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実戦経験~満点のとりにくい試行錯誤なもの

今、なぎさドライブウェイより、このブログを打っている。

実戦とは満点の無いものである。そしていつも、後になって「ああすればよかった」と思うものである。実戦について、水式館で実戦経験の最も豊富な一番弟子とよくその話をドライブウェイでしていた。今日はいい機会である。

私も、私の子らも、多くの実戦経験を積んだ。それは人間相手であったり、獣相手であったり。獣相手は私だけだが。

彼女らと話していて分かることは、後になって誰もが、「もっとああすればよかった」と思っていることだ。

実戦経験は、突然やってくる。なんの前触れもなくやって来る。私は、なんの前ぶれもなくやってくる突然の極限を、弟子らにも少しだけ味わってもらいたいと思っている。

そのために、練習中に、突然、緊張する場面を用意する。今回の講習会では、複数人がいたため、突然、多人数戦を経験してもらった。

掌継人には、私が熱くなった状態で向かってくる緊張感を味わってもらっている。何度もこの手を使ったので、バレバレとなってしまったが。

しかしいつも、それなりに緊張してくれているはずである。

私自身、多人数組手をする予定であったが、いつ披露するかは全く決めないで臨む。公園内の人の流れ、周りに人が居なくなったタイミングなど、いつ行うかきめられないこともあるからだ。自分が襲われる側となると、近くに人が寄ってきたことが分かりにくくなる。自分が襲われる役の場合、完全に周りに人がいなくなった状況でないと、できないのだ。そしてベストのタイミングが来たときに、突然、多人数戦を行う。それは、模範を示す立場にとっては大変なことなのである。いきなり動けなければならない。模範を示す以上、いつでも、最高の手本を見せなければならない。いつ多人数戦の模擬を行うことができるか、分からない。タイミングが来たら、どのような状況であっても、ベストの状態で多人数戦の模範を示す必要がある。

それを実現させるためにはどうしたらいいのか。先ず第一に、いつでも動くことができるよう、毎日練習することである。そして、体重をふやさないなどの身体管理をすることである。そして究極的に、どのような状況であっても、敵の急襲に際し、敵の力の反対側へ移動し、距離を創出することができるように、基礎練習を繰り返すことである。

多くの方が、自分がいきなり人に襲わせて、すぐにトップスピードで動くことができることに驚く。準備体操なんていらない。練習は、その日の未明には終わらせているので、自信がある。これは大きい。そしてやはり、身体もすぐに動く。

この私の教えに、最も忠実に取り組んだのが、弊館一番弟子である。その準備が危機を引き寄せてしまうのだろうか?彼女は何度も、時に命に関わるような実戦経験をしている。

そこまでいかなくても、戦い慣れからくる落ち着きと凄みで、不審者を追っ払ったこともある。

一番弟子の練習技は、いつも「普段着」だった

もっとも印象的だった話をしよう。

私と一番弟子が、海岸で少し離れて座り、目を空けた瞑想をしていた時。一番弟子のすぐ隣に、30代後半くらいの、割と大柄な、髪の茶色の男性が突然座った。

なんだかいい感じだね、何してるの?と。男性。ナンパである。

そうすると、一番弟子は、その男性を注意しようとした私を手で無言で制止し、カバンから警棒を取り出して、思い切り伸ばす。そして男性にむけて警棒の刃部を向け、突き出し、しばらく無言を貫く。

男性は、ぬおっ、と言った後は何も話せずに、とまどったような顔を見せる。

そこで私が、男性の横で、同じように警棒を振り出し、棒を下に垂らし,自然体で、何も言わずに見つめる。男性の顔が険しくなってきたからだ。片や一番弟子の表情も、すごい形相になっていた。

そこで一番弟子が沈黙を破り、

「はよう、どっか行けよ」

と一言放つ。そうすると男性が、「はぁ?」と不満そうに言い返す。

一番弟子は、自身のいつものスタイルで身体を入れて構え、見すえ始める。完全に目が座った状態で、細目で睨む。来たら打つぞ、の意思表示である。

その姿勢をみて、男性はついに一番弟子から離れる。凄みと構えだけで、追っ払ったのである。

この対応が満点とは言わない。戦いを誘発する危険もある対応である。しかし、大柄でかつ、突然間合いを詰めて横に座るような男性に、冷静さと、日頃のスタイルで対抗することを貫いた一番弟子は見事に映った。

彼女は常に、実戦を意識している。高校時代は、常に学生服で練習をしていた。襲われることがあるなら、きっとこの格好の時だろうからと言っていた。実際に、不審者に言い寄られ、転掌の推掌転掌式で打って離脱回避したときは、学生服だった。

実戦経験とは、突然来るものだ。一番弟子や私のように準備を常にしていても、満点には届かない。常に襲われる危機感をもって、練習するしかない。何度も経験できないのなら、練習会でとにかく襲撃してもらうことだ。

本当の実戦でなくても、その動きを体験することで、私の話す「ここはこうするように」の意味が分かる。私がヒントを与え、あなたが自分自身の体験で、術理を悟るのだ。

私は、これからも、訪れる有志に、ヒントを与え続ける機会を設ける。参加してほしい。そこで経験をし、何かを掴んで欲しい。

本当の瞑想をおしえてあげる。愛した瞑想は、描くこと。

瞑想をやっている。私は、ずっと四六時中、拳法をしているわけじゃあないわよ。もう、拳法は長くし続け過ぎた。もちろんこれからもするわよ、でも、描く比重を高める。それこそが瞑想、だから。

今日は、とっておきの瞑想法を教えてあげるわ。

それは、好きなことをひたすらすること。これも、館長に習ったのよ。瞑想の動画を見ると、皆目をつぶって、胡坐のような姿勢で座って、頭を空っぽにするように・・・とか、色々言ってる。一つの型になっている。それはつまらないからやらない。

私は、二つね。ひたすら、目の前の景色を描くこと。海に行くことが多いから、海の絵が多い。富山湾、三河湾、伊良湖岬、佐多岬・・・とにかく描くことだった。聖地・氷見は、どこの海岸からも一通り描いたくらいよ。

海辺で、館長と座って、ぼーっと海を見ていることもある。それも○○の瞑想か?と館長は言うが、そうよ、あなたが、私が小さい頃から、私を海に連れて行ってボーっと眺めていたのが、心地いいからしているのよ、この瞑想を。

最近の動画は、成功者の話を持ち出して、禅だ、マインドフルネスだ、そんなこと言っている。富だ利益だ一切は関係ない、お金は後から必ずついてくる。といっておきながら、その動画を見ている連中は、目が¥に変わっているような連中ばかりだ。

すぐに叶います、これを知れば人生激変します、そんな言葉にコロッとだまされ、動画を見るだけでいっつも終わっている連中ばかりだわ。お金は必ず後からついてくる?どんな価値のあるものを提供しても、それに見合った対価を得ないままこの世を去った多く天才がいる事実を無視した、耳当たりのいいだけの言葉ね。禅の先師や、ワッツは、悩み抜いた末にその境地に達したのに、動画で見ているだけの連中に、耳当たりのいい現実は来ない。少なくとも、すぐに結果はついて来ない。少なくとも、動画を見て、満足してるだけの連中は、この果てしないタイムラグに決して耐えられない。

もし価値あるものを提供して成功するならば、館長はとっくに世界道場の総裁になっているわね。禅の思想を知り、それを少しばかり実践したくらいで、すぐに人生が好転するなら、なぜあれほど多くの成功者が、散々苦しい目にあっているのか。

館長だって、私たちの手助けを拒否し、外で体を洗い、外で散髪をし、固い車の中の自作ベットで寝ているのよ。少しのお金を出し惜しむプロに対する礼を失したタ〇連中の気まぐれにもめげず、ひたすら刀を振っている。これこそが真の瞑想。どれだけ苦しくても、自分が価値を見いだしたものを無心に繰り返す。

静の瞑想は、とっても難しい。頭に色々浮かびすぎて、今「在る」状態になることができない。何もしないで座っていることが好きな人はいい。私はダメ。つまらない。好きなことをしたい。絵を描きたい。海でボーっとしたい。延べざおを広げ、釣れないなぁと言いあいながら、ぼーっとしていたい。その時無心になる。瞑想になるのよ。座ってなきゃいけないなんて、だれが決めた?ク〇自己啓発系動画の見過ぎなのよ、だから凡人のままなんだ。

呼んでいてわかる通り私の瞑想の師も、館長なんだ。インドだ、禅だ、老荘だ、といろいろ読んだが、この人がいつ何時も練習場所に立ち続け繰り返す、究極の瞑想を見て、私は何かを悟った。それは言い表せない。無理に言うならば、「それでいいじゃないか」ということ。

私の瞑想の師は、ヨガのヨギではない。道教の導師でもない。キリスト教の司祭でもない。どんな状況になっても、信じたものをし続ける、この人だった。本当に好きなものを、とにかくし続けること。家を失っても、し続けること。

 

9/13(土)福井 9/14(日)金沢 9/20(土)富山 「身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会」

9月13日(土)、福井県福井運動公園にて、『身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会In福井』を開催します。時間は、17時30分~20時となります。

翌日の9月14日(日)、金沢大和町広場にて、『身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会In金沢』を開催します。時間は、18時~20時30分となります。

次の週の9月20日(土)、八卦掌水式館の石川定例練習場となっている、富山市稲荷広場にて、『身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会In富山』を開催します。時間は、10時~12時30分となります。

今回は、他の護身術教室もよく話題にする、『身の周りにある物』を使った本当の身の守り方を指導します。

日本剣術でもない、短兵器でもない、そこらに転がっている棒の操り方、短棒の操り方などをメインに、指導します。

あなたは、服を使って身を守ることを想像できますか。今回の講習会は、「服ですら武器とすることができる」と想像できるまでの経験をしてもらいます。転掌は、日本刀や中国柳葉刀などの攻撃力の高い武器を持つことが許されなかった雑役兼務護衛官らの護衛武術です。よって、「身の周りの物」に、棒はもちろん、服・布なども入っていたのです。

身の周りの物を武器化するためのキーワードは「刀裏背走理(とうりはいそうり)」です。自分の背中の後ろで引っ張りながら、「引き斬り」「去り斬り」を行うことによって、物に攻撃性(威力)を与え、それをもって自分の身を守りるのです。

◆参加費:3,300円
※当日、お釣りの無い形で、時間開始前に、現金でお支払いください。後日払いには応じていませんのでご了承ください。

◆参加資格者:15歳以上の男女

◆指導:八卦掌水式館 館長 水野義人(転掌8世掌継人・転掌式八卦掌6世承継人・転掌八卦門初代・八卦掌第6世・梁派八卦掌第5世)

◆応募締切日:13日福井講習会・14日金沢講習会 9月11日(木曜日)
:20日富山講習会         9月18日(木曜日)
※必ず事前に連絡してください。飛び入り参加は例外なくお断りしています。

当講習会の申込みは、こちら のフォームより行ってください。

成立過程を伝え続けるのは「開祖が言っていたから」をさける為

私は後代にも、伝えた技の存在理由を知っていてもらいたい。

私が弟子らに、転掌の成立過程を何度も何度も伝えるのはそのためだ。術理・技の成立の要因・歴史は、本当に重要なのである。

その修行者が、技や術理の意味を分からなくなった時、発生の要因・キッカケ・歴史は、その壁を打ち壊す手助けをする

私の元で習った修行者は、皆誰もが、後代にその技の発生原因などを絡めて指導ができる状態になっていることを、願っているのである。

創始者に習った者が深い境地に達するのは、創始者から、技・術理が在る理由を、飾りない言葉で、何度も何度も聞くことができるからだ。

偉大な指導者から始まった門派では、代を重ねると、その権威性だけが残り、拳法本来のシンプルな必要性・原因の点が忘れ去られ、個人崇拝だけの上っ面な伝承となる。

「先生、なぜこの技は、ここで打つのですか?」

「それは、我が門で代々、そのように伝えられてきたからだ」

権威によりかかり、その方が楽だと思うほとんど多くの凡人は、それで納得するだろう。しかし、物事の本質を追い求める、本当に少しの人間には、その答えは、深刻な心の離反を産むのだ。私は、そのような言葉を、何度も聞いたことがあった。そしてその都度、言いようのない息苦しさと物足りなさを感じたのだ。

単換掌では、最後に去り打ちをする。その理由を弟子が尋ねたとする。

なぜ去りながら打つのですか?

その敵のそばにとどまらないためだ。

なぜとどまらないのがいいのですか?

敵の攻撃をもらってしまうからだ。

しかしこれでは自分の攻撃は当たりません

あたらなくてもいい、自分がうたれなければいい。

当たらなければ、倒すことができません

倒す必要なんてない、自分が生き残り続けて、時間稼ぎをすればいいのだ

時間稼ぎですか?戦いで時間稼ぎですか?私たちは、何を期待して待つのですか?

時間稼ぎすれば、その時間分、護衛ができる。異変に気付いた仲間が救援に来る。すぐにやられてしまったら、それもかなわない。

襲撃者は、武器をもっていませんか?転掌は、素手で相手に対抗するのですか?あっという間に倒されてしまいます。私たちに、武器はありません

いい質問だ、双換掌をやってみるがいい。試しに、その服を脱いで、双換掌をやってみるがいい。服を追随させよ、複が防具になる。なぜこのようなことができる型であるかわかるか?

わかりません。

転掌は、素手で侍る身分の低い官吏用の武術だからだ。身分の低い雑事用の官吏は、武官のように武器を持つことが許されない。しかし、武器を持たないでもおとりとなって護衛ができるからこそ、転掌は発展したのだ。

どういうことですか。

武器を持たなくてもおとり護衛ができるなら、宦官や宮女に護衛の任を負わせればよく、武器を持った男性武官を警護用として後宮内に配置する必要もなくなる。清朝王族は、後宮内に、武器を持った屈強な男性武官を入れることを、心の底では警戒していたのだ。たった一人の謀反の意を持った男性武官が、後宮内の人間を全滅しかねないからだ。転掌創始者は、転掌を後宮内武術として紹介する際、武器を持たせなくてもいい点を強調した。それは後宮内武術として採用されるための重要要素だと分かっていたから。そして、転掌が武器を常時携帯できない立場の人間でも護衛力を得られるように、特に双換掌に、身の回りのモノで戦うための武器操法の理念を組み込んだのだ。その目論見は当たった。王族に転掌の技術体系は受け入れられた。

ひどく計算的な話ですね。

そうだ、転掌が後宮内武術として採用されたのは偶然でも何でもない。ある人間の考え抜いた計算と思惑がそれを実現させたのだ。創始者が練習しているシーンを、たまたま王族が見ていて、見染められた、は作り話だ。明確な計算と、意図を持ったアピールにより、転掌は後宮内の護衛武術として採用されたのだ。

なぜそこまで、採用されることにこだわったのですか?

創始者が、未来の無い最下層身分の宦官であったから。彼は明確に、転掌をネタに自身の出世を狙った。転掌が後宮内武術として採用されれば、自身もその指導者として、身分が上がる。後宮内武術となれば、転掌は世に知られ、内外から門下生が集まる。その目論見が、すべて当たったのだ。皮肉にも、発展がその技術体系を変えてしまうこととなったが。

・・・・・代継門人以上の弟子であれば、八卦掌で言い伝えられている成立過程を信じている者はいない。私が常々、この成立過程を伝えているからだ。この成立過程を知っていれば、転掌がなぜ独自の技術体系を持っているのかが分かるのだ。

近代八卦掌と転掌式八卦掌において、最も違う点は、攻撃に固執するかしないか、だ。この違いは、「敵の力に抗する」か「敵の力に抗しないか」を分ける。敵の力に抗しないからこそ、弱者が初めて、短期で、弱者のままで、使うことができるようになる。

成立過程を紐解くだけで、これだけのことが、明確な理由をもって説明できるのである。ココで個人崇拝の要素が入り込むと、「再興祖・水野先師が言っていたから」となり、根本的な理由が説明されなくなる。

理由が薄らぐと、弱者使用前提の技術体系ですら、取って代わられるようになる。近代八卦掌になったように。この発展は、間違いではなかった。男性強者の修行者が増えれば、その変化は必然であろう。しかし、転掌技術体系が、失伝状態となっているのは、行き過ぎである。

私の後に続く者は、是非とも、各技、各術理の背景にある、理由・発生要因を知り、それを正確に後代に伝えて欲しいのだ。そうすることで、代を重ねても、転掌は「使える武術」として在り続けることができるのだ。

八卦掌水式門富山本科イメージ