私はプロの武術家であり、転掌のグランド・マスターである

冒頭から、今更ながら当たり前のことから入った。しかし、すべての出発は、題名にある、当たり前で普遍的な真実の宣言から始まる。

私なんて・・・。末席にでも・・・。私はそれらの言葉が大嫌いである。「そう言っておけば角が立たないだろう?」

しかし全く人なんて馬鹿にしてない。自分はこうだ、と当たり前の真実を宣言しているだけである。そう言っても「うぬぼれ」だと言ってくる人間もいた。「集まりの場では言うことも必要だ」とも聞いたことがある。

解決策は簡単である。そのようなことを言わないとうまくいかないような集まりの場には、行かないことである。自分は至らない、という発言は、多くの望ましくない現象を引き起こす。そのようなものを引き起こすならば、その場に行かなければよい。

私が他の武術家とつるまないのは、そのためである。私は事実の通り、朝から晩まで、そしてこれからもずっと生粋のプロで、最高のグランド・マスターであるのだから、その事実に、ほんの少しの泥もかけたくない。

よくない現象、それは、知らず知らずのうちに、自分に対して限界を持ってしまうことである。

自分に対する限界を作ってしまうと、それ以上先に進むことが困難になる。行き詰った時、そこで言い訳に走る。行き詰まりは、行き止まりでもなんでもない。ただ単に、そこで行き詰っただけだ。すぐに穴は空き、事態は変わるのに。

行き詰った時考えない方がいいことは、「もうだめだ」である。かといって、無理に前向きに考えろ、とも言わない。そんなこと考える必要もないからである。ただ何も考えない。それで十分なのだ。

私はこれを誰よりも言う資格がある。追い詰められたのに打開もできないとき、私は今まで通りを繰り返した。安っぽいスピリチュアル動画だと、そこで奇跡は起こる。しかし私は何も起きなかった。もっとひどいことも起こった。大切な人を失った。家を失って車中生活に三回なった。親を亡くし、死に目にもあえず、葬式にも行くことができなかった。それでも今まで通りを繰り返した。

人に批判され、役人に見下されても、己の毎日のルーティンを変えなかった。

何も起きてない時に、「苦しい時は○○しろ」と言うのは簡単である。しかし私は、その時も本当に、今までどおり、改善もせず、日々を実行し続けた。そしてそれが実は、今私持っているゆるぎない確信の最大の源なのである。

今までやってきたことを、ただ繰り返すだけである。行き詰った時は、たいがい精神的に苦しくなっている。立ち直れないと思う時もある。そのようなときに、ポジティブに考えようとすると、余計に負担がかかる。自分が以前住んでいた愛知県は、トヨタ自動車の影響もあり、中小零細企業でも、「改善」を採り入れる。本当にあれが嫌いだった。あれが嫌いだったから、愛知県も嫌いになったくらいだ。

事態を打開する必要もない。自分を信じるのみである。トヨタ系の人間は、他人(おそらく大野耐一)が考えた思考の一つを、貴重な自分の中に無理に取り込む。心酔して取り込むならいいが、ほとんどの人間たちは、会社の業務命令のために、そう考えるのである。寒気がする世界だった。

行き詰まるということは、「自分」という宇宙が、それだけやってきた証なのだ。自分のすごさを信じきって丸投げをし、何も考えず、改善などというしょうもないこともしようともせず、ただ繰り返せばいい。少し汗をかき、気持ちも変わるかもしれない。かといって、すっきりしたことで苦しさがなくなるわけでもない。でもそれでいい。自分が心底、自然に、気持ちいいと思ったのだろう?人に押し付けられた思考のフレームワークで生じさせたものより、はるかに価値がある。いや、くらべものにならない。とにかく、惰性でもいいから、繰り返すだけである。

的を外す、やたらと息があがってしまう、やたらと棒をつかみ損ねる、これだけ毎日動いているのに体重が増えた・・・すべて全く問題ない、すべてオーケーである。なにが起きても、繰り返せばいい。あえて言おう。これまでの君の積み重ねは、そんなことどうでもいいくらい、すごいのだ、うまくいかないことは、君を下げない。行き詰まりの時生じる事象ごときは、君を下げられないのである。君が自ら自分を激しく攻撃して下げない限り、下がることはない。

定期的に、惰性で、行う。それは実は、前に進むうえで、十分プラスに機能する。何もしなくても下がらないのに、惰性でもいいから動いているなら、下がるわけないだろう?

私は完全なプロ、グランドマスターだから、何も躊躇せず、転掌・八卦掌を指導する。私は近代八卦も膨大な量を積み重ねたし、そのうえ八卦掌の原型・転掌を再興させたのだから、国内外の誰にも劣らない八卦掌・転掌のマスターなのである。

だから私は、董海川先生と、楊コクチュウ先生、そして最高の師である水野義人宇宙先生以外、誰にもへりくだることはない。礼節は当然に尽くすが、自分を下に置かない。

董先生は、私が大好きで夢中になる、いつまでたっても上を目指すことができる技術体系を、この世に具現化してくれた恩人である。感謝しても感謝しきれない。

楊コクチュウ先生は、その具現化された、行き止まりのない技術体系を、私に教えてくれた。私の姿勢だけを評価し、色眼鏡なく私を信じ、伝えてくれた。そのおかげで私は、近代八卦から転掌へと移行する大きな飛躍を得たのだ。感謝しても感謝しきれない。

指導経験も圧倒的に長いうえに、イノシシや狂暴化した野犬、複数人の侵入者と、身の毛もよだつような実戦経験もしている。プロとして最高の経験をしており、なんら不足もしてないのである。

わたしが国内で最善・最高である。私の目指す境地において、他者の下に少しも置かれてないからである。他人の境地は知らない。他の武術家と比べることなど一切する必要もないから、当たり前に最高なのである。

私の優秀な弟子が、いいことを言っていた。「達人に必要なのは、対応力」だと。きっと彼には、もっと深い考えもあろう。しかしこの言葉だけでも、十分素晴らしい。明晰な彼は、今この瞬間も先に進み続ける天才である。

自分の心が示す行先に忠実になり、進路の変更や変化を恐れない。イメージした「目的に続く進路」へのこだわりを捨てて、引き続き進み続ける。これは、自分に対する揺るぎない信頼があるからこそ、自然にできることだ。

今このブログ文章自体、自分に忠実に書いた結果だ。どういうことかって?

明かそう。ネット上であふれる、「ブログ記事の書き方」のセオリーをまったく無視して書いているのだ。その文の書き方が、人の共感を得るから、そのように書く。しかしそのような書き方では、私は面白くないのだ。自分が出ない。自分を表現できない。最高の存在である水野義人というグランド・マスターを表現できないのだ。

起承転結など、くっそくらえだ。だから出版社に、あれこれ言われるのだ。それもいいだろう。無視されるのだ。それもいいだろう。

口を挟まれ、相手にされなくても、自分は変わらず最高の職業武術家である。プロである。現世最高の、グランドマスターである。

だから私は、いつも習いに来る人間に、転掌の原則をしっかりと実行させる。まだ何も知らない者に、口出しさせない。自由にやらせるのは、どうでもいい箇所だけである。

八卦掌や転掌を習いに来たのなら、未熟者は、一通り習うまで、素直に習え。何も知らないのに、この方がいい、と、積み重ねられた原則術理にケチをつけるな。だから私は、見学しに来た者が次から来なくても、落ち込むことはないのだ。何も知らない人間が、一度の見学ごときで、「これはいい、これはだめだ」などと性能を評価できるはずがないからだ。やりたい、やりたくない、が判断できるだけである。

転掌と八卦掌の指導をするとき、私の胸は否応なく高まる。楽しくてしょうがない。世界にとんでもない勢いで広がっている転掌を感じる時が、最高にいい瞬間である。これからもずっと見ていく。海で砂浜に立っている時も、木々の中で野鳥たちを見ている時も、浜辺で延べ竿を伸ばして釣り糸を垂れている時も、心には転掌の拡大が見えている。

だから堂々と言えるのである。八卦掌を習いたければ、私の元に来い。転掌を習いたければ、私の元に来い。金沢の人間は幸せ者である。今行動しないと、後悔する、と。大切な人を守りたければ、私の伝える転掌が最高である、と。

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