歴代を個人崇拝しないこと

歴代になる者は、師にむかって、叩頭をする。私もそうした。親であっても、である。

これは、師に対する服従なの?そうではない。そうなら、わたしはしないね。一番近くにある、「真実」に対する敬意である。そして、すぐそうなる「自分」に対する敬意である。わかる?私も言葉では言い表しにくい。

館長は言う。私は崇拝される存在ではない。私どころか、董海川開祖や、その他の歴代も、崇拝されるものではい。いずれあなたもなるのだ、いずれその立場になるのだ。もう耳タコです。

何を崇拝するかは、叩頭の儀式にヒントがある。師と共に、より大きな深淵なるものに対する叩頭がある。それすらも崇拝されるものではない。私の内にあるもの、よくわからないもの。それは外にあり、内にあり、そして全部が同じである。

老子とか、ヴェーダンダを読んでいると分かるのだが、外にある絶対的なものに対する服従、ではないのである。それは自分の内にも存在しているし、外にもあるし、実は全部一緒なのである。

転掌八卦を追っていると、そこにはいろんなヒントが湧いてくる。もしそれが外にあるものならば、何かしらの啓示が、外からしか見えない。しかし、自分が自分の最良の師(館長がよく言う話である)になる過程で、そのヒントは、外よりも、内から、湧いてくる。こんなこと、よく思いついたなって、そう思う時が。

私、成績は良かった。テストで順位がある時代は、テストでは、いつも上位だった。これは自慢じゃないからね。ここで自慢しても、仕方ないでしょ?そこから続く話があるんだ。そのときは、テストの点を取ることだけだった。人に認められる。他人との比較だ。

しかし、ある難問が分かった、ということはあっても、自分の内からの、ハッとするようなことはなかった。学年で一番になったこともある。しかしそれで得たのは、優越感だけ。きっと上には上がいるし。その時の苦闘が、何か人生を変えたと、今考えても思わない。

それよりも、八卦の練習で、人と一緒にすべりながら下がっていくあの感覚を得た時のほうが、圧倒的に感動的。いんや、比べ物にならない。

学校の成績とかって、誰もが自慢したがる。どうでもいいことなのに。私も天狗になってそうなって、今考えると、なんの感動もないし、どうでもいいことなのに、転掌八卦の、分かった時は、違うのよ

私は何を求めていたんだろうと、思う時がある。外っ面ばっかりだった。真実は、内にある。一生懸命、いいとこ見せようと、悪ぶったり、ワイルドっぽくするけど、むなしく見えるだけなのに

転掌八卦の中核技は、単なる一つの、やり方に過ぎないってことも。ブルース・リーと、館長は、おんなじことを言っている。それをずっと感じていた。私がそれを教えてあげてから、館長は、彼を好きになった。しかし、館長は、今でも、人に相手にされない人だけど。

でも私にとっては、ヒントをくれたメインの「外なるもの」だ。わかる?

これを書くと、個人崇拝するな!って言われそう。伝えた者より、伝えられた内容を重視し、それを自分にしてしまえ、そしてじぶんのいちぶんしてしまえ、これがやっと、この年になって分かったかな。

学生の頃の自分に言ってやりたい。いつも言われていたのに、ただ噛みついていただけだったな、私は。

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