それは、今まで周りから聞いた色んな常識・他人の価値観・メディアによって紹介されたもの、SNSなどの情報(雑音)よりも、あなたの直感が心地よいと感じるものを重視し、それを今この瞬間から、自分が納得できるくらいまで、追い求め始める、ということである。
「何言っての?達人ってのは、だれからも尊敬されるような境地になっているような人のこと」
「そんなこと言ってるが、お前、実績あんの?」
「お前なんて、いっつも俺に負けてたじゃないか」
「どの先生に習ったの?どこの流派なの?正当な伝承者なの?」
ここに挙げたのは、情報という名称を用いる必要もない、単なる雑音である。もしあなたが、これらの意見によって「達人」であると宣言するのをためらっているなら、この記事を読んでもらいたい。
冒頭を読んでお分かりの通り、いますぐあなたが達人になるには、あなたの直感がいい、と思ったものを、今すぐ深掘りし始めることである。
それだけ?それだけでいきなり達人なの?そうお思いだろう。気持ちは分かる。私も、この考えに至るまで、ゆうに四半世紀はかかったのだから。
直感に従うのが難しいのなら、既存の達人の概念を捨て去ることから始めないといけない。おおかた、あなたが心に持っている達人のイメージとは
・最強である
・有名門派で正式に伝承者になった肩書がある
・誰からも尊敬されるような人格がある
・誰にも文句を言わせないような、武勇伝がある
であろう。
これらは、この記事で述べる達人の条件に入っていない。必要ないものばかりである。
これらがどうしても必要な場合とは、「達人」という名を利用して、ビジネスをするときだけである。
よく見て欲しい。これらの要素は皆、他人の評価や他人との比較によって成り立つものばかりである。
達人は最強である必要はない。最強でなければならないなら、一人しかいないはずである。そんなことはない。有名門派でならった経歴。戦うのは自分である。有名門派が戦ってくれるのではない。だれからも尊敬されるような人格。誰からも尊敬されることがないことは、あなたの日常生活でも実感できるはずだ。必ず誰かに嫌われたり、批判されるものだ。武勇伝・・・そんないい加減な不確かなものが達人であることを証明するなら、それこそ誰でもなれるのである。
達人とは、自分に対する絶対的な自信である。その自信とは、自分自身で見出したものにどれだけ、心血を注ぐかである。そして注いだ期間は問題ではない。どれだけ、自分のオリジナルを信じているか、なのである。
今すぐなるための手順をお教えしよう。
まず、自分の直感に全幅の信頼を置くこと。違和感を感じる他人の意見や価値観に、従わないようにすることである。そこからスタートする。
そのうえで、自分がいいと思ったやり方、工夫を、その瞬間から練習しまくることである。きっとあなたの心に浮かんだ直感とは、あいまいで抽象的なことばかりだ。だから動いて、試すのである。
やってみてやっぱりいい感じだ、と思ったら、本格的に行動し始めること。実はここまでくるとすでに、あなたはあなたの直感部分に関しては、誰よりも時間を注いでいるのである。
私が常々、自分のオリジナルを大事にしろ、と言っているのはそのためである。私は弟子に、マスターではなく、グランドマスター(一代宗師)になって欲しいのである。
私の中で、達人=マスター、ではない。達人=グランドマスター、なのである。
自分のオリジナルを狂信的に信じ、突き進むことは、まさに宗家の特質を持っている。宗家は、「これって間違ってませんか?」と人にお伺いを立てて流派を立ち上げたりしない。宗家はいつも、事前に誰かに尋ねることもせず、いきなり「宣言」するのである。人がそれを必要としているかどうかなど調査せず。「宣言」は、自分の直感が生み出したものに対する絶対的な信頼から発せられるのだ。
これは最高のものだ、価値にあふれているものだ、これはチャンスだ、凡人が群がってくる前に早く習いに来い、と言う。
自らを天才と確信し、実際天才なのだから、そのように決断をし、進む。達人が先生であるならば、それを指導するために様々な手段を次から次へと展開していく。怖さなど無い。一番重要で難しい部分である「スキル」が備わっているからである。
拳法教師に習いたいもの、それは拳法のスキルである。拳法を利用したビジネスの方法ではない。有名先生のところで習った肩書や満足感が欲しい連中は、少し思惑が違うが。皆その先生の技術を習いたいのである。独特のその技術を習いたいのである。
どの技術は、先生のオリジナルであればあるほど、熱心な後進を招く。その他大勢の一般人には敬遠されるかもしれない。しかしそれこそが、天才の証である。グランドマスターの証である。独自の境地を進んでいる証なのである。
凡人は、雑誌やメディアで紹介されている先生を見て、内実も知らずに「いい」と判断する。有名メディアが発する動画を見て、華麗にさばく動きを見て、いいと判断する。しかし本質を見る者は、自分の直感を信じるのである。
私のところの門弟は皆、そのような者たちばかりであった。私の古参門弟らは、私が有名流派の指導許可を得た時、明確にそれを習うことを拒否した。彼女らには本質が見えていた。そして自分の直感を信じる達人的要素がしっかりと備わっていたのだ。
古参らは、いまだに「転掌」しか練習しない。私が近代八卦掌を、転掌の術理で再編成した後、初めて習うようになった。八卦掌より、連身藤牌を学びたがった、生粋の変人たちである。
本質を見抜くための最初の一歩を踏み出そう。
もしあなたが独学であるならば、近くの先生の道場に弟子入りをし、武術を習ってみることである。きっと知らないことがあるはずである。私は、近くの公民館の太極拳教室で指導する内容に、大きなヒントを得たことが何度もある。なぜなら私は、太極拳は知らないからである。知らない領域から習う者は多い。独学のあなたであれば、知っているのはその雑誌・書籍に書いてある内容だけであろう。おおよそ基礎のみである。海外の書籍であれば、そこで教えているのと違うことが書いてある場合もある。
あなたの近所で教えている先生は、あなたよりも知っている。先人である。よって教えを請い、そこで習ったものをベースに、自分の独自の世界を築くのである。それは大変楽しい作業である。宣言するとき、先生の名前も拝借してもいい。たとえばあなたの名前が水野で、鈴木先生であったならば
「水野二十四式太極拳 鈴木先生伝」
このように堂々と宣言することである。※鈴木先生の許可は必要だろうが
これであなたは、立派な達人として、そのように振る舞っていくのである。達人として練習し、達人として発信し、達人として日々を送る。気づいたとき、周りにはあなたに影響を受けた門弟が集まっており、内外共に実感するであろう。「ああ、自分って、達人になってたんだ」と。
さあ、いますぐ行動をしよう。自分の得意なパターンはなんだろうか。それを試してみるといい。
フィクションの中であるが、織田信長の重り役平手政秀が青年信長の奇行に心を痛め自害した際、彼の死を悲しみながら、
「見たり聞いたり試したり思う存分に生きてやるわ」
と口にするシーンがあった(4:10秒あたりから)。あのシーンは、いまだに心に残っている。
試すことである。きっと一度きりである。人は批判もするだろうが、言った瞬間から自分のことなど忘れている。
今すぐ、自分の道を歩き出し、さっさと達人になってしまおうではないか。
