「このコンテンツ(いじめ護身部のこと)のシリアスな内容が、影響を与えているかと」
突然電話をかけてきたネットマーケティング会社の若者らしき男性が、そう口を滑らした。
その瞬間「このコンテンツこそ水式門のすべて」というような返答を真面目にして、電話を切った。怒ったわけではない。
考え方の違いである。彼は私のサイトや門の深い内容、そして自分の歴史を当然知らない。悪気があったわけではないので、自分の考えを述べて終わらせた。
あの時の戦いは、過去の過ぎ去った話ではない。40年近くも前の話だが。
あの時のことにリアルに関わった人間は、加害者の人間以外、皆いなくなってしまったが、私の中では、未だにあの時の戦いが終わっていない。あの時ああすればよかった、あの時このようにしておけばよかった、と仮定し続け、はや37年以上の月日が流れた。
膨大な時間をかけ、弱者護身の可能性のある方法を見いだし、今まさに、その方法との戦いである。目途がたち、形も目に見えるようになったけど、目に見えるようになっただけである。
今この時も、常に練習をし続けている。目指すべき地点にたどり着いても、その場からまた先が見える。まだあそにいける、まだあんなところに行かなければならない場所がある、と、昔描いた地点にたどり着いた時、見えてしまう。
いじめ護身部だってそうである。
まずプロトタイプとして、清朝末式八卦掌に基づいた一般的な護身術を作成し、そこから、学校戦に特化した内容へと変遷させる作業を、もうすでに3回以上繰り返してきた。
今再び、一般的護身術たる『最低限の時間で仕上げる「清朝末式八卦掌」女性護身術』を洗練させている段階である。これはいじめ護身部~取り返すための技術解説(修正後3回目の形)をフィードバックさせた一派的護身術である。
伝え方がまだ甘い。もっと具体的に伝えることができるはずだ。でないと、護身という、命を賭けた一大事において使う技術の解説書として、役目と果たすことができないかもしれない。
自分の伝える八卦掌の内容があまりにマイナーなため、現状では八卦掌に興味のある程度の初心者にすら、相手にされていない。八卦掌に数十年向き合って、八卦掌一筋でやってきた。国内の著名八卦掌家はたくさんいるけれど、彼らに劣るとは全く思っていない。
彼らよりも勝るかどうかは不明だが、間違いなく言えることは、私は全く他の先生らに劣らないということ。彼らの熱意に負けるはずもない。なぜそのように言い切れるか。それは、自分のできる範囲内で、目いっぱい向き合ってきたからだ。
私は自責の念から、そして同級生との約束から、いままで「怠ける(一般にいう、さぼる)」をしてこなかった。自分にまけそうになったら、その都度、厳格に戒めてきた。同級生のお姉さんが、その切羽詰まった姿勢に常に懸念を示すくらいに。
これはすべて、いじめ護身部の内容を、練習するに値する内容に引き上げるためである。他流試合で勝つためじゃない。組手で兄弟子や弟弟子に勝つためじゃない。
そんなことどうでもいい。いじめ護身部の内容の引き上げに役立つと思ったら、皆の前でもためらいなく試したい技法を試し、倒されてきた。それを失敗の一例としてフィードバックでき、刀術も徒手術も、どんどん洗練されていった。
型を綺麗に演じることができても、実際に人や目標物を打つことができない人間が多い(実は、ほとんどがそのタイプである)。
そして鍛えぬいた穿掌で、実際に人の(頸部)急所を打つことはできない。しかし思い切り、走りぬきながら打たないと、実戦では使うことができない。そこで、全力で想定敵をかわし続け、トップスピードで勢が極限に達した状態で、スポンジ棒で作った支柱を打ち抜く練習をし続けてきた。
人は笑う。「止まったものを打っているだけ」。しかしトップスピードで、指第一関節部分だけで打つことをできた人間はいない。動画を見ていただければわかるが、手が伸びきった瞬間に、支柱が突然飛ぶ。それは、指第一関節部分だけで打っているから、そのように見えるのだ。拳でぶつけて打つなら、もっと大げさに、のっしりと倒れる。
そこまで考えてみているだろうか。そこまで考えている人間はいなかった。ただ皆、何気なく、止まっている目標物を打っている、と認識して批判しているだけだった。
徒手技術では、実際に人を打って技術を習得する必要がある。
しかし、組手をやってきて分かったのだが、実際に人を打つことはできない。防具をつけるのでは、まったく感覚も違うし、防具付け組手でも、頸部を穿掌で打つことはできなかった。
そこで、人間以外を打つ必要がある。しかし人間以外の物は、当然動かない。動かないなら、自分が極限まで移動慣性の中に己の身体を置いた状態で、正確に射抜く練習をすればいい、と考えた。
その方法を思いついてから、はや十数年。間合いはほぼ取ることができるようになったし、いつでも穿掌を急所に入れることができるようになったが、そこからまた、新たな問題が生じてきた。
持久力の問題である。体力が落ちてきた。息が上がる戦い方ではあるが、息の上りが速くなってきた。乳酸がたまりそれが身体を止めるまでの時間が短くなってきた。
これは大きな問題である。また新たな旅が始まりそうだ、そう感じている。
恐らく私がこの世から退場するまで、いじめ護身部の道は続くであろう。これまでもそうだったように。常にこのことばかりを考えてきた。
最近やっと、「八卦掌 いじめ」で調べてきてくれる人が増えてきた。初めて「八卦掌 いじめ」で調べてやってきた人が居る足跡がアクサス解析で判明したときは、嬉しくて泣いた。
やっと本当に見て欲しい人が訪れるようになってきた。経済的には、私はもう破綻寸前であるが、ここにきてやっと、ほんとうにやっとのことで、届きはじめてきた。あと少しだけ、ここにいさせてください。神様がいるなら、本当にもう少しだけ、ここにいて踏ん張らせてください。
「いじめ 護身」、「いじめ 護身術」、「いじめ 辛い」でもたくさん人が来てくれることが目標。その段階に至ると、もっともっと多くの戦う君に、技術を届けることができる。
・・・それまで、もっと磨きます。もっと磨き続けるので、神様がいるなら、磨いたご褒美に、そのキーワードでも戦う皆が訪れるようにしてください、お願いします。
清朝末式八卦掌は、現代護身において極めて有効である。しかし敵と打ち合う格闘技的ロマンはないため、敬遠される。人の協力もない。顔を出さなくとも、映りたがらない。無名な、人から見たら特異でマイナーな弊門に、関わっていることが恥ずかしいと感じるのだろう。有名になれば、ホイホイ寄ってくる。しかし無名であると、どんな初心者であろうと、批判され、笑われる。
しかしそんなことはどうでもいい。新しいことをすればそうなる。宗家になる人間に一番必要なことは、結果が出なくても、笑われても、貫くことだ。忍耐こそ、宗家に求められる資質である。技術ではない。技術ならある。
このスタイルを貫く。貫いたおかげで、梁派はほぼ破門状態となり、人も来なくなった。しかし人が来ることに合わせて得るものって何?
お金?有名になる?どっちも中国拳法を追求している以上、大したことない。そんなちっぽけな見返りのために、自分の路線を外したりしない。
だから、サイト上のいじめ護身部は、もっともっと、内容を濃く、いじめ対策用に、いじめられる者の視点で、洗練させていく。
だから安心して見ていてほしい。
いじめを克服するだけにとどまらない、学んだ者が将来も大切な人を守ることができる知識・方法として、どんなことがあっても弊門サイト上に掲載し続ける。
これは同級生との約束でもあるし、全国でいじめに苦しむ者と、いまだにいじめと戦っている自分との、約束でもある。
心は常に君たちと共にある。一緒に前を見て歩いていこう。