水式館が梁派八卦掌をおおやけに指導しない理由

なぜ私は、水式館の指導内容から梁振圃伝八卦掌を外したのか。

よく言われるのが、以下のものだ。

指導許可をひっくり返されたから・・・・違う。一度指導の許可を得た者は、例え師の意向による翻意であっても、その許可は取り消されることがあってはならない。水式館では、一回伝承活動を公認した弟子に、その公認を取り消すことはない。

そして、許可を受けた頃より今の方が、圧倒的に近代八卦掌の技術は上がっている。今の方が、指導する資格、とう視点から見るならば、ふさわしい立場にいる。もし私が教えていい、と自分で思ったならば、今すぐにでも指導を再開する。当たり前である。

梁派が強くないから・・・違う。梁派は、多くの名手を生んだ名門である。強くない、真実でない、などということは断じてない。これも、歴代拳士が生み出し、伝え続けてきた、ひとつの「真実」の形なのである。

ではなぜ教えないのか。正式伝承者などという、実戦においてどうでもいいことにこだわる者が多い日本人の中にも、変わり者がいる。習いたがる者はいるだろう。

それは、身を守る技術、そして大切な人を守る技術として教えたいからである。梁派八卦掌は、その技術体系としてふさわしくないと確信しているから教えないのである。整理して言い換えるならば、以下の理由からである。

  • 弱者たる者に、護身術・護衛術として指導したいから。
  • 習得までに時間がかかるから。
  • 習得しても「相手次第」であるため、勝ったり負けたりするので、護身術として最適でないと考えたから。

先ほども触れたが、梁派八卦掌は、多くの高手を生み出した名門であり、その技術が価値がないなんてことは、決してない。

その技術体系に、私は限界を感じたのだ。強者であるならばいい。そして強者になる時間がたっぷりとあるならいい。しかし私は、今そこにある危機に対応することを強いられている、身体柔弱なる者・・・つまり「弱者」に護身術・護衛術を教えたいのだ。

梁派は当然、弱者でも始めることができる。しかしその弱者が強者の暴力から身を守るために、自分自身が強者になる必要があるのだ。自分を襲ってくる者とは、おおかた強者である。自分より体格が大きい。自分より筋力がある。(女性であるならば)男性である。(老人・子供であるならば)身体の動く若者である。

弱者がそのような者たちの、理性のブレーキを失った暴力から我が身を守るためには、何かしらの技術が必要となる。

梁派は、技術によって強者の攻撃をしのぎ、技術によって強者を倒す道を選んだ。敵の眼の前から我が身を完全に逃がす道を採らなかった。最後は「倒す」ための攻撃のために、我が身を敵の前に留めさせるのである。そのために、梁派を志す者は、弱者で在り続けていてはならないのだ。

梁派の修行者は、強者になる必要がある。梁派の指導者レベルになった者として言わせてもらうならば、手元の高度な技術である。螺旋功・浸透勁・発勁などが登場する。これらの、難易度が高く、かつ容易に教えてもらうことができない技法に頼る。それらの技術を、師から学ぶ段階に至るまでにも多くの時間がかかってしまう。

護身術を志す者は、今そこに脅威があるから、志すのである。趣味で志す者は、今そこに在る危機に直面しておらず「時間」があるため、ここでは触れないでおく。護身術を趣味で取り組む者が多いことは、日本ならではの特徴ともいえる。

梁派が成立し、梁派門が発展したころから、目的が大きく変わってきた。他門派との手合わせで、その強さを見せつけることが大きな目的となった。当時の手合わせであれば、命の危険もあったことだろう。しかし強者が弱者を食い物にする、転掌の想定した「実戦」とは違うのである。

同じ体格の者同士・同じ技量程度の者同士が、互いの暗黙の約束のうえで、交流という名の手合わせを行った。公式の試合も、このころから発生し始めた。試合であれば、審判が存在する。試合の形式が確立されていけば、厳格な階級制が生まれ、体格差も問題とならなくなる。

このように「試合」は、命を守るために戦う「実戦」とは全く違うのである。試合・他門派との手合わせで勝つことを至上命題とした近代梁派八卦掌では、護身術として最適でないことは容易にわかる。

護身術の条件は

「相手次第」ではなく「自分次第」の技術体系であること

の一択だと信じている。

なぜなら、勝ったり負けたりしていては、護身術として成り立たないからである。多くの道場が、「勝つ」ことではなく「負けない」ことを目指す護身術といいながら、我が身を最も危険な領域である「敵前」から逃がすことを教えない。「倒す」から「負けない」への目的の変更はいいのだが、目的を変更しただけで止まっている。

では、近代八卦掌で「自分次第」することはできないのだろうか?そんなことはない。近代八卦掌でも「自分次第」を実現できる。それは、近代八卦掌が指導する、敵の力をやり過ごすための高度な技法を完璧に実現することだ。

だから近代八卦掌は、エリートの拳法なのである。一部の、指導者レベルに達するほども者でしか、使いこなすことができない(のだろう)。私は、長いこと練習してきたが、梁派の説く技法のみで「自分次第」へとシフトさせることができなかった。あれだけ練習しても「自分次第」へとシフトさせることができなかった自分は、人を、限られた時間の中で「自分次第」への領域まで導く自信がない。

自身が確立した、楊家の転掌式の八卦掌は、私に続く後進をも「自分次第」へと導くことができる武術である。ただ後ろに下がるだけ、と揶揄されることがある。しかしそのような連中は、「どんなときでも生還する」ための技術体系の中身をしらないのである。

知っていたら、敵とぶつかる体系に「誰でもできる」「力がいらない」などと書かないだろう。

しかし私の門の中から天才が現れ、梁派の技術でも、護身・護衛を高い確率で実現することができる技術体系を確立したならば、それは何の遠慮もなく、教えてくれればいいのである。

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