今こそが、何かを成す時である。今この瞬間、ブログを打っているのも、成しているから成しているのである。
ブログを打つ時に、戦略的な意図はない。思いついたたくさんのことの中で、打ってもいいと思ったものを打っているのである。
私は、私に続く者たちに、なってもらいたいものがある。グランド・マスターである。私は、200年前の天才の生まれかわりと信じることができるくらいの、天才である。今までの巡り合わせを見れば、それが分かる。
そんな200年に一度の天才であっても、後に続く者には、私のコピーになるのはやめてもらいたい。なぜか?後に続く者たちも、形を変えた天才だからである。人まねをして可能性を削いでもらいたくない。
後に続く天才たちが、その人だけの道を歩くとき、天才が天才たるゆえんとなる。前にも打った、一瞬で達人になる方法。あれは信じて疑わない、唯一の達人になるための方法である。
達人になったからわかるのだ。人まねは、あっという間に終わることを。人から一通り教わって、その後が本当の修行なのである。そしてその段階はとても楽しい。色んな気づきが、ちょうどいいタイミングで現れ続ける。それを夢中になってこなし、クリアしていく。ふと気づいた時、今まで何としても到達すべき課題、と思っていたことが、はるか後方に過ぎ去っている。
気づいているはずである。こんなことができるようになった。あんな気づき、昔は重要と思わなかった。今克服したい課題は、どの本にも書いてないこと。私が重視していることを人に話しても、「そんなことどうでもいいじゃん」と言われたりする
Youtubeのコメントを受け付けている時、転掌に関するコメントは、本当にひどいものだった。何も知らない人間であることが丸出しで、自分ならどうでもいいことに固執して批判しわめている。
こんなしょうもないコメントで、いじめ護身部の志ある少年の決意が鈍るのが嫌だったので、オフにした。武術経験者を按にほのめかして、さもすべてが分かったかのように転掌の批判をしてくる人間もいた。上からの物言いのなかに、自分のスタイルを押し付け誇る意図が見えた。そんなことをしても何もならないことにすら気づいていない。
そんな雑音以外の何ものでもないものに遠慮せず、堂々と宣言すればいいのである。200年に一度の天才が言うのだから間違いない。董海川先生の生まれ変わりたる私は、今董師の人生を追体験しているのである。
中学生の時、関東で転掌の伝承者に出逢ったことは、私の道を求める気持ちによって引き起こされたもの。人を守るための戦いに敗れたことも、何か大きいものの意図である。