多人数を想定した移動遊撃戦。
とても上級技術であるような感じを受ける。簡単ではない。しかし転掌においては、その先にもっと上級レベルの技術が待っている。
並走スライド変則撤退戦。これが転掌(楊家転掌門八卦掌)の目指すべき最終段階である。
並走スライド。敵の突進に対し、一緒に下がりながら戦うのだろうか。確かにそれも行う。しかしどちらが前に出るか、その時の状況によって変わる。
最初は敵の突進で、我が下がることが多い。しかし我が下がると、たいていの敵は追ってこない。追ってこ来ないという表現は正しくない。追う技術がないから、その場にとどまるのである。まれに追ってくる敵がいる。しかし間もなく、追うことを中断する。追い「続ける」技術がないのである。そして追いかけながら攻撃する技術も無いのである。
だから変則撤退戦では、我が攻勢に転ずる場合がある。攻勢に転じる場合の方が多い、と言ってよい。
転掌は攻撃しないのでは?と思う方もおられるだろう。しかし転掌は、追いかけてくる敵には、倒すための攻撃は(ほとんど)しない。けん制攻撃である。しかし振り向き様に前方にいる敵には、倒す気を込めた一打を放つ。ある意味、逆転の発想である。後ろから来る敵のやり過ごしながら、前敵に我の攻撃を当てる瞬間を待つのである。そしてその「待ち」は、移動遊撃戦の渦中に突然やってくる。突然やって来るのも、想定内なのである。
並走スライド変則撤退戦は、主に対一人の戦い方のため、振り向き様に他の敵がいるわけではない。しかし今まさに攻撃してくる敵は存在するのである。そこで、並走スライドしながら身をひるがえし、新たな侵入角度から、我が突然攻勢に転じる。つまり攻める側に転じるのである。
さきほどまで敵の攻撃を前に移動しながらやり過ごしていた弱い敵が、いきなり旋回行動の渦中から攻撃に転じてくる。追撃戦の最中、自然と無意識に、「目の前で逃げ回っている敵が攻撃してくることなどない」という気持ちになっている。要は、おびき寄せられ、追撃の慣性にどっぷりはまった転身行動のしにくくなった状態の中で、急襲されるのである。
転掌の有利さはここにある。転掌刀術と通常の刀術が組手をすると、斜め候補スライドする転掌刀術側を、通常刀術側が追いかけようして前に出た瞬間、去り斬り攻撃の餌食になるのである。前に出て攻撃を当てようとする通常刀術側には、追撃の慣性がかかっているため、突如飛んでくる去り斬りを避けることができないのだ。相手の手の内を知っている場合であっても、避けるのが難しい。初見の敵であれば、何も考えずに無意識に追撃してしまうのだから、その瞬間ほぼ去り斬りの餌食となる。
並走スライド変則撤退戦も一瞬でケリがつかない。その戦いの中で、敵も警戒してその場に止まることがある。その時こそ、我は間髪を入れず襲い掛かるのである。
水式館筆頭門弟は、刀術の達人である。彼女は、私と組手をしている際、私が脚を止めると、その瞬間、旋回行動の渦中から転身撩刀しながら斬り込んでくる。猛然と迫ってくるため、こちらは防戦する。彼女は私に防御させるため、わざと正面に下方からすくい上げて刀をぶつけてくる。私は防御をせざるを得ない。止まったため、私はその攻撃を移動で避けることができなくなっているからだ。
そして避けた次の瞬間、彼女はぶつけた反動を利用して離れながら、最大限の射程距離でもって、刀を打ち下ろしてくる。並走スライド変則撤退戦は、このような、高度の間合い感覚が必要となる。離れすぎてもいけない。離れ過ぎたら、敵は要人方向に向きを変え、襲い掛かる。近すぎたら、自分が攻撃をくらってしまう。
つまり、敵の攻撃は当たらないが、思い立ったらすぐ、自分の攻撃を当てる間合いに入ることできる距離、を保つ技術が必要だから、並走スライド変則撤退戦護衛術は高度なのである。これは大変難しい。
斜め後方スライドは、常に自在に行うことが出来なければならない。入身法による急速転身が必要となる。敵が我から離れようとした瞬間、即座に内転翻身法によって敵を追い、後方から斬撃をくらわさなければならない。
敵はいつ突出してくるか分からない。突出と離脱に対し、我は「敵の攻撃は当たらないが、自分はすぐに自分の攻撃を当てることできる間合いに入ることができる位置」を維持するのである。
移動遊撃戦であれば、とにかく距離をとればいいである。危なくなったら、距離をとる。移動遊撃戦の練習の中で、翻身旋理の技術磨き、ミクロスライドにつなげるのである。ミクロスライドができるようにならなければ、弊館では掌継人になることはできない。
逆に言うと、私の猛然とした攻撃に対し、ミクロスライドである程度避けることができるようになれば、掌継人として認めていい、と判断するのである。
先を見て欲しい。マクロスライドは苦しい練習となる。しかしその先に、変幻自在の、真の原初八卦掌が待っている。その領域は、敵次第ではなく、自分次第である。なぜなら、移動による間合い創出で防御するのは変わらないからである。近代八卦掌と違い、敵の攻撃射程圏内の中で、「相手の技術・フィジカルを上回る技術(相手との相対性による技術体系)」でもって対抗することをしないからである。
上級技術と言えども、あくまで弱者使用前提(自分次第の技術体系)の上になりたっているのである。私はこの矛盾の無い技術体系を悟った時、転掌創始者と、その技術体系維持を厳命した楊家武術始祖に、深い畏敬の念を感じた。感動したのである。
私の後に続く者たちも、ぜひこの感動を味わってほしい。
