守破離すらも、人が決めた道である。絶対真理ではない。

守破離。その段階が、さも必ずどの道・芸事にも通じるかのような常識となっている。そのような動画を見かけた。いい加減にしろ、と言いたい。他人の知識の借り事ばかりで金儲けをする輩どもは、ついに芸事にまで土足で入り込んできて、経験してもいない真理を語るのか。これは、一芸にささげ、一芸を極めてようとする者に対する侮辱に近い。例えば私が、歌舞伎や能、狂言の世界の本を読み、そこで得た知識をもとに、審理を語るようなものである。皆、ドラマや映画・漫画で見たような概念しかないから、このような漫画やドラマのような動画が、真実として評価される。これにはいい加減、危機感しか感じない。

守破離なんぞ、概念すらも、ある特定の時の、一人の人間が考え出したことに過ぎない。確かに私も、その道を自然と歩んでいたことがある。

だが、自分自身で考える修行を貫きとおして来たら、そのような段階など、どうでもよくなっていた。そして練習すればするほど、創始者・董海川先師が考え出した型を越えられない、破ることすらできないと、思ったのだ。

私は、拳法の道を極める者として、転掌を越える独自の道・独自の拳法を創り出すことを夢みてきた。しかし進めば進むほど、初期に教えられた型を越えるようなものを、生み出すことができないと感じたのだ。

破ることができないのである。それゆえ、離れることなどとんでもないのだ。

いっておくが、私は、門派の伝統に固執などしない。私はブルース・リーと考え方がよく似ている。だから彼のことが好き、というか共感できるのである。そんな私は、当然のごとく、転掌を越えるべく、夢中になって練習し続けた。それは、先代師の願いでもあったからだ。しかし私は、董先師の創り出したもののとてつもない深さを、知ってしまった。それは生存に徹した技術体系として、徹底的に技術をシンプル化させたことから生まれた、深さである。

シンプルな技術体系など、この世にはたくさんあるのだ。よってどの分野にも、どの技術にも、守破離が通用するとは限らない。すべての芸事に、守破離が通用する、と考える人間が多すぎるのだ。皆、何となく、そう思っている。一つの武術を、半世紀近く練習しても、破ることすらできない自分の、痛感した感想である。参考にしてもらっていい。

守破離自体が、金言化しているのである。守破離するものもある。しかしそうならないものもある。ネットの普及で、思想や法則を紹介する動画がアップされるたびに、悟ってもいない人間の挙げた動画に同調し、流される人間が多すぎて嫌になる。このような人間こそ、守破離がしにくいのだ。出自も分からない人間の意見に、流されるからだ。

中国拳法を受け継ぎ、それを仕事にしている者として、漫画のような内容が真実とされるのは、大変迷惑である。漫画が真実になるなら、ありえないような修行が真実となり、ありえないような技術がスタンダードとなり、現実世界で実際の技術で、護身護衛を実現する者の価値が軽んじられ、伝承が絶える。

なぜ皆、出自の不明な、これらの、法則・世の事象を説明する、動画を、真に受けるのか。流されるな!

どれだけ練習しようと、技を出す際天高く跳んだり、技を出す際稲妻が走る、などは再現できないのである。

弊館の筆頭弟子の話をしよう。彼女は、水滸伝に出てくる英雄の一人、扈三娘一丈青(こさんじょう・いちじょうせい)を尊敬している。しかし華美な技術に走ることなどせず、未だに単換刀・連身藤牌では双手換牌という基本技を練習し続けているのだ。

彼女は言う。

「ずっと練習し続けてそうだな、これからも」と。

ただ惰性で続けているのではない。ずっとずっと練習してきているが、技術レベルが上がるたびに、自分の中で何かしらの気づきがあるから、取り組んでいるのだ。その技術にならないと、見えないことがある。その「見えなかったもの」が見えるようになって、そこに到達したいと思うから、ずっと練習し続けているのである。

その練習、時に苦しい時もある。ここでやめたら気分が悪い、と言いながら、とにかく続ける。

そのような継続ってのは、現在YOUTUBE上にあふれる願望実現系・引き寄せの法則系・世の真理系動画では、真っ向から否定されている。努力となってしまうような行動は、実現を妨げる、だからあなたの夢はかなわない、と。

そのような動画ってのは、「あなたは完全な存在、だから思った瞬間からかなっている」などと言いながら、義務感で何か行ったり、マイナスの感情で行ったりすると、「だから叶わない」と断言する。完全な存在なのに、感情一つで、何も叶わないのだな、と疑問に思う。ひどく不完全な存在ではないか。

この者たちの言うことに、何の一貫性などない。当然だ、こいつらは何も極めてない状態で、人の動画を焼き増しし、少し変えて耳当たりのいいことばかりを並べて再生回数を稼ぎ金儲けをしているだけだから。言ってることは皆同じ、画像は皆AIで作った同じような画像、ナレーションは、同じ声。同じ言い回し。生気のないAIで生成されたイラストを見ると、心底うんざりする。私は、下手でも、自分の声で話し、人間の手で描かれたイラストをのせたいのだ。上記のイラストだって、ほとんど私が描いたものである。AIで作られたものよりも、目を引くと自負している。

このようなくだらない動画の言うことなど、信じるのは速効で止めるべきだ。この者たちのよく採り上げる成功者たちだって、皆どん底の中で苦しい、マイナスの感情と戦いながら、進んできたのだ。もしこの者たちの言う、マイナスの感情がよくないのなら、この者たちの採りあげる成功者たちは、もっとも願望が実現できない人間たちとなるだろう。

守破離など、茶道の世界の一人の達人が到達した一つの考えに過ぎない。それは絶対的な真理でも何でもない。この陳腐な動画のコメント欄に、拳法の指導をしている人間のコメントがあった。まさにその通りだ、と。私はこの動画のタイトルを見て、すぐに思った。一人の能のマスターの言ったことを、勝手にすべての芸事に当てはめるな、と。

youtubeの動画なんぞ、れっきとした3次資料なのだ。一人のマスターが著した書物(1次資料)を、誰かが分かりやすく解説して(2次資料)、その解説書を読んで動画にしたもの(3次資料)だ。真髄が3次資料に含まれている確率は、極めて低い。

私の著した書籍は、れっきとした1次資料である。私が39年間この身体で再現し、追究し、腹落ちした者だけを、自分の言葉で厳選して著したものだ。確かに、拳法の術理は先代師より伝承されたものだ。しかしその術理の真の理解は、すべて私の身体だけで行ってきた。私が後進に指導しているものは、すべて私が実戦で経験し、実績を残したものだけだ。

そのうえで、守破離なんぞ、一つの考えに過ぎないと思っているのである。千利休?知っているけど、見たことも話したこともないね。

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