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私の持っているものは

すべて。私はすべてを持っている。

私の目に映るもの、すべてを持っている。目に映らないものは知らないわよ。持っているかどうかなんて、私にはわからないから。

他人の家に行くといつも思うのは、「なんでこんなに持ってるの」ってことだわね

あらゆるスペースに、モノが押し込められている感覚ね。いっつも思うのは

「この人、引っ越しする場合どうするんだろう?」

引越しなんて当たり前。父といると、将来どこに行って、どこでどうなるかなんてわからないから。持つことに、何のあこがれもないわね。

わざわざ持つ必要なんて、ないと、ずっと思っていた。

ものを持って一番嫌なのは、住んでいる場所に執着してしまうってこと。

いつでも、思い立った時に、思い立った場所に、私は行きたい。ついていきたい。この人は流動的な人だから、ものなんて貯めこんだら、置いてかれてしまう。

もたないのは、大変なこともあるけど、両手が空いていることの喜びを味わったら、もう戻ることはできない。

いつもどこかの空の下だからね。あの空の下。あの山のふもと。たくさんの星が見える場所では、一緒に星の祭りに参加したりする。

山間部の朝は、車から出ると、むせ返るような新鮮な空気。あれは本当に楽しい。

穏やかな天気の時は、人のいない漁港で、あの人は釣りを、私は絵を描き、時間がゆっくりと流れる。

そのたびに思う。別に、楊家掌の伝承になんて、こだわらなくてもいいんじゃない?と。

必要な人なんて、おおよそ私たちの周りにはいないものよ。そこまでして教える必要なんてない

三年後に来る良師はどこの誰なのか、門祖は気づいていた。

私が言った、「良師三年」。これはとても深いのである。しかし説明ができないのである。

日本の武術愛好家の多くが言っている、良師三年とは、全く違うのである。多くの愛好家の言う、「良師三年」が真実なのか、それはここでは触れない。どうでもいいからである。真偽など、人の経験にもよるものだ。

私は、楊師より学んだ技術体系を指導する師を求めて、多くの道場を見た。探した経験があるのである。自分一人で、楊師より授かった技法を、確立する自信が無かったからだ。その意欲は、一番弟子に教え始めるようになってから、強くなった。

「人に教えるなら、私自身が、その拳理を最も知っていなければならぬ。」

拳理を外に求めていた。習ったものは習ったもの。習ったものの発展のためには、新たな師に就く必要があると、一つの指導を受ける際の「形」に囚われていたのである。

しかし転掌の技法を伝える師は、国内にも国外にも居なかった。楊師の足取りも不明であった。私は絶望に近い感覚を覚えていた。私に学ぶ者もいるのに、私がその道を示すことができない。その暗闇の中で、義務感から、ただ練習の場に立ち続けた。

「ただ惰性で行うだけではだめだ」

私は、自身の経験から、この意見に賛同できない。なぜなら、私が、行き詰まりの中で気づいたのは、惰性で立ち続けた中で起こったからである。

ただ、こなすだけ。決められた練習を、ただ行うだけ。Youtubeの広告主に言わせたら、まったくけしからん練習姿勢であろう。しかし私は、この練習に取り組む姿勢こそ、多くの何かをもたらす、より大きなものからの暗示に触れる、プロセスであると、何度も経験するうちに確信してしまったのだ。

最初は、偶然だと思っていた。なぜならそれら(直感・インスピレーション)は、何の規則性もなく、突然来るからである。ある時は、警備の仕事を終える瞬間にやってきた。公園は真っ暗である。しかし私は、そこで思いついたことを試したくて、深夜0時を回っても単換掌をし続けた。斜め後方スライドに関わる重大な内容であった。突き動かされるような感情が抑えられず、家に帰ってもそれをし続けた。

その時の直感は、私の単換掌理を、より高次の安心をもたらすものに引き上げた。それ以後、練習の中で思いつくことは、なんでも試したのである。しかし面白いことに、自分が「こうではないか?」と思って取り組むと、その取り組むものとは違った、以前よくわからなかった課題に関わることについて、思いつくのである。

自分が改善を望むところに取り組んでいるところと、見えにくい箇所でつながっている部分に、光が当たったのだろうと思う。当時の自分の思考では、そのつながりが見えなかったから、「思いがけないところがわかった」と感じたのだろう。

私は、自分の内からくる自分の直感でありながら、その直感のプロセスをコントロールすることができないことに、言いようのない無力感を感じていた。直感を自分の管理下に置こうとしたのである。しかし、それは全く私の意図に従う気配がない。しかし、必要な時にやって来るのである。

「必要と感じる=自分がその問題を克服することが可能なレベルまで自然と上がっている→そのレベルで模索することで、必要な直感が自然とやって来る」

そういうことであると、私は納得した。この深く落ち込むような納得の状態に、追い打ちをかける心情の転機がやって来る。こんどの転機は、内面に対するものである。

筆頭門弟のルーツが、かほく市であった。私はその事実を知った時、気に留めていなかった。しかしルーツが宇ノ気小と知った時、そこから考えが根底から変わったのである。

私は学生の時、加賀の哲人・西田幾多郎先生の胸像画を見て、この人の、なにやらすっきりしない、笑顔になりきっていない薄ら笑みの表情に、自分と同じ空気を感じたのだ。この西田幾多郎先生こそが、宇ノ気小の先輩卒業生なのである。

高校の倫理の授業で、西田哲学の「純粋経験」を耳にした。しかし当時は、なんらの感情も抱かなかった。すでの楊師より、一通りのことを習った時期であったにもかかわらず。そして時は流れ、筆頭門弟を育て、その家のルーツが、かほく周辺にあったことを知り、かほくに関わるようになると、宇ノ気出身の西田幾多郎先生の話が再び出てくるのである。

私は、上記の「直感」のプロセスに、大きな悩みを感じていた。単なる自分の、思い付きではないか?いい加減なものではないか?確証もないものを、信頼していいものか?と。

そのタイミングで、西田先生の「純粋経験」を知ったのである。言葉で表すには、まったくもっておおきすぎる存在。その大きすぎる存在と、一緒になった時の経験。先生は、言葉に表すことができないその存在を、あえて言葉によって説明しようとして、大きな試みと苦闘をしておられた。

私は、この偉大な先人が、生涯をかけて思索し、向き合ったものに、触れていたのだ。自分の中で、すべてをささげて、進んできたものだったから、より大きなものが、必要なタイミングで、私に、私の思考などはるかに超えた部分で、直感をもたらした。

西田先生の「純粋経験」との出逢いは、よくわからなかった、老子の世界観や、インド哲学の「在る」の概念に、大きなヒントをもたらし、これらの思想のつながりを感じさせたのだ。

「良師三年」は、我が師より伝えらえた概念である。当時は、それを何気なく聞いていた。しかし良師が私とつながり、その師より、必要なタイミングで何度も教えを受ける中で、私は楊家転掌門に伝わる「良師三年」の概念を、深く確信することになったのだ。

楊家転掌八卦門には、そのシンプルな修行体系から、「成ること三年」の門伝があった。真摯に、素直に師に従って習練に励むなら、その体系の無駄の無さが、修行者を三年で旅立たせる、というもの。ゆえに、良師「三年」なのである。これは、楊家武術になってから生まれたものではない。古来より言われる「良師三年」とは、この意味であったと私は確信しているのだ。昔日の武術体系が、皆シンプルで即効性あるものばかりであったことが、確信する理由の一つである。

以前車で生活をすることを余儀なくされた時、一番弟子の娘と、練習後、あちこちの見晴らしのいい場所で、瞑想をしていた。彼女は瞑想の重要性を知り、私よりも先にそれを採り入れた天才である。彼女は、インド哲学の「在」の概念を体現したくて、その探求に熱心であったのだ。彼女は、見晴らしのいい、開けた場所で座って心を静める静寂の瞑想と、無心にあるがままに風景をスケッチし続ける動の瞑想を好んだ。私はこれまでずっと、彼女の瞑想に付き合う中で、私自身も、その方法を学んだ。

しかし一番弟子が最初に理解したのは、「在」の概念と本質的で同じである「老子」の世界観の方だった。彼女にとっては、「老子」のいう、よく見えぬ大きなものを感じるきっかけは、インド哲学であった。わたしは、西田哲学であった。

楊家門の開祖は、弟子たちに、技法のシンプルさの維持を厳命した。多くの型を作ることを善としなかった。八母掌・老八掌のような、套路(総合型)の形式は採らず、ただ主要転掌式という単式練習のみを構築しただけだった。そしてその主要転掌式に、武器術をすべて対応させた。「あっという間」に修行期間が終る技術体系を組んだのだ。

楊家門開祖が狙ったのは、短期習得・・・それは世俗的な理由である。より深い意味はこうだ。ヒントに留めることで、多くの修行者が、極力早く、自分で研究する段階(自分の直感による発展の段階)に移行することを狙ったからだ。これも門伝である。私は常々、私に続く、将来人を導き得る弟子に、そのことを言う。

「宇宙と一体となる」とは、このことを言っているのだ。宇宙とは、自分に直感を与える、私の中にある、そしてどこにもあり、すべてをつつみ、かつすべてである、説明のできない存在である。私はそれの存在のあることを理解した。しかし、その存在がどういうものであるかは、説明できないのだ。それは直感を私にもたらすものであるのだが、私の道徳とか、信念とか、善悪の判断基準なんかを、はるかに超えた概念で私に何かをもたらす。だから、コントロール下になんか置くこともできない。知ることもできない。ただそこに「在る」ということを理解するだけである。

私の希望なんか、吹き飛ぶかのような流れを、何度も経験した。修行の過程のなかで、大切な宇宙を4つも失った。私はその4人との永遠の別れを「必要なプロセス」などと認めたくなかった。それで長い時間、苦悩した。

きっとその4つの宇宙とは、永遠の別れをし合う相関関係の中で、互いの人生の中に「在る」ことを位置づけられたのだろう。今度はきっと、私自身がこの世界から「退場」することで、私の後に残る者は、何かがきっかけとして発動されたり、何かが始まるはずである。私の場合もそうであったように。

私は今後、技法の伝承と共に、達人に至るまでのプロセスを、詳しく説いていくことを考えている。技法の執筆と、達人になるうえでの直感の共有を、目指すために。それについて、動画でも詳しく述べていきたい。楽しみにしていてほしい。

私んちの、オカモトタロウ

ジョン・バリーの「ある日どこかで」という映画のテーマ音楽が大好きなんだわよね。

知ってる?「ある日どこかで」は、私が生まれる前の映画「スーパーマン」に出てた、クリストファー・リーヴ主演の映画。内容を言い出すと、長いし、私がここで言っても、何も感動しない。見て初めて、感動を覚える映画なんだわよ。

主人公は、時空を超えた恋愛を経て、幸せを獲得する寸前で、時空によって引き裂かれる。本当は再開してたんだけど、気づかないまま、しかし、それがきっかけで主人公は時空を超え、その人の若い頃に旅立ち、恋に落ち、引き裂かれる。

主人公は、もう巡り逢うことが出来ないヒロイン(ジェーン・シーモア)のことを思いつめすぎて食事も摂らなくなり、憔悴。薄れゆく意識の中で、先に旅立ったヒロインと、再開を果たす。

命を落とすくらい衰弱してまで想い詰めて、その果てに、人生を棒に振ってしまうくらいまで、進み続けた主人公。それが私の心を打った。そこまで想いつめる人って、ほとんど見たことない。

その映画のサントラを聴こうとすると、Youtubeの広告がガンガン流れる。おおよそ、お金儲けの話だったりする。関連動画では、生き方についての動画。人生について、悟りについて、願望実現について・・。今って、あふれんばかり。しかし内容は、みんなおんなじ。つまり、これ作ってる人って、悟りも、何かを成すこともしないで、ただ視聴回数が稼げるから作ってるってこと。当然、心に響かないわ。

いっつも思うんだけど、あのような動画って、人と違う、革新的な思考法を説きながら、よくよく聞いていると、「しかし○○ということではありません」とか、「それは周りを無視した行動をしていいというわけではありません」なんて、「社会の常識」的な考えや横やりが入る。

何言ってるの?偉業を成し遂げた人間なんて、社会に迎合なんてしていない。皆とことん、自分の道をまっすぐ進むために、大きな危険をおかしている。破産やホームレスなんて当たり前。人間づきあいが全くダメで、周りの人間からダメ出しをされまくっていた、とか、そんな現代でいうところの「ダメ人間」ばかり。

願望実現・引き寄せ法則・自己啓発動画に、現代社会的な修正が入る、ということは、この動画を作っている人間が、現代社会の枠を飛び出てない、ということ。だってあの手の動画って、作成者がまったく見えない。何を成したうえで、あのような悟りについての動画をつくっているのか分からない。

オカモトタロウって、いるよね。芸術は爆発だ!で有名の、作家・岡本かの子の息子さん。私が生まれた直後に亡くなった、天才。リアルタイムで見てみたかった。なぜなら、この人、本で言ってることが、とっても共感できるから。このひとって

「迷ったらダメな方を」

って言う。その内容をみてみると、本当にダメな方を選べ、というの。全部を敵にまわす。命の危険すら生じるような、ダメな方へ。「こっちに行ったら世間のすべては反対する」ほどダメな方へ、行くことを、自ら宣言している。本当に、現代社会の常識に言わせたら、「そっちだけはだめ」という方へ行くことの重要性を、堂々と言っている。ダメな方へ行った方が、生命の活力が「モリモリっ」と湧いてくるからいい、みたいなことを言って。

これなのよ。これこそが、過去の偉大な業績を成し遂げた人間たちの通った道なんだわよ。成功してない時はきっと、まわりからボロカスに言われていたと思う。多くの人に笑われ、あいつはダメだ、あいつは終わった、と言われていたと思う。周りに迷惑をかけ、わずらわしく思われていただろうね。

エセ成功の法則提唱者どもは、間違ってもこのような道は選ぶまい。動画ですでに、そう言ってるし。この連中の動画の通りに行動したら、まちがいなく凡人決定だわね

私の身近にいる困ったさんは、オカモトタロウそのもの。ありえない選択をする。100人中99人が選ばないような道を歩んできた人だった。私はそれを、ずっとそばで見ていたから、同じような反応・コメントをし、同じような場所に誘ってくる、スマートさを気取ってるもやしバカどもが、つまらなくてたまらなかった。

人の見てるところで、格好つけてるんじゃないわよ。本当のすごみは、人の見ていないところで積み重ねることで生じるの。そしてその積み重ねは、あまりに膨大な時間の中で、ずっとずっと、行われてるものなのよ。だから、誰も対抗できないのよ。気づいた時には、この人は、圧倒的な時間の積み重ねのアドバンテージを持っているから。なぜ自分がまける?と食ってかかって言ってきたもやしバカがいた。かなうわけないでしょ。あんたが、気晴らしや、店での無駄遣いをしている間にも、この人はフィールドに立ち続けていたのだから。私はいっつもそれを、見てきたからわかる。言いようのない、そこに「在る」ことから出る雰囲気は、この人からしか感じたことが無いのよ。

何を思ったか、口説いてきた合気道の師範は、ふわふわしていて、軽く感じた。同じ武術家とは思えない。絡んできた、何かの武術の連中は、まるでゴロツキだった。気高さのかけらもない。すべてを備えているのは、、このタロウしか、私は知らない。

また今回も、オカモトタロウだった。多くの人がきっと、「何やってんの!」って言うような道を、いっつも震えながらも選んだ。私は歓迎するわよ。そして当然の行動だよね。自ら、原点として君臨し続けることを選んだ人だから。この人は、源泉として行動し、源泉として、今この時に「在る」のだから。私が、まっさきに支持する。

私もワクワクしていた。これからどうなるか。来年の今ごろ、どこの星の下で、この人と練習しているのか。諸行無常の生き写しのような、このタロウと一緒にいると、先が見えなくて、本当に楽しい。空(くう)こそ、すべてなり。私はこの人から、空の実例を学んだ。

ありがとう。ずっとこれからも、支持してあげるから。

「型=真理×」。「型=ヒント〇」。形式主義に陥るな。

型を絶対的な真実ととらえている人間がいる。

特に、「名門」などと言われている道場に通っている人間に多い。彼らは、底に伝えられている型を、まるでコピーするかにように、リアルに細部まで、再現する。

「型=真理」と捉えているからである。だから自分から、その内容を変えることはない。その内容と違ったものを、たちまち「誤伝」「亜流」「悪いクセ」といって批判するのである。

大東流合気柔術。日本ではやたらと有名な流派である。私に言わせれば、日本に数多く存在する柔術流派の一つに過ぎないが。そこの門弟らは、そんな風に思っていない。我こそは、選ばれし武術の、正当な門下生である。我こそは・・・。

私のところに体験しに来た者に、大東流の者たちが結構居た。

ある人は、「私は大東流を習ってきた。だから入門しても、しかるべき扱いをしてほしい」とのたまった。何やりに来たんだ?そんなに大東流に誇りを持っているならば、習った場所で、一筋に習えばいいだろうに。

彼らは、自分の習った型を、絶対的な真理だととらえている。なぜそのようにとらえるのか?権威に寄り掛かる方が安心だからである。自分に自信が無いのだ。

武田そうかく先生?佐川幸義先生?崇拝するのは大いに結構であるが、私のその人たちに会ったこともない。技術を見たこともない。すごいかどうかわからない。そして、崇拝するかれらも同じである。なぜ会ったこともない、現在生きてもいない人に、現在のこの時をゆだねるのか。

あなたはどこ?あなただって、彼らと同じなのに、なぜそれほどまでに、彼らに真理のバトンを渡してしまうのか?

よく覚えておいて欲しい。

型とは、ヒントである。あなたがあなた自身の真理に気づくための、ヒントに過ぎないのだ。

董海川先生が残した型は、単なるヒントである。楊家伝武術の開祖が残した転掌式も、ヒントに過ぎない。そして、水野義人が、後代に伝えたものも、単なるヒントである。絶対的なものではない。絶対的でないのだから、いくらでも変化し得るのである。

私が、一通り習うまでは、素直に師の指導に従え、というのは、絶対的なものを伝えているからではないのだ。ヒントといえど、それはひとつの一貫した、術理・戦闘理論に沿っている。だから一通り、一貫した術理で構成された技術体系を、素直に学べ、と言っているのである。

日本の愛好家には、深くかかわらず、武術をたしなみたいと考える都合のいい考えを持つ者が多い。だから中国の先生や、中国の先生に真剣に学び、真伝を伝えられた日本人に相手にされないのだ。

私も、楊師より、その学習態度を特別に認められ、転掌を伝えられた者の一人である。一般的な自分護衛の段階は指導するが、その先は、何を考えているか分からぬ者には、伝えないのである。日本人は、口では「中国拳法は保守的」と言うが、そのリアルさを分かっていない。

本当に保守的なのである。日本人、というだけで、その日本人が真摯で誠実であっても、金だけ取って、ウソを教えるのである。日本人であれば、そんなことはしないだろう。しかし異国の、侵略されつくされた歴史を持つ国の、秘伝武術なのである。私たちが想像している以上に、保守的で秘密に徹しているのだ。

私は梁派門に居た頃でも、楊師の教えを守り、転掌の技法を見せたことはなかった。あくまで梁派において習った技法で、組手等をこなしていたのである。楊師のことは話したことがない。「関東で昔、斜めに進む劈拳を習ったことがある、それを八卦掌として教わった」と言っただけである。

嘘ではないし、楊師の師伝により、転掌の中核は、真剣に学ぶ者のみに伝えよ、と言われていたからなのだ。

「イー・レン、今まで教えたのは、先代の遺したヒントだ、真実となるかどうかは、お前次第だ。多くの場合、それ(型)はヒントとして、役目を終えるけどな。お前の場合、きっとそうなる。」

とおっしゃった。今思うと、深く、かつ、私をさりげなく評価してくださった言葉だったのだ。

さりげない言葉であったが、その教えが無ければ、多くの者は、伝えられた型に囚われ、自分なりの真実にたどり着けなくなるだろう。

この言葉を思い出す時、ブルース・リーという天才が、彼の夫人に言っていた言葉をも、思い出すのだ。

「僕は君の期待に応えるためにこの世にいるのではない。そして君も僕の期待に応えるためにこの世にいるのではない」

 

垂れ流し「引き寄せの法則」動画に、人生の決断をゆだねるな

youtube上には、「引き寄せの法則」なる動画であふれかえっている。

しかしそれらを鵜呑みににすることはやめておこう。なぜなら、彼らは「何か」を成したうえで、それを語っている、わけではないからだ。何かを成したのなら、それを示したうえで、あのような達観した内容を動画にして提供すべきであろう。

なぜなら、あのような内容の動画は、人生における大きな局面の決断に、影響を与えるからである。彼らは決して、放った動画の内容に、責任などとらないのだ。

結局彼らの多くは、引き寄せの法則の大御所たちの意見・考えを、動画にしているだけなのである。顔を出さないで、同じような内容、AIで作成した動画や画像でつないでいるのは、ほぼそうである。

なぜそんなことをする?何か利益があるからである。何の利益かは、触れないでおこう。私も職業武術家なので、利益を求める。プロだから当然である。

ここで話す内容は、引き寄せの法則ではないことを先に述べておく。時代の流れに翻弄され、失伝の危機にさらされた中国武術・転掌を復活させ、転掌式八卦掌を再確立し、その道の深奥を伝承する者として、ここに、真の願望実現の法則を述べよう。

その内容は、宇宙の創造の力を信頼した、確信の法則である。追い求める分野で、達人を目指す者は聞いて欲しい。

まず、マイナスの感情を持った事実は、あなたの夢の実現に影響しない。あなたがどれほど、その夢を実現するために、多くの時間をかけ、ここにたどり着いたのかを、思いだして欲しい。

どんな困難に直面しても、日々積み重ねてきた、あなたの偉業を、振り返って欲しい。引き寄せの法則論者が、この者たちの理論の欠陥を言い訳するかのように提唱する、「恐怖、欠乏、不安から発せられた願望、行動は、夢を叶えさせない」、という理論は、あなたの純真な希望に水をさすものでしかない。

彼らのいうことは、決して、絶対的な真実ではない。夢を追う過程で、恐怖などの感情を、抑えこむことはできない。それらの感情が湧き上がった時に、その都度抑え込んでも、克服するのは困難である。

悟り、なるものがもし有っても、そこに到達することは、一部の人間だけの話だ。そんな、実現が極めて困難な道を、目指す必要もない。あなたは今のあなたのままで、そのまま進めばいいのである。

それは私が、経験したから分かることだ。何度も、克服しようとした。しかしできなかった。プラスの感情を維持できない自分に焦ってしまい、自分はなんてダメなんだと、頻繁に落ち込んでいた。

それでも、毎日練習することだけはやめなかった。引き寄せの法則論者によれば、そのようなマイナスの感情で努力しても、現実世界は変わらない、夢は叶わない、と断言する。

そんなことはない。これほどまでにマイナスの感情に苦しみ続けた私でも、もっとも難しく、かつ、もっとも実現したかったことを、実現させたのだ。転掌と八卦掌を極めたのである。もちろん、私は、最強になったのではない。探求はこれからも続く。うぬぼれない。止まるつもりはない。

しかし私は理解した。恐怖、欠乏、不安を感じてしまうことは、現実世界における願望実現を妨げない、ということを。あなたは今すぐ、これらの感情を持ってしまうことが願望実現を妨げる、という理論を、捨て去ることだ。

あなたは誰のいうことを信じるのか。

現実世界の成果を見せることもなく、同じような理論を展開する、オリジナル性のない動画か。それとも、この現実世界で、拳法をマスターし、再復活させた、拳法の開祖の言うことか。

私は、自分の成果を誇っているのではない。成果を見せることもなく、「だからあなたの夢は叶わない」、と無責任に断言する動画に、あなたの夢の実現の邪魔をさせたくないのだ。夢を追い続けるあなたの純真さを、ずっと維持して欲しいのだ。

あなたは、マイナスの感情をいだくことがあっても、常に、変わらず理想の世界に一直線に進んでいるのだ。苦しくても、進んでいるように見えなくても、進んでいるのである。

宇宙の法則の有効性を、私は確信している。引き寄せの法則ではない、大きな、大きな、宇宙の意思による創造の法則である。あなたの意思は、宇宙の意思である。宇宙の創造の過程から生まれた、あなたの思考は、宇宙の意思を越えることはできない。しょせん副産物だからである。宇宙は創造し続けることを望んでいる。思考が、宇宙の意思に勝ることはない。

全知全能の存在が、自身の創造を妨げ、ダメにしてしまうようなモノを、創り出すことはない。
創造の担い手たる、不完全な人間が、恐怖、不安、欠乏を感じてしまうのは想定内の事態なのである。実は、それすらも無駄でないのだ。必要だったから、創り出されたのである。

マイナスの感情を人間が持ってしまう事態を、宇宙は理解している。だから、マイナスの感情の克服ができなかった私でも、拳法を始めた頃に夢見たレベルを遥かに超える領域へと、たどり着くことができたのである。言い換えるならば、それらのマイナスの感情を持ったから、今この時、開祖で「在る」のである。

究め、再興させ、伝承する、という、私にとってかけがえのない現実を創造できたのである。だから、あなたも大丈夫。

多くの人間は、動画サイト上にあふれる、引き寄せの法則動画の「マイナスの感情で行動しても夢は叶わない」という定義を信じてしまう。しかし、そんなことはない。偉業を成し遂げた者たちは、みな、マイナスの感情を持ち、戦いながらも、とにかく進んだ。失敗しても、それを、成功の要因だったのだと、やり抜くことで、結果的に証明してみせてくれたのだ。

私も、家を失ってホームレスになっても、大切な人を亡くして打ちひしがれても、練習場所に立ち続けた。練習こそが、もっとも具体的な、拳法を極めるための方法だったからである。恐怖と不安でいっぱいであったが、歩みを止めなかった。

引き寄せの法則論者が断じる、「現実を変えることができない感情」で、心の中がいっぱいであっても、本当に叶えたかったことを、私は実現させたのである。私の道場のサイトを見ていただければ、その成果を分かるはずである。八卦掌では、個人道場の運営サイトで常に1位となっている。確信して日々行動した、当然の結果である。

住む家を失う、という逆境の中でも、練習時間の確保のために、アルバイト時間を増やさなかった。そこまでして続けた練習こそが、目指していた領域へと、私を導いてくれたのだ。練習をしなかったら、ここにはたどり着かなかった。

練習をしたから、ベストタイミングで、インスピレーションがやってきたのだ。引き寄せの法則動画どもは、努力を否定する。インスピレーションによった行動なら認める。何を言ってるんだ。行動が先である。行動もしないものに、インスピレーションはやってこない。

恐怖や不安を感じても、あなたの夢実現は遅れることはない。それは、あなたの最大の味方である。宇宙の一つの形なのである。あなたなのだから、あなたを壊すこともないのだ。だから、無くさなければならないものでもない。持ちつづけることもないが、消すことができなくても、あなたは理想に一直線で進むことができている。大丈夫。だから、克服できなくても、心配無用。克服できないからといって、あきらめないで欲しい。

私が言うのだから間違いない。苦しい時は休んでもいい。破壊的になっても、それは仕方ないこと。自暴自棄にもなるさ。でも、あきらめる必要は全くない。マイナスの感情を克服できなくても、大丈夫。

あなたはきっと、到達できる。不安だらけ、だろうが、私の成果こそが、証拠である。確信してほしい。私のサイトを見て、へたくそなイラストを見て、偉そうな語りを見て、勇気を持つがいい。

ただ続けてさえいればいい。効率的な方法なんて、考えなくてもいい。あなたはすべてを知っている存在である。続けていればこそ、真のインスピレーションが、あなたに訪れる。あなた自身が、これからのあなたを導いてくれるのだから。

転掌八卦門の拳客として生きる時がやってきた

拳客。旅する武術家である。

私はその人生を送ることを、薄々感じていた。なぜなら、私の人生に起こるすべての事象が、その人生を生きる用意しているかのようなおぜん立てをし続けていたからだ。

旅は、どうしてもしたいこと、ではなかった。嫌いではないが、日常が充実していればそれでいいと思っていた。会社員は「宝くじが当たったら会社を辞めて日本一周」とよく言う。しかし宝くじが当たっても、旅にわざわざ出ない。

しかしこれから、日常が旅みたいな生活になる。強制的になる。これも流れだ。

流れは、余りに独自の技術体系を持つ武術を確立しようとしたことから始まった。そして北陸に再度居を移したことから、それは加速した。

愛知の地から石川・富山の地に来て、練習場所をはじめとするすべてのものが流動的になった。毎日違う場所、毎日違う練習。毎日様々な工夫を要求されるタフな環境下に置かれた。拳客として生きる以上、このような流動的で再現性の無い「日常」を送ることは避けられない。

愛知に居た頃は、練習場所も決まっており、何ら邪魔されることもなかった。石川では全く違った。中断は当たり前。過酷な自然環境、練習場所はほぼ砂浜。過酷な環境を乗り越えるタフさは、拳客になってからでは身に付けにくい。ここで強制的に身に付けらされたのは、大きなものの意思と思わざるを得ない。

私の所持するものが年単位でどんどん減っていき、いよいよ、車に収められるだけのものしか、持つことができなくなった。余分なモノを持つ選択肢はない。捨てるしかない。後顧の憂いを絶つことは、一般の生活をしていれば難しい。私のように、衣食住を失うことを控えた人間のみが、手放す勇気もさほど必要ないままに、大きな視点で見て、自由を取り戻すのである。

一番弟子は、拳客として生きる人生に、飛び上がらんばかりに喜んだ。いよいよだね、いよいよだ。そう言って、何度も何度も、喜びを表現していた。一番弟子は明確に、あの町、この街、地方の港で、スケッチをし、釣りをし、警棒を振って指導する私の姿を、イメージしていた。一番弟子の趣味たるスケッチで、未来の自分を示してくれたこともあった。

拳客として生きるために、まだする必要がある事柄も多い。しかし、最大の一歩を踏み出した。この一歩を踏み出すまでが、大きな抵抗を生んでいた。

導いてくれる師がそばに居ない状態で、高校の時からずっと、模索の日々が続いてきた。自分の取り組んでいるものが、あまりに稀有な存在になっていることに気づいてから、「頼るものは自分の直感のみ」と覚悟して進んできた。

その覚悟は、毎日練習場所に立つ鉄の意志を私にもたらし、毎日の練習は、私にベストタイミングでのインスピレーションを与えてきた。

まるで道が用意されているかのように、多くのことが起こった。起こったものの中には、あまりに辛くて受け入れることができないものもあった。練習をやめたいと感じた時、今まで私の人生に関わって大きな影響を与えてくれた存在が、遠く宇宙の果てからなつかしくて泣けるような記憶を呼び出させてくれた。

今、とてもわくわくしている。何を残そうか。これからどこで、ねぐらを確保するか。どんな景色が待っているか?車は、タウンエースくらい欲しいな、ワゴンRは、他の子にあげようか、などと考えている。

 

安易な「引き寄せの法則」提唱者が大嫌いである

私は、youtubeにあふれる「引き寄せの法則」提唱者らが大嫌いである。

自分の考えを表現するのはいいことだ。しかし、この者たちは、人の「願望を実現したい」という気持ちを必要以上に苦しめている。そこが嫌なのである。

この者たちは、「量子物理学」という科学を持ち出して、「あなたが願望を実現できないのは、恐怖や欠乏の潜在意識のままで、願っているから叶わない」と説く。この者たちは言う。どれほど経済的に苦しくても、支払うことが出来ない請求書が来ても、豊かさを感じろ、と。そう思い込めば、直前で思いがけない吉報が来る、と。

何言ってんだ。そんな都合のいい吉報なんて来ない。物理学を持ち出す割には、そこに何らの根拠もない。思い込むことから生じる「波動」が、吉報、予期せぬ収入を招く、と言う。どういう展開にもっていくつもりだ。

そしてその果てに、実現できなかった者からの反論をかわすかのように、実現できなかった原因を、先ほど言ったように「恐怖や欠乏を心の奥底で感じながらなり切ったからだ、宇宙はそれを見抜くので、実現しないのだ」と言う。己の説く理論が実現しないのは、お前の心の奥底が原因だ、と人の責任にするのである。これはもはや、一生懸命の心につばを吐くのも同様の行為である。

私は今まで、自分の使命を信じ切って、毎日毎日、達人として当たり前に、練習をし続けてきた。それは我が子らも同じである。私も彼女らも、達人を志し、かつ達人であるがゆえに、達人として生活をしてきた。

しかし、苦しい時もあった。私も彼女らも。無理だ、やめたい、逃げたい、などと考えるは常であった。雨の日も、風の日も、大雪の時も、毎日当たり前に、練習をしてきた。辛い気持ちに支配される時も当たり前に。

この者たちの理論だと、辛い気持ちで行うのは義務感であり、不足の感情からであるため、叶わない、ということになる。しかし私たちは、当時「達人」だと思っていたレベルを、はるかに超えた。私も子らも、皆である。結局、行動なのである。この者たちは、インスピレーションによる行動ならしてもいい、と説く。何を訳の分からないことを言っているのだ。先にインスピレーションがあるのではない、行動の積み重ねの中に、インスピレーションが起こるのだ。順序が逆である。このエセ覚者らは、一つのことに本当に取り組み続けたことがあるのだろうか?

この者たちがよく取り上げる成功者は、アメリカ競泳界のスーパースター・マイケルフェルペスである。彼はイメージトレーニング・マニュファステーションを用いたことで有名である。しかし彼は、これらだけで栄光を掴んだのではない。高い志から沸き起こる不屈の精神で、日々努力を重ねたから、栄冠を勝ち取ったのだ。前向きな日ばっかりではなかった。辛い経験もしていた。ほぼすべての、栄冠を勝ち取ったアスリートが、先の見えない、成果の出ない、地道な時を重ねている。辛かった、やめたかった、多くのアスリートがそう話す。

この者たちの理論ならば、彼らは栄冠の「引き寄せ」に失敗するだろう。自分はまだ完全でない、だから練習しよう、もっと上を目指したい、だから練習しよう、と考えているからだ。そして、日々の行動は、インスピレーションなど待っていなかっただろう。とにかく毎日、続けたのである。私もそうだった。私の子らもそうだった。とにかく毎日、続けたのである。

「不足の感情・恐怖欠乏の感情を宇宙は察知し、それがゆえに現実世界は変わらない」などと、決めつけるな、と言いたい。ではこの者たちは、何を成したのだ。この者たちの動画は皆、同じ考え、理論の丸写しである。動画の中に流れるイラストは皆、AIで作成した生気のない気持ち悪いものばかりだ。どこをとってみても、自分のオリジナルがないのである。顔も出さない。実績も見せない。

「あなたの内面が変わった瞬間、すべてが変わる」と言いながら、最も難しい、現実があまりに厳しい局面においても「豊かさを感じ続ける」という難問について、明確な方策を示さない。示しもしないで、叶わないで苦しむ真摯で切実な視聴者らに「それはあなたが心の奥底で欠乏を感じていたからだ」といって、ダメだしの追い打ちをかけるのである。

この者らは、何も悟っていない。この者らが成果を上げているのは、「内面を変えるだけで、○○日でお金が入ってきた」などの歌い文句を垂れ流しているからである。

苦しい現状で、先が見えず、何の兆しもなく、どうしようもなくなって追い詰められても、救いの吉報も来ない方に言いたい。それはあなたの責任ではない。あなたは真摯に目的を追っている。行動している。あなたの行動は、誰にも批判できないのだ。ましてやYoutube上のこの者たちに言われる筋合いもないのだ。

私は、引き寄せの法則と呼ばれ、乱発される現在よりはるか昔の、宣言・確信の法則を信じている。それを現代に提唱したのは、ネヴィル・ゴダードである。彼の著作は、愛用して読む。しかし彼の著作は、引き寄せの法則ではない。宣言の法則である。これは旧約聖書のころの確信の法則に通じる。

ネヴィルは、私の好きなモーゼの話を引用する。だから彼の意見には共感できる。

モーゼ自身も、紅海を渡る際、エジプト軍が後方から迫っていても、躊躇したのだ。しかしユダヤの神が「なぜ私を信じないのか」と彼に問うたため、彼は恐怖を感じながらも神のその言葉に身をゆだね信じ、足を踏み入れた。それと同時に、海が割れたのである。

モーゼも、恐怖を感じていたのだ。多くの偉大なアスリートも、ずっと小さい頃から取り組んできた競技をやめたいと思うほど、苦しい気持ちを持ちながら進んできたのだ。私もそうである。多くのかけがえのないものを失った。このエセ覚者どもは、「それも必要なプロセス」などと断じるが、そんな簡単なものではない。それでも前に進んできたのである。

YOUTUBE上のこの、急造覚者どもは、一体どれだけの数が何年後、残っているだろうか。お金をもうけに来ただけである。あなたはこの者たちの言うことに、みじんも責任を感じてはならない。

私たちは、何かを成そうとしている。人の称賛を浴びにくい地道な分野であっても、その道にとどまり、日々時間を積み重ねている。そして世を動かすのは私たちである。このエセ覚者どもではない。あなたのやっていることは、完全にあなたにだけ属するオリジナルである。AIなんて入り込む余地もない。

共に進んでいこう。私も間もなく、四度目のどん底となる。しかし確信しているからあきらめることはあり得ない。ただ進むのみだ。待っている人がいるんだ。世界各地に、そして星のかなたに。いつも見てくれている人たちのために。