どん底?勝手に決めるな。私は今最強だ。

人生で最も強い力を得た時が来た、それは何も失う状況にないから。

私は今まで、色んな不要なものを持ち過ぎていた。でも今はもう、不要な物は何もない。

この状況に至るまでは、なんとか失わないようにと、這いずり回ってきた。不要な物と気づかず、必死で守ろうとしてきた。しかし何か大きな力に引き寄せられるがごとく、私の周りから人・物が消えていった。消えていったものの多くは、不要なものであった、そうでないものもあった。そして不要でない、かけがえのないものが消えていくとき、不要なものが消えていくことを教えてくれた。身を切られるような悲しさとひきかえに、私は、かけがえのない者が消えていくとき、そのことを知ったのだ

私はむかし、この道を歩むきっかけになった出来事が、受け入れられなかった。このことのために犠牲があったと感じることが、許せなかった。しかし、きっと、私がこの世から退場するとき、私の退場をきっかけとして、何かが始まるのだ。そのことを悟った。人の悲しみなど超越した、このあまりにも大きな何かに、憤りを越えた畏れを抱くようになった。それが私に、この生でこの道を歩ませているのだ

今私の周りにあるのは、車と、パソコンと、転掌の絶技、そして私を信じてくれるもう一人のマスター

なんとまあ、この状況にあって、本当に必要なものが分かったことよ。ありがとう、パソコン。ありがとう、車。ありがとう転掌絶技、ありがとう、私と共に育った、ファースト・マスターよ。

君たちがいてくれるおかげで、いまこのしゅんかん、手を止めて車の外に行くと、満点の星と中秋の名月、そして波の音を聞くことができる

八方ふさがりならば、上に行け、と、願望実現系のくだらない動画どもは言う。具体的じゃないし、上、と決めつけている点で、こいつらはやはり悟っていない。上とは限らない、下の可能性もある、それは、八方ふさがりとなって、多くを手放さざるを得なかったものにしかわからない。下はよくない場所と決めつけている。

世間一般に言う、下に落ちたら、そこにはむせかえるような酸素の中の仕事場、そして名月、満点の星空、何より、真の大きな自由と、私の命より大切な5つの宝物があった。

考え直した方がいいのでは?考え直すわけないだろう!

これこそ選ばれし者の道だ、私は150年前の続きをしているのだ、時代の利点を活かし、こんどは中国大陸を飛び越えて、転掌を世界に広げるのだ、そして世界の必要としている者たちに、この絶技を伝えるのだ

厳しい時もある、落ち込む時なんていつものことだ、しかし時代を切り拓き、変革をもたらす者の道は、いつもこのようなものだ。私が世界武術・転掌となることの絶対的確信は、この変革をもたらす茨街道であることから、生まれる

転掌八卦門の開門にあたって

転掌八卦門の開門にあたって、伝統門の矜持を保つためにいくつかの刷新を図ることにしている。

もっとも重要なことが、幽霊門人の排除である。コロナ禍以前の、純然たる伝統門に戻すため、現在正式門人であれど何らアクセスや練習会等に参加しなくなって、練習をしていない者は、門人としての身分を止めることにした。

門人については、練習し続けることを誓約事項としているため、門に所属しているだけで練習しているかどうかも分からない者に、転掌八卦門の門人の立場をそのままスライドさせることはできない。

八卦掌水式塾・八卦掌水式門の本科開催時代をふくめると、十数年の期間中、ゆうに数十人に及ぶ。その時に門人となり、弊館が北陸へ移転後何らアクセスしていない者は、転掌八卦門の門人としての立場を無条件にスライドさせることはない。転掌八卦門においては、各自の定期的な練習こそ、最大の門人の資格要件であるため、転掌八卦門でも門人としての立場を維持したい者は、決意と今の技術のレベルと示すことである。

金銭面と手間の面を理由に来ないのであれば、もはやその者は、この門に価値を見出さなくなった者である。それは悪いことではない。しかし弊館では、その様な者を引き留めることはないし、指導もしない。

練習しているかどうかは、私は一目見て分かるものだ。長年にわたり多くの人間を見続けているが、拳法に真摯に向き合っている者は、ごくわずかであった。圧倒的に、女性の方が多かった。転掌八卦門では、練習しない者に門人としての立場を認めることはない。

先ほども言ったが、口だけでなく、行動と練習の成果で見せることを要する。私が出向くこともない。その時の弊館本部にて、その成果を見せて欲しい。そしてこの場所に来たら、真摯に転掌の練習に没頭することを求める。各人が取り組んでいる武術について、その要素を練習時間中に押しとおすことは認めない。そのようなことは、家に帰ってから行えばよいのだ。

取り返しに行こう。いよいよいじめ護身部護身術本だ。

八卦掌水式館は、その立ち上げのきっかけとなった誓いを果たすため、いよいよ、いじめ護身術の本を出版する。

私がずっと、考えてきたことだった。本として出版する以上、そこで書かれた内容は独り歩きするため、慎重さを求められる。しかし私が長年の闘いの中で得たものを、とにかく届けたいと思い、弊館のサイト内に「いじめ護身部」を創り、そこにいじめの暴力に「No!」を突きつけるための技術を公開してきた。

納得のいく書籍を作り上げるためには、実際に発刊して経験を積むのが一番、という弊館軍師どのの意見に従い、2年前から、技術を伝える練習を込めて、転掌式八卦掌の技法を伝えてきた。

今、いちばん最初に発刊した、『八卦掌原型「転掌」から学ぶ自分護衛術』の第3版執筆に取り組んでいる。この執筆に合わせ、弊館一番弟子に私の元に来てもらい、共に研鑽している最中である。彼女は、本書籍が発刊されることを心から願っている。彼女は誰より、いじめ護身部を創ることに賛同してくれた人だった。どれだけ受け入れられなくても、常に価値あることを、私に言葉で表現してくれた。

彼女はまっすぐ過ぎて、時折どころかいつも、常識やら場の雰囲気やらを強制する輩とぶつかってきた。凡人思考を極端に嫌う性格だった。そして、何より、弱き者をいじめたりするのが嫌いだった。勝気で、激烈で、燃え盛るような気概を見せる、ファイター。しかしファイターにとって、私が弱者使用前提武術を追い求める理由は、あまりに悲しいものだった。彼女の悲しみの琴線に触れた。今はなき彼女のおばに関わることだからだ。

私には同級生がいた。小学校では、その優しそうですきとおった容姿から、クラスの男子の視線を集める少女だった。表立ってちやほやされることが好きじゃなかった人だったが、それでも本人の意思に関係なく、人気者であったようだ。それがのちに、一部の女子生徒の不興を買うことになってしまう。同級生の男子生徒から、「なんでよしとごときが、○○と話してんだ」と言われたことも何度もある。私は、同じ通学班だった、ということと、歴史(特に島原の乱辺りが好きだった)好きで、武術とかが嫌いなクセにいつもサムライの絵を描いていたこともあり、変人少年として気にかけてもらっていたのである。本当に泣き虫だった私に、名前をわざと「しきひと」と呼んで笑顔を見せてくれていた、心の優しい同級生だった。

そんな同級生の学生生活は、中学生になって一変した。いじめである。それも、同級生に非の無い形で。男子にちやほやされてすましている、などというほんとうにくだらない理由で。幾度かの些細な失敗を、最悪に悪い形で解釈され、いじめ首謀連中らの行動はひどくなっていく一方だった。私は、その連中が影でしているいたずらを、朝早く教室に行って片付け、抵抗した。先生に助けを求めたりした。しかし助けてくれるどころか、「過剰反応だ」「ヒーローぶってるんじゃない」となじり、それに反発した自分を平手で殴り、押さえつけようとした。昭和の典型圧政教師だったのである。

クラスの同級生らも、誰も手を差し伸べることはなかった。それどころか、誰からも無視され、居場所のないままに震えている彼女の横で、一緒になって首謀者どもと笑い合い、わざと足をぶつけた。暴力はいけない。でも私はついに爆発してしまった。今でもあの時の激烈な感情を思い出す。笑いあっている同級生の一人に、許せん、もうだめだ、もうやめろ!と言い、押してきた同級生を殴り、絶望的な戦争が始まった。

その時から、私は本格的に武術を習い始めた。それまでは、走って、受け身をとっての練習しかしてなかった。しかし、それではいけないと思った。小学生の時から、孫子を読んでいた私だったから、武力が必要であること、防衛力の無い国家は、強者の暴力に蹂躙されることを知っていたからだ。しかし、近くの空手道場も、少林寺拳法の道場も、皆同級生らが通っていた。四面楚歌の私は、誰もしたことが無い手段(武術)で、敵となったいじめ同級生らを、圧倒する戦略を考えていた。弱かったから、奇襲しかない、と本気に真剣に、考えていたのである。

私が練習をし始めたことは、すぐにいじめで苦しんでいる同級生の知るところとなった。しきひと、どうしたの、空手なんて、どうしたの?って、理由を分かっているのに聞いてきた。私が最初に手に取ったのは、空手の解説書だったのである。何度も聞くなかで、ふとつぶやいた、「ありがとう」の言葉。絶対に忘れない。応えられなかった私は、今でも、どうしても忘れられない。

私が練習をしていることで、元気を少し取り戻した同級生と、富山県氷見市の、島尾海岸に行ったのがこの時である。一番弟子の母となる、同級生のお姉さんに富山県まで車で連れて行ってもらった。学校帰り、突如行くことになった。同級生も私も、制服のまま。工事だらけの北陸自動車道を通り、氷見へ。立山は影しか見えなかったけど、今でもあの景色、思いだす。下のイラストである。この記事を書くにあたり、再び書いてみた。同級生も、一番・三番弟子の母もたるお姉さんも、皆そこで生きていた。

「しきひとの道場なら、水式館?水式門だね」の言葉をいただいた。弊館の名前をその時、いただいたのである。水野式だから、水式館ではない。同級生が「しきひとの道場なら水式館だね」と笑顔で言ってくれたから、八卦掌水式館なのである。

武術を独学したきっかけは、小学館の「中学一年生」の特集記事であった。特集記事の名は、「俺も男だ、強くなるぞ!」だ。そこには、簡単な空手の技の練習の仕方、腕立て伏せやスクワットの仕方、そして学生時代いじめられていた、という段田男さんの記事の手記が乗っていた。特集ページとしては10ページもなかったが、私は激烈に心が燃え上がった。その本はしばらくとってあったから、すぐに探して読み返し、もっと詳しく知りたい、と思い、武術の本を探したのである。名古屋まで買いにいったが変わった武術の本はなく、しかたなく空手の本を買ったのである(それは後々大変役に立ったが)。

本当に一生懸命、空手を練習した。スクワット、腕立て、正拳突き、巻き藁蹴り、すべてやりこなし、走り込んだ。しかし、私は圧倒されてしまった。独りに向き合っている後ろから、椅子で殴られ、倒れたところを自在ぼうきの柄で突かれ、敗れた。その後、ここで書くのが辛いくらい悪化し、同級生は学校に来ることができなくなった。私のせいである。受け入れがたい悲しい結果となった後に、地元刈谷市の本屋で、佐藤金兵衛師範の『中国拳法 八卦掌』とめぐりあうこととなったのである。これは「流れ」だったのだろうか。その時にはもう、遅かったのに。しかし、まだ希望はあった。遅くても終わりではなかった。しかしもっと練習しておけばよかった。ここから先、いじめを受けて今まさに苦しんでいる君たちに、腹を割って話そうと思ったが、ここまでが限界です。ごめんなさい。本当に、苦しいよね。まっただ中でない自分でも、苦しいのだから、君たちはなおのことだと、心から思う。

同級生が学校にから去り、そしてこの世界から去った時に、わたしはいつかきっと、高めた技術を、世界に届けると、誓ったのである。これはもう、隠しようがないことだ。この部分を話すことを避けていたら、私の今までの行動は、説明がつかないのだから。転掌は正当なものではない、とか、〇〇先生伝とかに、私がまったく興味が無いのは、それゆえである。大切な人を守ることができれば、私にとって「正解」なのだから。

転掌ゆえ、「この技術は女性でもつかうことができるだろうか」が、技を研究するうえでの重要な判断基準となった。しかしもっと深い判断基準を持っていた。「あの時に戻ったら、いじめた連中たちを手玉にとることができるだろうか」である。私はその点をとても厳しくとらえていた。

残念ながら、私は梁派近代格闘術八卦掌で、その問いに対し、自信をもって「手玉にとることができる」と感じることはできなかった。しかし転掌式八卦掌ならば、ここ数年でやっと、捕まらない自信を持つことができたのである。私は、「今なら手玉にとることができる!」と感じたら、拳法の指導をするために全国をまわるつもりだった。しかしいつでも、旅立つことはできたのだ。すでに技術は備わっていた。覚悟が足らないだけだった。

足らないものなど、何もなかった。足らないと思っていたが、余りに多くの豊かなものに囲まれていた。まず健康な身体がある。そしてやりぬいた先に手にした、一朝一夕でない技術がある。いつでもどこでも、私を運んでくれ、雨風から私を守ってくれる相棒車がいる。私を信じ、私がこれから成し遂げることを目の当たりにするために、これまでもこれからもずっと変わらず、笑ってくれる一番弟子をはじめとする娘たちがいる。

このブログを打っている場所は、窓を開けると海の潮騒が聴こえてくる。空を見上げれば、満点の星空だ。愛知の空と同じ空とは思えないくらいの、星の祭りの下で、私はブログを打つ幸せに恵まれている。苦しいことが多い。しかしその中でも、これほどまでの「めぐみ」に恵まれているんだね。

取り返しにいこう。取返しに行く、とは、君にすでに「有る」ものを、君自身が「確かにあるなぁ」と気づく旅のことのようだ。君は取り返したら、何を真っ先にしたい?何もしたくないなら、それこそが、いまほんとうにとりかえしたいものだ

双身槍術。槍は使わない。使うのは2m長棒のみ。

転掌の最大の利点は、武器術を通して、あらゆる身のまわりの物をもって、戦う概念が創られることだ。

もっとも代表的な武器術は、転掌刀術である。刀術とあるが、刀を用いて練習しない。転掌マスターらは、棒を利用して練習するのである。120cmくらいの、やや長めの棒を利用して、「斬る」よりも「ぶつける」練習をする。

その思想を受け継いだのが、双身槍術である。そしてここでも、両方に槍の刃がついていない、2m程度の長棒を利用して練習する。2mの長棒の中心点を持ち、按槍という基本技を用いて、移動しながら両端をぶつけて身を守る。

両端をぶつける、といっても、敵の塊に斬りかかるような、積極的な攻撃をしない。ただひたすら、集団の外に出ながら、先端をぶつけていくのである。

そして双身槍術を有効なものにするために、遊身大刀術を併せて学習する。長棒の片側先端を持ってしまえば、双身槍は遊身大刀に早変わりである。それが、単なる長棒で練習するメリットなのである。

これは、演武化・見栄え重視化・派手さが進んだ現代格闘術において、大きな波紋を投げかけるものである。実用重視と言っておきながら、派手でかっこいいものを潜在的に求めているのが現状である。映画「〇滅の刃」では、その内容よりも、派手な戦闘シーンがもてはやされており、映画(フィクション)と実際の区別もつかないド素人たちが、本当の武術家の動きを見て、「地味」とバカにする。

弊館三番弟子・双身槍術の使い手である彼女は、遊身大刀と、脇下のベルトに収めた鏢術(短いナイフ)の使い手でもある。その技法は驚くほどシンプルである。双身槍で緒戦を過ごし、移動推進力が棒に乗り移ったら、遊身大刀術でアウトレンジ攻撃を仕掛ける。敵が詰めて来たら、長棒を振りまわしながら鏢を取り出し、脇下に突き立てる。長棒を振りまわすための持久力が必要であり、誰よりも単換掌・双換掌を利用した持久走を長くこなす。

護衛は苛酷。彼女を守りたいなら、せめて危機意識を持て。

もっと警戒せよ。特にその傍らに大切な人がいる時は。

私が警備員として、夜間公園、市街地外れの防波堤・緩衝地帯を警備していた頃、本当に多かったのは、人気のないところに女性を連れて来る男性だ。

もし本当に、その女性のことを大切に思っているなら、このような場所には連れてきてはいけない。海外では、このようなことはあり得ない。絶対につれてこない。海外では、男子一人でも、人気のない場所にはいかない。それくらい、危険だから。日本は格段に治安がいい。それはまちがいない。各段にいいのである。

しかし、人気のない場所には連れてきてはいけない。それは、男性が強くても。格闘技をやっている?空手の有段者?ケンカ自慢?すべて関係ない。お前ひとりじゃないんだ。そこには、守るべき人がいるだろう?

お前が戦っている間に逃がす?守るべき人は、恐怖で動くことができないぞ。

転掌では、護衛をする、が加わると、その要求技術は格段に高くなる。振り向き様の敵に、斬られないでけん制しなければならない。必ずその場にとどまらないといけない。その場にとどまり逃げ続けるために、持久力系競技選手並みの持久力を、単換掌・双換掌の型練習をしながら、磨く必要がある。しかしそこまでしても、救援が来るのが頼みなのである。一定時間生存術、というだろう?それはつまり、転掌の技術を極めても、一定時間しかおとりになることができない、ということだ。

転掌護衛官は、時間稼ぎをするのが使命なのである。もし救援が来るのが遅れれば、宦官・宮女は命を落とす。斬られた部分からの出血が、主な原因となる。転掌における勢掌理(前敵スライド回避攻撃)をしていても、相手が複数人であったり、暗殺のエキスパートであれば、ダメージは避けられないのである。

人を守る、というのは、それくらい、苛酷なものである。守るために事前に準備をして、やっとのことで、一定時間、護衛できるのである。準備をしていない、ただ、人気のないところに恋人と来たいだけの、危機感のない一般男性では、話にならないのが分かるだろう。おおよそ今まで、警備員時代に見た、連れてきてしまった男性らは、身体を鍛えてなさそうな、やんちゃそうな男ばかりである。屈強な男性であっても、護衛は難しいのだ。とにかく帰れ!

なかなか帰らない、言っても帰らない、何も起きてないから、帰らない。あまりに危機感が無さすぎて、どうにもならない、がいつも感じていたことだった。

練習していると、すぐ近くで、集団だからなのか、馬鹿にしてくる子供らがいる。きわめて危ない行為である。もっと親は、そのような命知らずな行動を採らないように、指導しなければならぬ。マレーシアでは、武術を練習する人間を馬鹿にするようなことはしない。保安職のプロか、ゲリラである可能性があるからだ。ゲリラであったら、馬鹿にした者の命は保証されない。

見ず知らずの人間をいきなりバカにするのは、日本独自の、平和ボケした国ゆえの文化である。平和は大変貴重だ。しかしそれを当たり前と思ってはいけない。いま日本には、平和が当たり前でない国から来た人間がたくさんいる。もともと日本は、本来の目的と違った目的をもった外国人が侵入していることで有名であった。それらの人間は、平素は全く何もしない。しかし、心には違った使命を抱いている。日本だからといって、そこにいる人間が、すべて平和的な人間、ばかりではないのである。

先ほどの話に、話を戻そう。見ず知らずの人間を、馬鹿にしたりするな。どのような人間であるか分からないのだ。現在の親たちは、中年男性をやたらと警戒する。しかし本当に警戒すべきか判断は、年齢とか性別とかで判断するものではない。判断できないのなら、例外なく人を馬鹿にするな。

現在の護身術は、危機管理・危険回避の護身知識を教授することをメインとした護身術と、敵に掴まれた後の対処法を教授する護身術に分かれる。もし時間がないならば、危機管理・危険回避の護身術と、私の指導する、敵に掴まれない護身術を習う。一般の、敵に掴まれた後の護身術など、習わない。間に合わないから、時間がもったいないのである。

危機管理・危険回避の知識ならば、転掌の護身術を見事に一致するからだ。そこで説かれている危険回避術は、転掌の護身術をあわよくば不要ならしめる、事前回避のノウハウである。

董海川師として150年前の続きを行う~今度は世界に広げる

私はずっと、転掌を越え自分の流派を創ることを目的としていた。それが、私が考え得る大きな目的であったのだ

しかし練習すればするほど、進む先の一歩先に、目指すべきものが見えてしまう。自分の中で完成だと、思うことができない。超えられない、私は、董海川先師を越えられない

しかしふと思ったのだ。あまりにタイミングよく、色々なものが押し寄せてくる。目指すべきものが見えてしまう、ということは、必要なタイミングで、必要なものが見えてしまう、というだ。

これは直感ではない。思い出しているのではないか、そう考えた時、パッと頭に浮かぶことの意味が説明できる。いや、説明などできない。思い出すとはどういうことだ。まるでそれだと、私が150年前の清朝末期から現在日本に生まれ変わったかのようだ。

何か大きな意思があり、それが人間の社会や技術を発達させてきた。そのようなことを信じるようになってきた。しかし、生まれ変わり、というたぐいのものは、さすがに心から信じることができなかった。

肉体とかがそのまま、現世に転生する、というのは、やはり信じることはできない。よく『前世は、中世の王様だった』とか、『中世のお姫様だった』とか、そのような話をする人がいる。決してバカにしたりしないが、私は信じることができないのだ。そもそも、全く無名の庶民が、前世に限ってほぼ一握りの高貴な存在であった、という話が、都合がよすぎて信じることができないのだ。

当然そう考えると、私が董組川先師の生まれかわりなのではないか、という話もあまりにも偶然が過ぎるのである。しかしそうだろうか。私は、そこら辺にいる、何の特徴もない、50代の男なのだろうか。

そうではない。誰よりも、董先師が創った技術を求め、誰よりも練習し、今なお、誰よりも研究し、ごく普通の生活をすることすら放棄して、追い続けている。私こそ、董海川先師の生まれ変わりであると、一番言っていい人間のうちの一人なのである。

日本国内には、多くの八卦掌指導者がいる。彼ら彼女らは、皆近代化した後の八卦掌の指導者である。董海川先師が創ったものから、大きく技術体系を変えた後の武術の指導者である。しかし私は違う。八卦掌指導者が間違っているとか、そういうことではない。間違ってなどいない。そのようなことはどうでもいいことだ。変化は誤伝ではない。変化させた者にとって、変化させることが必要だったから、そうしたのだ。それも大いなるものの意思なのである。

生まれ変わりとか、転生とかは、未だに完全には信じていない。しかし状況が物語っている。この状況に心をゆだねることは、多くの古代の賢人らが話す、『流れに身をゆだねる』と同じことなのかもしれない。疑うのではなく、これから眼の前で行われることに、必要以上に抵抗することなく、進むつもりである。

以前ブログで、『夢の中で、大きな盾を持って大声で叫びながら、何か飛んでくる平原の上で、走る自分を見る』と書いたことがある。私は、練習で連身藤牌を最も長く練習している。だから夢でも見るのだと、思っていた。しかしそうでなかったら。

楊家拳の門伝では、董海川先師が転掌を創る際に最も土台となった武術は、戦場藤牌兵刀術である、と断じている。私もそう確信している。楊家では、連身藤牌の伝承がもっとも後に行われる。それは、掌継人となった後に、本人が希望して、かつその本人がしっかりと練習していることを条件として指導される。それくらい、門外不出の伝承技なのである。

サイトでは、連身藤牌の初心者用練習型の一部を、門の紹介として掲載している。盾の中から身を乗り出して斬っていて実戦的じゃない、という、何も知らないド素人丸出しの批判もあった。転掌の技術体系について、何ら経験も智識もないから、そのような的外れな批判をするのだ。塩田剛三師範の多人数相手の多人数取りを見て、「やらせだ」と言ってる人間と、なんら変わりがない。私は、塩田剛三師範のすごさを、門外漢であるにもかかわらず、多人数戦を追い求める者として、理解し絶賛している。あれは選ばれし者の技術である。キーワードは、強者の使う技術をもって、強者に対抗し、さばいているからである。私はあの技術を指導できないし、指導できたとしても、人に教えないだろう。弱い者が使いこなすようになるまで、大変な積み重ねを要するからである。ほとんどの人間が、一つのことを長く根気よく続けることができないことを、伝承活動・修行期間の中で、身をもって思い知ったからである。

この揺るぎない「状況証拠」に身をゆだね、私は150年前に一旦終わった「伝播」の波を、再び引き起こすことにした。今度は世界の隅々に、自分と大切な人を護衛する技術を伝える

日本の、いや世界の護身術は、転掌式八卦掌の復活をもって、夜明けを迎える。

私は世界にその技術を伝えるために、より多くの者に伝える部分を、明確にしてきた。何冊も書籍を出版し、伝える技術に磨きをかけてきた。書籍による転掌「一定時間生存術」の開示は、世界の隅々に、転掌が護身術として利用されるきっかけを作るものである。

リデル・ハートの名著「戦略論」における「間接戦略」である。一つの場所に道場を創り、そこの近隣住民にのみ指導することは、地に足の着いた活動として称賛されやすい。しかし世界に広がることはない。世界に伝承するならば、力を注ぐべきは、局所での深い指導ではない。

まず世界に、その技術体系を広く知らしめ、そこから抜きん出た、指導者志望の有志を自動的に選別し、日本にて一定時間育て、その者が本国に帰還して、その場で広める、のである。これこそ、迂回しながらも、最も自分が望むものを実現し得る「間接戦略」なのである。絶望的な状況の中で、私の元を離れず、自らも痛みを伴いながらも、とどまり、ついてきてくれる軍師に感謝したい。人生を賭けたあなたに、私は大きな成果をもって報いる。そして、苦しい中でも構わず飛び込んできた親衛隊長・事務方スペシャリスト・筆頭技術指導者に、心から感謝したい。私には、張良もいるし、樊かいもいるし、簫荷、陳平もいるのである。あとは全軍を率いる、大将軍・韓信だけである。

軍師曰く「そのうちやって来る。兆しが間もなく来る。ラオシィが、覚悟を決めたから」

ありがとう。その通りだ、軍師の言うことはいつも正しい。

150年前の私にも、多くの協力者がいたはずだ。150年前の私に言いたい。

私にもいる、大丈夫だ

今から、150年前の偉業の続きを行っていくことにする。

もっとも最初に採るべき行動は、転掌八卦門を、生粋の伝統門に戻すことである。私はコロナウィルスによるパンデミックで、門の安売りをしてしまった。先ほど挙げた、生粋の仲間たちの意見を無視し。今私が陥っている状況は、私の責任である。しかし軍師はいう。

「このような事態に陥ったことで責任を感じることに意味はない、ここから得られる気づきを、実行に移すのみである」

明確に分かったことがある。すぐに行動を起こさない者に、転掌の未来を味わう猶予を与える必要はない。金沢に来て、安価な講習料であっても、雨だ、用事だ、公園で恥ずかしい、などと言っている者に、転掌の達人となる未来はない。もう用はないのである。これから先も、そして今この瞬間も、世界の多くの有志が、転掌の技術に触れている。それはアクセス解析や動画、出版書籍の販売状況が如実に物語っている。

伝播の波は、確実に大きくなっているのである。この波に一緒に乗ってもいいと思う者だけ、ついてこればいいのである。私にはすでに、建国の功臣がそろっている。いつまで、お客様感覚で門にアクセスしてくるのだ、カルチャーセンターではない、伝統門である。いい加減な態度でアクセスしてくる者は、そこを改めよ。改めないなら、中国拳法を始めとする武術に習得は難しいと考えよ。

  • 転掌八卦門初伝科:料金体系の変更。参加における選考制の復活(初伝門人の人格基準の維持)
  • 転掌八卦門の拠点設置措置の停止:現在金沢に設置してあるが、金沢で拠点を設置した状態での門下生の募集を今後停止する(需要がない、学び通せる者がいないため)。
  • 指導展開方法の変更。準備期間後、指導拠点を週~月単位で変更し、全国を指導して周る形態を採る:冬季は太平洋側の非積雪地帯、夏期に積雪地帯側の指導をメインとする。
  • 通信講座(一定時間生存術)の料金体系・指導体系の変更:非対面指導する内容の明確化。昔日の秘伝も指導するため、それに見合った報酬を、館が得て、技術レベルを維持するため。情報漏えいに対する対抗力の強化のため。

転掌が清朝後宮護衛官武術の立場を得た本当の理由

八卦掌の原型武術・転掌は、清朝後宮の宦官・宮女護衛官らが使った武術である。この事実を知らない八卦掌修行者は多い。

そもそも、董海川先生が宦官であったことを知らない。宦官とはどのようなものであるかすらも、知らない。宦官とは後宮にて、王族の世話や雑役業務に従事した、去勢された男性雑役官吏のことである。

転掌創始者の董海川先生は、宦官であった。これはどの八卦掌内流派も口をそろえて認めている事実である。

転掌はなぜ、後宮護衛官の武術として採用されたのか。これが本題のテーマである。

採用された本当の理由はこうだ。董海川が王族らの護衛人に関わる不満を洞察し、それを解決する手段になりうる武術を推理し、それに合わせた技術体系を創りだし、技術を意図的に人(王族や関係者など)に見せ、その技術体系が、王族らが従来持っていた不満を解決しうるものであると、王族らが判断したから、後宮内護衛官武術として採用されたのである。董師の技術が高く、王族がそれを見染めたから、後宮護衛官武術になったのではない。


この動画には解説音声があります

よく言われる話が、宮中内の壁の屋根に上り、お盆に載せたコップの水を落とさないで練習している(!)のを、王族が偶然見て、すごいと思ったから採用した、というもの。八卦掌内の各流派では、その話を逸話として、ロマン性を込めて、採用された理由として弟子らに伝えている。もちろん、真の理由とは半分思っていないであろうが。それはあくまで、達人によくある、人間離れした伝説と思ってもらうとよい。

ここでは、もっと現実的な話をしていく。ここで話すものは、私が先代師より聞いたものである。楊家拳における門伝であり、その内容も極めて合理的でロマンが無いくらい現実的であり伝説めいた内容が無いため、信用できると考えて良い。

『王族が従来より持っていた不満』とはどのようなものだろうか。それは、自分たちの居住スペースでもある後宮に、護衛の目的とはいえ、武術の心得のある男性護衛者たる男性武官が、攻撃力の高い武器(武官用の刀剣など)を持って入り込んでいる現状にあった。

当時、王族といえども、宮中に入る者の素性を、すべて把握できた訳ではない。もし謀反の心・密命を持った男性武芸者が後宮内で凶行に及んだら、宦官・宮女ばかりの後宮内では、我が身を守る者がいないため、たちどころに自分の命が危うくなる。清朝に正規に採用され、紫禁城内に出入りする者であっても、どのようなしがらみや使命・信条を持っているかわからないのだ。

正規護衛官の武術技能と武器が脅威にもなった

董海川先生が宦官として宮中内に入っていた頃は、ちょうど太平天国の争乱が鎮圧されたころの、乱世の時代。中国国内には、多くの利害・恨み・仇が交差し、頂点に立つ清朝宮中には、様々な思惑を持った人間が、公に、もしくは秘密裏に、その場を行き来した。

不透明な人間の行き来に対し、護衛者を置かない、という選択肢を採ることはできない。男性護衛者を、一人として入れない、という措置は、有事に己を守る人間を一人も設置しないことと同義であるからだ。そこに王族のジレンマがあった。

董海川先師は、その部分に目を付けた。宦官・宮女でも護衛の任務が可能となるような武術を考案し、その武術を推奨・提言できる機会を意図的に創り出し、機を見て売り込んだのである。

その時、以下の点を強調したと考えられる。

  • テンショウであれば、宦官・宮女でも護衛が可能となるため、現在後宮内に侍る男性護衛者を罷免できる,という点
  • 身の周りのモノで対処し得る技術体系で在るため、宦官宮女らに、刀や槍などの、攻撃力の高い武器をもたせなくてもいい、という点
  • 短期習得可能であるため、宦官・宮女らを、ただちに護衛の任務に就かせることができる、という点
  • 武術といっても、積極的に敵を攻撃する武術でないため、他の者にとって脅威ではない、という点

董海川先師の目論見とプレゼンは、清朝粛親王府の王族の心を動かすことになる。

王族は、宦官・宮女らが最低限の護衛を実行するのを確認してから、いままで宮中内で侍っていた男性警護人らを後宮から締め出し、転掌を習得した宦官・宮女らにその任務を行わせるのである。その時罷免された者の名は、伝説では「沙某(なにがし)」となっている通り、正確には不明である。その沙某と一騎打ちになった、という逸話があるが、伝説の域を超えていない。

転掌は後宮護衛官武術となり、元来の董海川先師の武術技術のレベルの高さもあいまって、その名を高めたのである。転掌の創始者、そして指導員として成り上がった後の董海川先師には、第三者が証明しうる逸話がちらほらと出現し始める。

武勇伝として最も有名なのが、王族の僥倖(ぎょうこう※下界視察のようなもの)に、側近護衛官として随行した際、遭遇した賊徒に単身斬り込み、縦横無尽に駆け巡り、大根を斬るかのごとく賊徒を倒し続けた、というものだ。これは、楊家に門伝として伝わっている。

この話の実際は、董師が重い単刀を引っ提げて、賊徒にぶつけ斬りをして倒した戦いを、伝えたものである。切れ味のよい刀では、多くの賊徒を斬り続けることはできない。切れ味の良い刀は、人を斬った際に生じる、刃部の損傷により、たちどころに斬ることができなくなる。重い刀は、切れ味よりもぶつける面の丈夫さを重視する。重い刀を敵にぶつけて殺傷することで、多くの敵に対応したのである。ぶつける際の殺傷力は、長年の修行によって養われた移動による移動推進力と持久力をもって大きく増大され、殺傷しうるものまでになったのである。

転掌は、王族に認められ、その護衛をつかさどる護衛官武術となることで、多くの武を志す男性に、「習ってみたい」という欲求を持たせる。名声が高まったがゆえに、董海川先師の元には、強さを真摯に求める男性武芸者らが多く集まり、それが技術体系の変化へとつながるという皮肉な結果を生む。

当然である。修行する者の中身が、身体柔弱なる宦官や宮女から、武の道における完成を求める、屈強な男性に変わったのである。名声を得れば、転掌は多くの武門と、腕比べの試合をするようになる。そこは、転掌が想定した戦いのシチュエーションと全く異なる、「試合」なのである。ある程度の公平性が保たれた場。

多人数の戦いはなく、武器もなく、体格も同じくらいの者同士で行われ、両者の中堅指導者らが、審判として試合の安全を見守っている。片や転掌はどうであろう。弱い者が強い襲撃者と戦うために移動戦を繰り広げるため、向き合って戦う試合とは、その戦い方を根底から異にする。董師の元に集まって、その技術が完成していった男性修行者らは、対多人数・対強者・対武器の技術体系から、対一人想定・試合での勝利至上主義の、強者格闘技へと技術体系を変更させていくのである。

転掌はその後、幾人かの高名な後代拳師らにより、複雑高度な八卦陰陽理論で技術が理論づけされることになる。漢族知識人らの、知的好奇心をも満たすためである。高度な理論で裏付けできれば、転掌は「高級武術」となることができる。『宦官や宮女が短期習得で「おとり護衛」をするための武術』よりも、『八卦陰陽理論によって技術体系が組まれた、試合で勝つことのできる武術』の方が、人々に与える印象が良く、修行者も集めるのであるから。

そのようにして、「転掌」は「八卦掌」へとその名を変え、転掌の名と技術体系は、八卦掌の国内への爆発的な波及と共に、転掌自体が無かったものと思われるくらいの勢いで、その存在自体を無くしていくのである。

その流れに抗し、弱者の護身・護衛のために、転掌の技術体系をなんとか残そうと奮闘したのが、転掌3世の、宮女として董師にも教えを受けた開祖である(宮女開祖と門内では呼んでいる。宮女開祖の名は、私の先代師の師伝により、掌継人だけに知らせる門内秘匿事項とされているため、非公開)。宮女開祖は、時代の流れの中で、その技術体系を守ろうとして

「この技術体系だけは、変えてはならない」

という門伝を楊家後代に守らせた。そして縁あって、弱者護身と護衛を願っていた私に伝わったのである。

清朝後宮護衛官武術となった経緯に関わる門伝と、私の見解をもう一つ述べておく。董先師は、地方漫遊の中で、一人の異人と出逢い、八卦の術を授けられた、という説がある。これはどういうことであるか。異人とは何者か?

楊家伝によると、護衛官武術となったいきさつが、「董海川先師が、清朝の護衛武術となるのをもくろんで、その技術体系を創り、それを売り込んで採用された」となっている。董師から直に指導を受けた宮女開祖の伝えた門伝であり、私は信頼できる内容であると判断している。しかしこれではあまりに、拳法誕生のきっかけとしては野心的でロマンがないではないか。後世に与える印象はよくない。特に、転掌の伝承と発展を目指す後代拳師らは、その影響をまともに受ける。そこで誰に迷惑をかけることもない、説明できない存在である「異人」を創り出し、その存在から技術を受け継いだとして、最低限の伝統性を持たせたのである。

以上、護衛官武術とした採用された経緯を示した。ここで示した見解は、八卦掌が転掌であった頃の技術体系を知らない者に、多くの疑念を抱かせるであろう。きっと、マイナス評価されたり、登録者が減ったりする。暇つぶしのサラリーマン愛好家らが見るなら、それも避けられない。一向にかまわない。結構である。しかし私は長年、近代格闘術八卦掌となった現行主流の八卦掌を学習し、指導許可を得るまで磨いたうえで、ここで示した成立過程に、腹の底から納得したのである。転掌の技術体系しか知らずに、このようなことを言っているのではない。批判しようとするなら、まず先にそこを理解せよ。

的外れな意見にさらされようと、これは、伝えなければならないことなのである。転掌時代の董海川先師の、伝説的逸話を紹介しているのではない。弟子に、技術や練習法の意味を示すうえで、必ず必要となる伝承事項だから、これほどの時間を割いて、動画まで作成して、伝えたのである。

日本の、そして世界の護身術は、転掌式八卦掌の復活をもって、ようやく夜明けを迎えるのである。よって、転掌を唯一極めた私が、昔日の姿を、伝えなければならないのである。

日本の武術愛好家らは、自分の取り組んでいる武術についてその本質を見ず、「〇〇先生伝」「正伝」なる他人が勝手に謳っている、実戦において全く役に立たない権威めいたものに固執している。いつまで経っても、自分の取り組む拳法によって、有事の際に対応できるか自信がないからである。いつまで経っても、素人の、力任せの素人の攻撃にすら、対応できないのである。この動画で示したものは、自分が向き合う武術の本質を考えるうえでの、「思考法」の参考となろう。

くだらない権威に心囚われているならば、今すぐ、君の取り組む武術の本質を、自分の今の直感とかで、捉えてみるとよい。批判したり、チャンネル登録を解除したりする、しょうもない行動をする暇があるならば、今一度自分の武術と、向き合ってみるがいい。分かったか、サラリーマン愛好家どもよ。

地方の名もなき先生の教えに不満を垂れている場合ではない。そこで示された型の意味を、何度も繰り返して、徹底的に味わってみろ。それができないのなら、たとえ有名先生に師事できたとしても、「自分で考えない奴」として、気にかけてもらえることはないぞ。私に言わせれば、わざわざ都市部の有名先生に師事する必要もない。今受けている教えを理解し、その先生の名で、独自の流派を立ち上げてもいい。私もそうであろう?証明できない無名の家の家伝武術を、長年の修行で得た経験をもって、価値ある存在と確信し、広めているではないか。

董海川先師の行動力を、少しでもいいから見習うがいい。私が、先師を最も評価する点は、意思の力に裏付けされた、この行動力であるのだから。行動しない理由ばかり話す日本修行者の中から抜きん出るためには、淡々とこなしていくこと。抜きん出るくらいなら、これだけで十分である。

天才は、凡人に失敗だと笑われても歩き続けるものだ

今回の転掌護身術の基礎講習会は、色んな場所で行われる。そしてこの講習会を終えると、私の講習会開催数は、70回を越える。

現在68回である。そのうち、人が来たのは、10回もない。今回の講習会でも、以前から活動し続けていた地域では、講習会情報のクリックすら少ない。

人は言う。まだ尚早だ。人が来ない、ということは、魅力がないからだ。何が再興祖だ。〇〇だからうまくいかないのだ、と。

何を言ってるんだ。ふざけるな。何もしらないド素人が、私に対して何を言えるのだ。ありのままの事実を言っているだけだ。私こそ、そのようにいうのにふさわしい。私こそ、再興祖で在る唯一の存在なのだ。

凡人どもの指摘は、あまりに的外れで、反論の価値すらない。私の提唱しているものが、人と同じような者しかできない凡人どもにとって、刺激が強すぎるから、だけのことだ。あまりに違い過ぎて理解できないだけだ。人に認められることは、その内容が価値がある、と同義ではない。人に認められる、ということは、人と同じようなことをしていることの証拠でしかない。私は、その他大勢の者らが群がるものは、今までの人が創ったもののリニューアル品でしかないと確信している。

かれらにそれがわかるはずもない。

八卦掌では、個人サイトで1位の検索順位であるのに、八卦掌の先生らのチャンネル登録者数に比して、脅威的な少なさを誇る。600人程度である。これこそ、天才の証である。私の提唱する技法が、あまりにとびぬけているから、習得を二の次としてる暇つぶしの愛好家どもに理解できないのである。

私が転掌の核心についての動画を上げると、必ずと言っていいほど、登録者が減っていく。素晴らしい。その他大勢の枠内にしかとどまることができない凡人が、消えていくだけである。

いつもそうである。時代はいつも、私の後についてくる。砂浜で、ルアー竿で、20cmのばかでかいルアーを投げることを、フロー状態に入る動的座禅として利用していた。当時砂浜でルアーを投げスズキを狙うことは、ほとんどだれもが思いつかない笑われる所業だったのだ。

ダイワのフィールドテスターが、その所業を世に広めてから、砂浜や河口に、多くの凡人どもが押し寄せることとなった。今じゃ、どこのマニアックな砂浜にも、ルアーを投げる連中であふれかえっている。凡人のたまり場になってしまった。つまらない。自由に行き来できなくなった。

しかし私は、フロー状態に入りたかった。座っているだけではつまらない。投げて巻いて、ひたすら投げて、そして時折食いついてくるスズキをねらうのが、楽しい修行の一環となった。ときおり、一番弟子もルアーを投げる。その腕前はなかなかのものだ。彼女こそ、動的座禅の提唱者である。私と娘が持っている竿なんぞ、砂浜に最近あふれかえるようになった凡人どもの竿に比べたら、安物である。しかし私たちは、動的座禅によるフロー状態を求めているのだ。

投げて、巻いて、時折、魚食魚に追いかけられる小魚が砂浜に打ち寄せられるのを見て、また投げて・・・これを動的座禅ととらえている人間はどこにいる?おそらく、私と娘だけであろう。

講習会の金額について、よく質問がある。高いから行けません。もっと安ければ・・・。

その人間にとって、私の伝える武術の価値が、低いだけだ。質問者にとっては、3000円程度の価値しかないのである。私は、11000円でも安すぎると思っている。質問者に言いたい。君は人生において、3000円の価値しかないものに時間を費やすのか?どうせならもっと価値のあるものに費やすべきだろう。

質問者にとって、わたしのつたえるものはほぼ無価値なのだ。私はそう思っていない。私は価値あるいのちを賭けうるものだから伝えているのだ。価値を見出せない者に、私は用はない。

講習会について、積極的に宣伝を打たないのは、それゆえである。私の告示をみて、高い、遠い、用事がある、そう考える人間は、その程度の情熱しか私の伝えるものに費やすことができないのである。続くはずもない。

愛知から石川に移行して、なんらかんらの用事で来れなくなる人間、雨だから来ない人間、そういう人間は、正直いらない。避けられない用事とかなんとか、どうでもいいのである。来る気があるならば、とっくに来ているはずである。来ないのだから、その程度なのである。

ハッキリと言わせてもらおう。中国拳法を日本人が極めるなら、全身全霊をもって飛び込まなければ、極めることはできない。なぜなら、中国の先生は極めて保守的で、片手間人間に決して中核を指導しないからだ。今も昔も、まったく変わらない。用事があります、雨だから行けません。それに対する先生の返事はたったひとつだ。

君はもう来なくていい

色々と型を教えてくれる。八卦六十四掌を知っている。あれもこれも知っている。六十四掌のような、交流型を知っていることが何だというのだ。それはお客様だから教えてくれるのだ。しっかりと君はお金を払っただろう?その対価として、交流型を教えてくれたのだ。中核技法は、お金ではない信頼によってのみ、伝授される。

信頼を得るためには、どのような状況下であっても、なんとしても通い、練習し続けることだ。それをできる者こそが、天才なのである。私の周りには天才しかいない。言い換えるならば、天才以外、すべていなくなった。

愛知から石川へ行ってしまったから・・・それまでだ。それは言い訳にならない。私は中学生の時、関東まで通ったのだ。すべてを賭けて、一生懸命練習したのだ。だから私は天才のままで年を重ね、天才だからこそ得る境地に達したのだ。

日本の護身術は、転掌式八卦掌の復活をもって、ついに夜明けを迎える。

命を賭けた生存術を習いに来るといい。私は、情熱を持つ者にのみ、その全伝を授ける。生粋の伝統門で育ったからこそ、その対応が正しいことを知っている。

来たれ、情熱を宿し続ける天才よ。

拳客人生が始まる。砺波で、「生きている」実感と共に。

代継門人弟子,掌継人弟子とともに金沢をたち、砺波に入った。彼女らが今、買い物をしている間に、私はこの文を打つ。

特定の拠点を持たない生活、この人生でかなり多くの時間を積み重ねている。その都度、これではいけない!と思ってきたが、最も苦しい時もそばに居る一番弟子の娘は、このようになることを予想していたようだ。

これこそが、私たちの進む道である、と。

私の伝える武術に、価値の欠陥などありえない。欠点とか短所なら、あるのかもしれない。しかしそれは相対的なものであり、価値の欠如につながらない。だから私は、私自身への批判は無視してきたが、楊家拳への批判には、法的措置を含めた極めて厳しい姿勢で臨んできた。

楊家拳のことを最も知っているのは私である。楊師は私に対し、楊家連身藤牌まで伝えたのは、イーレン(義人)が初めてであり、これからもそうであろうとおっしゃった。楊家拳を批判する人間は、楊家拳のことなど、何も知らないのである。知らない人間が、知りもしないことに批判するなど、侮辱以外の何ものでもないのである。

それはちょうど、私が、知りもしない太極拳などの拳法について、その有効性やらを批判するようなものである。極めて無礼であり、その門に泥を塗るのにも等しい行為である。

金沢に来て、何度も何度も、無断キャンセルの憂き目を味わった。私はその行為を、門に対する侮辱と捉えており、そのようなことをした申請者は、二度と受け付けない。

私の母の葬儀があった時、金沢で見学者が来る予定であった。前々からの申込みであったため、私はそちらを優先させた。しかしその者は来なかったのである。気丈な一番弟子は、その時、今まで見せたこともないような怒りを見せた。海岸につくやいなや、特殊スチールの警棒を振り出し、転がっていた大木を激しく何度も何度も、打ち付けた。その木が折れるまで、何度も何度も。叩き折る時、大声をあげてその木を粉々にし、その場で泣いた。大声で泣いた。

手を見ると、たったそれだけの時間で剥けた掌の皮が見え、血が流れていた。楊家拳を極めることにすべてをかける彼女にとって、余りに悔しい瞬間であったのだ。私も、彼女と同じ気持ちであった。

そしてその怒りを感じている時、激しく燃え上がる感情を感じた。この武術と共に燃え尽きる覚悟が。そのことを言ったら、一番弟子も同意する。そして北陸の天才どもに、最後のチャンスを与えたのだ。もう少し先に立ち上げる予定であった「転掌八卦門」を立ち上げ、門の入り口を正し、然るべき者の基準を敷居直した。

より多くの者に、機会を。の考えは、愛好家らにとって、何ら響かなかったようだ。知らぬうちに、私は私自身で、楊家拳の価値を低く発信していた。一番弟子が私に対し、楊家拳の普及を自制することを求めていたのは、私が「広く門戸を」の考えにより、結果的に安売りとなっていることを嫌がっていたからだ。

今回の、夏にかけての講習会等で、講習会直前に用事ばかりで来なくなる人間らを見て、伝承の厳しさを身をもって知った。多くの者にとって、拳法の習得など、二の次である、ということを。大事なことがあって、それらを犠牲にすることはせず、その範囲内で行うものである、ということを。

私はそれを痛切に感じた。それは前々から一番弟子が言っていたことだった。私は彼女と何度も話し、そこで一つの結論に達したのだ。門戸を広くする、という、考えは、愛好家らにとって、ノウハウを無料でかすめ取る利用手段にしかならない、ということを。本当に伝えるべき人間とは、いわれなき暴力から我が身を守る必要のある「武術が趣味」などと言ってない人間である、ということを。

私のことを思い出した。私は、いじめとの戦いが始まるまで、武術に何の興味もなかった。習い事で、柔道や空手だけはしたくなかったのである。野球やスキーがしたかった、普通の少年だった。しかし同級生を守る戦いにおいて、私の趣向は関係なかった。練習せざるを得なかったのである。先生も他の同級生らも、誰も助けてくれないからだ。助けてくれるどころか、いじめる連中と一緒になって、楽しそうに笑っている。先生も同級生も。この絶望的な状況の中での唯一の希望は、立ち向かうための武術の習得だった。その選択は、今でも間違っていなかったと確信している。しかし、弱者の戦い方を知らなかったのだ。

武術のことなど何も知らなかった私がそこで選んだのは、空手である。というか、空手の本しかなかった。空手や少林寺拳法の道場は、助けてくれない同級生らでいっぱいだったからだ。独学で、本で、習得するしかなかったのだ。

とにかく必死で練習した。勉強もせず、宿題もせず(助けてくれない先生に対する怒りもあったから)、正拳突き、片足スクワット、立ち木への蹴りの練習をし、書いてある通り、腕立て伏せと走り込みをした。しかし結果は・・・プロフィールに書いてある通り、多人数の圧力で粉砕され、取り返しのつかない事態を招いた。

楊師はその話を聞いた時、私にこう言ったのである。

「倒すことはなかった。どんなことになろうと、捕まらないで相手をかわし、そいつらの情けなさを見せつけてやればよかった。」

そしてそのあと、その練習の練習が終わる際、

「このまま練習しても、同じ結果になるだけだ。水野ヨ、そいつらの情けなさを見せつけるための戦い方を教えてやる。今のままではだめだ、やられるだけだ」

「土曜日に来れるか?」

「来ます、お願いします」

転掌が私に伝わることになった運命的な瞬間であった。私の動機は、楊師の心を動かしたようだ。

「これは特別なものだ。日本人に見せるな。そうでないと、教えんぞ。見せたら、お前はもう来なくていいぞ」

厳格で超保守的だった先代楊師の秘匿主義の本性を、初めて見た瞬間であった。それくらい、楊家拳は、楊家にとって大切なものとなっていたのだ。

董海川先師が、楊家宮女開祖に伝え、楊家拳となり、いつしか家伝武術の状態となっていたのである。門諺によると、宮女開祖は、その技法を福建省にて門戸を広くし伝えようとしたが、時勢によりないがしろにされ、失意のままに世を去った。その無念が楊家に鮮烈な記憶として伝わっていたのである。10月に発刊した『「本当に使える」女性護身術の独習教書』の裏表紙に

「この技術体系だけは、変えてはならない」

と記載がある。

それは宮女開祖が、自分の伝えるものが世間から必要とされなくなっても、貫き続けた伝承の姿勢から、発せられた言葉である。私は宮女開祖に、心から感謝している。私の戦いには間に合わなかった。しかし宮女開祖の伝えたものが現世にしっかりと伝わっていて、誰でも習うことができたのなら、私は同級生を追い詰めた連中の権威を、失墜させることができたかもしれなかった。私は使命を与えられたのである。私は、この偉大な開祖が残したものを、本当に必要とする者がいつでも学ぶことができる状態にして、届ける使命がある。

日本各地に散在する、本当に必要とする者、に巡り逢うためには、一場所にとどまっていてはならない。この技法を心から必要とし、実行する者に、巡り逢いに行かねばならぬ。一番弟子は、人生を、私と共に実現するために、力をささげるとおっしゃった。私に匹敵する、鉄の意志を持つ彼女だ。頼もしい娘だ。きっとついてきてくれるだろう。

私は百万の味方を得た。拳客人生の始まりである。砺波にて、私は気持ちを新たにする。ここからスタートである。これから私は、「楊家拳」という言葉をよく用いることになるだろう。それは、安売りをしない決意の表れでもある。

必要なものは、すべて私の中に、私のそばに在った。それを用意してくれた、おおいなる、説明できない存在に、ありがとう。

中国拳法の閉鎖性を侮ってはならない

中国拳法の秘密主義・よそ者不歓迎の実体を侮ってはならない。それは、私自身が、身をもって体験したからわかることだ。

例えば、いきなり道場破りに来るような人間が、返り討ちに遭って、その後頭を下げて入門を願う。そうしたら、「特別に教えてやろう」とその先生が特別に認める。

そのようなことは、私の経験から、ありえない。いきなり道場破りに来るような人間など、その才能が垣間見られたとしても、弟子にすることなどない。危険だからである。弟子の立場であった者が、師をあやめ、その門を乗っ取ることなど、いくらでもあった。国家単位で、下剋上が常に行われていた過酷な歴史の中国では、そこで生まれた武術も当然、謀反人に対して寛容ではないのだ。

それは、「〇〇門」などと名乗っているような伝統門であれば、なおのことである。つまり、八卦掌水式館の「転掌八卦門」でも同じ、ということである。私の元にも、過去3人ほど、腕試しの意図を持った人間が来た。当然、返り討ちである。そして、その瞬間に、永遠に「帰りなさい」である。そのような無礼の極みをした人間など、以後どれほど礼を尽くしても、教えることなど無いのだ。

いきなり「道場破り」などという極端な例を挙げてしまった。では、一般の門下生にはどうだろうか。

練習をしない者には、その門戸は開かれない。それが結論である。そして、中国の先生は、日本の先生みたいに「もっと練習しろ」などと言ってくれない。一度くらい言うかもしれないが、以後は言わない。もうその時点で、彼はそこの場から先に進ませてもらえないのである。練習しろと、言ってもらえないところが、中国拳法の世界の厳しいところである。練習しろといってくれる先生は、本当に優しいのである。

過酷なのは、教えないが、お金はとり続ける、という点である。練習しない人間に、本当に強くなる方法は教えないのである。ウソを教えるのである。もしくは断片的な基礎を永遠に、教えるのである。日本人の価値観からすると、「お金をもらっているのに教えないなんて・・」と思うかもしれない。しかし中国では、そのような道義的な価値観などないのである。いつまでたっても、本腰を入れて練習もせず惰性で続けているだけだから、教えない、のである。

日本の愛好家は、自分のペースで修行したがる。自分が何を習うか選び取って、自分にとってメリットとなる体系だけを、効率よく学ぼうとする。そのような姿勢を中国の先生が見たら、即効で「お客様」扱いをされ、型だけを教えらえ、お金はしっかり取られ、帰らされる。

日本の愛好家には、拳法の重要な中核技法を、無料でかすめとってやろうという人間が本当に多い。そしてこともあろうことか、教えを請うう先生に対し、値切ったりする。問題外である。私を含め、中国拳法の伝承者になるには、皆、膨大な時間・労力・お金を費やし、貫くことで多くのものを失っているのである。楊師もそうであった。過酷な経歴を聞いた。これは誰にも言うことができない。

よく問合せに、「遠いから行けません」とか、前々からわかっている指導日に、「その日は仕事が入る可能性があるからいけません」などというものがある。来る気があるなら、来るだろう。行く気があるなら、前もって日が分かっているのだから、仕事を入れない努力をし、来るだろう。

その者にとって、習うことは、日常生活を送った後で余力あれば習うもの、なのだ。そのような片手間感覚を、長年多くの人間に指導してきた中国の老師先生はすぐわかるものだ。私もすぐわかる。こいつは練習してないな、こいつは次には来ないな。そしてその直感は、おおよそ当たる。指導してきた100人近い人間の中で、心から、「学ばせてください」という気持ちで向き合ってぶつかってきた人間は、ほんのわずかである。そしてそのわずかな人間だけが、掌継人となって、全伝を受けることができるのだ。

日本人にとって最も過酷な、「外国人に対して教えない」という事実。これについて、私は本当に、恐ろしくなる。私は学生時代、関東で楊家武術の伝承者に指導を賜った。

最初の半年は、八卦掌と言われながら、斜めに移動する形意拳を教えられていた。違うものを偽って教えられていたのだ。それが中国の老師の、人を試す方法なのである。私は月2回、関東に通った。そして、習ってから愛知に帰ってからは、とにかく徹底的に練習をした。私の拳法を始めた動機が、私をそこまで駆り立てたのである。

「シュリーイェ(水野)よ、お前はなぜ、いつもそんなにやるのだ」

楊師の問いかけに、中学生の私はなんのためらいもなく、私が始めた動機・きっかけを話した。こんどこそ、大切な人を守る。こんどこそ、と真摯に訴えかけた。それが師のお目にかなったようである。

「次からは、前日の夕方と、日曜の朝に来い。そして、昼には顔を出すな」

そして次から、土曜日の夕方に個別に習った。そこで初めて、斜め後方スライドの転掌式八卦掌を習ったのである。

「この技法は、もはや誰も練習してないものだ、お前のような人間には、役立つだろう。いいか、昼に来る大人たちには見せるな。そもそも昼に来るな。」

私は土曜日に習ったものを、拠点となっていた親戚の家の前で夜通し、練習し、そのまま日曜の朝に出かけた。それくらい、衝撃的で、感じるモノがあったのだ。明確に覚えている。「これだ!」という感動を。私の前日からの進歩を、その都度、師は目を細めて、喜んでいた。そして楊師の私を呼ぶ名が、「シュリーイェ」から、「イーレン(義人)」に変わるころ、代継門人(転掌8世)となった。その積み重ねの日々があったからこそ、転掌の伝承を受けることにつながったのである。突然訪ねて頭を下げて、いきなりよそ者が教えてもらえるはずない、と私が言い切ることができるのは、その経験から言っているのである。

楊師は、私が書籍で発表した内容を含めた転掌の全伝技法を、特別のものとして扱っていた。だから、日曜の昼に来る、進歩しているのかどうか分からない程度の練習しかしてこない日本人に、お金をとって「ウソ」を教えていたのである。

それがいいか悪いかは、さておき、これくらい、伝統門で育った中国の老師というは、閉鎖的なのである。だから中国拳法を学ぶ者は、まずのその門派の入り口に立つことである。紹介状などを求めて特別扱いしてもらおうとする人間が私の元にも来たことがある。

しかし、そんなもの、何の役にも立たない。中国拳法の師に信頼され、その全伝を受け継ぐための唯一にして最速の方法は、誰もが立つことができる入り口に立って素直に学び続けることだ。その人間が今までやってきた武術について、師にとやかく講釈を垂れる何ぞ、もってのほかである。素直に学べ。その武術については、その者は初心者なのであるのだから。

この文を読み、反発するならば、あなたはいつまでたっても、本当のものを教えてもらえない。私も、この文を読んで反発するような人間に、教えることはない。一通り学んでもいない人間が、何がよくて何が不要か、など分かるはずもない。私は楊師よりその技術を一通り学んだ時、とても自信がなかった。しかし毎日練習場所に立ち、続けることで、私の身体という、もう一人の師が、転掌の深い部分を、教えてくれくれたのである。

その「もう一人の師」に逢うためには、だれもが通る道を通り、そこで腰を据えて練習をし続けることで一握りの存在となり、全伝を一通り受けるプロセスを経る必要がある。

厳しいだろうか。そんなことはない。だれもが通る道は、誰もが通ることを認められているのだ。つまり、だれもが、スタートラインに立つことができるのである。そういう意味では、一族にしか教えない家伝武術と違った可能性がある。

私は、この厳格な道を、私に続く者に経験させる。そうすることで、きっとその弟子は大きな誇りを得るからだ。気軽にサックっと学びたいなら、そのような場所に行けばよい。私のところは、中国伝統門で学ぶことのやり甲斐を感じることができる、国内有数の伝統門道場である。変えるつもりはない。