中国は、殺戮の歴史であり、生き馬の目を抜くようなことが当たり前に行われてきた。
転掌は、そんな過酷な歴史の国の武術である。人を制圧して捕縛・・・という、相手を活かすことを前提とした行動や思想がない。
ただ弱者使用前提、というだけである。おとり護衛、というだけである。使用する者の前提が他の武術と違うだけで、仮想敵は他の武術と全く同じである。仮想敵は、王族を暗殺しに来る謀反人や刺客である。そのような輩が、他の敵に比して優しいわけがない。相手は、命を捨てて任務を果たそうとする。こちらも、どのような護衛方法であれ、決死の人間を止める方法を学ぶ必要がある。
その方法の最も手っ取り早く確実なものが、襲撃者の命を奪うことだ。中国の拳法が、徒手技法であっても命を奪うことを前提に作られているはそのためだ。容赦のない相手に、有無を言わせず攻撃をやめさせる確実な手段が、命を奪ってしまうことであるからだ。
中国の武術が、「他の国の武術より高級である」から、殺傷技術で構成されているのではない。情け容赦のない敵が想定されるから、技術が殺傷技術とならざるを得ないのである。
よって、世間にその実力を認められた武術は、皆生殺与奪の技術を伴った過酷なものばかりだ。
「礼節」は、苛酷な武術を修めた者が、他の武門と争わないために必要とされ、重視された。礼によって治世する、は儒教の教えである。漢民族国家が平原を制したときに唱えられていたものにすぎない。中国の歴史を見たまえ、その半分以上が、異民族によって蹂躙された歴史ではないか。
北部の民族にとって、その資源の少なさから、他人の領土を占領し、そこのものを奪うことは、生きるための手段だったのだ。其の北方民族が統治した国家、秦・北魏・遼・金・元・清のもとでは、儒教の教えはほぼ遠慮され、時に弾圧され、礼の意義もすたれていくのである。
中国武術において、礼節とは、他の門派と争わないための、身を守る手段である。命を奪う技法を備えた武門同士が争えば、流血の惨事は避けられない。そこで、最低限の礼節を持って、争わない道を選び、己を身を守ったのだ。自分のためなのである。
互いの技を習いあい、そこで統一した型を作ってその中で双方唯一の判断基準とする。その代表的な型が「八卦六十四掌」である。近代八卦掌の既存の型に、形意拳の要素を多く加え、それを一つの型として、八卦掌の修行者が学習した。
形意拳にも、八卦掌のように円を回って練習する型がある。それは、八卦掌の動きを採り入れ、双方唯一の技法の判断基準とするものだ。
両門が一同に会した際は、八卦掌修行者は、「八卦六十四掌」を披露し、形意拳修行者は、八卦掌の動きを採り入れた型を披露する。
そうすることで、互いの秘伝を守り、互いのメンツを守り、争いを避けたのである(私は師より六十四掌の話を聞いたとき、そのように教えてもらった)。
相手を重んじ、相手に尊敬の念をもって・・・は、日本武術・武道の考え方である。中国の武術とは、成立の風土も違うのである。私にとって初めての武術は転掌式八卦掌であったため、苛酷な技術体系が当たり前だと思っていた。
後に柔道を修めるとき、嘉納治五郎先生の『精力最善活用、自他共栄』の話を聞き、驚愕した。両国の敵に対する処し方の根本的な違いを、垣間見た気がした。
私は代継門人に、ケンカでの転掌の使用を禁じている。使う場面とは、自分の命が奪われそうになった時、大切な人の命が奪われそうになった時だけだ。
不良漫画などに当たり前に出てくるケンカなど、愚か者のすることである。そこには、命のやり取りを前提とした覚悟など、存在しないではないか。礼節を保て。すべきことをして、それでもだめならば、一気に後方へスライドせよ。転掌における戦いは、すべて「後方へスライド」してから始まる。
その前までは、「礼節」でその身を守れ。
