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9/13(土)福井 9/14(日)金沢 9/20(土)富山 「身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会」

9月13日(土)、福井県福井運動公園にて、『身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会In福井』を開催します。時間は、17時30分~20時となります。

翌日の9月14日(日)、金沢大和町広場にて、『身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会In金沢』を開催します。時間は、18時~20時30分となります。

次の週の9月20日(土)、八卦掌水式館の石川定例練習場となっている、富山市稲荷広場にて、『身の周りの物で戦うための転掌刀術基礎講習会In富山』を開催します。時間は、10時~12時30分となります。

今回は、他の護身術教室もよく話題にする、『身の周りにある物』を使った本当の身の守り方を指導します。

日本剣術でもない、短兵器でもない、そこらに転がっている棒の操り方、短棒の操り方などをメインに、指導します。

あなたは、服を使って身を守ることを想像できますか。今回の講習会は、「服ですら武器とすることができる」と想像できるまでの経験をしてもらいます。転掌は、日本刀や中国柳葉刀などの攻撃力の高い武器を持つことが許されなかった雑役兼務護衛官らの護衛武術です。よって、「身の周りの物」に、棒はもちろん、服・布なども入っていたのです。

身の周りの物を武器化するためのキーワードは「刀裏背走理(とうりはいそうり)」です。自分の背中の後ろで引っ張りながら、「引き斬り」「去り斬り」を行うことによって、物に攻撃性(威力)を与え、それをもって自分の身を守りるのです。

◆参加費:3,300円
※当日、お釣りの無い形で、時間開始前に、現金でお支払いください。後日払いには応じていませんのでご了承ください。

◆参加資格者:15歳以上の男女

◆指導:八卦掌水式館 館長 水野義人(転掌8世掌継人・転掌式八卦掌6世承継人・転掌八卦門初代・八卦掌第6世・梁派八卦掌第5世)

◆応募締切日:13日福井講習会・14日金沢講習会 9月11日(木曜日)
:20日富山講習会         9月18日(木曜日)
※必ず事前に連絡してください。飛び入り参加は例外なくお断りしています。

当講習会の申込みは、こちら のフォームより行ってください。

成立過程を伝え続けるのは「開祖が言っていたから」をさける為

私は後代にも、伝えた技の存在理由を知っていてもらいたい。

私が弟子らに、転掌の成立過程を何度も何度も伝えるのはそのためだ。術理・技の成立の要因・歴史は、本当に重要なのである。

その修行者が、技や術理の意味を分からなくなった時、発生の要因・キッカケ・歴史は、その壁を打ち壊す手助けをする

私の元で習った修行者は、皆誰もが、後代にその技の発生原因などを絡めて指導ができる状態になっていることを、願っているのである。

創始者に習った者が深い境地に達するのは、創始者から、技・術理が在る理由を、飾りない言葉で、何度も何度も聞くことができるからだ。

偉大な指導者から始まった門派では、代を重ねると、その権威性だけが残り、拳法本来のシンプルな必要性・原因の点が忘れ去られ、個人崇拝だけの上っ面な伝承となる。

「先生、なぜこの技は、ここで打つのですか?」

「それは、我が門で代々、そのように伝えられてきたからだ」

権威によりかかり、その方が楽だと思うほとんど多くの凡人は、それで納得するだろう。しかし、物事の本質を追い求める、本当に少しの人間には、その答えは、深刻な心の離反を産むのだ。私は、そのような言葉を、何度も聞いたことがあった。そしてその都度、言いようのない息苦しさと物足りなさを感じたのだ。

単換掌では、最後に去り打ちをする。その理由を弟子が尋ねたとする。

なぜ去りながら打つのですか?

その敵のそばにとどまらないためだ。

なぜとどまらないのがいいのですか?

敵の攻撃をもらってしまうからだ。

しかしこれでは自分の攻撃は当たりません

あたらなくてもいい、自分がうたれなければいい。

当たらなければ、倒すことができません

倒す必要なんてない、自分が生き残り続けて、時間稼ぎをすればいいのだ

時間稼ぎですか?戦いで時間稼ぎですか?私たちは、何を期待して待つのですか?

時間稼ぎすれば、その時間分、護衛ができる。異変に気付いた仲間が救援に来る。すぐにやられてしまったら、それもかなわない。

襲撃者は、武器をもっていませんか?転掌は、素手で相手に対抗するのですか?あっという間に倒されてしまいます。私たちに、武器はありません

いい質問だ、双換掌をやってみるがいい。試しに、その服を脱いで、双換掌をやってみるがいい。服を追随させよ、複が防具になる。なぜこのようなことができる型であるかわかるか?

わかりません。

転掌は、素手で侍る身分の低い官吏用の武術だからだ。身分の低い雑事用の官吏は、武官のように武器を持つことが許されない。しかし、武器を持たないでもおとりとなって護衛ができるからこそ、転掌は発展したのだ。

どういうことですか。

武器を持たなくてもおとり護衛ができるなら、宦官や宮女に護衛の任を負わせればよく、武器を持った男性武官を警護用として後宮内に配置する必要もなくなる。清朝王族は、後宮内に、武器を持った屈強な男性武官を入れることを、心の底では警戒していたのだ。たった一人の謀反の意を持った男性武官が、後宮内の人間を全滅しかねないからだ。転掌創始者は、転掌を後宮内武術として紹介する際、武器を持たせなくてもいい点を強調した。それは後宮内武術として採用されるための重要要素だと分かっていたから。そして、転掌が武器を常時携帯できない立場の人間でも護衛力を得られるように、特に双換掌に、身の回りのモノで戦うための武器操法の理念を組み込んだのだ。その目論見は当たった。王族に転掌の技術体系は受け入れられた。

ひどく計算的な話ですね。

そうだ、転掌が後宮内武術として採用されたのは偶然でも何でもない。ある人間の考え抜いた計算と思惑がそれを実現させたのだ。創始者が練習しているシーンを、たまたま王族が見ていて、見染められた、は作り話だ。明確な計算と、意図を持ったアピールにより、転掌は後宮内の護衛武術として採用されたのだ。

なぜそこまで、採用されることにこだわったのですか?

創始者が、未来の無い最下層身分の宦官であったから。彼は明確に、転掌をネタに自身の出世を狙った。転掌が後宮内武術として採用されれば、自身もその指導者として、身分が上がる。後宮内武術となれば、転掌は世に知られ、内外から門下生が集まる。その目論見が、すべて当たったのだ。皮肉にも、発展がその技術体系を変えてしまうこととなったが。

・・・・・代継門人以上の弟子であれば、八卦掌で言い伝えられている成立過程を信じている者はいない。私が常々、この成立過程を伝えているからだ。この成立過程を知っていれば、転掌がなぜ独自の技術体系を持っているのかが分かるのだ。

近代八卦掌と転掌式八卦掌において、最も違う点は、攻撃に固執するかしないか、だ。この違いは、「敵の力に抗する」か「敵の力に抗しないか」を分ける。敵の力に抗しないからこそ、弱者が初めて、短期で、弱者のままで、使うことができるようになる。

成立過程を紐解くだけで、これだけのことが、明確な理由をもって説明できるのである。ココで個人崇拝の要素が入り込むと、「再興祖・水野先師が言っていたから」となり、根本的な理由が説明されなくなる。

理由が薄らぐと、弱者使用前提の技術体系ですら、取って代わられるようになる。近代八卦掌になったように。この発展は、間違いではなかった。男性強者の修行者が増えれば、その変化は必然であろう。しかし、転掌技術体系が、失伝状態となっているのは、行き過ぎである。

私の後に続く者は、是非とも、各技、各術理の背景にある、理由・発生要因を知り、それを正確に後代に伝えて欲しいのだ。そうすることで、代を重ねても、転掌は「使える武術」として在り続けることができるのだ。

八卦掌水式門富山本科イメージ

海の中で磨く、刀裏背走理

私は常に、「いかにして練習を、一人で、実戦に近い形で、毎日行うか」を考えてきた。それを実現させるための練習法は、実にたくさんある。私の動画によく出てくる、スポンジ支柱を使った対人想定練習は、多くの一人実戦模擬練習のうちの一つに過ぎない。

対人想定練習は、常に考え続けている。そしてそれを、常に弟子らと共にシェアしている。

その中で、弟子受けがよかったのが、海の中で、80cmくらいの棒を使い、振り回すことだ。当然、刀裏背走理を意識した練習とする。そのため、背身刀が多くなる。

コツは、ゆっくりと大きく行うことだ。海の外では、振り回す速度が速すぎて実感しにくいが、海の中で棒を振ると、水の抵抗で、振り回す速度が遅く、かつ重くなる。筋トレではないので、負荷をかけるつもりでは行わないこと。あくまで、刀裏背走状態になっていることを確認しながら行うことだ。

具体的に言うと、振る際、肩甲骨後ろ部分が収縮している状態になっていることである。

この練習は、刀の使い手である、弊館筆頭門弟が、こよなく気に入っていた。海辺に住んでいた夏は、よく皆で、海に入って素振りをし、空手道場の練習か何かと思った、と言われたものである(そんな言い分は、半分嘘だろうが)。

海水浴場で皆がいる時に、振り回すのは、いくら刀がほとんど海の中に入った状態とはいえ、気が引ける。練習が終わった後の、まだ誰も居ない海水浴場の、はしっこで行っていた。

私たちは、島尾海浜公園前の、松田江海水浴場~氷見窪海岸周辺で行っていた。水式館の聖地である。人もいなく、砂浜もしっかりとあり、練習がしやすかった。今は車の跡があったり、ゴミだらけ、である。前に比べて、散歩の人が増え、やりにくくなった感はある。

練習もひたすら工夫である。海の中で、八卦掌の練習をしています、という文を見たことがない。各人、それぞれ、やり込んだ人間であればあるほど、変わった練習法を持っている。しかし、その一線を越えない人間は、練習ですらも、常識にとらわれている。

型の練習で、美しく演じる、というのは、一つの典型だろう。カッコよくなければ、人前で恥ずかしくて練習できない、という。しかし美しさで拳法の実力を評価する人間の方がおかしいのだ。美しくないから実力が大したこと無い、と言っている人間は、未熟であることを自ら宣言しているようなものだ。

どうどうと、門で教えられた型を、練習し抜けばよい。見栄えなど、実戦では何ら意味を持たない。型通りに打ったことがあるのは、イノシシ相手に、透把式単換刀で、吹っ飛ばした(実際には吹っ飛んでない、重くて硬くて横にずらしただけ)時だけである。

確信と革新は、練習段階から始まる。あなたが思いついた練習方法は、とりあえず試してみるがいい。技を試すのと同じである。そこから達人への近道が始まるのだ。

自由の空の下で見た遠い花火は

大きな節目を迎え、再び、北陸の地にやってきた。

愛知での日々は、気が滅入ったわ。なんとも言えず、縛られているようで。愛知って暑いからね、と言ってきたおっさんがいたけど、違うわ、おんなじ考え方の連中ばっかりで、うんざりだったのよ、おっさん!

だからとにかく、英版出版は、集中的に翻訳に取り組んだ。この人の文章って、ほんっとうに、分かりにくいし、訳しにくい。

でも、こうでなければならんのだから、仕方ないのよね、それは私が一番わかっているのよ

もちろん、私だけで訳したわけじゃない。存分に、Google翻訳に、活躍してもらうつもりだった。でも、やっぱり、概念がないのよね。的外れが多く。結局、一文一文、この人と一緒に、確認しながら、作業を進めてきた。

途中で、金沢の拠点を失ったため、その作業は難航した、でも、私は分かっていた。北陸の連中の熱意、とか、資質、そういうのをみて、この人の拳を受け継ぐ人はいないとね。

室内じゃなきゃ、とか、福井のくせに金沢は遠い、とか、そんなんばっかりだったからね

方向修正を得意顔で提案して、この人に営業してきたコンサルバカがいたけど、バッカじゃない!?この人の道が、どういう過程を経て、定められているのか、分かってるの?

サイトに書いてある。その部分すら、読まず営業掛けてきてるってこと。そこを読めば、私なら、決してそこに触れない。読んでもいない、その状態で方向修正なんて、レベルが低過ぎね。

私は、学ぶ気もない土地に、縛られる必要はない、と前から進言していた。楊家拳は、あまりに凡人どもに理解できないのだから。その土地での生徒募集は、反対だった。

拠点を失ったことは、私にとって、大きな転機だった。きっとこの人は、拠点を失うよりも、スキルを失うことの方を嫌がる。案の定、この人は、道を追い求めることを最優先し、大きな自由を得た。

久しぶりに、氷見のまっくらな夜空を見たなあ、昼間が多かったからね。

見渡すと、富山の花火と、魚津の花火が見えるわ。本当に小さい。金沢にいれば、北國花火を、河川敷あたりでみることができたろうに。きっと普通の人間は、館長の決断を批判するわね。

しかし私にとって、この花火は、別格だった。再び、理想の空の下に戻ってきたのよ、それ見なさい

「自由」の空の下で見た花火だったから。たとえ小さくても、何ものにも縛られない気持ちで見たものは、故越栄に幸せだった。ただただ進む。少年のような、この人は、きっと将来、大きな形を示す。

誰よりも近い位置で、それを目の当たりにするのよ。

『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛』英訳版発刊

八卦掌水式館には、世界武術『転掌』『転掌式八卦掌』を再び広め、弱者が真に使える護身術・護衛術を普及させることで、多くの人達の幸せに貢献する、という使命があります。

この度、2025年7月17日、『八卦掌原型・清朝護衛官武術「転掌」から学ぶ自分護衛』英訳版発刊を発刊しました。

館長である私と、英語に長じている水式館一番弟子との間で、地道に英訳作業を進めてまいりました。

書籍販促

翻訳に際しては、外部の翻訳家に対する依頼も考えましたが、転掌式八卦掌の技術に精通している必要があるため、その道は避けました。

日本語を英語にする際、転掌の術理が分かっていないと、正確な翻訳は期待できません。Youtubeの動画で、AIに翻訳させている動画をよく見ますが、その内容はひどいものです。

AIを使用していますが、AIへの丸投げをすることなく、一分一文丁寧にほんやくしたため、6か月以上の時間がかかりました。

水式館の世界戦略の大きな一歩となる、この英訳版発刊を、英語によるコミュニケーションに限定される諸氏に、供したいと思います。

一つの戦い方で、素手・刀・長短棒・盾を使いこなす転掌

多くの武術は、すべての戦い方で、勝ちに行く。しかし転掌・転掌式八卦掌は、一つの戦い方で、あらゆる方法・あらゆる手段・あらゆる道具(武器)を駆使し、一定時間生存による時間稼ぎのおとり作戦による護衛を目指す。

全ての戦い方とは、接近戦・遠い間合い戦・関節技・抑え込み技・投げ技などを駆使するということ。そして最終目標は、「相手を倒す」である。

しかし転掌は違う。一つの戦い方だけを練習する。一つの戦い方とは。撤退戦を基本とした、移動遊撃戦である。撤退戦とは、敵の力と抗しない戦い方である。倒すことよりも、生存し続けることを第一とする、斜め後方スライドの対敵法による一定時間生存術である。

転掌・そして本来の八卦掌では、この戦い方しかしなかったのである。相手を巧妙な技で倒す八卦掌は、転掌が有名になって、修行者のほとんどが屈強な男性になった後に成立した、次世代の武術的戦い方なのである。

素手・刀術・双身槍術・大刀術・双短棒術・藤牌術すべてにおいて、この一つの戦い方だけをマスターするのである。その根源は、戦場の藤牌兵刀術である。そこから単換刀が生まれ、単換刀から、単換掌理・勢掌理が抽出され、単換掌・双換掌・勢掌単招式が一定の形として具現化されたのだ。

専用武器の携帯を許されなかった後宮内の宦官(かんがん)・宮女(きゅうじょ)が、割と短期で、身の回りのもので護衛を果たすことができるようになる技術体系を持ち、弱者でも護衛をし得る道を切り拓いた。転掌は、一つの戦い方(一つの術理)をマスターすれば、この理であらゆる道具が、すべて同じように使える技術体系を持っていたのも、短期習得を可能ならしめた。

転掌と転掌式八卦掌に、関節技はない。当たり前である。たとえ相手が一人であっても、敵の眼の前にとまらないのだ。身体を残して攻撃するだけでも、敵に捕捉される危険が生じる対多人数戦の最中である。関節技など、かけている暇もない。

これは、八卦三十六歌訣。四十八法でも、言及されていることだ。昔日の転掌本来の戦い方を示した、数少ない貴重な資料である。歌の中には、近代化した後の技法に言及され者もある。しかし、三十六歌訣は、昔日転掌の拳風を、色濃く残す、貴重な資料である。

現代の八卦掌家は、自身の拳法が、対多人数に有効な拳法であることを公にしない。なぜか。彼らの習った八卦掌が、対一人・対他流試合用化した八卦掌であり、そこに対多人数を想定した技法が伝わってなく、習ってないからである。ひどい場合、昔日の転掌が、自分たちの習っている近代八卦掌と対して変わらないもの、と思っている。

董海川先生が創ったころの転掌と、近代八卦掌は、まったくの別物である。其の目的を違えた時点で、両者の分離はさけられないものとなった。私の伝える転掌を見て、そのシンプルさ、現行主流八卦掌とのあまりの違いに、落胆する者が多くいる。

宦官が、宮女が使っていた武術が、強者使用前提であるはずがないだろう。少し考えれば分かることだ。

再興祖で在ること~底になっても変わらないもの

達成は間違いない、現実が遅れてるだけ。なぜそう言い切れるのか。

それは、グランド・マスターとして、ずっと昔から行動してきたから。昔とは?ずっとずっと昔である。200年前にもさかのぼる。長き行動は、何ものにも属さない体系を、現実を創るのは間違いない。私は、私自身がグランド・マスターであることに疑いがない。疑っていないから、そのようにずっと動いてきた。動いたら・・・現実はそのようになるのである。

事実、今回のどん底が再び、私自身を、私が本当に心の奥底で描いた理想の状態に近づけている。私は時折、居場所もなく、そのときの流れに従い、各地を放浪する未来を見てきた。寝ている時の夢であったり、ふとした時(多くの場合、旅先)に心地よさを感じたり。今、居場所のない状態で、私は、寝ている中で見ている自分と一体となった感じがしている。

現在私が置かれている状況は人間の、浅はかな判断基準で見たら、失敗で、望ましくないことかもしれない。しかし、何か大きな存在の意思だとしたら・・・・。人智をはるかに超えた大きな存在の導きだとしたら。そう考えると、何ともこの現状も、楽しいではないか。わたしは、拠点がある時よりも、今の方が、なんとも活き活きとしているのだ。

何より、自由である。拠点がない、ということは、拠点に縛られないといことだ。縛られる=執着、である。執着は、自由なフットワークを阻害する。これはまずいだろう。

失敗も損も、すべてが決まった道である。いや、そんなことはない、俺はこの瞬間、であるならば、想定外の道を選んで、その「決まった道」とやらに反抗してやる!といって、決断しなおしても、それすら想定内なのである。

言葉遊びでも、屁理屈でもない。そのように行動していくことで、すべてが流れていく。いい意味で、どうしようもない流れの中で、私は転掌を再確立した。運命かな、現在に、転掌を公式に伝えているのは、自分だけである。

私はこの、あまりに顕著な実情に、転掌再興祖グランド・マスターとしての宿命を感じたのだ。

200年前の董海川という名の私は、地方においてある「異人」と逢った、という。その異人は、200年前の私に、敵の力に抗しない、当時としては潮流から外れた、技術体系を持つ武術を「手渡した」。

清朝の王族に目をかけてもらうためのカスタマイズが、まるですでに整っていたかのような技術体系である。現在に生きる私たちが知っているような、敵の面前で、巧妙華麗な技術で戦う八卦掌であったなら、「その他大勢の武術の一つ」であったため、清朝後宮の護衛武術には採用されない。メリットがないからである。

積極的攻撃技術で、敵の力と抗するものであったら、その修行者の多くは,武術経験の豊富な、屈強な男性である。200年前の私からプレゼンを受けた王族は、

  • これならば、男性武官を後宮内に立ち入らせなくてもよい
  • これならば、武器を護衛官に目ざとい武器を携帯させなくてもよい
  • 男性武官による護衛官吏がほぼ不要となり、宦官・宮女だけで護衛まで任せてしまうことができてしまう

などの、自分たちの身の安全に関わる幾つかのメリットを見い出して、既存の宮中内武芸者(伝・沙某)を罷免までして、200年前の私を採用した。このように、転掌が後宮内武術として採用されるためには、合理的な理由があったのだ。清朝王族が転掌に目を付けたのは、転掌を護衛武術として採用すれば、上記のような、具体的なメリットがあったからである。

この眼を付けられ得る技術体系は、偶然にそうで「在った」のではない。転掌が、後宮内護衛武術として採用されるために、狙って創造されたものであった。えっ?あの「異人」が?

異人なんて、おそらく存在しなかった。それは私だからわかるのである。必要最小限にして必要最低限の知識・指導だけで、転掌を再確立した私だからわかるのだ。

異人がこれらの技術体系を創ったのではない。200年前の私に、採用され得る技術体系を創り得るヒントを与えた人間は、いたと思う。そう、現在の私の場合のように。

現在の私にとっての異人は、福建省楊家の、転掌7世楊師である。200年前の私と、現在の私とでは、弱者使用前提の武術を求める動機が異なる。しかし、出来上がったのは、同じである。動機の違いは、創造を意図するより大きなものにとって大きな問題とはならない。現在日本において、後宮というものが存在しない以上、創造を意図するものは、なにか違う作用で、託した者(現在の私)にこの技術体系を確立させたのだ。

私の確立したものを、証明できぬもの、として批判されることがある。しかし、200年前の私ですら、謎のままである。どのように転掌が確立されたのか、全く分かっておらぬ。しかし私は、200年前の技術体系のベースを知っており、必要なタイミングで、技術体系を極めるためのヒントを、与えられ続けてきた。

この技術を洗練させるのは、私の後代の仕事である。私は、ここまで来るまでに多くの時間と体力を使った。現在の価値によって重宝されるものを、私は一切所有していない。しかし私の心が認める、真の「善」なるものは、毎日、私の生活の中に「在る」のだ。

上の写真は、今日の私の練習場所である。石川県かほく市。私に、大きな存在のあることを知らしめた、西田幾多郎先生の、出身地である。ここより少し南に下がった宇ノ気の浜で、西田先生は、何かを感じていたはずだ。私と同じように。

私の練習場所は、その都度違う。流れる私にとって、日々が新しいことの連続である。日本一周なんてしなくても、移動が常の私にとって、その都度「旅」なのである。三木清先生が言っておられた、「旅=非日常」であろう。

この新鮮な、非日常に満ちた「自由」こそが、私の心の底から認められる、「善」なるものである。縛られぬ状況で浜に立つ時、説明のできない安堵感を覚えるのだ。その中で、転掌を磨く。そして、この経験を、ブログなどを通じて共有する。十分である。

私は近いうちに、まず日本の有志に、この技術を伝え歩くことになる。拳客である。何度も、眠りの中で見た拳客の日々がやってくる。その中で見た景色を、鮮明に覚えているのだ。これは避けられない未来である。私はそれを、抗することなく受け入れる。なぜなら、練習しつづけるのと同様に、この技術を伝えることは、再興祖として「在る」うちの、欠かすことのできないひとつだからである。

世間のいう「どん底」でも変わらぬものだった。修正?改善?冗談じゃない。理想の道に一直線なのに、なぜ世間の一般的な修正が入る余地があろうか。怖いに決まっているだろう。しかし、奥底では、こちらが正しいと、指し示しているのである。

宮女の護衛官刀術は一般の刀術と何が違うのか

生存か、必倒か、の違いである

そのあたりは徹底している。大切な人を守る剣術、と言いながら、緒戦から一か八かの戦術を採っている剣術アニメが多すぎる。

あれは全く非現実的である。甲冑具足に身を包んだ戦場の武者なら理解できる。多少斬られても、具足や小手が、我が身を守ってくれるからだ。

しかし、服一枚しかまとってない剣士が、敵の眼の前から後退せずに斬り合っているのは、明らかに非現実的である。

服で戦っているイメージの強い新選組だって、小手や銅は身に付けていたし、頭を斬られた際のヘッドガードはつけていた。

宮本武蔵が吉岡一門に報復された時の状況は、四十数人対一であった。まともに斬り合うはずが無い。私が研究の果てに知った説はこうだ。

吉岡一門の若き新責任者たる14歳くらいの少年を、いきなり叩き斬って距離を空け、追ってくる敵に対し、斬っては逃げ、けん制しては逃げ、突出して我に近づいてきた敵を、各個撃破していったのである。そのうち、多勢であっても、足を止め、追撃をためらうようになる。その機を逃がさず、決闘の場から離脱したのである。

14歳の少年をいきなり斬ったことについての、道義的判断はここでしない。これが実戦である。相手は、自分の命を、なりふり構わず奪いに来たのである。こちらもあらゆる手段で対抗しなければならないのは当然のことだ。

前の公園警備では、私はイノシシ・二ホンジカと夜に相対する脅威があった。そこで私が考えたのは、敵の把握である。

クマが出るならば、いきなり逃げる対策はかえって危険である。しかしその公園では、過去に熊が出た記録はなかった。よって最も脅威となる、イノシシ対策に特化したのである。

イノシシの突進速度を考えると、特殊警棒を取り出し、それを伸ばしている暇はない。よって特殊警棒を練習する意味が薄いのである。

そこで私は、シャッターフック棒を110センチの樫材で自作し、護身の切り札としての棒としての機能を兼ねさせ、それと同じものをもう一個作り、家で練習をした。

警備員は、闇を照らすのは義務である。よって、野生動物が潜んでいる可能性があるからといって、闇を照らすのを躊躇することはできない。

そして、襲われる時とは、闇を照らした瞬間なのである。そこで音がした瞬間に、その場から離脱する戦法を採る必要がある。実はその戦法こそが、転掌刀術で習った型なのである。円を回りながら練習するバージョンは、狭い場所で練習するための工夫である。間違っても、八卦掌の走圏によるものではない(転掌と転掌式八卦掌に走圏はない。)

カッコよさは要らない。美しさに至っては、本当に不要なものなのである。人生が終るか否かの瀬戸際に、見栄えなど、必要あろうか?

生存のために、一定時間生きなければならないのである。おとり護衛を実現するためには、まず下がることである。動画のサムネイル(表紙)にある、「一太刀目を外せ」は、真実なのである。一太刀目を確実に避ける方法、それは、受けの剣術技を磨くことではない。とにかく、後方へ下がってから、その後対応する流れを磨くことである。

具体的には、斜め後方スライド移動の移動身法をマスターし、去り斬りたる、刀裏背走理を実行し、けん制斬撃することである。

スターウォーズや、アニメの剣士らの動きは、フィクションである。見栄えを重視している。当たり前である。あれは魅せるためのものだから。しかし私が、護身を果たしたい、本当に大切な人を守りたいと考えるあなたに教えるものは、生き残るためのものである。

生き残ってこそ、あなたは大切な人、大切な自分を守ることができるのだ。いきなり斬られたら、後は誰が、あなたの大切な人を守るのだろうか?フィクションを捨てよ。現実を見よ。剣術の師範ですら、それに気づいていない。名前や名声、雑誌によく登場する師範か否かで、その者の実力を測るな。

私の教える転掌刀術で、最強剣士にはならない。しかし生存をすることができる。実戦では、生存こそが、最終目的である。それで十分ではないか。

私の持っているものは

すべて。私はすべてを持っている。

私の目に映るもの、すべてを持っている。目に映らないものは知らないわよ。持っているかどうかなんて、私にはわからないから。

他人の家に行くといつも思うのは、「なんでこんなに持ってるの」ってことだわね

あらゆるスペースに、モノが押し込められている感覚ね。いっつも思うのは

「この人、引っ越しする場合どうするんだろう?」

引越しなんて当たり前。父といると、将来どこに行って、どこでどうなるかなんてわからないから。持つことに、何のあこがれもないわね。

わざわざ持つ必要なんて、ないと、ずっと思っていた。

ものを持って一番嫌なのは、住んでいる場所に執着してしまうってこと。

いつでも、思い立った時に、思い立った場所に、私は行きたい。ついていきたい。この人は流動的な人だから、ものなんて貯めこんだら、置いてかれてしまう。

もたないのは、大変なこともあるけど、両手が空いていることの喜びを味わったら、もう戻ることはできない。

いつもどこかの空の下だからね。あの空の下。あの山のふもと。たくさんの星が見える場所では、一緒に星の祭りに参加したりする。

山間部の朝は、車から出ると、むせ返るような新鮮な空気。あれは本当に楽しい。

穏やかな天気の時は、人のいない漁港で、あの人は釣りを、私は絵を描き、時間がゆっくりと流れる。

そのたびに思う。別に、楊家拳の伝承になんて、こだわらなくてもいいんじゃない?と。

必要としている人なんて、おおよそ私たちの周りにはいないものよ。そこまでして教える必要なんてないじゃない。

三年後に来る良師はどこの誰なのか、門祖は気づいていた。

私が言った、「良師三年」。これはとても深いのである。しかし説明ができないのである。

日本の武術愛好家の多くが言っている、良師三年とは、全く違うのである。多くの愛好家の言う、「良師三年」が真実なのか、それはここでは触れない。どうでもいいからである。真偽など、人の経験にもよるものだ。

私は、楊師より学んだ技術体系を指導する師を求めて、多くの道場を見た。探した経験があるのである。自分一人で、楊師より授かった技法を、確立する自信が無かったからだ。その意欲は、一番弟子に教え始めるようになってから、強くなった。

「人に教えるなら、私自身が、その拳理を最も知っていなければならぬ。」

拳理を外に求めていた。習ったものは習ったもの。習ったものの発展のためには、新たな師に就く必要があると、一つの指導を受ける際の「形」に囚われていたのである。

しかし転掌の技法を伝える師は、国内にも国外にも居なかった。楊師の足取りも不明であった。私は絶望に近い感覚を覚えていた。私に学ぶ者もいるのに、私がその道を示すことができない。その暗闇の中で、義務感から、ただ練習の場に立ち続けた。

「ただ惰性で行うだけではだめだ」

私は、自身の経験から、この意見に賛同できない。なぜなら、私が、行き詰まりの中で気づいたのは、惰性で立ち続けた中で起こったからである。

ただ、こなすだけ。決められた練習を、ただ行うだけ。Youtubeの広告主に言わせたら、まったくけしからん練習姿勢であろう。しかし私は、この練習に取り組む姿勢こそ、多くの何かをもたらす、より大きなものからの暗示に触れる、プロセスであると、何度も経験するうちに確信してしまったのだ。

最初は、偶然だと思っていた。なぜならそれら(直感・インスピレーション)は、何の規則性もなく、突然来るからである。ある時は、警備の仕事を終える瞬間にやってきた。公園は真っ暗である。しかし私は、そこで思いついたことを試したくて、深夜0時を回っても単換掌をし続けた。斜め後方スライドに関わる重大な内容であった。突き動かされるような感情が抑えられず、家に帰ってもそれをし続けた。

その時の直感は、私の単換掌理を、より高次の安心をもたらすものに引き上げた。それ以後、練習の中で思いつくことは、なんでも試したのである。しかし面白いことに、自分が「こうではないか?」と思って取り組むと、その取り組むものとは違った、以前よくわからなかった課題に関わることについて、思いつくのである。

自分が改善を望むところに取り組んでいるところと、見えにくい箇所でつながっている部分に、光が当たったのだろうと思う。当時の自分の思考では、そのつながりが見えなかったから、「思いがけないところがわかった」と感じたのだろう。

私は、自分の内からくる自分の直感でありながら、その直感のプロセスをコントロールすることができないことに、言いようのない無力感を感じていた。直感を自分の管理下に置こうとしたのである。しかし、それは全く私の意図に従う気配がない。しかし、必要な時にやって来るのである。

「必要と感じる=自分がその問題を克服することが可能なレベルまで自然と上がっている→そのレベルで模索することで、必要な直感が自然とやって来る」

そういうことであると、私は納得した。この深く落ち込むような納得の状態に、追い打ちをかける心情の転機がやって来る。こんどの転機は、内面に対するものである。

筆頭門弟のルーツが、かほく市であった。私はその事実を知った時、気に留めていなかった。しかしルーツが宇ノ気小と知った時、そこから考えが根底から変わったのである。

私は学生の時、加賀の哲人・西田幾多郎先生の胸像画を見て、この人の、なにやらすっきりしない、笑顔になりきっていない薄ら笑みの表情に、自分と同じ空気を感じたのだ。この西田幾多郎先生こそが、宇ノ気小の先輩卒業生なのである。

高校の倫理の授業で、西田哲学の「純粋経験」を耳にした。しかし当時は、なんらの感情も抱かなかった。すでの楊師より、一通りのことを習った時期であったにもかかわらず。そして時は流れ、筆頭門弟を育て、その家のルーツが、かほく周辺にあったことを知り、かほくに関わるようになると、宇ノ気出身の西田幾多郎先生の話が再び出てくるのである。

私は、上記の「直感」のプロセスに、大きな悩みを感じていた。単なる自分の、思い付きではないか?いい加減なものではないか?確証もないものを、信頼していいものか?と。

そのタイミングで、西田先生の「純粋経験」を知ったのである。言葉で表すには、まったくもっておおきすぎる存在。その大きすぎる存在と、一緒になった時の経験。先生は、言葉に表すことができないその存在を、あえて言葉によって説明しようとして、大きな試みと苦闘をしておられた。

私は、この偉大な先人が、生涯をかけて思索し、向き合ったものに、触れていたのだ。自分の中で、すべてをささげて、進んできたものだったから、より大きなものが、必要なタイミングで、私に、私の思考などはるかに超えた部分で、直感をもたらした。

西田先生の「純粋経験」との出逢いは、よくわからなかった、老子の世界観や、インド哲学の「在る」の概念に、大きなヒントをもたらし、これらの思想のつながりを感じさせたのだ。

「良師三年」は、我が師より伝えらえた概念である。当時は、それを何気なく聞いていた。しかし良師が私とつながり、その師より、必要なタイミングで何度も教えを受ける中で、私は楊家転掌門に伝わる「良師三年」の概念を、深く確信することになったのだ。

楊家転掌八卦門には、そのシンプルな修行体系から、「成ること三年」の門伝があった。真摯に、素直に師に従って習練に励むなら、その体系の無駄の無さが、修行者を三年で旅立たせる、というもの。ゆえに、良師「三年」なのである。これは、楊家武術になってから生まれたものではない。古来より言われる「良師三年」とは、この意味であったと私は確信しているのだ。昔日の武術体系が、皆シンプルで即効性あるものばかりであったことが、確信する理由の一つである。

以前車で生活をすることを余儀なくされた時、一番弟子の娘と、練習後、あちこちの見晴らしのいい場所で、瞑想をしていた。彼女は瞑想の重要性を知り、私よりも先にそれを採り入れた天才である。彼女は、インド哲学の「在」の概念を体現したくて、その探求に熱心であったのだ。彼女は、見晴らしのいい、開けた場所で座って心を静める静寂の瞑想と、無心にあるがままに風景をスケッチし続ける動の瞑想を好んだ。私はこれまでずっと、彼女の瞑想に付き合う中で、私自身も、その方法を学んだ。

しかし一番弟子が最初に理解したのは、「在」の概念と本質的で同じである「老子」の世界観の方だった。彼女にとっては、「老子」のいう、よく見えぬ大きなものを感じるきっかけは、インド哲学であった。わたしは、西田哲学であった。

楊家門の開祖は、弟子たちに、技法のシンプルさの維持を厳命した。多くの型を作ることを善としなかった。八母掌・老八掌のような、套路(総合型)の形式は採らず、ただ主要転掌式という単式練習のみを構築しただけだった。そしてその主要転掌式に、武器術をすべて対応させた。「あっという間」に修行期間が終る技術体系を組んだのだ。

楊家門開祖が狙ったのは、短期習得・・・それは世俗的な理由である。より深い意味はこうだ。ヒントに留めることで、多くの修行者が、極力早く、自分で研究する段階(自分の直感による発展の段階)に移行することを狙ったからだ。これも門伝である。私は常々、私に続く、将来人を導き得る弟子に、そのことを言う。

「宇宙と一体となる」とは、このことを言っているのだ。宇宙とは、自分に直感を与える、私の中にある、そしてどこにもあり、すべてをつつみ、かつすべてである、説明のできない存在である。私はそれの存在のあることを理解した。しかし、その存在がどういうものであるかは、説明できないのだ。それは直感を私にもたらすものであるのだが、私の道徳とか、信念とか、善悪の判断基準なんかを、はるかに超えた概念で私に何かをもたらす。だから、コントロール下になんか置くこともできない。知ることもできない。ただそこに「在る」ということを理解するだけである。

私の希望なんか、吹き飛ぶかのような流れを、何度も経験した。修行の過程のなかで、大切な宇宙を4つも失った。私はその4人との永遠の別れを「必要なプロセス」などと認めたくなかった。それで長い時間、苦悩した。

きっとその4つの宇宙とは、永遠の別れをし合う相関関係の中で、互いの人生の中に「在る」ことを位置づけられたのだろう。今度はきっと、私自身がこの世界から「退場」することで、私の後に残る者は、何かがきっかけとして発動されたり、何かが始まるはずである。私の場合もそうであったように。

私は今後、技法の伝承と共に、達人に至るまでのプロセスを、詳しく説いていくことを考えている。技法の執筆と、達人になるうえでの直感の共有を、目指すために。それについて、動画でも詳しく述べていきたい。楽しみにしていてほしい。