おとりになって守るべき人を守る、身分制社会の護衛護身武術

以前、「八卦掌は、自らが囮(おとり)となって一定時間護身し続け、大切な人を守る護衛武術」と触れたことがあった。

成立に関わる話ゆえ、拳法を修行するうえで大して重要でないと思われがちである。しかし私は、このことに気づいたことで、成立当時の原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)の戦闘スタイルの根本に気づいた。

なぜなら、「護衛武術」という前提で、技術体系が組まれているからである。

もともと「護身術」ではないのだ。ただ、護衛を果たす過程で、苛酷な状況下で一定時間護身して生存し続ける技法を採用したため、現代において護身術として成り立つのである。

創始者(伝・董海川先生)は宦官(かんがん)であった。宦官である以上、筋力は通常男性より劣る。よって自分は弱者であるが、王族を守らなければならない。

賊徒の襲来であれば、相手はおよそ多人数である(暗殺であれば単独もあるだろうが)。おそらく武器を持っている。襲いに来る以上、腕に自信のある強者である。その過酷な条件で、どのように守るか?

そこで、以下の点が挙げられたと考えられる。

  • (1)まず、全員倒すのは非現実的。自らが囮となり逃げまくり(かわしまくり)、時間稼ぎをして、味方の援護を待つ。移動遊撃戦の採用。
  • (2)かわし続けるための方法を考える。敵の方向に自ら向かって、やり過ごすのではなく、敵の居ない方向へ向かって、近づいてきた敵を流す。この際の対処法が、転掌式。斜め後方スライド撤退戦の対敵身法とする。
  • (3)敵にとって我が「獲物を蹂躙するためには、まず倒さなければならない脅威」であり続けるために、敵を油断させず我に注意を引かせ続けるための、前敵に対する電撃奇襲攻撃を行う。

(1)対多人数に対処する原則として、徹底して移動し続ける「移動遊撃戦」を採用し、その戦法をもとに技術体系を作る。

まず大きな戦闘スタイルを決定する必要がある。自分弱者、対多人数、対武器である以上、敵とまともに向き合っていたら、たちどころに倒されてしまう。倒されたら、その後、守るべき人が命を奪われたり、蹂躙されてしまう。

よって、弱者が苛酷な状況をやり過ごすためには、一定時間移動し続け翻弄し、自分以外の味方の支援を待つ方法が有効だと考えれる。

やり過ごすことが前提のため、倒す技術よりも、移動しながらかわし続ける技術が必要だと、ここではっきりさせたのだ。ここではっきりと戦法を絞ったから、走圏や後退スライドの技法が生まれたのである。

(2)移動遊撃戦を実現するために、近づく敵を認識しながら敵の居ない方向へ移動し続ける技術(走圏)と、いない方向へ移動している最中に寄ってきた敵に対処する技術(後退スライドによる転掌式)を開発し、中核とする。

敵と向き合って構え、スキを見てそこを攻撃する、敵の攻撃を防ぐ、返す・・・この従来のスタイルでは、対多人数は戦うことができない。

一人の敵に時間がかかりすぎるため、後ろから来る敵に、ほとんど対応できない。

そこで、一瞬で一人の敵に対処する方法が考えられた。前方向に進み続けたら、前から向かってくる敵の力とぶつかる。あくまで、敵から逃げながら、敵の力に抗せずに受け流しつつ攻撃する「撤退戦」となった。

敵を後ろに置きながら進み続け、我の視界に入ってくる敵に、サッと手を出して、肩を入れながら攻撃し、去る・・・この一連の動きは、まさに『走圏~単換掌』なのである。

走圏は、内功を練るのではない。まっすぐ顔を前に向け、ショウ泥法で、高速で、進み続けるための練習法である。単換掌は、その状態の中、視界に入ってきた敵に対応するための最も基本的な動きなのだ。だからエッセンスなのである。

この「単換掌の術理・単換掌理」を理解している修行者はほぼいない。この記事を見た未来の天才の君は、是非とも頭に入れておいて欲しい。

(3)守るべきを人にうかつに手を出させないために、すべての敵の注意を我に引き寄せる前敵スライド攻撃を確立する

後退スライド対敵身法は、我の護身として大変有効である。しかし、勘のいい敵なら、「こいつは逃げてるだけ、攻撃してこない」と気づく。

そうすると、一部の人間に常に追わせ、一部の人間を守るべき人に差し向けてくる可能性が生じる。

そこで電撃戦が考えらえた。後退スライドで対処し、その先に敵がいるならば、スライド回避しながら、少しでも敵の力とぶつからない状態で逃げ打ちをするのだ。

そうすると、敵は常に我を見ている必要がある。まず護衛者たる我を倒す必要があるため、そこで意識が守るべき人から我に向いて、囮となり得るのである。

電撃奇襲戦を達成するためには、戦いの最中、ずっと「勢」が維持されていなければならない。清末八卦掌が、蹴り技を行わないことは、以前にも触れた。動きが止まるから。横歩きで逃げないのは、前に進んで移動するより勢がないため、攻撃が脅威とならないから。

護衛の観点からも、勢の保持は生命線なのである。

・・・・(1)・(2)・(3)の解説でお分かりのように、清朝末期成立当時の八卦掌には、明確な想定使用状況が見える。

想定使用状況から考えると、現在伝わっている、なんらか意味の分かりにくい練習方法も、その狙いがはっきりとわかるのだ。

最後に意味のある重要な余談をしたい。

自らが犠牲になって・・・という行為は、支配階級たる満州民族王族への崇拝が絶対であった中国では、しっかりと成り立つ。「人のために死ぬなんて・・・」と切り捨てられないのだ。それに見合った見返りがあったのだ。

自分が死んでも、あとに残された家族へは、栄誉と称賛が与えられる。もっと言えば、称賛することを、征服王朝政府である清王朝によって強制された。満州王族のために死んだ人間に、無条件の称賛があたえられることで、間接的に満州民族の高貴さ・貴さが庶民に示されたのである。

栄誉・称賛与えられることは、身分の低い人間には、大変意味のあることだった。遺された家族が、生活の保障と尊敬を得られる可能性もあるからだ。北方民族間では、功績のあった者に十分な恩賞を与えることは、己のステータスを示す最も有効な手段の一つだった。清朝を打ち立てた満州民族たるツングース系女真族も、そんな北方民族の一つ。王族の威信にかけて、功労者には、宦官であるを問わず、大きな栄誉が施された。

このことは、身分の低い人間には、大きなチャンス・転機となりうる。董海川先生も、後宮(粛王府)への奉仕前は謎だらけであった。単なる庶民であり、何も記録もされない、その他大勢のうちの一人であったはずだ。

「太平天国軍の間者(すぱい)だったから」とか、「大切な人を清朝王族に奪われたからその復讐のために宮中に入り込んだから身を隠していた」と、記録のないことについていろいろな説・作り話がある。

しかし多くの場合、記録がない人間とは、身分が低かったからだけである。董海川先生も、そのうちの一人であった。ましてや、当時蔑視の対象であった宦官である。たまたま、自らが確立した八卦掌という武術が王族に認められたため、その後の記録がなされるようになっただけだと思われる。

本人の努力、幸運から、八卦掌は世に広まった。

その奇跡的な幸運は、高貴な人たる王族を守ることに焦点をあてた技術体系づくりから招かれた。その点から、私は、董海川先生が、宮中に入った理由が「立身出世」だったと感じる。

王族に認められる可能性を生じさせる技術体系づくり。そこに一抹の野心を感じるのだ。

上掲イラストは、八卦掌を修めた一人の宦官が、日頃身分の低い宦官たる己に温かい気遣いをしてくれる女性王族のために、命を賭けて戦う決意をする場面を描いたもの。

弊門三番弟子でイラスト作成協力者たる子が、私の八卦掌修行開始のきっかけを絡めて描いてくれた大切な一枚である。

武術の練習は地味で辛いことも多い。このような、心揺さぶる理由がなければ、続かないかもしれない。私自身、はじめたきっかけが強烈であったため、続けられた。

大切な人を守りたいから、という学習志望動機をもって弊門を訪れる人をひいき目に見てしまうのは、このためであろう。

八卦掌水式門富山本科イメージ

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