転掌グランド・マスター水野語録」カテゴリーアーカイブ

ジェダイ剣術と全く異なる「雑草刀術」の転掌刀術

映画「スターウォーズ」は、以前の作品に比べ、ますますジェダイの力や剣術がクローズアップされるようになった。

映画本編にとどまらず、多くのスピンオフ作品が生まれ、一部を除き、ジェダイの力にクローズアップされた作品がどんどん生まれている。

Youtubeでは、ジェダイの剣術を解説するものも多く、その非現実的な技法が、さも現実的に存在するかのように紹介されている。フィクションをフィクションとして終わらせず、フィクションが独り歩きをして、そのまま、現実となっている。

〇〇トで六十四掌を知った見学者が、実際の六十四掌を見た際、「もっとこうした方が、〇ジのように威力が出せますよ」と言ってきたときは、本当にあきれてしまった。こういうのが本当に増えた。

あれは生粋のフィクションである。私は八卦六十四掌になんのこだわりもないが、あの時ばかりは思わず、その意見に反論した記憶がある。

転掌刀術も、刀(実際は棒)を縦横無尽に振って、敵と相対するものである。しかしその内容は、全く異なる。

マスター・ヨーダー?

ライトセーバーという、自分をも殺めかねない危険極まりない武器が、多くのスターウォーズファン、いや、ジェダイファンにとって魅力的なのだと思う。

ライトセーバーを持つことを許され、かつそれを操る技術を持っている点、そして操ることに関わるジェダイ内の様々な伝統などが、扱う者の特別感を際立たせる。それに憧れ、その華麗な技法のみを追い求め多くのファンがレプリカを買い、ここで一大ビジネスが行われている。ここがまず違う。

転掌刀術では、刀に依存する傾向がない。ジェダイは、その者自身が持つライトセーバーに、代替品不可能の意識を感じる。だから、(ジェダイファンは)それぞれのジェダイの色にこだわったり、持ち手の形状にこだわりが出てくる。

転掌刀術にとってのライトセーバーは、そこらへんに転がっている棒っきれである。なんでも良いのだ。切り札的な伝説的武器ではない。そして当然、何の魔力も希少性もない。戦いが終れば、またそこらに放置されるような棒である。さきほど少しかっこ書きでふれた「実は棒」は、そんな単純な話ではないのである。

転掌が清朝後宮内の御用武術として採用されるために戦略的に創造された瞬間から、「棒」で戦うことが宿命づけられた。ライト・セーバーのような、それを持つだけで戦闘力が異常に上がるような武器とは無縁となることを宿命づけられたのである。

なぜ転掌が、後宮内の御用武術として採用されたのか?それは転掌が持っていた特徴による。この特徴を述べていこう。今日の本題たる「ライト・セーバー刀術との違い」を説明できないからである。

採用された第一の理由。それは弱者が使用することが前提であったこと。

紫禁城の中には、当然武官である護衛官も駐留していた。しかしそれは、満州族に限定された、出自が確かで信頼できる者だけに限定されいていた。そのような厳しい制限に加えて、さらに後宮内に武術の腕前を持つ男性武官を入れることを王族は嫌い、極力入れることをしなかった。

入れたがらなかった理由は、出生の正確さを保つこと。男性武官が後宮内で王族女子と親密になり、王族の血統に不確かさが生じることを防ぐため。これは一般に言われている、男性官吏が後宮内に立ち入ることを許されなかった理由である。よって去勢され、生殖機能を奪われた宦官だけが、後宮内に入ることを許されたのだ。

しかしあまり語られないもう一つの、シリアスな理由がある。中国では、部下の反乱は日常茶飯事である。太平天国の争乱時のような内乱状態でなくとも、後宮内は常に、権力闘争の闇で満ちていた。その不穏な内情の中で、男性武官が王族の生活の場に出入りすることは、警戒要素の何ものでもなかったのだ。よって皇帝や皇族が私生活を送る後宮内では、武官は満州族といえど容易に入ることはできなかったのである。それはかなり徹底されていた。

しかし男性武官を制限することは、自分を護衛する屈強な護衛官を手元に置いておけない状態となることを意味する。それは困る。刺客が自分の命を奪いに来た際、自分を身を貼って守ってもらう者が欲しい。しかし後宮内には、宦官・宮女(きゅうじょ※漢族八旗の子女)しか居ない。彼ら彼女らでは護衛の任務を果たすことができないのだ。

そこに董海川先生が、弱者でも護衛の任務を果たし得る技術体系を持つ武術をプレゼンしてきた。粛親王が偶然、董海川先生の影の練習を発見し、その技術に惚れ込んで宮中内の護衛の任務を任せ、宦官・宮女らに対する武術指導をさせた、というのが伝説である。しかし実際は、後宮内御用武術として採用されることをもくろんで技術体系を組み、売り込んだのである。

粛親王(清朝王族)の本音、という視点で、後宮内御用武術として採用された理由を掘り下げてみる。

弱者使用前提の武術であるため、後宮内の宦官や宮女らでも使える点。彼ら彼女らに転掌を習得させ護衛の任務も任せておけば、男性武官に頼らなくとも、いざという時の身代わりとなり我が身を守ってくれる。彼らが命を落としても、急造の身分の低い雑役官吏のため、痛くない。そして男性武官を後宮内に立ち入らせないことから生じるリスクも解消できる。

転掌の武器術は、後宮内に存在する身の周りのもので行うものばかりであった点。これにより、護衛の任務を与えても、彼ら彼女らに攻撃力の高い武器を持たせることを要しなかった。男性武官が持つような、攻撃力の高い武器を所持するものが後宮内を自由にかっ歩していては、謀反の種を後宮内の生じさせることになり、不安である。

今まで少しばかり駐在していた、武術に長けた男性護衛者を排除できる代替品となり得た点。代替品ができたため、いざという時不穏な要素となる男性護衛者を失職させることができた。これは董海川先生伝説の域を超えない話である。しかし転掌の登場をきっかけとして宦官・宮女らに護衛の任務を課すことで、宮中内の武芸者・屈強な男性の排除を徹底させることができたのは間違いない。

読んでみて思ったかもれしれない。権力者はそれほどまでに、反乱を恐れているのか?と。当然である。そもそも中国史は、下の者が上の者を殺戮して取って代わる歴史を繰り返してきた。そして、転掌成立当時は、太平天国の乱、アヘン戦争、アロー号事件など、国内で激しい争乱が発生し、治安は乱れきっていた。太平天国の乱では、実に2000万人以上の人間が命を落としたのだ。軍人だけではない、庶民も命を平然と奪われる時代だったのである。

争乱が発生し、それが長期化する、ということは、清朝の求心力(国内を治める統治力と言ってもいい)が落ちたことを露呈させる。清朝自体が、下の者から「舐められる」のだ。そうなると、清朝に盾ついてやろう、と考える者が必ず出てくる。実際、王朝が混乱すると、王族などの「雲の上の存在」の者らの暗殺が頻繁に起きる。

世情不安の中で、清朝王族が、自分の絶対的なテリトリー内に、武官や武芸者を入れたがらないのは当然である。女官はおもに満州族八旗の子女、宮女はおもに漢族八旗の子女、宦官だけが素性の知れない者であり得る。しかし、去勢されることでその人間は体力的に不安定となり、蔑視の対象となる。清朝王族は、宦官を人と見ていなかったのである。

余談であるが、中国拳法四大門派となるまでに大きくなった転掌であるが、董海川先生に宮中内で手ほどきを受けた人間の名はほとんど知られていない。なぜなら、董海川先生に習ったことを公言することは、自分の祖先が宦官であったことを公言することになるからだ。それくらい、宦官は蔑視の対象であった。師伝によると、女官や宮女に教える際、董海川先生は、彼女らに触れることが許されない状態で指導を強いられたという。彼女らは八旗という、武家の子女である。転掌創始者といえど、最底辺の身分たる宦官として扱われることによって生じた苦労話である。しかしそこから、敵に徹底的に近づかせない技術が洗練された、という重要な話も生じるが。

話を戻そう。

粛親王の本音の二つ目、いっぱしの武器を持たせないで済む、と言う話である。攻撃力の高い、人を斬ること専門の「刀」を持つことができない以上、既存の刀術と転掌刀術では、その攻撃方法が変わってくる。転掌刀術は、「刀術」という名がついているが、練習において刀を使用しない。棒を使うのである。なぜなら、実戦でも刀で戦うことができないから。宦官や宮女は、帯刀を許されていないのだから、刀で戦う練習をしても意味が無いのである。

転掌刀術では、移動推進力を活かして、敵の突出した部位の内側を、固い重い棒で打ち付けることを第一とする。襲撃者の命を奪うことが第一ではない。あくまで時間稼ぎなのである。移動して棒を振りまわしながら、人体急所を棒で叩く。そして襲撃者の動きが止まったら、手持ちの暗器やかんざしなどで突き、致命傷を負わせた。

ここでやっと、ジェダイのライト・セーバー刀術との違いに触れる。

転掌刀術がライトセーバーと違って優れている点は、特定の武器を持ち歩かなくても身の周りのもので戦うことを想定する日頃の練習によって、対処できることである。棒はそこらにこ転がっている。私が海で練習するときは、そこらにある棒っきれである。

現代日本では、武器の所持は禁止されている。銃刀法の規制対象とならない護身具でも、軽犯罪法という法律によって、一定の制限をかけられる。ひどい場合、単なる棒を持っていても、警察官の意図により不審者となって警棒などは没収される。

ライトセーバーによく似ている?携帯可能な武器たる特殊警棒は、警察に職務質問された際、突っ込まれ没収される可能性のある、やっかいな護身具なのである。よって一般人が特殊警棒を持つ際、専用の収納ホルダーなんかに入れておけない。隠して持たなければならない。その実情は「隠して持つ=すぐ取り出すことができない」という、命とりな事態を招く。特殊警棒はただでさえ、急な襲撃に対応しにくい武器なのだ。隠して持つことで、一層その不具合を悪化させる。

私は夜間の公園警備の際、特殊警棒に何の信頼もしてなかった。なぜならその職場は、暗闇から突然、野生動物が襲ってくる危険があったからだ。特殊警棒では、間に合わないのだ。私は樫材で自作した、長さ120センチのシャッターフック棒を常に手に持ち、警備に当たっていた。そして日頃より同じ長さ、同じ商品の樫材で急な襲撃に遭っても対応する練習していた。倒すための練習ではない。とにかくその場から身を逃しながら追い払う練習である。それゆえ、私は三度ほど、イノシシの襲撃・罹患野犬の駆除に際しても、自分の身を守ることができたのだ。

転掌成立時の清朝末期は、国内が乱れていたけれど、庶民は当然、本当の刀を持つことはなかった。それは、許されなかったからである。庶民が身を守るうえで、攻撃力の高い武器は選択肢に入れることができないのである。映画やアニメで見る一般的な刀は、いざという時使うことができない、頼りにならない・あてにならないシロモノだったのである。

そうなると、本当に実戦を考えている庶民武術家は、練習でも刀で練習しない。棒である。それどころか、刀術を、棒操術に特化させたりする(斬る・刺すではなく、叩く・ぶつけるをメインの技術体系にする、ということ)。そのようにして生まれたのが、「転掌刀術」なのである。弊門でも、模造刀は練習で使わない。木刀ですら使わない。使うのは棒である。おおよそ、身長160センチ以下が110センチ・160センチ以上が、120センチの棒を使う。そしてその棒は、必ず移動しながら扱う。ここもまったく違う。

ジェダイらは、皆、ライト・セーバーで戦うための修行を、小さい頃から積み重ねていく。彼らは常に、ライト・セーバーを持ち歩くことができたからだ。使う道具が明確に決まっていたから、「ライト・セーバー」を扱う練習をするのである。しかし転掌マスターは、経験を積めば積むほど現実的になっていき、心の中に残っていた、わずかな、刀術に対する未練すらも消し去る。そして棒を扱う技術に没頭し、術理を究め、真の転掌マスターとなるのである。

ジェダイの戦闘シーンを見ていると、前敵攻防である。目まぐるしく移動して戦っているように見えるが、よく見ているとそうでないことに気づく。両者は足を頻繁に動かしステップさせているだけで、その場にとどまっている。殺陣としては見栄えがいい。これは映画であるのだから。しかし実戦で敵の面前で斬り合っていると、甲冑でも身に付けていないかぎり刃先が身体のどこかしこに当たり、戦闘が終ってしまう。ライト・セーバーならなおのこと、末端をたちどころに斬り落とされてしまうだろう。実際にアナキンも、ルークも、片腕を焼き斬り落とされているではないか。

ジェダイの刀術は、多少の移動攻防は見られるが、基本的に敵の眼前にとどまり、テクニックで防ぎ、テクニックで攻撃するスタイルである。一般的に中国武術で習う刀術はこのスタイルである。日本の現代の「伝統刀術」も同じである。その戦闘スタイルは、フォース・先天的身体能力・専門機関での英才教育によってのみ実現可能な、エリートの技術体系である。つまり「選ばれし者のエリート刀術」なのだ。転掌刀術は、用いる者が昨今まで素人であった「身分の低い者の使う雑草刀術」。決定的に違うのである。

しかし行きついた後のスタイルは、雑草の刀術とは思えないものとなる。ジェダイのグランドマスターである、マスター・ヨーダが見せたデューク―伯爵との一戦。ヨーダは全身を使った激しい移動戦で、敵と渡り合った。転掌マスターの刀術は後ろに下がりながら変則的な斬撃で東から西から打ち付ける。極めると、この点だけが似てくる。

しかしこれは、極めきった者の話である。転掌刀術の本質は、身体的資源不利者の、なんとか生き残るためにの生存技法なのである。よって誰でもできるのである。誰でもできるから、宦官・宮女でも、わずかな修練で、とりあえず「おとり護衛」という護衛法だけは習得でき、急造護衛官として活躍できたのである。その中からわずかに真のマスターが生まれ、変則スライド撤退戦刀術が可能となった。

徹底した移動遊撃戦による多人数相手のおとり護衛は、実は初歩の段階なのである。しかし誰でもできる技法で他者を圧倒するためには、誰でも出来る技法ですらも、徹底的に繰り返し磨きぬかないと、襲撃者を圧倒することができない。誰でもできる技法だから、習い始めの人間でも、ある程度できる。ある程度できるシンプルで簡単なものであるから、ほとんどの人間はすぐ飽きてしまい、洗練される遥か手前で止めてしまう。そこに、繰り返す者・突きつめる者・追い求め続ける者ならではの優位性が生まれ、勝利の可能性が生まれる。

そして夢があることに、シンプルで誰でも出来る技法でも、磨きぬけば、一部の選ばれしエリートしかできない高度な技法にも対抗できるのである。敵がライト・セーバーを振り回してきても、我は移動しまくって勝機を見いだす。ライトニングやフォースによる締め上げを、現実世界で実行する者がいないことを、後は願うだけである。

書籍発刊で転掌を公開する理由~正しい伝承を守るため

インターネットでは、ノウハウをちらつかせて、利益を得ようとする広告が目立つ。

それも立派なビジネスであろう。しかし私は、お金儲けで水式館をひらいているのではない。

明確な目的がある。それこそが第一である。誰もが使える護身術を世界の隅々まで広めること。それが当面の大きな目標である。

ならばお金を払わないと閲覧できない「書籍」ではなく、サイト内で無料公開すればいいのではないか?という声が上がる。ノウハウは惜しみなく公開せよ、というネット上の常識があるからだ。

しかしそれも真実ではない。皆がそれを言うから真実になるのだ。そして自信を持って言えるのは、転掌にそのノウハウは当てはまらない。

誰もができる、ということは、公開しさえすれば、誰でもできる、というのとは同義ではない。

公開された情報が、その情報を知り尽くした人間によって管理された状態で維持される。これが伴っていないと「誰でもできる」を実現できない。

公開された情報を、広めることは簡単である。その情報をクリックしてコピーし、ペーストすれば、誰でも広めることができる。そしてその内容を、自分の考えたものとして公開することだってできるのだ。

このような、無断での転載は、無料でインターネット上において、無制限に公開するから、実行されやすくなる。ネット上に公開する、ということは、その情報を自分の管理下から外すことも意味する。閲覧者の自由利用を、ある程度認めることだからだ。

私はそのような事態を招く行為(ネット上への無料公開)は、決してしない。

今回水式館が発刊した書籍で扱う技や術理は、ネット上で公開しても、読む人間を選ばない分かりやすいものであっただろう。しかし分かりやすい=誰でもその術理を説明し伝承できる、では決してないのである。

それは、長年術理・技を研さんし、知り尽くした師から伝承を託されるくらい精通した人間だから、文字に著し、かつそれによって一定レベル伝承を実現できるのである。

弊館では、伝承活動は、掌継人以外おおやけに認めていない。指導するのはいいが、掌継人とならないと、その者に正式な指導の資格を与えたことを館として、転掌八卦門として公認しない。

掌継人となる以前の者が、仮に書籍を出したとしても、館として公認しない。

これはノウハウを独占したいなどの狭い了見で言っているのではない。転掌は、命を賭ける場面で使う、弱者の最後の切り札となるから、いい加減な人間による伝承で、いい加減な内容が流布されてしまうのを防がなければならないからだ。

転掌に伝わる「絶法(ジェファア)」のような重大な門伝を気軽の公開してしまうことで、心無い人間による無辜への虐待が引き起こされるのを防ぐためだ。

ネットに公開してしまうと、それらを防ぐためのコントロールが効かなくなる。書籍という形を採れば、著作権による一定の抑止力をもって、その内容を保護できるのだ。

しかし書籍での発刊、という形をもってしても、転掌の上級術理までは解説しない。もちろん「出し惜しみ」ではない。

それは、公開しても、習得ができないからである。師との一定時間の研さんが必要なのである。それは私自身が、ずっと長年向き合ってきたからわかるのだ。どこまでが独学で習得でき、どこからが師との研さんが必須となるか。

私は転掌に関して、だれよりもそれを知っている。近代八卦掌の指導許可も得、国内の八卦掌指導者の誰よりも深く長く向き合い、その源流たる転掌を極めたものとして、誰よりも知っているのである。

私の公開する転掌の動画に、低評価を押す連中は、転掌の戦い方が受け入れられないから押すのだろう。まさか、私の説明する転掌の術理などが違う、と判断して押しているのではあるまい。そのような行為は、ピアノを弾いたこともない私が、小さい頃からピアノを練習してプロのピアニストになった人間に、「お前のピアノの弾き方は間違っている」と指摘するのと同じくらい、バカげている。バカげている、と通り越えて、恥ずかしい。

私は、私の伝えた技法・術理が、誤った方向に進んで、それを利用する者に害を及ぼさないよう、しっかりと管理する責任がある。それは楊師から命じられた「然るべき人間への然るべき手段による伝承」である。

だから私は、掌継人として認めることに、厳しい技術的条件を設定している。私の遠慮ない攻撃に対し、転掌の斜め後方スライドの術理で、バックスライドアタック、フォワードスライドアタックができるようにならなければならない。

術理は、私が実演で示し、それを何度も実演実行し、弟子にも実行させ理解させ、理解が弟子によって体現されなければならない。

これはあくまで一例である。やり取りの中で、見るべきポイントというのがある。私は弟子にそれを何度も言う。ここはどうでもいい、この点が重要である。ここをしっかりと意識せよ、と。

この方法による伝承は、共にやり取りをしあう中で実行することで、実現できる。もちろん、掌継人となる者は、一人での研さんを求められる。長い拳法人生の中で、掌継人は一人で拳理と向き合う必要があるからだ。

掌継人として認める条件を、色々と挙げた。命を賭ける技法だから、それくらい真剣に伝承するのだ。これくらいしないと、転掌の術理はいい加減な方向へと進む。掌継人が、自身の研さんのすえにその技法を変えていくのは全く問題ない自然なことだ。私はそれを望むし、そのようにしていけと言う。これは、掌継人となるくらい研さんを積んだから、オリジナルに進むインスピレーションが、自然と湧くのである。

私が本を通して転掌の基礎たる自分護衛を公開するのは、習得可能な範囲を厳選し、それをコントロール可能な状態の下に置き続けるためである。

書籍で示す内容は、だれよりも転掌と向き合った私が、「真面目に定期的に練習する」ことで一人でも習得できると確信した内容である。よって本書を手に取り学習をしようとする者は、安心して、信頼して、その身を守るために繰り返して欲しい。

私はプロの武術家であり、転掌のグランド・マスターである

冒頭から、今更ながら当たり前のことから入った。しかし、すべての出発は、題名にある、当たり前で普遍的な真実の宣言から始まる。

私なんて・・・。末席にでも・・・。私はそれらの言葉が大嫌いである。「そう言っておけば角が立たないだろう?」

しかし全く人なんて馬鹿にしてない。自分はこうだ、と当たり前の真実を宣言しているだけである。そう言っても「うぬぼれ」だと言ってくる人間もいた。「集まりの場では言うことも必要だ」とも聞いたことがある。

解決策は簡単である。そのようなことを言わないとうまくいかないような集まりの場には、行かないことである。自分は至らない、という発言は、多くの望ましくない現象を引き起こす。そのようなものを引き起こすならば、その場に行かなければよい。

私が他の武術家とつるまないのは、そのためである。私は事実の通り、朝から晩まで、そしてこれからもずっと生粋のプロで、最高のグランド・マスターであるのだから、その事実に、ほんの少しの泥もかけたくない。

よくない現象、それは、知らず知らずのうちに、自分に対して限界を持ってしまうことである。

自分に対する限界を作ってしまうと、それ以上先に進むことが困難になる。行き詰った時、そこで言い訳に走る。行き詰まりは、行き止まりでもなんでもない。ただ単に、そこで行き詰っただけだ。すぐに穴は空き、事態は変わるのに。

行き詰った時考えない方がいいことは、「もうだめだ」である。かといって、無理に前向きに考えろ、とも言わない。そんなこと考える必要もないからである。ただ何も考えない。それで十分なのだ。

私はこれを誰よりも言う資格がある。追い詰められたのに打開もできないとき、私は今まで通りを繰り返した。安っぽいスピリチュアル動画だと、そこで奇跡は起こる。しかし私は何も起きなかった。もっとひどいことも起こった。大切な人を失った。家を失って車中生活に三回なった。親を亡くし、死に目にもあえず、葬式にも行くことができなかった。それでも今まで通りを繰り返した。

人に批判され、役人に見下されても、己の毎日のルーティンを変えなかった。

何も起きてない時に、「苦しい時は○○しろ」と言うのは簡単である。しかし私は、その時も本当に、今までどおり、改善もせず、日々を実行し続けた。そしてそれが実は、今私持っているゆるぎない確信の最大の源なのである。

今までやってきたことを、ただ繰り返すだけである。行き詰った時は、たいがい精神的に苦しくなっている。立ち直れないと思う時もある。そのようなときに、ポジティブに考えようとすると、余計に負担がかかる。自分が以前住んでいた愛知県は、トヨタ自動車の影響もあり、中小零細企業でも、「改善」を採り入れる。本当にあれが嫌いだった。あれが嫌いだったから、愛知県も嫌いになったくらいだ。

事態を打開する必要もない。自分を信じるのみである。トヨタ系の人間は、他人(おそらく大野耐一)が考えた思考の一つを、貴重な自分の中に無理に取り込む。心酔して取り込むならいいが、ほとんどの人間たちは、会社の業務命令のために、そう考えるのである。寒気がする世界だった。

行き詰まるということは、「自分」という宇宙が、それだけやってきた証なのだ。自分のすごさを信じきって丸投げをし、何も考えず、改善などというしょうもないこともしようともせず、ただ繰り返せばいい。少し汗をかき、気持ちも変わるかもしれない。かといって、すっきりしたことで苦しさがなくなるわけでもない。でもそれでいい。自分が心底、自然に、気持ちいいと思ったのだろう?人に押し付けられた思考のフレームワークで生じさせたものより、はるかに価値がある。いや、くらべものにならない。とにかく、惰性でもいいから、繰り返すだけである。

的を外す、やたらと息があがってしまう、やたらと棒をつかみ損ねる、これだけ毎日動いているのに体重が増えた・・・すべて全く問題ない、すべてオーケーである。なにが起きても、繰り返せばいい。あえて言おう。これまでの君の積み重ねは、そんなことどうでもいいくらい、すごいのだ、うまくいかないことは、君を下げない。行き詰まりの時生じる事象ごときは、君を下げられないのである。君が自ら自分を激しく攻撃して下げない限り、下がることはない。

定期的に、惰性で、行う。それは実は、前に進むうえで、十分プラスに機能する。何もしなくても下がらないのに、惰性でもいいから動いているなら、下がるわけないだろう?

私は完全なプロ、グランドマスターだから、何も躊躇せず、転掌・八卦掌を指導する。私は近代八卦も膨大な量を積み重ねたし、そのうえ八卦掌の原型・転掌を再興させたのだから、国内外の誰にも劣らない八卦掌・転掌のマスターなのである。

だから私は、董海川先生と、楊コクチュウ先生、そして最高の師である水野義人宇宙先生以外、誰にもへりくだることはない。礼節は当然に尽くすが、自分を下に置かない。

董先生は、私が大好きで夢中になる、いつまでたっても上を目指すことができる技術体系を、この世に具現化してくれた恩人である。感謝しても感謝しきれない。

楊コクチュウ先生は、その具現化された、行き止まりのない技術体系を、私に教えてくれた。私の姿勢だけを評価し、色眼鏡なく私を信じ、伝えてくれた。そのおかげで私は、近代八卦から転掌へと移行する大きな飛躍を得たのだ。感謝しても感謝しきれない。

指導経験も圧倒的に長いうえに、イノシシや狂暴化した野犬、複数人の侵入者と、身の毛もよだつような実戦経験もしている。プロとして最高の経験をしており、なんら不足もしてないのである。

わたしが国内で最善・最高である。私の目指す境地において、他者の下に少しも置かれてないからである。他人の境地は知らない。他の武術家と比べることなど一切する必要もないから、当たり前に最高なのである。

私の優秀な弟子が、いいことを言っていた。「達人に必要なのは、対応力」だと。きっと彼には、もっと深い考えもあろう。しかしこの言葉だけでも、十分素晴らしい。明晰な彼は、今この瞬間も先に進み続ける天才である。

自分の心が示す行先に忠実になり、進路の変更や変化を恐れない。イメージした「目的に続く進路」へのこだわりを捨てて、引き続き進み続ける。これは、自分に対する揺るぎない信頼があるからこそ、自然にできることだ。

今このブログ文章自体、自分に忠実に書いた結果だ。どういうことかって?

明かそう。ネット上であふれる、「ブログ記事の書き方」のセオリーをまったく無視して書いているのだ。その文の書き方が、人の共感を得るから、そのように書く。しかしそのような書き方では、私は面白くないのだ。自分が出ない。自分を表現できない。最高の存在である水野義人というグランド・マスターを表現できないのだ。

起承転結など、くっそくらえだ。だから出版社に、あれこれ言われるのだ。それもいいだろう。無視されるのだ。それもいいだろう。

口を挟まれ、相手にされなくても、自分は変わらず最高の職業武術家である。プロである。現世最高の、グランドマスターである。

だから私は、いつも習いに来る人間に、転掌の原則をしっかりと実行させる。まだ何も知らない者に、口出しさせない。自由にやらせるのは、どうでもいい箇所だけである。

八卦掌や転掌を習いに来たのなら、未熟者は、一通り習うまで、素直に習え。何も知らないのに、この方がいい、と、積み重ねられた原則術理にケチをつけるな。だから私は、見学しに来た者が次から来なくても、落ち込むことはないのだ。何も知らない人間が、一度の見学ごときで、「これはいい、これはだめだ」などと性能を評価できるはずがないからだ。やりたい、やりたくない、が判断できるだけである。

転掌と八卦掌の指導をするとき、私の胸は否応なく高まる。楽しくてしょうがない。世界にとんでもない勢いで広がっている転掌を感じる時が、最高にいい瞬間である。これからもずっと見ていく。海で砂浜に立っている時も、木々の中で野鳥たちを見ている時も、浜辺で延べ竿を伸ばして釣り糸を垂れている時も、心には転掌の拡大が見えている。

だから堂々と言えるのである。八卦掌を習いたければ、私の元に来い。転掌を習いたければ、私の元に来い。金沢の人間は幸せ者である。今行動しないと、後悔する、と。大切な人を守りたければ、私の伝える転掌が最高である、と。

世界武術の原点~氷見市島尾海岸

今日は記念すべき日である。

前人未踏の道は、想像以上に辛いものだ。今日は、グランドマスターの愚痴に付き合って欲しい。

道を貫く、といことが容易でないことなど、頭ではわかっていたのだが、そこに待っているものは、圧倒的なことばかりであった。努力や心掛けでなんとかなるものでもなかった。

Youtube上にて最近量産されているにわかスピリチュアル教師どもは、どん底からの好転、を説く。私はずっと以前、その言葉を聞いて、毎日毎日底からの脱出を夢みて、進んできた。実はあれから、もう、3年以上もたってしまった。

その三年の中で、あまりにも過酷な底が続いた。多くのものを失った。家は3回も失った。自分の目指す道を共に歩むと言ってくれた人もこの世からいなくなった。いつも請求書におびえ、のたうちまわった。生き急いだ青年の死を見た時は、恐ろしくて夜いつも震えていた。そして・・・・本当に支えてくれた人も失ってしまった。その人の死に目に会うことも、送ることもできなかった。ここまでするのかよ・・。

それでも私は今日も、島尾の海岸に立って、いつもの通り、今日も進むと報告をした。

ここは世界武術・転掌の原点である。転掌は、私がこの世に生まれ、約束した人を守ることができず、そして楊師に巡り会ってその技の皆伝を得た時も含め、すでに世界武術になっていた。それは宿命である。

私は今この瞬間も、自分の島尾での想いを書くことで、転掌が世界に広がっていくことを実行している。

この場所から氷見市街の方向を見る時の景色は、今も変わらない。あの時は、すでに6月であったから、立山連峰は影のみであったと記憶する。そこには未来の家内がいて、水式門の名をくれた同級生が座っていたのである。プロフィールに掲載してあるイラストは、あの時のことを思い出してかいたのだ。

そんなこと書くの?書く!これは原点だからである。

何があっても練習場所に向かったのは、あの時の笑顔があるからである。私は苦しくない。この世に生きてられる。生きてられる以上、吹雪で吹き付ける氷雪も、土砂降りの雨も、苛酷に照り付ける太陽も、すべてが祝福である。私はそれを受け、何かを感じることができるのだ。

私に想いを託してくれた人たちは、それすらも味わうことはないのである。私がその分も受けないでどうする。

名付け親

死ぬまできっと動き続ける。移動遊撃戦でできなくなってきたら、何が違う手を考える。ずっと進化し続けるのだ。そうすることで、転掌が世界の隅々の本当に深いところまで浸透し、それが根底から、大切な人達の日常を守る。この世は幻想かもしれないが、私たちはここで泣き笑うのだ。だから退場させない。その役目を果たすことができるのは、転掌である。

多くのかけがえのない宇宙が、私の近くから去っていった。でも私はずっと、一緒にいると感じている。そして見渡すと、私の周りに、私の宇宙に共感する愛すべき宇宙もいる。共感し、志を汲んでくれる宇宙たちもいる。

今日は感謝しかないのである。あまりに最近、走り続けたばっかりに、さすがに身体が熱くなってきた。桜も咲いてきたことだし、明日は少し、花を愛そう。

「良師三年」の本当の意味~先生探しは時間の無駄である

あなたが今でも、「良師三年」の言葉に影響され、有名先生に習いたいと思い、先生を探す放浪の旅をしているなら、そんな無駄なことは今すぐやめてしまえ。

あなたは今すぐ、その場で、あなたが今まで習ったものを復習するのがいい。

良師三年。日本でやたらと有名になった言葉である。それは、日本人中国拳法愛好家が大好きな漫画による影響だろう。

私はこの言葉を、高校生の時、転掌の楊師より教えてもらった。

愛好家が言っている「良師三年」とは、全く内容の異なるものだ。楊師は言った。

『どんな先生でもいい。どんな武術でもいい。簡化二十四式太極拳でももちろんいい。その先生が、健康法としての武術しか知らなくてもいい。その先生に教わった技を、術理を、自分の身体で完全に再現できるようになるまで、徹底的に繰り返すことだ。やり込むことだ。

戦うのは、その先生の身体でではない。お前の身体で戦うんだ。仮にお前が武術界で名を馳せた先生に習ったとしても、戦う時はお前の身体で戦うんだ。それを忘れるな。

お前の身体は、やればやるほど、その技をより高い次元でできるようなるヒントをくれるようになる。転掌で言ったら、小成と言われる3年くらいから、そのヒントを身体がおのずと教えくれるのだ。

もう分かっただろう?そうだ、3年くらいから、お前の身体が、お前の身体でより高度に実行し得るためのヒントを、勝手に教えてくれるようなるのだ。外部の先生は、お前の身体と同一ではない。よってどれだけ高名な先生であっても、どれだけの名手であっても、お前の身体にとってベストの技法を教えることができないのだ。

私はお前に転掌の必要にして十分なものを教えた。それは技だ、術理だ。あとはお前がやり込んで洗練させていけ。迷ったときは、できないなりにただ繰り返せ。お前は「○○ができなくなった」と言ったが、横から見ていても、今の方がうまくいってるように見える。

それくらい、外から見ている人間には、お前の中で起きている感覚がつかめないのだ。お前が一番知っている。

お前の身体は間もなく、お前に多くのことを教える「良師」となる。いいか水野、良師三年とは、そういうことなんだ。有名な先生とか、歴代の達人とか、そんなんじゃない。

私はそのことが当たり前だと思った。しかしそのことを理解している人間は、どこにもいなかった。指導者にもいなかった。

水式館では、掌継人となった後、その弟子に自由にさえるのはそのためである。自由の範囲は、練習はもちろんのこと、指導・発信なんでも自由だ。自由にしておかないと、その弟子にとって最良の師の指導の邪魔をしてしまう。掌継人になった弟子の身体は、間違いなく良師となる。あとはその先生に任せるのみだ。そうすることで、その弟子はとてつもなく成長していく。

ブルース・リーは私と同じようなことをいう滅多にいない先生だ。私がブルース・リーが好きなのは、わたしと考え方がそっくりだからである。やはり天才同士は考え方も似通ってくる。

彼も弟子に、自分のコピーとなることを戒めた。だから彼は、ジュンファングンフーではなく、ジークンドーとして、その伝承を試みた。特定の具体的な技法を伝えると、その技法が独り歩きし、神格化され形式主義に陥り、パリサイ人(形式主義者)量産の集団となり果てる。

しかし残念なことに、ジークンドーと名を冠して教えながら、自身の修めた型を強いる指導者が多くなっている。

私は転掌(八卦掌)を教える際、最小限とする。それは省いているのではない。長年の発展という名の装飾化によって外にへばりついた余分なものをそぎ落としただけだ。

八卦六十四掌は知っていた。しかし中身は、形意拳と八卦掌の混在である。この型を作った人間は歴代の名拳士であるが、そんなことは関係ない。彼にとってはこの型はしっくりときたのかもれない。でも私には、違和感しかなかった。そして型が長すぎる。一通りやるだけで時間がなくなってしまう。

磨いていく技は最小限にせよ。技を創りたいなら、最小限の技を極めて、その術理から導かれる動きの中で「実行しやすい技」を、自分が使用する目的だけだと決めて、確立すればいい。

水式館発祥地・氷見島尾海岸で、一番弟子が転掌双短棒(双匕首)を練習しているイラストを見て欲しい。

彼女はいまだに、一番最初に習った「推掌転掌式」を好む。それが高じて、推掌転掌式とリンクしやすい双短棒を、最も得意な武器術をしたくらいである。

彼女は言う。「これ(推掌転掌式)はいまだに、上手くいくときといかない時があるんだ。上手くいかないときに限って、とんでもないインスピ(直感)が来るんだよ!飽きる、という発想が分からない。いまだに私に教えてくれるのに。」と。

このインスピこそ、彼女のもう一人の師だ。己の身体こそ良師だ。

つまり、ずっと続ける姿勢さえあれば、雑誌で毎月紹介される魔術師のような先生らに踊らされることもなく、すごそばで、最も近い場所で良師に巡り逢えるのである。

『幸せは、足元にあった』とよく言うが、それは拳法の世界にも当てはまる。

雑誌や動画で人気が集中している先生の所に行ったって、どうせその先生に習うことなどできない。「その他大勢の一人」とみられるだけである。有名先生の講習会を見てみればわかる。人が多すぎる。そして、教えているのはその先生の弟子だ。濃度が大幅に落ちたものから、あなたは多大な労力をかけて、何を感じるのか。

日本人は真面目であるが、自信が無さすぎる。横暴であるのはいただけないが、うぬぼれぐらいなら、誰にも迷惑はかけない。自分の見出したオリジナルを最善だと、思い切り勘違いしてしまえ。真の勘違いは、すぐに真実となる。だから今すぐ宣言せよ。

「私は稀代の達人である。偉大なグランド・マスターである」

そのように宣言すればいい。誰の許可も承認もいらない。あなたが自分のオリジナルを信じ、そう宣言した瞬間から、あなたは偉大なマスターとなる。このことに例外はない。

達人になりたければ、私の元に来い。しっかりと達人になるマインドを指導する。しかし各自の練習は当然必要だぞ。練習すると、それは自分が未熟であると脳に信じさせるからよくない、と言ってのける人間がいたが、そういう奴はイメージだけで強くなればいい。自分はそのアプローチは採らない。

水式館では、転掌と同時に、達人道も教えているのだ。

武術界に絶望している←最高の原動力

武術界に絶望している。なぜなら、武術と格闘技をごちゃまぜにして、どちらに居るとも気づかずさまよっている人間たちが、表通りを歩いているからである

私はいつも、渾身の力で作成した動画や情報を発信すると、無反応であったり、ひどい場合マイナス評価を付けられることに疑問だった。

でも分かった。格闘技中継を見て、それらを「本当の戦い」だと勘違いしている人間が圧倒的に多いからである。戦う必要もない、戦いについて覚悟もないサラリーマンが、空いた時間に暇つぶしに見ているのだから、響くはずもない

だから有名動画でも、格闘家が合気道に挑んだりするようなしょうもない暇つぶしにしかならないような動画が、圧倒的に氾濫するのである。つまらない。実際の戦でも何でもない。お金のために、互いにつるみあっている。お金の臭いしかしない。理念を感じないのである。

おそらくそういえば、きっと理念を打ち出してくるだろう。しかし行動がすべてを物語る。

そもそもYoutubeは暇つぶしをしにくる暇人のツール。ショート動画ができてその傾向はますます強くなった。同じような動画ばかりだ。AIの出現で、動画中のイラストも、生気のない同じような気持ち悪い顔した画像で構成された動画があふれてかえっている

ビジネス系なら、成功法則。オリジナルならいいが、他人の動画をパクった、有名著者の考えを編成して流すものばかりだ。まったくオリジナル性がない。チャンネル登録者数が万人単位であっても、関係ない。内容がそれだから響かない。

生き方系動画で、すごいチャンネルを見つけた。登録者数が20人程度である。90本近くも動画を出しているのに、である。

変わっているのである。その人が。最初は、見るに堪えない、と思ったが、それがインパクトになり、引きつけられる。生き方について説く内容は、多くの人が話すのとあまり変わらないが、例えがオリジナルなのである。感情的で、そこがまた、人と一緒に見づらい。しかしこれこそ、真の個性だと、感じた。

万人単位の登録者なんて、その動画の価値に何ら関係がない。私の動画サイトは、登録者数が500人程度である。しかし動画の内容は、ヤンキー格闘家や魔術系武術家のものよりも、はるかに学ぶことができるものだ。

おもしろくない?結構。私は、お笑い動画をあげたいんじゃない。暇つぶしどもの時間つぶし動画を提供したいんじゃない。

動画を上げると、最初はどんどん登録者数が下がっていく。そしてあとあとになって、一気に伸びるのである。再生時間も、後々で徐々に増えていく。それはどういうことか?私の動画に価値を示す、なかなかの者どもがいる、ということだ。

護身術にいらないもの。美学と美しさだ。

暇つぶし系動画を提供する連中は、この二つをやたらと強調する。もっとも実際の戦いで必要ないものを重視するのだ。そのような動画があふれかえるので、ほとんどの連中はそれらに洗脳され、私のように戦いの本質を突く動画にマイナス評価をつけるのである。

武術に美学はいらない。護身術サイトを運営している道場主らが、よく、護身術における各自のこだわりを語る。しかし護身術や武術に美学やこだわりはいらない。襲ってきた人間から身を守るための行動をとるだけなのである。かっこいい、美しい制圧術なんていらない。ただ己を守るための行動をとるだけである。

私は金沢で指導しようと試みて、失敗をしたようである。ここに続ける決意、成し遂げる行動力を持った人間はいないようである。まだ4か月だよ?というかもしれない。しかし4か月も募集したのである。それでも来ないのだから、ここに需要はない。もしくはやり遂げるだけの気概を持った人間はいないのである。

有名になったら来るかもだよ?有名になってから、のこのこと来る人間に、正直用がない。

有名無名を、選ぶ基準にしているから、いつまでたっても本当に止まる場所を見つけることができないのだ。次から次へと、色々な理論を持ち出して愛好家の興味をそそる誘惑なるものが出てくる。雑誌は、人が飛びつきそうなものにぶら下がり、それをおおきくあおって、そこから湧き出る利益をもらっているのだ。

そのような人間たちは、次から次へと場所を変え、やたら習ったものばかり増え、こともあろうことにそれを吹聴する。私はそれを聴いて真っ先に足元を見、試し掛けの場合の動きを見る。本当にものになっているかもしれないからだ。しかし、そうであった場合は一度もなかった。

自分の軸を欲しければ、自分の目を信じよ。雑誌に出ている、○○先生伝、そんなものはみじんも関係ない。対応できるかできないか、それだけである。

対応するためには、自分の目を信じ、自分の身体がいいと思うものを見つけ、それがなんであれ、それを信じて取り組み続けることだ。安易にキックボクシングの戦い方に同調するな。組手で100戦100敗でもいい、最初は。そこからつかめ。間合いを。どこに移動したら自分攻撃は当たり相手の攻撃は当たらないから。当たらないために、どの技術が必要か。それは相手と相対して、研さんを積まないことにはわからない。

選ぶのに、人の基準を用いるな。私は、最初に出逢った本の著者の道場に行かず、名もなき中国人就労生先生の教える公園に通い、大きな違いを得た。梁派八卦掌の伝人になれば、その名のもとに生徒も集めやすかったかもしれない。しかしその道を本能的に避け、それが大きな違いを生じた。

人と同じ。昔からあるモノに追随。長いものに巻かれよ。

現存武術界にみられるそれらの停滞に、私は絶望し、今ここに、転掌復活を宣言する。

『2つの技で「あなたを絶対に守る護身術」独学の指南書』発刊に際し、あなたへ感謝

本日、『2つの技で「あなたを絶対に守る護身術」独学の指南書』を発刊した。この成果を、私の宇宙にささげる。

忙しい中、少しづつ積み重ね、間に合わせるために進んできた。前に進んでいる事実を、私を支えてくれた大きな宇宙に、見せたいと思って進んできた。

MOTHER

3日遅かった。今日その宇宙は、その形をこの世から消した。私はその姿を見なかった。愛知に行かなかった。本日、準備してきたことがあった。そのために、私は金沢にとどまった。この週末に向けて、私は自分でも胸を張って言い切ることができるくらい、真剣に向き合って進んできた。

ここ2週間ほど、その宇宙は、何度も危機を迎えた。しかし私は、この道を進むグランドマスターとして、練習をやめなかった。私が梁派の伝承者を一方的に取り消され、愛好家らに舐めた態度をとられ続け、その中でサイトへのアクセスが激減し、自暴自棄になってそれが良くない状況を招いた時、その宇宙は苦しいながらも助けてくれた。

宇宙は、私の進む道に、必ずしも賛成ではなかった。でも助けてくれた。そんな宇宙が珍しくわたしに言ったこと。「義人が成功して援助してくれるようになったら、心置きなく、お金も心配もなくガーデニングがしたいねぇ」と。

私は毎日、練習中の原っぱで、海辺で、宇宙にお金を送金している姿、宇宙がウッドデッキで黙々と植木の手入れをしている姿をイメージして進んできた。無断でキャンセルされた時も、通信講座で期限までにお金が支払われず無断解約されつづけても、希望を見いだしてきた。

3日前はさすがにこたえた。ぼうぜんとした。しかし何とか気を持ち直し、すべきこと、そして書籍の完成に向け、さきほどまで奮闘した。いよいよ発刊である。

指導する技は、基本功・歩き方・単換掌・双換掌の4種類だけだ。でも、これらを真摯に練習すれば、きっとその人は我が身を守ることができる。そう確信できる内容である。

宇宙は拳法のことなど一切知らない。興味もない。私が転掌を復活させ指導者となっていることを知っても、それについて称賛もしなかった。宇宙は寡黙だったと思う。宇宙が私に最後に行った言葉は、「寝るわ」だった。そして両手で、どっかいけ、と示した。それが宇宙の最後の、私に示した意思だった。

宇宙らしい。最期まで、宇宙は私に対し、宇宙らしく接した。

これから先、ずっと、あなたへ感謝を気持ちをもって進みます。本日、あなたはこの世からその姿を消しました。これからも、この道を進みます。方針は変えます。本当に必要としている人間に、届けます。待ちません。安売りしません。

今までありがとうございました。そしてこれからも、ありがとう。

発刊書籍のカバー

今この瞬間に達人になる方法

それは、今まで周りから聞いた色んな常識・他人の価値観・メディアによって紹介されたもの、SNSなどの情報(雑音)よりも、あなたの直感が心地よいと感じるものを重視し、それを今この瞬間から、自分が納得できるくらいまで、追い求め始める、ということである。

「何言っての?達人ってのは、だれからも尊敬されるような境地になっているような人のこと」

「そんなこと言ってるが、お前、実績あんの?」

「お前なんて、いっつも俺に負けてたじゃないか」

「どの先生に習ったの?どこの流派なの?正当な伝承者なの?」

ここに挙げたのは、情報という名称を用いる必要もない、単なる雑音である。もしあなたが、これらの意見によって「達人」であると宣言するのをためらっているなら、この記事を読んでもらいたい。

冒頭を読んでお分かりの通り、いますぐあなたが達人になるには、あなたの直感がいい、と思ったものを、今すぐ深掘りし始めることである。

それだけ?それだけでいきなり達人なの?そうお思いだろう。気持ちは分かる。私も、この考えに至るまで、ゆうに四半世紀はかかったのだから。

直感に従うのが難しいのなら、既存の達人の概念を捨て去ることから始めないといけない。おおかた、あなたが心に持っている達人のイメージとは

・最強である
・有名門派で正式に伝承者になった肩書がある
・誰からも尊敬されるような人格がある
・誰にも文句を言わせないような、武勇伝がある

であろう。

これらは、この記事で述べる達人の条件に入っていない。必要ないものばかりである。

これらがどうしても必要な場合とは、「達人」という名を利用して、ビジネスをするときだけである。

よく見て欲しい。これらの要素は皆、他人の評価や他人との比較によって成り立つものばかりである。

達人は最強である必要はない。最強でなければならないなら、一人しかいないはずである。そんなことはない。有名門派でならった経歴。戦うのは自分である。有名門派が戦ってくれるのではない。だれからも尊敬されるような人格。誰からも尊敬されることがないことは、あなたの日常生活でも実感できるはずだ。必ず誰かに嫌われたり、批判されるものだ。武勇伝・・・そんないい加減な不確かなものが達人であることを証明するなら、それこそ誰でもなれるのである。

達人とは、自分に対する絶対的な自信である。その自信とは、自分自身で見出したものにどれだけ、心血を注ぐかである。そして注いだ期間は問題ではない。どれだけ、自分のオリジナルを信じているか、なのである。

今すぐなるための手順をお教えしよう。

まず、自分の直感に全幅の信頼を置くこと。違和感を感じる他人の意見や価値観に、従わないようにすることである。そこからスタートする。

そのうえで、自分がいいと思ったやり方、工夫を、その瞬間から練習しまくることである。きっとあなたの心に浮かんだ直感とは、あいまいで抽象的なことばかりだ。だから動いて、試すのである。

やってみてやっぱりいい感じだ、と思ったら、本格的に行動し始めること。実はここまでくるとすでに、あなたはあなたの直感部分に関しては、誰よりも時間を注いでいるのである。

私が常々、自分のオリジナルを大事にしろ、と言っているのはそのためである。私は弟子に、マスターではなく、グランドマスター(一代宗師)になって欲しいのである。

私の中で、達人=マスター、ではない。達人=グランドマスター、なのである。

自分のオリジナルを狂信的に信じ、突き進むことは、まさに宗家の特質を持っている。宗家は、「これって間違ってませんか?」と人にお伺いを立てて流派を立ち上げたりしない。宗家はいつも、事前に誰かに尋ねることもせず、いきなり「宣言」するのである。人がそれを必要としているかどうかなど調査せず。「宣言」は、自分の直感が生み出したものに対する絶対的な信頼から発せられるのだ。

これは最高のものだ、価値にあふれているものだ、これはチャンスだ、凡人が群がってくる前に早く習いに来い、と言う。

自らを天才と確信し、実際天才なのだから、そのように決断をし、進む。達人が先生であるならば、それを指導するために様々な手段を次から次へと展開していく。怖さなど無い。一番重要で難しい部分である「スキル」が備わっているからである。

拳法教師に習いたいもの、それは拳法のスキルである。拳法を利用したビジネスの方法ではない。有名先生のところで習った肩書や満足感が欲しい連中は、少し思惑が違うが。皆その先生の技術を習いたいのである。独特のその技術を習いたいのである。

どの技術は、先生のオリジナルであればあるほど、熱心な後進を招く。その他大勢の一般人には敬遠されるかもしれない。しかしそれこそが、天才の証である。グランドマスターの証である。独自の境地を進んでいる証なのである。

凡人は、雑誌やメディアで紹介されている先生を見て、内実も知らずに「いい」と判断する。有名メディアが発する動画を見て、華麗にさばく動きを見て、いいと判断する。しかし本質を見る者は、自分の直感を信じるのである。

私のところの門弟は皆、そのような者たちばかりであった。私の古参門弟らは、私が有名流派の指導許可を得た時、明確にそれを習うことを拒否した。彼女らには本質が見えていた。そして自分の直感を信じる達人的要素がしっかりと備わっていたのだ。

古参らは、いまだに「転掌」しか練習しない。私が近代八卦掌を、転掌の術理で再編成した後、初めて習うようになった。八卦掌より、連身藤牌を学びたがった、生粋の変人たちである。

本質を見抜くための最初の一歩を踏み出そう。

もしあなたが独学であるならば、近くの先生の道場に弟子入りをし、武術を習ってみることである。きっと知らないことがあるはずである。私は、近くの公民館の太極拳教室で指導する内容に、大きなヒントを得たことが何度もある。なぜなら私は、太極拳は知らないからである。知らない領域から習う者は多い。独学のあなたであれば、知っているのはその雑誌・書籍に書いてある内容だけであろう。おおよそ基礎のみである。海外の書籍であれば、そこで教えているのと違うことが書いてある場合もある。

あなたの近所で教えている先生は、あなたよりも知っている。先人である。よって教えを請い、そこで習ったものをベースに、自分の独自の世界を築くのである。それは大変楽しい作業である。宣言するとき、先生の名前も拝借してもいい。たとえばあなたの名前が水野で、鈴木先生であったならば

「水野二十四式太極拳 鈴木先生伝」

このように堂々と宣言することである。※鈴木先生の許可は必要だろうが

これであなたは、立派な達人として、そのように振る舞っていくのである。達人として練習し、達人として発信し、達人として日々を送る。気づいたとき、周りにはあなたに影響を受けた門弟が集まっており、内外共に実感するであろう。「ああ、自分って、達人になってたんだ」と。

さあ、いますぐ行動をしよう。自分の得意なパターンはなんだろうか。それを試してみるといい。

フィクションの中であるが、織田信長の重り役平手政秀が青年信長の奇行に心を痛め自害した際、彼の死を悲しみながら、

「見たり聞いたり試したり思う存分に生きてやるわ」

と口にするシーンがあった(4:10秒あたりから)。あのシーンは、いまだに心に残っている。

試すことである。きっと一度きりである。人は批判もするだろうが、言った瞬間から自分のことなど忘れている。

今すぐ、自分の道を歩き出し、さっさと達人になってしまおうではないか。

八卦掌水式門富山本科イメージ

「誰でもできる」「本当に使える」護身術を教えよう

あなたは「護身術」と聞いた時、どのようなイメージを頭に浮かべますか?

・つかまれた手を巧みに払いのけて逃げるもの
・強烈な男性襲撃者の攻撃を、両手で防いで我が身を守るもの
・捕まえてきた、もしくは手をつかんできた男性に、関節技のような巧妙な技で外して、もしくは、身体各部位を使った奇襲攻撃で先制攻撃してひるませ、逃げるもの

このようなものを頭に思い描くでしょう。そしてこれらの技法と共に必ずと言っていいほど書いてあるのが、「力のいらない」「力のぶつからない」「誰でもできる」というフレーズです。

そしていつもこのように結ばれます。「本当に使える護身術」と。あなたは、これらの技術を、襲撃者相手に成功させることができますか。

「力がいらない」「誰でもできる」「力がぶつからない」なら、今この記事を読んでるあなたでも、その後ろにいる運動不足の御家族にも、練習次第でできるはずです。

しかし私は、これらの護身術を見ても成功させる自信がありません。わたしよりも体格のいい男性襲撃者が、理性を失った状態で私の手をつかんできたら、振り払うことはできません。私は何度も、練習をしました。練習すればできるかもしれないと思って。でもできませんでした。成功するときもあります。しかし成功の数よりも多くの失敗をします。これでは、いざという時の備えになりません。

私のように、何十年も一日何時間も、上を目指して練習してきた者でも、成功するかしないかはその時次第なのです。言い方を変えれば、その時襲ってくる「相手次第」なのです。もう一度聞きます。あなたは襲撃者相手に成功させることができますか。

できない、難しそうだ、と思ったあなたへ。ご安心ください。

「つかまれない」技術を磨くことで、「力のいらない」「誰でもできる」護身術にすることができます。私がずっと習ってきた拳法にして、八卦掌原型の「転掌」という王宮護衛官武術です。

先に言っておきます。私はこの拳法に偶然に出会ったのではありません。ここで示す護身術は、たまたまやっていた拳法を、弱者護身術にカスタマイズしたものではありません。弱者護身の道が無いか?と心の中で求め続けたからこそ、転掌のなかに弱者護身の術理を見い出し、かつそれをし続けることで、失伝寸前の転掌の技術体系を復活させることができたのです。

転掌は、王族をも守った護衛武術です。その担い手は、武術素人で身体的不利者の、宦官(去勢され蔑視対象の身分であった男性官吏)・宮女(下級漢族八旗の娘)でした。

転掌には、護衛技術に二つの段階があります。

一つは、スライド移動距離を長く取り、移動の長さで敵を離し離して、「つかまれない」で一定時間生存し、時に電撃奇襲を仕掛け気を引きつけ、囮(おとり)となって、おとり護衛する段階。この段階は、転掌経験の浅い者が行う段階です。

もう一つは、主に一人の敵にたいし、自分の攻撃は当たるが、敵の攻撃は届かない入身法によって保たれた距離を武器に並走スライドし、変則的な撤退戦で東から西から攻撃し、倒し護衛する段階。この段階は、転掌の達人レベルの段階です。

「力のいらない」「誰でもできる」護身術は、移動遊撃戦によって一定時間生存し続ける「つかまれない」技術を磨く「一定時間生存術」によって実現可能となるのです。

日本の護身術教室は、「危険を避ける」「危険に近づけさせない」啓蒙を行いながら、その技術はまったく違うものです。

そこで行われる多くの技法が、すでに敵に手をつかまれていたり、身体をはがいじめにされている状態から始まるものばかりです。つかまれないための技法を教える教室はぼほありません。あってもついでに教える程度。それがメインではありません。

転掌では、逃げ方(※本当は移動戦の仕方)、敵の足を止めるけん制攻撃の打ち方、けん制攻撃を打ったあとの移動方法、目の前に立ちふさがった敵への電撃攻撃方法までが、シンプルで明快な説明で展開されます。

とにかく「つかまらない」ことにこだわって、つかまる直前まで、なんとか回避するための技術が、堂々と正規に、伝わっているのです。

ここで一般の護身術の流れを見てみましょう。

1.つかまれた時に、つかんで拘束してきた相手に、身体の各部位で、先制攻撃する

2.一発目を打たれてひるんだ敵に、連続攻撃として、再度攻撃

3.完全にひるんだ敵に目もくれず、ひたすら人にいるとこまで離脱回避する。

その技法の担い手が「弱者」であった転掌は、「つかまられる」「捕まる」状態を最悪な状態と位置づけました。弱者にとってつかまれることによって生じる「相手次第」の状況は、「死」を意味すると考えたからです。

とにかく「生存」することを目指すために、攻撃を当てることを犠牲にしても敵につかまれない技術を開発・確立し、「自分次第」の護身術にしたのです。

ここで最もシンプルな転掌の技法をお教えしましょう。

敵が接近してきたらすぐ敵の反対側へ移動し、両者の間に物理的な間隔を作ります(これは、相手にとって感覚的なものではなく、実際に課間隔を作りだす、ということ。相手の主観による間隔は、相手次第であるため)。

頭をまっすぐにして敵に背をほぼ向けて移動します。接近してきたら、手を出して敵の攻撃軌道上に手を出し(当てる必要はない)敵の攻撃をさえぎり、すかさず身体を入れ、肩が入った瞬間に手を出し、その入り身で身体向きが変わった方向へ移動方向を変えます。この一連の動きで敵との距離は、一段と離れるので、それを繰り返し、敵の足が止まったら、ここで初めて離脱するのです(㎞単位で)。

この一連の流れこそ、転掌の単換掌であり、八卦掌でもっとも有名な型「単換掌」に相当する型です。

追撃してくる強者たる敵が、急接近し実際に攻撃してきた・・・転掌における戦いの中で最も危機的な状況をやり過ごすための、最もシンプルで最も省エネ的な方法だからこそ、「単換掌」は「転掌」「八卦掌」の基本技となり、一番早く理解すべき型となっているのです。

ここで近代格闘術的護身術を知る人などは、思うでしょう。

「でも、敵がつかんできたらどうする?」

そこでどうしても「つかまれた」状態からスタートするのは、あなたの頭の中が、その状態から離れられてない証です。つかまれた後のことが心配なら、つかまれた後の対処法を習いに行けばよいのです

しかしつかまれた後の対処法をマスターするよりも、つかまれない方法をマスターするほうのが、圧倒的に時間は短縮でき、かつ成功率も高いのです。転掌のつかまれない技術は、本当につかまれる直前、まで、回避可能な技法となっています。頭の中で、どんなことがあってもつかまれない、決意をして、その技法に精通すれば、おおよそつかまれることはなくなります。

つかまれないための具体的な方法をお教えしましょう。

つかまれないために。まず常に視野を広く保ち、自分の直感を信じることです。視界の端から自分に接近してくる不穏な人間がいたら、即座に、その接近人物と反対側へ移動します。移動方向へ追随してきたら、それは危険の明確なサインであるため、すぐさま離脱行動に入ります。「Go!」です。かなり広い間隔から行動することで、敵の思惑である「スッと」近づく意図をくじきます。これは先制攻撃ではありませんね。だれも傷つけることもない、100%合法的で、あとくされの無い先制行動なのです。

それでも「つかまれた」後の技法を知りたいあなた。ご安心ください。

日本には、たくさんの優秀なレベルの高い護身術教室があり、それらはすべて「つかまれた」後の対処法専門教室です。多くの選択肢の中から、あなたの納得できる教室を選んでください。あなたに合った教室で、「つかまれた」後の行動をしっかいと磨いて、その不安を解消しててしまえばいいのです。

「つかまれたらどうするんだ」と言う暇を利用して、そのスマホで優秀な「つかまれた」時の対処法を教えてくれる道場を探し、想いを遂げてください。

ここで近代格闘術式護身術道場を選ぶ際の、アドバイスをふたつ。

まずひとつめです。筋トレをプログラムに入れているところは、時間のない人はやめておきましょう。時間がない人、とは、すぐさま護身術が必要な人のことです。筋トレで筋骨を鍛え敵への対抗力を増すアプローチは、強者になるためのプログラムです。弱者が強者に変わるためには、非常に多くの時間を要します。今すぐ必要な方は、有事に成果を間に合わせることができません。

ふたつめ。先生が、常に相手をしてくれる道場を選びましょう。先生の模範は、技術上達において欠かすことができません。一番良いのは、自分自身が敵となって襲い掛かり、先生がそれに対応する際の動きを見続けること。それはあなたの頭の中に鮮明なイメージとなって残り、そのイメージをしながら練習することで、あなたの動きはそれに近づくのです。これは、横から先生の動きを見るのとは決定的に違います。入る角度、両者の距離感、入身法使用時の急速転身さなどを体感することで、あなたの頭が次からあなたの動きに模範の動きをさせるようにしてくれます。近代格闘術的護身術では、これに加え、自ら人の力任せの攻撃の中で技をかける練習をすることです。独りよがりを避けるためにこれは欠かせません。同時に、先生が力任せの攻撃に、どのように対処しているかを何度も見せてもらいましょう。見せたがらない先生の道場は、即止めておきましょう。できない可能性があるからです。

自信がない。行動が大変そう。そんなあなたへ。

ご安心ください。

転掌は、その技法が敵との一定の距離を保って、離れて行う技術体系であるため、要点を押させた一人練習による技術練習である程度のレベルを確保することが可能となります。独習に最適なのはこの点です。

一人練習の良い点は、人の協力を必要としないことです。自分さえやる気があれば、いつでもどこでも、気の済むまで、繰り返すことができます。おおよそ、護身術を練習する人は、一人である場合が多いものです。人を使って練習することできないから役に立たない、と決めつけるのではなく、その欠点を、膨大なくり返しで跳ね返してやればいいのです。私はずっとそのようにして、転掌を再興させる境地にまで達したのです。

下の動画で、私の単換掌の動きを、敵目線から何度も見てください。師の実際の動きを、自分が技をかけられて体験することが、最も早く上手くなる方法なのです。手を出す瞬間、実際に敵が接近する際に合わせた動き、頭の向き、姿勢。すべてがあなたにとって参考となる材料です。

やる気のあるあなたであれば、一人練習でも、本当に使える護身術をマスターできます。マスターした後の世界を考えたことがありますか。理不尽な要求に屈する必要のない世界です。大切な自分とあの人を守ることができる世界です。やる気のあるあなたには、是非この世界を味わってもらいたいと思います。

転掌はシンプルです。しかし「シンプル=簡単」ではありません。転掌の自分護衛術をマスターする際は、膨大なくり返しを要します。そうではあっても、「自分次第」の技術体系は、修行期間を大幅に短縮させることに役立っています。

昔の武術は、まともな学校教育を受けたことのない「学識レベル」の低い者が、「すぐに使える」技術体系を備えてないと、相手にされなかったのです。転掌も例外ではありません。特に転掌は、想定使用者が、武術素人の身体柔弱者に限定されていました。より一層、短期で無理のない、一切の華やかさもない、実用直結の技術体系を求められました。

理屈が複雑だったら理解できません。技法習得が難しかったら、誰も使うことができるようになりません。習得に時間がかかったら、いつ来るか分からない「いざという時」に間に合いません。

転掌のシンプル・即効性のある技術体系を信じ、そのシンプルさに飽きることなく信じ続け練習を重ねる者は、いずれ来る「いざという時」に実用レベルへの昇華が間に合い、大切な自分・大切な人を守る「必然の結果」を生じさせることでしょう。

そしてそれは、誰にでも可能なのです。あなたにも。自分を守る、大切な人を守る、その決意を抱いて行動した者に、女神は微笑むことでしょう。転掌が求める「すべきこと」は、誰にもできることだけだからです。

これこそが、すべての人に希望を与える、「本当に使える」護身術なのです。

八卦掌水式門富山本科イメージ

転掌式(清朝末式)八卦掌は、現存流派に縛られない成立当時原点スタイル

八卦掌水式館で指導するのは、転掌(てんしょう)と八卦掌である。八卦掌には、名前がある。「転掌式八卦掌(清朝末式八卦掌)」だ。

名前なんてどうでもいい?いや、国内主流の近代スタイル八卦掌と同一視されると問題があるため、この名をつけた。それくらい、清朝末式八卦掌と近代スタイル八卦掌は、別物体系なのである。

程派、尹派、梁派・・・それら著名流派に加え、八卦掌にはたくさんの流派がある。

そもそも「派」とは「派生」や「枝分かれ」のニュアンスを含む。

だから私は、自分が指導する八卦掌に、「~派」という名称はつけない。原初スタイルゆえつけたくないし、そもそも、~派という名称の入り込む余地がない。

なぜなら、私のたどり着いた楊師伝の八卦掌は、原初のままの、枝分かれする前の八卦掌だからだ(原初と近代に優劣はない。スタイルの違いである)。厳密にいうと、「転掌」である。

「原初のやり方に忠実に従った原初のスタイルによる」の意味なら、「~式」こそがふさわしい。よって、清朝末式八卦掌・転掌式八卦掌と呼んでいるのである。私は、この呼び名を大変気に入っている(~派と呼ばれるのは、本当に嫌だった)。

この呼び名は、サイト上にて言うにとどめている。門弟にとって、このようなことはどうでもいいことだからだ。私に続く門弟は、各人思うように進むのがいい。

そもそも、弊門指導の八卦掌が、原初スタイルと言い切ることができるのはなぜか。

それはもちろん、楊師より「原初スタイル」だと聞いていたこともある。しかし何より、各流派に共通して残っていた型・姿勢から推しはかり、そのうえで、30年以上もかけて実戦・組手・単独練習の果てに確信したものだからだ。

他人の文献をを参考にしたからではない。現在の中国国内の著名先生の書籍にも、清朝末式八卦掌に関わる記述はまったくなかった。隠しているのか、それは分からない。しかし書いてないのは事実である。皆、敵に向かって積極的に攻防する八卦掌である。

拳法は、書物での伝習は難しいとされる。すべてを書物から、では確かに大変だ。しかし、究極の達人先生から教わらずとも、(指導許可を得るくらいの実力を持つ)先生から、動作の仕方・手順を教わりさえすれば、あとは、ひたすら繰り返すことで、技の術理も含め、すべてを君の身体が教えてくれる、のも実感している。

私たちの身体は、あまりにもすごい有機体である。科学の力をもってしても複製することなどできない、奇跡の物体である。

その奇跡の物体が、教えてくれたものだ。「このやり方・・・いいな」「やっとわかった、こういうことか!」突然感じるその悟り・サインこそ、真実が分かった時だ。そのサインを積み重ねていき、たどりついたのが、この清朝末式八卦掌。だから「確信」しているのである。

もちろん、いまだに謎の部分もある。しかしそれは、これからの研究の果てに、きっと明確にわかるもの(つまり、引き続き、死ぬまで、ずっとずっと追い求める、ということだ)だと確信している。

だから君は、師を選り好みする必要などないのだ。雑誌やyoutubeに出てくる先生だけが、先生じゃない。私は有名先生は意図的に避ける。なぜなら、どうせその先生から習うことはできないから。おおかた、その先生の弟子に習うのが関の山である。わたしなら、無名でも、独自のスタイルで教える先生がいい。何より生徒が少ないから、ほぼマンツーマンで習うことができる。そしてその先生は、そのスタイルのグランドマスターである。最も深く、その体系を理解している人だ。最高の先生である。

よく人は言う。原点回帰ですか?原理主義ですか?と。いいや、違う。「清朝末期頃のスタイル」にたどり着くのは、ゴールではない。通過点だ。

私は、もっともっと先を見据えている。しかし、ここまで時間がかかり過ぎてしまったのも、事実。大きな回り道ををした。その過程を含めると、ゆうに38年。試合想定・強者使用前提となり、本来の八卦掌が持っていた最大の特徴から離れてしまった現在主流の近代八卦掌からの離脱は、想像以上に大変であった。

習っていた近代梁派門を事実上追い出される形となり、当時は相当憤っていたが、考えようによっては、全く自由に行動できる、ということ。

事実、所属門を辞してからの技術の向上は、すさまじいものがあった。所属していた時は、梁派の技術体系に疑問を持ちながらも、それに追随する自分がいた。しかし今は、問題なく離れ、どんどん後退スライドし、縦横無尽に駆け巡っている。自在である。敵や固定観念にとらわれない、自在な動きを、転掌と転掌式八卦掌は与えてくれた。

練習の最中、敵前にとどまる練習を少しだけ行っている。その後、後退スライド術理に沿った清朝末式で練習をし始める時、いつも思う。「なんて自由に動くことができることか!」

以前の私は気づかないうちに、著名流派の形式主義に陥っていたらしい

近代スタイルでは、敵の力とぶつかるのを避けられない。どこかしこで必ず、敵の力と積極的に抗する場面がある。その抗する瞬間をやり過ごす技法が、あまりにも難しく、成功を妨げる。

やり過ごす技法を完璧にこなす人を、ほとんど見たことが無い。「相手次第」という極めて厳しい技術体系を克服するような技法は、相当習得が困難だ。私はとにかく練習したが、結局、勝ったり負けたりで、攻撃を受けることが絶対に許されない「護身術」として、教える自信を持つことができなかった。

※打ち合いや、打たれづよい体で対抗する発想は、試合想定の発想である。護身の場面では、攻撃されるは、斬られる、刺される、である。打ち合い前提の技術体系では、対応できない。

近代格闘術で護身をするには、膨大な対人練習(相手を必要とする練習)が必要となる。転掌式八卦掌は、最初こそ術理をマスターした人間の導入が必須であるが、その後は、対人想定練習(対人を想定した一人練習)でかなり上まで技術を上げることができる。しかし、近代における力とぶつかる瞬間を制する技術は、対人練習でないと独りよがりとなってしまう。

正直、近代八卦掌を練習している者の中で、対人練習を定期的に行えている人間はどれほどいるだろうか?私は、師の会に所属していた時、必ず、対人練習に積極的に挑んだ。

相手に圧倒されても、そこから得るもののために立ち上がって臨んだ。あれほど積極的に対人練習に挑んでいる人がどれくらい、近代八卦掌修行者にいるだろうか?八卦掌の経験者と手合わせをしたことは何度もあるが、対人練習をやり込んだと推定できる人に出会ったことが無い。

これでは力任せの攻撃をいなす技法は手にすることができない。「相手は体格がいいから仕方ないね」とよく耳にする!が、それは実戦では「死」もしくは「蹂躙」を意味する。私は学生時代、理不尽な暴力を押し通され、大切な人を失い、身をもって実戦での敗北の悲惨さを経験したから間違いない。

これからますます、転掌・転掌式八卦掌の指導を加速させていく。弱き者が立っているためには、このスタイルしかないと信じているからだ。

全く迷いがない。梁振圃伝八卦掌で指導許可を得た自分だが、指導許可をひっくり返された経緯があり、梁派に未練も湧かない。

個別指導科では、梁派近代八卦掌コースを新設している。しかし、当コースは仮入門制なしで教える(グループでの指導にも応じる)。仮入門制を採らないくらい、梁派の名にこだわってないということだ。(梁派近代八卦掌コースでは、それだけの履修修了で八卦掌第7代掌継人にはしない。護身や指導ができないからである)。そしてもう、このコースは、金沢移転とともに閉鎖した。

強者の力任せの攻撃に圧倒されているなら、弊館で転掌・清朝末式八卦掌を練習するといい。

女性に護身術は意味がない、と言われて行き詰っているなら、弊館のウーマン・ライト・ガード(女性警護人養成科)で、転掌・清朝末式八卦掌の術理を学ぶといい。

いじめで体格のいい複数人の同級生に、意に反する要求をのまされているならば、いじめ護身部の動画を参考に練習をし、通信講座を利用して学ぶといい。勇気を出した君を、私は真摯に指導する。

本当に身を守ることができる護身術を学びたいならば、君が・あなたが、よほど体格や筋力等で恵まれてない限り、力がぶつかるスタイルの格闘技をもとに作った護身術では、護身を果たすのは難しい。清朝末式八卦掌の弱者護衛術・弱者護身術そのものの技術体系を味わうといいだろう。

斜め後方スライドし、縦横無尽にかけめぐり、護身のみであれば、頃合いをみて、キロメートル単位で離脱しなさい。確実に護身を果たすことができる。既存武術のような小手先の手技で防御するな、清朝末式八卦掌の術理による、圧倒的な移動距離で防御せよ。

映画「グランドマスター」を見たことがあるか。あのスタイルは、攻撃時敵に向かっている。よって近代格闘術八卦掌である。転掌式をマスターすると、あの華麗な攻撃を、前に出て攻撃してくる敵と並走スライドしながら、行う。達人レベルになれば、あの映画のような攻防をすることができるのである。だから夢を持て。

趣味やファッションで護身術を学ぶなら、それはそれでいい。しかし、本当に護身が必要ならば、力がぶつかるスタイルは、対人練習環境が整っている道場でない限り、避けよ。

もし一人で練習するしかないなら、八卦掌水式館の入り口を叩いてほしい。転掌・清朝末式八卦掌の転掌術理を学びに来なさい。やる気のある者との出逢いを楽しみにしている。