練習の目的は、グランドマスターとなること

先生のコピーを目指すな。流派の看板の下に甘んじようとするな。

自分で気づいて、自分がいいと思ったものがあるならば、「爆誕!」などと、その他大勢の人間が使うような言葉なんて使わず、未来のグランドマスターとして、堂々と、例えば、館長の名前を借りるなら、水野義人伝、のように宣言すればいい。

館長は、拳法以外では穏やかだが、拳法に関しては、自分の道をひたすら追い求めるような人間。その例を見ているので、自然と自分も、周りも、そのようになる。

私に話してくる人間って、いつも予想するような回答しかしてこない。またそれ?と思う。もしこいつが拳法なんて修行したら、肩書ばかり求めるんだろうな、って思ってしまう。

なんでいつも、作ってもらいたいものが肉じゃかなのか。あいつもそうだったけど、こいつもこの店を材料に誘ってくるの?私は2ケタ代でこのようなことがあった。そのたびに、個性だなんだといいながら、人の意見に自然と流されていくことの恐ろしさを感じる。

私はそれだけは嫌だなと思う。いつも館長が言っていた。目指すなら、前代未聞になれ。拳法ならばグランドマスターになれって。グランドマスターっていう言葉は、館長の口癖だから、周りの人間は皆、その言葉を自然と使ってしまう。私は4歳からずっと、聞いてきた。そして練習の目的が、自然と、グランドマスターになっていた。

しかし飛び出すなら、きっと苦労する。その好例を間近でいつも見ているから。あれだけ練習しても、何にもならいことばかり。名をとり、長きに巻かれて皆と同じことやっていれば、もっと気楽にできるのかもしれない。

でも、埋もれてしまう。何か残したいと思わない?私は思う。このブログ、見ると全国の色んな人が見ているようだけど、いい機会だから言いたい。好きにやってしまえばいい。自分の得意なものがあるなら、どんどん練習して、オリジナルにしてしまえばいい。もしあなたの先生が許さないなら、こっそりと練習すればいい。わたしなら、行くのやめるけど。

目的を定めること。何をしたいか。拳法をマスターして、何をしたいのか。

ただ楽しみたいだけなら、それはそれで全く問題ないと思う。極め、独自の境地に達することを快感とするような人とは合わないだろうけど、それは別に悪いことでもない。

私は、グランドマスターになること。それが目的。館長の影響を受けているかもしれないけど、私は何とも思わない。ずっと館長から聞いているうちに、独自の境地に達することがどんなことか、知りたくなったから。

見ていると、どうしようもないことで悩んだりしているし、落ち込んだりしている。時々うろたえることもある。なっさけない、グランドマスターも普通の人間だな、と思う。だけど、拳法になった瞬間、目つきが変わる。どんな時でも、どうすれば今日いい練習ができるか、と考えて、行動する。要所要所で、鬼のような顔になることがある。

実技的な強さじゃないんだ。きっとこれは、取り組む姿勢の問題だと思った。姿勢が違うから、スイッチも入りやすい。その切り替えが、本当に凄いと思う。

それとなくだけど、何度も聞いたことがある言葉は

「グランドマスターなら、こんな時も笑って練習するからな」

「寒い!これで、また決意が強くなる。ますます後戻りできん!」

些細な言葉だけど、この言葉を、自然と発せられるようになると、もう一人前だと思っている。私はまだまだかもしれない。相手に負けたくない、とか、悔しさばかりが先行する。大きな考えが、いまだにできない。そこがもどかしい。

まだ門弟なんだな、と思う。とっくに卒業したけど、まだまだ参考になることはある。これが、ずっと長年、追い求めてきた人間の深みか。

先輩に、派手に打ち負かされているけど、それでもいつでも胸を貸し、笑顔で強さを喜ぶ。グランドマスターって、やはり強さだけじゃない。背負っていることが、土台の条件だと感じた。

これから水式館に来るならば、グランドマスターを目指すのがいい。

そのためには、館長にしっかりと教えてもらえる「今」がいい。肩書ばかり求める人間には、きっとこの記事は響かないだろう。でもいい。正直そのような人間は来なくていい。肩書にこだわっているなら、きっとグランドマスターの境地に触れることはできないから。

これから私が学ぶのは、技術ではなく、グランドマスターのマインドだと思っている。無理やりだが、後に続く者たちも、このマインド、大事にしてほしい。

最悪状況「腕を取られた状態」から始まる護身術を王道技法とするな

とにかく敵に近づかれないこと。これは、よくある護身術の、「脅威に近づかないこと」を言っているのではありません。近づかせないでつかまれない、はがいじめにされない具体的な技術のことを言っているのです。

この技術を徹底的に磨くならば、敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎです。それは近づかせない技術がなく、かつ、護身術とはつかまれてから対処する技術、という思い込みを持っているからです。

危うきに近づかず、といっておきながら、転掌における近づかせない技術、やり過ごす技術を紹介すると、つかまれたらどうする、と反論してきます。近づかず、じゃないのか。結局、術を習いたいんですね。巧みに敵をさばき、「?」と相手に思わせてから逃げる。このスタイルに洗脳されているのです。

護身術教室は、師範の修めた、相手に抗する、相手に積極的にまじわる技術が基礎となっています。それらは皆、男性使用前提の武術ばかりです。それを少しカスタマイズしただけだから、あのような形に皆なるのです。転掌はまったくちがいます。使う人間が、非力な人間という設定です。弱者使用前提が徹底されているのです。だからつかまれる寸前まで「回避離脱」の可能性を残す技術体系を持っているのです。

つかまれたら終わりだ、という厳しい現実をしっているので、そのような体系をもっているのです。

何度も言います・・・敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎ、をあたまに入れておいてください。この事態をさける技術を習うことが、弱者の習得する護身術の再興の到達点となるのです。

相手が近づいてきたら、すぐさま間隔を空けます。何を言ってもわめいていても、構わず間隔を空けます。そしてそののち、一気に斜め後方スライドで間隔の距離を広げます。

「だけど!手をつかまれたらどうするんだ!」。これは実際に言われた言葉です。

転掌では、とにかくつかまることがないように、徹底して斜め後方スライドを練り、洗練させ、急速スライドを可能にすること目指すのです。ひとりで練習する護身術です。練習相手はいません。練習相手もいなくて成功確率もあげることができない振り払い・先制攻撃の護身術に、なぜ限られた時間を費やすのでしょうか。

それは、現在の動画投稿サイトに大量に存在する、「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画に影響され過ぎているからです。皆さんは、「護身術」き聞いたら、真っ先に「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画を思いだしますよね。それは、すでにあなたの頭の中が、そのように洗脳されているからなのです。

昔日の弱者の護身術の大基本は、「とにかく間合いをあけること」でした。庶民に、武術を練習する時間も、機会も、そして許可もありませんでした。そして襲撃者は屈強であり、かつすでに何らかの危害を加えるつもりでつかみにきているのです。つかむならまだいい。実際、刃物襲撃者は、何も言わずにいきなり刺してきます。

眼の前で止まって、振り回す。しません。

目の前で止まって、スキを見つけてから刺してくる。様子など見ません。

とにかく刺してくるのです。ですから、視界を広く見る練習を日頃から行い、そこでつちかった「遠目」の技法で接近者を察知し、接近者の反対側へ斜め後方スライドします。その技術を、とにかく養うのです。その技術を習得すると、つかまれる本当に寸前まで、離脱回避のチャンスを創り出すことができるようになります。

その技法こそが、護身成功を高める技術なのです。忘れましたか。転掌は、徹底した「弱者使用前提」の武術。強者に対し、つかまれた後に巧妙な技法が通用しないことなど百も承知です。もし強者相手に、華麗に絡めとったり転ばしたりする技法で転掌が構成されていたら、軍事・武術の知識も経験もある王族集団からダメだしをされ、宮中内護衛武術になど採用されなかったでしょう。

柔道や合気道で、力任せの攻撃をされたことのある女性や子供であれば、すぐにわかるはずです。私ですら、体格のいい男性には、腕を取る系の技を決める自信がないのです。それは、何度も失敗し、力任せの攻撃にねじ伏せられた経験があったから。相手次第だから。相手の事情は、その都度変わるもの。そのようないきあたりばったりの極まて不確定な要素に、私は常に不安を感じていたのです。

転掌にも、つかまれた後や、押し倒された後の対処法が存在します。転掌は、やるかやられるかの熾烈な歴史を繰り返してきた中国大陸の武術です。つかまれる、倒されるなどのわが命存亡の危機に、手を払う、崩して逃げるなどの活人的対処法はありません。油断した相手の命を一気に奪うことで、その絶対的危機を逃れます(転掌では、その技法を実現するための下準備を、初歩より行う)。

しかしそれは最終手段であり、庶民や身分の低い者などのような命をかけて戦う経験の乏しい庶民には、心理的に実行しにくいことを創始者も知っていた。だから、絶対的危機におちいらせないための、つかまれるかつかまれないかの分かれ目まで回避行動が可能な移動護身技術を開発したのです。相手を殺傷することにためらいのある庶民でも、これならば命がかかれば無我夢中でも実行できます。

昨今の護身術動画では、つかまれているシーンから物事がスタートしていると、先ほど言いました。あのような動画は、護身術対処法の定番の「型」を私たちの頭に植え付けてしまっています。あのような対処法が最も優れたものであり、最も合理的で、かつ護身成功確率も高い、と。指導者が武術の達人であったり、警察・軍隊出身者で実戦経験も豊富、などと書いてあったりすると、なお疑うことなく信じてしまいます(だから多くの武術家は、軍隊や警察での指導を、たとえそれが数日であってもアピールする)。

転掌の自分護衛術を紹介すると、学習者は必ず敵に手をつかまれた後の対処法を求めます。「つかまれてしまうまでが勝負だから、その練習(つかまらない練習)をとにかく繰り返してください」と言うと、多くの者(特に男性)は次から来ることがなくなります。

男性もしくは襲撃者の接近に、もっと過敏になるべきでしょう。それは海外では当たり前です。

海外では、女性や弱者を狙った犯罪がとにかく多いです。しかし海外では、流麗華麗な「つかまれたあとの護身術」は普及していません。あくまで、武術等に興味のある女性が、たしなむ程度です。

それは海外でも、「敵の手を巧妙な技で外して逃げる」のような護身術を潜在的に「役に立たない非現実的な技法」と考えているからです。海外での護身術の弱者護身術のスタンダードは、とにかく「近づけさせないこと」。銃で威嚇するのは、その典型例です。近づいた人間には、容赦ない発砲が待っています。海外(特にアメリカ都市部)の女性は、見知らぬ人間に関しては、男性はもちろんのこと、女性ですら近づけさせません。

その疑念の対象は、当然親族にも及びます。夫婦間でも、その中が険悪となれば、たちまち近づけさせない対象になるのです(アメリカにおいて夫によって命を奪われる妻の数は、本当に多い)。

本当に襲うつもりの男性は、何も言わず、グッと近づいてきます。転掌の移動練習では、頭を固定させ、広い目で周囲を見る能力をやしないます。それは、視界の端にいる人間でも、近づいてきたことが分かるようにするためです。視界の端から中心点(自分)に分け入ってきた敵に、無意識レベルで身体を入れて回避行動をする練習を、後述の推掌転掌式や、単換掌で繰り返し練ります。

とにかく、近づけさせない練習を、日頃から徹底すること。こちらに来ることが分かったら、少しでも速く、その場から機動し軌道を変え、敵を離します。近づけさせてしまっても、触られる程度なら、回避の可能性はまだ十分残っています。触られない状態ならば、日頃繰り返しの練習の中でつちかった、洗練された斜め後方スライドと虚打けん制で、十分間隔を作り出すことができます。

頭の中から、たくさんの動画で見られる鮮やかな振り払い系護身技術を追い払うこと。すくなくとも、あれがスタンダードだ、という思い込みを手放すこと。

もしあなたが、何かしらの理由でこれらの技術を欲するならば、習うのは意義あることでしょう。一般人レベルが習う護身術に、何十年もかける人間はいません。短期習得が求められます。それは昔日の農民徴収兵に指導をするのとよく似ています。

生存の可能性を生み出すための最も早い手段を実行すること。転掌は、その指導対象が、武術ど素人の宦官・宮女であり、最低限の一定時間生存術の短期習得を宿命づけられた武術。その時代背景・成立背景もかんがみ、私は女性護身術に、転掌の一定時間生存術を自信をもってすすめるのです。

どん底から再起を期すには

新年度と、9月の前は、いつもさけぶ。

どん底があり、右も左も分からぬ、どうにもならない辛い時がある。そのようなときがあっても、生きているならば、生きていてほしいということを。

自分は、どうにもならない時を、何度も経験した。辛い時に、優劣はつけられない。公に言うことができる辛い時とは、大切な伴侶を失い、それゆえに働くことができなくなり、家を失い、寒い北陸の冬に、車を宿にしてさまよっていた時だ。

体調を崩し、帰る家もなく、使う金はすべて借金になっていく状態である。練習しても練習しても、何の反応もない、訳の分からない転掌のての字もしらない連中に笑われ、それでも練習だけは、していた時だ。

門弟でもある子らに頼ることは決してできない。彼女らにも生活がある。出口が見えない状況の中で、しばらく何も考えることはできなかった。

ただ惰性で、ひたすら単換掌と、単換刀ばかりをひたすら繰り返していた。本当に惰性だった。何も考えていなかった。考えて集中してやらないと意味ない、と言われるが、本当に、何も考えないでひたすら繰り返していた。

何も考えなくても、辛いことや、想い出なんかがあふれてきて、とにかく感情が上下する。涙が止まらなくなって、その場にうずくまることもしょっちゅうであった。それでも、涙も鼻水もぬぐわず、ただやり続けた。

拳法まで失った時、私はもはや私でない、人生に意味がないと、思っていたからだ。それは今でもそうである。

この、ただ惰性でやっていた期間は、単なる自己満足や、義務感だけで動いていた時間だったのだろうか。何度となくこのような時を経験して、その、惰性で繰り返していた期間は、実は大きな発見をするときであった。

少し残念な話になるが、その惰性で繰り返していた時に、発見をしたのではない。その後、その繰り返していた期間の積み重ねが、底から湧き上がるような見えない土台となって、実はステージを少し上げていて、ある時フッと、気づくのである。

それがいつ来るかは分からない。しかし拳法・武術に関して言えることは、何も考えないで繰り返している時ですら、高みに達するうえでの無駄な時間にならない、ということである。住処をうしなうまで追い込まれても、転掌の道を求めてきた私である。この挫折と苦闘の経験は、きっと今、取り返すための戦いを決意したが、追い込まれている諸氏に役立つ。

とにかく、繰り返すことである。頭の中に敵を想定し、何度も繰り返しさばいて、穿掌を打ち込んでやればいい。

あとに引けないのなら、後に引かなければいい。後に引かない道中は、半端ないくらいに辛いもの。でも、後に引いたって、まっているのは悲惨な、今までと同じ道である。

なんで自分だけが?何か悪いことでもしたのですか?と、すがるように天にむかって手を合わせたこともある。でも、きっと、それは自分の信念に従って進んでいるからなんだよね。信念を早々に見切り、何も考えず流され、安心のために理念に目をつむり練習もせず・・・君、あなたであれば、言われるがままに日々を過ごしていたら、その場ですら未知の世界よりも居心地がよいものと感じる(何が起こるかある程度予想できるから)のだから、苦しみもひどく感じたりしない。

現状を変えたいと思って立ち上がったなら、そこにまっているものはとっても辛いことばかりかもしれない。しかし!

みずから手をかけなければ、君は命を失うことはない。もっとも最悪な状況にはならないのだから。だから、ふらふらになりながらも生きている自分をよそからみているようにみつめつつ、進んでみるといい。

ただ繰り返していけばいい。これは、達人を志す愛好家らにも言えることだ。いい条件なんて、いい先生なんて、そんなもの自分次第でなんとでもなるのだから。

誰も助けてくれない。命の電話にかけても、こちらの話をただ、聞いてくれるだけである。もちろん、聞いてくれる環境があるのは貴重なことだ。しかしそれでは救われない場合もある。

どん底に陥っている時に、「行動せよ」は正直辛い。私も、そのようなことが書いてある記事は、シャットダウンしたし、見もしなかった。その状況の中で、大きな動作を必要としない何かを、ただ惰性でやり続けていく。私は単換掌だったし、筆頭門弟には単換刀だったし、三番弟子には双身槍であった。

拳法以外でももちろんいいんだよ。絵を描いたり、ガンプラ作ったり。ただひたすら浜辺にてルアーを投げる釣り人を見て、その繰り返しの行動から自分も浜辺に立って、来る日も来る日もルアーを投げ続けていたこともあったし。時折釣れるヒラメやスズキが心を癒し、描いた絵が傑作だと自分で感じ・・・それでいいんだよ。拳法でなければいけない、というならば、それはひどく窮屈な話。

あなたが、君が、今何も考えないでもできるものってなんだろうか。きっとそれは、あなたが、君が、最も得意とするもの、好きなもの。下手でもいいんだよ、最も得意なもの、好きなものを繰り返してごらん。拳法に関係なくてもいい。

実は自分はひたすらどん底の時期に単換掌ばかりを繰り返して、状況がどんどん悪化していった。しかしそれは世間一般の判断基準から見た結果。自分の中では、自分と向き合っている安心感みたいなものに安心していた。

そのような紆余曲折が、きっとあなたのステージを、見えない形で上げる。そう信じて欲しい。私は何度もそうして、それがステージを上げたことで、今こうして、むきあっていられる。実は、それこそが、「強さ」なんだ。自分の芯であり、自分そのものなんだ。君の心の奥底であり、君そのものだ。だから、惰性で繰り返すものは、拳法に関係するものでなくてもいいんだよ。

私自身、突き抜けて成功を収めている立場、ではない。君とおんなじ。明日をも知れぬ身だ。だから、ともに、何も考えないでもやれること、何も考えずやっていこう。

2025年末には達成されているから、皆に、ありがとう。

ウーマン・ライト・ガードの未来に担う、女性警護人候補に、たくさん出逢い、成長していく姿を目の当たりにしている。大和町広場においえて駆け回る将来の達人らを頼もしく見守っている。

水式館の本拠地・北陸の冬にあわせて、スバルのフォレスターに乗っている。ワゴンRはセカンドカーとして、水式館の掌継人らの足として活躍をし続けている。

電子書籍・ペーパーバッグ版の『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』が、英語・中国語・ヒンディー語で出版されている

転掌・転掌式八卦掌の海外サイトが完成しており、日本国内のアクセスをはるかに上回るアクセスが得られ、大きな反響を得る。転掌の世界における知名度が2024年のそれをはるかに上回り、海外において真の護衛術を求める修行者らが、金沢を訪れることを憧れとする。

『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』の高い評価より、当然のごとく商業出版の流れとなり、内容を変えないままの、転掌自分護衛術の解説本が全国の書店に並び、多くの護衛術を必要とする者がそれを手に取り自信を得て将来に希望をもち立ち上がっている。

北陸地方における警備会社への指導のグランドスラムをさっさと達成しており、警備会社のみならず、指導の場が、銀行・病院・その他の事業所に及び、北陸地方における、プロの護衛術指導機関として、その名をとどろかせている。

海外から、転掌・転掌式八卦掌のインストラクター希望者が金沢を訪れ、真摯に習って、それがものになっていく姿を見て、世界への広がりを実感している。

入身法(Rushenfa)の完成がなされており、緊急窮迫の事態においても、わずかな入り身のみで多人数の襲撃を処し、対多人数移動遊撃戦連続20分を、真夏に達成して、笑いながら戦っている自分となっている。

転掌のグランド・マスターとして、転掌の本格的な執筆を始動させ、執筆し続けている。

北陸金沢本館のメドがたち、北陸金沢を任せる後継者の候補を渇望し始めている。

第五日曜日に、各地で行う講習会は、常に定員がいっぱいとなり、そこで学んだものは、革新的な東洋人専用の技術体系に感動を受け、転掌門を叩く。

日本全国から、指導員候補生が入れ代わり立ち代わり金沢を訪れるため、温泉付き宿泊施設の確保を考え始め、めぼしい施設と交渉をしている。

楊家連身藤牌の基本型の統一と整理がなされ、日本国内で、清朝緑営藤牌兵営直系の転掌式藤牌術が伝わる。

これらはすべて、列挙しながら明確にイメージすることができるものである。イメージしながら、苦笑する自分を体験し、フォレスターの新車のにおいを感じ、北陸新幹線の滑るような走り出しを実感する。イメージしている最中の感覚はあまりにリアルであり、嬉しくて涙すら出る時もある。

このことから、来年の今日に、これらは当たり前になっている。実現される過程の中で、協力してくれた諸氏に、この場を借りて、心から感謝しておく。これから先も、水式館の理念の実現のため、多くの人の屈託のない幸せのため、力を貸し続けて欲しい。

心から、ありがとう。

強くなりたいのか。有名先生のお知り合いになりたいのか。

日本語版での出版が終了し、次の段階へと進む。

英語版に修正しながら、日本語版の原稿を変えていく。英訳は、必ず自分でおこなう。伝えたいことが、専門的過ぎるし、すべてをチェックできない。完璧でなくてもいい、今から進める。英語版の出版である。

今回の出版内容は、完全ではない。

しかし言いたい。

「完了」は「完璧」に勝る。これは私の信念の一つである。

とにかく転掌を世に出すことで、転掌のステージが、また一つ上がったのである。これで一層、世界に広がっていくのだ。世界各地にいる天才らは、日本語であっても、何の問題もなく、あらゆる手段を駆使して、それを読み、インスピレーションを受けるのだ。

私の周りにには、転掌を修めていて、かつ英語がネイティブな門弟はいない。いないなら、自ら引き寄せるのみである。金沢で、いや、日本で、「転掌」てんしょう!などと叫んでいても仕方ない。

これだけ技術を磨き、洗練させ、核心に迫る革新的な内容を紹介しても、自分のプロフィールばかり見て、そこから離脱しいなくなる。有名先生に就いてない自分が気にくわないか?はっきり言う、実戦で強くなりたいのか?それとも、有名先生のお知り合いになりたいのか?

海外からの閲覧ユーザーと、日本国内の閲覧ユーザーは、見る所があきらかに違う。日本国内のは、プロフィールと梁派八卦掌解説ぺージ。海外のは、転掌と最低限で仕上げる護身術だ。

海外のは、実行と実用に重きを置いている。海外のは、私のプロフィールなんて見ない。大好きだ。愛してる。君たちこそ、大切な人を守り、自分を守ることができる存在だ。日本の愛好家をあっと言う間に追い越し、さっさと転掌のマスターとなるだろう。

必要としている人の元に、必要なものを、誠心誠意、最大限の労力を費やして、届ける。それこそが、世界に転掌を広げ、転掌を再興させる董海川師の生まれ変わりたる自分の使命だ。

董海川先生の生まれ変わりだと?と笑う人間の中で、成立当時の姿が現行八卦掌と違うのでは?と想定した人間はどれくらいいるか?何の疑問も持たず、八卦掌は八卦掌のまま成立当時から、このままのスタイルと型で推移してきたと思ったのではないか?

私は、中学生の時に佐藤先生の本を読んだ時に、すでに直感を感じた。この戦い方を宦官が実行し得るのか?佐藤先生の本には、董海川先生が宦官だったことについて言及してなかったが、清朝粛親王府で、出自の不明な男性が奉仕している=「董海川先生は宦官」はすぐに分かった。中国兵法や三国志を読んでいた経験も、その直感を助けた。

この戦い方をしたら、かえって不利ではないか?ひどく技巧的な拳法だと、感じた。きっと本では分からない何かがあって、それが宦官であってもこの戦い方を可能にしていると感じたのだ。だから中学生にして、無理やり行動して関東まで習いに行ったのである。

そこからは奇跡の連続であった。斜め後方スライドの単換掌・双換掌から、大きな感動を受け、感動を受け一生をかける覚悟をした直後に指導を受けられなくなり、そこからは自分で術理を後追いしていく日々が始まった。

董先生は、諸国漫遊の旅の中で、「異人」より技術を授けられ、転掌を創り出した、と語られている。中国で「異人」とは、おおよそ「外国人」を指す。中央アジア、東南アジア、モンゴル、ロシア・・・西洋、そして日本。この革新的な技法は、西洋人がもたらしたものとは考えにくい。身体柔弱な東洋人によるものだと考えている。「異人」が日本人であった可能性も、決してゼロではないのだ。

私は、中学の時の熾烈な経験から、強者化を強いる既存武術に心が向かなかった。楊師より転掌を習った時、電撃が走った。これだ、これなんだ、おねがいだ、東京に定期に連れてってくれ、そう頼んで、一生懸命練習した。

楊師は、私にとって、「異人」そのものであった。私は時折、董海川先生の人生を追体験しているかのような感覚を受ける。時折夢の中で、大声で叫びながら、大平原を、棒を持って走り回っている夢を見る。何度もだ。あの夢は、太平天国軍の盾持ち雑兵の自分なのだろうか。

生まれ変わり、やら、過去生やら、色んなものがあり、ともすれば直ちに批判されそうなものだが、侮ってはいけないとも思う。転掌の修行の過程で生じたこれらの奇跡を、単なる偶然と、とても片付けられないのが大きな理由である。

こんな奇跡的な巡り合わせによってここまで来た自分である。日本国内で、最低限の生活をすることを目指して、月々数千円の月謝を出し惜しみする武術愛好家らの反応に一喜一憂するなどうんざりである。

強くなることより、肩書やらステイタスやらに興味のある人間の顔色をうかがうなど、まっぴらである。youtubeは、派手派手しいデモンストレーション動画を見て、行動せず結果的に毎回暇つぶしをする人間のたまり場であることも分かった。

必要とする場所に届ける。必要とする環境を求める。

軍師門弟は毎回、金沢の浜にて、私に問いかける。

「見てごらん、このペットボトル、中国語。あれは・・・ハングルね。あれも・・・・中国語。ここはもう、日本じゃない。事実、先生の発信しているものは、先行して海を渡っている。これを感じてもらいたかった。遠州灘や、倉敷では、これは感じられない。」

動き続ける。外注に出すお金がない?前に進めば、きっとその機会はある。まずできることから始めよ。今すぐにだ。このブログも、行動の一つである。董海川師の生まれ変わり、の宣言である。

そうしているうちに、海外から、有能な志をもった門弟が私の元に来て就き、私の代わりとなって世界のあちらこちらで転掌を広げてくれる。転掌の術理を訳してくれる。間もなくこの試みも、実現される。もう動いているからだ。

今この瞬間、そしてこれから、世界各地に居る、志のあるものよ、天才たちよ。今という時に、転掌に価値を見いだした、突然変異の天才たちよ。疑うことなく、200年前の天才が創ったものを追体験せよ。私は、その天才の意図を、残された技を通して、感じた者。現世に復活させたる者なり。

その技法を感じ、盗み、採り入れ、己の既存のものと融合させ、己の真実を新たに創り出し発展させ、己の描く想いを遂げよ。「身の程」なんてものは知る必要のないものだ。とどまるな、自分の心の命じるままに、その道を進め。

警備員指導科での指導は、服で戦う技術があるから可能

服で戦う。よく時代劇で、布や手拭いで対抗するシーンがある。

確かインドネシア辺りでは、布で戦う武術もあるようだ。あれがしばらく、どうしても実行できなかった。モノで戦うことの最後の砦が、服で戦うことだった。

しかしそれも、転掌をマスターしたら実行できるようになった。奥が深く、その方法を悟ってからすでに10年以上が過ぎているが、いまだに上達の余地がある。楽しみである。

さて、どのように戦えばよいのか、どのようにすれば、服でも戦うことができるようになるのか。それは、身体の移動に追随させることである。身体の移動の後を、ついて来させるのである。

服が先行しては、うまく扱うことが出来ない。コシやハリが当然のごとく、全く無いからである。前方向への攻撃を、全くできないわけではないが、服を使っての突き技は、コシ・ハリの無さから有効ではない。サッと出して敵の顔にかぶせてしまうなどは、有効ではあるが。

転掌では、その練習をすでにしていた。答えはすでに、37年前に、楊師より教えてもらっていたのだ。考えてみれば、楊師は、作業着っぽい上着で、何度も何度も刀術を指導してくださった。あれは実は大きなヒントだったのだ。

その時、最も多く見た技は、服を持っての翻身拍打→上翻サイ刀→服を持っての翻身拍打→按刀、であった。翻身拍打で、外方向斜め後ろから迫る敵にけん制の斬撃をし、その服を背負い投げのように背負いながら上斬し、すかさず持ち替え再び前敵に翻身拍打による斬撃、そして離脱しながら按刀、である。

2番目の翻身拍打による斬は、前敵に対するものであるが、移動を止めないことによって服自体に慣性がかかっているため、振り回す服に芯が入り勢いを保ちながら斬撃できるのである。これは、200センチ程度の長い棒を振りまわす遊身大刀の術理に同じである。

自分は、そこまで考えていなかった。言い換えるならば、その動きの中に、転掌の術理を見い出すことができなかった。その時すでに、楊師より数年マンツーマンで習っていたはずだったが、分からなかった。ただ、楊師の服のチャック部分が当たるのが怖くて、半分聞いてなかったのかもしれない。でもそれは言い訳。やはりまだ、転掌について、何もわかっていなかったのだ。

先ほどの技の例を読んで、ある程度水式館で習った人間ならわかるであろう。そうである。服の扱い方を有効にするヒントは、「刀裏背走理」なのである。刀裏背走理を用いるとは、どういうことか。

つまり服を、身体移動で引っ張る、背負う感じで大きく振り回すことだ。その振り回した服が、敵の手に絡めば、十分相手を引っ張り崩す力となる。先ほど言った、振り回す服に帯びた遠心力が、服についているチャックを、凶器に変えることもある。

刀裏背走理による術理で服の武器化を維持するためには、とにかく自分が止まらないことが重要だ。止まらないことで、服自身が、自分と一緒についてきてくれる。出した手(服)の方向の、反対側へ、例えば揺身法を用いて身体を移動させ、伸びきった服を、自分で背負いながら移動していく。追随する服には、移動による慣性の力が宿り、重さを増し、それが敵の手や身体に絡んだりすると、武器を落としたり、敵の態勢を崩したり、敵の眼をくらますことにつながる。

上翻サイ刀によって服を背負うようにして前に進んでいく動きは、楊家連身藤牌における「甲下走牌(こうげそうはい)」に似ている。連身藤牌には、自分の外側に迫った敵に、藤牌を手刀のように出し、反対側へ揺身法で急速移動しながら藤牌を背負って、転身しながら反対側もしくは襲ってきた敵に小旋回して再び振り下ろす、という用法を持った「甲下走牌」がある。この動きが、服を使った戦いのヒントになった。

そのことを思い出し、今朝、暗闇の大和町広場で、黙々と連身藤牌を練習していた。子供たちにもそのことを教えたら、「そんなのわかっていたよ」とのこと。考えてみれば、服で戦う技術に関しては、この子たちはかなり早くからできるようになっていた。一番弟子でもあるこの子は、目的をもって制服で練習していたが、その時来ていた学校のコートを、走りながら脱いで振り回す練習をしていた。学校指定の高額コートゆえ、面食らったものだったが、そのような試みが、彼女に術理の気づきを与えたのかもしれない。

刀裏背走理を学習したことがある門弟の方は、是非とも自分の着ている服で試してみるといい。刀裏背走理の実用性の高さを実感できるはずである。どうせなら、緒戦では着たままにして、移動しながら脱いでそのまま振り回す、などもやってみるとよい。

昔日の転掌では、宦官や宮女は武器を表立って携帯することを許されていなかったため、移動しながら引き出す練習をしていた。それはウーマン・ライト・ガードでも必ず練習してもらう。身分の高い女官は、頭に忍ばせてある丈夫なかんざしを有事にすぐ引き抜き、双匕首のようにして使ったとのことである。ほとんど暗殺技である。

身体移動で引っ張って、その去り打ちの軌道で、前に突出してきた敵の身体部位を、出会いがしらに斬る。服にも使うことができる、その戦闘法に気づいていた草創期の門弟らは、大したものである。

特殊警棒を持つことができないことについて、マイナスの反応をする警備員もいる。しかし、日本のサムライのように、腰に差してすぐに引き抜くことができる状態で携帯してない限り、警棒について有効性は?だと思っている。

私が以前勤めていた、野生動物が最大の脅威であった勤務地では、特殊警棒よりも、常に手に持っているシャッターフック棒の方が頼りだった。シャッターフック棒は120センチの樫材によるものを使用していた。そしてそれと同じ長さの樫材棒で、日頃から練習をしていた。

このようにすれば、引き出す手間がかからない。最も危険な襲撃の際は、3メートル以上あった距離を、わずか2秒で詰められ、身体を入れて流し払い逃げをし続けることだけしかできなかった。特殊警棒で対応していたら、引き抜くことすらできなかったであろう。

実戦的とは、こういうことである。組手で顔面ありを行っていることが、その道場の実戦性を必ずしも示しているのではない。リアルな戦いの現実を知り、「その時」が来たとき、練習でつちかった動きを実行するために、事前準備をするか、である。

だから転掌には、槍術に、扎のような、滑らせる技法がないのである。そこらにある棒の表面は凸凹で傷だらけ、手袋でもつけてない限り、あの技法は実行できない。転掌に伝わる双身槍が持ち替える技術ばかりなのは、そのためである。ここまで想定して、「実戦的」だと宣言できる。

服で戦うことは、棒など持ち歩くことができない人に、大きな希望となる。服ならば、高い確率で持っている(着ている)し、いつでも携帯し得る武器?となるだろう。

一番弟子は、万が一の時制服の上着を脱いで振り回すため(セーラー服だったので、ブレザー制服のような上着がなかった)に、下にかならずTシャツを着ていた。そこまで考えていた。彼女の発想は、警備や警察の仕事に就いている人間に大きなヒントをもたらすだろう。そこまで考えて職務に臨んでいる職員がどれだけいるだろうか。

警察官には、やはりどうして特権意識が見え隠れする。そして武術を学ぶことに懐疑的である。「おまわりさんもどうですか、柔道をやっていたのは、もうかなり昔のことでしょう?」と言っても、「何を言っているか、いまさら」程度の反応を何度もされた。

警察官も転掌を学ぶとよい。柔道技で足を引っかけ、倒して制圧するだけが「取り押さえる」のではないのだ。警察官は、持っている拳銃と国家権力(公務執行妨害による現行犯逮捕や緊急逮捕権限)により、すでに一般人を大きくしのぐ強みがある。あとは攻撃を受けないための身法だけである。彼らこそ、「当たらないこと・斬られないこと」に注意を払わなければならない。

有事の際、一般人をまもるのはあなたたちなのだから。最後の砦なのだから。警察学校で学んだ時の身体で戦うことはできない。今その時の身体で対処するしかないのである。であるならば、今この瞬間に、その身体に、身をかわし、持ち得る道具で対処しうる身法を身につけようではないか。

真に身を守る技術とは、護身グッズを扱う技術ではない。身体を即座に動かし間をとり、逃げる余裕、けん制攻撃をする余裕、護身グッズを使う余裕、身の周りのものを使う余裕を生み出す技術である。それには、移動技術が必要である。移動技術は、転掌などの、昔日の武術で学ぶことができる。

八卦掌水式門富山本科イメージ

北陸本科開講と、『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』発刊

12月8日(日)、八卦掌原型護衛武術・転掌の本邦初の解説本が、八卦掌水式館よりアマゾン電子書籍にて発刊されます。

※間もなく、ペーパーバッグ版も発刊されます。値段もさほど変わらないため、紙書籍を希望する方はもう少しお待ちください。

同日10時より、北陸金沢にて、転掌と転掌式八卦掌を伝えるための科である「北陸本科」が開講します。

『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』販売リンク

北陸本科

八卦掌水式館となってから、多くの「スタート」を経験しました。今日はその大きな節目となります。この日に合わせて、多くの行動をしてきました。

次は、紙版での書籍の発行と、商業出版です。どんどん進んでいきます。止まる理由など、一切ないですから。

今回出版の書籍のタイトルは『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術~西洋格闘術でない東洋人専用護衛術による自分護衛術』です。

内容は、転掌の転掌の修行段階たる3つの段階のうち、一段階目の『対多人数想定移動遊撃戦による自分護衛』の段階についての解説となります。

『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』販売リンク|https://amzn.to/3ZtuFtp

「独学で護身術の基本を習いたい」
「護衛術に興味がある」
「八卦掌水式館の伝える転掌とはどんなものか見てみたい」

武術に興味を持たれる方の動機は様々です。しかし本書は、指導経験を活かして、すべての面で私が書き下ろした内容の為、自分護衛の基礎を築くうえで本格的な内容となっており、初学者には自信をもっておすすめする解説書となっています。

北陸地方にお住まいの方は、北陸にて指導活動をし始めた今こそが最大のチャンスとなります。くしくも、本日12月8日の日曜日より、金沢市にて、転掌・転掌式八卦掌指導の「北陸本科」の指導がスタートします。人が増えてからよりも、人が少ない今だからこそ、上達速度も格段にあがるものです。

本書にて護衛術・転掌に興味を持たれたのならば、水式館の門を叩いて、転掌の深奥に触れてみてください。行動こそが、未来を変えます。

迷うのもいい。迷うというのは、まだ気持ちが固まっていないこと。しかし、あれこれ考えても何もならない。飛び込んでみることです。

行動しないのは、すべて自分にかかってくる。自分の直感を信じ、行動した者は、今まさに飛躍的に実力を上げ、自分から一本取るくらいにまで成長しています。

いまは人も少ない。私に直接指導を受ける絶好の機会です。いま始めると、将来、あなたは伝説の直弟子になるでしょう。続いてください。

『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛術』販売リンク

北陸本科

『北陸本科|清朝護衛官吏武術「転掌」による護衛術』開講

今週末(12月8日・日曜日)、八卦掌水式館は、北陸本科を始動させます。

伝承内容は、清朝粛親王府宦官・董海川先生が創始した、八卦掌原型の護衛武術「転掌」です。

ブログを読んでいる人にお伝えしたいのは、水式館の伝承武術が、護身術や格闘技でない点です。人を守るための武術であり、清朝護衛官の武術であった、という点です。

護衛武術は、試合に勝つための格闘技ではありません。格闘技が強いから護衛力がある、の式は成り立ちません。逆もそうです。護衛力があるから格闘技が強い、のではありません。

両者は別物の体系である、ということです。護衛術と格闘術は別、ということです。武道を教えていて、生活のために、そのまま護身術も教える、というパターンがおおいのですが、両者は別体系のものであり、ついでに教える、ということは、難しいものです。

体系を根本から換えたうえで、初めて指導できるものだと考えています。館長は、常にそれを考えていました。私たち女性が使うことができる体系を作ることを考えていました。

両者の体系のあまりの違いゆえ、私は館長に、護衛術としての指導を提案いたしました。もはや格闘術と護身術は相いれない体系である故、一時しぼってみてはいかがか、と。本拠地の移転すら提案したのですが、館長はこれを受け入れ、今回の本拠地の移転となったのです。

私は館長から、現代の八卦掌というものを習っておりませんので偉そうなことは言えないのですが、先輩諸氏の動きを見るに、私のようのな年も低く経験もない者には、あのような高等な技術は使いこなす自信はありません。

初心者向け、というわけではないのですが、乱世当時の武術ゆえすぐに使うことができる体系のため、結果的に、初心者でもすぐに結果を出しやすくなっております。

護衛術に興味のある方は、水式館の本科、もしくは女性警護人養成の、ウーマン・ライト・ガードに参加してみてください。

北陸本科の詳細はこちらから。

ウーマン・ライト・ガードの詳細はこちらから。

ウーマン・ライト・ガード|指導員候補生募集開始。始動!

ウーマン・ライト・ガードは、指導員候補生の募集を開始します。いよいよ始動します。

詳細は、ウーマン・ライト・ガードのサイトにてご確認ください。

ウーマン・ライト・ガードは、国内で初の、身体柔弱東洋人向け護衛術をマスターした、女性警護人を養成する専門教育機関である。

その基盤は、成立過程なれど、多くの希望を見て、手ごたえを感じている。

興味のある方は多いと感じていた。なぜなら、女性にとって、ボディーガードを依頼することは、大変敷居の高いものであるからだと、一番弟子や筆頭弟子から聞いていたから。

理由の一番は・・・やはりボディーガードが、男性であること。こればかりは、女性の立場で考えてみないと分からなかった。

国内には、少なからず女性の警護人がいる。警察にも、皇宮護衛官にも、女性の護衛官・SPはいる。しかし、女性警護人の本音は、男性に対する力不足の実感と、不安であった。

教場で始動されている護衛術を学んでも、それらはほぼ、男性使用前提である。そもそも、軍隊格闘術などは、一般的な男性使用前提武術を元に考案されているのだから、仕方ないのだ。出発点が、もう女性の習得を考慮していないのである。

軍隊格闘術などは、シラットなど、聞き映えのする武術・格闘術がもとになっている。しかしいくらそれらがすごさを感じようと、しょせんは男性使用前提である。だれでもできますを売りにして、市内各所で指導しているのを見たことがあるが、女性や一般人向けに練習カリキュラムが大幅に変更されていて、これでは技術の向上が望みづらい。

挙句に、筋トレなどを要求されることもあるようだ。自分の一時通っていた柔道場と同じである。弱者が強者になることを前提とするカリキュラムは、男性向けのカリキュラムである。そして男性でも多くの者が脱落をする。女性が従来の武術のカリキュラムで行うことは、想定すらされていない。そして、指導者によって、きつくない練習に替えられ、中途半端になるのである。

女性が人を守るためには、弱者使用前提の武術を学ぶ必要がある。繰り返すが、弱者が強者になるためのカリキュラムでは、いつまでたっても女性は自信をもって要人・自分・自分の大切な人を警護し得る警護人になることはできない。

弱者が弱者として、身法をもって、強者の土俵を避けて対抗する武術でなければならない。

ここではっきりと言っておきたい。私はたまたま、弱者使用前提の武術に巡り会ったのではない。とにかく、弱者使用前提の武術が存在することを願って、常に探していた。

学生の時の拳法を始めたキッカケが原因で、とにかく弱者使用前提の武術にこだわったのだ。だから、指導するまで30年以上もかかったのだ。どこにいっても、強者使用前提の武術ばかりだから。指導許可まで得ていた梁派伝八卦掌も半ば放棄する感じで、転掌にとどまったのだ。

であるから、自信をもって、女性警護人を養成する機関を設立できるし、その資格がある、と確信している。

ライト・ガードのバナーには、一番弟子が描いてある。普段の服で練習するのが好きで、かつ、武器も、特定のものにこだわらない。得意は、双匕首(双短棒)であるが、なんでもこなす。

彼女は、ライト・ガードの最初を飾るにふさわしい。とにかく、練習をした。一番弟子の彼女と、筆頭門弟は、とにかく練習をした。日本海側の冬は、雨・雪ばかりであるが、どのような天候でも、私に追いつけ追い越せの勢いで練習をし続けた。

その彼女の継続の意欲を支えたのが、学んでいる武術「転掌」に対する信頼感である。彼女はいつも言っていた。

「本当に、よく考えられている。矛盾が感じられない。」

私もつくづく、そう感じていた。私は転掌(八卦掌)を超えるつもりであったが、その奥深さに白旗を上げた。いま再び、そのような野望を持ち始めたが、それは一生かかるだろう。

 

モノ言う警備員・倒れない警護人の養成をする決意

私は、警備員として、複数年、勤めていたことは、何度もブログ等で話したことがある。

多くの時間の中で、警備員第4号業務(身辺警護)の警備員教育指導者資格を持ち、業務経験もある方に会ったことがある。しかし、危機が迫った時、護衛すべき人を守ることができ得る警護人に会ったことはほとんどない。

そもそも運動不足である。毎日技術を磨いていないことが一目見てわかる。歩き方を見ていると、がに股であり、身体が居着いている。突然の襲撃に対応できない。

民間企業の警護人は、警察の警護人たるSPとは違う。彼らは危機を想定した訓練を重ね、かつ拳銃と防弾ベスト、護身道具で武装している。いざという時、襲撃者を射殺するなどの職務遂行上の特権を持っている。彼らの強みは、装備と国家権力なのである。

民間の警護人は、警棒を持つことができるのみだ。現行犯逮捕しか認められず、かつ、警棒で打つ箇所も、肩より下、などという無茶な規則に縛られている。多少取り押さえても、相手は抵抗できるならば、構わず押し込んでくる。こちらが警察官でないため、心理的制限が、相手に湧かないからである。

私も複数回「殴るんか?やってみろよ!」たぐいの挑発を受けたことがある。これが警察官ならば、そこまで相手も強気になってこない。この点が大変怖いのだ。民間警備員にとって、いざという時、頼るのは身法のみなのである。

第四号の身辺警護業務ならまだしも、施設警備員に、特殊警棒すら携帯することは認められていない。「肩より下の部分のみ」というくだらない制限すら、適用されない(関係ない)のだ。そもそも持ってはいけないからである。

そのような制限だらけの民間警護人・施設警備員であるからこそ、身体を磨き、技法の完成度を高め、いつでも動くことができる状態を作っておかなければならない。施設警備員の武器は、懐中電灯くらいである。身体移動で勝負するしかないのだ。

そんな危険な目に遭わない?そんなことない。施設警備員は、第4号業務身辺警護人より、はるかに危険な目に遭う確率が高い。もっとも、巡回をしっかりとしているならば、の話であるが。

夜の公園なんかが含まれていれば、そこに集会行為をする若者(ほぼ若者ばかりだった)がやってくる。集団でたむろう彼らに、「施錠するので、移動願います」といって、素直に移動してくれるのは、ほぼ50%程度だ。半分は、言っても動かない。複数回頼むと、恫喝してきたりする。それが怖くて、多くの警備員は、一回言ったら、後は見て見ぬふりをする。それでは意味がない。

施設が山などに面していれば、夜は野生動物が出没する。施設警備員は、暗闇を照らし、異常を察知するのが仕事だ。暗闇を照らせば、そこに潜んでいた野生動物(イノシシ・タヌキ・二ホンジカ・カモシカなど)が突然逃げ出す。逃げるならまだしも、こちらに向かってくることも、まれにある。私は、夜間の公園施設警備で、2年の内に三回も、イノシシの突進と対した。野生動物は、命がけなのだ。命を賭けてこちらに向かってくる。3メートル以上の距離を、わずか2秒たらずで縮めてアタックしてくる。そこらのペラペラしゃべってばかりの少年たちの脅威とは、訳が違う。逃げながら棒で叩いてかわすことしかできない。

警護は、海外(マレーシア)で経験がある。拳法を習っていた先生の屋敷の周りの警護である。先生が出かける時、身体の小さい自分は、後からついて最後の切り札的警護(ロー・プロファイル警護)をした。実戦となったのは、屋敷の警護である。邸宅の周辺をウロウロする野犬などは、日本と違って狂犬病を持っている可能性が極めて高い。現地では、野犬を駆除するのは責務なのである。最大の任務は、野犬の駆除であったと思われる。野犬の駆除は、日本でも経験した。

現地の警護人らは、日本のSPのような、カチッとしたものではなかった。サンダルを履いて警護していた同僚(修行者)もいた。無線なんて持たない。しかし襲撃者に対し、容赦ない反撃をするのだ。当然である、マレーシアは、民間人も、許可を得れば携帯小銃が所持できる(日本も許可制であるが、護身用ではだめで、狩猟用のみ)。手加減をすれば、自分が命を失うからだ。このような切迫感が、日本の警護人にはやはり足らない。そもそも、戦った経験のない警護人が圧倒的に多い。

民間警護人のクライアントで最も多いのが、地方公共団体の長や、大企業の役員らの警護だ。大切な仕事であるが、実戦に至ることはあまりないため、経験不足となるのは仕方ない。

海外では、命の危険が伴うから、試合のように敵に自ら向かって堂々と戦う、という美学がない。とにかく斬られないために後ろに下がりつつ、好機を見て反撃をして、可能ならばその場から離脱をしながら、仲間らと制圧する。これはまさに、転掌の戦い方である。転掌は、身体的に不利な者が、それであっても要人や自分を守るために考えられた武術である。

多くの民間警護人は、日々の練習すらしない。昔いくら柔道〇段、剣道〇段、空手〇段、であったとしても、今動くことが出来なければ、素人も同然である。これらの話は、日頃積み重ねていない者にとっては、耳の痛い話となろう。しかし逆の場合を考えてみて欲しい。毎日の練習を積み重ねていれば、身体はおのずと、自在に動かすことができるようになってくる。

先ほども言ったが、民間の警備員にとって、頼みの綱は、自在に動かすことができる身体なのである。護身グッズ会社では、見た目に強力そうな道具を売って、動画でもデモンストレーションし、大いに盛り上がっているが、動けなければ何を持っても同じである。いくら攻撃能力の高い護身具を持っていようが、敵の突進に対しその場から動くことが出来なければ、道具を使う暇もない。

転掌の技法の良いところは、身体さえ、敵のファーストコンタクトに対し、後方スライドできるならば、後は技法の成熟度にとらわれず、我が身を守ることができるところである。敵の突進に並走しながら、払い打ちをして、持久戦に持ち込み、しぶとく対するのである。当然である。何十年も練習しないと使うことができないものならば、清朝後宮で宦官・宮女らの使う護衛武術として採用されることはない。

ここで真の護衛法を学び、日々日常生活の中で練習してほしい。敵とぶつかる技法だと、勝ったり負けたりするため、いざという時に対する不安が残るものだ。私もそうだった。近代格闘術的八卦掌の指導許可を得たのちも、勝てるかどうか不安があった。だからいまだに、近代格闘術八卦掌たる、梁派伝八卦掌は指導しないのである。

転掌のマスターとなったのちは、自信をもって事態に対処してきた。いざとなっても、相手が屈強でも、負けない自信があったからだ。この自信を身につけると、警備員として、自信をもって集会行為等に対処できる。警護人として、自信をもってクライアントのお供ができる。

八卦掌水式館で、身体柔弱な東洋人でも護衛を果たすことができる東洋人専用護衛術を、基礎から学んでほしい。最初をしっかりとやっておくと、今後の皆さんの人生に役立つだろう。

2024年12月8日、金沢にて、北陸本科の第一回目の指導を開始する。その日、真の中国拳法を、金沢の人間に見せることになるだろう。北陸地方の方はこの機を逃さないで欲しい。