以前法律関係の仕事をしていたが、債権回収(未払賃金)で、何度も、リアルに護身が必要な場面に出くわしたことがある。
残念ながら、穏便な支払請求でも、(債権者であるにもかかわらず)危険な思いをすることがある。
昨今の企業窓口担当者は、考えられないくらい「開き直る」一線が低い。ちょっとでも気にくわないと、自分に非があっても、すぐにくってかかる。
突然悪口雑言の嵐となり、一切聞く耳をもたない。その会社の窓口にいること、そして、その態度が、信用の城を一気に灰にしてしまうことなど、お構いなしに(だから人を雇用するのは怖い)。
その開き直りの修羅場で、何度も、「てめえの家はどこだ(いい大人が本当にこのように発言するのだから驚愕である)」などという言葉を浴びせられたことがある。つまり家に押しかけるぞ、という脅しである。
しかし害悪を加える直接的な言葉は発しないため、警察も動くことはない
大事なのは、「動けない」のではなく「動かない」のだ。動いてあげたい、という気持ちがほぼ無いのである(ここが、警察が被害を未然に防ぐことができない最大のポイント)。
インターネットでは、あらゆる事例の中で、「警察を呼んでください」というコメントを見る。明らかにあしらわれる場面の相談の事例でも、である。
私がまだ、警察に期待を抱いていたころ、相手方に請求をしたところ、家に押し掛けるぞ、住所を言え、てめえの家に行って、望みをかなえてやる、とすごまれ、電話を切った後、ひたすら電話を変え続けられたことがある。
その電話の合間を縫って、110番通報をしたら、「悪いけど、動けないんですわ」と明るく言われ、「○○へ電話して。えっ、わからないの?自分で調べてね」と対応されたことがある。
ひっきりなしに電話がかかってくる状況で、そんな悠長なことはできない、と懇願しても、ちょっとごめんね、大人の対応をしてね、と言って、一方的に切られた。愕然とした。その時、はっきりと思い出した
あの時も、倒れた自分を先生がつかみ上げ、頬に平手をくらわしてきたことを。おんなじだ
まっとうに生きていても、平凡と生きていても、そして・・・・自分に非がなくとも、心無い人間にかかると、一気に窮地に立たされ、かつ、誰も助けてくれないことを。
護身術は必要か?
本当に必要である。いつ何時、上の事例のような事態が起こるかわからない。どこに開き直る人間がいるかわからない。
こういう人間は、反社会的組織のなかにいるだけではない。名の通った会社の、しかるべき地位にいる人間の中にも当たり前に生息している。だから怖い。そして、だから護身の術というのは、誰にでも必要となりうる技術なのだ。
いざという時、警察に通報するのはまず考えつく当然の対応である。しかし、通報できないときもある。
いや、むしろ、通報できないケースの方が圧倒的に多い。私の実戦経験でも、通報できた事例は、一切なかった。電話を持っていないとき、不意を突かれた時など、警察に首尾よく通報できないのは、容易に想像がつくだろう。
自分の身は、自分で守るしかない。先ほども言ったが、人は(状況的にも立場的にも)守ってくれない。これは当たり前である。皆、誰かが襲われていたら、遠巻きに囲んで、見ているだけである(最悪の場合、スマホで撮影してる連中もいる)
護身力を磨く際、技術を磨くだけでは不十分である。最も大切なのは、いつでも、対応できる準備をしておく。
この、「いつでも対応できる準備をしておく」姿勢に向き合い続けることこそが、題目の『リアル護身を実現する「悟り」の心境とは』を知るために直結する。
すこし例をとって話してみよう。
昔の武士は、刀をいつでも抜くことができるように、あのように腰に差し、そして、腰に差した状態から相手を斬り、自分を守るための技術を磨いた。昔日の武士の習得した剣術は、徹底的に実戦を想定した武術である。
スターウォーズを見たことがあるだろうか。ジェダイの騎士は、マントをまくってフォースでライトセーバーを手に寄せ、すぐに刃を出す。その合理的な動きは、日本の剣術をも参考にした動きならではである。
私が鴛鴦鉞をほとんど練習しないのは、そのためである。あの武器の形状は、特に、対人では大きな効果を発揮する。
鴛鴦鉞も、PPC素材の製品が販売されている。私も持っている。銃刀法にも引っかからないと書いてある(現実は、警察に見つかると厄介なことになる)が、あれを持ち歩くことはしない。
持ち歩かない=いつでも使うことができる道具でない=実戦はいつどこで訪れるかわからない=その時(実戦)に役立たたない
ということになるから、練習しないのである。
自分が練習するのは、護身を第一に考えて、一に短棒術(30センチ~90センチ)、二に、双短棒(30センチ程度の短棒の両手持ち)、そして三に、200センチ程度の長棒術だ。
これなら、そこらにある、傘、木、工事用停止棒、のぼり、水筒などを使って、その技術を活かすことができる。
水式門の四大習得武器が、単短棒・双短棒・90センチ棒・200センチ棒なのは、そのためである。そしてこれらは、清王朝末期頃の八卦掌の主要武器でもあった、双匕首・90センチ程度の柳葉刀、双身槍の動きそのものなのである。
よく制服で練習している門下生のイラストを見かけるはずだ。
あの子は、実戦のことを考えて、週に2回ほど、制服で練習していた。
「最も外で来てる服がこれだから、これで練習するのは理にかなってるでしょ」と言い始めてから、ずっとそのスタイルで練習をしてきた(着物を着る機会があった際、それで練習しようとした際はさすがに止めたが)
少し例が長くなったが、身を守ることの準備とは、一瞬で訪れる実戦に、対応できる準備(無意識レベルで動くことができるほどの技術の習得、身体の一部ともなりうるレベルの道具の操法の習得、練習した道具をいつ何時でもすぐに使うことができるための準備)である。
そこまで練習したものは、どうしようもない状況での最後の切り札となる。
最後の切り札を構築しつつ、未然に危険を防ぐための、危険回避能力、受けたダメージを受け入れながら対応する能力を養なっていく。、
つい最近も、家に行く、住所を教えろ、お前は俺が怖いのか?とすごまれた。
住所を教えて、「来るなら来てみろ」は、護身的には最悪の対応である。そんなので撃退しても、ともすればケンカとしてしか見てくれず、危険のみならず、傷害罪で逮捕されかねない。
すぐに警察に相談し、記録に残し、バックボーンを構築する(動いてくれることは期待しない)。
住所を教えないのは当然の対応である。教えてしまったならば、家族を避難させる。しばらく全員で避難する。
自分ひとりだけならば、常に家に入る時、気を付ける。そして、実際に相手がやってきたら、即警察官に来てもらう。それが一番である。
そして、警察に連絡できないとき、はじめて、ひたすら練習していきた技術に、命運を託す。ここでやっと、あれだけ積み重ねた練習が活きてくるのだ。
私は・・・・・その時にために、その時、自分と、大切な人を守るために、ずっと練習をしてきている。
護身術が、いかに、お手軽なものでないかはわかっていただけただろう。そこまで覚悟を決め、練習を重ねているから、脅しに遭っても、すべき日常を送ることができる。
これこそが、一線を越した境地である。おおげさでもない。この心境に達した時、ふっと心が下に落ちる気持ちがした。いつでも準備ができている。大丈夫。きっと守る。そのようにゆるぎない心で言い切ることができる。
皆も、もっともっと練習を重ね、いい意味での覚悟が出来る境地を、目指して欲しい。キレイに鮮やかに勝つ必要なんてない、自分を守り、大切な人を守り、生存できればいいのだから。