今この瞬間に達人になる方法

それは、今まで周りから聞いた色んな常識・他人の価値観・メディアによって紹介されたもの、SNSなどの情報(雑音)よりも、あなたの直感が心地よいと感じるものを重視し、それを今この瞬間から、自分が納得できるくらいまで、追い求め始める、ということである。

「何言っての?達人ってのは、だれからも尊敬されるような境地になっているような人のこと」

「そんなこと言ってるが、お前、実績あんの?」

「お前なんて、いっつも俺に負けてたじゃないか」

「どの先生に習ったの?どこの流派なの?正当な伝承者なの?」

ここに挙げたのは、情報という名称を用いる必要もない、単なる雑音である。もしあなたが、これらの意見によって「達人」であると宣言するのをためらっているなら、この記事を読んでもらいたい。

冒頭を読んでお分かりの通り、いますぐあなたが達人になるには、あなたの直感がいい、と思ったものを、今すぐ深掘りし始めることである。

それだけ?それだけでいきなり達人なの?そうお思いだろう。気持ちは分かる。私も、この考えに至るまで、ゆうに四半世紀はかかったのだから。

直感に従うのが難しいのなら、既存の達人の概念を捨て去ることから始めないといけない。おおかた、あなたが心に持っている達人のイメージとは

・最強である
・有名門派で正式に伝承者になった肩書がある
・誰からも尊敬されるような人格がある
・誰にも文句を言わせないような、武勇伝がある

であろう。

これらは、この記事で述べる達人の条件に入っていない。必要ないものばかりである。

これらがどうしても必要な場合とは、「達人」という名を利用して、ビジネスをするときだけである。

よく見て欲しい。これらの要素は皆、他人の評価や他人との比較によって成り立つものばかりである。

達人は最強である必要はない。最強でなければならないなら、一人しかいないはずである。そんなことはない。有名門派でならった経歴。戦うのは自分である。有名門派が戦ってくれるのではない。だれからも尊敬されるような人格。誰からも尊敬されることがないことは、あなたの日常生活でも実感できるはずだ。必ず誰かに嫌われたり、批判されるものだ。武勇伝・・・そんないい加減な不確かなものが達人であることを証明するなら、それこそ誰でもなれるのである。

達人とは、自分に対する絶対的な自信である。その自信とは、自分自身で見出したものにどれだけ、心血を注ぐかである。そして注いだ期間は問題ではない。どれだけ、自分のオリジナルを信じているか、なのである。

今すぐなるための手順をお教えしよう。

まず、自分の直感に全幅の信頼を置くこと。違和感を感じる他人の意見や価値観に、従わないようにすることである。そこからスタートする。

そのうえで、自分がいいと思ったやり方、工夫を、その瞬間から練習しまくることである。きっとあなたの心に浮かんだ直感とは、あいまいで抽象的なことばかりだ。だから動いて、試すのである。

やってみてやっぱりいい感じだ、と思ったら、本格的に行動し始めること。実はここまでくるとすでに、あなたはあなたの直感部分に関しては、誰よりも時間を注いでいるのである。

私が常々、自分のオリジナルを大事にしろ、と言っているのはそのためである。私は弟子に、マスターではなく、グランドマスター(一代宗師)になって欲しいのである。

私の中で、達人=マスター、ではない。達人=グランドマスター、なのである。

自分のオリジナルを狂信的に信じ、突き進むことは、まさに宗家の特質を持っている。宗家は、「これって間違ってませんか?」と人にお伺いを立てて流派を立ち上げたりしない。宗家はいつも、事前に誰かに尋ねることもせず、いきなり「宣言」するのである。人がそれを必要としているかどうかなど調査せず。「宣言」は、自分の直感が生み出したものに対する絶対的な信頼から発せられるのだ。

これは最高のものだ、価値にあふれているものだ、これはチャンスだ、凡人が群がってくる前に早く習いに来い、と言う。

自らを天才と確信し、実際天才なのだから、そのように決断をし、進む。達人が先生であるならば、それを指導するために様々な手段を次から次へと展開していく。怖さなど無い。一番重要で難しい部分である「スキル」が備わっているからである。

拳法教師に習いたいもの、それは拳法のスキルである。拳法を利用したビジネスの方法ではない。有名先生のところで習った肩書や満足感が欲しい連中は、少し思惑が違うが。皆その先生の技術を習いたいのである。独特のその技術を習いたいのである。

どの技術は、先生のオリジナルであればあるほど、熱心な後進を招く。その他大勢の一般人には敬遠されるかもしれない。しかしそれこそが、天才の証である。グランドマスターの証である。独自の境地を進んでいる証なのである。

凡人は、雑誌やメディアで紹介されている先生を見て、内実も知らずに「いい」と判断する。有名メディアが発する動画を見て、華麗にさばく動きを見て、いいと判断する。しかし本質を見る者は、自分の直感を信じるのである。

私のところの門弟は皆、そのような者たちばかりであった。私の古参門弟らは、私が有名流派の指導許可を得た時、明確にそれを習うことを拒否した。彼女らには本質が見えていた。そして自分の直感を信じる達人的要素がしっかりと備わっていたのだ。

古参らは、いまだに「転掌」しか練習しない。私が近代八卦掌を、転掌の術理で再編成した後、初めて習うようになった。八卦掌より、連身藤牌を学びたがった、生粋の変人たちである。

本質を見抜くための最初の一歩を踏み出そう。

もしあなたが独学であるならば、近くの先生の道場に弟子入りをし、武術を習ってみることである。きっと知らないことがあるはずである。私は、近くの公民館の太極拳教室で指導する内容に、大きなヒントを得たことが何度もある。なぜなら私は、太極拳は知らないからである。知らない領域から習う者は多い。独学のあなたであれば、知っているのはその雑誌・書籍に書いてある内容だけであろう。おおよそ基礎のみである。海外の書籍であれば、そこで教えているのと違うことが書いてある場合もある。

あなたの近所で教えている先生は、あなたよりも知っている。先人である。よって教えを請い、そこで習ったものをベースに、自分の独自の世界を築くのである。それは大変楽しい作業である。宣言するとき、先生の名前も拝借してもいい。たとえばあなたの名前が水野で、鈴木先生であったならば

「水野二十四式太極拳 鈴木先生伝」

このように堂々と宣言することである。※鈴木先生の許可は必要だろうが

これであなたは、立派な達人として、そのように振る舞っていくのである。達人として練習し、達人として発信し、達人として日々を送る。気づいたとき、周りにはあなたに影響を受けた門弟が集まっており、内外共に実感するであろう。「ああ、自分って、達人になってたんだ」と。

さあ、いますぐ行動をしよう。自分の得意なパターンはなんだろうか。それを試してみるといい。

フィクションの中であるが、織田信長の重り役平手政秀が青年信長の奇行に心を痛め自害した際、彼の死を悲しみながら、

「見たり聞いたり試したり思う存分に生きてやるわ」

と口にするシーンがあった(4:10秒あたりから)。あのシーンは、いまだに心に残っている。

試すことである。きっと一度きりである。人は批判もするだろうが、言った瞬間から自分のことなど忘れている。

今すぐ、自分の道を歩き出し、さっさと達人になってしまおうではないか。

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紛争地・辺境地にも転掌が広がっていく通信講座戦略

私の中には、明確なイメージがある。そしてそれは、常に思い描かれているものであるため、どんどんリアルになっていく。

舗装されてない、山の斜面の少しの平地っぽいところ・・・ここはアフリカだろうか。そこで、黒人の先生が、そこにいる少年たちに、転掌の転掌式を教えている。そこの村は、紛争の緩衝地帯だから、命を守るための技術を学ぶ時間は、当然のこと。

少年たちが、少女たちが、はだしで広っぱをかけめぐる。笑いながら、叫びながら、時に、そこらに転がっている折れた木の枝をもって、刀代わりにして。ああ、あの技は単換刀だ。少し打ち方が小さいな、もっとするんだ、って、先生が教えている。その先生も、あまりうまくなくて、自分が乗り出して、教えたくなる。「刀を敵との間に入れろ、そして引き斬りをするんだ!」って。

こんな紛争地の片隅にも、転掌が広がっているのか。ここまで広がったか。もっともっと、広めないといけない。

彼らは言う。「ハケショー」っていったり、あちらの国の辺境では「テンショー」って言ったり。なぜなら、私に習った元弟子の先生が、自分の好きな名前で教えているからだ。よく見ると、世界各地にいる先生の技も、細部が違う。

私はその映像をみて、泣けるくらい嬉しくなる。ここまで理解してくれたか、しっかりとマインドは伝わり、自分の好きなようにおしえてくれてるんだなって。

私は、その世界に住んでいる。転掌が世界に広まった世界に、もう生きている。もうすでに、見ている人は、日本人だけではない。リアルに世界に広まり続けている。

こんな責任ある立場になってしまった。ここで引くことなど、もうできない。私の周りの環境の変化によって、この広がりを送らせてはならない。そのために軍師殿と相談して、どこでもどんな状況になっても広げ続けることができる、「通信講座」に 力を入れてきた。しかしその時、「道のりはきっと平たんじゃないよ」と覚悟し合った。

最初は笑われた。何言ってんの?武道は、対人だよ、どうやって人と練習するの?って、笑われた。その言葉に気持ちが弱くなり、心の底からうまくいくことを信じることができなくなった。失敗、失敗、失敗。

現在の通信講座は、当然の自信作である。2月より開講した女性護身術専門の通信講座だ。

最近は、通信講座立ち上げ初期に見られた批判はなくなった。それは批判者が私を認めたからではなく、何度も何度もバージョンを上げ、トライし続けたからである。

何度もトライした私は、武術の通信講座では、先人なのである。私は真剣に考えている、通信講座による普及を。高度な深奥に近い技法は届けられない。しかし初期段階ならばできる。そこに焦点をあて、対象者も絞って、この2月に臨んだ。

なぜここまでやるのか。冒頭のイメージが、頭から離れないからである。少年たちが、衛生面も良くなさそうな環境の中で、身一つで単換掌を練習している少年たちの姿がイメージされるから。つたない技術であっても、転掌の先生として教える青年の笑顔から見える白い歯が、あまりにリアルにあるからである。

通信講座であれば、きっとその知名度は日本全国にとどろく。なぜなら、最大のネック、金沢への訪問が無いからである。

「金沢」というだけで、多くの人間が対象から外す。しかしそれがないから、全国の潜在的転掌ファンが、私の文を読むのだ。皆が迷うようになる。水式館が広告を打っているのは、「知名度」という資産を買っているためである。その資産はどんどん積み重なっている。止まらない。

金沢周辺だけで、こそこそやらない。対面に一切こだわらない。土台を広げ(日本全国対象)、シンプルにして習得の敷居を低くし、そこで再度、広告を打つのだ。教室の生徒募集の広告じゃない。全国に向けて、本と通信講座の宣伝を通して、水式館の気迫を見せるためだ。

伝えるものには、揺るぎない自信がある。先ほどの辺境地での指導では、きっと多くの人間が、その命を守る切り札とするだろう。先進国の路地裏で、多くの女性が、その身を、息を切らしながら守ることだろう。

すべては、ある弱者の少女の涙から始まった。その涙の一滴は、一見平和そうに見えて実は弱者の泣き寝入りで穏やかに見えていた水面に、いつまでも消えない波紋を起こし続けている。

それは今も、この瞬間もだ。その波紋は、その穏やかな水面から、水辺を通り越して津波のように、世界に届き続けている。私はその流れを、決して止めるつもりはない。私の肉体が滅んだ後も、その波紋を起こし続けるための作業の具体的なものが、この通信講座戦略である。

軍師曰く

「それこそレガシーで。それこそ、世界が救われ、先生が救われ、少女がそこにいたことを証するもの」

遺していく。通信講座は、そのための手段に過ぎない。その一手段をきっかけに、各地で伝承者が発生し、その点が海を渡って各国に伝わり・・・・あの山の斜面で、少年たちが、はだしで転掌を練習しているのである。

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「誰でもできる」「本当に使える」護身術を教えよう

あなたは「護身術」と聞いた時、どのようなイメージを頭に浮かべますか?

・つかまれた手を巧みに払いのけて逃げるもの
・強烈な男性襲撃者の攻撃を、両手で防いで我が身を守るもの
・捕まえてきた、もしくは手をつかんできた男性に、関節技のような巧妙な技で外して、もしくは、身体各部位を使った奇襲攻撃で先制攻撃してひるませ、逃げるもの

このようなものを頭に思い描くでしょう。そしてこれらの技法と共に必ずと言っていいほど書いてあるのが、「力のいらない」「力のぶつからない」「誰でもできる」というフレーズです。

そしていつもこのように結ばれます。「本当に使える護身術」と。あなたは、これらの技術を、襲撃者相手に成功させることができますか。

「力がいらない」「誰でもできる」「力がぶつからない」なら、今この記事を読んでるあなたでも、その後ろにいる運動不足の御家族にも、練習次第でできるはずです。

しかし私は、これらの護身術を見ても成功させる自信がありません。わたしよりも体格のいい男性襲撃者が、理性を失った状態で私の手をつかんできたら、振り払うことはできません。私は何度も、練習をしました。練習すればできるかもしれないと思って。でもできませんでした。成功するときもあります。しかし成功の数よりも多くの失敗をします。これでは、いざという時の備えになりません。

私のように、何十年も一日何時間も、上を目指して練習してきた者でも、成功するかしないかはその時次第なのです。言い方を変えれば、その時襲ってくる「相手次第」なのです。もう一度聞きます。あなたは襲撃者相手に成功させることができますか。

できない、難しそうだ、と思ったあなたへ。ご安心ください。

「つかまれない」技術を磨くことで、「力のいらない」「誰でもできる」護身術にすることができます。私がずっと習ってきた拳法にして、八卦掌原型の「転掌」という王宮護衛官武術です。

先に言っておきます。私はこの拳法に偶然に出会ったのではありません。ここで示す護身術は、たまたまやっていた拳法を、弱者護身術にカスタマイズしたものではありません。弱者護身の道が無いか?と心の中で求め続けたからこそ、転掌のなかに弱者護身の術理を見い出し、かつそれをし続けることで、失伝寸前の転掌の技術体系を復活させることができたのです。

転掌は、王族をも守った護衛武術です。その担い手は、武術素人で身体的不利者の、宦官(去勢され蔑視対象の身分であった男性官吏)・宮女(下級漢族八旗の娘)でした。

転掌には、護衛技術に二つの段階があります。

一つは、スライド移動距離を長く取り、移動の長さで敵を離し離して、「つかまれない」で一定時間生存し、時に電撃奇襲を仕掛け気を引きつけ、囮(おとり)となって、おとり護衛する段階。この段階は、転掌経験の浅い者が行う段階です。

もう一つは、主に一人の敵にたいし、自分の攻撃は当たるが、敵の攻撃は届かない入身法によって保たれた距離を武器に並走スライドし、変則的な撤退戦で東から西から攻撃し、倒し護衛する段階。この段階は、転掌の達人レベルの段階です。

「力のいらない」「誰でもできる」護身術は、移動遊撃戦によって一定時間生存し続ける「つかまれない」技術を磨く「一定時間生存術」によって実現可能となるのです。

日本の護身術教室は、「危険を避ける」「危険に近づけさせない」啓蒙を行いながら、その技術はまったく違うものです。

そこで行われる多くの技法が、すでに敵に手をつかまれていたり、身体をはがいじめにされている状態から始まるものばかりです。つかまれないための技法を教える教室はぼほありません。あってもついでに教える程度。それがメインではありません。

転掌では、逃げ方(※本当は移動戦の仕方)、敵の足を止めるけん制攻撃の打ち方、けん制攻撃を打ったあとの移動方法、目の前に立ちふさがった敵への電撃攻撃方法までが、シンプルで明快な説明で展開されます。

とにかく「つかまらない」ことにこだわって、つかまる直前まで、なんとか回避するための技術が、堂々と正規に、伝わっているのです。

ここで一般の護身術の流れを見てみましょう。

1.つかまれた時に、つかんで拘束してきた相手に、身体の各部位で、先制攻撃する

2.一発目を打たれてひるんだ敵に、連続攻撃として、再度攻撃

3.完全にひるんだ敵に目もくれず、ひたすら人にいるとこまで離脱回避する。

その技法の担い手が「弱者」であった転掌は、「つかまられる」「捕まる」状態を最悪な状態と位置づけました。弱者にとってつかまれることによって生じる「相手次第」の状況は、「死」を意味すると考えたからです。

とにかく「生存」することを目指すために、攻撃を当てることを犠牲にしても敵につかまれない技術を開発・確立し、「自分次第」の護身術にしたのです。

ここで最もシンプルな転掌の技法をお教えしましょう。

敵が接近してきたらすぐ敵の反対側へ移動し、両者の間に物理的な間隔を作ります(これは、相手にとって感覚的なものではなく、実際に課間隔を作りだす、ということ。相手の主観による間隔は、相手次第であるため)。

頭をまっすぐにして敵に背をほぼ向けて移動します。接近してきたら、手を出して敵の攻撃軌道上に手を出し(当てる必要はない)敵の攻撃をさえぎり、すかさず身体を入れ、肩が入った瞬間に手を出し、その入り身で身体向きが変わった方向へ移動方向を変えます。この一連の動きで敵との距離は、一段と離れるので、それを繰り返し、敵の足が止まったら、ここで初めて離脱するのです(㎞単位で)。

この一連の流れこそ、転掌の単換掌であり、八卦掌でもっとも有名な型「単換掌」に相当する型です。

追撃してくる強者たる敵が、急接近し実際に攻撃してきた・・・転掌における戦いの中で最も危機的な状況をやり過ごすための、最もシンプルで最も省エネ的な方法だからこそ、「単換掌」は「転掌」「八卦掌」の基本技となり、一番早く理解すべき型となっているのです。

ここで近代格闘術的護身術を知る人などは、思うでしょう。

「でも、敵がつかんできたらどうする?」

そこでどうしても「つかまれた」状態からスタートするのは、あなたの頭の中が、その状態から離れられてない証です。つかまれた後のことが心配なら、つかまれた後の対処法を習いに行けばよいのです

しかしつかまれた後の対処法をマスターするよりも、つかまれない方法をマスターするほうのが、圧倒的に時間は短縮でき、かつ成功率も高いのです。転掌のつかまれない技術は、本当につかまれる直前、まで、回避可能な技法となっています。頭の中で、どんなことがあってもつかまれない、決意をして、その技法に精通すれば、おおよそつかまれることはなくなります。

つかまれないための具体的な方法をお教えしましょう。

つかまれないために。まず常に視野を広く保ち、自分の直感を信じることです。視界の端から自分に接近してくる不穏な人間がいたら、即座に、その接近人物と反対側へ移動します。移動方向へ追随してきたら、それは危険の明確なサインであるため、すぐさま離脱行動に入ります。「Go!」です。かなり広い間隔から行動することで、敵の思惑である「スッと」近づく意図をくじきます。これは先制攻撃ではありませんね。だれも傷つけることもない、100%合法的で、あとくされの無い先制行動なのです。

それでも「つかまれた」後の技法を知りたいあなた。ご安心ください。

日本には、たくさんの優秀なレベルの高い護身術教室があり、それらはすべて「つかまれた」後の対処法専門教室です。多くの選択肢の中から、あなたの納得できる教室を選んでください。あなたに合った教室で、「つかまれた」後の行動をしっかいと磨いて、その不安を解消しててしまえばいいのです。

「つかまれたらどうするんだ」と言う暇を利用して、そのスマホで優秀な「つかまれた」時の対処法を教えてくれる道場を探し、想いを遂げてください。

ここで近代格闘術式護身術道場を選ぶ際の、アドバイスをふたつ。

まずひとつめです。筋トレをプログラムに入れているところは、時間のない人はやめておきましょう。時間がない人、とは、すぐさま護身術が必要な人のことです。筋トレで筋骨を鍛え敵への対抗力を増すアプローチは、強者になるためのプログラムです。弱者が強者に変わるためには、非常に多くの時間を要します。今すぐ必要な方は、有事に成果を間に合わせることができません。

ふたつめ。先生が、常に相手をしてくれる道場を選びましょう。先生の模範は、技術上達において欠かすことができません。一番良いのは、自分自身が敵となって襲い掛かり、先生がそれに対応する際の動きを見続けること。それはあなたの頭の中に鮮明なイメージとなって残り、そのイメージをしながら練習することで、あなたの動きはそれに近づくのです。これは、横から先生の動きを見るのとは決定的に違います。入る角度、両者の距離感、入身法使用時の急速転身さなどを体感することで、あなたの頭が次からあなたの動きに模範の動きをさせるようにしてくれます。近代格闘術的護身術では、これに加え、自ら人の力任せの攻撃の中で技をかける練習をすることです。独りよがりを避けるためにこれは欠かせません。同時に、先生が力任せの攻撃に、どのように対処しているかを何度も見せてもらいましょう。見せたがらない先生の道場は、即止めておきましょう。できない可能性があるからです。

自信がない。行動が大変そう。そんなあなたへ。

ご安心ください。

転掌は、その技法が敵との一定の距離を保って、離れて行う技術体系であるため、要点を押させた一人練習による技術練習である程度のレベルを確保することが可能となります。独習に最適なのはこの点です。

一人練習の良い点は、人の協力を必要としないことです。自分さえやる気があれば、いつでもどこでも、気の済むまで、繰り返すことができます。おおよそ、護身術を練習する人は、一人である場合が多いものです。人を使って練習することできないから役に立たない、と決めつけるのではなく、その欠点を、膨大なくり返しで跳ね返してやればいいのです。私はずっとそのようにして、転掌を再興させる境地にまで達したのです。

下の動画で、私の単換掌の動きを、敵目線から何度も見てください。師の実際の動きを、自分が技をかけられて体験することが、最も早く上手くなる方法なのです。手を出す瞬間、実際に敵が接近する際に合わせた動き、頭の向き、姿勢。すべてがあなたにとって参考となる材料です。

やる気のあるあなたであれば、一人練習でも、本当に使える護身術をマスターできます。マスターした後の世界を考えたことがありますか。理不尽な要求に屈する必要のない世界です。大切な自分とあの人を守ることができる世界です。やる気のあるあなたには、是非この世界を味わってもらいたいと思います。

転掌はシンプルです。しかし「シンプル=簡単」ではありません。転掌の自分護衛術をマスターする際は、膨大なくり返しを要します。そうではあっても、「自分次第」の技術体系は、修行期間を大幅に短縮させることに役立っています。

昔の武術は、まともな学校教育を受けたことのない「学識レベル」の低い者が、「すぐに使える」技術体系を備えてないと、相手にされなかったのです。転掌も例外ではありません。特に転掌は、想定使用者が、武術素人の身体柔弱者に限定されていました。より一層、短期で無理のない、一切の華やかさもない、実用直結の技術体系を求められました。

理屈が複雑だったら理解できません。技法習得が難しかったら、誰も使うことができるようになりません。習得に時間がかかったら、いつ来るか分からない「いざという時」に間に合いません。

転掌のシンプル・即効性のある技術体系を信じ、そのシンプルさに飽きることなく信じ続け練習を重ねる者は、いずれ来る「いざという時」に実用レベルへの昇華が間に合い、大切な自分・大切な人を守る「必然の結果」を生じさせることでしょう。

そしてそれは、誰にでも可能なのです。あなたにも。自分を守る、大切な人を守る、その決意を抱いて行動した者に、女神は微笑むことでしょう。転掌が求める「すべきこと」は、誰にもできることだけだからです。

これこそが、すべての人に希望を与える、「本当に使える」護身術なのです。

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転掌式(清朝末式)八卦掌は、現存流派に縛られない成立当時原点スタイル

八卦掌水式館で指導するのは、転掌(てんしょう)と八卦掌である。八卦掌には、名前がある。「転掌式八卦掌(清朝末式八卦掌)」だ。

名前なんてどうでもいい?いや、国内主流の近代スタイル八卦掌と同一視されると問題があるため、この名をつけた。それくらい、清朝末式八卦掌と近代スタイル八卦掌は、別物体系なのである。

程派、尹派、梁派・・・それら著名流派に加え、八卦掌にはたくさんの流派がある。

そもそも「派」とは「派生」や「枝分かれ」のニュアンスを含む。

だから私は、自分が指導する八卦掌に、「~派」という名称はつけない。原初スタイルゆえつけたくないし、そもそも、~派という名称の入り込む余地がない。

なぜなら、私のたどり着いた楊師伝の八卦掌は、原初のままの、枝分かれする前の八卦掌だからだ(原初と近代に優劣はない。スタイルの違いである)。厳密にいうと、「転掌」である。

「原初のやり方に忠実に従った原初のスタイルによる」の意味なら、「~式」こそがふさわしい。よって、清朝末式八卦掌・転掌式八卦掌と呼んでいるのである。私は、この呼び名を大変気に入っている(~派と呼ばれるのは、本当に嫌だった)。

この呼び名は、サイト上にて言うにとどめている。門弟にとって、このようなことはどうでもいいことだからだ。私に続く門弟は、各人思うように進むのがいい。

そもそも、弊門指導の八卦掌が、原初スタイルと言い切ることができるのはなぜか。

それはもちろん、楊師より「原初スタイル」だと聞いていたこともある。しかし何より、各流派に共通して残っていた型・姿勢から推しはかり、そのうえで、30年以上もかけて実戦・組手・単独練習の果てに確信したものだからだ。

他人の文献をを参考にしたからではない。現在の中国国内の著名先生の書籍にも、清朝末式八卦掌に関わる記述はまったくなかった。隠しているのか、それは分からない。しかし書いてないのは事実である。皆、敵に向かって積極的に攻防する八卦掌である。

拳法は、書物での伝習は難しいとされる。すべてを書物から、では確かに大変だ。しかし、究極の達人先生から教わらずとも、(指導許可を得るくらいの実力を持つ)先生から、動作の仕方・手順を教わりさえすれば、あとは、ひたすら繰り返すことで、技の術理も含め、すべてを君の身体が教えてくれる、のも実感している。

私たちの身体は、あまりにもすごい有機体である。科学の力をもってしても複製することなどできない、奇跡の物体である。

その奇跡の物体が、教えてくれたものだ。「このやり方・・・いいな」「やっとわかった、こういうことか!」突然感じるその悟り・サインこそ、真実が分かった時だ。そのサインを積み重ねていき、たどりついたのが、この清朝末式八卦掌。だから「確信」しているのである。

もちろん、いまだに謎の部分もある。しかしそれは、これからの研究の果てに、きっと明確にわかるもの(つまり、引き続き、死ぬまで、ずっとずっと追い求める、ということだ)だと確信している。

だから君は、師を選り好みする必要などないのだ。雑誌やyoutubeに出てくる先生だけが、先生じゃない。私は有名先生は意図的に避ける。なぜなら、どうせその先生から習うことはできないから。おおかた、その先生の弟子に習うのが関の山である。わたしなら、無名でも、独自のスタイルで教える先生がいい。何より生徒が少ないから、ほぼマンツーマンで習うことができる。そしてその先生は、そのスタイルのグランドマスターである。最も深く、その体系を理解している人だ。最高の先生である。

よく人は言う。原点回帰ですか?原理主義ですか?と。いいや、違う。「清朝末期頃のスタイル」にたどり着くのは、ゴールではない。通過点だ。

私は、もっともっと先を見据えている。しかし、ここまで時間がかかり過ぎてしまったのも、事実。大きな回り道ををした。その過程を含めると、ゆうに38年。試合想定・強者使用前提となり、本来の八卦掌が持っていた最大の特徴から離れてしまった現在主流の近代八卦掌からの離脱は、想像以上に大変であった。

習っていた近代梁派門を事実上追い出される形となり、当時は相当憤っていたが、考えようによっては、全く自由に行動できる、ということ。

事実、所属門を辞してからの技術の向上は、すさまじいものがあった。所属していた時は、梁派の技術体系に疑問を持ちながらも、それに追随する自分がいた。しかし今は、問題なく離れ、どんどん後退スライドし、縦横無尽に駆け巡っている。自在である。敵や固定観念にとらわれない、自在な動きを、転掌と転掌式八卦掌は与えてくれた。

練習の最中、敵前にとどまる練習を少しだけ行っている。その後、後退スライド術理に沿った清朝末式で練習をし始める時、いつも思う。「なんて自由に動くことができることか!」

以前の私は気づかないうちに、著名流派の形式主義に陥っていたらしい

近代スタイルでは、敵の力とぶつかるのを避けられない。どこかしこで必ず、敵の力と積極的に抗する場面がある。その抗する瞬間をやり過ごす技法が、あまりにも難しく、成功を妨げる。

やり過ごす技法を完璧にこなす人を、ほとんど見たことが無い。「相手次第」という極めて厳しい技術体系を克服するような技法は、相当習得が困難だ。私はとにかく練習したが、結局、勝ったり負けたりで、攻撃を受けることが絶対に許されない「護身術」として、教える自信を持つことができなかった。

※打ち合いや、打たれづよい体で対抗する発想は、試合想定の発想である。護身の場面では、攻撃されるは、斬られる、刺される、である。打ち合い前提の技術体系では、対応できない。

近代格闘術で護身をするには、膨大な対人練習(相手を必要とする練習)が必要となる。転掌式八卦掌は、最初こそ術理をマスターした人間の導入が必須であるが、その後は、対人想定練習(対人を想定した一人練習)でかなり上まで技術を上げることができる。しかし、近代における力とぶつかる瞬間を制する技術は、対人練習でないと独りよがりとなってしまう。

正直、近代八卦掌を練習している者の中で、対人練習を定期的に行えている人間はどれほどいるだろうか?私は、師の会に所属していた時、必ず、対人練習に積極的に挑んだ。

相手に圧倒されても、そこから得るもののために立ち上がって臨んだ。あれほど積極的に対人練習に挑んでいる人がどれくらい、近代八卦掌修行者にいるだろうか?八卦掌の経験者と手合わせをしたことは何度もあるが、対人練習をやり込んだと推定できる人に出会ったことが無い。

これでは力任せの攻撃をいなす技法は手にすることができない。「相手は体格がいいから仕方ないね」とよく耳にする!が、それは実戦では「死」もしくは「蹂躙」を意味する。私は学生時代、理不尽な暴力を押し通され、大切な人を失い、身をもって実戦での敗北の悲惨さを経験したから間違いない。

これからますます、転掌・転掌式八卦掌の指導を加速させていく。弱き者が立っているためには、このスタイルしかないと信じているからだ。

全く迷いがない。梁振圃伝八卦掌で指導許可を得た自分だが、指導許可をひっくり返された経緯があり、梁派に未練も湧かない。

個別指導科では、梁派近代八卦掌コースを新設している。しかし、当コースは仮入門制なしで教える(グループでの指導にも応じる)。仮入門制を採らないくらい、梁派の名にこだわってないということだ。(梁派近代八卦掌コースでは、それだけの履修修了で八卦掌第7代掌継人にはしない。護身や指導ができないからである)。そしてもう、このコースは、金沢移転とともに閉鎖した。

強者の力任せの攻撃に圧倒されているなら、弊館で転掌・清朝末式八卦掌を練習するといい。

女性に護身術は意味がない、と言われて行き詰っているなら、弊館のウーマン・ライト・ガード(女性警護人養成科)で、転掌・清朝末式八卦掌の術理を学ぶといい。

いじめで体格のいい複数人の同級生に、意に反する要求をのまされているならば、いじめ護身部の動画を参考に練習をし、通信講座を利用して学ぶといい。勇気を出した君を、私は真摯に指導する。

本当に身を守ることができる護身術を学びたいならば、君が・あなたが、よほど体格や筋力等で恵まれてない限り、力がぶつかるスタイルの格闘技をもとに作った護身術では、護身を果たすのは難しい。清朝末式八卦掌の弱者護衛術・弱者護身術そのものの技術体系を味わうといいだろう。

斜め後方スライドし、縦横無尽にかけめぐり、護身のみであれば、頃合いをみて、キロメートル単位で離脱しなさい。確実に護身を果たすことができる。既存武術のような小手先の手技で防御するな、清朝末式八卦掌の術理による、圧倒的な移動距離で防御せよ。

映画「グランドマスター」を見たことがあるか。あのスタイルは、攻撃時敵に向かっている。よって近代格闘術八卦掌である。転掌式をマスターすると、あの華麗な攻撃を、前に出て攻撃してくる敵と並走スライドしながら、行う。達人レベルになれば、あの映画のような攻防をすることができるのである。だから夢を持て。

趣味やファッションで護身術を学ぶなら、それはそれでいい。しかし、本当に護身が必要ならば、力がぶつかるスタイルは、対人練習環境が整っている道場でない限り、避けよ。

もし一人で練習するしかないなら、八卦掌水式館の入り口を叩いてほしい。転掌・清朝末式八卦掌の転掌術理を学びに来なさい。やる気のある者との出逢いを楽しみにしている。

八卦掌水式門富山本科イメージ

練習の目的は、グランドマスターとなること

先生のコピーを目指すな。流派の看板の下に甘んじようとするな。

自分で気づいて、自分がいいと思ったものがあるならば、「爆誕!」などと、その他大勢の人間が使うような言葉なんて使わず、未来のグランドマスターとして、堂々と、例えば、館長の名前を借りるなら、水野義人伝、のように宣言すればいい。

館長は、拳法以外では穏やかだが、拳法に関しては、自分の道をひたすら追い求めるような人間。その例を見ているので、自然と自分も、周りも、そのようになる。

私に話してくる人間って、いつも予想するような回答しかしてこない。またそれ?と思う。もしこいつが拳法なんて修行したら、肩書ばかり求めるんだろうな、って思ってしまう。

なんでいつも、作ってもらいたいものが肉じゃかなのか。あいつもそうだったけど、こいつもこの店を材料に誘ってくるの?私は2ケタ代でこのようなことがあった。そのたびに、個性だなんだといいながら、人の意見に自然と流されていくことの恐ろしさを感じる。

私はそれだけは嫌だなと思う。いつも館長が言っていた。目指すなら、前代未聞になれ。拳法ならばグランドマスターになれって。グランドマスターっていう言葉は、館長の口癖だから、周りの人間は皆、その言葉を自然と使ってしまう。私は4歳からずっと、聞いてきた。そして練習の目的が、自然と、グランドマスターになっていた。

しかし飛び出すなら、きっと苦労する。その好例を間近でいつも見ているから。あれだけ練習しても、何にもならいことばかり。名をとり、長きに巻かれて皆と同じことやっていれば、もっと気楽にできるのかもしれない。

でも、埋もれてしまう。何か残したいと思わない?私は思う。このブログ、見ると全国の色んな人が見ているようだけど、いい機会だから言いたい。好きにやってしまえばいい。自分の得意なものがあるなら、どんどん練習して、オリジナルにしてしまえばいい。もしあなたの先生が許さないなら、こっそりと練習すればいい。わたしなら、行くのやめるけど。

目的を定めること。何をしたいか。拳法をマスターして、何をしたいのか。

ただ楽しみたいだけなら、それはそれで全く問題ないと思う。極め、独自の境地に達することを快感とするような人とは合わないだろうけど、それは別に悪いことでもない。

私は、グランドマスターになること。それが目的。館長の影響を受けているかもしれないけど、私は何とも思わない。ずっと館長から聞いているうちに、独自の境地に達することがどんなことか、知りたくなったから。

見ていると、どうしようもないことで悩んだりしているし、落ち込んだりしている。時々うろたえることもある。なっさけない、グランドマスターも普通の人間だな、と思う。だけど、拳法になった瞬間、目つきが変わる。どんな時でも、どうすれば今日いい練習ができるか、と考えて、行動する。要所要所で、鬼のような顔になることがある。

実技的な強さじゃないんだ。きっとこれは、取り組む姿勢の問題だと思った。姿勢が違うから、スイッチも入りやすい。その切り替えが、本当に凄いと思う。

それとなくだけど、何度も聞いたことがある言葉は

「グランドマスターなら、こんな時も笑って練習するからな」

「寒い!これで、また決意が強くなる。ますます後戻りできん!」

些細な言葉だけど、この言葉を、自然と発せられるようになると、もう一人前だと思っている。私はまだまだかもしれない。相手に負けたくない、とか、悔しさばかりが先行する。大きな考えが、いまだにできない。そこがもどかしい。

まだ門弟なんだな、と思う。とっくに卒業したけど、まだまだ参考になることはある。これが、ずっと長年、追い求めてきた人間の深みか。

先輩に、派手に打ち負かされているけど、それでもいつでも胸を貸し、笑顔で強さを喜ぶ。グランドマスターって、やはり強さだけじゃない。背負っていることが、土台の条件だと感じた。

これから水式館に来るならば、グランドマスターを目指すのがいい。

そのためには、館長にしっかりと教えてもらえる「今」がいい。肩書ばかり求める人間には、きっとこの記事は響かないだろう。でもいい。正直そのような人間は来なくていい。肩書にこだわっているなら、きっとグランドマスターの境地に触れることはできないから。

これから私が学ぶのは、技術ではなく、グランドマスターのマインドだと思っている。無理やりだが、後に続く者たちも、このマインド、大事にしてほしい。

最悪状況「腕を取られた状態」から始まる護身術を王道技法とするな

とにかく敵に近づかれないこと。これは、よくある護身術の、「脅威に近づかないこと」を言っているのではありません。近づかせないでつかまれない、はがいじめにされない具体的な技術のことを言っているのです。

この技術を徹底的に磨くならば、敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎです。それは近づかせない技術がなく、かつ、護身術とはつかまれてから対処する技術、という思い込みを持っているからです。

危うきに近づかず、といっておきながら、転掌における近づかせない技術、やり過ごす技術を紹介すると、つかまれたらどうする、と反論してきます。近づかず、じゃないのか。結局、術を習いたいんですね。巧みに敵をさばき、「?」と相手に思わせてから逃げる。このスタイルに洗脳されているのです。

護身術教室は、師範の修めた、相手に抗する、相手に積極的にまじわる技術が基礎となっています。それらは皆、男性使用前提の武術ばかりです。それを少しカスタマイズしただけだから、あのような形に皆なるのです。転掌はまったくちがいます。使う人間が、非力な人間という設定です。弱者使用前提が徹底されているのです。だからつかまれる寸前まで「回避離脱」の可能性を残す技術体系を持っているのです。

つかまれたら終わりだ、という厳しい現実をしっているので、そのような体系をもっているのです。

何度も言います・・・敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎ、をあたまに入れておいてください。この事態をさける技術を習うことが、弱者の習得する護身術の再興の到達点となるのです。

相手が近づいてきたら、すぐさま間隔を空けます。何を言ってもわめいていても、構わず間隔を空けます。そしてそののち、一気に斜め後方スライドで間隔の距離を広げます。

「だけど!手をつかまれたらどうするんだ!」。これは実際に言われた言葉です。

転掌では、とにかくつかまることがないように、徹底して斜め後方スライドを練り、洗練させ、急速スライドを可能にすること目指すのです。ひとりで練習する護身術です。練習相手はいません。練習相手もいなくて成功確率もあげることができない振り払い・先制攻撃の護身術に、なぜ限られた時間を費やすのでしょうか。

それは、現在の動画投稿サイトに大量に存在する、「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画に影響され過ぎているからです。皆さんは、「護身術」き聞いたら、真っ先に「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画を思いだしますよね。それは、すでにあなたの頭の中が、そのように洗脳されているからなのです。

昔日の弱者の護身術の大基本は、「とにかく間合いをあけること」でした。庶民に、武術を練習する時間も、機会も、そして許可もありませんでした。そして襲撃者は屈強であり、かつすでに何らかの危害を加えるつもりでつかみにきているのです。つかむならまだいい。実際、刃物襲撃者は、何も言わずにいきなり刺してきます。

眼の前で止まって、振り回す。しません。

目の前で止まって、スキを見つけてから刺してくる。様子など見ません。

とにかく刺してくるのです。ですから、視界を広く見る練習を日頃から行い、そこでつちかった「遠目」の技法で接近者を察知し、接近者の反対側へ斜め後方スライドします。その技術を、とにかく養うのです。その技術を習得すると、つかまれる本当に寸前まで、離脱回避のチャンスを創り出すことができるようになります。

その技法こそが、護身成功を高める技術なのです。忘れましたか。転掌は、徹底した「弱者使用前提」の武術。強者に対し、つかまれた後に巧妙な技法が通用しないことなど百も承知です。もし強者相手に、華麗に絡めとったり転ばしたりする技法で転掌が構成されていたら、軍事・武術の知識も経験もある王族集団からダメだしをされ、宮中内護衛武術になど採用されなかったでしょう。

柔道や合気道で、力任せの攻撃をされたことのある女性や子供であれば、すぐにわかるはずです。私ですら、体格のいい男性には、腕を取る系の技を決める自信がないのです。それは、何度も失敗し、力任せの攻撃にねじ伏せられた経験があったから。相手次第だから。相手の事情は、その都度変わるもの。そのようないきあたりばったりの極まて不確定な要素に、私は常に不安を感じていたのです。

転掌にも、つかまれた後や、押し倒された後の対処法が存在します。転掌は、やるかやられるかの熾烈な歴史を繰り返してきた中国大陸の武術です。つかまれる、倒されるなどのわが命存亡の危機に、手を払う、崩して逃げるなどの活人的対処法はありません。油断した相手の命を一気に奪うことで、その絶対的危機を逃れます(転掌では、その技法を実現するための下準備を、初歩より行う)。

しかしそれは最終手段であり、庶民や身分の低い者などのような命をかけて戦う経験の乏しい庶民には、心理的に実行しにくいことを創始者も知っていた。だから、絶対的危機におちいらせないための、つかまれるかつかまれないかの分かれ目まで回避行動が可能な移動護身技術を開発したのです。相手を殺傷することにためらいのある庶民でも、これならば命がかかれば無我夢中でも実行できます。

昨今の護身術動画では、つかまれているシーンから物事がスタートしていると、先ほど言いました。あのような動画は、護身術対処法の定番の「型」を私たちの頭に植え付けてしまっています。あのような対処法が最も優れたものであり、最も合理的で、かつ護身成功確率も高い、と。指導者が武術の達人であったり、警察・軍隊出身者で実戦経験も豊富、などと書いてあったりすると、なお疑うことなく信じてしまいます(だから多くの武術家は、軍隊や警察での指導を、たとえそれが数日であってもアピールする)。

転掌の自分護衛術を紹介すると、学習者は必ず敵に手をつかまれた後の対処法を求めます。「つかまれてしまうまでが勝負だから、その練習(つかまらない練習)をとにかく繰り返してください」と言うと、多くの者(特に男性)は次から来ることがなくなります。

男性もしくは襲撃者の接近に、もっと過敏になるべきでしょう。それは海外では当たり前です。

海外では、女性や弱者を狙った犯罪がとにかく多いです。しかし海外では、流麗華麗な「つかまれたあとの護身術」は普及していません。あくまで、武術等に興味のある女性が、たしなむ程度です。

それは海外でも、「敵の手を巧妙な技で外して逃げる」のような護身術を潜在的に「役に立たない非現実的な技法」と考えているからです。海外での護身術の弱者護身術のスタンダードは、とにかく「近づけさせないこと」。銃で威嚇するのは、その典型例です。近づいた人間には、容赦ない発砲が待っています。海外(特にアメリカ都市部)の女性は、見知らぬ人間に関しては、男性はもちろんのこと、女性ですら近づけさせません。

その疑念の対象は、当然親族にも及びます。夫婦間でも、その中が険悪となれば、たちまち近づけさせない対象になるのです(アメリカにおいて夫によって命を奪われる妻の数は、本当に多い)。

本当に襲うつもりの男性は、何も言わず、グッと近づいてきます。転掌の移動練習では、頭を固定させ、広い目で周囲を見る能力をやしないます。それは、視界の端にいる人間でも、近づいてきたことが分かるようにするためです。視界の端から中心点(自分)に分け入ってきた敵に、無意識レベルで身体を入れて回避行動をする練習を、後述の推掌転掌式や、単換掌で繰り返し練ります。

とにかく、近づけさせない練習を、日頃から徹底すること。こちらに来ることが分かったら、少しでも速く、その場から機動し軌道を変え、敵を離します。近づけさせてしまっても、触られる程度なら、回避の可能性はまだ十分残っています。触られない状態ならば、日頃繰り返しの練習の中でつちかった、洗練された斜め後方スライドと虚打けん制で、十分間隔を作り出すことができます。

頭の中から、たくさんの動画で見られる鮮やかな振り払い系護身技術を追い払うこと。すくなくとも、あれがスタンダードだ、という思い込みを手放すこと。

もしあなたが、何かしらの理由でこれらの技術を欲するならば、習うのは意義あることでしょう。一般人レベルが習う護身術に、何十年もかける人間はいません。短期習得が求められます。それは昔日の農民徴収兵に指導をするのとよく似ています。

生存の可能性を生み出すための最も早い手段を実行すること。転掌は、その指導対象が、武術ど素人の宦官・宮女であり、最低限の一定時間生存術の短期習得を宿命づけられた武術。その時代背景・成立背景もかんがみ、私は女性護身術に、転掌の一定時間生存術を自信をもってすすめるのです。

どん底から再起を期すには

新年度と、9月の前は、いつもさけぶ。

どん底があり、右も左も分からぬ、どうにもならない辛い時がある。そのようなときがあっても、生きているならば、生きていてほしいということを。

自分は、どうにもならない時を、何度も経験した。辛い時に、優劣はつけられない。公に言うことができる辛い時とは、大切な伴侶を失い、それゆえに働くことができなくなり、家を失い、寒い北陸の冬に、車を宿にしてさまよっていた時だ。

体調を崩し、帰る家もなく、使う金はすべて借金になっていく状態である。練習しても練習しても、何の反応もない、訳の分からない転掌のての字もしらない連中に笑われ、それでも練習だけは、していた時だ。

門弟でもある子らに頼ることは決してできない。彼女らにも生活がある。出口が見えない状況の中で、しばらく何も考えることはできなかった。

ただ惰性で、ひたすら単換掌と、単換刀ばかりをひたすら繰り返していた。本当に惰性だった。何も考えていなかった。考えて集中してやらないと意味ない、と言われるが、本当に、何も考えないでひたすら繰り返していた。

何も考えなくても、辛いことや、想い出なんかがあふれてきて、とにかく感情が上下する。涙が止まらなくなって、その場にうずくまることもしょっちゅうであった。それでも、涙も鼻水もぬぐわず、ただやり続けた。

拳法まで失った時、私はもはや私でない、人生に意味がないと、思っていたからだ。それは今でもそうである。

この、ただ惰性でやっていた期間は、単なる自己満足や、義務感だけで動いていた時間だったのだろうか。何度となくこのような時を経験して、その、惰性で繰り返していた期間は、実は大きな発見をするときであった。

少し残念な話になるが、その惰性で繰り返していた時に、発見をしたのではない。その後、その繰り返していた期間の積み重ねが、底から湧き上がるような見えない土台となって、実はステージを少し上げていて、ある時フッと、気づくのである。

それがいつ来るかは分からない。しかし拳法・武術に関して言えることは、何も考えないで繰り返している時ですら、高みに達するうえでの無駄な時間にならない、ということである。住処をうしなうまで追い込まれても、転掌の道を求めてきた私である。この挫折と苦闘の経験は、きっと今、取り返すための戦いを決意したが、追い込まれている諸氏に役立つ。

とにかく、繰り返すことである。頭の中に敵を想定し、何度も繰り返しさばいて、穿掌を打ち込んでやればいい。

あとに引けないのなら、後に引かなければいい。後に引かない道中は、半端ないくらいに辛いもの。でも、後に引いたって、まっているのは悲惨な、今までと同じ道である。

なんで自分だけが?何か悪いことでもしたのですか?と、すがるように天にむかって手を合わせたこともある。でも、きっと、それは自分の信念に従って進んでいるからなんだよね。信念を早々に見切り、何も考えず流され、安心のために理念に目をつむり練習もせず・・・君、あなたであれば、言われるがままに日々を過ごしていたら、その場ですら未知の世界よりも居心地がよいものと感じる(何が起こるかある程度予想できるから)のだから、苦しみもひどく感じたりしない。

現状を変えたいと思って立ち上がったなら、そこにまっているものはとっても辛いことばかりかもしれない。しかし!

みずから手をかけなければ、君は命を失うことはない。もっとも最悪な状況にはならないのだから。だから、ふらふらになりながらも生きている自分をよそからみているようにみつめつつ、進んでみるといい。

ただ繰り返していけばいい。これは、達人を志す愛好家らにも言えることだ。いい条件なんて、いい先生なんて、そんなもの自分次第でなんとでもなるのだから。

誰も助けてくれない。命の電話にかけても、こちらの話をただ、聞いてくれるだけである。もちろん、聞いてくれる環境があるのは貴重なことだ。しかしそれでは救われない場合もある。

どん底に陥っている時に、「行動せよ」は正直辛い。私も、そのようなことが書いてある記事は、シャットダウンしたし、見もしなかった。その状況の中で、大きな動作を必要としない何かを、ただ惰性でやり続けていく。私は単換掌だったし、筆頭門弟には単換刀だったし、三番弟子には双身槍であった。

拳法以外でももちろんいいんだよ。絵を描いたり、ガンプラ作ったり。ただひたすら浜辺にてルアーを投げる釣り人を見て、その繰り返しの行動から自分も浜辺に立って、来る日も来る日もルアーを投げ続けていたこともあったし。時折釣れるヒラメやスズキが心を癒し、描いた絵が傑作だと自分で感じ・・・それでいいんだよ。拳法でなければいけない、というならば、それはひどく窮屈な話。

あなたが、君が、今何も考えないでもできるものってなんだろうか。きっとそれは、あなたが、君が、最も得意とするもの、好きなもの。下手でもいいんだよ、最も得意なもの、好きなものを繰り返してごらん。拳法に関係なくてもいい。

実は自分はひたすらどん底の時期に単換掌ばかりを繰り返して、状況がどんどん悪化していった。しかしそれは世間一般の判断基準から見た結果。自分の中では、自分と向き合っている安心感みたいなものに安心していた。

そのような紆余曲折が、きっとあなたのステージを、見えない形で上げる。そう信じて欲しい。私は何度もそうして、それがステージを上げたことで、今こうして、むきあっていられる。実は、それこそが、「強さ」なんだ。自分の芯であり、自分そのものなんだ。君の心の奥底であり、君そのものだ。だから、惰性で繰り返すものは、拳法に関係するものでなくてもいいんだよ。

私自身、突き抜けて成功を収めている立場、ではない。君とおんなじ。明日をも知れぬ身だ。だから、ともに、何も考えないでもやれること、何も考えずやっていこう。

2025年末には達成されているから、皆に、ありがとう。

ウーマン・ライト・ガードの未来に担う、女性警護人候補に、たくさん出逢い、成長していく姿を目の当たりにしている。大和町広場においえて駆け回る将来の達人らを頼もしく見守っている。

水式館の本拠地・北陸の冬にあわせて、スバルのフォレスターに乗っている。ワゴンRはセカンドカーとして、水式館の掌継人らの足として活躍をし続けている。

電子書籍・ペーパーバッグ版の『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』が、英語・中国語・ヒンディー語で出版されている

転掌・転掌式八卦掌の海外サイトが完成しており、日本国内のアクセスをはるかに上回るアクセスが得られ、大きな反響を得る。転掌の世界における知名度が2024年のそれをはるかに上回り、海外において真の護衛術を求める修行者らが、金沢を訪れることを憧れとする。

『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』の高い評価より、当然のごとく商業出版の流れとなり、内容を変えないままの、転掌自分護衛術の解説本が全国の書店に並び、多くの護衛術を必要とする者がそれを手に取り自信を得て将来に希望をもち立ち上がっている。

北陸地方における警備会社への指導のグランドスラムをさっさと達成しており、警備会社のみならず、指導の場が、銀行・病院・その他の事業所に及び、北陸地方における、プロの護衛術指導機関として、その名をとどろかせている。

海外から、転掌・転掌式八卦掌のインストラクター希望者が金沢を訪れ、真摯に習って、それがものになっていく姿を見て、世界への広がりを実感している。

入身法(Rushenfa)の完成がなされており、緊急窮迫の事態においても、わずかな入り身のみで多人数の襲撃を処し、対多人数移動遊撃戦連続20分を、真夏に達成して、笑いながら戦っている自分となっている。

転掌のグランド・マスターとして、転掌の本格的な執筆を始動させ、執筆し続けている。

北陸金沢本館のメドがたち、北陸金沢を任せる後継者の候補を渇望し始めている。

第五日曜日に、各地で行う講習会は、常に定員がいっぱいとなり、そこで学んだものは、革新的な東洋人専用の技術体系に感動を受け、転掌門を叩く。

日本全国から、指導員候補生が入れ代わり立ち代わり金沢を訪れるため、温泉付き宿泊施設の確保を考え始め、めぼしい施設と交渉をしている。

楊家連身藤牌の基本型の統一と整理がなされ、日本国内で、清朝緑営藤牌兵営直系の転掌式藤牌術が伝わる。

これらはすべて、列挙しながら明確にイメージすることができるものである。イメージしながら、苦笑する自分を体験し、フォレスターの新車のにおいを感じ、北陸新幹線の滑るような走り出しを実感する。イメージしている最中の感覚はあまりにリアルであり、嬉しくて涙すら出る時もある。

このことから、来年の今日に、これらは当たり前になっている。実現される過程の中で、協力してくれた諸氏に、この場を借りて、心から感謝しておく。これから先も、水式館の理念の実現のため、多くの人の屈託のない幸せのため、力を貸し続けて欲しい。

心から、ありがとう。

強くなりたいのか。有名先生のお知り合いになりたいのか。

日本語版での出版が終了し、次の段階へと進む。

英語版に修正しながら、日本語版の原稿を変えていく。英訳は、必ず自分でおこなう。伝えたいことが、専門的過ぎるし、すべてをチェックできない。完璧でなくてもいい、今から進める。英語版の出版である。

今回の出版内容は、完全ではない。

しかし言いたい。

「完了」は「完璧」に勝る。これは私の信念の一つである。

とにかく転掌を世に出すことで、転掌のステージが、また一つ上がったのである。これで一層、世界に広がっていくのだ。世界各地にいる天才らは、日本語であっても、何の問題もなく、あらゆる手段を駆使して、それを読み、インスピレーションを受けるのだ。

私の周りにには、転掌を修めていて、かつ英語がネイティブな門弟はいない。いないなら、自ら引き寄せるのみである。金沢で、いや、日本で、「転掌」てんしょう!などと叫んでいても仕方ない。

これだけ技術を磨き、洗練させ、核心に迫る革新的な内容を紹介しても、自分のプロフィールばかり見て、そこから離脱しいなくなる。有名先生に就いてない自分が気にくわないか?はっきり言う、実戦で強くなりたいのか?それとも、有名先生のお知り合いになりたいのか?

海外からの閲覧ユーザーと、日本国内の閲覧ユーザーは、見る所があきらかに違う。日本国内のは、プロフィールと梁派八卦掌解説ぺージ。海外のは、転掌と最低限で仕上げる護身術だ。

海外のは、実行と実用に重きを置いている。海外のは、私のプロフィールなんて見ない。大好きだ。愛してる。君たちこそ、大切な人を守り、自分を守ることができる存在だ。日本の愛好家をあっと言う間に追い越し、さっさと転掌のマスターとなるだろう。

必要としている人の元に、必要なものを、誠心誠意、最大限の労力を費やして、届ける。それこそが、世界に転掌を広げ、転掌を再興させる董海川師の生まれ変わりたる自分の使命だ。

董海川先生の生まれ変わりだと?と笑う人間の中で、成立当時の姿が現行八卦掌と違うのでは?と想定した人間はどれくらいいるか?何の疑問も持たず、八卦掌は八卦掌のまま成立当時から、このままのスタイルと型で推移してきたと思ったのではないか?

私は、中学生の時に佐藤先生の本を読んだ時に、すでに直感を感じた。この戦い方を宦官が実行し得るのか?佐藤先生の本には、董海川先生が宦官だったことについて言及してなかったが、清朝粛親王府で、出自の不明な男性が奉仕している=「董海川先生は宦官」はすぐに分かった。中国兵法や三国志を読んでいた経験も、その直感を助けた。

この戦い方をしたら、かえって不利ではないか?ひどく技巧的な拳法だと、感じた。きっと本では分からない何かがあって、それが宦官であってもこの戦い方を可能にしていると感じたのだ。だから中学生にして、無理やり行動して関東まで習いに行ったのである。

そこからは奇跡の連続であった。斜め後方スライドの単換掌・双換掌から、大きな感動を受け、感動を受け一生をかける覚悟をした直後に指導を受けられなくなり、そこからは自分で術理を後追いしていく日々が始まった。

董先生は、諸国漫遊の旅の中で、「異人」より技術を授けられ、転掌を創り出した、と語られている。中国で「異人」とは、おおよそ「外国人」を指す。中央アジア、東南アジア、モンゴル、ロシア・・・西洋、そして日本。この革新的な技法は、西洋人がもたらしたものとは考えにくい。身体柔弱な東洋人によるものだと考えている。「異人」が日本人であった可能性も、決してゼロではないのだ。

私は、中学の時の熾烈な経験から、強者化を強いる既存武術に心が向かなかった。楊師より転掌を習った時、電撃が走った。これだ、これなんだ、おねがいだ、東京に定期に連れてってくれ、そう頼んで、一生懸命練習した。

楊師は、私にとって、「異人」そのものであった。私は時折、董海川先生の人生を追体験しているかのような感覚を受ける。時折夢の中で、大声で叫びながら、大平原を、棒を持って走り回っている夢を見る。何度もだ。あの夢は、太平天国軍の盾持ち雑兵の自分なのだろうか。

生まれ変わり、やら、過去生やら、色んなものがあり、ともすれば直ちに批判されそうなものだが、侮ってはいけないとも思う。転掌の修行の過程で生じたこれらの奇跡を、単なる偶然と、とても片付けられないのが大きな理由である。

こんな奇跡的な巡り合わせによってここまで来た自分である。日本国内で、最低限の生活をすることを目指して、月々数千円の月謝を出し惜しみする武術愛好家らの反応に一喜一憂するなどうんざりである。

強くなることより、肩書やらステイタスやらに興味のある人間の顔色をうかがうなど、まっぴらである。youtubeは、派手派手しいデモンストレーション動画を見て、行動せず結果的に毎回暇つぶしをする人間のたまり場であることも分かった。

必要とする場所に届ける。必要とする環境を求める。

軍師門弟は毎回、金沢の浜にて、私に問いかける。

「見てごらん、このペットボトル、中国語。あれは・・・ハングルね。あれも・・・・中国語。ここはもう、日本じゃない。事実、先生の発信しているものは、先行して海を渡っている。これを感じてもらいたかった。遠州灘や、倉敷では、これは感じられない。」

動き続ける。外注に出すお金がない?前に進めば、きっとその機会はある。まずできることから始めよ。今すぐにだ。このブログも、行動の一つである。董海川師の生まれ変わり、の宣言である。

そうしているうちに、海外から、有能な志をもった門弟が私の元に来て就き、私の代わりとなって世界のあちらこちらで転掌を広げてくれる。転掌の術理を訳してくれる。間もなくこの試みも、実現される。もう動いているからだ。

今この瞬間、そしてこれから、世界各地に居る、志のあるものよ、天才たちよ。今という時に、転掌に価値を見いだした、突然変異の天才たちよ。疑うことなく、200年前の天才が創ったものを追体験せよ。私は、その天才の意図を、残された技を通して、感じた者。現世に復活させたる者なり。

その技法を感じ、盗み、採り入れ、己の既存のものと融合させ、己の真実を新たに創り出し発展させ、己の描く想いを遂げよ。「身の程」なんてものは知る必要のないものだ。とどまるな、自分の心の命じるままに、その道を進め。

警備員指導科での指導は、服で戦う技術があるから可能

服で戦う。よく時代劇で、布や手拭いで対抗するシーンがある。

確かインドネシア辺りでは、布で戦う武術もあるようだ。あれがしばらく、どうしても実行できなかった。モノで戦うことの最後の砦が、服で戦うことだった。

しかしそれも、転掌をマスターしたら実行できるようになった。奥が深く、その方法を悟ってからすでに10年以上が過ぎているが、いまだに上達の余地がある。楽しみである。

さて、どのように戦えばよいのか、どのようにすれば、服でも戦うことができるようになるのか。それは、身体の移動に追随させることである。身体の移動の後を、ついて来させるのである。

服が先行しては、うまく扱うことが出来ない。コシやハリが当然のごとく、全く無いからである。前方向への攻撃を、全くできないわけではないが、服を使っての突き技は、コシ・ハリの無さから有効ではない。サッと出して敵の顔にかぶせてしまうなどは、有効ではあるが。

転掌では、その練習をすでにしていた。答えはすでに、37年前に、楊師より教えてもらっていたのだ。考えてみれば、楊師は、作業着っぽい上着で、何度も何度も刀術を指導してくださった。あれは実は大きなヒントだったのだ。

その時、最も多く見た技は、服を持っての翻身拍打→上翻サイ刀→服を持っての翻身拍打→按刀、であった。翻身拍打で、外方向斜め後ろから迫る敵にけん制の斬撃をし、その服を背負い投げのように背負いながら上斬し、すかさず持ち替え再び前敵に翻身拍打による斬撃、そして離脱しながら按刀、である。

2番目の翻身拍打による斬は、前敵に対するものであるが、移動を止めないことによって服自体に慣性がかかっているため、振り回す服に芯が入り勢いを保ちながら斬撃できるのである。これは、200センチ程度の長い棒を振りまわす遊身大刀の術理に同じである。

自分は、そこまで考えていなかった。言い換えるならば、その動きの中に、転掌の術理を見い出すことができなかった。その時すでに、楊師より数年マンツーマンで習っていたはずだったが、分からなかった。ただ、楊師の服のチャック部分が当たるのが怖くて、半分聞いてなかったのかもしれない。でもそれは言い訳。やはりまだ、転掌について、何もわかっていなかったのだ。

先ほどの技の例を読んで、ある程度水式館で習った人間ならわかるであろう。そうである。服の扱い方を有効にするヒントは、「刀裏背走理」なのである。刀裏背走理を用いるとは、どういうことか。

つまり服を、身体移動で引っ張る、背負う感じで大きく振り回すことだ。その振り回した服が、敵の手に絡めば、十分相手を引っ張り崩す力となる。先ほど言った、振り回す服に帯びた遠心力が、服についているチャックを、凶器に変えることもある。

刀裏背走理による術理で服の武器化を維持するためには、とにかく自分が止まらないことが重要だ。止まらないことで、服自身が、自分と一緒についてきてくれる。出した手(服)の方向の、反対側へ、例えば揺身法を用いて身体を移動させ、伸びきった服を、自分で背負いながら移動していく。追随する服には、移動による慣性の力が宿り、重さを増し、それが敵の手や身体に絡んだりすると、武器を落としたり、敵の態勢を崩したり、敵の眼をくらますことにつながる。

上翻サイ刀によって服を背負うようにして前に進んでいく動きは、楊家連身藤牌における「甲下走牌(こうげそうはい)」に似ている。連身藤牌には、自分の外側に迫った敵に、藤牌を手刀のように出し、反対側へ揺身法で急速移動しながら藤牌を背負って、転身しながら反対側もしくは襲ってきた敵に小旋回して再び振り下ろす、という用法を持った「甲下走牌」がある。この動きが、服を使った戦いのヒントになった。

そのことを思い出し、今朝、暗闇の大和町広場で、黙々と連身藤牌を練習していた。子供たちにもそのことを教えたら、「そんなのわかっていたよ」とのこと。考えてみれば、服で戦う技術に関しては、この子たちはかなり早くからできるようになっていた。一番弟子でもあるこの子は、目的をもって制服で練習していたが、その時来ていた学校のコートを、走りながら脱いで振り回す練習をしていた。学校指定の高額コートゆえ、面食らったものだったが、そのような試みが、彼女に術理の気づきを与えたのかもしれない。

刀裏背走理を学習したことがある門弟の方は、是非とも自分の着ている服で試してみるといい。刀裏背走理の実用性の高さを実感できるはずである。どうせなら、緒戦では着たままにして、移動しながら脱いでそのまま振り回す、などもやってみるとよい。

昔日の転掌では、宦官や宮女は武器を表立って携帯することを許されていなかったため、移動しながら引き出す練習をしていた。それはウーマン・ライト・ガードでも必ず練習してもらう。身分の高い女官は、頭に忍ばせてある丈夫なかんざしを有事にすぐ引き抜き、双匕首のようにして使ったとのことである。ほとんど暗殺技である。

身体移動で引っ張って、その去り打ちの軌道で、前に突出してきた敵の身体部位を、出会いがしらに斬る。服にも使うことができる、その戦闘法に気づいていた草創期の門弟らは、大したものである。

特殊警棒を持つことができないことについて、マイナスの反応をする警備員もいる。しかし、日本のサムライのように、腰に差してすぐに引き抜くことができる状態で携帯してない限り、警棒について有効性は?だと思っている。

私が以前勤めていた、野生動物が最大の脅威であった勤務地では、特殊警棒よりも、常に手に持っているシャッターフック棒の方が頼りだった。シャッターフック棒は120センチの樫材によるものを使用していた。そしてそれと同じ長さの樫材棒で、日頃から練習をしていた。

このようにすれば、引き出す手間がかからない。最も危険な襲撃の際は、3メートル以上あった距離を、わずか2秒で詰められ、身体を入れて流し払い逃げをし続けることだけしかできなかった。特殊警棒で対応していたら、引き抜くことすらできなかったであろう。

実戦的とは、こういうことである。組手で顔面ありを行っていることが、その道場の実戦性を必ずしも示しているのではない。リアルな戦いの現実を知り、「その時」が来たとき、練習でつちかった動きを実行するために、事前準備をするか、である。

だから転掌には、槍術に、扎のような、滑らせる技法がないのである。そこらにある棒の表面は凸凹で傷だらけ、手袋でもつけてない限り、あの技法は実行できない。転掌に伝わる双身槍が持ち替える技術ばかりなのは、そのためである。ここまで想定して、「実戦的」だと宣言できる。

服で戦うことは、棒など持ち歩くことができない人に、大きな希望となる。服ならば、高い確率で持っている(着ている)し、いつでも携帯し得る武器?となるだろう。

一番弟子は、万が一の時制服の上着を脱いで振り回すため(セーラー服だったので、ブレザー制服のような上着がなかった)に、下にかならずTシャツを着ていた。そこまで考えていた。彼女の発想は、警備や警察の仕事に就いている人間に大きなヒントをもたらすだろう。そこまで考えて職務に臨んでいる職員がどれだけいるだろうか。

警察官には、やはりどうして特権意識が見え隠れする。そして武術を学ぶことに懐疑的である。「おまわりさんもどうですか、柔道をやっていたのは、もうかなり昔のことでしょう?」と言っても、「何を言っているか、いまさら」程度の反応を何度もされた。

警察官も転掌を学ぶとよい。柔道技で足を引っかけ、倒して制圧するだけが「取り押さえる」のではないのだ。警察官は、持っている拳銃と国家権力(公務執行妨害による現行犯逮捕や緊急逮捕権限)により、すでに一般人を大きくしのぐ強みがある。あとは攻撃を受けないための身法だけである。彼らこそ、「当たらないこと・斬られないこと」に注意を払わなければならない。

有事の際、一般人をまもるのはあなたたちなのだから。最後の砦なのだから。警察学校で学んだ時の身体で戦うことはできない。今その時の身体で対処するしかないのである。であるならば、今この瞬間に、その身体に、身をかわし、持ち得る道具で対処しうる身法を身につけようではないか。

真に身を守る技術とは、護身グッズを扱う技術ではない。身体を即座に動かし間をとり、逃げる余裕、けん制攻撃をする余裕、護身グッズを使う余裕、身の周りのものを使う余裕を生み出す技術である。それには、移動技術が必要である。移動技術は、転掌などの、昔日の武術で学ぶことができる。

八卦掌水式門富山本科イメージ