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転掌という形で、大きな意思が、必要なものを届けた。

清朝宦官・董海川先生が、王宮内で立身出世を達成する野心の元に生まれた八卦掌原型の護衛武術「転掌」。

現在国内外で行われている八卦掌は、そのほぼすべてが、他の武術と同じの、屈強な男性向けの技術体系で構成された、敵と至近距離で打ち合い、倒して勝つための八卦掌だ。

弊門の伝える「転掌」時代の技法に、疑問を持つ人間もいる。確かに、中国国内の入手可能な有名先生の著書は、そのすべてが近代の八卦掌である。この体系が、昔のままの体系だと勘違いしても致し方ない。

しかし冷静に考えれば、すぐにわかるはずだ。近代の激しく打ち合う八卦掌の技術体系が、清朝の御用武術として採用されるだろうか。

宮中内は男性禁制の場である。男性で入ることができるのは、清朝王族男子と、宦官(かんがん※去勢された身分の低い男性官吏)だけである。董海川先生も、宦官であった。

董先生は、武術の経験があったが、その技術体系では宮中内御用武術として採用されない。男子がいないのに、男子使用想定の技術体系武術など、採用されるはずもない。よって「宦官・女官でも王族を護衛することができる技術体系で構成された武術」を、作る必要があった。

弱者使用前提技術体系無くして、八卦掌なし。

なぜなら、宮中内御用武術として採用されなければ、転掌は有名とならなかった。有名にならなければ、八卦陰陽理論をあてつけることができるような知能の高い学のある弟子は門に入らなかった。よって、弱者使用前提は「八卦掌」になる前の必然の歴史だったのである。

しかしこれは皮肉でもある。有名になったから、男性修行者が董先生の元に集った。彼らが転掌をより発展させるため、他流試合で勝つことができる打ち合いの技術体系を構築していくことで、弱者使用前提が薄れていったのだ。

転掌が有名になることで、転掌がその技術体系と名称を変えていくことは、避けがたい運命であったのだろう。大きくならなければ、四大門派にならず、修行者も少ないままであった。

清朝粛親王府で宮中内御用武術として採用されたことは、以後の転掌の運命を分かつ大きな転機であったのだ。

転掌技法は、普通なら御用武術として採用された時点で、そのほぼすべてが失われるはずであった。

しかし武術に関わる大いなる意思は、それは許さなかった。大げさではない。これは奇跡の始まりであったのだ。私は、転掌技法が私に伝わるまでの経緯を考えると、大きな意思の存在を、感じずにはいられない。

八卦掌について、誰にも負けないくらい、向き合ってきたとやっと確信した今だから、このブログを書くことができる。

大きな意思は、転掌技法を、私の師の祖先に届けた。

その技法は、伝わった土地の環境もあり、他の武術との技術比べから無縁な中ではぐくまれたがゆえ、変わることが無かった。

変わらないまま、その技法を真に必要としていた天才の少年に伝わった。わたしである。天才とは、最強、という意味ではない。大きな意思に選ばれた、特別な存在である。

少年は、その技法を必要としていた。その少年が必要だった時に、その技法はその少年の近くになかった。

少年が守るべき人との約束を果たすことができず、悔恨の中でとりつかれるように強さを求めている中で、その動機を知らない楊師から、少年が約束を果たすうえで必要だった技法が、伝えられた。

師の技法は、弱者使用前提の稀有な技術体系で貫かれた「転掌」であった。そこに大きな運命、大きな意思による大きな操作を感じるのだ。

今の私は「身の程を知れ」という言葉が大嫌いである。最も嫌いな言葉の一つである。多くの人間の無限の可能性を奪う、悪魔の言葉である。その言葉を、何度も何度も、何度も・・・言われてきた。

しかし私は、この運命的なめぐり合わせだけを励みに、己の伝承する技法を磨き、伝えてきた。

映画のような戦い方をしないため、すぐにサイトページを閉じられる。「逃げてるだけ」「走ってるだけ」「いつ攻撃するの」「また水式門?ここはいいや」と、初心者にもならないほどの素人から、笑われたこともある。

たまに見学・学習しに来る男性志願者も、単換掌の型を覚えて少しできるようになると、何かを悟ったかのように来なくなる。もうこれで練習できる、これでいいや、と思ったのだろうか。

去って言った者の中で、相手の猛然とした攻撃を単換掌でもって護身することができる技術を身につけた者は一人もいない。皆、力でかなわないときの一つの対処法を、知っておきたいだけの者ばかりである。よくあるのが、午前だけ来て、単換掌を教えると、用事が・・・と言ってさっさと帰っていく。型さえ覚えてしまえばいい、と考えているのだろうか。

今までの多くの工夫をしてきた。再度習いに来ないのは、私の伝え方は悪いのでは?と考えたからだ。※改めて確認のために言うが、技法を疑ったことは一度もない。

しかし、身を入れて練習する気のない者に、何をどう工夫しても同じである。三十数年の歳月でもって、やっとのことでここまで来た技法を、どうして初めて来た、2時間体験して程度のものが、その拳法の有益性を知ることが出来ようか。

現代は、「なんとか○○をしてもらおうと思って○○の試みをする」までして、その道を極めた人間が、初心者になんとか来てもらおうとして、門戸を開いている。私はそれがどうしても理解できない。

転掌式八卦掌の修行は、移動し続ける息の上がる練習が多いため、持続し続けるための明確な目的が必要となる。

気まぐれな通りすがりの人間も同然の、何度言っても、何度アプローチしてもこちらに近寄ってこない人間に。私は、そのような通りすがり同然の人間に、必死になって転掌のすばらしさを説いていた。

水式門軍師門弟曰く、「なんの意味もないこと。もうこれからする必要もない」。

技法を貫け。技法に誇りを持て。あなたの技法は、これまでも同じくこれからもずっと必要である。

一番門弟曰く「少なくとも、あの時、少年はその技法を必要としていた。それが偽りでないから、今でもずっと、毎日練習しているのでしょう?ここで止まったら、あの子が取り返す時、間に合わないかもしれない。止まって遅れたら、止まったことを悔やむかもしれない。だからできることは、今までと同じく、繰り返しを続けること。進み続けること。届かない人間には、何をやっても届かない。必要としてないのだから。」

運命を与えられたと確信している。ほぼ消えかかった転掌技法を、この世に再び出すために、色んなものが流れてきて、時に消えていったと思っている。

消えたものが、あまりに大きすぎて、大きな意思なるものを、憎んだ時もあった。

でももう、それらは取り返すことができないのだ。それが正解であったと認めることは絶対にしたくない。転掌技法を伝えるために、失われたものが失われたと、認めたくない。そんな残酷なことを考えたくもない。きえていくものが無念すぎる。自分は残って、さまざまなことを今でも感じることができるから、こんな勝手なことが言えるのだ。だから決して、転掌の再興ごときのためになんて認められない。

・・・できることは、転掌技法を、全国の必要な人に届けることだけだ。辛い考えを頭から打ち消すかのように、これからも、休まず進み続ける。

それしかない。死ぬまで、身体が動く限り、この道を進むのだ。

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追いつかれるので単換掌を。武器を持っているから何か持て。

何を言っているのかというと、転掌式八卦掌の前提を言っているのである。

練習時あれほど動き続けるのは、振り切るための速度・持久力だけを養っているのではない。対多人数移動遊撃戦時、どれほど敵のいない場所に移動し続けても、どれほど虚をついた対敵身法をし続けても、いずれ必ず追いつかれる。

その時のために、あれほど、単換掌を練るのである。あれは追いつかれた時の保険ではない。対多人数移動遊撃戦は、こちらにとって圧倒的に不利で、相手にとって極めて有利な状態だということを忘れてはならない。あれは高い確率で起こる事態に対処するための、必須の対処法なのである。だから、必ず、気が遠くなるくらい繰り返すのである。

私も、弊門掌継人も、皆同じ道を通ってきた。

よって、単換掌を繰り出すこともなく、戦いを終わらせることはできないと考えよ。私は何度も、武門以外の人間と、例えばジュースなどを賭けて、忖度なしの移動遊撃戦練習をしてらもらったことがある。

当然、単換掌で打つことはできないため、一定時間過ぎると、必ず捕まる。しかし推掌で推し出した際、相手に少し止まってもらうことを約束すると、なんとか逃げ切ることができる。

弟子に指導する際、単換掌などの対敵技無しで、練習をさせる。それは、頭をまっすぐ向けて軸を作り移動することの重要性と、敵に追われている際複雑な技法ができないことを、身をもって体感させるためである。

そうすることで、抓地牢の重要性・頭をまっすぐ向け続けることの意味、そして単換掌しか多人数戦時にできないことを分からせるのである。

単換掌などを一切使うことができないと、逃げるだけで必死で息も上がり、とても多人数戦なんてできないと感じ、ショックを受けるものだ。私もそうだったし、水式門の掌継人たちもそうだった。

そこで、一番シンプルな単換掌を、とにかく極めようと考えるのである。

それと連動して、相手が武器を持っていた時も経験させる。そうなると、素手技法である単換掌では、対抗できないのである。

手を敵に差し出した際、敵の刃物によってその手を斬られてしまう。ではどうすればいいのか。

転掌は、その事態に対処するため、習得すべき術理を最小限にし、その術理であらかたの身の回りの物を扱えるようになる武器術を伝えた。

転掌において、伝説の武器は一切出てこない。そこらへんにある棒や、そこら辺にある木の切れ端、竹などが想定されている。

いい例が遊身大刀である。この武器術に、八卦大刀は想定されていない。物干しざお、竹、長めの木、などが想定されている。よって柄の部分を限定する概念はない。反対側もへっちゃらに持つ。そしてなにより、手の中を滑らせない技法で構成されているため、ある程度の荒れた長棒も扱うことができる。

これは、身の回りの物を使うことができるように・・・が最も言いたくて考えられたのではない。とにかく物を持って対抗せよ、と言っているのである。素手によって対抗するのは最終手段だ、とまで思い込んでもいい。

つまり、相手が素手でも、こちらが長棒を持つことができるなら、とにかくそれを持って振り回し、近づく前に滅多打ちにして身を守れ、と言っているのである。何も卑怯じゃない。それこそが生存第一の昔日の護衛武術である証拠なのである。

だから、それが実行できるために、常に何かを持つことだ。何も持ってないなら、Tシャツを振り回せ。ベルトを振り回せ。もちろん斜め後方スライドしながらだ。面前でとどまっていたら、モノを持っていてもすぐに斬られる。

何の神秘性もない解決策ゆえ、そこで落胆し去る男子修行者が複数人いたことを思い出す。でも、現実を見据えるなら、ぶきを常に持ち続けることは、最高の対抗手段と言える。

女性なら、特殊警棒を持ってもいい。男性だって、職種上危険なら、持つこともいい。道具を持つこと。持つ道具を定めたら、その道具となるべく同じもので、練習をすること。

振り切って逃げきることにこだわるな。どうせ無理だから、単換掌を徹底的に練習せよ。そして武器を持っているのだから、常に何か道具を持て。そしてそれで実際に練習せよ。

その単純な流れを実行・練習することで、あなたの有事における生存確率は、大いに上がるだろう。それこそが、命を賭けた護衛術・転掌の伝える師伝・真髄なのだから。

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軍師曰く「北陸本部はどこに設置する?」

自分だけで判断できないこともある。

ことに、地理的な視点にたった場所の選定については、その土地の事情を知っている者や、地理的位置における戦略の要因について、分析の出来る者の協力・アドバイスが必要となる。

当然、私はそのようなことに明るくない。そこで、門弟の一人に、そのことをよく尋ねる。

彼女は専門家ではないが、その分野に関する勉強は、好きの気持ちから、ずっと続けている。戦略論・兵法・地政学などが大好きで、高校時代は、それが高じて防衛大学校の入試にも合格したほどである。もし防大の試験が兵法とかだったら、首席で合格するんじゃないの?と思うくらい、兵学の勉強が好きだった(当時の彼女の愛読書は、ジョミニの戦争概論)。

現在は中国地方で、のんびりとしている。趣味は、備中高松城周辺で、戦略の勉強をすること、といってはばからない変人である。北陸富山での活動を再開してから、気持ちがこちらに向くようになって、何かと協力をしてくれるようになった。

「北陸地方最大の都市は、金沢だよ」

と言い出したのは、ここ最近のことである。当門弟は、自分が富山に北陸本部を置くことを認めつつも、金沢を抑えることは、譲らずに話す。

「富山は確かに、そこを通らないと東西に移動できない。岐阜からの人の流入も多少期待できる。しかし新潟はどうか?」

多くの新潟人口は、200キロ以上先に集中する。途中、天険親不知があり、かつ、新潟市から富山まで抜けるのは、いまでも果てしない8号線ルートが想起され、精神的な防波堤となり、難所である。

新潟から人はなかなか呼ぶことはできない。富山と新潟では、文化圏が違うのが何よりの証だ、と説明する。

金沢は、北陸地方最大の都市であり、金沢から離れている北陸地方の人間にも、訪問の意欲を湧き起こさせやすい。メディアに取り上げられやすく、注目度が高い。水式門の格式は厳格で敷居が高いため、人が集まる場所で、広く知らしめ変人に出逢う確率を高める必要がある、と説く。

「全て私の分析であり、これをもって性急に判断する必要はない」と言いつつも、「今の時点で富山に北陸本部を置くと決めるのも、性急である」と熱く語ってくれる軍師みたいな門弟だ。

そんな当門弟が、富山に帰郷する可能性を示唆している。

表向きな理由は、修行のし直しである。しかし本当の理由は、水式門の陰の参謀となりたい、のと、倉敷本科開催を阻止するため、の二つの考えからである。前者の気持ちは、大変嬉しい。

戦略的思考に長けた彼女らしい、素直で優しい動機である。岡山倉敷に拠点を置くことを考え、しばらく連絡をとりあって行動してきたが、この気持ちもわかる。門弟は、皆自由である必要がある。今後の動向に注目している。きっと彼女のことだから、北陸に戻ってくるのだろう。

もし本拠地が、富山もしくは石川に設置される際、彼女の協力が間近で得られるなら、それはとっても心強いと感じた。彼女自身、八卦のマスターでもあるからだ。

水式門草創期、まだ梁派の伝承を示して問い合わせもあったころ、練習後に氷見の比美乃江公園にて、未来の門構造について語りあうのが楽しかった。現実的に見ても、不可能と感じなかった。どのような状況下でも、少しの可能性があれば、そこに理由と活路、目的と中間目標、そして具体的方策を即座に見い出す能力を持っていた。さすがである。

当門弟は、その場にて具体策の実行手段すらも提示するため、こちらも具体的行動をリアルに感じざるを得ない。

「ここからは、先生が動くか動かないか、だよ」

と名参謀に言われたら、もはや動くしかあるまい。

現在は、問い合わせも激減し、苦しい中で、厳しい現実ばかりが浮かぶ。しかし当門弟は、このまま水式門が消滅することなど、微塵も考えていない。近い未来、多くの人間に水式門の伝承する転掌式八卦掌が広まり、全国へ展開することを確信している。

彼女の頭の中では、広まるかどうか、ではなく、広まった時にいかに運営していくか、に焦点が定まっている。

「広まって当たり前。その後どうするかの方が、興味があるから。だからここにいるのよ」

彼女はそう言って、広めることに頭を悩まさない。そして躊躇なく行動に移す。

そんな当門弟と行動をしていると、すでにかなったかのような気分となり、練習にも熱が入る。

彼女が言っていた、逆転の発想の一つ、八卦掌水式門を女性専用中国拳法門にする、という案も、真剣に考える時かもしれない。

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何度も打たれ強くなった鉄の意志だから

うまいこと言ってあげようか

意志の強さは「鉄」だね、そう「鉄の意志」。

強いってこと?それだったら、はがねの意志、とかでもいいんじゃない?鉄ってさぁ、燃え盛る火の中で、何度も何度も打ちのめされるんでしょ?そして強くなるんだよね。私はその例を、そばで見てきた。

何度も何度も打ちのめされるには、打ちのめされるたびに、へこたれて脱落してたんじゃ、打ちのめしようがないよね?私って、何度も打ちのめされたこと、知ってるのよね。

いっつも何か為そうとするときに、大きな邪魔や困難がやってきて、いっつも箸にも棒にもかからず、敗れ去ってるの。でも、いっつも、ここで終わるわけにはいかない、自分の苦しみなんて、そよ風だ、なんて言って、毎日、台風の日も、出かけてる。

これから先も、ずっとこのままかもしれないね。下のまま。どこにも行けないかもね。でも、一つだけわかることは、毎日の積み重ねは、これからも続いていくんだろうなぁって、こと。

きっと、本当に身体が動かなくなるまで、続くんだろうなぁ。練習が途切れるのは、きっとその時までないのかも。他の人なら大げさでも、あなたならあり得ることね。

見てみたい気もする。でも正直、あまりにも行き過ぎないでねって、言いたくもなるの。

鉄って、はがねにはならない。強くなっても、ある一定の力の下では、もろいものよ。曲がってしまったら、なまじ強いだけに、元に戻らないじゃない。

そこまでいかないでね、それは見たくないわ。

戦う時、おそらく孤独。大丈夫。苦しいけど進むがいい。

今日の題材を語る者として。語るに足る資格を有する行動をしている者としての証拠を示す。今日9回目の挑戦をする。自分の中で、9回の失敗などまだ少ない方である。講習会などは、すでの60回以上も失敗しているからだ。

だからいつも通り、しかし何かしら前と少しやり方を変えて、今回も進む。

通信講座部「護身術通信講座科」の再スタートだ。決断するとき、自分は一人で決めた。そして迷わず決めた。

言っただろう?私は、全国に転掌の、命を賭けた囮護衛の技術を伝える、と。言ったことをは守るさ。これからも、ドンドン試す。だから君よ、今日の記事をひとまず読んで欲しいんだ。

努力や頑張りが否定される時代だ。でも、繰り返さずして、物事は洗練されない。それは、失敗の中で得た、一つの真実だった。

・・・・・君が取り返すために戦う時、その生活のなかに、立ち向かうための努力の時間を入れた時、きっと孤独になる。

それはほぼ間違いない。周りに人が居ても、いなくても、孤独になる。

私が戦いを決意した時、周りに少しの人が居た。しかし間もなく私は敗れ、そして一人になった。

なぜ拳を握って一人打つのか、なぜ走って走って走り続けるのか、誰にも言うことはできなかった。もちろん親にも。友達?そんなもの、戦いを決意する前から、一人もいなかったしね。

変人だ、逃げるだけの意気地のない奴だ、先生に対する態度も知らない、問題児だ。そのくせ、声を上げる勇気もないのか?ありとあらゆる暴言を浴びせられたが、それでも、自分がしてきたことは、練習と、窓の外を見続けることだった。

孤独だった。それ以後も、友達など一切できなかった。本当のことを、言うことは誰にもなかった。同級生の、特に女子には、本当に嫌われていた。

いじめを題材にした漫画やアニメなんかを見ると、本当に一人、というシチュエーションが、意外と少ない。理解者がいることの方が、極めてまれなのに。ほとんどの場合、いじめられたり、不利な方に、理解者などいない。私は完全に理解者がいない方だった。

ある時を境に、それは当たり前となり、そしてそれが今度は誇りとなり、練習に一層熱が入った。不思議な転機だった。

だから練習は、いつも一人だった。いつも一人だったから、集中できたし、いつも一人だったから、一人で技術を上げるための方法を、常に考えていた。

今スポンジ支柱を使った練習をしているが、あれは、何度も何度も練習方法を考察し、考え出した、一つの「最善」である。間合いの感覚とつかみ、かつ、実際に打つ際の体幹力強化のために利用している。当然、完璧な練習方法ではない。

でも、多くのことを得た。それは、弱者護身の八卦掌を指導する指導者がいない孤独の中で、もがきながら見つけ出した工夫の結晶である。指先第一関節部分だけで、実戦時の思い通りにならない状況のなかで、確実に頸部を突くための、一つの答えである。

一人練習の際、周りから人は襲ってこないけど、徹底的に後方スライドで身体を移動させ身体に負荷をかけ、流れていく景色の中で、目の中に入ってきた支柱の頸部部分を、正確に突く。それを何年も何年も、一人でやり続けてきた。

しかし、対人で行うと、それでも外す。だからまた、家に帰って、いつもの場所で、一人で繰り返す。何度も、何度も。毎日、毎日。

これは練習の苦労話ではない。それが現実だった。動き始めた時、動き始めの高揚感が消えた時、ふと思う。

こんなことをやって、何になる?あの人をいじめた連中は、何の制裁も受けず、あんなにゲラゲラと笑ってるじゃないか!?

でも実は、孤独こそが当たり前だった。人も皆孤独だから、君も耐えろ、と言わない。そんな言葉は、私も本当に嫌いだった。そうでなく、孤独だからといって、君は間違ってない、ということだ。何か大きなことを成す時、孤独は当たり前となる。

きみにとって大きなこと、それは「取り返すこと」だ。

それはとてつもない大きな挑戦だ。そしてそれを成し遂げたら、君はこれからの人生で怖いものが無くなるくらい、大きな見返りが来る。

そんな壮大で悲壮な挑戦に、立ち向かってる君は、間違いなく天才だし、孤高だし、とびぬけた存在なんだ。

天才や孤高の士は、いつの時代も理解されない。理解されないから孤独だ。

私の技術を信じ、ついてくる弟子も、いつも私に生きづらさを語る。求道者の筆頭門弟、鬼っ子の一番弟子、人気に迎合せず、己を磨き続け能を隠す三番弟子、金髪の小娘と言われても、あえてそれを貫き誇りとする、中国地方の雄。

皆、人と違った道に価値を見いだし、進み続ける君の先輩だ。君も孤独なら、私たちと同じだ。きっと君も、天才だ、君の道を貫く天才だ。

誰にも言えなくて、孤独に戦っている君へ。苦しいなら、とにかく歩いてごらん。ゆっくりでいいよ。速くなくていい。

休んだ方がいい、と言わないのは、君が周りと違う天才だからだ。天才に対しては、凡人と違う言葉で接するのが、最低限の礼儀。

私は、苦しい時、孤独に襲われた時、何も考えられなかったから、何も考えなくてもできる練習をして、時間を過ごしていた。

単換掌ばかりしていた時もある。私の好きな、転掌刀術・撩陰刀を、目いっぱいに使って、練習し続けたこともある。

そして、何も考えないでやり続けたこれらの練習は、全く無駄にならなかった。むしろ、いつまでも心に残り、私の財産となった。

苦しいなら、水式門のホームページをみてごらん。直すべきところだらけだろう?それでも私は、この世に、転掌式の技術体系を提唱した。

人の反応など、どうでもいいのだ。自分が信じたならば、それでいい。

私は、今から、再び今日の戦いに出る。

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なぜ八卦掌では君でも達人になることが出来るのか

特別な身体的才能がいらないからである。

バク転する技術も要しない。深淵な持久力もいらない。

人間が、うまれてからの努力で手にすることができる範囲の能力(後天的獲得能力)だけで、八卦掌の達人条件身体能力を確保できるからである。

膨大な筋力も必要ない。動じない精神力も要しない。練習の過程で身につける程度の精神力で十分だからである。

君の練習次第なのだ。

八卦掌的にいうならば、八卦掌の達人としての最低現の要素は、すでに君に備わっている。あとは自分のおもわくどおりにその要素を利用するだけ・・・なのである。

君は、水式門の いじめ護身部~取り返すための技術解説 部分の技術を、まず始めてみて試すといい。頭でかんがえていても仕方ない。行動をし体験することで、いじめ護身部にて説明された、歩き方 すらまともにできないことが分かるだろう。

君が体格に恵まれているならば、いじめ護身部に書かれた内容は不要となろう。弱き立場にて何度も強者の思惑にほんろうされた記憶があるならば、この成立当時の『転掌』技術を学ぶ価値が大いにある。

水式門の伝承する原初八卦掌(楊家伝転掌式八卦掌)では、特に大事な者は以下の点である。

  • 抓地牢(そうちろう)
    • 基本姿勢
    • 対敵イメージ移動
    • 翻身旋理と刀裏背走理を土台とする単換掌の術理
    • 単換掌の術理を前に現れた敵に応用する順勢掌の術理

    これらを、難しい言葉を使わないで、いじめ護身部で示した。

    ちゃんと膝部分(足部分)もさらして演じているため、大いに参考にしてほしい。

    足部分(膝周辺部分)の使い方は、移動武術の極意といってもいい。もし足部分を示さないで「指導動画」と言っている者があるならば、そこの道場は止めておいた方がいい。

    転掌式の八卦掌は、習う技術が少しである。しかしエッセンスのみの技法である。

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    通信講座部|転掌式八卦掌基本講座科・護身術通信講座科始動

    通信講座部は、再び、「転掌式八卦掌基本講座科」と「護身術通信講座科」でもって再始動する。

    ここで使用するテキストは、キンドル書籍における「転掌式八卦掌」の内容を通信講座用に分かりやすく改変したものである。電子書籍では、動画を使用することができないため、写真・図を多用した。そこに、動画付きで解説をしたものが通信講座のテキストである。

    通信講座部|転掌式八卦掌の通信講座部

    そもそも通信講座は、通信講座だけで達人となるものではない。人と人が思惑と思惑をぶつけて戦う技術である以上、人が人とぶつかりあって練習する必要がどうしてもある。しかし、だからといって、一人練習が無意味なはずもない。いにしえの達人は、対人練習の時間をはるかに超える一人練習時間によって、達人となった。

    私の練習時間の比率からしても、5%の対人練習、95%の対人想定練習、である。対人想定練習とは一人練習時間である。中国拳法修行者にとって、その未来を左右する、極めて大きく、かつそのほとんどを占める、大切な時間である。

    通信講座では、本当にたった一人で練習するだけ、では得られない「一人練習の仕方」を指導する。型を指導するだけなら、ホームぺージ上に写真と解説をのせるだけでもなんとかなるからである。通信講座では、練習の仕方、意識の持ち方を、その人の動きを見たうえで添削にて指示・指導するから、踏みこんだ指導ができるのだ。

    確かに、口頭で、直接、その動きをもって、実際に技を受けてもらうのが最高であろう。しかしそんなことを、遠隔地在住者に言っても始まらないのである。近所に道場がない者にとって、大きな味方となるのは間違いない。正確な一歩を踏み出すうえで心強い味方となる。

    では、転掌式八卦掌は、本当に使うことができるものか?使うことができるに決まっている。使うことができないものなら、これほどまで時間をかけない。人生は一度きりだ、そんな無駄なことはしない。

    ハッキリ断言しよう。しんしに練習すれば、当然使うことができるものである。でなければ、清朝末期の乱れきったご時世のなかで、護衛術として成り立たないからである。人が人をあやめることに容赦がなかった時代の護衛武術である。生易しい体系ではない。

    この国の中国武術愛好家らは、独学者が多いくせに、独学・独習に対してたいそう厳しい。独学では100%無理、などと、まるで武術の神様にでもなったかのような発言を、平気でする。こんな無責任な意見に惑わされる必要はまったくない。

    少し先生に就いただけの中途半端者(言っている内容からすぐわかる)に、独学が無意味であると、断言できるはずもない。一通り学びきってもいないのだから。やたらと有名先生に習うこと、有名先生に特別に気をかけてもらうことにこだわり、映画やアニメ世界におけるフィクションを、実際の戦だと思う人間が信じられないくらいに多い。

    でなければ、暇つぶし用に作られた、現実と作り物を混在した「これぞ実戦だ」動画が、あそこまで再生数を上げないだろう。あれはフィクションである。

    通信講座部のバナー

    私が生涯をかけて追い求めていいと考えた技法は、全くの無名の中国人青年から習ったものである。技は3つしかない。その3つの中に入っている身体操作法をもって、4つの武器を使いこなせるようになることをもって、修行を一通り終わらせる。国内愛好家からすれば、無名かつ行方冨不明の先生の、たった3つしかない技法など、とるに足らないものであろう。

    しかし私は、絶対的な自信がある。根拠は?

    それは、誰にも負けないくらい、練習してし抜いて、それでも、伝えられた技法に矛盾を感じず、かついまだに完璧にできないくらい奥が深いものであるから。

    底の浅い、付け焼刃の技法・技術体系であったなら、トータル練習総時間3万8,000以上の時間をもってすれば、あっという間に極めているであろう。でも、この積み重ねをもってしても、未だに極めた、完璧だと思うことができない。まだまだ先に行ける、と感じてしまう(嬉しいことでもあるが)。

    この実感こそが、転掌式の原初八卦掌が、生涯をかえて追い求める価値のある技術であることのあかしとなる。シンプルイズベストとは、よく言ったものである。

    会ったこともないような、見たこともないような、中国人先生の名が付された権威性だけで判断するよりも、はるかに「確か」さがあると感じている。

    その自信の上になりたった技術を、再現・再興した人間(代表・水野)が自ら直接、遠隔地学習者に向けて示す。独りで練習している者・今すぐ護身技術を理解したい者には大きな味方となるのは間違いない。

    とりあえず、9月1日、富山本科だ。上記イラスト中の、遠隔地生として学習し、筆頭門弟になった子に、協力してもらったお礼を言わねば。彼女は、通信講座部の第一番の門弟となり、今は水式門最強の筆頭門弟となった。

    北陸富山本科後、通信講座部の再始動に向け、北陸富山本部で、動き出す。私はすぐに動き出す。

    あなたも、君も、まず動いてごらん。きっと違った結果が生まれるから。

    通信講座部|転掌式八卦掌の通信講座部

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    ジェダイ剣術とまったく異なる転掌刀術

    映画「スターウォーズ」は、以前の作品に比べ、ますますジェダイの力や剣術がクローズアップされるようになった。

    映画本編にとどまらず、多くのスピンオフ作品が生まれ、一部を除き、ジェダイの力にクローズアップされた作品がどんどん生まれている。

    Youtubeでは、ジェダイの剣術を解説するものも多く、その非現実的な技法が、さも現実的に存在するかのように紹介されている。フィクションをフィクションとして終わらせず、フィクションが独り歩きをして、そのまま、現実となっている。

    〇〇トで六十四掌を知った見学者が、実際の六十四掌を見た際、「もっとこうした方が、〇ジのように威力が出せますよ」と言ってきたときは、本当にあきれてしまった。こういうのが本当に増えた。

    転掌刀術も、刀(実際は棒)を縦横無尽に振って、敵と相対するものである。しかしその内容は、全く異なる。

    マスター・ヨーダー?

    ライトセーバーという、自分をも殺めかねない危険極まりない武器が、多くのスターウォーズファン、いや、ジェダイファンにとって魅力的なのだと思う。

    ライトセーバーを持つことを許され、かつそれを操る技術を持っている点、そして操ることに関わるジェダイ内の様々な伝統などが、扱う者の特別感を際立たせる。それに憧れ、その華麗な技法のみを追い求め多くのファンがレプリカを買い、ここで一大ビジネスが行われている。ここがまず違う。

    転掌刀術では、刀に依存する傾向がない。ジェダイは、その者自身が持つライトセーバーに、代替品不可能の意識を感じる。だから、(ジェダイファンは)それぞれのジェダイの色にこだわったり、持ち手の形状にこだわりが出てくる。

    転掌刀にとってのライトセーバーは、そこらへんに転がっている棒っきれである。なんでも良いのだ。切り札的な伝説的武器ではない。何の魔力もない。

    ライトセーバーと違って優れている点は、日頃持ち歩ていなくても、そこらに転がっている可能性がある点である。特別な能力がなくとも、棒操技術さえ知っていれば、戦うことができるのである。

    現代日本では、武器の所持は禁止されている。護身グッズであり、かつ銃刀法の規制対象とならない棒を持っていても、警察にかかると、不審者となる。

    ライトセーバーによく似ている?現実的な形態武器たる特殊警棒は、警察に職務質問された際、突っ込まれ没収される可能性のある、やっかいな護身具なのである。気軽な武器ではないのだ。

    転掌成立時の清朝末期は、国内が乱れていたけれど、庶民は当然、本当の刀を持つことはなかった。許されなかったから。庶民が身を守るうえで、伝説的武器などはいざという時使うことができない、頼りにならない・あてにならないシロモノなのである。

    そうなると、本当に実戦を考えている庶民武術家は、練習でも刀でなど練習しない。棒である。それどころか、刀術を、棒操術に特化させたりする(斬る・刺すではなく、叩く・ぶつけるをメインの技術体系にする、ということ)。

    弊門でも、模造刀は練習で使わない。木刀ですら使わない。使うのは棒である。おおよそ、身長160センチ以下が110センチ・160センチ以上が、120センチの棒を使う。

    そしてその棒は、必ず移動しながら扱う。ここもまったく違う。

    ジェダイの戦闘シーンを見ていると、前敵攻防である。目まぐるしく移動しているが、ほぼその場にとどまり、変則的な攻撃パターンで鮮やかに戦っている。

    多少の移動は見られるが、基本的に敵の眼前にとどまり、テクニックで防ぎ、テクニックで攻撃するスタイルである。その動きは、演武における中国刀術に似たところがある(特に、背身刀部分)。

    その戦闘スタイルは、フォース・先天的身体能力・専門機関での英才教育で刺させられるる。つまり、選ばれしエリートの戦闘スタイルである。

    さいごに、ここが決定的に違うのである。転掌刀術は、身体的資源不利者の、なんとか生き残るためにの生存技法なのであるから。だれでもできるのである。

    しかし、誰でもできる技法で他者を圧倒するためには、誰でも出来る技法を、徹底的に繰り返し、誰でもできる技法を、磨きぬかないと、圧倒できない。だれでもできる技法だから、習い始めの人間でも、ある程度できる。ある程度できるシンプルで簡単なものであるから、ほとんどの人間はすぐ飽きてしまい、洗練される遥か手前で止めてしまう。そこに、繰り返す者・突きつめる者・追い求め続ける者の勝機が生まれる。

    そして夢があることに、磨き抜かれたシンプルで誰でも出来る技法は、十分、一部の選ばれしエリートしかできない技に対抗できるのだ

    八卦掌水式門富山本科イメージ

    女性護身術科は、囮護衛武術の一定時間生存技法を伝承する

    2024年10月5日(土)、愛知本部愛知教室に続き、北陸本部においても、富山教室として、女性護身術科を開催します。

    本日は、八卦掌第7世の一人、修行を一通り終えた者の一人として、女性護身術科について触れたいと思います。

    ※弊門では、女性護身術科に関する一切の名称をすべて仮称とし、術科生の写真・動画も例外なく掲載せず、個人を特定できないイラストとします。インターネット上に画像・名称が流出することを、大きな危険と捉えているからです。ご了承ください。

    富山において女性護身術科に対する需要があるか否かは、正直、開催してみないと分かりません。近代八卦全盛の時代です。それ以外は、亜流などと揶揄されるのを肌で感じてきました。

    よって、水式門では、10月5日(土)・11月2日(土)・11月30日(土)において、試験的な意味もこめて女性護身術科を開催していきます。

    女性護身術科について、一人でも有志が駆け付けるならば、弊門代表・水野は、転掌式八卦掌の清末囮護衛の技術をお伝えします。師は昔より、利で動く人ではありません。私は指導を受けることで、それを強く感じてきました。

    そして、今から以下で触れますが、弊門女性護身術科では、指導者が現在の格闘技に合わせた「護身術化のカスタマイズ」はしていません。

    代表・水野が、清朝末期護衛武術であった転掌式八卦掌を、伝えられたままに、伝承する場です。よって女性護身術科は、護身教室ではなく、れっきとした中国拳法伝統門教場となります。ご理解ください。私自身も、小さい頃からずっと、そのように言われて習ってきたものです。

    女性護身術科詳細

    題名でも触れましたが、転掌式八卦掌は、護身術ではなく、清朝末期の宦官(かんがん)が使用した護衛術となります。

    宦官とは、清朝後宮内で王族や王族寵姫らの身の回りの世話をするために、後宮内にとどまることを許された男性官吏です。血統に疑義を生じさせる一大事を避けるため、彼らはすべて、去勢されていました。術後の処理が不完全な時代です。身体はホルモンバランスが崩れ、排泄機能の低下も相まって、身体が貧弱となる傾向にあったのです。去勢手術による感染症等で、命を落とす者もいたほどです。

    彼らは、通常の、武術を修めた男性に比べると明らかに身体的資源不利者(以下「弱者」と呼ぶ)でありました。

    創始者が宦官であり、かつ彼が宮中内拳法として採用されることをもくろんで創始した武術であるため、強者の力とぶつからない、弱者使用前提の、徹底した移動遊撃戦の武術となりました。

    弊門女性護身術科では、伝承の内容を「護身術化」するなどのカスタマイズ指導はしません。すでに弱者使用前提の武術として成立したものであるため、カスタマイズする必要が無いのです。清朝末期当時の、囮護衛の技術をそのままに伝えることができるのです。

    通常の護衛術と違う点は、直接倒すことを主としないことです。攻防は、自分の身体を後ろに下げ、常に我の身体(肩)を入れながら、我に伸びてくる敵の攻撃手を、後ろに下がって外(もしくば内)に払いながら、いなして防いでいきます。

    いなし防ぐ過程で、敵の横を通り過ぎる「機会」に、スッと手を出し、頸部急所を打ち抜きます。ここで注意してもらいたいのは、「機会」という言葉です。

    積極的に自分から近づいて攻撃するのではありません。移動遊撃戦の過程の中で、転身や揺身行動の中で敵の近くを通る際、間合いがあった時にのみ、手を出すのです。これは、何度も者を打つ練習をしたり、師自身に襲ってもらう中でつかむ感覚です。

    移動遊撃戦の渦中では、敵が多人数である場合も想定されるので、振り向き様に敵が現れる状況も八卦掌は想定しています。そこで移動しながらの電撃攻撃を加え、敵を殺傷します。

    繰り返しますが、転掌式八卦掌は、護衛術であるため、斜め後方スライドによる対敵行動ばかりをしていると、敵に「攻撃の意図はない」と見抜かれ、敵はその攻撃を、襲うべき要人に向けることになります。これでは、護衛術が求められていた宮中内では、御用武術として採用されませんね。

    よって、私たちは後方スライドしてかわしながら、振り向き様に、その場にいる敵に対し、威力のある攻撃をする必要があるのです。そうすることで、敵は要人を安心して攻撃することができなくなるのです。

    「(この邪魔な宦官を)片付けてから襲おう」と考え、要人が襲われるまでの時間を引き延ばすことにつながるのです。

    この「片付けてから襲おう」の段階で、鍛えぬいた移動遊撃戦を展開し、出来る限りの長き時間自分に攻撃の目を向けさせるのです。ここで囮になるのです。この囮としての護衛行動が時間稼ぎとなり、味方の救援まで持ちこたえ、王族を守ります。

    しかしこの護衛法では、(相手が有利である点からも)衛者は命を落とすことも考えられます。しかし当時の、満州民族支配社会の中では、落命も名誉につながったです。

    女性は、将来誰か(我が子や家族など)を愛しいつくしむ立場になりやすく、かつ、男性よりも相対的に、強者の暴力にさらされやすい立場にあります。

    水式門における女性護身術科では、この「移動遊撃戦」をしっかりと伝承させていきます。私は女性の中では割と身体が大きい方でしたが、高校にあがるにつれ、男性と女性の体格差・筋力差を実感し、一層、転掌技法・術理の合理性を知ったものです。

    もしあなたが、護身というものを真剣に考えるならば、映画やアニメのフィクションにとらわれず、現実的目線で進路を決してください。北陸の女性有志は、2024年10月5日(土)に、ふるってご参加くださいませ。

    女性護身術科詳細

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    教室にとどまらないため「単招式」をやるんだよ

    八卦掌水式門の『最低限の時間で仕上げる八卦掌原型「転掌」式弱者専用護身術』では、単招式をとりあげてない。時間がない、そして、当面重要でない、からである。

    しかし、いじめ護身部|辛いいじめと戦う護衛武術「八卦掌」護身術では、そうはいかない。必要だから、そこに単招式の指導が加わる。専用の動画まで、作成した。

    なぜ必要なのか、それは、狭い教室から抜け出すため。その狭い、誰も助けてくれない、君にとって不利な場所から、その身を離脱させるために、単招式が必要なのである。

    ある一つの戦いにおいて、指導している4つの単招式すべてを使う必要があるわけではない。しかし4つとも知っておくと、前方向に現れ、君が自由な地に移動する際に邪魔をする敵を、いかようにもやりすごすことができる。

    電撃的におそって、ひるんだすきに、離脱する。実際の戦争・戦いにおいては、「血路をひらく」ともいう。

    古来の戦争では、取り囲まれた部隊が、敵の一面に強襲を敢行し、その部分の敵を倒して包囲網に穴をあけ、そこから敵包囲網外へ突破移動することが行われた。

    もちろん、いじめの戦いでは、取り囲んだ同級生の命をおびやかすことなど、あってはならないことだ。

    しかし君が教室にとどまっていては、狭い空間、ともすれば敵の頭数が増える可能性もあるため不利なのだ。順勢掌の術理である「前敵スライド回避攻撃」を行って、敵を振り切りつつ、攻撃、そして足が止まった瞬間に、距離を拓き、囲みを突破する。

    そこには、広い世界が広がっている。味方・助っ人などはいないが、君が練習してきた技術を、いかんなく発揮することができる広い空間が待っているのだ。

    先生に怒られたらどうしよう →→ 先生に怒られることのすべてが、正しいわけではない。君は、自分自身に危害が及ぶのをさけるために、やむを得ず電撃突破をしたのだ。合理的な理由がある。

    失敗して突破できなかったらどうしよう → 何度も突破を試みよう。狭い空間だ。自由移動がしにくい、その狭い場に居続けたならば、君は高い確率で捕まってしまうことになる。

    思いだして欲しい。君の戦いでは、全員を倒す必要なんてない。戦いの流れはこうだ。

    理不尽な要求がやってきたら、とにもかくにも、拒否する。嫌だね、お断りする、そんなことはしたくないね、と。

    暴力をちらつかせたり、何ら行ってくるかもしれない。しかしすべて無視でよい。いじめに正当性など、一切ないからだ。何を言われても、全く気にすることはない。とにかく、先制攻撃に気を付けよ。距離を無意識に保つのだ。

    敵の攻撃。すぐに斜め後方スライドせよ。戦局を見る。その場が広い空間ならば、引き続き移動遊撃戦で攻防し、引き釣りまわすこと。それだけで、君のすごさと、いじめ連中のふがいなさを見せつけることができる。

    頃合いをみて、突然一人のてきに猛然突撃せよ。ひるんでも構わず、連続攻撃で集団の外へと移動せよ。そして離脱行動を開始する。戦いの場となった教室を後方へ置き去り、先生も無視すること。

    校外へと離脱せよ、ここまで離れるから「離脱」である。当時の連中は、ここまで離脱することをもって「脱走癖」と呼んだ。何を言ってる?助けもしない連中のたわごとである。

    古来より、戦いの終盤において、弱者が頃合いをみて戦線離脱することで身を守るのは、正当な手段であった。敵はそれゆえ、思惑を失敗するのである。因縁の都度拒否し、そして手を出して来たら、かわし続け、電撃攻撃し、ひるんだら離脱せよ。

    その先に、取り返す君の時間が待っている。

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