瞑想をやっている。私は、ずっと四六時中、拳法をしているわけじゃあないわよ。もう、拳法は長くし続け過ぎた。もちろんこれからもするわよ、でも、描く比重を高める。それこそが瞑想、だから。
今日は、とっておきの瞑想法を教えてあげるわ。
それは、好きなことをひたすらすること。これも、館長に習ったのよ。瞑想の動画を見ると、皆目をつぶって、胡坐のような姿勢で座って、頭を空っぽにするように・・・とか、色々言ってる。一つの型になっている。それはつまらないからやらない。
私は、二つね。ひたすら、目の前の景色を描くこと。海に行くことが多いから、海の絵が多い。富山湾、三河湾、伊良湖岬、佐多岬・・・とにかく描くことだった。聖地・氷見は、どこの海岸からも一通り描いたくらいよ。
海辺で、館長と座って、ぼーっと海を見ていることもある。それも○○の瞑想か?と館長は言うが、そうよ、あなたが、私が小さい頃から、私を海に連れて行ってボーっと眺めていたのが、心地いいからしているのよ、この瞑想を。
最近の動画は、成功者の話を持ち出して、禅だ、マインドフルネスだ、そんなこと言っている。富だ利益だ一切は関係ない、お金は後から必ずついてくる。といっておきながら、その動画を見ている連中は、目が¥に変わっているような連中ばかりだ。
すぐに叶います、これを知れば人生激変します、そんな言葉にコロッとだまされ、動画を見るだけでいっつも終わっている連中ばかりだわ。お金は必ず後からついてくる?どんな価値のあるものを提供しても、それに見合った対価を得ないままこの世を去った多く天才がいる事実を無視した、耳当たりのいいだけの言葉ね。禅の先師や、ワッツは、悩み抜いた末にその境地に達したのに、動画で見ているだけの連中に、耳当たりのいい現実は来ない。少なくとも、すぐに結果はついて来ない。少なくとも、動画を見て、満足してるだけの連中は、この果てしないタイムラグに決して耐えられない。
もし価値あるものを提供して成功するならば、館長はとっくに世界道場の総裁になっているわね。禅の思想を知り、それを少しばかり実践したくらいで、すぐに人生が好転するなら、なぜあれほど多くの成功者が、散々苦しい目にあっているのか。
館長だって、私たちの手助けを拒否し、外で体を洗い、外で散髪をし、固い車の中の自作ベットで寝ているのよ。少しのお金を出し惜しむプロに対する礼を失したタ〇連中の気まぐれにもめげず、ひたすら刀を振っている。これこそが真の瞑想。どれだけ苦しくても、自分が価値を見いだしたものを無心に繰り返す。
静の瞑想は、とっても難しい。頭に色々浮かびすぎて、今「在る」状態になることができない。何もしないで座っていることが好きな人はいい。私はダメ。つまらない。好きなことをしたい。絵を描きたい。海でボーっとしたい。延べざおを広げ、釣れないなぁと言いあいながら、ぼーっとしていたい。その時無心になる。瞑想になるのよ。座ってなきゃいけないなんて、だれが決めた?ク〇自己啓発系動画の見過ぎなのよ、だから凡人のままなんだ。
呼んでいてわかる通り私の瞑想の師も、館長なんだ。インドだ、禅だ、老荘だ、といろいろ読んだが、この人がいつ何時も練習場所に立ち続け繰り返す、究極の瞑想を見て、私は何かを悟った。それは言い表せない。無理に言うならば、「それでいいじゃないか」ということ。
私の瞑想の師は、ヨガのヨギではない。道教の導師でもない。キリスト教の司祭でもない。どんな状況になっても、信じたものをし続ける、この人だった。本当に好きなものを、とにかくし続けること。家を失っても、し続けること。
