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一つの戦い方で、素手・刀・長短棒・盾を使いこなす転掌

多くの武術は、すべての戦い方で、勝ちに行く。しかし転掌・転掌式八卦掌は、一つの戦い方で、あらゆる方法・あらゆる手段・あらゆる道具(武器)を駆使し、一定時間生存による時間稼ぎのおとり作戦による護衛を目指す。

全ての戦い方とは、接近戦・遠い間合い戦・関節技・抑え込み技・投げ技などを駆使するということ。そして最終目標は、「相手を倒す」である。

しかし転掌は違う。一つの戦い方だけを練習する。一つの戦い方とは。撤退戦を基本とした、移動遊撃戦である。撤退戦とは、敵の力と抗しない戦い方である。倒すことよりも、生存し続けることを第一とする、斜め後方スライドの対敵法による一定時間生存術である。

転掌・そして本来の八卦掌では、この戦い方しかしなかったのである。相手を巧妙な技で倒す八卦掌は、転掌が有名になって、修行者のほとんどが屈強な男性になった後に成立した、次世代の武術的戦い方なのである。

素手・刀術・双身槍術・大刀術・双短棒術・藤牌術すべてにおいて、この一つの戦い方だけをマスターするのである。その根源は、戦場の藤牌兵刀術である。そこから単換刀が生まれ、単換刀から、単換掌理・勢掌理が抽出され、単換掌・双換掌・勢掌単招式が一定の形として具現化されたのだ。

専用武器の携帯を許されなかった後宮内の宦官(かんがん)・宮女(きゅうじょ)が、割と短期で、身の回りのもので護衛を果たすことができるようになる技術体系を持ち、弱者でも護衛をし得る道を切り拓いた。転掌は、一つの戦い方(一つの術理)をマスターすれば、この理であらゆる道具が、すべて同じように使える技術体系を持っていたのも、短期習得を可能ならしめた。

転掌と転掌式八卦掌に、関節技はない。当たり前である。たとえ相手が一人であっても、敵の眼の前にとまらないのだ。身体を残して攻撃するだけでも、敵に捕捉される危険が生じる対多人数戦の最中である。関節技など、かけている暇もない。

これは、八卦三十六歌訣。四十八法でも、言及されていることだ。昔日の転掌本来の戦い方を示した、数少ない貴重な資料である。歌の中には、近代化した後の技法に言及され者もある。しかし、三十六歌訣は、昔日転掌の拳風を、色濃く残す、貴重な資料である。

現代の八卦掌家は、自身の拳法が、対多人数に有効な拳法であることを公にしない。なぜか。彼らの習った八卦掌が、対一人・対他流試合用化した八卦掌であり、そこに対多人数を想定した技法が伝わってなく、習ってないからである。ひどい場合、昔日の転掌が、自分たちの習っている近代八卦掌と対して変わらないもの、と思っている。

董海川先生が創ったころの転掌と、近代八卦掌は、まったくの別物である。其の目的を違えた時点で、両者の分離はさけられないものとなった。私の伝える転掌を見て、そのシンプルさ、現行主流八卦掌とのあまりの違いに、落胆する者が多くいる。

宦官が、宮女が使っていた武術が、強者使用前提であるはずがないだろう。少し考えれば分かることだ。

私の持っているものは

すべて。私はすべてを持っている。

私の目に映るもの、すべてを持っている。目に映らないものは知らないわよ。持っているかどうかなんて、私にはわからないから。

他人の家に行くといつも思うのは、「なんでこんなに持ってるの」ってことだわね

あらゆるスペースに、モノが押し込められている感覚ね。いっつも思うのは

「この人、引っ越しする場合どうするんだろう?」

引越しなんて当たり前。父といると、将来どこに行って、どこでどうなるかなんてわからないから。持つことに、何のあこがれもないわね。

わざわざ持つ必要なんて、ないと、ずっと思っていた。

ものを持って一番嫌なのは、住んでいる場所に執着してしまうってこと。

いつでも、思い立った時に、思い立った場所に、私は行きたい。ついていきたい。この人は流動的な人だから、ものなんて貯めこんだら、置いてかれてしまう。

もたないのは、大変なこともあるけど、両手が空いていることの喜びを味わったら、もう戻ることはできない。

いつもどこかの空の下だからね。あの空の下。あの山のふもと。たくさんの星が見える場所では、一緒に星の祭りに参加したりする。

山間部の朝は、車から出ると、むせ返るような新鮮な空気。あれは本当に楽しい。

穏やかな天気の時は、人のいない漁港で、あの人は釣りを、私は絵を描き、時間がゆっくりと流れる。

そのたびに思う。別に、楊家拳の伝承になんて、こだわらなくてもいいんじゃない?と。

必要としている人なんて、おおよそ私たちの周りにはいないものよ。そこまでして教える必要なんてないじゃない。

私んちの、オカモトタロウ

ジョン・バリーの「ある日どこかで」という映画のテーマ音楽が大好きなんだわよね。

知ってる?「ある日どこかで」は、私が生まれる前の映画「スーパーマン」に出てた、クリストファー・リーヴ主演の映画。内容を言い出すと、長いし、私がここで言っても、何も感動しない。見て初めて、感動を覚える映画なんだわよ。

主人公は、時空を超えた恋愛を経て、幸せを獲得する寸前で、時空によって引き裂かれる。本当は再開してたんだけど、気づかないまま、しかし、それがきっかけで主人公は時空を超え、その人の若い頃に旅立ち、恋に落ち、引き裂かれる。

主人公は、もう巡り逢うことが出来ないヒロイン(ジェーン・シーモア)のことを思いつめすぎて食事も摂らなくなり、憔悴。薄れゆく意識の中で、先に旅立ったヒロインと、再開を果たす。

命を落とすくらい衰弱してまで想い詰めて、その果てに、人生を棒に振ってしまうくらいまで、進み続けた主人公。それが私の心を打った。そこまで想いつめる人って、ほとんど見たことない。

その映画のサントラを聴こうとすると、Youtubeの広告がガンガン流れる。おおよそ、お金儲けの話だったりする。関連動画では、生き方についての動画。人生について、悟りについて、願望実現について・・。今って、あふれんばかり。しかし内容は、みんなおんなじ。つまり、これ作ってる人って、悟りも、何かを成すこともしないで、ただ視聴回数が稼げるから作ってるってこと。当然、心に響かないわ。

いっつも思うんだけど、あのような動画って、人と違う、革新的な思考法を説きながら、よくよく聞いていると、「しかし○○ということではありません」とか、「それは周りを無視した行動をしていいというわけではありません」なんて、「社会の常識」的な考えや横やりが入る。

何言ってるの?偉業を成し遂げた人間なんて、社会に迎合なんてしていない。皆とことん、自分の道をまっすぐ進むために、大きな危険をおかしている。破産やホームレスなんて当たり前。人間づきあいが全くダメで、周りの人間からダメ出しをされまくっていた、とか、そんな現代でいうところの「ダメ人間」ばかり。

願望実現・引き寄せ法則・自己啓発動画に、現代社会的な修正が入る、ということは、この動画を作っている人間が、現代社会の枠を飛び出てない、ということ。だってあの手の動画って、作成者がまったく見えない。何を成したうえで、あのような悟りについての動画をつくっているのか分からない。

オカモトタロウって、いるよね。芸術は爆発だ!で有名の、作家・岡本かの子の息子さん。私が生まれた直後に亡くなった、天才。リアルタイムで見てみたかった。なぜなら、この人、本で言ってることが、とっても共感できるから。このひとって

「迷ったらダメな方を」

って言う。その内容をみてみると、本当にダメな方を選べ、というの。全部を敵にまわす。命の危険すら生じるような、ダメな方へ。「こっちに行ったら世間のすべては反対する」ほどダメな方へ、行くことを、自ら宣言している。本当に、現代社会の常識に言わせたら、「そっちだけはだめ」という方へ行くことの重要性を、堂々と言っている。ダメな方へ行った方が、生命の活力が「モリモリっ」と湧いてくるからいい、みたいなことを言って。

これなのよ。これこそが、過去の偉大な業績を成し遂げた人間たちの通った道なんだわよ。成功してない時はきっと、まわりからボロカスに言われていたと思う。多くの人に笑われ、あいつはダメだ、あいつは終わった、と言われていたと思う。周りに迷惑をかけ、わずらわしく思われていただろうね。

エセ成功の法則提唱者どもは、間違ってもこのような道は選ぶまい。動画ですでに、そう言ってるし。この連中の動画の通りに行動したら、まちがいなく凡人決定だわね

私の身近にいる困ったさんは、オカモトタロウそのもの。ありえない選択をする。100人中99人が選ばないような道を歩んできた人だった。私はそれを、ずっとそばで見ていたから、同じような反応・コメントをし、同じような場所に誘ってくる、スマートさを気取ってるもやしバカどもが、つまらなくてたまらなかった。

人の見てるところで、格好つけてるんじゃないわよ。本当のすごみは、人の見ていないところで積み重ねることで生じるの。そしてその積み重ねは、あまりに膨大な時間の中で、ずっとずっと、行われてるものなのよ。だから、誰も対抗できないのよ。気づいた時には、この人は、圧倒的な時間の積み重ねのアドバンテージを持っているから。なぜ自分がまける?と食ってかかって言ってきたもやしバカがいた。かなうわけないでしょ。あんたが、気晴らしや、店での無駄遣いをしている間にも、この人はフィールドに立ち続けていたのだから。私はいっつもそれを、見てきたからわかる。言いようのない、そこに「在る」ことから出る雰囲気は、この人からしか感じたことが無いのよ。

何を思ったか、口説いてきた合気道の師範は、ふわふわしていて、軽く感じた。同じ武術家とは思えない。絡んできた、何かの武術の連中は、まるでゴロツキだった。気高さのかけらもない。すべてを備えているのは、、このタロウしか、私は知らない。

また今回も、オカモトタロウだった。多くの人がきっと、「何やってんの!」って言うような道を、いっつも震えながらも選んだ。私は歓迎するわよ。そして当然の行動だよね。自ら、原点として君臨し続けることを選んだ人だから。この人は、源泉として行動し、源泉として、今この時に「在る」のだから。私が、まっさきに支持する。

私もワクワクしていた。これからどうなるか。来年の今ごろ、どこの星の下で、この人と練習しているのか。諸行無常の生き写しのような、このタロウと一緒にいると、先が見えなくて、本当に楽しい。空(くう)こそ、すべてなり。私はこの人から、空の実例を学んだ。

ありがとう。ずっとこれからも、支持してあげるから。

歴代を個人崇拝しないこと

歴代になる者は、師にむかって、叩頭をする。私もそうした。親であっても、である。

これは、師に対する服従なの?そうではない。そうなら、わたしはしないね。一番近くにある、「真実」に対する敬意である。そして、すぐそうなる「自分」に対する敬意である。わかる?私も言葉では言い表しにくい。

館長は言う。私は崇拝される存在ではない。私どころか、董海川開祖や、その他の歴代も、崇拝されるものではい。いずれあなたもなるのだ、いずれその立場になるのだ。もう耳タコです。

何を崇拝するかは、叩頭の儀式にヒントがある。師と共に、より大きな深淵なるものに対する叩頭がある。それすらも崇拝されるものではない。私の内にあるもの、よくわからないもの。それは外にあり、内にあり、そして全部が同じである。

老子とか、ヴェーダンダを読んでいると分かるのだが、外にある絶対的なものに対する服従、ではないのである。それは自分の内にも存在しているし、外にもあるし、実は全部一緒なのである。

転掌八卦を追っていると、そこにはいろんなヒントが湧いてくる。もしそれが外にあるものならば、何かしらの啓示が、外からしか見えない。しかし、自分が自分の最良の師(館長がよく言う話である)になる過程で、そのヒントは、外よりも、内から、湧いてくる。こんなこと、よく思いついたなって、そう思う時が。

私、成績は良かった。テストで順位がある時代は、テストでは、いつも上位だった。これは自慢じゃないからね。ここで自慢しても、仕方ないでしょ?そこから続く話があるんだ。そのときは、テストの点を取ることだけだった。人に認められる。他人との比較だ。

しかし、ある難問が分かった、ということはあっても、自分の内からの、ハッとするようなことはなかった。学年で一番になったこともある。しかしそれで得たのは、優越感だけ。きっと上には上がいるし。その時の苦闘が、何か人生を変えたと、今考えても思わない。

それよりも、八卦の練習で、人と一緒にすべりながら下がっていくあの感覚を得た時のほうが、圧倒的に感動的。いんや、比べ物にならない。

学校の成績とかって、誰もが自慢したがる。どうでもいいことなのに。私も天狗になってそうなって、今考えると、なんの感動もないし、どうでもいいことなのに、転掌八卦の、分かった時は、違うのよ

私は何を求めていたんだろうと、思う時がある。外っ面ばっかりだった。真実は、内にある。一生懸命、いいとこ見せようと、悪ぶったり、ワイルドっぽくするけど、むなしく見えるだけなのに

転掌八卦の中核技は、単なる一つの、やり方に過ぎないってことも。ブルース・リーと、館長は、おんなじことを言っている。それをずっと感じていた。私がそれを教えてあげてから、館長は、彼を好きになった。しかし、館長は、今でも、人に相手にされない人だけど。

でも私にとっては、ヒントをくれたメインの「外なるもの」だ。わかる?

これを書くと、個人崇拝するな!って言われそう。伝えた者より、伝えられた内容を重視し、それを自分にしてしまえ、そしてじぶんのいちぶんしてしまえ、これがやっと、この年になって分かったかな。

学生の頃の自分に言ってやりたい。いつも言われていたのに、ただ噛みついていただけだったな、私は。

人は人のことなど気にしていない。は嘘ね。

人は、自分が思っているほど、人のことなんて気にしていない。そうよく言われるが、そんなことないね。

私のことを気にしているなら、それは明らかにわかる。

自信をもって言うことができる。私は外で、人のことなんてほとんど気にしていない。海に行く。海岸に立つ。人はいる場合もあるが、私は海しか見ていない。そこにいる人間のことなんて、気にしていない。でも人は、そうでないようだ。

転掌の目で見ると、全体を大きく瞬時に見渡す。視界の端っこにある動きも見逃さない。顔を動かない状態で、自分に意図を配っている人間の動きが分かる。これは職業病である。

後輩らに言うが、館長が頭を動かさないのは、この眼力が養われているのもある。それ以外の理由もあるが、眼力を鍛える意味もある。知ってた?もし知らなかったのなら、せめて頭に入れておくこと。頭に入れても初心者はできない。でもそのポイントを知っておくと、いつかフッとできていることに気づく。

転掌の移動練習をしていると、もはや目標物を見る必要はない。通り過ぎるだけである。安い

自分は海を見たかったから、この場所に来たんだ。人と交流するための来たんじゃない。

私は趣味で、色んな場所に行く。そして、人のほとんどいない場所が好きだ。没頭したいから。しかし没頭できないときもある。見たこともない人が声をかけてくる。こいつは、人と交流したいのか?何のためにここに来たのか?

私は趣味をしにきただけだ。それだけなのに、人と関わりたがる人間が最近多いため、魔除けが必要である。

魔除けも私の行きたがる場所と同じような場所に行きたがる。しかし魔除けは、海で釣ることが好きなので、最近海の絵ばかりとなる。かといって、一人で出かけると、声をかけられ大変面倒くさい。

へぇ、いいねぇ、絵なんて・・俺も、絵でも描いてゆっくりしようかな?いつも来てるの?

それ、どうでもいい。もうここには二度と来んから、安心してむこう行ってろ。

転掌八卦門として、世界武術・転掌を支えていく

八卦掌水式館は、世界武術・転掌の拡大と浸透化を支えていくために、伝承のための門「転掌八卦門」を形成します。

北陸本科のページを見ている人であれば、お気づきかもしれません。現在、護身術指導と伝統継承の二つの指導フレームを作成しています。

転掌の護身術としての素晴らしい特徴に絞り全国に伝播させるため、極限までシンプル化し敷居を低く習いやすいくし、隅々の諸氏に届けるための方法を具現化してきました。しかし独学システムを構築するまで打ち出してきた多くの施策は、全国の諸氏に届けるうえで敷居の高いものであり、弊館指導部の対応力も無尽蔵ではく、限界を感じるものでした。

この点を踏まえ、独学者のテキストに徹した書籍による最低限にして十分な護身技術の教授に限定することで、『売り切り+自動サポート』のシステムを構築、独学での習得の現実化と、リリース後の対応力の飛躍的向上を実現しました。この実現により、多くの力を、世界武術展開に向けることができるようになりました。

いよいよ、世界武術への本格的始動が始まります。護身術の全国・全世界への波及を実行していきながら、まず日本国内にて、転掌八卦門の成立を宣言致します。

水式館にて全伝を授かり掌継人となった者は、自動的に、八卦掌の代継門人・転掌の掌継人に加え、転掌八卦門の伝人とします。

厦門転掌門楊家より館長・水野が受け継いだ董海川先師創始のままの技法は、楊師爺の師伝によってしかるべき人間にお伝えしていくことを求められています。弊館では、館長と、私を含めた掌継人が、幾度となくその伝承方法を試してきました。

その中で、検討と模索によって打ち出した以下の方策を実行していきます。

  • 常識と思いやりを備えた人間に伝承するため、応募制を採用し、転掌八卦門正式門人となるための選考を設ける
  • 転掌八卦門の門人となることを希望者は、転掌における護衛最高段階たる「並走遁走東西変打虚打」を目指すこと
  • 水式館の現行本拠地(館長・水野の生活拠点のある市町村)は、その都度変わる可能性がある(現在は石川県金沢市)ため、遠隔地になっても半年に一度でもいいため定期的に通う熱意を持つことができる者に限定する

今後、機を見て転掌八卦門への入門を希望する方に向けて、必要な情報を示していきます。

大先輩から、後輩になることもできないものたちに告ぐ

八卦掌水式館では、礼節を重んじる。しかしその内容は、「おじぎの角度は○○度・・・」などというしょうもないものではない。

極めて一般的なものである。年上・目上の人には目に見える形で敬意を示す。何かしてもらったら、感謝の気持ちを伝える・・・などの当たり前のことである。

その当たり前のことすら、できないタコが多い。いい加減にしてほしい。タコに失礼である、もはやそういうダラに、つける言葉もない。

約束したなら、何としても来い。致し方ないなら、せめて連絡しろ。言い訳ばかりするな、だれのためにやってるんだ。スマホでしょうもない、真実かどうかもわからないサイト見てる暇があったら、行けなくなりました、くらい連絡しろ。

なぜここで礼節を重んじるかわかる?足りない頭じゃわからないだろうから、今私が教えてあげる。

それは、あんたの身を守るためだ。護身のためだ。身を守るためだ。この世界、100~200年前は、不遜な態度だけで、当たり前にごく普通に、誤解を招き、命まで奪われることがあった。だから昔の時代の拳法家は、礼節を重んじた。日本の、道徳的な意図からではない。中国だよ?無礼不遜の塊みたいな連中が、そんな動機でするものか。

自分の身を守るためだよ、かわいい自分のために、礼節を重んじていたんだよ。

最近うちに連絡してくる連中の中に、命知らずのダラが多い。私が館長で今が民国初期くらいなら、どれだけ〇していることか。

本日は大先輩の特別講義である。まだ入り口にも立っていないダラどもに、愛の鉄拳である。いんや、愛なんてあんたたちみたいな不遜な連中にこれぽっちもないから、無の鉄拳である。覚えておけ!

200年前の天才の人生を追体験する「今」の天才

今こそが、何かを成す時である。今この瞬間、ブログを打っているのも、成しているから成しているのである。

ブログを打つ時に、戦略的な意図はない。思いついたたくさんのことの中で、打ってもいいと思ったものを打っているのである。

私は、私に続く者たちに、なってもらいたいものがある。グランド・マスターである。私は、200年前の天才の生まれかわりと信じることができるくらいの、天才である。今までの巡り合わせを見れば、それが分かる。

そんな200年に一度の天才であっても、後に続く者には、私のコピーになるのはやめてもらいたい。なぜか?後に続く者たちも、形を変えた天才だからである。人まねをして可能性を削いでもらいたくない。

後に続く天才たちが、その人だけの道を歩くとき、天才が天才たるゆえんとなる。前にも打った、一瞬で達人になる方法。あれは信じて疑わない、唯一の達人になるための方法である。

達人になったからわかるのだ。人まねは、あっという間に終わることを。人から一通り教わって、その後が本当の修行なのである。そしてその段階はとても楽しい。色んな気づきが、ちょうどいいタイミングで現れ続ける。それを夢中になってこなし、クリアしていく。ふと気づいた時、今まで何としても到達すべき課題、と思っていたことが、はるか後方に過ぎ去っている。

気づいているはずである。こんなことができるようになった。あんな気づき、昔は重要と思わなかった。今克服したい課題は、どの本にも書いてないこと。私が重視していることを人に話しても、「そんなことどうでもいいじゃん」と言われたりする

Youtubeのコメントを受け付けている時、転掌に関するコメントは、本当にひどいものだった。何も知らない人間であることが丸出しで、自分ならどうでもいいことに固執して批判しわめている。

こんなしょうもないコメントで、いじめ護身部の志ある少年の決意が鈍るのが嫌だったので、オフにした。武術経験者を按にほのめかして、さもすべてが分かったかのように転掌の批判をしてくる人間もいた。上からの物言いのなかに、自分のスタイルを押し付け誇る意図が見えた。そんなことをしても何もならないことにすら気づいていない。

そんな雑音以外の何ものでもないものに遠慮せず、堂々と宣言すればいいのである。200年に一度の天才が言うのだから間違いない。董海川先生の生まれ変わりたる私は、今董師の人生を追体験しているのである。

中学生の時、関東で転掌の伝承者に出逢ったことは、私の道を求める気持ちによって引き起こされたもの。人を守るための戦いに敗れたことも、何か大きいものの意図である。

紛争地・辺境地にも転掌が広がっていく通信講座戦略

私の中には、明確なイメージがある。そしてそれは、常に思い描かれているものであるため、どんどんリアルになっていく。

舗装されてない、山の斜面の少しの平地っぽいところ・・・ここはアフリカだろうか。そこで、黒人の先生が、そこにいる少年たちに、転掌の転掌式を教えている。そこの村は、紛争の緩衝地帯だから、命を守るための技術を学ぶ時間は、当然のこと。

少年たちが、少女たちが、はだしで広っぱをかけめぐる。笑いながら、叫びながら、時に、そこらに転がっている折れた木の枝をもって、刀代わりにして。ああ、あの技は単換刀だ。少し打ち方が小さいな、もっとするんだ、って、先生が教えている。その先生も、あまりうまくなくて、自分が乗り出して、教えたくなる。「刀を敵との間に入れろ、そして引き斬りをするんだ!」って。

こんな紛争地の片隅にも、転掌が広がっているのか。ここまで広がったか。もっともっと、広めないといけない。

彼らは言う。「ハケショー」っていったり、あちらの国の辺境では「テンショー」って言ったり。なぜなら、私に習った元弟子の先生が、自分の好きな名前で教えているからだ。よく見ると、世界各地にいる先生の技も、細部が違う。

私はその映像をみて、泣けるくらい嬉しくなる。ここまで理解してくれたか、しっかりとマインドは伝わり、自分の好きなようにおしえてくれてるんだなって。

私は、その世界に住んでいる。転掌が世界に広まった世界に、もう生きている。もうすでに、見ている人は、日本人だけではない。リアルに世界に広まり続けている。

こんな責任ある立場になってしまった。ここで引くことなど、もうできない。私の周りの環境の変化によって、この広がりを送らせてはならない。そのために軍師殿と相談して、どこでもどんな状況になっても広げ続けることができる、「通信講座」に 力を入れてきた。しかしその時、「道のりはきっと平たんじゃないよ」と覚悟し合った。

最初は笑われた。何言ってんの?武道は、対人だよ、どうやって人と練習するの?って、笑われた。その言葉に気持ちが弱くなり、心の底からうまくいくことを信じることができなくなった。失敗、失敗、失敗。

現在の通信講座は、当然の自信作である。2月より開講した女性護身術専門の通信講座だ。

最近は、通信講座立ち上げ初期に見られた批判はなくなった。それは批判者が私を認めたからではなく、何度も何度もバージョンを上げ、トライし続けたからである。

何度もトライした私は、武術の通信講座では、先人なのである。私は真剣に考えている、通信講座による普及を。高度な深奥に近い技法は届けられない。しかし初期段階ならばできる。そこに焦点をあて、対象者も絞って、この2月に臨んだ。

なぜここまでやるのか。冒頭のイメージが、頭から離れないからである。少年たちが、衛生面も良くなさそうな環境の中で、身一つで単換掌を練習している少年たちの姿がイメージされるから。つたない技術であっても、転掌の先生として教える青年の笑顔から見える白い歯が、あまりにリアルにあるからである。

通信講座であれば、きっとその知名度は日本全国にとどろく。なぜなら、最大のネック、金沢への訪問が無いからである。

「金沢」というだけで、多くの人間が対象から外す。しかしそれがないから、全国の潜在的転掌ファンが、私の文を読むのだ。皆が迷うようになる。水式館が広告を打っているのは、「知名度」という資産を買っているためである。その資産はどんどん積み重なっている。止まらない。

金沢周辺だけで、こそこそやらない。対面に一切こだわらない。土台を広げ(日本全国対象)、シンプルにして習得の敷居を低くし、そこで再度、広告を打つのだ。教室の生徒募集の広告じゃない。全国に向けて、本と通信講座の宣伝を通して、水式館の気迫を見せるためだ。

伝えるものには、揺るぎない自信がある。先ほどの辺境地での指導では、きっと多くの人間が、その命を守る切り札とするだろう。先進国の路地裏で、多くの女性が、その身を、息を切らしながら守ることだろう。

すべては、ある弱者の少女の涙から始まった。その涙の一滴は、一見平和そうに見えて実は弱者の泣き寝入りで穏やかに見えていた水面に、いつまでも消えない波紋を起こし続けている。

それは今も、この瞬間もだ。その波紋は、その穏やかな水面から、水辺を通り越して津波のように、世界に届き続けている。私はその流れを、決して止めるつもりはない。私の肉体が滅んだ後も、その波紋を起こし続けるための作業の具体的なものが、この通信講座戦略である。

軍師曰く

「それこそレガシーで。それこそ、世界が救われ、先生が救われ、少女がそこにいたことを証するもの」

遺していく。通信講座は、そのための手段に過ぎない。その一手段をきっかけに、各地で伝承者が発生し、その点が海を渡って各国に伝わり・・・・あの山の斜面で、少年たちが、はだしで転掌を練習しているのである。

八卦掌水式門富山本科イメージ

最悪状況「腕を取られた状態」から始まる護身術を王道技法とするな

とにかく敵に近づかれないこと。これは、よくある護身術の、「脅威に近づかないこと」を言っているのではありません。近づかせないでつかまれない、はがいじめにされない具体的な技術のことを言っているのです。

この技術を徹底的に磨くならば、敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎです。それは近づかせない技術がなく、かつ、護身術とはつかまれてから対処する技術、という思い込みを持っているからです。

危うきに近づかず、といっておきながら、転掌における近づかせない技術、やり過ごす技術を紹介すると、つかまれたらどうする、と反論してきます。近づかず、じゃないのか。結局、術を習いたいんですね。巧みに敵をさばき、「?」と相手に思わせてから逃げる。このスタイルに洗脳されているのです。

護身術教室は、師範の修めた、相手に抗する、相手に積極的にまじわる技術が基礎となっています。それらは皆、男性使用前提の武術ばかりです。それを少しカスタマイズしただけだから、あのような形に皆なるのです。転掌はまったくちがいます。使う人間が、非力な人間という設定です。弱者使用前提が徹底されているのです。だからつかまれる寸前まで「回避離脱」の可能性を残す技術体系を持っているのです。

つかまれたら終わりだ、という厳しい現実をしっているので、そのような体系をもっているのです。

何度も言います・・・敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎ、をあたまに入れておいてください。この事態をさける技術を習うことが、弱者の習得する護身術の再興の到達点となるのです。

相手が近づいてきたら、すぐさま間隔を空けます。何を言ってもわめいていても、構わず間隔を空けます。そしてそののち、一気に斜め後方スライドで間隔の距離を広げます。

「だけど!手をつかまれたらどうするんだ!」。これは実際に言われた言葉です。

転掌では、とにかくつかまることがないように、徹底して斜め後方スライドを練り、洗練させ、急速スライドを可能にすること目指すのです。ひとりで練習する護身術です。練習相手はいません。練習相手もいなくて成功確率もあげることができない振り払い・先制攻撃の護身術に、なぜ限られた時間を費やすのでしょうか。

それは、現在の動画投稿サイトに大量に存在する、「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画に影響され過ぎているからです。皆さんは、「護身術」き聞いたら、真っ先に「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画を思いだしますよね。それは、すでにあなたの頭の中が、そのように洗脳されているからなのです。

昔日の弱者の護身術の大基本は、「とにかく間合いをあけること」でした。庶民に、武術を練習する時間も、機会も、そして許可もありませんでした。そして襲撃者は屈強であり、かつすでに何らかの危害を加えるつもりでつかみにきているのです。つかむならまだいい。実際、刃物襲撃者は、何も言わずにいきなり刺してきます。

眼の前で止まって、振り回す。しません。

目の前で止まって、スキを見つけてから刺してくる。様子など見ません。

とにかく刺してくるのです。ですから、視界を広く見る練習を日頃から行い、そこでつちかった「遠目」の技法で接近者を察知し、接近者の反対側へ斜め後方スライドします。その技術を、とにかく養うのです。その技術を習得すると、つかまれる本当に寸前まで、離脱回避のチャンスを創り出すことができるようになります。

その技法こそが、護身成功を高める技術なのです。忘れましたか。転掌は、徹底した「弱者使用前提」の武術。強者に対し、つかまれた後に巧妙な技法が通用しないことなど百も承知です。もし強者相手に、華麗に絡めとったり転ばしたりする技法で転掌が構成されていたら、軍事・武術の知識も経験もある王族集団からダメだしをされ、宮中内護衛武術になど採用されなかったでしょう。

柔道や合気道で、力任せの攻撃をされたことのある女性や子供であれば、すぐにわかるはずです。私ですら、体格のいい男性には、腕を取る系の技を決める自信がないのです。それは、何度も失敗し、力任せの攻撃にねじ伏せられた経験があったから。相手次第だから。相手の事情は、その都度変わるもの。そのようないきあたりばったりの極まて不確定な要素に、私は常に不安を感じていたのです。

転掌にも、つかまれた後や、押し倒された後の対処法が存在します。転掌は、やるかやられるかの熾烈な歴史を繰り返してきた中国大陸の武術です。つかまれる、倒されるなどのわが命存亡の危機に、手を払う、崩して逃げるなどの活人的対処法はありません。油断した相手の命を一気に奪うことで、その絶対的危機を逃れます(転掌では、その技法を実現するための下準備を、初歩より行う)。

しかしそれは最終手段であり、庶民や身分の低い者などのような命をかけて戦う経験の乏しい庶民には、心理的に実行しにくいことを創始者も知っていた。だから、絶対的危機におちいらせないための、つかまれるかつかまれないかの分かれ目まで回避行動が可能な移動護身技術を開発したのです。相手を殺傷することにためらいのある庶民でも、これならば命がかかれば無我夢中でも実行できます。

昨今の護身術動画では、つかまれているシーンから物事がスタートしていると、先ほど言いました。あのような動画は、護身術対処法の定番の「型」を私たちの頭に植え付けてしまっています。あのような対処法が最も優れたものであり、最も合理的で、かつ護身成功確率も高い、と。指導者が武術の達人であったり、警察・軍隊出身者で実戦経験も豊富、などと書いてあったりすると、なお疑うことなく信じてしまいます(だから多くの武術家は、軍隊や警察での指導を、たとえそれが数日であってもアピールする)。

転掌の自分護衛術を紹介すると、学習者は必ず敵に手をつかまれた後の対処法を求めます。「つかまれてしまうまでが勝負だから、その練習(つかまらない練習)をとにかく繰り返してください」と言うと、多くの者(特に男性)は次から来ることがなくなります。

男性もしくは襲撃者の接近に、もっと過敏になるべきでしょう。それは海外では当たり前です。

海外では、女性や弱者を狙った犯罪がとにかく多いです。しかし海外では、流麗華麗な「つかまれたあとの護身術」は普及していません。あくまで、武術等に興味のある女性が、たしなむ程度です。

それは海外でも、「敵の手を巧妙な技で外して逃げる」のような護身術を潜在的に「役に立たない非現実的な技法」と考えているからです。海外での護身術の弱者護身術のスタンダードは、とにかく「近づけさせないこと」。銃で威嚇するのは、その典型例です。近づいた人間には、容赦ない発砲が待っています。海外(特にアメリカ都市部)の女性は、見知らぬ人間に関しては、男性はもちろんのこと、女性ですら近づけさせません。

その疑念の対象は、当然親族にも及びます。夫婦間でも、その中が険悪となれば、たちまち近づけさせない対象になるのです(アメリカにおいて夫によって命を奪われる妻の数は、本当に多い)。

本当に襲うつもりの男性は、何も言わず、グッと近づいてきます。転掌の移動練習では、頭を固定させ、広い目で周囲を見る能力をやしないます。それは、視界の端にいる人間でも、近づいてきたことが分かるようにするためです。視界の端から中心点(自分)に分け入ってきた敵に、無意識レベルで身体を入れて回避行動をする練習を、後述の推掌転掌式や、単換掌で繰り返し練ります。

とにかく、近づけさせない練習を、日頃から徹底すること。こちらに来ることが分かったら、少しでも速く、その場から機動し軌道を変え、敵を離します。近づけさせてしまっても、触られる程度なら、回避の可能性はまだ十分残っています。触られない状態ならば、日頃繰り返しの練習の中でつちかった、洗練された斜め後方スライドと虚打けん制で、十分間隔を作り出すことができます。

頭の中から、たくさんの動画で見られる鮮やかな振り払い系護身技術を追い払うこと。すくなくとも、あれがスタンダードだ、という思い込みを手放すこと。

もしあなたが、何かしらの理由でこれらの技術を欲するならば、習うのは意義あることでしょう。一般人レベルが習う護身術に、何十年もかける人間はいません。短期習得が求められます。それは昔日の農民徴収兵に指導をするのとよく似ています。

生存の可能性を生み出すための最も早い手段を実行すること。転掌は、その指導対象が、武術ど素人の宦官・宮女であり、最低限の一定時間生存術の短期習得を宿命づけられた武術。その時代背景・成立背景もかんがみ、私は女性護身術に、転掌の一定時間生存術を自信をもってすすめるのです。