拳士最大の闇~暗黒面に堕ちないために

映画のような題名である。しかしこの道を真摯に追い求める者にとって、これは切実な問題である。

一日何時間も、人を打つこと、倒すこと、果ては〇すことをイメージして練習していると、それがだんだん、当たり前になってくる。目つきが自然と変わってくる。考え方が、平和から闘争へと変わってくる。

「思考は現実化する」という。ナポレオン・ヒルの著書ではないが、人の思考・考えていることは、同じような思考を招く。闘争の心を持つ者が近寄ってきたりする。

八卦掌の歴代拳士の中には、非業の死を遂げた者がいると、師からきいたことがある。そして、他の門派まで広げるならば、その数は実に多い。非業の死を遂げなくても、越えてはいけない一線を越えてしまった者があまた存在する。

武術をやっていない一般人に、修めた絶手を使用し、その命を奪ってしまう者。それが伝説となっている場合もある。最も非難されるべき所業であるのに。

以前自分に、その者が取り組んでいる武術(確か形意拳、であったと思う)において、日本人大好きの「発勁」を効かせて打った時の破壊力を大きさを、熱っぽく、自慢っぽく語ってきた者がいた。

「そんな威力で打ったら、どうなっちゃうと思う?」との問いに、「死んじゃうよね、そして、その周りの人間は地獄の苦しみを味わうだろうね」と答えるしかなかった。

その者と一緒に、破壊力を喜び合うことができなかった。命を奪うって、そんな生易しいものじゃない。そこから生じるものは、恨み・時が止まってしまうこと。どうしようもない無念。遺された者は、「救えなかった」というどうしようもない後悔。

だからこそ、練習でも、鬼のような形相で練習するのだ。真剣なんだ。絶法(終わらせる法)なのである。真剣な、想いを込めた行為を「重い」と言って、凡人はバカにし、敬遠する。だから凡人なのだ。皆が流されて生きている領域から抜けることをしない。一歩飛び出た世界に踏み込む勇気もないので、真剣な気持ち、一生懸命な気持ちで何かに向き合う人間を「重い」と嘲笑って自分を納得させているのだ。

その者が凡人かは知らない。しかし、そのような重みを感じられなかった。絶法など、ロマンでも何でもない。人の命を奪う、悲しい技法である。多くの悲しみを生み出す、最後の手段である。生み出すものは、襲われた者の「生存」のみ。きわめて得るものの少ない、悲しい法なのである。

楊師より聞いた、八卦掌の著名拳士(名称は伏せる)の最後は、哀れなものだった。己の実力が、自身の正気を奪い、倒しても倒しても飽き足らず、最後には錯乱状態の中、固い木に渾身の体当たり攻撃をして、命を落とす、という内容だった。

悲しい。何も生まない。後世の者たちは、このような逸話を、「道を追い求めるがあまりの達人」としてプラスの伝説にするのだろうか。しかしきっと、この拳士と直接かかわっていた周りの人間たちは、地獄だっただろう。この者の殺められた人間の身内の者や、この者の周りで、この者と関わらざるを得ない人間は、つらかったと思う。

楊師は、伝える人間を厳格に選べ、と私を戒めた。楊家転掌門八卦掌の門伝である。転掌3世であり、転掌門八卦掌である宗師は、単換掌理の安易な改編(真剣な改編はいい)と、安易な伝承を戒め、これを門伝とした。これは楊師も言っていたことだ。グランド・マザーの宗家は、宮女である。宮廷内や中国国内での、安易な命のやり取りの影に見える悲しみを、身をもって知っていたはずである。

もし武術を練習している者で、この記事を「おおげさ」と感じるならば、少し考え直した方がいい。大げさと感じるのは、そこまで切迫感を持って取り組んでいない可能性がある。それは練習が足らない、とかではない。真剣さが足らないのである。転掌は、人の命を奪う技術の週体系である。それは転掌に限らない。形意拳も、太極拳もそうである。

拳法を練習する者は、最強であると自覚する必要はない。しかし、自分の取り組んでいるものが、いざという時、襲撃者の命を危うくさせる可能性があることを、日頃から感じておくことである。それは趣味で楽しく行うものではない、人の命を左右する重たい技術なのである。練習をしている過程の中で、自分の練習しているものが客観的に見てどのような結果を生むかを考え続けるのがよい。

だから私は、技法を人に見られたくないのである。技を盗まれるとか、そんな見当違いなことではない(写真を撮られたことは何度もあるが、面白がって撮っただけ)。人に茶化されたくないのだ。凡人に軽くあしらわれるなど、もってのほかだ。そんな気軽なものじゃない。そんな気軽じゃない覚悟で向き合っている時間を、何も知らない無礼な人間に邪魔されたくないのである。

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