月別アーカイブ: 2024年11月

ウーマン・ライト・ガード|指導員候補生募集開始。始動!

ウーマン・ライト・ガードは、指導員候補生の募集を開始します。いよいよ始動します。

詳細は、ウーマン・ライト・ガードのサイトにてご確認ください。

ウーマン・ライト・ガードは、国内で初の、身体柔弱東洋人向け護衛術をマスターした、女性警護人を養成する専門教育機関である。

その基盤は、成立過程なれど、多くの希望を見て、手ごたえを感じている。

興味のある方は多いと感じていた。なぜなら、女性にとって、ボディーガードを依頼することは、大変敷居の高いものであるからだと、一番弟子や筆頭弟子から聞いていたから。

理由の一番は・・・やはりボディーガードが、男性であること。こればかりは、女性の立場で考えてみないと分からなかった。

国内には、少なからず女性の警護人がいる。警察にも、皇宮護衛官にも、女性の護衛官・SPはいる。しかし、女性警護人の本音は、男性に対する力不足の実感と、不安であった。

教場で始動されている護衛術を学んでも、それらはほぼ、男性使用前提である。そもそも、軍隊格闘術などは、一般的な男性使用前提武術を元に考案されているのだから、仕方ないのだ。出発点が、もう女性の習得を考慮していないのである。

軍隊格闘術などは、シラットなど、聞き映えのする武術・格闘術がもとになっている。しかしいくらそれらがすごさを感じようと、しょせんは男性使用前提である。だれでもできますを売りにして、市内各所で指導しているのを見たことがあるが、女性や一般人向けに練習カリキュラムが大幅に変更されていて、これでは技術の向上が望みづらい。

挙句に、筋トレなどを要求されることもあるようだ。自分の一時通っていた柔道場と同じである。弱者が強者になることを前提とするカリキュラムは、男性向けのカリキュラムである。そして男性でも多くの者が脱落をする。女性が従来の武術のカリキュラムで行うことは、想定すらされていない。そして、指導者によって、きつくない練習に替えられ、中途半端になるのである。

女性が人を守るためには、弱者使用前提の武術を学ぶ必要がある。繰り返すが、弱者が強者になるためのカリキュラムでは、いつまでたっても女性は自信をもって要人・自分・自分の大切な人を警護し得る警護人になることはできない。

弱者が弱者として、身法をもって、強者の土俵を避けて対抗する武術でなければならない。

ここではっきりと言っておきたい。私はたまたま、弱者使用前提の武術に巡り会ったのではない。とにかく、弱者使用前提の武術が存在することを願って、常に探していた。

学生の時の拳法を始めたキッカケが原因で、とにかく弱者使用前提の武術にこだわったのだ。だから、指導するまで30年以上もかかったのだ。どこにいっても、強者使用前提の武術ばかりだから。指導許可まで得ていた梁派伝八卦掌も半ば放棄する感じで、転掌にとどまったのだ。

であるから、自信をもって、女性警護人を養成する機関を設立できるし、その資格がある、と確信している。

ライト・ガードのバナーには、一番弟子が描いてある。普段の服で練習するのが好きで、かつ、武器も、特定のものにこだわらない。得意は、双匕首(双短棒)であるが、なんでもこなす。

彼女は、ライト・ガードの最初を飾るにふさわしい。とにかく、練習をした。一番弟子の彼女と、筆頭門弟は、とにかく練習をした。日本海側の冬は、雨・雪ばかりであるが、どのような天候でも、私に追いつけ追い越せの勢いで練習をし続けた。

その彼女の継続の意欲を支えたのが、学んでいる武術「転掌」に対する信頼感である。彼女はいつも言っていた。

「本当に、よく考えられている。矛盾が感じられない。」

私もつくづく、そう感じていた。私は転掌(八卦掌)を超えるつもりであったが、その奥深さに白旗を上げた。いま再び、そのような野望を持ち始めたが、それは一生かかるだろう。

 

モノ言う警備員・倒れない警護人の養成をする決意

私は、警備員として、複数年、勤めていたことは、何度もブログ等で話したことがある。

多くの時間の中で、警備員第4号業務(身辺警護)の警備員教育指導者資格を持ち、業務経験もある方に会ったことがある。しかし、危機が迫った時、護衛すべき人を守ることができ得る警護人に会ったことはほとんどない。

そもそも運動不足である。毎日技術を磨いていないことが一目見てわかる。歩き方を見ていると、がに股であり、身体が居着いている。突然の襲撃に対応できない。

民間企業の警護人は、警察の警護人たるSPとは違う。彼らは危機を想定した訓練を重ね、かつ拳銃と防弾ベスト、護身道具で武装している。いざという時、襲撃者を射殺するなどの職務遂行上の特権を持っている。彼らの強みは、装備と国家権力なのである。

民間の警護人は、警棒を持つことができるのみだ。現行犯逮捕しか認められず、かつ、警棒で打つ箇所も、肩より下、などという無茶な規則に縛られている。多少取り押さえても、相手は抵抗できるならば、構わず押し込んでくる。こちらが警察官でないため、心理的制限が、相手に湧かないからである。

私も複数回「殴るんか?やってみろよ!」たぐいの挑発を受けたことがある。これが警察官ならば、そこまで相手も強気になってこない。この点が大変怖いのだ。民間警備員にとって、いざという時、頼るのは身法のみなのである。

第四号の身辺警護業務ならまだしも、施設警備員に、特殊警棒すら携帯することは認められていない。「肩より下の部分のみ」というくだらない制限すら、適用されない(関係ない)のだ。そもそも持ってはいけないからである。

そのような制限だらけの民間警護人・施設警備員であるからこそ、身体を磨き、技法の完成度を高め、いつでも動くことができる状態を作っておかなければならない。施設警備員の武器は、懐中電灯くらいである。身体移動で勝負するしかないのだ。

そんな危険な目に遭わない?そんなことない。施設警備員は、第4号業務身辺警護人より、はるかに危険な目に遭う確率が高い。もっとも、巡回をしっかりとしているならば、の話であるが。

夜の公園なんかが含まれていれば、そこに集会行為をする若者(ほぼ若者ばかりだった)がやってくる。集団でたむろう彼らに、「施錠するので、移動願います」といって、素直に移動してくれるのは、ほぼ50%程度だ。半分は、言っても動かない。複数回頼むと、恫喝してきたりする。それが怖くて、多くの警備員は、一回言ったら、後は見て見ぬふりをする。それでは意味がない。

施設が山などに面していれば、夜は野生動物が出没する。施設警備員は、暗闇を照らし、異常を察知するのが仕事だ。暗闇を照らせば、そこに潜んでいた野生動物(イノシシ・タヌキ・二ホンジカ・カモシカなど)が突然逃げ出す。逃げるならまだしも、こちらに向かってくることも、まれにある。私は、夜間の公園施設警備で、2年の内に三回も、イノシシの突進と対した。野生動物は、命がけなのだ。命を賭けてこちらに向かってくる。3メートル以上の距離を、わずか2秒たらずで縮めてアタックしてくる。そこらのペラペラしゃべってばかりの少年たちの脅威とは、訳が違う。逃げながら棒で叩いてかわすことしかできない。

警護は、海外(マレーシア)で経験がある。拳法を習っていた先生の屋敷の周りの警護である。先生が出かける時、身体の小さい自分は、後からついて最後の切り札的警護(ロー・プロファイル警護)をした。実戦となったのは、屋敷の警護である。邸宅の周辺をウロウロする野犬などは、日本と違って狂犬病を持っている可能性が極めて高い。現地では、野犬を駆除するのは責務なのである。最大の任務は、野犬の駆除であったと思われる。野犬の駆除は、日本でも経験した。

現地の警護人らは、日本のSPのような、カチッとしたものではなかった。サンダルを履いて警護していた同僚(修行者)もいた。無線なんて持たない。しかし襲撃者に対し、容赦ない反撃をするのだ。当然である、マレーシアは、民間人も、許可を得れば携帯小銃が所持できる(日本も許可制であるが、護身用ではだめで、狩猟用のみ)。手加減をすれば、自分が命を失うからだ。このような切迫感が、日本の警護人にはやはり足らない。そもそも、戦った経験のない警護人が圧倒的に多い。

民間警護人のクライアントで最も多いのが、地方公共団体の長や、大企業の役員らの警護だ。大切な仕事であるが、実戦に至ることはあまりないため、経験不足となるのは仕方ない。

海外では、命の危険が伴うから、試合のように敵に自ら向かって堂々と戦う、という美学がない。とにかく斬られないために後ろに下がりつつ、好機を見て反撃をして、可能ならばその場から離脱をしながら、仲間らと制圧する。これはまさに、転掌の戦い方である。転掌は、身体的に不利な者が、それであっても要人や自分を守るために考えられた武術である。

多くの民間警護人は、日々の練習すらしない。昔いくら柔道〇段、剣道〇段、空手〇段、であったとしても、今動くことが出来なければ、素人も同然である。これらの話は、日頃積み重ねていない者にとっては、耳の痛い話となろう。しかし逆の場合を考えてみて欲しい。毎日の練習を積み重ねていれば、身体はおのずと、自在に動かすことができるようになってくる。

先ほども言ったが、民間の警備員にとって、頼みの綱は、自在に動かすことができる身体なのである。護身グッズ会社では、見た目に強力そうな道具を売って、動画でもデモンストレーションし、大いに盛り上がっているが、動けなければ何を持っても同じである。いくら攻撃能力の高い護身具を持っていようが、敵の突進に対しその場から動くことが出来なければ、道具を使う暇もない。

転掌の技法の良いところは、身体さえ、敵のファーストコンタクトに対し、後方スライドできるならば、後は技法の成熟度にとらわれず、我が身を守ることができるところである。敵の突進に並走しながら、払い打ちをして、持久戦に持ち込み、しぶとく対するのである。当然である。何十年も練習しないと使うことができないものならば、清朝後宮で宦官・宮女らの使う護衛武術として採用されることはない。

ここで真の護衛法を学び、日々日常生活の中で練習してほしい。敵とぶつかる技法だと、勝ったり負けたりするため、いざという時に対する不安が残るものだ。私もそうだった。近代格闘術的八卦掌の指導許可を得たのちも、勝てるかどうか不安があった。だからいまだに、近代格闘術八卦掌たる、梁派伝八卦掌は指導しないのである。

転掌のマスターとなったのちは、自信をもって事態に対処してきた。いざとなっても、相手が屈強でも、負けない自信があったからだ。この自信を身につけると、警備員として、自信をもって集会行為等に対処できる。警護人として、自信をもってクライアントのお供ができる。

八卦掌水式館で、身体柔弱な東洋人でも護衛を果たすことができる東洋人専用護衛術を、基礎から学んでほしい。最初をしっかりとやっておくと、今後の皆さんの人生に役立つだろう。

2024年12月8日、金沢にて、北陸本科の第一回目の指導を開始する。その日、真の中国拳法を、金沢の人間に見せることになるだろう。北陸地方の方はこの機を逃さないで欲しい。

八卦掌原型「転掌」式自分護衛術~電子書籍で間もなく発刊

金沢移転後、最初に達成する使命(ミッション)は、本の発刊であった。間もなく、本の原稿が出来上がる。

引越しやらブラックバイトに対する決別やらで、多くの時間をとられたが、コツコツと毎日更新してきた。いよいよ、発刊が近づいてきた。紙の書籍による商業出版の、第一歩としたい。

複数の出版社に企画書を送ったが、無視された。でも何の問題もない。強がりで言っているのではない。最初である。失敗という名のトライゆえ、何にも落ちこむことも無いのである。

本の書き方・売り方のプロであるが、著者の思惑通りの発刊をさせてくれないことは、知り合いなどから耳が痛くなるほど聞いている。

「売る」を重視して、本当に表現したい内容を捻じ曲げられることに、果たして価値があるだろうか。どうしても発刊したい、どうしても有名になりたい、なら良いが、そうでない人間にとっては、先方の思惑に沿った発刊に苦痛を感じるだろう。

無名で権威もない著者であれば、このように足元を見られ、思惑と違った発刊を半ば強制されるのである。・・・しかし、そうまでしても発刊したことはすごい、実際、私は相手にもされていないのだから。

でも、すごい、と思うのはここまでである。伝える内容・伝える技術は、全く引けを取らないからだ。

多くの本を出している武術家の本も、難しく書いてあるが、大したことは書いてない。これで出せるなら、自分なら大丈夫だと確信した。自分なら、もっといい内容のものを伝えられる、と真剣に考えている。少なくとも、劣ったモノを出す不安はない。

発刊内容は、自分護衛術までである。

転掌式八卦掌は、あくまで護衛武術である。よって、護身術という段階は、修行過程に存在しない。護衛に始まり、護衛に終わる。最低限の・・・で伝えている内容は、対多人数相手の護衛術を、個人対個人に置き換えて教えているのである。

転掌の修行段階は、大きく4つに分けられる。

(1)翻身旋理・刀裏背走理を意識しながら、単換掌もしくは推掌転掌式をひたすら練って、身体に徹底戦の感覚を覚えさせる。

(2)体得した単換掌の術理をもって、多人数を意識して単換掌(斜め後方スライド)を練習し、洗練させていく。

(3)単換掌の術理を洗練させ、対多人数戦の渦中において対敵行動の中で単換掌をはじめとする主要転掌式を使いこなし、外転翻身斜め後方スライドを発展させ、急速転身技術たる揺身法水準まで高める。

(4)対多人数戦移動遊撃戦渦中の急速転身法をもって、対一人の敵に対する要人護衛術(対少数人斜め後方スライド変則撤退戦対敵身法)を体得する。

転掌式八卦掌は、対多人数戦だけを念頭に置いた武術ではない。対多人数身法しか知らないなら、それはすべての襲撃者から護衛対象者を守ることができないことを意味する。あくまで、(4)の段階まで到達して、マスターとなるのである。

(4)こそ、転掌式八卦掌ならびに転掌のマスター段階である。

指導が長くなると、多くの修行者が、(2)~(3)の段階で脱落することが分かった。最も苦しい段階である、(3)は、ひたすらショウ泥歩で移動し続けて技を繰り返す、積み重ねの段階である。息が上がる練習を通して、地道に持久力を養う。転掌式八卦掌は、瞬発力よりも、持久力で勝負をする側面がある。よって、(3)における、移動しながらの転掌式の練習は、大変な根気を要するのである。

本書では、(1)・(2)の段階までを、大きくとらえて出版する。『最低限の時間で仕上げる「転掌式八卦掌」自分護衛術』と内容はほぼ同じ箇所をとりあげているのだが、転掌の成立過程や「なぜこの技はこのように練習するのか、使うのか」まで、詳しく解説してある。

最低限・・・では、最低限の時間で自分護衛を果たすために、転掌の歴史的背景などのは触れてない。よって、本書籍を読めば、八卦掌の原型たる転掌の姿を把握でき、かつ、八卦掌のルーツや、昔日の使用法を理解できるだろう。

本書籍は、水式館の行う通信講座におけるテキストとしたかったため、説明が少々長引いている。しかし読んで損はない。

氷見まで一時間・・・心のよりどころがあれば

八卦掌水式館発祥の地・氷見市まで、金沢から有料道路を使わないでも一時間である。

一時間・・近くはないが、何も遠さを感じない距離である。

新しい環境になり、いくら何度か尋ねたことがある場所でも、住むのでは大違いである。住んだことのあるお隣のお隣のお隣たる高岡市とは、雰囲気がまったく違うことを実感した。

そんな中で、ひどい虫歯になって歯医者に通う事態になったり、練習中にけげんな顔で見られたり、新生活で思わず出費して苦しんだり・・・で、愛知が少し恋しいと思うこともあるくらいだった。

しかし来てしまったのだ。来たことで、得られた喜びもある。

なんといっても、筆頭門弟の子供らと、昔のように練習ができることだ。これが嬉しい。いつも二人で、ジェダイのごとく斬り合っていると、緊張感と実戦力が得られる。これは彼女らも言っていて、そう言ってくれると、来てよかったと思う。

海がきれいである。どこにいってもきれいである。日本海、そして富山湾。

私は海さえ見れたらそれでいい。筆頭門弟の一人は、自分の釣りの傍らで、スケッチをするのが好きだが、海は富山湾のが好き、とのことだ。優美で、景色に変化があり、楽しい、と。日本海は、少し怖さを感じるが、富山湾は、いついっても穏やかで優しい。荒れていても、やはり優しい。

冬は、おいそれといけないだろうが、近くに氷見があると、本当に心強い。月一回しか家族に、家内に会えない日々が続いたが、今ならその気になれば、いつでも・・・と思うことができて、気持ちが救われる。

早く新環境に慣れて、以前のごとく、毎日いつでも挑戦し続ける日々に戻りたい。

新環境になると、失敗も多い。勝手の分からぬ場所だから、効率の悪いことも多い。しかし、この新環境への挑戦こそが、すべて未来へとつながるのだ。そう確信して疑わない。

挑戦こそが、自分の心のよりどころだから。挑戦こそが、未来を拓く。苦しいと思ったときは、すぐに空を見よう。金沢の砂浜から、遠く北京の方向を見渡そう。

氷見があり、家族に会え、門弟らと練習できる。大きな志を得た。金沢でもやはり、満たされている。

とりあえずやってみようぜ。少し近づくから。

とりあえずやってみよう。私が教えるときに重視することである。やってみないと分からないじゃないか。

分からないじゃないか、は、上手くいくかどうか「分からないじゃないか」、じゃない。とりあえずやってみたって、最初のうちは失敗ばかりであろう。

分からないじゃないか、は、やってみないと、何がよくなくて、その目指すものを成功させることができないか「分からないじゃないか」!である

足らない箇所を見つけるためのチャレンジならば、失敗は失敗にはならない。できない原因を探す為の、欠かすことのできないの作業なのだ。

会社では、失敗をするたびに𠮟りつけてくるアホ上司がいる。上司に求められる資質は、問題が起きた時に、自分が直接関与してなくても頭を下げることと、部下の失敗を叱らないことだ。

寛容でなければならない。失敗を叱るアホ上司は、部下のチャレンジ精神を奪っていることに気づく必要がある。試すことで人は成長する。失敗を叱る上司や先生に、人を導く立場になる資質はない。

挑戦と積み重ね(日々の努力)こそ、達人になるための最も有効な手段である。

○○先生伝、とか、○○直系、とか言って伝統をかたくなに守っていくのも、一つの道であろう。しかし私はその道を決して選ぶことはないだろう。

試したいんだ。挑戦したいんだ。どうせここまで来たんだ。誰かの言う、外見的肩書きに頼る日本人的一流コースなんて、なんとあじけなく感じることか。

「まだこちらに来るチャンスはあるぞ」

有名商社につとめる部活の先輩に、28歳の時、言われたことがある。その時も、迷わずなにも言わず、この道を選んだ。先輩のような生き方に、私は魅力を感じなかったからだ。

あれから22年。今私のもとで学ぶ、筆頭門弟や一番門弟らも同じ年齢にさしかかっているが、自分と同じ道を進みたいと願っている。大手企業に行かなくても、生活が苦しくて住まいをなくしたとしても、己の道を行けば、こんな喜びがあるから分からない。

・・・インターネット上には、「人と違う生き方・自分のしたいことだけをして生きていく生き方」を説く自己啓発系本・サイトがあふれかえっている。

これほどまでに「悟った」人間が多いのか?と思うくらい、猫も杓子も「自然の法則・宇宙の法則」なんかを説き、すべてのものに対する愛を語る。本当にそこまでの境地に達したのか?と疑問に感じるくらいだ。

気になるのは、積み重ねることを否定することだ。努力を明確に否定するのには驚いた。彼らは、願えば叶っている、を決まり文句に、「努力」という言葉をとにかく嫌う。努力をするのは、叶ってない現状にフォーカスしているから、叶ってないで努力ばかりする日々の現実が叶う、とのことらしい。そのくせ、夢をかなえた人間なら、日々行動をするから、と言って、日々の行動を諭す。言葉遊びなこれらに、ウンザリする

君はすこしちがうことを実感してほしい。君はきっと天才である。取り返してやろうと考える時点で、君はそんな扱いをされることに甘んじてないということだ。君はきっとそんなところで終わらない。だから、迷わず積み重ねて欲しいのだ。

言ってる本人が悟っているかどうかもわからないような、ネット上の、積み重ねを否定する記事なんか無視してほしい。やり続ければ、実力もついてくるし、効率のよい練習法もわかる。正しい練習法や正しい成功法をうたって金儲けを企むヤツが多すぎる。そんな、害にしかならないものに目をくれず、君はとことん君の方法で積み重ねて欲しい。

悩みながら、迷いながら、時にミスなんかして落ち込み、その果てに自分なりの境地に達した者は、すでに達人になりかけているのである。