八卦掌水式門の承継人教程にて必須となる「遊身大刀術」について、よく聞く言葉「実戦的」の意味をからめて話したい。
遊身大刀術は、実戦から離れ武術ロマンやカンフーイメージに走った練習の典型例だからだ。
実戦的武術・・・よく聞く言葉である。
その内容・捉え方は、各武門によって異なる。よって正解は無いと考えられる。
成立当時のままの原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)では、実戦的、とは、その「技法が、カスタマイズなしに、いきなり有事の際に使うことができるかどうか」である。
水式門独自のこの定義を示す好例が、冒頭でいった遊身大刀術である。一般的な名称で呼ぶならば、「八卦大刀」術だ。
※水式門では、遊身大刀と呼び、八卦という名称を付けない。大刀術が、八卦掌という名になる前の「転掌」時代の練習だからである。
多くの八卦掌道場では、八卦大刀というと、決まって150センチくらいのキラキラ輝くドでかい刀を振り回して練習する。
あれが模造刀でなく、真剣であったら、極めて脅威である。とても近づくことなどできない。では、それが実戦的であろうか。
清朝末期成立当時の頃の転掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)では、あのような練習をしない。あのような刀を使った練習はしない。遊身大刀術は、いつも双身槍術練習で使っている長棒を使って練習する。
つまり、2メートル前後の長棒を使って、長い棒を振り回して戦う技術を養うのだ。
考えてみて欲しい。150センチの八卦大刀が、都合よく転がっているだろうか?
「150センチくらいの棒なら、そこら辺に転がっているぞ」
ならばなぜ、150センチくらいの棒を使って練習しないのか。
清朝末式八卦掌で、八卦大刀を使わずに、2メートル長棒で練習するのは、長さに慣れるだけではなく、双身槍術において、片方の先端をもって、自在に間合いを変えて攻撃できるようにするためにも行うのだ。
つまり、双身槍の片方をもって、振り回す技術レパートリーを加え、より変化に富んだ双身槍術を可能とするため、2メートル程度の長棒で練習をする。そこまで考えているから、あえて八卦大刀を使わないのだ。実際に戦う場面における優位性の確保のためである。
この長棒、現在でも工事現場にいけば、侵入防止バーなど、たくさんある。物干しざおも一般的なものは2メートル40センチくらい。店頭の「のぼり」も2メートルくらい。至る所に存在する武器である。
長い棒は、短い棒に比して、振り回すのに独特の技術が必要となる。長棒が回っている間に、自分の位置を自在に変えて、打つ角度などを変化させ、攻撃力や攻撃射程を変えていく。
この攻撃スキルを習得するための型は、八卦刀術主要技である「按刀」・「陰陽上斬刀」・「背身刀」・「上翻サイ刀」そして八卦掌の源の「単換刀」である。だから、特別に長い型があるわけではない。
近代八卦掌では、「八卦コン手刀」なる長い型もあるが、清末八卦掌では、既存の八卦刀術で、長棒が回っている最中の慣性を利用した戦い方を養う。
つまり「遊身大刀」術とは、演武でよく見るような「八卦大刀」を使いこなす練習ではなく、実際にそこらにある長棒を振りまわして戦うための技術習得練習なのだ。
実戦的とは、そういうことである。下のイラストで、かつ女性護身術科の冒頭をかざるイラストを見て欲しい。八卦遊身大刀を練習している一番弟子を描いたイラストだ。いつもこの子は、大刀術の練習の際、普通の長棒で、かつ普段着で練習していた。
一番弟子は、学校の制服を着てよく練習していた。有事の際に着ている可能性の高い服だったから、当時ひんぱんに制服で練習していたのだ。セーラー服というのは胸元に襟があり、やや動きにくい(らしい)。運動ウェアのようにはいかないとのことだ。
有事の際に、着ている可能性の最も高い服装で練習していたのである。そして、有事の際に、最も使うことが出来そうな可能性のある道具で練習していたのである。
ここまでしているから、有事の際に、スッと違和感なく、反応できる。
清朝末式八卦掌が考える「実戦的」とは、そういうことである。いかに有事を想定し、その時の状況に合わせた練習をするか。
水式門では、「トン級の強大な力で打つ」とか「一撃で急所を打って絶命させる」とか、は実戦的と考えていない。それらは実の戦いではない。それらは多分に格闘ロマン要素が入っているフィクションの世界ととえらえるのだ。
※現代社会において、人命を危険にさらす技術も、現実的ではない。後日普通の社会生活ができなくなる
よって私を含め、水式門の女性掌継人らは全員、練習時、模造刀は使わない。刀術の際、刃の向きを参考にするために、自作した木の柳葉刀を使う程度である。
私は今でも練習中、頻繁に、警備職務中の厚い外套を着て練習する。靴は、警備職中の靴とおなじもので練習している。
雪が降れば、喜んで、一番寒い明け方6時くらいに、滑りやすい状況での体験のため練習する。
経験しておくことである。「実の戦い」にて想定できることを、練習中に経験しておくことである。
刀術で、手首を返して刀を振り回す見栄えのいい技術が無いのは、練習における経験で、女性が実行できないとわかったからである。
単換刀が、敵に差し出した刀を、そのまま身体の移動力を使ってあげて、その下をくぐり、下ろす、のは、その技術が有効だからというより、それしかできないから、なのである。これらは、練習の大刀術の経験にて分かったことだ。
清朝末式八卦掌の「実戦的」を、是非とも参考にしてほしい。技術ではない。「実戦的」とは、その練習が、いかに有事において違和感なくその成果を発揮するか、である。