今回の転掌護身術の基礎講習会は、色んな場所で行われる。そしてこの講習会を終えると、私の講習会開催数は、70回を越える。
現在68回である。そのうち、人が来たのは、10回もない。今回の講習会でも、以前から活動し続けていた地域では、講習会情報のクリックすら少ない。
人は言う。まだ尚早だ。人が来ない、ということは、魅力がないからだ。何が再興祖だ。〇〇だからうまくいかないのだ、と。
何を言ってるんだ。ふざけるな。何もしらないド素人が、私に対して何を言えるのだ。ありのままの事実を言っているだけだ。私こそ、そのようにいうのにふさわしい。私こそ、再興祖で在る唯一の存在なのだ。
凡人どもの指摘は、あまりに的外れで、反論の価値すらない。私の提唱しているものが、人と同じような者しかできない凡人どもにとって、刺激が強すぎるから、だけのことだ。あまりに違い過ぎて理解できないだけだ。人に認められることは、その内容が価値がある、と同義ではない。人に認められる、ということは、人と同じようなことをしていることの証拠でしかない。私は、その他大勢の者らが群がるものは、今までの人が創ったもののリニューアル品でしかないと確信している。
かれらにそれがわかるはずもない。
八卦掌では、個人サイトで1位の検索順位であるのに、八卦掌の先生らのチャンネル登録者数に比して、脅威的な少なさを誇る。600人程度である。これこそ、天才の証である。私の提唱する技法が、あまりにとびぬけているから、習得を二の次としてる暇つぶしの愛好家どもに理解できないのである。
私が転掌の核心についての動画を上げると、必ずと言っていいほど、登録者が減っていく。素晴らしい。その他大勢の枠内にしかとどまることができない凡人が、消えていくだけである。
いつもそうである。時代はいつも、私の後についてくる。砂浜で、ルアー竿で、20cmのばかでかいルアーを投げることを、フロー状態に入る動的座禅として利用していた。当時砂浜でルアーを投げスズキを狙うことは、ほとんどだれもが思いつかない笑われる所業だったのだ。
ダイワのフィールドテスターが、その所業を世に広めてから、砂浜や河口に、多くの凡人どもが押し寄せることとなった。今じゃ、どこのマニアックな砂浜にも、ルアーを投げる連中であふれかえっている。凡人のたまり場になってしまった。つまらない。自由に行き来できなくなった。
しかし私は、フロー状態に入りたかった。座っているだけではつまらない。投げて巻いて、ひたすら投げて、そして時折食いついてくるスズキをねらうのが、楽しい修行の一環となった。ときおり、一番弟子もルアーを投げる。その腕前はなかなかのものだ。彼女こそ、動的座禅の提唱者である。私と娘が持っている竿なんぞ、砂浜に最近あふれかえるようになった凡人どもの竿に比べたら、安物である。しかし私たちは、動的座禅によるフロー状態を求めているのだ。
投げて、巻いて、時折、魚食魚に追いかけられる小魚が砂浜に打ち寄せられるのを見て、また投げて・・・これを動的座禅ととらえている人間はどこにいる?おそらく、私と娘だけであろう。
講習会の金額について、よく質問がある。高いから行けません。もっと安ければ・・・。
その人間にとって、私の伝える武術の価値が、低いだけだ。質問者にとっては、3000円程度の価値しかないのである。私は、11000円でも安すぎると思っている。質問者に言いたい。君は人生において、3000円の価値しかないものに時間を費やすのか?どうせならもっと価値のあるものに費やすべきだろう。
質問者にとって、わたしのつたえるものはほぼ無価値なのだ。私はそう思っていない。私は価値あるいのちを賭けうるものだから伝えているのだ。価値を見出せない者に、私は用はない。
講習会について、積極的に宣伝を打たないのは、それゆえである。私の告示をみて、高い、遠い、用事がある、そう考える人間は、その程度の情熱しか私の伝えるものに費やすことができないのである。続くはずもない。
愛知から石川に移行して、なんらかんらの用事で来れなくなる人間、雨だから来ない人間、そういう人間は、正直いらない。避けられない用事とかなんとか、どうでもいいのである。来る気があるならば、とっくに来ているはずである。来ないのだから、その程度なのである。
ハッキリと言わせてもらおう。中国拳法を日本人が極めるなら、全身全霊をもって飛び込まなければ、極めることはできない。なぜなら、中国の先生は極めて保守的で、片手間人間に決して中核を指導しないからだ。今も昔も、まったく変わらない。用事があります、雨だから行けません。それに対する先生の返事はたったひとつだ。
君はもう来なくていい
色々と型を教えてくれる。八卦六十四掌を知っている。あれもこれも知っている。六十四掌のような、交流型を知っていることが何だというのだ。それはお客様だから教えてくれるのだ。しっかりと君はお金を払っただろう?その対価として、交流型を教えてくれたのだ。中核技法は、お金ではない信頼によってのみ、伝授される。
信頼を得るためには、どのような状況下であっても、なんとしても通い、練習し続けることだ。それをできる者こそが、天才なのである。私の周りには天才しかいない。言い換えるならば、天才以外、すべていなくなった。
愛知から石川へ行ってしまったから・・・それまでだ。それは言い訳にならない。私は中学生の時、関東まで通ったのだ。すべてを賭けて、一生懸命練習したのだ。だから私は天才のままで年を重ね、天才だからこそ得る境地に達したのだ。
日本の護身術は、転掌式八卦掌の復活をもって、ついに夜明けを迎える。
命を賭けた生存術を習いに来るといい。私は、情熱を持つ者にのみ、その全伝を授ける。生粋の伝統門で育ったからこそ、その対応が正しいことを知っている。
来たれ、情熱を宿し続ける天才よ。
