掌では、向き合って構えるようなことは決してしない。これは、徒手でも、双身槍でも、連身藤牌でも同じである。

肩を入れ半身となり、敵が少しでも動いたら、けん制斬撃しつつ後方へ移動することができるようにする。だから脚を止めず、移動し続ける。「敵が動いたら」なのである。どのように受けるとか、そのようなことをいささかも考える必要はない。ただ、動いたら、敵の反対側へ移動するのである。

上掲イラストは、遊身大刀の「大上斬」の型で、対峙している状態である。この構えで当然に居着かず、移動し続け、敵が前に出て来たら、けん制の「単推刀」をしながら身体を刀の下をくぐらせ、反対側へ移動しつつ、刀を自分の身体の後ろで移動斬りさせるのである。

「ただ反対側へ移動するだけかよ」

というバカげたツッコミをする人間がいる。安易で誰でもできるから、技術が無いと勘違いしているのである。指導者レベルでもそのようなことをいう人間がいる。そのような人間のいう後方移動とは、単なる「後ずさり」である。転掌の緒戦技術は全く異なるものだ。

格闘技試合や映画、アニメに洗脳され、敵の攻撃と交差した状態の中で勝利をつかみ取る格闘法を、実戦での戦闘だったと勘違いしているのだ。審判がいて、武器を持つことが禁止されている、正々堂々の「試合」ではないのである。このような戦闘法(交差法)は、小手などの甲冑を身に付けることができた武人か、斬撃の危険がない「試合」でのみ成り立つ戦い方である。

武術である以上、それが現代格闘技の価値観に合わなくとも、多くの人の気を引くような華麗な戦い方でなくても、命を守るために確率の高い道を選ぶ必要がある。

それを実行し、貫き、後代にまで守らせたのが、楊家拳(楊家転掌式八卦掌)の開祖でもあった、宮女開祖なのである。董海川先師ですら、自分の後に続く男性修行者の影響を受け、転掌の術理から離れる転掌を傍観した中で、宮女開祖は、生存のために確率の高い道を、勇気をもって選び続けたのである。それが例え、指導門として衰退する結果となっても。

転掌刀術を習うにあたり、緒戦技術から示した、演武のみの動画をアップしたことがある。その動画を見ると、敵を肩越しに見て、いきなり移動し、間隔が開いた状態で、技に入る。初心者用でもあるが、実戦では最も有効で、最も安全な方法である。

上記イラストの弊館一番弟子は、今でも、いきなり移動する緒戦行動による刀術を、真剣に練習している。後方移動を安易な防御法だと揶揄する考えがあると知った時、気性の激烈な一番弟子は

「私なんぞ、二十数年以上も、練習し続けているのに!」

と激高していた。

転掌刀術の真価を見出すことができた者のみに言う。洗脳され、自分のやっていること以外のものにマイナス評価して得意がっている暇な凡人に用は無い。

敵の眼の前で、いつも行っている刀術型を演じよ。敵が少しでも動いたら、すぐさま後方へスライドせよ。初撃を、刀や棒で決して受けてはならない。

その緒戦法に徹することで、相手次第から自分次第の戦いへと入っていけるのだ。

夜に見える立山~もう一度見たかった景色

「夜にも見えるのよ、立山。月が明るい時。」

そう言って皆を連れて見せてくれた景色が、満月の夜の富山湾だった。

「雪が降って、月が出て、そして晴れていれば」が、あの人の教えてくれた「見える条件」だった

そして土曜日、満月ではなかったが、満月に近い状態。晴れ、昼は立山が金沢から絶景をさらしていた

これはあの景色を見るチャンスだと思った。北陸の冬を車上生活で過ごす事態に陥っていて、お金もない。でもそんなことはどうでもよかった。

転掌の動画は、フェイクマスター・デストロイ(偽マスタ―が打ち破られる)系の動画におすすめとしてyoutubeに挙げられ、書籍は途端に売れなくなり、完全に追い詰められた。

多くの人間は、私の動画に顔隠しでも出ることを嫌がり、水式館で習っていることを隠す。キャンセルばかりで、ひどいものは無断。習いに来ると言って、今まで誰一人、私の住所県に習いになど来なかった。

多くの者が、この拳法を人生の主要とせず、必要とせず。三十数年、必死になって積み重ねてきたものは、「無料」以外では見られることもなく、値切られ、一回経験したら、もうそれでよい、と見限られる。

用事を入れず、教えるために時間を作っても、習いに来る者らは用事ばかりで、勝手に習う時間を短くし、さもそれだけで十分かのように、さっさと去っていく。随分と浅く見られたものだ。片手間の習い事かよ。

怒りを通り越して、もう悲しい。転掌八卦門の敷居を高くしたのは、習い通す覚悟のある者だけしか、相手にしないためだ。今になってやっと、楊老師があれだけ、楊家拳を指導する者を選別していた意味が分かった。楊老師も、実に多くの苦汁をなめてきたのだろう。

コロナを契機に、門の技術を門戸開放したら、待っていたものが、「フェイクマスター・デストロイ(偽マスタ―が打ち破られる)系」お薦め動画とは。俺は愕然としたよ。

そんな、ここ数年の腹をえぐられるような現実が、次から次へと押し寄せる中で、どうしても、あの人と見た夜の立山がみたかったんだ。腹をえぐられるような現実の最たるものが、人災と言われるなかであの人を失ったことだ。あれからずっと、希望を持って進もうとはいつくばってきたが、適当に流されて生きている連中に嘲笑される過程で、心はとがる一方だった。

転掌は武術だ。私はそれを先代師より受け継ぎ、人生のすべてをかけて練習し、発信している。でもそれが受け入れられないのも現実だ。もう自分は、この拳法を第一に考える者としか、時間を持つつもりはない。私は、転掌の第一段階である、一定時間生存術を世界に広める。それは独学ができるシステムを作って、だ。そして、転掌の術理を伝える伝承者には、転掌のことを第一に考える者にしか伝えない。片手間で習得できるほど、武術は甘くない。命がかかった技法だ。

私は今でも、無礼不遜な態度で突進してくる総合格闘技のクソ野郎を叩きのめすつもりで、殺意を持って練習している。おまえは、それほどの気持ちで練習できるか?

私は氷見の海岸線に立っていた。見えた。夜の立山連峰だ。あの時の景色だ。あの人だけ、いない。でも私の横には、楊家拳を第一に考える一番弟子がいる。ありがとう、今私が立っていられるのは、娘が楊家拳を大事に思ってくれるからだ。ありがとう。

ふとみると、その横顔は、あの人の面影を残している。当たり前ではあるが、性格などもあまりに違うため、それに気づかなかった。

あの人はあまりに大きなものを残してくれた。転掌では、ほとんど沈みかけているが、私には、本当に大切なものが残っている。

この記事を見て、転掌門を敬遠するなら、それでいい。真面目に学ぶ者には、こちらも誠実に、指導する。都合よく、サクッと、ライトに、ならば、他に行け。私は私の道を貫き、転掌を、私のオリジナルとし、再興する。水野義人伝転掌の誕生に全力を尽くす。

150年前の私を越える。越えて、転掌は世界に、当たり前のたしなみとして広がり、多くの弱者を救う。

「きっとできる、式人ならできる」

その言葉を胸にして。

美しさ~武術で最も不要なもの

現在の武術界では、武術本来の目的「生存」を実現させるために最も不要とされていたものが、最も注目されている。「美しさ」を売りにする技の解説動画に、戦いの本質を知らない素人や初心者が、盲目的に高評価をつける。コメント欄を見ると、的外れな「絶賛コメント」であふれている。ここまでいくと、これは狂信じみたカルト宗教にも見える。

この異常事態は、その武術を学ぶ者を生命の危機に落としかねない重大な事態を招く、ということを、指導者らは理解しなければならない。しかし考慮されることはないだろう。なぜなら、そのような指導者は、戦いにおける「生存」を目的としていないからである。彼らはただ、門の宣伝と自身の収益と栄誉に、その心を奪われている。キレイな理念を語る。しかし行動が、発信する内容が、その全てを物語っている。

生徒というものは、素直なものである。師匠の言うことの正誤を判断する経験もないのだから、当然ではある。正誤がつきにくい環境の中で師匠が「美しさ」などの見栄えを重視して指導すると、弟子はそれが重要なものであると盲目的に理解してしまう。

繰り返し言う。武術は生存を果たすための技術である。見世物ではないのだ。エンターテインメント要素は、武術にはない。格闘技の中だけである。

生存を果たすために、敵を倒すことを、多くの人間は挙げる。しかしそれも違う。武術を、相手を殺傷する技術であると勘違いしている者が結構いる。そうではない。相手を殺傷するのは、生存を果たすための一つの手段に過ぎない。相手を殺傷してしまえば、その敵からの攻撃は実行されなくなるため、生存を果たすことができる、ということだ。武術=殺傷技術、ではないのである。

生存を果たすためにもう一つ考え得る技術。それは我が身体を逃がし続ける技術である。実はこちらの技術の方が、昔はメインであった。相手の身体を破壊することよりも、相手に破壊されない技術の方が圧倒的に優先とされたのである。

その傾向は、庶民用武術に顕著である。甲冑を身にまとって戦う戦場武術では、多少斬られても、甲冑が防いでくれる。甲冑の効果は絶大である。我々が普段着用している服であっても、ナイフのなどの刃物の斬撃によるダメージを、大幅に減少させるくらいだからだ。守り専門の装着具の上から、素人がナイフなどの小刃物で斬りつけても、何らダメージにはつながらない。

甲冑を身にまとうことが許されない庶民に向けた庶民用武術は、その技法が、敵の攻撃を避け続ける技法に集中している。敵の攻撃手を手に取って関節技や投げ技を・・・などという、かかりにくくて危険な技法はほとんど存在しない。庶民用武術の一つが、転掌の源泉になっていることは、弊館サイトでも触れている。

美しさを売りにする団体の動画を見ていると、積極的に敵のふところにとどまり、手を取り、時に関節技をかけて、危険領域内でその身をさらし続ける。もし相手が、片方の手でナイフを取り出し、斬りつけて来たらどうなるのか。本来は違う、と反論する団体もいる。実戦と違う技法を、堂々と実戦技法として上げているのか?何とも無責任なことだ!

昔日の生存目的武術の大基本は、間隔を空けることであった。とにかく、攻撃が物理的に当たらない間隔を、保ち続けること。

敵の攻撃射程圏内で、巧妙な手元の技を頼りにその身をとどまらせ、ゴネゴネする動画が圧倒的に多すぎて、皆の頭の中は心底洗脳されている。転掌における、緒戦で敵から離れる対処法は、その者たちから拒否反応を示されるという、笑うに笑えない事態が生じている。

昔日の生存術は、敵の攻撃をあしらい続ける技法とそれを実行し続ける持久力にかかっていた。持久力こそ、弱者でも定期的に磨くことで、強者に立ち向かうことができる唯一の身体能力だったからだ。その身体能力を活かすことができる土俵へ戦いを場を持ってい行く技術こそが、真の実戦技法なのである。

その視点から見ると、転掌の技法は、その全てが持久戦に持ち込むための技法であると言える。斜め後方スライド対敵身法も、滑らない・居着かない移動技術も、勢を維持して移動し続ける持久戦を展開するための技術なのである。

ここまで読んでいただければ、「美しさ」の要素が入り込む余地などないことがお判りになるだろう。「機能美」であるならば、まだ存在する余地があるかもしれぬ。しかしネット上で見受けられる「美しさ」は、単なる「見栄え」なのである。機能美などでは決してない。

もしあなたが、趣味で、本当に使うつもりもなく、武術を習うのであれば、それはそれでよい。しかし本当にその身を守るために武術を志したならば、「美しさ」などという無駄で無意味なものを前面に打ち出す指導者からは、習わないのがよい。これは断言する。そのような先生は、あなたの護身の成功を、真剣に願ってなどいない。

実際の戦いは、たとえ襲撃者が酔っ払いであっても、極限状態となる。私は15分間、恐怖の時間を味わった。警察がよっぱらいの事案だと舐めて駆け付けるのを遅めたため、私は、15分間、転掌の単換掌で酔っ払いを避け続けた。酔っ払いでも脅威である。相手の素性など分からないからだ。理性を失った相手からの攻撃は、通常人の攻撃とは一線を画す。それは、素人からの攻撃でも同じことだ。エキスパート襲撃者ではないから大丈夫、などと考えるな。そこらの素人によって命を奪われた保安職員が、過去にどれだけいたことだろうか。

その痛ましい事件は、我々に、武術において本当に必要なものを示し続ける。我が身を逃がし続ける技術と、それを支える持久力。ためらなわない心構え。庶民たる我々は、武術でその3つをとにかく養うことだ。

楊家先代師の言葉を、ここで引用したい。私がいつも、心に思い浮かべる門諺である。

「義人(イーレン)よ、人生が今ここで終わってしまうかもしれない重大な局面に、なぜ見栄えにこだえわるのか?」

護身を志す者は、この先代師の口癖を、真摯に受け止めるべきであろう。

本当の強さ~称賛されなくても野に立ち、続けること

私は、本当の強さって、向かってきた瞬間、問答無用で打ちのめすことだと思っていたの

でもそんなこと、状況1つで、達成できないこともあるの。多くの警棒護身術本は、警棒を巧妙に振り回して相手の攻撃をさばくものばかり。私はなぜ、我が師はそれを教えてくれないのか、なぜそのような技法を研究しないのか、と思っていた

でもそんなこと、何もできないくらいの状況を味わった、何もできないのよ

私はそれに気付いた時、本当に悔しくて辛かった。相手を倒す、それだけが、目に見える、私が見ることができる強さだと思っていた。もちろん、敵に向き合って、敵の力とぶつかって、それで倒す、というくっだらない次元の中の話じゃないのよ

私は、そんな、「最強」「必倒」とか言ってる脳筋連中ばかりの世界なんて、小学校の頃から反吐が出ていたから。そんなんじゃない。私は小さい頃から、すでに転掌の世界にはまっていた。でも私は、転掌の中核たる、後ろに下がりながらの中でも、いかに相手を破壊するかを考えて練習してきたの。父の教える方法は下がり過ぎだ、これでは当たらない、とずっと感じていた。敵を打ちのめしてやりたかった

だから「当てなくていい、当たらなければいい」を認めなかった。そこまで達したら、それはもう、武術じゃないって、ことあるごとに反抗して、反抗して。そして組手では、常に父を倒しにいった。気が狂ったように攻撃をしたこともあったわ、だって当たらないんだもの。この人が転掌の技法に徹したら、本当に当たらないのよ。私が当てることができたのは、この人が襲ってくる役をしてくれた時だけだったから

でもね、そんな私だったけど、実際の場で私の身を守ることがあった時、破壊行動など、何もできなかった。ただ、当たらなければいい、を何とか実現できただけだった。私は何もできないと判断した瞬間、走って、2キロ近くある店まで行き、そこで助けを呼んだ。いつも強いこと言っていたけど、何もできなかったことの恐怖で、震えが止まらず、父が駆け付けた時には、恐怖から安心に変わって、泣いた

しかし実は、悔しさの方が上だったのかも。父の胸を叩きながら、日頃この人が言っていたことの方が正しかったのだと分かり、敗北感で泣いたわ。私をかすめ取ろうなどと考えたバカサラリーマンなんて、この気持ちもわかるまい。私が追い求めてきたものが、崩れ去った悔しさを!あの犬野郎!

本当の強さって、やり続けること、信じて続けること。誰も味方がいなかったとしても、野に立ち、続けることなの。

正しいやり方、とか、どうでもいいから。続けることなの。これって、いうほど簡単じゃない。苦しい時、気分が乗らないとき、それでもやり続けることは執着であり、目的を達成できない、というクッソみたいな風潮があるけど、頼むから消えろ、副業犬サラリーマンがぁ!この手の動画って、消しても消しても湧いて出てくるのよ、まるで〇キ〇リのようね

この人は、母親が亡くなった時も、誰にも称賛すらされない夜も、とにかくやり続けた。私はそれをふと思い出した。ああ、この人、真に強い人、私はそれに気づいてから、ずっと超えたい壁であり、追い続ける存在だと分かったのよ

達人ってのは、この姿勢、この土台から生まれる。「最強の格闘技は?」なんてネットで質問している匿名バカは、本当にバカなのね、そいつらも消えろ!

私なりに、判断したこと。達人になる方法。とにかく続けること。どんな時でもやり続けること。凄みが出てくる、あれは同じ土俵、つまりやり続けている者にしか分からないわ。クッソ馬鹿どもは、達人から出ている、そんな凄みのオーラすら、感じることができないのだから

今伝えているもの。董氏転掌と楊家転掌式八卦掌(水野義人伝)

先生の流派はどこの流派ですか。

そのように質問されたら、私は今、題名の通り答えを返す。

私は楊家先代師(先代師の意向により名称非公開。代継門人以上には話す。)より、楊家拳をマンツーマンで習った。4年足らずの短い期間ではあったが、私は高校生にてすでに掌継人(以後の人生を通して大成させよ、の条件付き)となり、以後研究を重ねてきた。

私の目標は、先代師より受け継いだ技法を自分のオリジナルとなるくらいまで高め,自分独自の流派を創ることだった。

日本にも、自分で名前を付け、自分で技術体系を組んで、新しい門派を創った人が幾人かいる。とても尊敬できる。凡人は、創られたその門派が、その後栄えたか否かで、その門派の価値を判断する。多くの門人が集まったらすごい、などだ。実にくだらない判断基準であると断言する。多くの門人が集まる、とは、凡人にとってその技術体系が親しみやすかっただけのこと。内容が革新的であればあるほど、凡人には理解されず、人も集まらない。

過去の例を見ても、多くの芸術が、凡人の価値判断力のひくさゆえに、埋もれてきたではないか。宮女開祖の創った、転掌式八卦掌は、弱者使用前提の技術体系が稀有であることを見抜いた宮女開祖が、その技術体系を守り残していくために、あえて世の流れに反したものを残した。

それが仇となり、宮女開祖が伝えるものに人は集まらず、転掌式八卦掌は、半ば強制的に、楊家の家伝武術のような状態となった。宮女開祖は失意のままにこの世を去り、それを見ていた後代師らは、伝えられた技術を家伝武術として伝え続け、縁あって、日本の私に伝わったのである。

私は自分の門派を創る野望を持って日々練習をしてきたため、独自の門派を形成することの難しさを思い知っている。そして私は、未だ自分の独自の門派を形成できない。なぜなら、私が習った転掌、そして転掌式八卦掌の技術体系を上回るものを、まったく創り出すことができないからである。

私の先代師は、極めて保守的な指導形態であった。私は最初、斜めに移動する形意拳の劈拳を、八卦掌の技だとして指導された。其の教室に来ていた中年の男性諸氏らも、同じようなものを習っていた。その男性らは、家であまり復習をしないようらしく、いつも同じようなものを習っていた(それは後で先代師から聞いた。練習してこないことが分かるから、新しいものを教えなかったのだ)。

自分たちの伝えてきたものの栄華を捨ててまでも、守り通してきたものに誇りを持っていたのだ。私の練習態度と志望動機が先代師に気に入られ、指導する時間を他の日本人生徒らとずらしてから、本格的に転掌を教えてもらうこととなった。私はすでの、多くの道場を見て中国拳法や空手などの技術体系を見続けてきたが、ここで示されたものはまさに衝撃的だった。なぜなら、私が追い求めてきた状態に達することができるものだと、直感的に悟ったからだ。私が追い求めてきた状態とは、あのいじめの戦いに戻ったら、いじめ側を圧倒して、同級生を守りきることができる状態、である。

その後はただ黙々と、転掌と転掌式八卦掌の技術を磨いてきた。とにかく一通り理解することが先決であった。先代師に指導を受ける際は前日土曜日に新しいことを学び、その夜ほとんど寝ることもなく習った技術を繰り返し、次の日の朝にチェックしてもらう。チェックしてもらったら、それを再び練り、日本人への指導が終って帰ってきた先代師に、再びチェックしてもらう、であった。そして次の関東訪問まで、今まで先代師から習った技を、ひたすら繰り返す日々だった。そしてその生活は、今でもほとんど変わらない。

長いこと一人で練習してきて、その都度現れる多くの課題を乗り越えても、また乗り越えても、また新たな可能性を生まれる。転掌では、双換掌こそが基本型であるのだが、双換掌は洗練させればさせるほど、目指したい光の先が見えてくる。董先師はここまで考えておられたのか!宮女開祖先師は、このようなことまで整理なさっていたのか!と、嬉しさ半分の、良い意味で愕然とした気持ちが湧く。その驚きが、また私を練習に駆り立てる。飽きるなんて、あるはずがないのだ。

教室を持って指導をしていると、一回単換掌を習って、それきり来ない連中が多い。単換掌も舐められたものである。日本人の多くが知っている董海川先師の伝えた技法は、決して浅い物ではない。私はいまだに、その深度を測り得ないのだから。

私は、楊家拳の伝承者として、これ以後、護衛官武術としての技術を前面に打ち出して、指導を進めていく。一般人向けに、護身術として指導してきたが、多くの曲折を経て、護身術は「自分護衛術」として指導することができると悟った。

董氏転掌と、その全伝を受け着いた宮女開祖の創始した楊家転掌式八卦掌。そこに伝わる、段階的な護衛技術を指導する。それは

一段階目:「一定時間生存術」による自分護衛術
二段階目:電撃奇襲の理「勢掌理」を加えて対多人数相手に要人おとり護衛を実現する要人おとり護衛術
三段階目:洗練された間合いの感覚と斜め後方スライド転身技術によって、要人を側近護衛、随行護衛する、並走スライド変則撤退戦護衛術

の3つである。

守破離すらも、人が決めた道である。絶対真理ではない。

守破離。その段階が、さも必ずどの道・芸事にも通じるかのような常識となっている。そのような動画を見かけた。いい加減にしろ、と言いたい。他人の知識の借り事ばかりで金儲けをする輩どもは、ついに芸事にまで土足で入り込んできて、経験してもいない真理を語るのか。これは、一芸にささげ、一芸を極めてようとする者に対する侮辱に近い。例えば私が、歌舞伎や能、狂言の世界の本を読み、そこで得た知識をもとに、審理を語るようなものである。皆、ドラマや映画・漫画で見たような概念しかないから、このような漫画やドラマのような動画が、真実として評価される。これにはいい加減、危機感しか感じない。

守破離なんぞ、概念すらも、ある特定の時の、一人の人間が考え出したことに過ぎない。確かに私も、その道を自然と歩んでいたことがある。

だが、自分自身で考える修行を貫きとおして来たら、そのような段階など、どうでもよくなっていた。そして練習すればするほど、創始者・董海川先師が考え出した型を越えられない、破ることすらできないと、思ったのだ。

私は、拳法の道を極める者として、転掌を越える独自の道・独自の拳法を創り出すことを夢みてきた。しかし進めば進むほど、初期に教えられた型を越えるようなものを、生み出すことができないと感じたのだ。

破ることができないのである。それゆえ、離れることなどとんでもないのだ。

いっておくが、私は、門派の伝統に固執などしない。私はブルース・リーと考え方がよく似ている。だから彼のことが好き、というか共感できるのである。そんな私は、当然のごとく、転掌を越えるべく、夢中になって練習し続けた。それは、先代師の願いでもあったからだ。しかし私は、董先師の創り出したもののとてつもない深さを、知ってしまった。それは生存に徹した技術体系として、徹底的に技術をシンプル化させたことから生まれた、深さである。

シンプルな技術体系など、この世にはたくさんあるのだ。よってどの分野にも、どの技術にも、守破離が通用するとは限らない。すべての芸事に、守破離が通用する、と考える人間が多すぎるのだ。皆、何となく、そう思っている。一つの武術を、半世紀近く練習しても、破ることすらできない自分の、痛感した感想である。参考にしてもらっていい。

守破離自体が、金言化しているのである。守破離するものもある。しかしそうならないものもある。ネットの普及で、思想や法則を紹介する動画がアップされるたびに、悟ってもいない人間の挙げた動画に同調し、流される人間が多すぎて嫌になる。このような人間こそ、守破離がしにくいのだ。出自も分からない人間の意見に、流されるからだ。

中国拳法を受け継ぎ、それを仕事にしている者として、漫画のような内容が真実とされるのは、大変迷惑である。漫画が真実になるなら、ありえないような修行が真実となり、ありえないような技術がスタンダードとなり、現実世界で実際の技術で、護身護衛を実現する者の価値が軽んじられ、伝承が絶える。

なぜ皆、出自の不明な、これらの、法則・世の事象を説明する、動画を、真に受けるのか。流されるな!

どれだけ練習しようと、技を出す際天高く跳んだり、技を出す際稲妻が走る、などは再現できないのである。

弊館の筆頭弟子の話をしよう。彼女は、水滸伝に出てくる英雄の一人、扈三娘一丈青(こさんじょう・いちじょうせい)を尊敬している。しかし華美な技術に走ることなどせず、未だに単換刀・連身藤牌では双手換牌という基本技を練習し続けているのだ。

彼女は言う。

「ずっと練習し続けてそうだな、これからも」と。

ただ惰性で続けているのではない。ずっとずっと練習してきているが、技術レベルが上がるたびに、自分の中で何かしらの気づきがあるから、取り組んでいるのだ。その技術にならないと、見えないことがある。その「見えなかったもの」が見えるようになって、そこに到達したいと思うから、ずっと練習し続けているのである。

その練習、時に苦しい時もある。ここでやめたら気分が悪い、と言いながら、とにかく続ける。

そのような継続ってのは、現在YOUTUBE上にあふれる願望実現系・引き寄せの法則系・世の真理系動画では、真っ向から否定されている。努力となってしまうような行動は、実現を妨げる、だからあなたの夢はかなわない、と。

そのような動画ってのは、「あなたは完全な存在、だから思った瞬間からかなっている」などと言いながら、義務感で何か行ったり、マイナスの感情で行ったりすると、「だから叶わない」と断言する。完全な存在なのに、感情一つで、何も叶わないのだな、と疑問に思う。ひどく不完全な存在ではないか。

この者たちの言うことに、何の一貫性などない。当然だ、こいつらは何も極めてない状態で、人の動画を焼き増しし、少し変えて耳当たりのいいことばかりを並べて再生回数を稼ぎ金儲けをしているだけだから。言ってることは皆同じ、画像は皆AIで作った同じような画像、ナレーションは、同じ声。同じ言い回し。生気のないAIで生成されたイラストを見ると、心底うんざりする。私は、下手でも、自分の声で話し、人間の手で描かれたイラストをのせたいのだ。上記のイラストだって、ほとんど私が描いたものである。AIで作られたものよりも、目を引くと自負している。

このようなくだらない動画の言うことなど、信じるのは速効で止めるべきだ。この者たちのよく採り上げる成功者たちだって、皆どん底の中で苦しい、マイナスの感情と戦いながら、進んできたのだ。もしこの者たちの言う、マイナスの感情がよくないのなら、この者たちの採りあげる成功者たちは、もっとも願望が実現できない人間たちとなるだろう。

守破離など、茶道の世界の一人の達人が到達した一つの考えに過ぎない。それは絶対的な真理でも何でもない。この陳腐な動画のコメント欄に、拳法の指導をしている人間のコメントがあった。まさにその通りだ、と。私はこの動画のタイトルを見て、すぐに思った。一人の能のマスターの言ったことを、勝手にすべての芸事に当てはめるな、と。

youtubeの動画なんぞ、れっきとした3次資料なのだ。一人のマスターが著した書物(1次資料)を、誰かが分かりやすく解説して(2次資料)、その解説書を読んで動画にしたもの(3次資料)だ。真髄が3次資料に含まれている確率は、極めて低い。

私の著した書籍は、れっきとした1次資料である。私が39年間この身体で再現し、追究し、腹落ちした者だけを、自分の言葉で厳選して著したものだ。確かに、拳法の術理は先代師より伝承されたものだ。しかしその術理の真の理解は、すべて私の身体だけで行ってきた。私が後進に指導しているものは、すべて私が実戦で経験し、実績を残したものだけだ。

そのうえで、守破離なんぞ、一つの考えに過ぎないと思っているのである。千利休?知っているけど、見たことも話したこともないね。

どん底?勝手に決めるな。私は今最強だ。

人生で最も強い力を得た時が来た、それは何も失う状況にないから。

私は今まで、色んな不要なものを持ち過ぎていた。でも今はもう、不要な物は何もない。

この状況に至るまでは、なんとか失わないようにと、這いずり回ってきた。不要な物と気づかず、必死で守ろうとしてきた。しかし何か大きな力に引き寄せられるがごとく、私の周りから人・物が消えていった。消えていったものの多くは、不要なものであった、そうでないものもあった。そして不要でない、かけがえのないものが消えていくとき、不要なものが消えていくことを教えてくれた。身を切られるような悲しさとひきかえに、私は、かけがえのない者が消えていくとき、そのことを知ったのだ

私はむかし、この道を歩むきっかけになった出来事が、受け入れられなかった。このことのために犠牲があったと感じることが、許せなかった。しかし、きっと、私がこの世から退場するとき、私の退場をきっかけとして、何かが始まるのだ。そのことを悟った。人の悲しみなど超越した、このあまりにも大きな何かに、憤りを越えた畏れを抱くようになった。それが私に、この生でこの道を歩ませているのだ

今私の周りにあるのは、車と、パソコンと、転掌の絶技、そして私を信じてくれるもう一人のマスター

なんとまあ、この状況にあって、本当に必要なものが分かったことよ。ありがとう、パソコン。ありがとう、車。ありがとう転掌絶技、ありがとう、私と共に育った、ファースト・マスターよ。

君たちがいてくれるおかげで、いまこのしゅんかん、手を止めて車の外に行くと、満点の星と中秋の名月、そして波の音を聞くことができる

八方ふさがりならば、上に行け、と、願望実現系のくだらない動画どもは言う。具体的じゃないし、上、と決めつけている点で、こいつらはやはり悟っていない。上とは限らない、下の可能性もある、それは、八方ふさがりとなって、多くを手放さざるを得なかったものにしかわからない。下はよくない場所と決めつけている。

世間一般に言う、下に落ちたら、そこにはむせかえるような酸素の中の仕事場、そして名月、満点の星空、何より、真の大きな自由と、私の命より大切な5つの宝物があった。

考え直した方がいいのでは?考え直すわけないだろう!

これこそ選ばれし者の道だ、私は150年前の続きをしているのだ、時代の利点を活かし、こんどは中国大陸を飛び越えて、転掌を世界に広げるのだ、そして世界の必要としている者たちに、この絶技を伝えるのだ

厳しい時もある、落ち込む時なんていつものことだ、しかし時代を切り拓き、変革をもたらす者の道は、いつもこのようなものだ。私が世界武術・転掌となることの絶対的確信は、この変革をもたらす茨街道であることから、生まれる