武術界に絶望している←最高の原動力

武術界に絶望している。なぜなら、武術と格闘技をごちゃまぜにして、どちらに居るとも気づかずさまよっている人間たちが、表通りを歩いているからである

私はいつも、渾身の力で作成した動画や情報を発信すると、無反応であったり、ひどい場合マイナス評価を付けられることに疑問だった。

でも分かった。格闘技中継を見て、それらを「本当の戦い」だと勘違いしている人間が圧倒的に多いからである。戦う必要もない、戦いについて覚悟もないサラリーマンが、空いた時間に暇つぶしに見ているのだから、響くはずもない

だから有名動画でも、格闘家が合気道に挑んだりするようなしょうもない暇つぶしにしかならないような動画が、圧倒的に氾濫するのである。つまらない。実際の戦でも何でもない。お金のために、互いにつるみあっている。お金の臭いしかしない。理念を感じないのである。

おそらくそういえば、きっと理念を打ち出してくるだろう。しかし行動がすべてを物語る。

そもそもYoutubeは暇つぶしをしにくる暇人のツール。ショート動画ができてその傾向はますます強くなった。同じような動画ばかりだ。AIの出現で、動画中のイラストも、生気のない同じような気持ち悪い顔した画像で構成された動画があふれてかえっている

ビジネス系なら、成功法則。オリジナルならいいが、他人の動画をパクった、有名著者の考えを編成して流すものばかりだ。まったくオリジナル性がない。チャンネル登録者数が万人単位であっても、関係ない。内容がそれだから響かない。

生き方系動画で、すごいチャンネルを見つけた。登録者数が20人程度である。90本近くも動画を出しているのに、である。

変わっているのである。その人が。最初は、見るに堪えない、と思ったが、それがインパクトになり、引きつけられる。生き方について説く内容は、多くの人が話すのとあまり変わらないが、例えがオリジナルなのである。感情的で、そこがまた、人と一緒に見づらい。しかしこれこそ、真の個性だと、感じた。

万人単位の登録者なんて、その動画の価値に何ら関係がない。私の動画サイトは、登録者数が500人程度である。しかし動画の内容は、ヤンキー格闘家や魔術系武術家のものよりも、はるかに学ぶことができるものだ。

おもしろくない?結構。私は、お笑い動画をあげたいんじゃない。暇つぶしどもの時間つぶし動画を提供したいんじゃない。

動画を上げると、最初はどんどん登録者数が下がっていく。そしてあとあとになって、一気に伸びるのである。再生時間も、後々で徐々に増えていく。それはどういうことか?私の動画に価値を示す、なかなかの者どもがいる、ということだ。

護身術にいらないもの。美学と美しさだ。

暇つぶし系動画を提供する連中は、この二つをやたらと強調する。もっとも実際の戦いで必要ないものを重視するのだ。そのような動画があふれかえるので、ほとんどの連中はそれらに洗脳され、私のように戦いの本質を突く動画にマイナス評価をつけるのである。

武術に美学はいらない。護身術サイトを運営している道場主らが、よく、護身術における各自のこだわりを語る。しかし護身術や武術に美学やこだわりはいらない。襲ってきた人間から身を守るための行動をとるだけなのである。かっこいい、美しい制圧術なんていらない。ただ己を守るための行動をとるだけである。

私は金沢で指導しようと試みて、失敗をしたようである。ここに続ける決意、成し遂げる行動力を持った人間はいないようである。まだ4か月だよ?というかもしれない。しかし4か月も募集したのである。それでも来ないのだから、ここに需要はない。もしくはやり遂げるだけの気概を持った人間はいないのである。

有名になったら来るかもだよ?有名になってから、のこのこと来る人間に、正直用がない。

有名無名を、選ぶ基準にしているから、いつまでたっても本当に止まる場所を見つけることができないのだ。次から次へと、色々な理論を持ち出して愛好家の興味をそそる誘惑なるものが出てくる。雑誌は、人が飛びつきそうなものにぶら下がり、それをおおきくあおって、そこから湧き出る利益をもらっているのだ。

そのような人間たちは、次から次へと場所を変え、やたら習ったものばかり増え、こともあろうことにそれを吹聴する。私はそれを聴いて真っ先に足元を見、試し掛けの場合の動きを見る。本当にものになっているかもしれないからだ。しかし、そうであった場合は一度もなかった。

自分の軸を欲しければ、自分の目を信じよ。雑誌に出ている、○○先生伝、そんなものはみじんも関係ない。対応できるかできないか、それだけである。

対応するためには、自分の目を信じ、自分の身体がいいと思うものを見つけ、それがなんであれ、それを信じて取り組み続けることだ。安易にキックボクシングの戦い方に同調するな。組手で100戦100敗でもいい、最初は。そこからつかめ。間合いを。どこに移動したら自分攻撃は当たり相手の攻撃は当たらないから。当たらないために、どの技術が必要か。それは相手と相対して、研さんを積まないことにはわからない。

選ぶのに、人の基準を用いるな。私は、最初に出逢った本の著者の道場に行かず、名もなき中国人就労生先生の教える公園に通い、大きな違いを得た。梁派八卦掌の伝人になれば、その名のもとに生徒も集めやすかったかもしれない。しかしその道を本能的に避け、それが大きな違いを生じた。

人と同じ。昔からあるモノに追随。長いものに巻かれよ。

現存武術界にみられるそれらの停滞に、私は絶望し、今ここに、転掌復活を宣言する。

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