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人は人のことなど気にしていない。は嘘ね。

人は、自分が思っているほど、人のことなんて気にしていない。そうよく言われるが、そんなことないね。

私のことを気にしているなら、それは明らかにわかる。

自信をもって言うことができる。私は外で、人のことなんてほとんど気にしていない。海に行く。海岸に立つ。人はいる場合もあるが、私は海しか見ていない。そこにいる人間のことなんて、気にしていない。でも人は、そうでないようだ。

転掌の目で見ると、全体を大きく瞬時に見渡す。視界の端っこにある動きも見逃さない。顔を動かない状態で、自分に意図を配っている人間の動きが分かる。これは職業病である。

後輩らに言うが、館長が頭を動かさないのは、この眼力が養われているのもある。それ以外の理由もあるが、眼力を鍛える意味もある。知ってた?もし知らなかったのなら、せめて頭に入れておくこと。頭に入れても初心者はできない。でもそのポイントを知っておくと、いつかフッとできていることに気づく。

転掌の移動練習をしていると、もはや目標物を見る必要はない。通り過ぎるだけである。安い

自分は海を見たかったから、この場所に来たんだ。人と交流するための来たんじゃない。

私は趣味で、色んな場所に行く。そして、人のほとんどいない場所が好きだ。没頭したいから。しかし没頭できないときもある。見たこともない人が声をかけてくる。こいつは、人と交流したいのか?何のためにここに来たのか?

私は趣味をしにきただけだ。それだけなのに、人と関わりたがる人間が最近多いため、魔除けが必要である。

魔除けも私の行きたがる場所と同じような場所に行きたがる。しかし魔除けは、海で釣ることが好きなので、最近海の絵ばかりとなる。かといって、一人で出かけると、声をかけられ大変面倒くさい。

へぇ、いいねぇ、絵なんて・・俺も、絵でも描いてゆっくりしようかな?いつも来てるの?

それ、どうでもいい。もうここには二度と来んから、安心してむこう行ってろ。

転掌八卦門として、世界武術・転掌を支えていく

八卦掌水式館は、世界武術・転掌の拡大と浸透化を支えていくために、伝承のための門「転掌八卦門」を形成します。

北陸本科のページを見ている人であれば、お気づきかもしれません。現在、護身術指導と伝統継承の二つの指導フレームを作成しています。

転掌の護身術としての素晴らしい特徴に絞り全国に伝播させるため、極限までシンプル化し敷居を低く習いやすいくし、隅々の諸氏に届けるための方法を具現化してきました。しかし独学システムを構築するまで打ち出してきた多くの施策は、全国の諸氏に届けるうえで敷居の高いものであり、弊館指導部の対応力も無尽蔵ではく、限界を感じるものでした。

この点を踏まえ、独学者のテキストに徹した書籍による最低限にして十分な護身技術の教授に限定することで、『売り切り+自動サポート』のシステムを構築、独学での習得の現実化と、リリース後の対応力の飛躍的向上を実現しました。この実現により、多くの力を、世界武術展開に向けることができるようになりました。

いよいよ、世界武術への本格的始動が始まります。護身術の全国・全世界への波及を実行していきながら、まず日本国内にて、転掌八卦門の成立を宣言致します。

水式館にて全伝を授かり掌継人となった者は、自動的に、八卦掌の代継門人・転掌の掌継人に加え、転掌八卦門の伝人とします。

厦門転掌門楊家より館長・水野が受け継いだ董海川先師創始のままの技法は、楊師爺の師伝によってしかるべき人間にお伝えしていくことを求められています。弊館では、館長と、私を含めた掌継人が、幾度となくその伝承方法を試してきました。

その中で、検討と模索によって打ち出した以下の方策を実行していきます。

  • 常識と思いやりを備えた人間に伝承するため、応募制を採用し、転掌八卦門正式門人となるための選考を設ける
  • 転掌八卦門の門人となることを希望者は、転掌における護衛最高段階たる「並走遁走東西変打虚打」を目指すこと
  • 水式館の現行本拠地(館長・水野の生活拠点のある市町村)は、その都度変わる可能性がある(現在は石川県金沢市)ため、遠隔地になっても半年に一度でもいいため定期的に通う熱意を持つことができる者に限定する

今後、機を見て転掌八卦門への入門を希望する方に向けて、必要な情報を示していきます。

大先輩から、後輩になることもできないものたちに告ぐ

八卦掌水式館では、礼節を重んじる。しかしその内容は、「おじぎの角度は○○度・・・」などというしょうもないものではない。

極めて一般的なものである。年上・目上の人には目に見える形で敬意を示す。何かしてもらったら、感謝の気持ちを伝える・・・などの当たり前のことである。

その当たり前のことすら、できないタコが多い。いい加減にしてほしい。タコに失礼である、もはやそういうダラに、つける言葉もない。

約束したなら、何としても来い。致し方ないなら、せめて連絡しろ。言い訳ばかりするな、だれのためにやってるんだ。スマホでしょうもない、真実かどうかもわからないサイト見てる暇があったら、行けなくなりました、くらい連絡しろ。

なぜここで礼節を重んじるかわかる?足りない頭じゃわからないだろうから、今私が教えてあげる。

それは、あんたの身を守るためだ。護身のためだ。身を守るためだ。この世界、100~200年前は、不遜な態度だけで、当たり前にごく普通に、誤解を招き、命まで奪われることがあった。だから昔の時代の拳法家は、礼節を重んじた。日本の、道徳的な意図からではない。中国だよ?無礼不遜の塊みたいな連中が、そんな動機でするものか。

自分の身を守るためだよ、かわいい自分のために、礼節を重んじていたんだよ。

最近うちに連絡してくる連中の中に、命知らずのダラが多い。私が館長で今が民国初期くらいなら、どれだけ〇していることか。

本日は大先輩の特別講義である。まだ入り口にも立っていないダラどもに、愛の鉄拳である。いんや、愛なんてあんたたちみたいな不遜な連中にこれぽっちもないから、無の鉄拳である。覚えておけ!

200年前の天才の人生を追体験する「今」の天才

今こそが、何かを成す時である。今この瞬間、ブログを打っているのも、成しているから成しているのである。

ブログを打つ時に、戦略的な意図はない。思いついたたくさんのことの中で、打ってもいいと思ったものを打っているのである。

私は、私に続く者たちに、なってもらいたいものがある。グランド・マスターである。私は、200年前の天才の生まれかわりと信じることができるくらいの、天才である。今までの巡り合わせを見れば、それが分かる。

そんな200年に一度の天才であっても、後に続く者には、私のコピーになるのはやめてもらいたい。なぜか?後に続く者たちも、形を変えた天才だからである。人まねをして可能性を削いでもらいたくない。

後に続く天才たちが、その人だけの道を歩くとき、天才が天才たるゆえんとなる。前にも打った、一瞬で達人になる方法。あれは信じて疑わない、唯一の達人になるための方法である。

達人になったからわかるのだ。人まねは、あっという間に終わることを。人から一通り教わって、その後が本当の修行なのである。そしてその段階はとても楽しい。色んな気づきが、ちょうどいいタイミングで現れ続ける。それを夢中になってこなし、クリアしていく。ふと気づいた時、今まで何としても到達すべき課題、と思っていたことが、はるか後方に過ぎ去っている。

気づいているはずである。こんなことができるようになった。あんな気づき、昔は重要と思わなかった。今克服したい課題は、どの本にも書いてないこと。私が重視していることを人に話しても、「そんなことどうでもいいじゃん」と言われたりする

Youtubeのコメントを受け付けている時、転掌に関するコメントは、本当にひどいものだった。何も知らない人間であることが丸出しで、自分ならどうでもいいことに固執して批判しわめている。

こんなしょうもないコメントで、いじめ護身部の志ある少年の決意が鈍るのが嫌だったので、オフにした。武術経験者を按にほのめかして、さもすべてが分かったかのように転掌の批判をしてくる人間もいた。上からの物言いのなかに、自分のスタイルを押し付け誇る意図が見えた。そんなことをしても何もならないことにすら気づいていない。

そんな雑音以外の何ものでもないものに遠慮せず、堂々と宣言すればいいのである。200年に一度の天才が言うのだから間違いない。董海川先生の生まれ変わりたる私は、今董師の人生を追体験しているのである。

中学生の時、関東で転掌の伝承者に出逢ったことは、私の道を求める気持ちによって引き起こされたもの。人を守るための戦いに敗れたことも、何か大きいものの意図である。

紛争地・辺境地にも転掌が広がっていく通信講座戦略

私の中には、明確なイメージがある。そしてそれは、常に思い描かれているものであるため、どんどんリアルになっていく。

舗装されてない、山の斜面の少しの平地っぽいところ・・・ここはアフリカだろうか。そこで、黒人の先生が、そこにいる少年たちに、転掌の転掌式を教えている。そこの村は、紛争の緩衝地帯だから、命を守るための技術を学ぶ時間は、当然のこと。

少年たちが、少女たちが、はだしで広っぱをかけめぐる。笑いながら、叫びながら、時に、そこらに転がっている折れた木の枝をもって、刀代わりにして。ああ、あの技は単換刀だ。少し打ち方が小さいな、もっとするんだ、って、先生が教えている。その先生も、あまりうまくなくて、自分が乗り出して、教えたくなる。「刀を敵との間に入れろ、そして引き斬りをするんだ!」って。

こんな紛争地の片隅にも、転掌が広がっているのか。ここまで広がったか。もっともっと、広めないといけない。

彼らは言う。「ハケショー」っていったり、あちらの国の辺境では「テンショー」って言ったり。なぜなら、私に習った元弟子の先生が、自分の好きな名前で教えているからだ。よく見ると、世界各地にいる先生の技も、細部が違う。

私はその映像をみて、泣けるくらい嬉しくなる。ここまで理解してくれたか、しっかりとマインドは伝わり、自分の好きなようにおしえてくれてるんだなって。

私は、その世界に住んでいる。転掌が世界に広まった世界に、もう生きている。もうすでに、見ている人は、日本人だけではない。リアルに世界に広まり続けている。

こんな責任ある立場になってしまった。ここで引くことなど、もうできない。私の周りの環境の変化によって、この広がりを送らせてはならない。そのために軍師殿と相談して、どこでもどんな状況になっても広げ続けることができる、「通信講座」に 力を入れてきた。しかしその時、「道のりはきっと平たんじゃないよ」と覚悟し合った。

最初は笑われた。何言ってんの?武道は、対人だよ、どうやって人と練習するの?って、笑われた。その言葉に気持ちが弱くなり、心の底からうまくいくことを信じることができなくなった。失敗、失敗、失敗。

現在の通信講座は、当然の自信作である。2月より開講した女性護身術専門の通信講座だ。

最近は、通信講座立ち上げ初期に見られた批判はなくなった。それは批判者が私を認めたからではなく、何度も何度もバージョンを上げ、トライし続けたからである。

何度もトライした私は、武術の通信講座では、先人なのである。私は真剣に考えている、通信講座による普及を。高度な深奥に近い技法は届けられない。しかし初期段階ならばできる。そこに焦点をあて、対象者も絞って、この2月に臨んだ。

なぜここまでやるのか。冒頭のイメージが、頭から離れないからである。少年たちが、衛生面も良くなさそうな環境の中で、身一つで単換掌を練習している少年たちの姿がイメージされるから。つたない技術であっても、転掌の先生として教える青年の笑顔から見える白い歯が、あまりにリアルにあるからである。

通信講座であれば、きっとその知名度は日本全国にとどろく。なぜなら、最大のネック、金沢への訪問が無いからである。

「金沢」というだけで、多くの人間が対象から外す。しかしそれがないから、全国の潜在的転掌ファンが、私の文を読むのだ。皆が迷うようになる。水式館が広告を打っているのは、「知名度」という資産を買っているためである。その資産はどんどん積み重なっている。止まらない。

金沢周辺だけで、こそこそやらない。対面に一切こだわらない。土台を広げ(日本全国対象)、シンプルにして習得の敷居を低くし、そこで再度、広告を打つのだ。教室の生徒募集の広告じゃない。全国に向けて、本と通信講座の宣伝を通して、水式館の気迫を見せるためだ。

伝えるものには、揺るぎない自信がある。先ほどの辺境地での指導では、きっと多くの人間が、その命を守る切り札とするだろう。先進国の路地裏で、多くの女性が、その身を、息を切らしながら守ることだろう。

すべては、ある弱者の少女の涙から始まった。その涙の一滴は、一見平和そうに見えて実は弱者の泣き寝入りで穏やかに見えていた水面に、いつまでも消えない波紋を起こし続けている。

それは今も、この瞬間もだ。その波紋は、その穏やかな水面から、水辺を通り越して津波のように、世界に届き続けている。私はその流れを、決して止めるつもりはない。私の肉体が滅んだ後も、その波紋を起こし続けるための作業の具体的なものが、この通信講座戦略である。

軍師曰く

「それこそレガシーで。それこそ、世界が救われ、先生が救われ、少女がそこにいたことを証するもの」

遺していく。通信講座は、そのための手段に過ぎない。その一手段をきっかけに、各地で伝承者が発生し、その点が海を渡って各国に伝わり・・・・あの山の斜面で、少年たちが、はだしで転掌を練習しているのである。

八卦掌水式門富山本科イメージ

最悪状況「腕を取られた状態」から始まる護身術を王道技法とするな

とにかく敵に近づかれないこと。これは、よくある護身術の、「脅威に近づかないこと」を言っているのではありません。近づかせないでつかまれない、はがいじめにされない具体的な技術のことを言っているのです。

この技術を徹底的に磨くならば、敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎです。それは近づかせない技術がなく、かつ、護身術とはつかまれてから対処する技術、という思い込みを持っているからです。

危うきに近づかず、といっておきながら、転掌における近づかせない技術、やり過ごす技術を紹介すると、つかまれたらどうする、と反論してきます。近づかず、じゃないのか。結局、術を習いたいんですね。巧みに敵をさばき、「?」と相手に思わせてから逃げる。このスタイルに洗脳されているのです。

護身術教室は、師範の修めた、相手に抗する、相手に積極的にまじわる技術が基礎となっています。それらは皆、男性使用前提の武術ばかりです。それを少しカスタマイズしただけだから、あのような形に皆なるのです。転掌はまったくちがいます。使う人間が、非力な人間という設定です。弱者使用前提が徹底されているのです。だからつかまれる寸前まで「回避離脱」の可能性を残す技術体系を持っているのです。

つかまれたら終わりだ、という厳しい現実をしっているので、そのような体系をもっているのです。

何度も言います・・・敵に先制攻撃を入れる必要はありません。「手をつかまれたらどうする」。手をつかまれる=相手を近づけすぎ、をあたまに入れておいてください。この事態をさける技術を習うことが、弱者の習得する護身術の再興の到達点となるのです。

相手が近づいてきたら、すぐさま間隔を空けます。何を言ってもわめいていても、構わず間隔を空けます。そしてそののち、一気に斜め後方スライドで間隔の距離を広げます。

「だけど!手をつかまれたらどうするんだ!」。これは実際に言われた言葉です。

転掌では、とにかくつかまることがないように、徹底して斜め後方スライドを練り、洗練させ、急速スライドを可能にすること目指すのです。ひとりで練習する護身術です。練習相手はいません。練習相手もいなくて成功確率もあげることができない振り払い・先制攻撃の護身術に、なぜ限られた時間を費やすのでしょうか。

それは、現在の動画投稿サイトに大量に存在する、「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画に影響され過ぎているからです。皆さんは、「護身術」き聞いたら、真っ先に「つかまれたケースから鮮やかに離脱する」動画を思いだしますよね。それは、すでにあなたの頭の中が、そのように洗脳されているからなのです。

昔日の弱者の護身術の大基本は、「とにかく間合いをあけること」でした。庶民に、武術を練習する時間も、機会も、そして許可もありませんでした。そして襲撃者は屈強であり、かつすでに何らかの危害を加えるつもりでつかみにきているのです。つかむならまだいい。実際、刃物襲撃者は、何も言わずにいきなり刺してきます。

眼の前で止まって、振り回す。しません。

目の前で止まって、スキを見つけてから刺してくる。様子など見ません。

とにかく刺してくるのです。ですから、視界を広く見る練習を日頃から行い、そこでつちかった「遠目」の技法で接近者を察知し、接近者の反対側へ斜め後方スライドします。その技術を、とにかく養うのです。その技術を習得すると、つかまれる本当に寸前まで、離脱回避のチャンスを創り出すことができるようになります。

その技法こそが、護身成功を高める技術なのです。忘れましたか。転掌は、徹底した「弱者使用前提」の武術。強者に対し、つかまれた後に巧妙な技法が通用しないことなど百も承知です。もし強者相手に、華麗に絡めとったり転ばしたりする技法で転掌が構成されていたら、軍事・武術の知識も経験もある王族集団からダメだしをされ、宮中内護衛武術になど採用されなかったでしょう。

柔道や合気道で、力任せの攻撃をされたことのある女性や子供であれば、すぐにわかるはずです。私ですら、体格のいい男性には、腕を取る系の技を決める自信がないのです。それは、何度も失敗し、力任せの攻撃にねじ伏せられた経験があったから。相手次第だから。相手の事情は、その都度変わるもの。そのようないきあたりばったりの極まて不確定な要素に、私は常に不安を感じていたのです。

転掌にも、つかまれた後や、押し倒された後の対処法が存在します。転掌は、やるかやられるかの熾烈な歴史を繰り返してきた中国大陸の武術です。つかまれる、倒されるなどのわが命存亡の危機に、手を払う、崩して逃げるなどの活人的対処法はありません。油断した相手の命を一気に奪うことで、その絶対的危機を逃れます(転掌では、その技法を実現するための下準備を、初歩より行う)。

しかしそれは最終手段であり、庶民や身分の低い者などのような命をかけて戦う経験の乏しい庶民には、心理的に実行しにくいことを創始者も知っていた。だから、絶対的危機におちいらせないための、つかまれるかつかまれないかの分かれ目まで回避行動が可能な移動護身技術を開発したのです。相手を殺傷することにためらいのある庶民でも、これならば命がかかれば無我夢中でも実行できます。

昨今の護身術動画では、つかまれているシーンから物事がスタートしていると、先ほど言いました。あのような動画は、護身術対処法の定番の「型」を私たちの頭に植え付けてしまっています。あのような対処法が最も優れたものであり、最も合理的で、かつ護身成功確率も高い、と。指導者が武術の達人であったり、警察・軍隊出身者で実戦経験も豊富、などと書いてあったりすると、なお疑うことなく信じてしまいます(だから多くの武術家は、軍隊や警察での指導を、たとえそれが数日であってもアピールする)。

転掌の自分護衛術を紹介すると、学習者は必ず敵に手をつかまれた後の対処法を求めます。「つかまれてしまうまでが勝負だから、その練習(つかまらない練習)をとにかく繰り返してください」と言うと、多くの者(特に男性)は次から来ることがなくなります。

男性もしくは襲撃者の接近に、もっと過敏になるべきでしょう。それは海外では当たり前です。

海外では、女性や弱者を狙った犯罪がとにかく多いです。しかし海外では、流麗華麗な「つかまれたあとの護身術」は普及していません。あくまで、武術等に興味のある女性が、たしなむ程度です。

それは海外でも、「敵の手を巧妙な技で外して逃げる」のような護身術を潜在的に「役に立たない非現実的な技法」と考えているからです。海外での護身術の弱者護身術のスタンダードは、とにかく「近づけさせないこと」。銃で威嚇するのは、その典型例です。近づいた人間には、容赦ない発砲が待っています。海外(特にアメリカ都市部)の女性は、見知らぬ人間に関しては、男性はもちろんのこと、女性ですら近づけさせません。

その疑念の対象は、当然親族にも及びます。夫婦間でも、その中が険悪となれば、たちまち近づけさせない対象になるのです(アメリカにおいて夫によって命を奪われる妻の数は、本当に多い)。

本当に襲うつもりの男性は、何も言わず、グッと近づいてきます。転掌の移動練習では、頭を固定させ、広い目で周囲を見る能力をやしないます。それは、視界の端にいる人間でも、近づいてきたことが分かるようにするためです。視界の端から中心点(自分)に分け入ってきた敵に、無意識レベルで身体を入れて回避行動をする練習を、後述の推掌転掌式や、単換掌で繰り返し練ります。

とにかく、近づけさせない練習を、日頃から徹底すること。こちらに来ることが分かったら、少しでも速く、その場から機動し軌道を変え、敵を離します。近づけさせてしまっても、触られる程度なら、回避の可能性はまだ十分残っています。触られない状態ならば、日頃繰り返しの練習の中でつちかった、洗練された斜め後方スライドと虚打けん制で、十分間隔を作り出すことができます。

頭の中から、たくさんの動画で見られる鮮やかな振り払い系護身技術を追い払うこと。すくなくとも、あれがスタンダードだ、という思い込みを手放すこと。

もしあなたが、何かしらの理由でこれらの技術を欲するならば、習うのは意義あることでしょう。一般人レベルが習う護身術に、何十年もかける人間はいません。短期習得が求められます。それは昔日の農民徴収兵に指導をするのとよく似ています。

生存の可能性を生み出すための最も早い手段を実行すること。転掌は、その指導対象が、武術ど素人の宦官・宮女であり、最低限の一定時間生存術の短期習得を宿命づけられた武術。その時代背景・成立背景もかんがみ、私は女性護身術に、転掌の一定時間生存術を自信をもってすすめるのです。

ウーマン・ライト・ガード|指導員候補生募集開始。始動!

ウーマン・ライト・ガードは、指導員候補生の募集を開始します。いよいよ始動します。

詳細は、ウーマン・ライト・ガードのサイトにてご確認ください。

ウーマン・ライト・ガードは、国内で初の、身体柔弱東洋人向け護衛術をマスターした、女性警護人を養成する専門教育機関である。

その基盤は、成立過程なれど、多くの希望を見て、手ごたえを感じている。

興味のある方は多いと感じていた。なぜなら、女性にとって、ボディーガードを依頼することは、大変敷居の高いものであるからだと、一番弟子や筆頭弟子から聞いていたから。

理由の一番は・・・やはりボディーガードが、男性であること。こればかりは、女性の立場で考えてみないと分からなかった。

国内には、少なからず女性の警護人がいる。警察にも、皇宮護衛官にも、女性の護衛官・SPはいる。しかし、女性警護人の本音は、男性に対する力不足の実感と、不安であった。

教場で始動されている護衛術を学んでも、それらはほぼ、男性使用前提である。そもそも、軍隊格闘術などは、一般的な男性使用前提武術を元に考案されているのだから、仕方ないのだ。出発点が、もう女性の習得を考慮していないのである。

軍隊格闘術などは、シラットなど、聞き映えのする武術・格闘術がもとになっている。しかしいくらそれらがすごさを感じようと、しょせんは男性使用前提である。だれでもできますを売りにして、市内各所で指導しているのを見たことがあるが、女性や一般人向けに練習カリキュラムが大幅に変更されていて、これでは技術の向上が望みづらい。

挙句に、筋トレなどを要求されることもあるようだ。自分の一時通っていた柔道場と同じである。弱者が強者になることを前提とするカリキュラムは、男性向けのカリキュラムである。そして男性でも多くの者が脱落をする。女性が従来の武術のカリキュラムで行うことは、想定すらされていない。そして、指導者によって、きつくない練習に替えられ、中途半端になるのである。

女性が人を守るためには、弱者使用前提の武術を学ぶ必要がある。繰り返すが、弱者が強者になるためのカリキュラムでは、いつまでたっても女性は自信をもって要人・自分・自分の大切な人を警護し得る警護人になることはできない。

弱者が弱者として、身法をもって、強者の土俵を避けて対抗する武術でなければならない。

ここではっきりと言っておきたい。私はたまたま、弱者使用前提の武術に巡り会ったのではない。とにかく、弱者使用前提の武術が存在することを願って、常に探していた。

学生の時の拳法を始めたキッカケが原因で、とにかく弱者使用前提の武術にこだわったのだ。だから、指導するまで30年以上もかかったのだ。どこにいっても、強者使用前提の武術ばかりだから。指導許可まで得ていた梁派伝八卦掌も半ば放棄する感じで、転掌にとどまったのだ。

であるから、自信をもって、女性警護人を養成する機関を設立できるし、その資格がある、と確信している。

ライト・ガードのバナーには、一番弟子が描いてある。普段の服で練習するのが好きで、かつ、武器も、特定のものにこだわらない。得意は、双匕首(双短棒)であるが、なんでもこなす。

彼女は、ライト・ガードの最初を飾るにふさわしい。とにかく、練習をした。一番弟子の彼女と、筆頭門弟は、とにかく練習をした。日本海側の冬は、雨・雪ばかりであるが、どのような天候でも、私に追いつけ追い越せの勢いで練習をし続けた。

その彼女の継続の意欲を支えたのが、学んでいる武術「転掌」に対する信頼感である。彼女はいつも言っていた。

「本当に、よく考えられている。矛盾が感じられない。」

私もつくづく、そう感じていた。私は転掌(八卦掌)を超えるつもりであったが、その奥深さに白旗を上げた。いま再び、そのような野望を持ち始めたが、それは一生かかるだろう。

 

何度も打たれ強くなった鉄の意志だから

うまいこと言ってあげようか

意志の強さは「鉄」だね、そう「鉄の意志」。

強いってこと?それだったら、はがねの意志、とかでもいいんじゃない?鉄ってさぁ、燃え盛る火の中で、何度も何度も打ちのめされるんでしょ?そして強くなるんだよね。私はその例を、そばで見てきた。

何度も何度も打ちのめされるには、打ちのめされるたびに、へこたれて脱落してたんじゃ、打ちのめしようがないよね?私って、何度も打ちのめされたこと、知ってるのよね。

いっつも何か為そうとするときに、大きな邪魔や困難がやってきて、いっつも箸にも棒にもかからず、敗れ去ってるの。でも、いっつも、ここで終わるわけにはいかない、自分の苦しみなんて、そよ風だ、なんて言って、毎日、台風の日も、出かけてる。

これから先も、ずっとこのままかもしれないね。下のまま。どこにも行けないかもね。でも、一つだけわかることは、毎日の積み重ねは、これからも続いていくんだろうなぁって、こと。

きっと、本当に身体が動かなくなるまで、続くんだろうなぁ。練習が途切れるのは、きっとその時までないのかも。他の人なら大げさでも、あなたならあり得ることね。

見てみたい気もする。でも正直、あまりにも行き過ぎないでねって、言いたくもなるの。

鉄って、はがねにはならない。強くなっても、ある一定の力の下では、もろいものよ。曲がってしまったら、なまじ強いだけに、元に戻らないじゃない。

そこまでいかないでね、それは見たくないわ。

「ぶつける」に徹する現代刀術~逆転発想の清朝末式八卦掌

逆転の発想で護衛護身武術を八卦掌を極め、現代における護身を果たす。

今回は、刀術について考えてみたい。

私は、常日頃から疑問に思っていた。刀術だからといって、「斬る」ことに現代もこだわらないといけないのか?

なぜなら、現代(特に日本)では刀など持ち歩くことができないからだ。刃がついてない模造刀であっても持ち歩けないのである。

武士は常に、刀を持ち歩き、かつ、いつでも抜けるように腰に差していたので、剣術を練習する意味があった。裏を返せば、帯刀を許されなかった庶民にとって、剣術など、いざという時に役立たない無用のものであった。

例えば、庶民が襲われた時、ありえない話であるが、何らかの理由でその場に日本刀が転がっていたとしても、日頃扱ってない(練習してない)から、意味が無いのだ。

慣れないのに真剣など使用したら、自分を斬ってしまうのがオチである。

私は自分で技術体系を編み出す過程で、まず長年引っかかっていた、「斬る」技術をなんとか処理しようと考えた。これから先、いくら社会情勢が変化しようとも、刀を庶民が持つことができる時代は来ないだろうと考えたからだ(海外では不明)。

そして「斬る」よりも「斬られない」ことを目指した。暴漢は、法律で禁じられても持つ。刃物で襲われることは、十分想定できる。「斬られない」ために、刀を棒で防ぎ、生還することを目指した。

「斬られない」ための技術は八卦刀術なのに、「斬る」をあてにしない。「斬る」をしないなら、その分、八卦刀術の他の攻撃技法「ぶつける」をメインにしようと考えた。

「ぶつける」だけにするなら、不利なのでは?

ぶつけるために、重く、長い物を振り回す。長くなくてもよい。遠心力がかかるものを、身体操作(移動)で自在に操り、自分は重たい物の柄の付近にとどまり、自分と敵の刃物との間に、重たい物の先を常に回し続けて刃物の到達を妨害し、防御・攻撃する。

「斬る」だと、刀(刃物)が必要であるし、所持が法律違反なので、多くの不安が残る。しかし重たい棒であれば、そこら辺に転がっているし、使う際に手にするだけなので、法律を犯すリスクもないのだ。

つまり「斬る」手段に見切ることの代わりに、「ぶつける」ことで身を守ることに意識を集中させることで、法律を犯してないという安心感と、その時の環境を味方につける現場対応力・事前準備をするモチベーションを得るのである。

護身術は、事前の準備が必要である。事前の準備には、当然「練習」も含まれる。練習と同じくらい、実際に使うことが想定される場面で、自分が持っている物で何が一番確率が高いか?もしくはどの「物」であれば、いつも持っていられて、かつ有事に身を守る道具に流用できるか、を考えるのである。

持ち歩くことができる道具と、自分の生活環境の中で「これならいざという時流用できる」と想定できる道具を特定し、それらは間違いなく「刃物」でなく「斬る」攻撃ができないのだから、それらの物で「ぶつける」技法を磨くのだ。

私の場合、自前のシャッターフック棒であったり、細長い径の小さい水筒であったり、長めの降りたたたみ傘であったりする。

私の環境の中で振り回すことができる物は、物干しざおであったり、シャッターフック棒であったり、カバンであったり、工事現場にある進入停止バーなど。

それらは「斬る」ことはできないが、「ぶつける」攻撃に流用できる。ならば、それら「ぶつける」ための武器でない物を使って、「ぶつける」攻撃ができる事前の練習を徹底的に実行ことで、「ぶつける」攻撃と心中するのである。

刀は現代で使うことができない→ざという時護身の技術となり得ない→「斬る」型は見切りをつけ、『ぶつける』技法を磨く

という逆転の発想で、大切な人を守って欲しい。

八卦掌水式門富山本科イメージ

本科と護衛護身科、私はどっちがいい?

本科と護衛護身科、私ならどちらのコースがいいのでしょうか?という質問を受けることがあります。

明日護衛護身科の内容が大きく変わってリニューアル開講するため、この記事をあげます。

どちらがいいのか?どちらも八卦掌なので、八卦掌にこだわりたいと思っているだけなら、どちらでも問題ないということになります

多くの人は、実戦か伝統か、護身として使えるか、実際につかうことができるのか、キレイに型を演じられるようになるか、そして付随してダイエットにもなるか?など、特定の目的に興味が向いています。

その興味の向いている方向性に沿って決めるのがいいでしょう。

いろいろな例をとって考えてみましょう

「将来的に、人を守るための術を身につけていきたい」場合

例えば、将来は警察官や警備員など、人を守る仕事に就きたいと考えている人。その人がいますぐ保安職に就く場合で、短期間でスキルを手にしたいのなら、護衛護身科の方が向いていることになります。

その人が保安職に就くのが先の場合(2~3年先)や、すぐにではなく、じっくりと実力をつけていきたいなら、本科でよいでしょう。

本科では、八卦掌技法を行う身体を作るためある程度の時間をかけますが、それは実際の場面で役立たないことを学ぶわけではありません。

相手の様々な攻撃に対抗しつつ、プレッシャーを与え続け得る土台を作るためです。相手は様々な攻撃をしてくるでしょうが、内情をよく観察すれば、仕掛けてくる攻撃はある程度パターン化できます。

格闘技や武術を練習してい居ない、もしくは経験があっても未熟な者・今は練習していない者の場合、違う攻撃をしているように見えても、実は変化の域を超えていないだけで、ほとんどパターンは同じです。

その場合に対抗手段としては、目まぐるしく我を移動させて翻弄する八卦掌の移動遊撃戦で十分対抗できることになります。本科では、徹底した移動遊撃戦を実現するためのプログラムが組んであるため、時間的猶予があるならば、本科をおすすめするのです。

「今まさに、大切な人を守る必要性がある」場合

今まさに、大切な人を守る必要性がある場合。例えば、家族・恋人・友達が、変質者やストーカーに付きまとわれている場合など。しかるべき相談機関への連絡などの対応のほかにあなたが選択する方法の一つは、護衛護身科で学ぶことでしょう。

私が中学生の時がそうでした。同級生に対するいじめがあり、ケンカ自慢のいじめ連中にいざというとき対抗するために、身を守る術が今すぐにでも必要だったケースでした。

本科では着実な実力をつけることを目指しますが、ある程度の時間をかける必要があります。護衛護身科では、インプットではなく、いきなりアウトプットからのスタートとなるため、護衛護身五型の型がその人にとってやりやすいものであれば、割と短期間で身体の変化を実感できるようになります。

護衛護身科では、短期間(1~3カ月くらい)で一通りの対抗手段を身につけることができます。後はそれを有事に備えて繰り返すのみです(一通りやるだけではダメだから)。

「対抗する手段は一通り学んだ。あとはできる限り精度を上げるのみ」と、迷いも無くなり、自信も湧いてきます。この自信、精神論云々ではなく、本当に大事なことです。

組手や散手をやることの大きな意義の一つが、組み合う際の恐怖を克服し、戦いのスイッチを入れることができるようにするため。一人のみで練習する者に、組手を行う機会はほぼ無く、実戦速習型のひたすらな繰り返しで自信をつけるしかありません。

「人を守りたいという考えはないが、護身術を学びたい。どうせなら伝統武術を学んで強くなりたい」場合

人を守りたいなどと大それた考えはないが、護身術を学びたい。しかしどうせなら伝統武術を学んで強くなりたい。そう考える方がおられるなら、それはまさに護衛護身科のコンセプトに合致するため、護衛護身科をおすすめします。

手軽にできる護身術の最大の欠点は、練習にのぞむ際のモチベーションの維持の難しさです。

護身術は、単純シンプルで有効なものでしっかり練習すれば効果はありますが、自分を守る目的以外のものがありません。今まさに迫っている危機に対抗するためのみ技法であり、それ以外も目的(奥深い技術体系や、形として見えるスキル)がないからです。

護衛護身科で指導する「護衛護身五型」は、当然に八卦掌技法で構成されており、「着実」より「速習」に焦点を当てて履修課程を変えただけのものであり、八卦掌そのものです。

よって護衛護身科を学ぶということは、護身術を学んでいると同時に、伝統中国武術を学んでいることにもなるのです。水野が勝手に技を生み出し、それを教えているのではありません。

護衛護身の型は、短期間に移動遊撃戦を学ぶためのものであり、型に習熟したら、当然に個々で変化をしていくもの。

「型ではこうなっているけど、自分はここでこうした方がやりやすいぞ。」・・・自然とそうなります。その時は、その感覚に従ってください。そうすることで、一段と「強く」なっていくのです。

変化した先で行きついたものが、水野の教えた型と大きく(まったく)違っていても、それが八卦掌を出発点にしたものであり、かつ当門で学んだ者が八卦掌を名乗ることを希望するならば、水式門では当然に八卦掌後代を名乗ることを公認し、バックアップします。

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