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貫くということ。とどまるということ。

貫くということは、単純そうに見えて、その道は険しく、継続が難しいものだ。

多くの場合、貫く過程で、「飽き」や「あきらめ」がその人を襲う。それは例え旅の始まりがドラマティックであっても、訪れる。

なぜなら、変化が起きないから。何も起きない。感動的でドラマティックな始まりであったとしても、積み重ねていく過程は「日常」そのものである。

何も変化が起きないと、「努力すれば報われる」と教えられ、少しの練習で感動的なシーンを迎える映画を見慣れているような私たちは、「この努力には意味がないのではないか」と考えるようになる。

そして練習に向かう際、し始めのころの情熱がない状態で向き合うことになる。「ただやるだけでは意味がない」などというビジネス書で書かれた決まり文句に心が揺さぶられ、「やる気もない惰性で向き合っているから、自分はうまくいかないのだ」と決め、ついにやめてしまう事態に陥る。

「継続すること」の最大の欠点は、それをやめたしまった直後、その者に何らマイナスの変化も生じさせないことなのだ。

やめてしまっても、またいつもの日常が続いていく。誰にも批判もされない。誰にも気づかれない。やめてしまった人間は、最初は罪悪感にさいなまれるが、やめた後、目に見えた「罰」を受けることがないため、安心して罪悪感すらも消えていくのである。

しかし継続することをやめてしまったことによる最大の損失は、未来になって初めて気づくから怖い。未来において「選択肢を失う」という損失を被る。これに気付いた時にあがいても、どうすることもできない。これが怖いのである。

転掌八卦門の最古参の一番弟子は、それを知っていた。だからやめてしまうことを恐れ、安易にやめてしまおうとする者に、厳しくその弊害を説いた。

彼女は、自分自身の日々の行動で、継続することの重要性を説き続けた。時にその教えは、過酷な組手の中で示された。

「鬼」よばわりされても、ただフィールドに立ち続け、「つづけること」の重要性を説き続けたのである。

弊館三番弟子が掌継人となって気がゆるんだ時、その姿勢をなじり、未来の選択肢を失うことを警告し、怠惰な姿勢がどのような結果を招くかを、積み重ねた者の成果として見せつけた。練習不足で息を上がりたちどころに動けなくなる三番弟子を、得意の双短棒で滅多打ちにした。

「本当なら、その絶望を、未来に味わうことになったのだ。今ここで知ることができたのだから、感謝しなさい。今なら、すぐ取り返すことができるでしょう?」

と言って。

これは、貫き、とどまり続けた者だけが放つことができる言葉だ。

彼女は、大変要領の悪い子だった。勉強も、武術も、取り組むならば、とりあえずしばらくうまくいかない。共にスタートするならば、かならず出遅れる。しかし、あきらめない。やり始めたものに価値を見出した時、無類の粘り強さを発揮するのだ。

華やかで学校の勉強ができる彼女の裏に、気が遠くなるような積み重ねがある。私はそれをいつも近くで見ていた。何度見ても、心が動かされ、泣けてくる。貫くこと、とどまり続けることの偉大さと、美しさの、生きた証であろう。

誤解を受けることも多い。忖度もせず、こびないからだ。つるむのが大嫌いで、お世辞も言わないから。でも、自分だけは、この最古参の最も美しい点をわかっていたい。いや、わかっているよ。

これからも今まで通り、彼女から学び続けていこうと思う。いつもそばで手本となってくれて、ありがとう。