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転掌八卦門として、世界武術・転掌を支えていく

八卦掌水式館は、世界武術・転掌の拡大と浸透化を支えていくために、伝承のための門「転掌八卦門」を形成します。

北陸本科のページを見ている人であれば、お気づきかもしれません。現在、護身術指導と伝統継承の二つの指導フレームを作成しています。

転掌の護身術としての素晴らしい特徴に絞り全国に伝播させるため、極限までシンプル化し敷居を低く習いやすいくし、隅々の諸氏に届けるための方法を具現化してきました。しかし独学システムを構築するまで打ち出してきた多くの施策は、全国の諸氏に届けるうえで敷居の高いものであり、弊館指導部の対応力も無尽蔵ではく、限界を感じるものでした。

この点を踏まえ、独学者のテキストに徹した書籍による最低限にして十分な護身技術の教授に限定することで、『売り切り+自動サポート』のシステムを構築、独学での習得の現実化と、リリース後の対応力の飛躍的向上を実現しました。この実現により、多くの力を、世界武術展開に向けることができるようになりました。

いよいよ、世界武術への本格的始動が始まります。護身術の全国・全世界への波及を実行していきながら、まず日本国内にて、転掌八卦門の成立を宣言致します。

水式館にて全伝を授かり掌継人となった者は、自動的に、八卦掌の代継門人・転掌の掌継人に加え、転掌八卦門の伝人とします。

厦門転掌門楊家より館長・水野が受け継いだ董海川先師創始のままの技法は、楊師爺の師伝によってしかるべき人間にお伝えしていくことを求められています。弊館では、館長と、私を含めた掌継人が、幾度となくその伝承方法を試してきました。

その中で、検討と模索によって打ち出した以下の方策を実行していきます。

  • 常識と思いやりを備えた人間に伝承するため、応募制を採用し、転掌八卦門正式門人となるための選考を設ける
  • 転掌八卦門の門人となることを希望者は、転掌における護衛最高段階たる「並走遁走東西変打虚打」を目指すこと
  • 水式館の現行本拠地(館長・水野の生活拠点のある市町村)は、その都度変わる可能性がある(現在は石川県金沢市)ため、遠隔地になっても半年に一度でもいいため定期的に通う熱意を持つことができる者に限定する

今後、機を見て転掌八卦門への入門を希望する方に向けて、必要な情報を示していきます。

私はプロの武術家であり、転掌のグランド・マスターである

冒頭から、今更ながら当たり前のことから入った。しかし、すべての出発は、題名にある、当たり前で普遍的な真実の宣言から始まる。

私なんて・・・。末席にでも・・・。私はそれらの言葉が大嫌いである。「そう言っておけば角が立たないだろう?」

しかし全く人なんて馬鹿にしてない。自分はこうだ、と当たり前の真実を宣言しているだけである。そう言っても「うぬぼれ」だと言ってくる人間もいた。「集まりの場では言うことも必要だ」とも聞いたことがある。

解決策は簡単である。そのようなことを言わないとうまくいかないような集まりの場には、行かないことである。自分は至らない、という発言は、多くの望ましくない現象を引き起こす。そのようなものを引き起こすならば、その場に行かなければよい。

私が他の武術家とつるまないのは、そのためである。私は事実の通り、朝から晩まで、そしてこれからもずっと生粋のプロで、最高のグランド・マスターであるのだから、その事実に、ほんの少しの泥もかけたくない。

よくない現象、それは、知らず知らずのうちに、自分に対して限界を持ってしまうことである。

自分に対する限界を作ってしまうと、それ以上先に進むことが困難になる。行き詰った時、そこで言い訳に走る。行き詰まりは、行き止まりでもなんでもない。ただ単に、そこで行き詰っただけだ。すぐに穴は空き、事態は変わるのに。

行き詰った時考えない方がいいことは、「もうだめだ」である。かといって、無理に前向きに考えろ、とも言わない。そんなこと考える必要もないからである。ただ何も考えない。それで十分なのだ。

私はこれを誰よりも言う資格がある。追い詰められたのに打開もできないとき、私は今まで通りを繰り返した。安っぽいスピリチュアル動画だと、そこで奇跡は起こる。しかし私は何も起きなかった。もっとひどいことも起こった。大切な人を失った。家を失って車中生活に三回なった。親を亡くし、死に目にもあえず、葬式にも行くことができなかった。それでも今まで通りを繰り返した。

人に批判され、役人に見下されても、己の毎日のルーティンを変えなかった。

何も起きてない時に、「苦しい時は○○しろ」と言うのは簡単である。しかし私は、その時も本当に、今までどおり、改善もせず、日々を実行し続けた。そしてそれが実は、今私持っているゆるぎない確信の最大の源なのである。

今までやってきたことを、ただ繰り返すだけである。行き詰った時は、たいがい精神的に苦しくなっている。立ち直れないと思う時もある。そのようなときに、ポジティブに考えようとすると、余計に負担がかかる。自分が以前住んでいた愛知県は、トヨタ自動車の影響もあり、中小零細企業でも、「改善」を採り入れる。本当にあれが嫌いだった。あれが嫌いだったから、愛知県も嫌いになったくらいだ。

事態を打開する必要もない。自分を信じるのみである。トヨタ系の人間は、他人(おそらく大野耐一)が考えた思考の一つを、貴重な自分の中に無理に取り込む。心酔して取り込むならいいが、ほとんどの人間たちは、会社の業務命令のために、そう考えるのである。寒気がする世界だった。

行き詰まるということは、「自分」という宇宙が、それだけやってきた証なのだ。自分のすごさを信じきって丸投げをし、何も考えず、改善などというしょうもないこともしようともせず、ただ繰り返せばいい。少し汗をかき、気持ちも変わるかもしれない。かといって、すっきりしたことで苦しさがなくなるわけでもない。でもそれでいい。自分が心底、自然に、気持ちいいと思ったのだろう?人に押し付けられた思考のフレームワークで生じさせたものより、はるかに価値がある。いや、くらべものにならない。とにかく、惰性でもいいから、繰り返すだけである。

的を外す、やたらと息があがってしまう、やたらと棒をつかみ損ねる、これだけ毎日動いているのに体重が増えた・・・すべて全く問題ない、すべてオーケーである。なにが起きても、繰り返せばいい。あえて言おう。これまでの君の積み重ねは、そんなことどうでもいいくらい、すごいのだ、うまくいかないことは、君を下げない。行き詰まりの時生じる事象ごときは、君を下げられないのである。君が自ら自分を激しく攻撃して下げない限り、下がることはない。

定期的に、惰性で、行う。それは実は、前に進むうえで、十分プラスに機能する。何もしなくても下がらないのに、惰性でもいいから動いているなら、下がるわけないだろう?

私は完全なプロ、グランドマスターだから、何も躊躇せず、転掌・八卦掌を指導する。私は近代八卦も膨大な量を積み重ねたし、そのうえ八卦掌の原型・転掌を再興させたのだから、国内外の誰にも劣らない八卦掌・転掌のマスターなのである。

だから私は、董海川先生と、楊コクチュウ先生、そして最高の師である水野義人宇宙先生以外、誰にもへりくだることはない。礼節は当然に尽くすが、自分を下に置かない。

董先生は、私が大好きで夢中になる、いつまでたっても上を目指すことができる技術体系を、この世に具現化してくれた恩人である。感謝しても感謝しきれない。

楊コクチュウ先生は、その具現化された、行き止まりのない技術体系を、私に教えてくれた。私の姿勢だけを評価し、色眼鏡なく私を信じ、伝えてくれた。そのおかげで私は、近代八卦から転掌へと移行する大きな飛躍を得たのだ。感謝しても感謝しきれない。

指導経験も圧倒的に長いうえに、イノシシや狂暴化した野犬、複数人の侵入者と、身の毛もよだつような実戦経験もしている。プロとして最高の経験をしており、なんら不足もしてないのである。

わたしが国内で最善・最高である。私の目指す境地において、他者の下に少しも置かれてないからである。他人の境地は知らない。他の武術家と比べることなど一切する必要もないから、当たり前に最高なのである。

私の優秀な弟子が、いいことを言っていた。「達人に必要なのは、対応力」だと。きっと彼には、もっと深い考えもあろう。しかしこの言葉だけでも、十分素晴らしい。明晰な彼は、今この瞬間も先に進み続ける天才である。

自分の心が示す行先に忠実になり、進路の変更や変化を恐れない。イメージした「目的に続く進路」へのこだわりを捨てて、引き続き進み続ける。これは、自分に対する揺るぎない信頼があるからこそ、自然にできることだ。

今このブログ文章自体、自分に忠実に書いた結果だ。どういうことかって?

明かそう。ネット上であふれる、「ブログ記事の書き方」のセオリーをまったく無視して書いているのだ。その文の書き方が、人の共感を得るから、そのように書く。しかしそのような書き方では、私は面白くないのだ。自分が出ない。自分を表現できない。最高の存在である水野義人というグランド・マスターを表現できないのだ。

起承転結など、くっそくらえだ。だから出版社に、あれこれ言われるのだ。それもいいだろう。無視されるのだ。それもいいだろう。

口を挟まれ、相手にされなくても、自分は変わらず最高の職業武術家である。プロである。現世最高の、グランドマスターである。

だから私は、いつも習いに来る人間に、転掌の原則をしっかりと実行させる。まだ何も知らない者に、口出しさせない。自由にやらせるのは、どうでもいい箇所だけである。

八卦掌や転掌を習いに来たのなら、未熟者は、一通り習うまで、素直に習え。何も知らないのに、この方がいい、と、積み重ねられた原則術理にケチをつけるな。だから私は、見学しに来た者が次から来なくても、落ち込むことはないのだ。何も知らない人間が、一度の見学ごときで、「これはいい、これはだめだ」などと性能を評価できるはずがないからだ。やりたい、やりたくない、が判断できるだけである。

転掌と八卦掌の指導をするとき、私の胸は否応なく高まる。楽しくてしょうがない。世界にとんでもない勢いで広がっている転掌を感じる時が、最高にいい瞬間である。これからもずっと見ていく。海で砂浜に立っている時も、木々の中で野鳥たちを見ている時も、浜辺で延べ竿を伸ばして釣り糸を垂れている時も、心には転掌の拡大が見えている。

だから堂々と言えるのである。八卦掌を習いたければ、私の元に来い。転掌を習いたければ、私の元に来い。金沢の人間は幸せ者である。今行動しないと、後悔する、と。大切な人を守りたければ、私の伝える転掌が最高である、と。

世界武術の原点~氷見市島尾海岸

今日は記念すべき日である。

前人未踏の道は、想像以上に辛いものだ。今日は、グランドマスターの愚痴に付き合って欲しい。

道を貫く、といことが容易でないことなど、頭ではわかっていたのだが、そこに待っているものは、圧倒的なことばかりであった。努力や心掛けでなんとかなるものでもなかった。

Youtube上にて最近量産されているにわかスピリチュアル教師どもは、どん底からの好転、を説く。私はずっと以前、その言葉を聞いて、毎日毎日底からの脱出を夢みて、進んできた。実はあれから、もう、3年以上もたってしまった。

その三年の中で、あまりにも過酷な底が続いた。多くのものを失った。家は3回も失った。自分の目指す道を共に歩むと言ってくれた人もこの世からいなくなった。いつも請求書におびえ、のたうちまわった。生き急いだ青年の死を見た時は、恐ろしくて夜いつも震えていた。そして・・・・本当に支えてくれた人も失ってしまった。その人の死に目に会うことも、送ることもできなかった。ここまでするのかよ・・。

それでも私は今日も、島尾の海岸に立って、いつもの通り、今日も進むと報告をした。

ここは世界武術・転掌の原点である。転掌は、私がこの世に生まれ、約束した人を守ることができず、そして楊師に巡り会ってその技の皆伝を得た時も含め、すでに世界武術になっていた。それは宿命である。

私は今この瞬間も、自分の島尾での想いを書くことで、転掌が世界に広がっていくことを実行している。

この場所から氷見市街の方向を見る時の景色は、今も変わらない。あの時は、すでに6月であったから、立山連峰は影のみであったと記憶する。そこには未来の家内がいて、水式門の名をくれた同級生が座っていたのである。プロフィールに掲載してあるイラストは、あの時のことを思い出してかいたのだ。

そんなこと書くの?書く!これは原点だからである。

何があっても練習場所に向かったのは、あの時の笑顔があるからである。私は苦しくない。この世に生きてられる。生きてられる以上、吹雪で吹き付ける氷雪も、土砂降りの雨も、苛酷に照り付ける太陽も、すべてが祝福である。私はそれを受け、何かを感じることができるのだ。

私に想いを託してくれた人たちは、それすらも味わうことはないのである。私がその分も受けないでどうする。

名付け親

死ぬまできっと動き続ける。移動遊撃戦でできなくなってきたら、何が違う手を考える。ずっと進化し続けるのだ。そうすることで、転掌が世界の隅々の本当に深いところまで浸透し、それが根底から、大切な人達の日常を守る。この世は幻想かもしれないが、私たちはここで泣き笑うのだ。だから退場させない。その役目を果たすことができるのは、転掌である。

多くのかけがえのない宇宙が、私の近くから去っていった。でも私はずっと、一緒にいると感じている。そして見渡すと、私の周りに、私の宇宙に共感する愛すべき宇宙もいる。共感し、志を汲んでくれる宇宙たちもいる。

今日は感謝しかないのである。あまりに最近、走り続けたばっかりに、さすがに身体が熱くなってきた。桜も咲いてきたことだし、明日は少し、花を愛そう。

「良師三年」の本当の意味~先生探しは時間の無駄である

あなたが今でも、「良師三年」の言葉に影響され、有名先生に習いたいと思い、先生を探す放浪の旅をしているなら、そんな無駄なことは今すぐやめてしまえ。

あなたは今すぐ、その場で、あなたが今まで習ったものを復習するのがいい。

良師三年。日本でやたらと有名になった言葉である。それは、日本人中国拳法愛好家が大好きな漫画による影響だろう。

私はこの言葉を、高校生の時、転掌の楊師より教えてもらった。

愛好家が言っている「良師三年」とは、全く内容の異なるものだ。楊師は言った。

『どんな先生でもいい。どんな武術でもいい。簡化二十四式太極拳でももちろんいい。その先生が、健康法としての武術しか知らなくてもいい。その先生に教わった技を、術理を、自分の身体で完全に再現できるようになるまで、徹底的に繰り返すことだ。やり込むことだ。

戦うのは、その先生の身体でではない。お前の身体で戦うんだ。仮にお前が武術界で名を馳せた先生に習ったとしても、戦う時はお前の身体で戦うんだ。それを忘れるな。

お前の身体は、やればやるほど、その技をより高い次元でできるようなるヒントをくれるようになる。転掌で言ったら、小成と言われる3年くらいから、そのヒントを身体がおのずと教えくれるのだ。

もう分かっただろう?そうだ、3年くらいから、お前の身体が、お前の身体でより高度に実行し得るためのヒントを、勝手に教えてくれるようなるのだ。外部の先生は、お前の身体と同一ではない。よってどれだけ高名な先生であっても、どれだけの名手であっても、お前の身体にとってベストの技法を教えることができないのだ。

私はお前に転掌の必要にして十分なものを教えた。それは技だ、術理だ。あとはお前がやり込んで洗練させていけ。迷ったときは、できないなりにただ繰り返せ。お前は「○○ができなくなった」と言ったが、横から見ていても、今の方がうまくいってるように見える。

それくらい、外から見ている人間には、お前の中で起きている感覚がつかめないのだ。お前が一番知っている。

お前の身体は間もなく、お前に多くのことを教える「良師」となる。いいか水野、良師三年とは、そういうことなんだ。有名な先生とか、歴代の達人とか、そんなんじゃない。

私はそのことが当たり前だと思った。しかしそのことを理解している人間は、どこにもいなかった。指導者にもいなかった。

水式館では、掌継人となった後、その弟子に自由にさえるのはそのためである。自由の範囲は、練習はもちろんのこと、指導・発信なんでも自由だ。自由にしておかないと、その弟子にとって最良の師の指導の邪魔をしてしまう。掌継人になった弟子の身体は、間違いなく良師となる。あとはその先生に任せるのみだ。そうすることで、その弟子はとてつもなく成長していく。

ブルース・リーは私と同じようなことをいう滅多にいない先生だ。私がブルース・リーが好きなのは、わたしと考え方がそっくりだからである。やはり天才同士は考え方も似通ってくる。

彼も弟子に、自分のコピーとなることを戒めた。だから彼は、ジュンファングンフーではなく、ジークンドーとして、その伝承を試みた。特定の具体的な技法を伝えると、その技法が独り歩きし、神格化され形式主義に陥り、パリサイ人(形式主義者)量産の集団となり果てる。

しかし残念なことに、ジークンドーと名を冠して教えながら、自身の修めた型を強いる指導者が多くなっている。

私は転掌(八卦掌)を教える際、最小限とする。それは省いているのではない。長年の発展という名の装飾化によって外にへばりついた余分なものをそぎ落としただけだ。

八卦六十四掌は知っていた。しかし中身は、形意拳と八卦掌の混在である。この型を作った人間は歴代の名拳士であるが、そんなことは関係ない。彼にとってはこの型はしっくりときたのかもれない。でも私には、違和感しかなかった。そして型が長すぎる。一通りやるだけで時間がなくなってしまう。

磨いていく技は最小限にせよ。技を創りたいなら、最小限の技を極めて、その術理から導かれる動きの中で「実行しやすい技」を、自分が使用する目的だけだと決めて、確立すればいい。

水式館発祥地・氷見島尾海岸で、一番弟子が転掌双短棒(双匕首)を練習しているイラストを見て欲しい。

彼女はいまだに、一番最初に習った「推掌転掌式」を好む。それが高じて、推掌転掌式とリンクしやすい双短棒を、最も得意な武器術をしたくらいである。

彼女は言う。「これ(推掌転掌式)はいまだに、上手くいくときといかない時があるんだ。上手くいかないときに限って、とんでもないインスピ(直感)が来るんだよ!飽きる、という発想が分からない。いまだに私に教えてくれるのに。」と。

このインスピこそ、彼女のもう一人の師だ。己の身体こそ良師だ。

つまり、ずっと続ける姿勢さえあれば、雑誌で毎月紹介される魔術師のような先生らに踊らされることもなく、すごそばで、最も近い場所で良師に巡り逢えるのである。

『幸せは、足元にあった』とよく言うが、それは拳法の世界にも当てはまる。

雑誌や動画で人気が集中している先生の所に行ったって、どうせその先生に習うことなどできない。「その他大勢の一人」とみられるだけである。有名先生の講習会を見てみればわかる。人が多すぎる。そして、教えているのはその先生の弟子だ。濃度が大幅に落ちたものから、あなたは多大な労力をかけて、何を感じるのか。

日本人は真面目であるが、自信が無さすぎる。横暴であるのはいただけないが、うぬぼれぐらいなら、誰にも迷惑はかけない。自分の見出したオリジナルを最善だと、思い切り勘違いしてしまえ。真の勘違いは、すぐに真実となる。だから今すぐ宣言せよ。

「私は稀代の達人である。偉大なグランド・マスターである」

そのように宣言すればいい。誰の許可も承認もいらない。あなたが自分のオリジナルを信じ、そう宣言した瞬間から、あなたは偉大なマスターとなる。このことに例外はない。

達人になりたければ、私の元に来い。しっかりと達人になるマインドを指導する。しかし各自の練習は当然必要だぞ。練習すると、それは自分が未熟であると脳に信じさせるからよくない、と言ってのける人間がいたが、そういう奴はイメージだけで強くなればいい。自分はそのアプローチは採らない。

水式館では、転掌と同時に、達人道も教えているのだ。

書籍独習システム構築で、転掌を世界武術にしていく作業続行中

現在書籍を出版しているのは、商業出版を実現するためではない。商業出版など、単なる通過点である。私のような、一つの域に到達した者であれば、いくらでも、初心者が満足し得るような書を書くことができる。

書籍を出す目的は、全国、いや世界中の有志に、転掌の自分護衛の技術を普及させるためだ。自分護衛は、転掌におけるもっとも実現しやすくて、最も効果を実感できる段階。独習も可能である。

その初心段階は、初心段階であっても十分、我が身を守ることができるレベルまで引き上げてくれる。この初心段階を、真に使うことができる護身術を習う環境をもたない各地在住の諸氏に届けるために、書籍を発刊しているのである。

書籍発刊だけでは、書籍を利用した独習システムを構築するのは難しい。そこで、各書籍に対応した動画集をまとめ添削制度も導入することで、書籍購入者が視覚学習と対面指導学習の両環境を手にする機会を創造していく。

独習システムの紹介サムネイル

原初八卦掌たる転掌には、護衛の2段階があると触れたことがある。

対多人数マクロスライド護衛、そして対一人ミクロスライド護衛である。ミクロスライドは、敵の攻撃に当たらないが、自分が身体を入れて身体を逃がしながら打つと当たる間合いを維持しながら戦うため、大変高度な技法なのである。

逸れに比し、対多人数護衛は、マクロスライドで思い切り敵を引き離すため、絶妙な間合いを必要としない。「対多人数」という文字にとらわれると難しそうに感じるが、実はミクロスライドより初心者向けなのである。

その大きな理由が、対多人数護衛の技術の持つ「一人練習で技術を高めることができる」という要素である。

敵の手の届かない間合いで対処し続けるため、敵の攻撃を手わざのみで防ぐことがほぼない。よって練習でも、練習相手の手をつかんで○○する、という難解な目標を設定しないため、一人で練習できる。

練習が一人でできる、ということは、自分ひとりで、いくらでも練習できるのである。これは上達するうえで大きな力となってくれる。誰の気兼ねもいらない。誰の遠慮もなく、自分の都合のいい時間に、上達するうえでパーフェクトな時を過ごすことができる。

練習に、実戦のすべて再現する完璧な練習はない。たまにスポンジ支柱の動画を見て、「動かない的なんて練習しても意味ない」などとトンチンカンな批判をする人間がいる。よく考えて欲しい。完璧な練習なんてない。組手ですら、完璧な練習でない。

組手はそもそも、思い切り打ち抜くことができない。実戦を経験したことあるだろうか。実戦の極限の中で思い切り技を繰り出すと、わずか3~4発の攻撃でも、後々激しい筋肉痛になる。練習で同じ動きを、「思い切り」しているようにみえても、実はそうでないのである。

また組手は、相手に勝つことが第一となってしまう為、自分の拳法の独特のスタイルで勝つ意図が薄らぐ。結果、皆キックボクシングみたいな戦い方になっていく。すぐに「勝ったり負けたり」の状態にもっていけるからだ。

自分の拳法のスタイルにこだわれば、最初は勝てず、笑われ、みじめな思いをする。皆それが嫌で、自分の練習している拳法のスタイルに徹することをせず、安易にキックボクシングのスタイルに走り、勝ったり負けたり、の状態にもっていくことでとりあえず自分の面目を保ち、目先の安心を確保する。

しかしこれでは、いつまでたっても自分(の取り組んでいる拳法)のスタイルを極めることができず、「勝ったり負けたり」の状態で時間を過ごすことになる。自分に自信を持つことができない。達人の境地には、自分にスタイルに自信を持つことで初めて、到達することができるのに。

話を戻そう。それぞれの練習にはある一定の技術を伸ばす狙いがある。例えば

  • 間合い感覚をつかむためには、移動遊撃戦で身体を振りまくった後に、通り過ぎながらスポンジ支柱を正確に打ち抜く練習
  • 動作を身体に染み込ませ持久力を養うために、伝えらえた基本型を、中程度の速度で繰り返す練習
  • 敵から急速に身をかわしながらバックスライスする技術を磨くために、打ち寄せる波を使って身体を急速移動させながら後方打ちをする練習

見てお判りの通り、その練習をする目的は全く異なる。それぞれの練習をバランスよく行っていくには、一定の時間が必要となる。練習をするたびに人と時間を合わせる必要があるならば、練習場所に立つまでに大変な手間を要する。現代人は、各自が多くの要不要な「すべきこと」を背負うため、忙しいと思ってしまっている。それを言い訳に、練習にも参加してくれない。

目的の異なった複数の練習をこなすためには、定期的な練習時間を確保し、取り組んでいく必要がある。毎日取り組むためには、毎日、気軽に、何かしらの練習に取り組むことができる環境(ルーティンシステム)を作っておく必要がある、ということである。その土台となるのが、「一人練習で技術を高めることができる」という要素なのである。

独習システムは、一人練習のみに頼らざるを得ない全国諸氏の技術向上に大いに貢献する。私は、システムによって広がった転掌の土壌の中から、各地で伝承を担う者の出現を確信している。伝承を担う者を確保することは、世界武術へと発展していくための大きな要素なのである。

武術界に絶望している←最高の原動力

武術界に絶望している。なぜなら、武術と格闘技をごちゃまぜにして、どちらに居るとも気づかずさまよっている人間たちが、表通りを歩いているからである

私はいつも、渾身の力で作成した動画や情報を発信すると、無反応であったり、ひどい場合マイナス評価を付けられることに疑問だった。

でも分かった。格闘技中継を見て、それらを「本当の戦い」だと勘違いしている人間が圧倒的に多いからである。戦う必要もない、戦いについて覚悟もないサラリーマンが、空いた時間に暇つぶしに見ているのだから、響くはずもない

だから有名動画でも、格闘家が合気道に挑んだりするようなしょうもない暇つぶしにしかならないような動画が、圧倒的に氾濫するのである。つまらない。実際の戦でも何でもない。お金のために、互いにつるみあっている。お金の臭いしかしない。理念を感じないのである。

おそらくそういえば、きっと理念を打ち出してくるだろう。しかし行動がすべてを物語る。

そもそもYoutubeは暇つぶしをしにくる暇人のツール。ショート動画ができてその傾向はますます強くなった。同じような動画ばかりだ。AIの出現で、動画中のイラストも、生気のない同じような気持ち悪い顔した画像で構成された動画があふれてかえっている

ビジネス系なら、成功法則。オリジナルならいいが、他人の動画をパクった、有名著者の考えを編成して流すものばかりだ。まったくオリジナル性がない。チャンネル登録者数が万人単位であっても、関係ない。内容がそれだから響かない。

生き方系動画で、すごいチャンネルを見つけた。登録者数が20人程度である。90本近くも動画を出しているのに、である。

変わっているのである。その人が。最初は、見るに堪えない、と思ったが、それがインパクトになり、引きつけられる。生き方について説く内容は、多くの人が話すのとあまり変わらないが、例えがオリジナルなのである。感情的で、そこがまた、人と一緒に見づらい。しかしこれこそ、真の個性だと、感じた。

万人単位の登録者なんて、その動画の価値に何ら関係がない。私の動画サイトは、登録者数が500人程度である。しかし動画の内容は、ヤンキー格闘家や魔術系武術家のものよりも、はるかに学ぶことができるものだ。

おもしろくない?結構。私は、お笑い動画をあげたいんじゃない。暇つぶしどもの時間つぶし動画を提供したいんじゃない。

動画を上げると、最初はどんどん登録者数が下がっていく。そしてあとあとになって、一気に伸びるのである。再生時間も、後々で徐々に増えていく。それはどういうことか?私の動画に価値を示す、なかなかの者どもがいる、ということだ。

護身術にいらないもの。美学と美しさだ。

暇つぶし系動画を提供する連中は、この二つをやたらと強調する。もっとも実際の戦いで必要ないものを重視するのだ。そのような動画があふれかえるので、ほとんどの連中はそれらに洗脳され、私のように戦いの本質を突く動画にマイナス評価をつけるのである。

武術に美学はいらない。護身術サイトを運営している道場主らが、よく、護身術における各自のこだわりを語る。しかし護身術や武術に美学やこだわりはいらない。襲ってきた人間から身を守るための行動をとるだけなのである。かっこいい、美しい制圧術なんていらない。ただ己を守るための行動をとるだけである。

私は金沢で指導しようと試みて、失敗をしたようである。ここに続ける決意、成し遂げる行動力を持った人間はいないようである。まだ4か月だよ?というかもしれない。しかし4か月も募集したのである。それでも来ないのだから、ここに需要はない。もしくはやり遂げるだけの気概を持った人間はいないのである。

有名になったら来るかもだよ?有名になってから、のこのこと来る人間に、正直用がない。

有名無名を、選ぶ基準にしているから、いつまでたっても本当に止まる場所を見つけることができないのだ。次から次へと、色々な理論を持ち出して愛好家の興味をそそる誘惑なるものが出てくる。雑誌は、人が飛びつきそうなものにぶら下がり、それをおおきくあおって、そこから湧き出る利益をもらっているのだ。

そのような人間たちは、次から次へと場所を変え、やたら習ったものばかり増え、こともあろうことにそれを吹聴する。私はそれを聴いて真っ先に足元を見、試し掛けの場合の動きを見る。本当にものになっているかもしれないからだ。しかし、そうであった場合は一度もなかった。

自分の軸を欲しければ、自分の目を信じよ。雑誌に出ている、○○先生伝、そんなものはみじんも関係ない。対応できるかできないか、それだけである。

対応するためには、自分の目を信じ、自分の身体がいいと思うものを見つけ、それがなんであれ、それを信じて取り組み続けることだ。安易にキックボクシングの戦い方に同調するな。組手で100戦100敗でもいい、最初は。そこからつかめ。間合いを。どこに移動したら自分攻撃は当たり相手の攻撃は当たらないから。当たらないために、どの技術が必要か。それは相手と相対して、研さんを積まないことにはわからない。

選ぶのに、人の基準を用いるな。私は、最初に出逢った本の著者の道場に行かず、名もなき中国人就労生先生の教える公園に通い、大きな違いを得た。梁派八卦掌の伝人になれば、その名のもとに生徒も集めやすかったかもしれない。しかしその道を本能的に避け、それが大きな違いを生じた。

人と同じ。昔からあるモノに追随。長いものに巻かれよ。

現存武術界にみられるそれらの停滞に、私は絶望し、今ここに、転掌復活を宣言する。

大先輩から、後輩になることもできないものたちに告ぐ

八卦掌水式館では、礼節を重んじる。しかしその内容は、「おじぎの角度は○○度・・・」などというしょうもないものではない。

極めて一般的なものである。年上・目上の人には目に見える形で敬意を示す。何かしてもらったら、感謝の気持ちを伝える・・・などの当たり前のことである。

その当たり前のことすら、できないタコが多い。いい加減にしてほしい。タコに失礼である、もはやそういうダラに、つける言葉もない。

約束したなら、何としても来い。致し方ないなら、せめて連絡しろ。言い訳ばかりするな、だれのためにやってるんだ。スマホでしょうもない、真実かどうかもわからないサイト見てる暇があったら、行けなくなりました、くらい連絡しろ。

なぜここで礼節を重んじるかわかる?足りない頭じゃわからないだろうから、今私が教えてあげる。

それは、あんたの身を守るためだ。護身のためだ。身を守るためだ。この世界、100~200年前は、不遜な態度だけで、当たり前にごく普通に、誤解を招き、命まで奪われることがあった。だから昔の時代の拳法家は、礼節を重んじた。日本の、道徳的な意図からではない。中国だよ?無礼不遜の塊みたいな連中が、そんな動機でするものか。

自分の身を守るためだよ、かわいい自分のために、礼節を重んじていたんだよ。

最近うちに連絡してくる連中の中に、命知らずのダラが多い。私が館長で今が民国初期くらいなら、どれだけ〇していることか。

本日は大先輩の特別講義である。まだ入り口にも立っていないダラどもに、愛の鉄拳である。いんや、愛なんてあんたたちみたいな不遜な連中にこれぽっちもないから、無の鉄拳である。覚えておけ!

『2つの技で「あなたを絶対に守る護身術」独学の指南書』発刊に際し、あなたへ感謝

本日、『2つの技で「あなたを絶対に守る護身術」独学の指南書』を発刊した。この成果を、私の宇宙にささげる。

忙しい中、少しづつ積み重ね、間に合わせるために進んできた。前に進んでいる事実を、私を支えてくれた大きな宇宙に、見せたいと思って進んできた。

MOTHER

3日遅かった。今日その宇宙は、その形をこの世から消した。私はその姿を見なかった。愛知に行かなかった。本日、準備してきたことがあった。そのために、私は金沢にとどまった。この週末に向けて、私は自分でも胸を張って言い切ることができるくらい、真剣に向き合って進んできた。

ここ2週間ほど、その宇宙は、何度も危機を迎えた。しかし私は、この道を進むグランドマスターとして、練習をやめなかった。私が梁派の伝承者を一方的に取り消され、愛好家らに舐めた態度をとられ続け、その中でサイトへのアクセスが激減し、自暴自棄になってそれが良くない状況を招いた時、その宇宙は苦しいながらも助けてくれた。

宇宙は、私の進む道に、必ずしも賛成ではなかった。でも助けてくれた。そんな宇宙が珍しくわたしに言ったこと。「義人が成功して援助してくれるようになったら、心置きなく、お金も心配もなくガーデニングがしたいねぇ」と。

私は毎日、練習中の原っぱで、海辺で、宇宙にお金を送金している姿、宇宙がウッドデッキで黙々と植木の手入れをしている姿をイメージして進んできた。無断でキャンセルされた時も、通信講座で期限までにお金が支払われず無断解約されつづけても、希望を見いだしてきた。

3日前はさすがにこたえた。ぼうぜんとした。しかし何とか気を持ち直し、すべきこと、そして書籍の完成に向け、さきほどまで奮闘した。いよいよ発刊である。

指導する技は、基本功・歩き方・単換掌・双換掌の4種類だけだ。でも、これらを真摯に練習すれば、きっとその人は我が身を守ることができる。そう確信できる内容である。

宇宙は拳法のことなど一切知らない。興味もない。私が転掌を復活させ指導者となっていることを知っても、それについて称賛もしなかった。宇宙は寡黙だったと思う。宇宙が私に最後に行った言葉は、「寝るわ」だった。そして両手で、どっかいけ、と示した。それが宇宙の最後の、私に示した意思だった。

宇宙らしい。最期まで、宇宙は私に対し、宇宙らしく接した。

これから先、ずっと、あなたへ感謝を気持ちをもって進みます。本日、あなたはこの世からその姿を消しました。これからも、この道を進みます。方針は変えます。本当に必要としている人間に、届けます。待ちません。安売りしません。

今までありがとうございました。そしてこれからも、ありがとう。

発刊書籍のカバー

200年前の天才の人生を追体験する「今」の天才

今こそが、何かを成す時である。今この瞬間、ブログを打っているのも、成しているから成しているのである。

ブログを打つ時に、戦略的な意図はない。思いついたたくさんのことの中で、打ってもいいと思ったものを打っているのである。

私は、私に続く者たちに、なってもらいたいものがある。グランド・マスターである。私は、200年前の天才の生まれかわりと信じることができるくらいの、天才である。今までの巡り合わせを見れば、それが分かる。

そんな200年に一度の天才であっても、後に続く者には、私のコピーになるのはやめてもらいたい。なぜか?後に続く者たちも、形を変えた天才だからである。人まねをして可能性を削いでもらいたくない。

後に続く天才たちが、その人だけの道を歩くとき、天才が天才たるゆえんとなる。前にも打った、一瞬で達人になる方法。あれは信じて疑わない、唯一の達人になるための方法である。

達人になったからわかるのだ。人まねは、あっという間に終わることを。人から一通り教わって、その後が本当の修行なのである。そしてその段階はとても楽しい。色んな気づきが、ちょうどいいタイミングで現れ続ける。それを夢中になってこなし、クリアしていく。ふと気づいた時、今まで何としても到達すべき課題、と思っていたことが、はるか後方に過ぎ去っている。

気づいているはずである。こんなことができるようになった。あんな気づき、昔は重要と思わなかった。今克服したい課題は、どの本にも書いてないこと。私が重視していることを人に話しても、「そんなことどうでもいいじゃん」と言われたりする

Youtubeのコメントを受け付けている時、転掌に関するコメントは、本当にひどいものだった。何も知らない人間であることが丸出しで、自分ならどうでもいいことに固執して批判しわめている。

こんなしょうもないコメントで、いじめ護身部の志ある少年の決意が鈍るのが嫌だったので、オフにした。武術経験者を按にほのめかして、さもすべてが分かったかのように転掌の批判をしてくる人間もいた。上からの物言いのなかに、自分のスタイルを押し付け誇る意図が見えた。そんなことをしても何もならないことにすら気づいていない。

そんな雑音以外の何ものでもないものに遠慮せず、堂々と宣言すればいいのである。200年に一度の天才が言うのだから間違いない。董海川先生の生まれ変わりたる私は、今董師の人生を追体験しているのである。

中学生の時、関東で転掌の伝承者に出逢ったことは、私の道を求める気持ちによって引き起こされたもの。人を守るための戦いに敗れたことも、何か大きいものの意図である。

今この瞬間に達人になる方法

それは、今まで周りから聞いた色んな常識・他人の価値観・メディアによって紹介されたもの、SNSなどの情報(雑音)よりも、あなたの直感が心地よいと感じるものを重視し、それを今この瞬間から、自分が納得できるくらいまで、追い求め始める、ということである。

「何言っての?達人ってのは、だれからも尊敬されるような境地になっているような人のこと」

「そんなこと言ってるが、お前、実績あんの?」

「お前なんて、いっつも俺に負けてたじゃないか」

「どの先生に習ったの?どこの流派なの?正当な伝承者なの?」

ここに挙げたのは、情報という名称を用いる必要もない、単なる雑音である。もしあなたが、これらの意見によって「達人」であると宣言するのをためらっているなら、この記事を読んでもらいたい。

冒頭を読んでお分かりの通り、いますぐあなたが達人になるには、あなたの直感がいい、と思ったものを、今すぐ深掘りし始めることである。

それだけ?それだけでいきなり達人なの?そうお思いだろう。気持ちは分かる。私も、この考えに至るまで、ゆうに四半世紀はかかったのだから。

直感に従うのが難しいのなら、既存の達人の概念を捨て去ることから始めないといけない。おおかた、あなたが心に持っている達人のイメージとは

・最強である
・有名門派で正式に伝承者になった肩書がある
・誰からも尊敬されるような人格がある
・誰にも文句を言わせないような、武勇伝がある

であろう。

これらは、この記事で述べる達人の条件に入っていない。必要ないものばかりである。

これらがどうしても必要な場合とは、「達人」という名を利用して、ビジネスをするときだけである。

よく見て欲しい。これらの要素は皆、他人の評価や他人との比較によって成り立つものばかりである。

達人は最強である必要はない。最強でなければならないなら、一人しかいないはずである。そんなことはない。有名門派でならった経歴。戦うのは自分である。有名門派が戦ってくれるのではない。だれからも尊敬されるような人格。誰からも尊敬されることがないことは、あなたの日常生活でも実感できるはずだ。必ず誰かに嫌われたり、批判されるものだ。武勇伝・・・そんないい加減な不確かなものが達人であることを証明するなら、それこそ誰でもなれるのである。

達人とは、自分に対する絶対的な自信である。その自信とは、自分自身で見出したものにどれだけ、心血を注ぐかである。そして注いだ期間は問題ではない。どれだけ、自分のオリジナルを信じているか、なのである。

今すぐなるための手順をお教えしよう。

まず、自分の直感に全幅の信頼を置くこと。違和感を感じる他人の意見や価値観に、従わないようにすることである。そこからスタートする。

そのうえで、自分がいいと思ったやり方、工夫を、その瞬間から練習しまくることである。きっとあなたの心に浮かんだ直感とは、あいまいで抽象的なことばかりだ。だから動いて、試すのである。

やってみてやっぱりいい感じだ、と思ったら、本格的に行動し始めること。実はここまでくるとすでに、あなたはあなたの直感部分に関しては、誰よりも時間を注いでいるのである。

私が常々、自分のオリジナルを大事にしろ、と言っているのはそのためである。私は弟子に、マスターではなく、グランドマスター(一代宗師)になって欲しいのである。

私の中で、達人=マスター、ではない。達人=グランドマスター、なのである。

自分のオリジナルを狂信的に信じ、突き進むことは、まさに宗家の特質を持っている。宗家は、「これって間違ってませんか?」と人にお伺いを立てて流派を立ち上げたりしない。宗家はいつも、事前に誰かに尋ねることもせず、いきなり「宣言」するのである。人がそれを必要としているかどうかなど調査せず。「宣言」は、自分の直感が生み出したものに対する絶対的な信頼から発せられるのだ。

これは最高のものだ、価値にあふれているものだ、これはチャンスだ、凡人が群がってくる前に早く習いに来い、と言う。

自らを天才と確信し、実際天才なのだから、そのように決断をし、進む。達人が先生であるならば、それを指導するために様々な手段を次から次へと展開していく。怖さなど無い。一番重要で難しい部分である「スキル」が備わっているからである。

拳法教師に習いたいもの、それは拳法のスキルである。拳法を利用したビジネスの方法ではない。有名先生のところで習った肩書や満足感が欲しい連中は、少し思惑が違うが。皆その先生の技術を習いたいのである。独特のその技術を習いたいのである。

どの技術は、先生のオリジナルであればあるほど、熱心な後進を招く。その他大勢の一般人には敬遠されるかもしれない。しかしそれこそが、天才の証である。グランドマスターの証である。独自の境地を進んでいる証なのである。

凡人は、雑誌やメディアで紹介されている先生を見て、内実も知らずに「いい」と判断する。有名メディアが発する動画を見て、華麗にさばく動きを見て、いいと判断する。しかし本質を見る者は、自分の直感を信じるのである。

私のところの門弟は皆、そのような者たちばかりであった。私の古参門弟らは、私が有名流派の指導許可を得た時、明確にそれを習うことを拒否した。彼女らには本質が見えていた。そして自分の直感を信じる達人的要素がしっかりと備わっていたのだ。

古参らは、いまだに「転掌」しか練習しない。私が近代八卦掌を、転掌の術理で再編成した後、初めて習うようになった。八卦掌より、連身藤牌を学びたがった、生粋の変人たちである。

本質を見抜くための最初の一歩を踏み出そう。

もしあなたが独学であるならば、近くの先生の道場に弟子入りをし、武術を習ってみることである。きっと知らないことがあるはずである。私は、近くの公民館の太極拳教室で指導する内容に、大きなヒントを得たことが何度もある。なぜなら私は、太極拳は知らないからである。知らない領域から習う者は多い。独学のあなたであれば、知っているのはその雑誌・書籍に書いてある内容だけであろう。おおよそ基礎のみである。海外の書籍であれば、そこで教えているのと違うことが書いてある場合もある。

あなたの近所で教えている先生は、あなたよりも知っている。先人である。よって教えを請い、そこで習ったものをベースに、自分の独自の世界を築くのである。それは大変楽しい作業である。宣言するとき、先生の名前も拝借してもいい。たとえばあなたの名前が水野で、鈴木先生であったならば

「水野二十四式太極拳 鈴木先生伝」

このように堂々と宣言することである。※鈴木先生の許可は必要だろうが

これであなたは、立派な達人として、そのように振る舞っていくのである。達人として練習し、達人として発信し、達人として日々を送る。気づいたとき、周りにはあなたに影響を受けた門弟が集まっており、内外共に実感するであろう。「ああ、自分って、達人になってたんだ」と。

さあ、いますぐ行動をしよう。自分の得意なパターンはなんだろうか。それを試してみるといい。

フィクションの中であるが、織田信長の重り役平手政秀が青年信長の奇行に心を痛め自害した際、彼の死を悲しみながら、

「見たり聞いたり試したり思う存分に生きてやるわ」

と口にするシーンがあった(4:10秒あたりから)。あのシーンは、いまだに心に残っている。

試すことである。きっと一度きりである。人は批判もするだろうが、言った瞬間から自分のことなど忘れている。

今すぐ、自分の道を歩き出し、さっさと達人になってしまおうではないか。

八卦掌水式門富山本科イメージ