「良師三年」の本当の意味~先生探しは時間の無駄である

あなたが今でも、「良師三年」の言葉に影響され、有名先生に習いたいと思い、先生を探す放浪の旅をしているなら、そんな無駄なことは今すぐやめてしまえ。

あなたは今すぐ、その場で、あなたが今まで習ったものを復習するのがいい。

良師三年。日本でやたらと有名になった言葉である。それは、日本人中国拳法愛好家が大好きな漫画による影響だろう。

私はこの言葉を、高校生の時、転掌の楊師より教えてもらった。

愛好家が言っている「良師三年」とは、全く内容の異なるものだ。楊師は言った。

『どんな先生でもいい。どんな武術でもいい。簡化二十四式太極拳でももちろんいい。その先生が、健康法としての武術しか知らなくてもいい。その先生に教わった技を、術理を、自分の身体で完全に再現できるようになるまで、徹底的に繰り返すことだ。やり込むことだ。

戦うのは、その先生の身体でではない。お前の身体で戦うんだ。仮にお前が武術界で名を馳せた先生に習ったとしても、戦う時はお前の身体で戦うんだ。それを忘れるな。

お前の身体は、やればやるほど、その技をより高い次元でできるようなるヒントをくれるようになる。転掌で言ったら、小成と言われる3年くらいから、そのヒントを身体がおのずと教えくれるのだ。

もう分かっただろう?そうだ、3年くらいから、お前の身体が、お前の身体でより高度に実行し得るためのヒントを、勝手に教えてくれるようなるのだ。外部の先生は、お前の身体と同一ではない。よってどれだけ高名な先生であっても、どれだけの名手であっても、お前の身体にとってベストの技法を教えることができないのだ。

私はお前に転掌の必要にして十分なものを教えた。それは技だ、術理だ。あとはお前がやり込んで洗練させていけ。迷ったときは、できないなりにただ繰り返せ。お前は「○○ができなくなった」と言ったが、横から見ていても、今の方がうまくいってるように見える。

それくらい、外から見ている人間には、お前の中で起きている感覚がつかめないのだ。お前が一番知っている。

お前の身体は間もなく、お前に多くのことを教える「良師」となる。いいか水野、良師三年とは、そういうことなんだ。有名な先生とか、歴代の達人とか、そんなんじゃない。

私はそのことが当たり前だと思った。しかしそのことを理解している人間は、どこにもいなかった。指導者にもいなかった。

水式館では、掌継人となった後、その弟子に自由にさえるのはそのためである。自由の範囲は、練習はもちろんのこと、指導・発信なんでも自由だ。自由にしておかないと、その弟子にとって最良の師の指導の邪魔をしてしまう。掌継人になった弟子の身体は、間違いなく良師となる。あとはその先生に任せるのみだ。そうすることで、その弟子はとてつもなく成長していく。

ブルース・リーは私と同じようなことをいう滅多にいない先生だ。私がブルース・リーが好きなのは、わたしと考え方がそっくりだからである。やはり天才同士は考え方も似通ってくる。

彼も弟子に、自分のコピーとなることを戒めた。だから彼は、ジュンファングンフーではなく、ジークンドーとして、その伝承を試みた。特定の具体的な技法を伝えると、その技法が独り歩きし、神格化され形式主義に陥り、パリサイ人(形式主義者)量産の集団となり果てる。

しかし残念なことに、ジークンドーと名を冠して教えながら、自身の修めた型を強いる指導者が多くなっている。

私は転掌(八卦掌)を教える際、最小限とする。それは省いているのではない。長年の発展という名の装飾化によって外にへばりついた余分なものをそぎ落としただけだ。

八卦六十四掌は知っていた。しかし中身は、形意拳と八卦掌の混在である。この型を作った人間は歴代の名拳士であるが、そんなことは関係ない。彼にとってはこの型はしっくりときたのかもれない。でも私には、違和感しかなかった。そして型が長すぎる。一通りやるだけで時間がなくなってしまう。

磨いていく技は最小限にせよ。技を創りたいなら、最小限の技を極めて、その術理から導かれる動きの中で「実行しやすい技」を、自分が使用する目的だけだと決めて、確立すればいい。

水式館発祥地・氷見島尾海岸で、一番弟子が転掌双短棒(双匕首)を練習しているイラストを見て欲しい。

彼女はいまだに、一番最初に習った「推掌転掌式」を好む。それが高じて、推掌転掌式とリンクしやすい双短棒を、最も得意な武器術をしたくらいである。

彼女は言う。「これ(推掌転掌式)はいまだに、上手くいくときといかない時があるんだ。上手くいかないときに限って、とんでもないインスピ(直感)が来るんだよ!飽きる、という発想が分からない。いまだに私に教えてくれるのに。」と。

このインスピこそ、彼女のもう一人の師だ。己の身体こそ良師だ。

つまり、ずっと続ける姿勢さえあれば、雑誌で毎月紹介される魔術師のような先生らに踊らされることもなく、すごそばで、最も近い場所で良師に巡り逢えるのである。

『幸せは、足元にあった』とよく言うが、それは拳法の世界にも当てはまる。

雑誌や動画で人気が集中している先生の所に行ったって、どうせその先生に習うことなどできない。「その他大勢の一人」とみられるだけである。有名先生の講習会を見てみればわかる。人が多すぎる。そして、教えているのはその先生の弟子だ。濃度が大幅に落ちたものから、あなたは多大な労力をかけて、何を感じるのか。

日本人は真面目であるが、自信が無さすぎる。横暴であるのはいただけないが、うぬぼれぐらいなら、誰にも迷惑はかけない。自分の見出したオリジナルを最善だと、思い切り勘違いしてしまえ。真の勘違いは、すぐに真実となる。だから今すぐ宣言せよ。

「私は稀代の達人である。偉大なグランド・マスターである」

そのように宣言すればいい。誰の許可も承認もいらない。あなたが自分のオリジナルを信じ、そう宣言した瞬間から、あなたは偉大なマスターとなる。このことに例外はない。

達人になりたければ、私の元に来い。しっかりと達人になるマインドを指導する。しかし各自の練習は当然必要だぞ。練習すると、それは自分が未熟であると脳に信じさせるからよくない、と言ってのける人間がいたが、そういう奴はイメージだけで強くなればいい。自分はそのアプローチは採らない。

水式館では、転掌と同時に、達人道も教えているのだ。

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