転掌グランド・マスター水野語録」カテゴリーアーカイブ

転掌が清朝後宮護衛官武術の立場を得た本当の理由

八卦掌の原型武術・転掌は、清朝後宮の宦官・宮女護衛官らが使った武術である。この事実を知らない八卦掌修行者は多い。

そもそも、董海川先生が宦官であったことを知らない。宦官とはどのようなものであるかすらも、知らない。宦官とは後宮にて、王族の世話や雑役業務に従事した、去勢された男性雑役官吏のことである。

転掌創始者の董海川先生は、宦官であった。これはどの八卦掌内流派も口をそろえて認めている事実である。

転掌はなぜ、後宮護衛官の武術として採用されたのか。これが本題のテーマである。

採用された本当の理由はこうだ。董海川が王族らの護衛人に関わる不満を洞察し、それを解決する手段になりうる武術を推理し、それに合わせた技術体系を創りだし、技術を意図的に人(王族や関係者など)に見せ、その技術体系が、王族らが従来持っていた不満を解決しうるものであると、王族らが判断したから、後宮内護衛官武術として採用されたのである。董師の技術が高く、王族がそれを見染めたから、後宮護衛官武術になったのではない。


この動画には解説音声があります

よく言われる話が、宮中内の壁の屋根に上り、お盆に載せたコップの水を落とさないで練習している(!)のを、王族が偶然見て、すごいと思ったから採用した、というもの。八卦掌内の各流派では、その話を逸話として、ロマン性を込めて、採用された理由として弟子らに伝えている。もちろん、真の理由とは半分思っていないであろうが。それはあくまで、達人によくある、人間離れした伝説と思ってもらうとよい。

ここでは、もっと現実的な話をしていく。ここで話すものは、私が先代師より聞いたものである。楊家拳における門伝であり、その内容も極めて合理的でロマンが無いくらい現実的であり伝説めいた内容が無いため、信用できると考えて良い。

『王族が従来より持っていた不満』とはどのようなものだろうか。それは、自分たちの居住スペースでもある後宮に、護衛の目的とはいえ、武術の心得のある男性護衛者たる男性武官が、攻撃力の高い武器(武官用の刀剣など)を持って入り込んでいる現状にあった。

当時、王族といえども、宮中に入る者の素性を、すべて把握できた訳ではない。もし謀反の心・密命を持った男性武芸者が後宮内で凶行に及んだら、宦官・宮女ばかりの後宮内では、我が身を守る者がいないため、たちどころに自分の命が危うくなる。清朝に正規に採用され、紫禁城内に出入りする者であっても、どのようなしがらみや使命・信条を持っているかわからないのだ。

正規護衛官の武術技能と武器が脅威にもなった

董海川先生が宦官として宮中内に入っていた頃は、ちょうど太平天国の争乱が鎮圧されたころの、乱世の時代。中国国内には、多くの利害・恨み・仇が交差し、頂点に立つ清朝宮中には、様々な思惑を持った人間が、公に、もしくは秘密裏に、その場を行き来した。

不透明な人間の行き来に対し、護衛者を置かない、という選択肢を採ることはできない。男性護衛者を、一人として入れない、という措置は、有事に己を守る人間を一人も設置しないことと同義であるからだ。そこに王族のジレンマがあった。

董海川先師は、その部分に目を付けた。宦官・宮女でも護衛の任務が可能となるような武術を考案し、その武術を推奨・提言できる機会を意図的に創り出し、機を見て売り込んだのである。

その時、以下の点を強調したと考えられる。

  • テンショウであれば、宦官・宮女でも護衛が可能となるため、現在後宮内に侍る男性護衛者を罷免できる,という点
  • 身の周りのモノで対処し得る技術体系で在るため、宦官宮女らに、刀や槍などの、攻撃力の高い武器をもたせなくてもいい、という点
  • 短期習得可能であるため、宦官・宮女らを、ただちに護衛の任務に就かせることができる、という点
  • 武術といっても、積極的に敵を攻撃する武術でないため、他の者にとって脅威ではない、という点

董海川先師の目論見とプレゼンは、清朝粛親王府の王族の心を動かすことになる。

王族は、宦官・宮女らが最低限の護衛を実行するのを確認してから、いままで宮中内で侍っていた男性警護人らを後宮から締め出し、転掌を習得した宦官・宮女らにその任務を行わせるのである。その時罷免された者の名は、伝説では「沙某(なにがし)」となっている通り、正確には不明である。その沙某と一騎打ちになった、という逸話があるが、伝説の域を超えていない。

転掌は後宮護衛官武術となり、元来の董海川先師の武術技術のレベルの高さもあいまって、その名を高めたのである。転掌の創始者、そして指導員として成り上がった後の董海川先師には、第三者が証明しうる逸話がちらほらと出現し始める。

武勇伝として最も有名なのが、王族の僥倖(ぎょうこう※下界視察のようなもの)に、側近護衛官として随行した際、遭遇した賊徒に単身斬り込み、縦横無尽に駆け巡り、大根を斬るかのごとく賊徒を倒し続けた、というものだ。これは、楊家に門伝として伝わっている。

この話の実際は、董師が重い単刀を引っ提げて、賊徒にぶつけ斬りをして倒した戦いを、伝えたものである。切れ味のよい刀では、多くの賊徒を斬り続けることはできない。切れ味の良い刀は、人を斬った際に生じる、刃部の損傷により、たちどころに斬ることができなくなる。重い刀は、切れ味よりもぶつける面の丈夫さを重視する。重い刀を敵にぶつけて殺傷することで、多くの敵に対応したのである。ぶつける際の殺傷力は、長年の修行によって養われた移動による移動推進力と持久力をもって大きく増大され、殺傷しうるものまでになったのである。

転掌は、王族に認められ、その護衛をつかさどる護衛官武術となることで、多くの武を志す男性に、「習ってみたい」という欲求を持たせる。名声が高まったがゆえに、董海川先師の元には、強さを真摯に求める男性武芸者らが多く集まり、それが技術体系の変化へとつながるという皮肉な結果を生む。

当然である。修行する者の中身が、身体柔弱なる宦官や宮女から、武の道における完成を求める、屈強な男性に変わったのである。名声を得れば、転掌は多くの武門と、腕比べの試合をするようになる。そこは、転掌が想定した戦いのシチュエーションと全く異なる、「試合」なのである。ある程度の公平性が保たれた場。

多人数の戦いはなく、武器もなく、体格も同じくらいの者同士で行われ、両者の中堅指導者らが、審判として試合の安全を見守っている。片や転掌はどうであろう。弱い者が強い襲撃者と戦うために移動戦を繰り広げるため、向き合って戦う試合とは、その戦い方を根底から異にする。董師の元に集まって、その技術が完成していった男性修行者らは、対多人数・対強者・対武器の技術体系から、対一人想定・試合での勝利至上主義の、強者格闘技へと技術体系を変更させていくのである。

転掌はその後、幾人かの高名な後代拳師らにより、複雑高度な八卦陰陽理論で技術が理論づけされることになる。漢族知識人らの、知的好奇心をも満たすためである。高度な理論で裏付けできれば、転掌は「高級武術」となることができる。『宦官や宮女が短期習得で「おとり護衛」をするための武術』よりも、『八卦陰陽理論によって技術体系が組まれた、試合で勝つことのできる武術』の方が、人々に与える印象が良く、修行者も集めるのであるから。

そのようにして、「転掌」は「八卦掌」へとその名を変え、転掌の名と技術体系は、八卦掌の国内への爆発的な波及と共に、転掌自体が無かったものと思われるくらいの勢いで、その存在自体を無くしていくのである。

その流れに抗し、弱者の護身・護衛のために、転掌の技術体系をなんとか残そうと奮闘したのが、転掌3世の、宮女として董師にも教えを受けた開祖である(宮女開祖と門内では呼んでいる。宮女開祖の名は、私の先代師の師伝により、掌継人だけに知らせる門内秘匿事項とされているため、非公開)。宮女開祖は、時代の流れの中で、その技術体系を守ろうとして

「この技術体系だけは、変えてはならない」

という門伝を楊家後代に守らせた。そして縁あって、弱者護身と護衛を願っていた私に伝わったのである。

清朝後宮護衛官武術となった経緯に関わる門伝と、私の見解をもう一つ述べておく。董先師は、地方漫遊の中で、一人の異人と出逢い、八卦の術を授けられた、という説がある。これはどういうことであるか。異人とは何者か?

楊家伝によると、護衛官武術となったいきさつが、「董海川先師が、清朝の護衛武術となるのをもくろんで、その技術体系を創り、それを売り込んで採用された」となっている。董師から直に指導を受けた宮女開祖の伝えた門伝であり、私は信頼できる内容であると判断している。しかしこれではあまりに、拳法誕生のきっかけとしては野心的でロマンがないではないか。後世に与える印象はよくない。特に、転掌の伝承と発展を目指す後代拳師らは、その影響をまともに受ける。そこで誰に迷惑をかけることもない、説明できない存在である「異人」を創り出し、その存在から技術を受け継いだとして、最低限の伝統性を持たせたのである。

以上、護衛官武術とした採用された経緯を示した。ここで示した見解は、八卦掌が転掌であった頃の技術体系を知らない者に、多くの疑念を抱かせるであろう。きっと、マイナス評価されたり、登録者が減ったりする。暇つぶしのサラリーマン愛好家らが見るなら、それも避けられない。一向にかまわない。結構である。しかし私は長年、近代格闘術八卦掌となった現行主流の八卦掌を学習し、指導許可を得るまで磨いたうえで、ここで示した成立過程に、腹の底から納得したのである。転掌の技術体系しか知らずに、このようなことを言っているのではない。批判しようとするなら、まず先にそこを理解せよ。

的外れな意見にさらされようと、これは、伝えなければならないことなのである。転掌時代の董海川先師の、伝説的逸話を紹介しているのではない。弟子に、技術や練習法の意味を示すうえで、必ず必要となる伝承事項だから、これほどの時間を割いて、動画まで作成して、伝えたのである。

日本の、そして世界の護身術は、転掌式八卦掌の復活をもって、ようやく夜明けを迎えるのである。よって、転掌を唯一極めた私が、昔日の姿を、伝えなければならないのである。

日本の武術愛好家らは、自分の取り組んでいる武術についてその本質を見ず、「〇〇先生伝」「正伝」なる他人が勝手に謳っている、実戦において全く役に立たない権威めいたものに固執している。いつまで経っても、自分の取り組む拳法によって、有事の際に対応できるか自信がないからである。いつまで経っても、素人の、力任せの素人の攻撃にすら、対応できないのである。この動画で示したものは、自分が向き合う武術の本質を考えるうえでの、「思考法」の参考となろう。

くだらない権威に心囚われているならば、今すぐ、君の取り組む武術の本質を、自分の今の直感とかで、捉えてみるとよい。批判したり、チャンネル登録を解除したりする、しょうもない行動をする暇があるならば、今一度自分の武術と、向き合ってみるがいい。分かったか、サラリーマン愛好家どもよ。

地方の名もなき先生の教えに不満を垂れている場合ではない。そこで示された型の意味を、何度も繰り返して、徹底的に味わってみろ。それができないのなら、たとえ有名先生に師事できたとしても、「自分で考えない奴」として、気にかけてもらえることはないぞ。私に言わせれば、わざわざ都市部の有名先生に師事する必要もない。今受けている教えを理解し、その先生の名で、独自の流派を立ち上げてもいい。私もそうであろう?証明できない無名の家の家伝武術を、長年の修行で得た経験をもって、価値ある存在と確信し、広めているではないか。

董海川先師の行動力を、少しでもいいから見習うがいい。私が、先師を最も評価する点は、意思の力に裏付けされた、この行動力であるのだから。行動しない理由ばかり話す日本修行者の中から抜きん出るためには、淡々とこなしていくこと。抜きん出るくらいなら、これだけで十分である。

天才は、凡人に失敗だと笑われても歩き続けるものだ

今回の転掌護身術の基礎講習会は、色んな場所で行われる。そしてこの講習会を終えると、私の講習会開催数は、70回を越える。

現在68回である。そのうち、人が来たのは、10回もない。今回の講習会でも、以前から活動し続けていた地域では、講習会情報のクリックすら少ない。

人は言う。まだ尚早だ。人が来ない、ということは、魅力がないからだ。何が再興祖だ。〇〇だからうまくいかないのだ、と。

何を言ってるんだ。ふざけるな。何もしらないド素人が、私に対して何を言えるのだ。ありのままの事実を言っているだけだ。私こそ、そのようにいうのにふさわしい。私こそ、再興祖で在る唯一の存在なのだ。

凡人どもの指摘は、あまりに的外れで、反論の価値すらない。私の提唱しているものが、人と同じような者しかできない凡人どもにとって、刺激が強すぎるから、だけのことだ。あまりに違い過ぎて理解できないだけだ。人に認められることは、その内容が価値がある、と同義ではない。人に認められる、ということは、人と同じようなことをしていることの証拠でしかない。私は、その他大勢の者らが群がるものは、今までの人が創ったもののリニューアル品でしかないと確信している。

かれらにそれがわかるはずもない。

八卦掌では、個人サイトで1位の検索順位であるのに、八卦掌の先生らのチャンネル登録者数に比して、脅威的な少なさを誇る。600人程度である。これこそ、天才の証である。私の提唱する技法が、あまりにとびぬけているから、習得を二の次としてる暇つぶしの愛好家どもに理解できないのである。

私が転掌の核心についての動画を上げると、必ずと言っていいほど、登録者が減っていく。素晴らしい。その他大勢の枠内にしかとどまることができない凡人が、消えていくだけである。

いつもそうである。時代はいつも、私の後についてくる。砂浜で、ルアー竿で、20cmのばかでかいルアーを投げることを、フロー状態に入る動的座禅として利用していた。当時砂浜でルアーを投げスズキを狙うことは、ほとんどだれもが思いつかない笑われる所業だったのだ。

ダイワのフィールドテスターが、その所業を世に広めてから、砂浜や河口に、多くの凡人どもが押し寄せることとなった。今じゃ、どこのマニアックな砂浜にも、ルアーを投げる連中であふれかえっている。凡人のたまり場になってしまった。つまらない。自由に行き来できなくなった。

しかし私は、フロー状態に入りたかった。座っているだけではつまらない。投げて巻いて、ひたすら投げて、そして時折食いついてくるスズキをねらうのが、楽しい修行の一環となった。ときおり、一番弟子もルアーを投げる。その腕前はなかなかのものだ。彼女こそ、動的座禅の提唱者である。私と娘が持っている竿なんぞ、砂浜に最近あふれかえるようになった凡人どもの竿に比べたら、安物である。しかし私たちは、動的座禅によるフロー状態を求めているのだ。

投げて、巻いて、時折、魚食魚に追いかけられる小魚が砂浜に打ち寄せられるのを見て、また投げて・・・これを動的座禅ととらえている人間はどこにいる?おそらく、私と娘だけであろう。

講習会の金額について、よく質問がある。高いから行けません。もっと安ければ・・・。

その人間にとって、私の伝える武術の価値が、低いだけだ。質問者にとっては、3000円程度の価値しかないのである。私は、11000円でも安すぎると思っている。質問者に言いたい。君は人生において、3000円の価値しかないものに時間を費やすのか?どうせならもっと価値のあるものに費やすべきだろう。

質問者にとって、わたしのつたえるものはほぼ無価値なのだ。私はそう思っていない。私は価値あるいのちを賭けうるものだから伝えているのだ。価値を見出せない者に、私は用はない。

講習会について、積極的に宣伝を打たないのは、それゆえである。私の告示をみて、高い、遠い、用事がある、そう考える人間は、その程度の情熱しか私の伝えるものに費やすことができないのである。続くはずもない。

愛知から石川に移行して、なんらかんらの用事で来れなくなる人間、雨だから来ない人間、そういう人間は、正直いらない。避けられない用事とかなんとか、どうでもいいのである。来る気があるならば、とっくに来ているはずである。来ないのだから、その程度なのである。

ハッキリと言わせてもらおう。中国拳法を日本人が極めるなら、全身全霊をもって飛び込まなければ、極めることはできない。なぜなら、中国の先生は極めて保守的で、片手間人間に決して中核を指導しないからだ。今も昔も、まったく変わらない。用事があります、雨だから行けません。それに対する先生の返事はたったひとつだ。

君はもう来なくていい

色々と型を教えてくれる。八卦六十四掌を知っている。あれもこれも知っている。六十四掌のような、交流型を知っていることが何だというのだ。それはお客様だから教えてくれるのだ。しっかりと君はお金を払っただろう?その対価として、交流型を教えてくれたのだ。中核技法は、お金ではない信頼によってのみ、伝授される。

信頼を得るためには、どのような状況下であっても、なんとしても通い、練習し続けることだ。それをできる者こそが、天才なのである。私の周りには天才しかいない。言い換えるならば、天才以外、すべていなくなった。

愛知から石川へ行ってしまったから・・・それまでだ。それは言い訳にならない。私は中学生の時、関東まで通ったのだ。すべてを賭けて、一生懸命練習したのだ。だから私は天才のままで年を重ね、天才だからこそ得る境地に達したのだ。

日本の護身術は、転掌式八卦掌の復活をもって、ついに夜明けを迎える。

命を賭けた生存術を習いに来るといい。私は、情熱を持つ者にのみ、その全伝を授ける。生粋の伝統門で育ったからこそ、その対応が正しいことを知っている。

来たれ、情熱を宿し続ける天才よ。

拳客人生が始まる。砺波で、「生きている」実感と共に。

代継門人弟子,掌継人弟子とともに金沢をたち、砺波に入った。彼女らが今、買い物をしている間に、私はこの文を打つ。

特定の拠点を持たない生活、この人生でかなり多くの時間を積み重ねている。その都度、これではいけない!と思ってきたが、最も苦しい時もそばに居る一番弟子の娘は、このようになることを予想していたようだ。

これこそが、私たちの進む道である、と。

私の伝える武術に、価値の欠陥などありえない。欠点とか短所なら、あるのかもしれない。しかしそれは相対的なものであり、価値の欠如につながらない。だから私は、私自身への批判は無視してきたが、楊家拳への批判には、法的措置を含めた極めて厳しい姿勢で臨んできた。

楊家拳のことを最も知っているのは私である。楊師は私に対し、楊家連身藤牌まで伝えたのは、イーレン(義人)が初めてであり、これからもそうであろうとおっしゃった。楊家拳を批判する人間は、楊家拳のことなど、何も知らないのである。知らない人間が、知りもしないことに批判するなど、侮辱以外の何ものでもないのである。

それはちょうど、私が、知りもしない太極拳などの拳法について、その有効性やらを批判するようなものである。極めて無礼であり、その門に泥を塗るのにも等しい行為である。

金沢に来て、何度も何度も、無断キャンセルの憂き目を味わった。私はその行為を、門に対する侮辱と捉えており、そのようなことをした申請者は、二度と受け付けない。

私の母の葬儀があった時、金沢で見学者が来る予定であった。前々からの申込みであったため、私はそちらを優先させた。しかしその者は来なかったのである。気丈な一番弟子は、その時、今まで見せたこともないような怒りを見せた。海岸につくやいなや、特殊スチールの警棒を振り出し、転がっていた大木を激しく何度も何度も、打ち付けた。その木が折れるまで、何度も何度も。叩き折る時、大声をあげてその木を粉々にし、その場で泣いた。大声で泣いた。

手を見ると、たったそれだけの時間で剥けた掌の皮が見え、血が流れていた。楊家拳を極めることにすべてをかける彼女にとって、余りに悔しい瞬間であったのだ。私も、彼女と同じ気持ちであった。

そしてその怒りを感じている時、激しく燃え上がる感情を感じた。この武術と共に燃え尽きる覚悟が。そのことを言ったら、一番弟子も同意する。そして北陸の天才どもに、最後のチャンスを与えたのだ。もう少し先に立ち上げる予定であった「転掌八卦門」を立ち上げ、門の入り口を正し、然るべき者の基準を敷居直した。

より多くの者に、機会を。の考えは、愛好家らにとって、何ら響かなかったようだ。知らぬうちに、私は私自身で、楊家拳の価値を低く発信していた。一番弟子が私に対し、楊家拳の普及を自制することを求めていたのは、私が「広く門戸を」の考えにより、結果的に安売りとなっていることを嫌がっていたからだ。

今回の、夏にかけての講習会等で、講習会直前に用事ばかりで来なくなる人間らを見て、伝承の厳しさを身をもって知った。多くの者にとって、拳法の習得など、二の次である、ということを。大事なことがあって、それらを犠牲にすることはせず、その範囲内で行うものである、ということを。

私はそれを痛切に感じた。それは前々から一番弟子が言っていたことだった。私は彼女と何度も話し、そこで一つの結論に達したのだ。門戸を広くする、という、考えは、愛好家らにとって、ノウハウを無料でかすめ取る利用手段にしかならない、ということを。本当に伝えるべき人間とは、いわれなき暴力から我が身を守る必要のある「武術が趣味」などと言ってない人間である、ということを。

私のことを思い出した。私は、いじめとの戦いが始まるまで、武術に何の興味もなかった。習い事で、柔道や空手だけはしたくなかったのである。野球やスキーがしたかった、普通の少年だった。しかし同級生を守る戦いにおいて、私の趣向は関係なかった。練習せざるを得なかったのである。先生も他の同級生らも、誰も助けてくれないからだ。助けてくれるどころか、いじめる連中と一緒になって、楽しそうに笑っている。先生も同級生も。この絶望的な状況の中での唯一の希望は、立ち向かうための武術の習得だった。その選択は、今でも間違っていなかったと確信している。しかし、弱者の戦い方を知らなかったのだ。

武術のことなど何も知らなかった私がそこで選んだのは、空手である。というか、空手の本しかなかった。空手や少林寺拳法の道場は、助けてくれない同級生らでいっぱいだったからだ。独学で、本で、習得するしかなかったのだ。

とにかく必死で練習した。勉強もせず、宿題もせず(助けてくれない先生に対する怒りもあったから)、正拳突き、片足スクワット、立ち木への蹴りの練習をし、書いてある通り、腕立て伏せと走り込みをした。しかし結果は・・・プロフィールに書いてある通り、多人数の圧力で粉砕され、取り返しのつかない事態を招いた。

楊師はその話を聞いた時、私にこう言ったのである。

「倒すことはなかった。どんなことになろうと、捕まらないで相手をかわし、そいつらの情けなさを見せつけてやればよかった。」

そしてそのあと、その練習の練習が終わる際、

「このまま練習しても、同じ結果になるだけだ。水野ヨ、そいつらの情けなさを見せつけるための戦い方を教えてやる。今のままではだめだ、やられるだけだ」

「土曜日に来れるか?」

「来ます、お願いします」

転掌が私に伝わることになった運命的な瞬間であった。私の動機は、楊師の心を動かしたようだ。

「これは特別なものだ。日本人に見せるな。そうでないと、教えんぞ。見せたら、お前はもう来なくていいぞ」

厳格で超保守的だった先代楊師の秘匿主義の本性を、初めて見た瞬間であった。それくらい、楊家拳は、楊家にとって大切なものとなっていたのだ。

董海川先師が、楊家宮女開祖に伝え、楊家拳となり、いつしか家伝武術の状態となっていたのである。門諺によると、宮女開祖は、その技法を福建省にて門戸を広くし伝えようとしたが、時勢によりないがしろにされ、失意のままに世を去った。その無念が楊家に鮮烈な記憶として伝わっていたのである。10月に発刊した『「本当に使える」女性護身術の独習教書』の裏表紙に

「この技術体系だけは、変えてはならない」

と記載がある。

それは宮女開祖が、自分の伝えるものが世間から必要とされなくなっても、貫き続けた伝承の姿勢から、発せられた言葉である。私は宮女開祖に、心から感謝している。私の戦いには間に合わなかった。しかし宮女開祖の伝えたものが現世にしっかりと伝わっていて、誰でも習うことができたのなら、私は同級生を追い詰めた連中の権威を、失墜させることができたかもしれなかった。私は使命を与えられたのである。私は、この偉大な開祖が残したものを、本当に必要とする者がいつでも学ぶことができる状態にして、届ける使命がある。

日本各地に散在する、本当に必要とする者、に巡り逢うためには、一場所にとどまっていてはならない。この技法を心から必要とし、実行する者に、巡り逢いに行かねばならぬ。一番弟子は、人生を、私と共に実現するために、力をささげるとおっしゃった。私に匹敵する、鉄の意志を持つ彼女だ。頼もしい娘だ。きっとついてきてくれるだろう。

私は百万の味方を得た。拳客人生の始まりである。砺波にて、私は気持ちを新たにする。ここからスタートである。これから私は、「楊家拳」という言葉をよく用いることになるだろう。それは、安売りをしない決意の表れでもある。

必要なものは、すべて私の中に、私のそばに在った。それを用意してくれた、おおいなる、説明できない存在に、ありがとう。

中国拳法の閉鎖性を侮ってはならない

中国拳法の秘密主義・よそ者不歓迎の実体を侮ってはならない。それは、私自身が、身をもって体験したからわかることだ。

例えば、いきなり道場破りに来るような人間が、返り討ちに遭って、その後頭を下げて入門を願う。そうしたら、「特別に教えてやろう」とその先生が特別に認める。

そのようなことは、私の経験から、ありえない。いきなり道場破りに来るような人間など、その才能が垣間見られたとしても、弟子にすることなどない。危険だからである。弟子の立場であった者が、師をあやめ、その門を乗っ取ることなど、いくらでもあった。国家単位で、下剋上が常に行われていた過酷な歴史の中国では、そこで生まれた武術も当然、謀反人に対して寛容ではないのだ。

それは、「〇〇門」などと名乗っているような伝統門であれば、なおのことである。つまり、八卦掌水式館の「転掌八卦門」でも同じ、ということである。私の元にも、過去3人ほど、腕試しの意図を持った人間が来た。当然、返り討ちである。そして、その瞬間に、永遠に「帰りなさい」である。そのような無礼の極みをした人間など、以後どれほど礼を尽くしても、教えることなど無いのだ。

いきなり「道場破り」などという極端な例を挙げてしまった。では、一般の門下生にはどうだろうか。

練習をしない者には、その門戸は開かれない。それが結論である。そして、中国の先生は、日本の先生みたいに「もっと練習しろ」などと言ってくれない。一度くらい言うかもしれないが、以後は言わない。もうその時点で、彼はそこの場から先に進ませてもらえないのである。練習しろと、言ってもらえないところが、中国拳法の世界の厳しいところである。練習しろといってくれる先生は、本当に優しいのである。

過酷なのは、教えないが、お金はとり続ける、という点である。練習しない人間に、本当に強くなる方法は教えないのである。ウソを教えるのである。もしくは断片的な基礎を永遠に、教えるのである。日本人の価値観からすると、「お金をもらっているのに教えないなんて・・」と思うかもしれない。しかし中国では、そのような道義的な価値観などないのである。いつまでたっても、本腰を入れて練習もせず惰性で続けているだけだから、教えない、のである。

日本の愛好家は、自分のペースで修行したがる。自分が何を習うか選び取って、自分にとってメリットとなる体系だけを、効率よく学ぼうとする。そのような姿勢を中国の先生が見たら、即効で「お客様」扱いをされ、型だけを教えらえ、お金はしっかり取られ、帰らされる。

日本の愛好家には、拳法の重要な中核技法を、無料でかすめとってやろうという人間が本当に多い。そしてこともあろうことか、教えを請うう先生に対し、値切ったりする。問題外である。私を含め、中国拳法の伝承者になるには、皆、膨大な時間・労力・お金を費やし、貫くことで多くのものを失っているのである。楊師もそうであった。過酷な経歴を聞いた。これは誰にも言うことができない。

よく問合せに、「遠いから行けません」とか、前々からわかっている指導日に、「その日は仕事が入る可能性があるからいけません」などというものがある。来る気があるなら、来るだろう。行く気があるなら、前もって日が分かっているのだから、仕事を入れない努力をし、来るだろう。

その者にとって、習うことは、日常生活を送った後で余力あれば習うもの、なのだ。そのような片手間感覚を、長年多くの人間に指導してきた中国の老師先生はすぐわかるものだ。私もすぐわかる。こいつは練習してないな、こいつは次には来ないな。そしてその直感は、おおよそ当たる。指導してきた100人近い人間の中で、心から、「学ばせてください」という気持ちで向き合ってぶつかってきた人間は、ほんのわずかである。そしてそのわずかな人間だけが、掌継人となって、全伝を受けることができるのだ。

日本人にとって最も過酷な、「外国人に対して教えない」という事実。これについて、私は本当に、恐ろしくなる。私は学生時代、関東で楊家武術の伝承者に指導を賜った。

最初の半年は、八卦掌と言われながら、斜めに移動する形意拳を教えられていた。違うものを偽って教えられていたのだ。それが中国の老師の、人を試す方法なのである。私は月2回、関東に通った。そして、習ってから愛知に帰ってからは、とにかく徹底的に練習をした。私の拳法を始めた動機が、私をそこまで駆り立てたのである。

「シュリーイェ(水野)よ、お前はなぜ、いつもそんなにやるのだ」

楊師の問いかけに、中学生の私はなんのためらいもなく、私が始めた動機・きっかけを話した。こんどこそ、大切な人を守る。こんどこそ、と真摯に訴えかけた。それが師のお目にかなったようである。

「次からは、前日の夕方と、日曜の朝に来い。そして、昼には顔を出すな」

そして次から、土曜日の夕方に個別に習った。そこで初めて、斜め後方スライドの転掌式八卦掌を習ったのである。

「この技法は、もはや誰も練習してないものだ、お前のような人間には、役立つだろう。いいか、昼に来る大人たちには見せるな。そもそも昼に来るな。」

私は土曜日に習ったものを、拠点となっていた親戚の家の前で夜通し、練習し、そのまま日曜の朝に出かけた。それくらい、衝撃的で、感じるモノがあったのだ。明確に覚えている。「これだ!」という感動を。私の前日からの進歩を、その都度、師は目を細めて、喜んでいた。そして楊師の私を呼ぶ名が、「シュリーイェ」から、「イーレン(義人)」に変わるころ、代継門人(転掌8世)となった。その積み重ねの日々があったからこそ、転掌の伝承を受けることにつながったのである。突然訪ねて頭を下げて、いきなりよそ者が教えてもらえるはずない、と私が言い切ることができるのは、その経験から言っているのである。

楊師は、私が書籍で発表した内容を含めた転掌の全伝技法を、特別のものとして扱っていた。だから、日曜の昼に来る、進歩しているのかどうか分からない程度の練習しかしてこない日本人に、お金をとって「ウソ」を教えていたのである。

それがいいか悪いかは、さておき、これくらい、伝統門で育った中国の老師というは、閉鎖的なのである。だから中国拳法を学ぶ者は、まずのその門派の入り口に立つことである。紹介状などを求めて特別扱いしてもらおうとする人間が私の元にも来たことがある。

しかし、そんなもの、何の役にも立たない。中国拳法の師に信頼され、その全伝を受け継ぐための唯一にして最速の方法は、誰もが立つことができる入り口に立って素直に学び続けることだ。その人間が今までやってきた武術について、師にとやかく講釈を垂れる何ぞ、もってのほかである。素直に学べ。その武術については、その者は初心者なのであるのだから。

この文を読み、反発するならば、あなたはいつまでたっても、本当のものを教えてもらえない。私も、この文を読んで反発するような人間に、教えることはない。一通り学んでもいない人間が、何がよくて何が不要か、など分かるはずもない。私は楊師よりその技術を一通り学んだ時、とても自信がなかった。しかし毎日練習場所に立ち、続けることで、私の身体という、もう一人の師が、転掌の深い部分を、教えてくれくれたのである。

その「もう一人の師」に逢うためには、だれもが通る道を通り、そこで腰を据えて練習をし続けることで一握りの存在となり、全伝を一通り受けるプロセスを経る必要がある。

厳しいだろうか。そんなことはない。だれもが通る道は、誰もが通ることを認められているのだ。つまり、だれもが、スタートラインに立つことができるのである。そういう意味では、一族にしか教えない家伝武術と違った可能性がある。

私は、この厳格な道を、私に続く者に経験させる。そうすることで、きっとその弟子は大きな誇りを得るからだ。気軽にサックっと学びたいなら、そのような場所に行けばよい。私のところは、中国伝統門で学ぶことのやり甲斐を感じることができる、国内有数の伝統門道場である。変えるつもりはない。

礼節は、己の命を守るためにするものと心得よ

中国は、殺戮の歴史であり、生き馬の目を抜くようなことが当たり前に行われてきた。

転掌は、そんな過酷な歴史の国の武術である。人を制圧して捕縛・・・という、相手を活かすことを前提とした行動や思想がない。

ただ弱者使用前提、というだけである。おとり護衛、というだけである。使用する者の前提が他の武術と違うだけで、仮想敵は他の武術と全く同じである。仮想敵は、王族を暗殺しに来る謀反人や刺客である。そのような輩が、他の敵に比して優しいわけがない。相手は、命を捨てて任務を果たそうとする。こちらも、どのような護衛方法であれ、決死の人間を止める方法を学ぶ必要がある。

その方法の最も手っ取り早く確実なものが、襲撃者の命を奪うことだ。中国の拳法が、徒手技法であっても命を奪うことを前提に作られているはそのためだ。容赦のない相手に、有無を言わせず攻撃をやめさせる確実な手段が、命を奪ってしまうことであるからだ。

中国の武術が、「他の国の武術より高級である」から、殺傷技術で構成されているのではない。情け容赦のない敵が想定されるから、技術が殺傷技術とならざるを得ないのである。

よって、世間にその実力を認められた武術は、皆生殺与奪の技術を伴った過酷なものばかりだ。

「礼節」は、苛酷な武術を修めた者が、他の武門と争わないために必要とされ、重視された。礼によって治世する、は儒教の教えである。漢民族国家が平原を制したときに唱えられていたものにすぎない。中国の歴史を見たまえ、その半分以上が、異民族によって蹂躙された歴史ではないか。

北部の民族にとって、その資源の少なさから、他人の領土を占領し、そこのものを奪うことは、生きるための手段だったのだ。其の北方民族が統治した国家、秦・北魏・遼・金・元・清のもとでは、儒教の教えはほぼ遠慮され、時に弾圧され、礼の意義もすたれていくのである。

中国武術において、礼節とは、他の門派と争わないための、身を守る手段である。命を奪う技法を備えた武門同士が争えば、流血の惨事は避けられない。そこで、最低限の礼節を持って、争わない道を選び、己を身を守ったのだ。自分のためなのである。

互いの技を習いあい、そこで統一した型を作ってその中で双方唯一の判断基準とする。その代表的な型が「八卦六十四掌」である。近代八卦掌の既存の型に、形意拳の要素を多く加え、それを一つの型として、八卦掌の修行者が学習した。

形意拳にも、八卦掌のように円を回って練習する型がある。それは、八卦掌の動きを採り入れ、双方唯一の技法の判断基準とするものだ。
両門が一同に会した際は、八卦掌修行者は、「八卦六十四掌」を披露し、形意拳修行者は、八卦掌の動きを採り入れた型を披露する。

そうすることで、互いの秘伝を守り、互いのメンツを守り、争いを避けたのである(私は師より六十四掌の話を聞いたとき、そのように教えてもらった)。

相手を重んじ、相手に尊敬の念をもって・・・は、日本武術・武道の考え方である。中国の武術とは、成立の風土も違うのである。私にとって初めての武術は転掌式八卦掌であったため、苛酷な技術体系が当たり前だと思っていた。

後に柔道を修めるとき、嘉納治五郎先生の『精力最善活用、自他共栄』の話を聞き、驚愕した。両国の敵に対する処し方の根本的な違いを、垣間見た気がした。

私は代継門人に、ケンカでの転掌の使用を禁じている。使う場面とは、自分の命が奪われそうになった時、大切な人の命が奪われそうになった時だけだ。

不良漫画などに当たり前に出てくるケンカなど、愚か者のすることである。そこには、命のやり取りを前提とした覚悟など、存在しないではないか。礼節を保て。すべきことをして、それでもだめならば、一気に後方へスライドせよ。転掌における戦いは、すべて「後方へスライド」してから始まる。

その前までは、「礼節」でその身を守れ。

緒戦の過ごし方~襲撃者の言うことは全部無視しろ

緒戦の過ごし方は、技術を習うのと同じくらい重要である。

緒戦の過ごし方は、実際に戦った者から聞くのが一番である。実際の戦いを経験した者として、緒戦行動で真っ先に伝えたいことを示す。それは「襲撃者の言うことは全部無視しろ」ということだ。

絡まれたり、因縁をつけられると、襲撃者はいろんなことを言ってくる。しかし皆、無視しろ。例外はない。雑音であり、聞いても何の得もないのだ。

我々は転掌を習得しようとするものである。その戦い方を信じよう。じっと敵を見つめ、一定の距離を保つ。言葉は常に無視しろ。答える必要なんてない。とにかく、動きに注目せよ。

そして少しでも近づいたら、声のトーンがあがったらなど、の変化が生じたら、すぐさま斜め後方へ移動せよ。その後は、練習してきたことを実行すればいい。かわし続けよ。けん制攻撃をして、敵の足を止めよ。何回もかわし続けよ。ひたすら追いかけてきても、焦るな、きっと足は止まる。

けん制攻撃が当たっても、遠慮するな。過剰防衛にはならない。ケガの責任は、絡んできた相手が負う必要があるからだ。

あなたは窮地におちいることはない。転掌護身術は、そのすべてを考慮している。襲撃者にけがを負わしても、それは後方への移動による「致し方ない」防御行動の中で起きたものだ。

襲撃者の言うことに、少しも正当性はない。全部無視。あなたは、日頃練習してきた対敵法で、襲撃者をやり過ごし、離脱することだけに集中せよ。それだけで、あなたの護身成功の可能性は、ぐっと高まるのだ。

私が警備員の時の経験を話そう。夜間の閉鎖時間を過ぎた公園に、車が停まっていた。私は退出をお願いしたが、それが気に入らなかったらしく、なにやら大きな声を上げ、警備員は犬だ、とか騒ぎながら追いかけてきた。

私はその言動を一切無視して、警察に通報した。警察に通報する間、ずっと追いかけられていた。走りながら、110番通報をしたのである。追いかけられている間、ずっと罵声を浴びられていたが、全部無視して、通報と回避行動に集中した。

通報が終わるくらいで、敵(そのおじさん)の足は止まり、息を切らせながら、またこちらに大声で騒ぐ。私はずっと無視をしながら、おじさんの動きに集中する。近づいてきたら離れる、それを警察が来る15分の間、繰り返した。

ここでおじさんの話に答えたりしたら、私の動きは鈍り、かつ通報もできなかったであろう。転掌の距離をとる戦法がうまくいったのである。

けっかてきにそのおじさんは、飲酒していたため、その駐車場から動けなかったようだ。施設管理者たる警備員を追いかけまわしたため、警察署に連行されたが、ケガなどは双方していないため、大事に刃ならなかった。最もうまくことが済んだ、事例であろう。

敵・襲撃者・不審者の言動は無視して、動きに集中することだ。少しでもこちらに近づいてきたら、斜め後方スライド転身技術で距離を創る。追いつかれそうになったら、手を出して足を止める。それでいい。実戦の中でそれを行えば、それだけでも震えるくらい緊張するはずである。

実戦経験~満点のとりにくい試行錯誤なもの

今、なぎさドライブウェイより、このブログを打っている。

実戦とは満点の無いものである。そしていつも、後になって「ああすればよかった」と思うものである。実戦について、水式館で実戦経験の最も豊富な一番弟子とよくその話をドライブウェイでしていた。今日はいい機会である。

私も、私の子らも、多くの実戦経験を積んだ。それは人間相手であったり、獣相手であったり。獣相手は私だけだが。

彼女らと話していて分かることは、後になって誰もが、「もっとああすればよかった」と思っていることだ。

実戦経験は、突然やってくる。なんの前触れもなくやって来る。私は、なんの前ぶれもなくやってくる突然の極限を、弟子らにも少しだけ味わってもらいたいと思っている。

そのために、練習中に、突然、緊張する場面を用意する。今回の講習会では、複数人がいたため、突然、多人数戦を経験してもらった。

掌継人には、私が熱くなった状態で向かってくる緊張感を味わってもらっている。何度もこの手を使ったので、バレバレとなってしまったが。

しかしいつも、それなりに緊張してくれているはずである。

私自身、多人数組手をする予定であったが、いつ披露するかは全く決めないで臨む。公園内の人の流れ、周りに人が居なくなったタイミングなど、いつ行うかきめられないこともあるからだ。自分が襲われる側となると、近くに人が寄ってきたことが分かりにくくなる。自分が襲われる役の場合、完全に周りに人がいなくなった状況でないと、できないのだ。そしてベストのタイミングが来たときに、突然、多人数戦を行う。それは、模範を示す立場にとっては大変なことなのである。いきなり動けなければならない。模範を示す以上、いつでも、最高の手本を見せなければならない。いつ多人数戦の模擬を行うことができるか、分からない。タイミングが来たら、どのような状況であっても、ベストの状態で多人数戦の模範を示す必要がある。

それを実現させるためにはどうしたらいいのか。先ず第一に、いつでも動くことができるよう、毎日練習することである。そして、体重をふやさないなどの身体管理をすることである。そして究極的に、どのような状況であっても、敵の急襲に際し、敵の力の反対側へ移動し、距離を創出することができるように、基礎練習を繰り返すことである。

多くの方が、自分がいきなり人に襲わせて、すぐにトップスピードで動くことができることに驚く。準備体操なんていらない。練習は、その日の未明には終わらせているので、自信がある。これは大きい。そしてやはり、身体もすぐに動く。

この私の教えに、最も忠実に取り組んだのが、弊館一番弟子である。その準備が危機を引き寄せてしまうのだろうか?彼女は何度も、時に命に関わるような実戦経験をしている。

そこまでいかなくても、戦い慣れからくる落ち着きと凄みで、不審者を追っ払ったこともある。

一番弟子の練習技は、いつも「普段着」だった

もっとも印象的だった話をしよう。

私と一番弟子が、海岸で少し離れて座り、目を空けた瞑想をしていた時。一番弟子のすぐ隣に、30代後半くらいの、割と大柄な、髪の茶色の男性が突然座った。

なんだかいい感じだね、何してるの?と。男性。ナンパである。

そうすると、一番弟子は、その男性を注意しようとした私を手で無言で制止し、カバンから警棒を取り出して、思い切り伸ばす。そして男性にむけて警棒の刃部を向け、突き出し、しばらく無言を貫く。

男性は、ぬおっ、と言った後は何も話せずに、とまどったような顔を見せる。

そこで私が、男性の横で、同じように警棒を振り出し、棒を下に垂らし,自然体で、何も言わずに見つめる。男性の顔が険しくなってきたからだ。片や一番弟子の表情も、すごい形相になっていた。

そこで一番弟子が沈黙を破り、

「はよう、どっか行けよ」

と一言放つ。そうすると男性が、「はぁ?」と不満そうに言い返す。

一番弟子は、自身のいつものスタイルで身体を入れて構え、見すえ始める。完全に目が座った状態で、細目で睨む。来たら打つぞ、の意思表示である。

その姿勢をみて、男性はついに一番弟子から離れる。凄みと構えだけで、追っ払ったのである。

この対応が満点とは言わない。戦いを誘発する危険もある対応である。しかし、大柄でかつ、突然間合いを詰めて横に座るような男性に、冷静さと、日頃のスタイルで対抗することを貫いた一番弟子は見事に映った。

彼女は常に、実戦を意識している。高校時代は、常に学生服で練習をしていた。襲われることがあるなら、きっとこの格好の時だろうからと言っていた。実際に、不審者に言い寄られ、転掌の推掌転掌式で打って離脱回避したときは、学生服だった。

実戦経験とは、突然来るものだ。一番弟子や私のように準備を常にしていても、満点には届かない。常に襲われる危機感をもって、練習するしかない。何度も経験できないのなら、練習会でとにかく襲撃してもらうことだ。

本当の実戦でなくても、その動きを体験することで、私の話す「ここはこうするように」の意味が分かる。私がヒントを与え、あなたが自分自身の体験で、術理を悟るのだ。

私は、これからも、訪れる有志に、ヒントを与え続ける機会を設ける。参加してほしい。そこで経験をし、何かを掴んで欲しい。

再興祖で在ること~底になっても変わらないもの

達成は間違いない、現実が遅れてるだけ。なぜそう言い切れるのか。

それは、グランド・マスターとして、ずっと昔から行動してきたから。昔とは?ずっとずっと昔である。200年前にもさかのぼる。長き行動は、何ものにも属さない体系を、現実を創るのは間違いない。私は、私自身がグランド・マスターであることに疑いがない。疑っていないから、そのようにずっと動いてきた。動いたら・・・現実はそのようになるのである。

事実、今回のどん底が再び、私自身を、私が本当に心の奥底で描いた理想の状態に近づけている。私は時折、居場所もなく、そのときの流れに従い、各地を放浪する未来を見てきた。寝ている時の夢であったり、ふとした時(多くの場合、旅先)に心地よさを感じたり。今、居場所のない状態で、私は、寝ている中で見ている自分と一体となった感じがしている。

現在私が置かれている状況は人間の、浅はかな判断基準で見たら、失敗で、望ましくないことかもしれない。しかし、何か大きな存在の意思だとしたら・・・・。人智をはるかに超えた大きな存在の導きだとしたら。そう考えると、何ともこの現状も、楽しいではないか。わたしは、拠点がある時よりも、今の方が、なんとも活き活きとしているのだ。

何より、自由である。拠点がない、ということは、拠点に縛られないといことだ。縛られる=執着、である。執着は、自由なフットワークを阻害する。これはまずいだろう。

失敗も損も、すべてが決まった道である。いや、そんなことはない、俺はこの瞬間、であるならば、想定外の道を選んで、その「決まった道」とやらに反抗してやる!といって、決断しなおしても、それすら想定内なのである。

言葉遊びでも、屁理屈でもない。そのように行動していくことで、すべてが流れていく。いい意味で、どうしようもない流れの中で、私は転掌を再確立した。運命かな、現在に、転掌を公式に伝えているのは、自分だけである。

私はこの、あまりに顕著な実情に、転掌再興祖グランド・マスターとしての宿命を感じたのだ。

200年前の董海川という名の私は、地方においてある「異人」と逢った、という。その異人は、200年前の私に、敵の力に抗しない、当時としては潮流から外れた、技術体系を持つ武術を「手渡した」。

清朝の王族に目をかけてもらうためのカスタマイズが、まるですでに整っていたかのような技術体系である。現在に生きる私たちが知っているような、敵の面前で、巧妙華麗な技術で戦う八卦掌であったなら、「その他大勢の武術の一つ」であったため、清朝後宮の護衛武術には採用されない。メリットがないからである。

積極的攻撃技術で、敵の力と抗するものであったら、その修行者の多くは,武術経験の豊富な、屈強な男性である。200年前の私からプレゼンを受けた王族は、

  • これならば、男性武官を後宮内に立ち入らせなくてもよい
  • これならば、武器を護衛官に目ざとい武器を携帯させなくてもよい
  • 男性武官による護衛官吏がほぼ不要となり、宦官・宮女だけで護衛まで任せてしまうことができてしまう

などの、自分たちの身の安全に関わる幾つかのメリットを見い出して、既存の宮中内武芸者(伝・沙某)を罷免までして、200年前の私を採用した。このように、転掌が後宮内武術として採用されるためには、合理的な理由があったのだ。清朝王族が転掌に目を付けたのは、転掌を護衛武術として採用すれば、上記のような、具体的なメリットがあったからである。

この眼を付けられ得る技術体系は、偶然にそうで「在った」のではない。転掌が、後宮内護衛武術として採用されるために、狙って創造されたものであった。えっ?あの「異人」が?

異人なんて、おそらく存在しなかった。それは私だからわかるのである。必要最小限にして必要最低限の知識・指導だけで、転掌を再確立した私だからわかるのだ。

異人がこれらの技術体系を創ったのではない。200年前の私に、採用され得る技術体系を創り得るヒントを与えた人間は、いたと思う。そう、現在の私の場合のように。

現在の私にとっての異人は、福建省楊家の、転掌7世楊師である。200年前の私と、現在の私とでは、弱者使用前提の武術を求める動機が異なる。しかし、出来上がったのは、同じである。動機の違いは、創造を意図するより大きなものにとって大きな問題とはならない。現在日本において、後宮というものが存在しない以上、創造を意図するものは、なにか違う作用で、託した者(現在の私)にこの技術体系を確立させたのだ。

私の確立したものを、証明できぬもの、として批判されることがある。しかし、200年前の私ですら、謎のままである。どのように転掌が確立されたのか、全く分かっておらぬ。しかし私は、200年前の技術体系のベースを知っており、必要なタイミングで、技術体系を極めるためのヒントを、与えられ続けてきた。

この技術を洗練させるのは、私の後代の仕事である。私は、ここまで来るまでに多くの時間と体力を使った。現在の価値によって重宝されるものを、私は一切所有していない。しかし私の心が認める、真の「善」なるものは、毎日、私の生活の中に「在る」のだ。

上の写真は、今日の私の練習場所である。石川県かほく市。私に、大きな存在のあることを知らしめた、西田幾多郎先生の、出身地である。ここより少し南に下がった宇ノ気の浜で、西田先生は、何かを感じていたはずだ。私と同じように。

私の練習場所は、その都度違う。流れる私にとって、日々が新しいことの連続である。日本一周なんてしなくても、移動が常の私にとって、その都度「旅」なのである。三木清先生が言っておられた、「旅=非日常」であろう。

この新鮮な、非日常に満ちた「自由」こそが、私の心の底から認められる、「善」なるものである。縛られぬ状況で浜に立つ時、説明のできない安堵感を覚えるのだ。その中で、転掌を磨く。そして、この経験を、ブログなどを通じて共有する。十分である。

私は近いうちに、まず日本の有志に、この技術を伝え歩くことになる。拳客である。何度も、眠りの中で見た拳客の日々がやってくる。その中で見た景色を、鮮明に覚えているのだ。これは避けられない未来である。私はそれを、抗することなく受け入れる。なぜなら、練習しつづけるのと同様に、この技術を伝えることは、再興祖として「在る」うちの、欠かすことのできないひとつだからである。

世間のいう「どん底」でも変わらぬものだった。修正?改善?冗談じゃない。理想の道に一直線なのに、なぜ世間の一般的な修正が入る余地があろうか。怖いに決まっているだろう。しかし、奥底では、こちらが正しいと、指し示しているのである。

三年後に来る良師はどこの誰なのか、門祖は気づいていた。

私が言った、「良師三年」。これはとても深いのである。しかし説明ができないのである。

日本の武術愛好家の多くが言っている、良師三年とは、全く違うのである。多くの愛好家の言う、「良師三年」が真実なのか、それはここでは触れない。どうでもいいからである。真偽など、人の経験にもよるものだ。

私は、楊師より学んだ技術体系を指導する師を求めて、多くの道場を見た。探した経験があるのである。自分一人で、楊師より授かった技法を、確立する自信が無かったからだ。その意欲は、一番弟子に教え始めるようになってから、強くなった。

「人に教えるなら、私自身が、その拳理を最も知っていなければならぬ。」

拳理を外に求めていた。習ったものは習ったもの。習ったものの発展のためには、新たな師に就く必要があると、一つの指導を受ける際の「形」に囚われていたのである。

しかし転掌の技法を伝える師は、国内にも国外にも居なかった。楊師の足取りも不明であった。私は絶望に近い感覚を覚えていた。私に学ぶ者もいるのに、私がその道を示すことができない。その暗闇の中で、義務感から、ただ練習の場に立ち続けた。

「ただ惰性で行うだけではだめだ」

私は、自身の経験から、この意見に賛同できない。なぜなら、私が、行き詰まりの中で気づいたのは、惰性で立ち続けた中で起こったからである。

ただ、こなすだけ。決められた練習を、ただ行うだけ。Youtubeの広告主に言わせたら、まったくけしからん練習姿勢であろう。しかし私は、この練習に取り組む姿勢こそ、多くの何かをもたらす、より大きなものからの暗示に触れる、プロセスであると、何度も経験するうちに確信してしまったのだ。

最初は、偶然だと思っていた。なぜならそれら(直感・インスピレーション)は、何の規則性もなく、突然来るからである。ある時は、警備の仕事を終える瞬間にやってきた。公園は真っ暗である。しかし私は、そこで思いついたことを試したくて、深夜0時を回っても単換掌をし続けた。斜め後方スライドに関わる重大な内容であった。突き動かされるような感情が抑えられず、家に帰ってもそれをし続けた。

その時の直感は、私の単換掌理を、より高次の安心をもたらすものに引き上げた。それ以後、練習の中で思いつくことは、なんでも試したのである。しかし面白いことに、自分が「こうではないか?」と思って取り組むと、その取り組むものとは違った、以前よくわからなかった課題に関わることについて、思いつくのである。

自分が改善を望むところに取り組んでいるところと、見えにくい箇所でつながっている部分に、光が当たったのだろうと思う。当時の自分の思考では、そのつながりが見えなかったから、「思いがけないところがわかった」と感じたのだろう。

私は、自分の内からくる自分の直感でありながら、その直感のプロセスをコントロールすることができないことに、言いようのない無力感を感じていた。直感を自分の管理下に置こうとしたのである。しかし、それは全く私の意図に従う気配がない。しかし、必要な時にやって来るのである。

「必要と感じる=自分がその問題を克服することが可能なレベルまで自然と上がっている→そのレベルで模索することで、必要な直感が自然とやって来る」

そういうことであると、私は納得した。この深く落ち込むような納得の状態に、追い打ちをかける心情の転機がやって来る。こんどの転機は、内面に対するものである。

筆頭門弟のルーツが、かほく市であった。私はその事実を知った時、気に留めていなかった。しかしルーツが宇ノ気小と知った時、そこから考えが根底から変わったのである。

私は学生の時、加賀の哲人・西田幾多郎先生の胸像画を見て、この人の、なにやらすっきりしない、笑顔になりきっていない薄ら笑みの表情に、自分と同じ空気を感じたのだ。この西田幾多郎先生こそが、宇ノ気小の先輩卒業生なのである。

高校の倫理の授業で、西田哲学の「純粋経験」を耳にした。しかし当時は、なんらの感情も抱かなかった。すでの楊師より、一通りのことを習った時期であったにもかかわらず。そして時は流れ、筆頭門弟を育て、その家のルーツが、かほく周辺にあったことを知り、かほくに関わるようになると、宇ノ気出身の西田幾多郎先生の話が再び出てくるのである。

私は、上記の「直感」のプロセスに、大きな悩みを感じていた。単なる自分の、思い付きではないか?いい加減なものではないか?確証もないものを、信頼していいものか?と。

そのタイミングで、西田先生の「純粋経験」を知ったのである。言葉で表すには、まったくもっておおきすぎる存在。その大きすぎる存在と、一緒になった時の経験。先生は、言葉に表すことができないその存在を、あえて言葉によって説明しようとして、大きな試みと苦闘をしておられた。

私は、この偉大な先人が、生涯をかけて思索し、向き合ったものに、触れていたのだ。自分の中で、すべてをささげて、進んできたものだったから、より大きなものが、必要なタイミングで、私に、私の思考などはるかに超えた部分で、直感をもたらした。

西田先生の「純粋経験」との出逢いは、よくわからなかった、老子の世界観や、インド哲学の「在る」の概念に、大きなヒントをもたらし、これらの思想のつながりを感じさせたのだ。

「良師三年」は、我が師より伝えらえた概念である。当時は、それを何気なく聞いていた。しかし良師が私とつながり、その師より、必要なタイミングで何度も教えを受ける中で、私は楊家転掌門に伝わる「良師三年」の概念を、深く確信することになったのだ。

楊家転掌八卦門には、そのシンプルな修行体系から、「成ること三年」の門伝があった。真摯に、素直に師に従って習練に励むなら、その体系の無駄の無さが、修行者を三年で旅立たせる、というもの。ゆえに、良師「三年」なのである。これは、楊家武術になってから生まれたものではない。古来より言われる「良師三年」とは、この意味であったと私は確信しているのだ。昔日の武術体系が、皆シンプルで即効性あるものばかりであったことが、確信する理由の一つである。

以前車で生活をすることを余儀なくされた時、一番弟子の娘と、練習後、あちこちの見晴らしのいい場所で、瞑想をしていた。彼女は瞑想の重要性を知り、私よりも先にそれを採り入れた天才である。彼女は、インド哲学の「在」の概念を体現したくて、その探求に熱心であったのだ。彼女は、見晴らしのいい、開けた場所で座って心を静める静寂の瞑想と、無心にあるがままに風景をスケッチし続ける動の瞑想を好んだ。私はこれまでずっと、彼女の瞑想に付き合う中で、私自身も、その方法を学んだ。

しかし一番弟子が最初に理解したのは、「在」の概念と本質的で同じである「老子」の世界観の方だった。彼女にとっては、「老子」のいう、よく見えぬ大きなものを感じるきっかけは、インド哲学であった。わたしは、西田哲学であった。

楊家門の開祖は、弟子たちに、技法のシンプルさの維持を厳命した。多くの型を作ることを善としなかった。八母掌・老八掌のような、套路(総合型)の形式は採らず、ただ主要転掌式という単式練習のみを構築しただけだった。そしてその主要転掌式に、武器術をすべて対応させた。「あっという間」に修行期間が終る技術体系を組んだのだ。

楊家門開祖が狙ったのは、短期習得・・・それは世俗的な理由である。より深い意味はこうだ。ヒントに留めることで、多くの修行者が、極力早く、自分で研究する段階(自分の直感による発展の段階)に移行することを狙ったからだ。これも門伝である。私は常々、私に続く、将来人を導き得る弟子に、そのことを言う。

「宇宙と一体となる」とは、このことを言っているのだ。宇宙とは、自分に直感を与える、私の中にある、そしてどこにもあり、すべてをつつみ、かつすべてである、説明のできない存在である。私はそれの存在のあることを理解した。しかし、その存在がどういうものであるかは、説明できないのだ。それは直感を私にもたらすものであるのだが、私の道徳とか、信念とか、善悪の判断基準なんかを、はるかに超えた概念で私に何かをもたらす。だから、コントロール下になんか置くこともできない。知ることもできない。ただそこに「在る」ということを理解するだけである。

私の希望なんか、吹き飛ぶかのような流れを、何度も経験した。修行の過程のなかで、大切な宇宙を4つも失った。私はその4人との永遠の別れを「必要なプロセス」などと認めたくなかった。それで長い時間、苦悩した。

きっとその4つの宇宙とは、永遠の別れをし合う相関関係の中で、互いの人生の中に「在る」ことを位置づけられたのだろう。今度はきっと、私自身がこの世界から「退場」することで、私の後に残る者は、何かがきっかけとして発動されたり、何かが始まるはずである。私の場合もそうであったように。

私は今後、技法の伝承と共に、達人に至るまでのプロセスを、詳しく説いていくことを考えている。技法の執筆と、達人になるうえでの直感の共有を、目指すために。それについて、動画でも詳しく述べていきたい。楽しみにしていてほしい。

「型=真理×」。「型=ヒント〇」。形式主義に陥るな。

型を絶対的な真実ととらえている人間がいる。

特に、「名門」などと言われている道場に通っている人間に多い。彼らは、底に伝えられている型を、まるでコピーするかにように、リアルに細部まで、再現する。

「型=真理」と捉えているからである。だから自分から、その内容を変えることはない。その内容と違ったものを、たちまち「誤伝」「亜流」「悪いクセ」といって批判するのである。

大東流合気柔術。日本ではやたらと有名な流派である。私に言わせれば、日本に数多く存在する柔術流派の一つに過ぎないが。そこの門弟らは、そんな風に思っていない。我こそは、選ばれし武術の、正当な門下生である。我こそは・・・。

私のところに体験しに来た者に、大東流の者たちが結構居た。

ある人は、「私は大東流を習ってきた。だから入門しても、しかるべき扱いをしてほしい」とのたまった。何やりに来たんだ?そんなに大東流に誇りを持っているならば、習った場所で、一筋に習えばいいだろうに。

彼らは、自分の習った型を、絶対的な真理だととらえている。なぜそのようにとらえるのか?権威に寄り掛かる方が安心だからである。自分に自信が無いのだ。

武田そうかく先生?佐川幸義先生?崇拝するのは大いに結構であるが、私のその人たちに会ったこともない。技術を見たこともない。すごいかどうかわからない。そして、崇拝するかれらも同じである。なぜ会ったこともない、現在生きてもいない人に、現在のこの時をゆだねるのか。

あなたはどこ?あなただって、彼らと同じなのに、なぜそれほどまでに、彼らに真理のバトンを渡してしまうのか?

よく覚えておいて欲しい。

型とは、ヒントである。あなたがあなた自身の真理に気づくための、ヒントに過ぎないのだ。

董海川先生が残した型は、単なるヒントである。楊家伝武術の開祖が残した転掌式も、ヒントに過ぎない。そして、水野義人が、後代に伝えたものも、単なるヒントである。絶対的なものではない。絶対的でないのだから、いくらでも変化し得るのである。

私が、一通り習うまでは、素直に師の指導に従え、というのは、絶対的なものを伝えているからではないのだ。ヒントといえど、それはひとつの一貫した、術理・戦闘理論に沿っている。だから一通り、一貫した術理で構成された技術体系を、素直に学べ、と言っているのである。

日本の愛好家には、深くかかわらず、武術をたしなみたいと考える都合のいい考えを持つ者が多い。だから中国の先生や、中国の先生に真剣に学び、真伝を伝えられた日本人に相手にされないのだ。

私も、楊師より、その学習態度を特別に認められ、転掌を伝えられた者の一人である。一般的な自分護衛の段階は指導するが、その先は、何を考えているか分からぬ者には、伝えないのである。日本人は、口では「中国拳法は保守的」と言うが、そのリアルさを分かっていない。

本当に保守的なのである。日本人、というだけで、その日本人が真摯で誠実であっても、金だけ取って、ウソを教えるのである。日本人であれば、そんなことはしないだろう。しかし異国の、侵略されつくされた歴史を持つ国の、秘伝武術なのである。私たちが想像している以上に、保守的で秘密に徹しているのだ。

私は梁派門に居た頃でも、楊師の教えを守り、転掌の技法を見せたことはなかった。あくまで梁派において習った技法で、組手等をこなしていたのである。楊師のことは話したことがない。「関東で昔、斜めに進む劈拳を習ったことがある、それを八卦掌として教わった」と言っただけである。

嘘ではないし、楊師の師伝により、転掌の中核は、真剣に学ぶ者のみに伝えよ、と言われていたからなのだ。

「イー・レン、今まで教えたのは、先代の遺したヒントだ、真実となるかどうかは、お前次第だ。多くの場合、それ(型)はヒントとして、役目を終えるけどな。お前の場合、きっとそうなる。」

とおっしゃった。今思うと、深く、かつ、私をさりげなく評価してくださった言葉だったのだ。

さりげない言葉であったが、その教えが無ければ、多くの者は、伝えられた型に囚われ、自分なりの真実にたどり着けなくなるだろう。

この言葉を思い出す時、ブルース・リーという天才が、彼の夫人に言っていた言葉をも、思い出すのだ。

「僕は君の期待に応えるためにこの世にいるのではない。そして君も僕の期待に応えるためにこの世にいるのではない」