転掌グランド・マスター水野語録」カテゴリーアーカイブ

必ず前に進む盆~城端トンネルを抜け、砺波平野に行くために

「帰ってきました、ただいま」

東海北陸自動車道の城端トンネルを抜けると、長かった一車線の区間が終り2車線となり、進行方向右手に、砺波平野が見えてくる。

スケールの大きい扇状地に沿った高速道路を下っていくときの達成感と、安心感は格別である。

そして冒頭の言葉をいつも言う。一人の時も、子らといる時も。

今年の盆休みは、富山に帰ることができない。仕事の都合、金銭面の都合だ。しかし今すぐにでも、富山に行き、大切な人に逢いに行きたい。

しかし、いま帰っても、自分の望む未来には近づくことができない。ここは、ぐっとこらえて、盆の時間を前に進むために使う。

鬼籍に入った人たちが「帰ってくる」と言われる盆。

昔は、そのことについて、特別な思いが湧かなかった。でも、今は、居ても立っても居られない心境になってしまった。

今年もとっても後悔した。お金がない?時間がない?そんなこと、どうでもいいじゃないか、帰ればよかったじゃないか、とずっと考えていた。

8月頭の富山行き。その時、本当にゆっくりとした。筆頭弟子や一番弟子と語り合い、想いを馳せ、釣りをしながら亡き大切な人のことを考えて、能越道高岡インターに入るまで、ずっとしのんでいたのだが。

盆休みはいけない。ちょっとした買い物でも、どこにいっても、父親と母親、その間で笑う子供たちの姿を見る。あまりのまぶしさに、ぼうぜんとしてしまう。

自分がいつも考えていることは、もうこの世に姿を残してない人のことばっかりだ。どれだけ何かが起ころうと、触れたり、話したりできない人のことだ。

夢にも出てこない。そばにいるんだ、と思うことができるようなサインも一度もない。生前「これがそばにいるサイン」というものを、決めてなかった。決める心の余裕なんて私にはなかった。心にいる。心にいるんだけど、姿が見えない。話したい。できることなら、逢ってみたい。

2年以上の時が流れても、何も変わっていない。むしろ、時が過ぎていくことに、焦ってしまう。昔のこと、なんて、絶対に思うものか。

とにかく、忘れたくない。どんなことがあっても忘れない。そう思って、一緒に見た未来を、今も追っている。

でも、一人はやはり大変だ。前に進む、必ず進むと決意しても、これまでと同じように、積み重ねていくしかない。圧倒的に多くの時間を、一人で戦わないといけない。

しかし孤独だからといって、子を、必要以上に巻き込むことはできない。それぞれの道がある。20歳以上も上の人間の、夢に付き合わせるわけにいかないのだ

こんなことを、これからも毎年思うことになるのは、とっても大変だと少し前まで思っていた。

家族連れを見るたび、心に負担がかかり落ち込んでいた。そんな中、最近、ふと思い出したことがあった。

「優しいフリでもして、偽善者にでもなって、幸せを願ってみるのよ、時に泣けるくらい、救われるから」

別れが来ることなど考えてなかったときの、ほんの冗談だったのだろうが、それを最近、何の脈絡もなく、ふといだしたのだ。

その冗談を実行してみた

家族連れや、恋人たち、友達と集い笑いあう人たち、BBQで盛り上がっている人たちに、こっそりと

「いつまでも幸せに」

「別れもなく、そのままずっと一緒でいられますように」

「最高の笑顔だね」

「盛り上がってるね、今年の夏は熱くなりそうだね」

なんて、独り言で呟いてみる。思ったままに。

そうすると、一時だけど、どんな本やサイトに書いてあるピンチ克服法よりも、心が救われた。あの人は、この効果を知っていたのだろうか?

正直、今年の夏はかなり厳しかった。やることなすこと、すべて失敗になり、安い拠点すら、維持できず愛知の定住先を失い、後継のメドなどまったくたちもせず、八方ふさがりだった。愛知では何もうまくいかず、見限っていた。

その状況を救ってくれた言葉だった。もう愛知にも、刈谷にも、こだわらない。本当に必要とする人のもとに行けばいい、と思った。

どん底の気分の中でふと脈絡もなく、自分を救う、あの人のこの言葉を思いだしたのは、人知を超えた存在のサインだったのかもしれない。そうならば、どれだけ嬉しいことか。

今年の夏は、偽善者になって、幸せでも願ってみる・・・・か。サインであると、信じてみるのも、いい。

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「護衛武術として伝えていく」と報告をする富山旅へ出発

八卦掌水式門の八卦掌は、護衛武術である。

八卦掌修行者で、そう言い切る人は少ない。しかし私は、初めての八卦掌の師から、八卦掌は「護衛拳法」だと教えてもらった。そして、これからも、今度は師として、必ず弟子に「八卦掌は護衛拳法である」と宣言していく。

その方針を、氷見にて報告する。節目節目で氷見に帰って報告するのは、これからずっとである。誰よりも理解し、誰よりも描いた目的を望んだ人、そしてその目的を実現するための旅に旅立つことを楽しみにしていた人への報告は当然である。

この方針は極めて重要だ。なぜなら、師として、伝える武術の最終目的を明確に示すのは、師の最も重要な使命であるから。そして、中学生の私は、その言葉を聞いて、心が激しく震えたのをハッキリと覚えているから。「護身術」に需要があるから、護身術の方が、人のとっかかりがいいからといって、水式門の八卦掌を、「護身術」化したくない。あくまで「護衛術」だから。

心が激しく震えたのは、私が拳法を始めた理由が、人を守るためだったため。ケンカに強くなりたい、とか、武術やカンフーが好き、とかではなかった。とにかく、人を守るくらいの力をつけたかった。間に合わなかったが。

そのように、私は護身術として練習したことなどない。常に「護衛術」として練習してきた。だからいまだに、斜め後方スライド撤退戦対敵身法(単換掌術理)と同じくらい、前敵スライド回避攻撃対敵身法(順勢掌術理)も練習するのだ。

八卦掌水式門は、以後、護衛武術として指導していく。師よりそのことを託され、示された技術を体得し、自由に身体を動かすことができるようになった。しかし、まだ先がある。満足なんてしていない。董海川先生が創出した「転掌」を現代に再興し、それを広め、その仕事をしつつ、転掌式八卦掌を極めていきたい。

私ももう、50を越えた。私は師として、弟子に模範で在り続けたい。しかし、加齢は人間の宿命であるため、これから先、模範で在り続ける期間は無限ではないのだ。

明日から富山である。八卦掌水式門発祥の地、氷見にて、もう一度、護衛武術を再興させる決意をする。私についてきてくれる一番弟子とともに。

くしくも、明日は氷見で花火があがる。一年で、最も氷見がにぎわう日である。

今日も暑い中、すべきことをした。己に課した使命をこなした。

明日もまた、堂々と、富山入りをし、練習をし、教え、釣り糸をたらし、花火を見、大切な宝を守る。そして報告する。

今年の盆休みの前半は、きっと愛知である。本当は、ずっと氷見にいて、「帰ってくる」期間中、そばにいたい。まだ実感が湧かない。実体がなくなったことも、もう実体に二度と逢うことができないことも。

まだ3回目の盆だから、実感が湧かないのかもしれない。

日本映画には、死んだ人がよみがえる映画が結構ある。「黄泉がえり」や「今、会いにいきます」「異人たちとの夏」などだ。私は、死んだ人を見た事や、感じたことすらない。だから、そのような世界がリアルにあることを考えたこともない。きっとこれからも考えることはない。

しかし、大切な人を失って、その悲しみや空虚感から抜け出すためにも、ある種の「体験」は、意味のあることかもしれない。東日本大震災でも、多くの遺族の「体験」が語られていた。世の中には、そのような「体験」を意味あるものとして導く人もいるのだし。

実体に逢えなくても、今でもそばにいると思っている。最期が近づく中、いつでもそばにいると約束してた。約束は破らない人だった。だからきっと、そばにいるという気もちのままで、旅立った。

だから、私は今、どんな怖いことがあっても大丈夫。例えどれだけ寒い暗い時間の練習でも、誰もいない野生動物だらけの夏の公園の暗闇でも、あの人も、振るのを見ていた、そして今も変わらず持っている、あの時からずっと毎日練習でも使っている樫のシャッターフック棒さえあれば、一人でどんな闇に入っていける。

これほど心強い道具があるだろうか。そしていつも、危険を感じた時には、私の手元にあった。イノシシの時も、野犬の時も、ピエロの時も。私にとっては、ジェダイのライトセーバーに匹敵するもの。だから今日も、今までも、そして明日も、練習し続ける。持ち続ける。決して離さない。

あの人も知っている、この棒。操る自分を、すごいと言ってたあの時の笑顔の顔。

何が一番心強いって、すごいすごい、と言ってくれて、「それさえあれば式人が追っ払ってくれる」と安心してくれていたから、あの人の気持ちが宿っているようだから、安心しているんだろうなぁ。つまり、自分の心にも、樫棒にも、居続けてくれるんだ。なんとも言えない安心感。気持ちがこもった伝説の武具みたいなもの。

真っ暗闇でも、恫喝されても、きっと切り抜ける、自分は大丈夫だ、って、勇気が湧いてくるんだ。燃え上がるような、全身の毛が逆立つような激しい勇気が、恐怖の感情とともに。絶対にここから先に行かせない、倒してみろ、自分を倒すのは、とっても難しいぞ!かかってこい!って、熱く燃える衛者の情熱が湧いてくる。

あの人の実体がなくなっても、いつもそばに居るから、だれかにとって大切な人を守りたくて、今でも守るために、練習ができています。そんなこと、いまでも本気で考えて練習していますよ。いつも心に居てくれてありがとう。今から、そちらに行きます。あなたの宝と一緒に、会いにいきます。

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清末転掌式八卦掌の初代(開祖)としての覚悟が決まった

時代の変遷により弱者使用前提から離れた八卦掌が隆盛を誇る中で、自分の中の違和感に素直に従い、八卦掌を超えるつもりで・・・つまり新門派を創るつもりで、突き進んできた。

しかし、練習をして、し抜いて、自分の追い求めているものが、練習しているものが、成立当時の原初八卦掌たる「転掌(てんしょう)」であると気づいた時、超えるべき壁が限りなく遠くへと、飛んでいくのを感じた。

超えられなかった絶望ではない、己の進んできた道は、己が最も追い求めていた道だったとわかった、涙が出るくらい、心が震えたのだ。

八卦掌原初のスタイルである「転掌」こそ、自分が求めていたものだった。身体的資源不利者(弱者)使用前提で徹底的に技術体系が組まれている武術。こんな武術は、なかなかない。

中学時代の師(楊先生)より、転掌の技術体系とシンプルな術理、術理に沿った武器術を知り感動を受け、成年から壮年時代を通して修行をしていくにつれて、弱者使用前提武術がほぼ無い事実に気付き、運命を感じてしまった。

よって私は、清末転掌式八卦掌の開祖となる。新門を拓く。

八卦掌第6世掌継人。清末転掌式八卦掌初代(再興祖)。

※「掌継人」は、楊先生による、伝承者の名称。伝承者の名称は各派によって異なる。例)梁派は「伝人」。

私の拳法修行開始のきっかけは、同級生に対するいじめに対抗するためである。受け入れられないいじめから守るため、ケンカなどしたこともなかった弱虫の私が本で空手と八卦掌を知り練習し、取り返しのつかない敗北をした。そして力任せの暴力の残酷さ・容赦のなさを知った。

何も嫌われることもしてないのにいじめられる同級生、それを守ろうとする少年。どう見ても、いじめる方が責められる。しかし数や体格差・人気や目立ち具合で勝る相手たち、そして見て見ぬふりの同級生の圧力の合わせ技で、加害側が笑いなんらおとがめも受けない結果となった。

このいじめで、何が起こったのか?同級生がわずか2箇月の中学生生活でその未来を奪われ、少年は先生に嫌われ、加害者の笑顔が一時大きく響き、何事もなかったかのように、皆忘れただけだ。

私は決して忘れない。絶対に忘れない。戦いは終わらせない。私があの学校の学区内に本部を置くのはそのためだ。あの事を誰も覚えていないなら、私だけはどんなこととがあっても忘れず、この現代に影響を与える。

弱き者は、強者の暴力に屈するしかないのか?古来より、人間の歴史はその繰り返しであるが、同級生の悔しさと無念さを目の当たりにし、弱き者でも強者の暴力に屈しない武術をとにかく求めてきた。

強い動機付けをもった少年だった私だから、転掌に巡り会ったのかもしれない。

そのような動機がなければ、近代八卦掌を女性が華麗に演じるのを見て、何の疑いもなく、女性向けの拳法、と言われてるのを鵜呑みにしていたのかもしれない。

弱者使用前提の技術体系を徹底して貫いた稀有な武術、清末転掌式八卦掌。

奇跡的に私に伝わったこの技術体系を、全国の、私のような少年少女に、成年有志に、届けなければならない。

そのためには、私がこの技術体系を曖昧さなど無い状態で明確に示し、この技術体系の最大の模範として在り続け、転掌の有効性を分かりやすく示し、暴力に立ち向かう者に希望を与えなければならない。

他の門派は、決して間違ってなどいない。魅力的であるし、合理性もある。しかし、どのような魅力的な技術体系があったとしても、ここ(転掌)にとどまる覚悟が、初代には必要なのだ。

有名流派の後押しもない。有名先生の弟子でもない。私の梁派の先生は、名前を明かすことを希望しないため公開できない。系統に公開できない箇所があるため、伝統性も公には強調出来ない(本門生や仮入門生には、私の属した梁派に沿った系統は、しっかりと示している)。

だから、初代となる。昔日の転掌の技術体系を受け継いだものとして、私が現代に復活した転掌式八卦掌の初代となって、技術のみで有志の心をつかむ必要があるのだ。開祖となって宣言するのは、拳法の伝承者としての責任を全うするためである。

覚悟することで、すべきことがパッと目に開く。

練習を一層する、ではない。もちろん練習は従来通りどんどんやる。練習するのは当たり前のこと。

その技術体系に我が身を投じるのだ。身を託すと言ってもいい。迷いなく託すのだ。前に出て打ち合う、格闘技試合の影響を受けた格闘技的価値観(格闘ロマン)を未練なく置いていく。

どんな状況でも、開祖は、転掌の斜め後方スライドの術理で対応するのだ。開祖はとにかく、馬鹿の一つ覚えでなくてはならない。

董先生がしたように、私も転掌復活の祖として、前に出て戦う格闘技的スタイルではなく、斜め後方スライドの生存第一主義を貫く。

そうすることで、転掌スタイルに共感をしめす有志に巡り会うことができる。

最初はだれにも相手にされないだろう。実はこの3年、このことを嫌というほど思い知った。家内の生前は家内に、その後は、一番弟子たる長女に、いつも励まされて立ち上がる、を繰り返す苦しい日々だった。

でも、苦しい中で、私の指導する内容に共感し、積極的に学ぶ弟子と、新たに巡りあうことができた。

何の後ろ盾もない無名道場を、わざわざ選んでやってくる門弟は、間違いなく将来伝説の達人となる天才である。系統や○○伝などの外面よりも、本質を見極めることを優先し、それに従う勇気と選ぶ決断力・行動力があるから、初代に続く2代目は天才であり伝説となるのである(初代の非効率的な遠回りをしないのも大きな要因)。

その天才らに、出来る限り最高のパフォーマンスで指導をしたい。天才をこのスタイルに縛るのではない。天才らに、このスタイルで戦う選択肢を示し委ねるのだ。私があたえることができる外面的肩書など、「八卦掌第7世」でしかない。それよりも、天才は各々のノウハウによった真実を、きっと確立してくれる。

繰り返し言う。この記事は、初代・再興の開祖となる私の覚悟である。他の武術の技術体系と隔離を図って、我の技術における転掌の純度を高めるためである。

この記事は後々追記して、完成させる。富山への道中のため、今日はこれまで。

興味のある方は、都度ごとに覗いてみて、全文を読み、私の決意を見て欲しい。

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己のノウハウだけで勝負する講習会に最高の価値を感じる

2024年6月16日の講習会を終えて、充実した気分でこの時を過ごしている。

講習会で心掛けていることは

  • 練習することで積み重ねてきた己のノウハウのみで勝負すること
  • 講習会では、必ず何かしらの成果を得て帰ってもらうこと
  • 人が来なくても、全力を尽くして準備し、遂行すること

である。

本日は、清朝末式八卦掌の刀術たる「転掌刀」の主要型を伝授する講習会であったため、主要型たる「陰陽上斬刀」の型練習だけは、必ず伝えようと考えていた。

陰陽上斬刀を理解するためには、徒手における転掌式たる「陰陽魚掌」または八卦掌に大基本の一つ「双換掌」を理解してもらわなければならないため、そこに多くの時間を割いた。

本日は、参加者の方が、八卦掌の術理を再現することが上手だったため、陰陽魚掌ではなく、双換掌を指導した。

刀術講習会を開くに当たり、参加者さんが後日、なんらかの形で習った動作を復習する際のよりどころとなる場を作っておきたかった。そのため、八卦掌水式門の武器の解説のカテゴリーの中に、転掌刀術主要型の説明ページを事前に作っておいた。

清朝末式八卦掌刀術「転掌刀」解説

これらを全部準備するために、講習会を開く前は大いに忙しい。ましてや、現在私は愛知における拠点を失っているため、効率が悪く大変である。

しかし、講習会を開くにあたっての上記心掛けを思い出し、向き合ってきて、なんとか間に合わせることができた。

全力で用意することと、自信をもって独学できるツール(型)を持ち帰ってもらうことは、講習会に来てくれた方への、感謝の気持ちである。これからも、各講習会ごと、感謝の気持ちを、言葉だけでなく、事前準備と成果で表したい。

私は、八卦掌修行初期、独学で学ぶことの不安さを身をもって体験している。最初にして最大の対面指導恩師・楊先生に教わった時、とても嬉しく、不安の多くから解放され、安心した。その感動と安心感を味わってもらいたいのである。

心掛けている事項の最初に挙げた、「練習することで積み重ねてきた己のノウハウのみで勝負すること」について。

これは、私が講習会を開くにあたって最も意義を感じている事項である。

講習会というものは、私にとって、己の名で告知し、己のノウハウで指導することでなければ、開く意味がないものだと感じている(有名先生を招いて開く講習会を、意味のないものと言っているのではないことに注意)。

私は、清朝末期成立当時の『転掌』だった頃の八卦掌「清朝末式八卦掌」を、ほぼ己の研鑽だけで確立し、発表している。

私が清朝末式八卦掌を、先生から習ったのは、中学生から高校生にかけてのわずか2年少しだけだ。あとは皆、自分でトライ&エラーを繰り返し、単換掌と双換掌・勢掌(順勢掌)の型と、それに連動した武器術の動きだけを頼りに、術理の真髄を探り当ててきた。

期間にして、35年以上の積み重ねである。もはやここまでくると、他人の説く理論や技術に頼る必要もない。単換掌・双換掌・勢掌と武器術に、己の練習からくるノウハウが積み上げられすぎた。

人の説く身体操作法やコツというものは、たいがい経験してきたのだ。今更、名前が知られているからという理由だけで、有名先生を招くことは、己のノウハウを伝えるうえで効率を悪くするだけである(その先生にも失礼にあたる)。

そして、中国国内の先生らの示している八卦掌は、そのほぼ全部が、近代格闘術八卦掌、つまり強者使用前提・対一人・他流試合用の格闘技的八卦掌だ。中国語の本を取り寄せて研究しても、皆近代格闘術八卦掌である。

私は講習会では、清朝末式八卦掌の真髄を最低限の形ではあるけれど、本門生以外の人にも伝えたい。清朝末式八卦掌を日本国内で最も知っているのは間違いなく私である(※国内にもいるかもしれないが、発表してない時点で教えていないのも同じである)。

日本の中国武術指導者の開く講習会は、有名先生を招く者が多い。人を多く集めることができるからである。日本の中国武術愛好家は、先生の動きで実力を判断しない。習った先生の肩書で先生の実力を判断している。だから中国の有名先生を招くだけで、人が来やすくなる。

私はそれは嫌である。上手く実行するための最も練習時間を要し、かつ最も実力を上げるうえで効率的だった「スポンジ支柱を指第一関節部分だけで打つ練習」を、誠実にアップする。当然、再生速度を加工なんかしてない。人が撮影した、人の眼から目線の後退スライド動画も、全神経を集中しての一発撮りである。

斜め上からの撮影は、横から撮影するよりも遅く見えるが、その位置からみる方が、学習者が動きを理解するうえで役立つため、斜め上からの動画にこだわっている。

そして・・・短パンの薄着で撮影し、脚・膝の使い方を明快に示す。最も重要な八卦掌真髄「斜め後方スライド」時の膝の動きを明確に分かるようにしている。

※指導動画と言いながら、脚の動きを見せてない動画が多すぎる。私はそのような不十分な動画だけは、極力避けたいと心掛けている。

有名先生の名で開かないから、いつも参加者はごくわずかである。一人も来ないのも当たり前にある。しかし、一人でもいいから、絶滅しかけの弱者使用前提武術・清朝末式八卦掌の真髄を伝えたいのだ。

就労生だった楊先生の教えてくれた、攻撃すら斜め後方スライドして行う生存第一の原初八卦掌。董海川先生に習った南方出身の弟子によって福建省に伝わり、田舎ゆえに他流派の影響をうけず、成立当時のままで奇跡的に残りつづけ、弱者使用前提の武術を必要としていた遠く離れた日本の少年に伝わったのだ。

その日本の少年は、自身の弱さゆえに大切な人を守る約束を果たせず取り返しのつかない悲しみを生み、それゆえ、後方スライドする原初八卦掌に並々ならぬ意義を見出した。

これは運命である。奇跡であると確信している。我が人生における最大のミッションが、この奇跡の出逢いによって、与えられた。弱者使用前提の囮護衛の武術を世に広め、昔日の八卦掌を蘇らせ、弱者が泣く現実に一石を投じる。

この奇跡の前に、人を呼んで開くことが意味がないことが分かるだろう。一番わかっているのは、水野義人だ。だから開くのは、指導するのは、水野義人が実行する。当たり前のことである。

・・・・外は激しい夕立の後である。湿気と熱さの中、心はさわやかである。

今回も、講習会を開くにあたっての決意に、忠実であり続けることができた。この達成感は、なんとも心地いい。

また7月6日(土)に、富山県小矢部市にて、清朝末式八卦掌における護身技術の講習会がある。この三週間、全力を尽くしたい。

志のある者、真に弱者護身に興味のある者は、小矢部市のクロスランドに集まって欲しい。

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中国・四国方面を制する倉敷。倉敷本科準備旅

水式門の全国戦略は、のっけから苦しい戦いとなっている。しかしそれは、前人未踏の道を進む水式門であるがゆえ。

技術を誠実に公開し、指導動画を貫くため、極力薄着で動画を撮り、膝・足の動きをさらし、真に学びたい者へ動作のヒントを供してきた。

手技ばかりをクローズアップし、流麗華麗に魅せるだけの動画が多い中で、実用にこだわってきた。

そこでの指導内容は原初のままの八卦掌であるが、どの道場も近代格闘術八卦掌ばかりのため、本末転倒で異端状態となってしまった。・・・・これも宿命である。

すべて計画のままに進んでいるため、年末に宣言した通り、倉敷本科始動の準備をし始める。三番弟子の親友でもある、岡山在住四番弟子に、その道しるべを頼んできた。

平日の人の少ない心地よい美観地区

倉敷と言えば、美観地区。いい天気の中、久々の散歩であった。三番弟子と四番弟子は、岡山で会うと、いつも美観地区を好んで訪れる。散歩にいいようである。おいしいソフトクリームをいただく。

私自身、岡山には縁もゆかりもない。指導で何度か足を運び、慣れ親しんだ練習場所すらあるのだが、富山のように、居を構えたことはない。それゆえに、楽しみであった。

四番弟子によると、「倉敷を抑える者は、中国と四国を制す」である。女性であるのに、地政学に興味を持つ、少し変わった弟子である。

確かに、瀬戸大橋によって、車で四国を行き来できるのは大きい。私も何度も、四国高松に指導旅をしたが、その便利さは感動的ですらあった。

富山では、大きな成果を出すことができた。きた人数は、ほんのわずかである。しかしそれでも、志ある者に巡り会ったことが、素晴らしいと思った。

きっと倉敷でも、熱い出会いがあると確信している。

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八卦掌水式門の「代継門人」と「掌継人」の公認は厳しく行う

中国拳法の世界でよく聞く「拝師弟子(はいしでし)」。

師匠の前で、その門派内で決められた儀式を行って先生を師と仰ぎ、いくらかの誓約を誓い行う。おおよそ、その儀礼を経て、指導許可なり、系譜に○代目として名を連ねる。

近年は、その前近代的?儀礼を好まず、拝師・系譜を渡さないで代目を与えたりする。

私の八卦掌の先生もそのようであった。先生が志す昔日武術家が、形式的拝師制を採ってなかったため、踏襲していた。

水式門では、「何もしない」内弟子化は、採らない。明確に認め、明確に伝承図を渡し、証書にて代継門弟なるを認める。そしていったん認めた以上は、取り消さない。

内弟子となりたがらない人間もいる。その門派に囚われたくないからである。

そのような者に、こちらから代継弟子になってください、などと決して頼みはしない。するはずもない。そもそも、そのようなことは、昔日では考えられなかった。師匠が弟子に、「なってください」などということは考えられないことだ。

強い弟子や、有望な弟子に、こちらからスカウト、などという話を聴くが、私はしない。上から目線ではない。師弟関係だって、ギブアンドテイクなのである。

師匠は、弟子に教える段階において、すでにあまりの多くの時間をかけているのである。練習を毎日行うために膨大な準備をして犠牲を払い練習場所に毎日立ち、情熱を維持するためにあらゆる悩みを抱えても心を保ち、一般サラリーマンが行う無駄遣いもせず、多くのお金を学習にかけている。

指導するにあたっても、法外な金額を吹っ掛けるのではない。月々1万円以内の金額である(弊門本科は、月々5,000円程度である)。常識的な金額である。

その設定金額のうえで、先生が片手間にサラリーマンしながらほどほどにやってきたものを、空いた時間で・・・ではない。長年積み重ねてきた技法を指導するのである。

出し惜しみをし、少しでも安く習おう、あわよくば極力お金を払わずに・・・と考える輩もたくさんいる。お金も問題ではない。たかだか5,000円程度の金額だ。その程度の額ですら、膨大な時間を費やして指導している師匠に払うのを渋り、ケチる人間に、私は指導の情熱を注ぐことはできない。

このように、その拳法について先んじてより多くの時間を費やしているのである。少しばかり技法の飲みこみが早かろうと、ただそれだけをもって先達が初心者に頭を下げるなど、あるはずもないし、あってはならない。その弟子が慢心するだけである。私は決してすることはない。

代継弟子になろうと、八卦掌の修行過程では、まだ入り口に立ったばかりである。これから先、膨大な「自分なりのノウハウ」を積み重ねていく必要ある。この段階では、全体像が分かっていないため、気づきも、その多くは一過性のものである。私もそうであった。

「これこそ真理か!」と初期段階で気づいたことなど、今思えば、途中段階の未完成なものばかりであった。成長の過程でその気づきは必要ではあるのだが、それが八卦掌のすべてを悟らせるもの、ではなかったのである。成長過程における、成長の一段階に過ぎないものである。

代継弟子でもその状態である。まして代継弟子になる前の状態は「初心者」だ。初心段階の人間に、おおよそ3万時間以上を費やした師匠が頭を下げるなど、ありえない。

掌継人は、もっと先の段階である。

掌継人は、弟子に明快に術理を示さなければならない。自分でできるのと、その出来る技術を人に伝える、のでは、また違った段階となる。代継弟子になってから掌継人までの道のりは厳しい。

弊門を修了した掌継人は、皆例外なく、掌継課程で膨大な時間を費やしている。すべからく毎日練習場所に立ちつづけ、悩み、時に泣き、時に苦しさの中で続けることすら苦痛の中でも、とにかく向き合ってきた者ばかりである。

ここまでやるのは、いざという時命を賭ける今すぐ使う技法を、弟子に示す必要があるからである。掌継人は、八卦掌の技法を、後代に伝える立場の人間である。自分だけで修行しているだけの立場ではない。

今すぐ使う技法が、清朝末式八卦掌の特徴である。いますぐ、明日にでも使う技法ゆえ、術理は明快でなければならない。

何年先使用を前提とするならば、あいまいで抽象的な説明でも、今この時点でごまかすことができる。しかし今すぐ使う予定の、清朝末式八卦掌では、それはゆるされない。

今、目の前にいる教えを請いに来た弟子に、明快に術理を示さねばならぬ。その技法は、その弟子が間もなく誰かを守るために使う可能性もある。そのような重大な技法をを伝える作業をしなければならない。

つまり、その責任ある作業を実行できる実力者だけが、掌継人になることができるのだ。

今までの掌継人は、皆それができたから、女性でもなったのだ。それが出来なければ、屈強な男性でも、掌継人になることはない。弊門では、認めることはない。

多くの屈強な男性は、掌継人どころか、代継門弟にすらもならなかった。清朝末式八卦掌の技法に、心を向けきることができなかった。一時でも心を向けきることのできない人間に、先に進むのは難しい。

女性は、力と力がぶつかるスタイルに未練もないため、代継門弟・掌継人ともになりやすい。

八卦掌水式門では、以後も、代継門弟・掌継人にたいする公認は、厳しく行う。でないと、技術伝承において一定のレベルを確保できないからである。

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無料体験ではなく、有料仮入門で技術を学び判断すること

八卦掌水式門では、無料体験制度を設けてない。

無料体験制度を設けると、無断キャンセル者が大量発生するからである。

無料でしか来ないからといって、その中にも将来有望な者が・・・・だから修行の機会を、という意見もあった。

だが、無料体験を設定することによって生じる、圧倒的多数の非常識人間に時間をとられる方のが大問題である。

真面目に修行に取り組む者に力を注ぎたい。課題や超えるべき壁を越えるべく向き合う者に情熱を注ぎたい。

無料でしか来ない。体験もないのかよ、と文句を言う。仮入門期間中に払う5,000円程度の金額を出し惜しみ、極力お金を使わないようにする姿勢を見せつける。この手の人間は、人に何かを教わる姿勢がそもそもない。お金を払うのだから、教えて当然、と考えている。

師弟関係によって脈々と受け継ぐ武術の伝承形態をまったく理解してない。命がかかる殺傷技法である。指導した人間がならず者であれば、教えた先生や、学んだ者の周りの人間、その他関係に無い人を、ならず者の弟子が傷つける可能性がある。

シリアスで人の命に関わる技法の伝承だから、これほどまでに教える人間を選ぶのだ。出し惜しんでいるのではない。誰それ構わず教えることによる弊害に、伝統門指導者は責任もって向き合う必要がある。

水式門では、最低限に護身ができるまでの技法を、サイト上や弊門Youtube動画にて公表し、独学ですら可能なくらいまで公開指導している。流麗華麗な技を、足さばきなどの肝心な部分を見せずに実は道場の宣伝目的で挙げている動画と、一線を画す。

その中で、技法の内容や、私自身の動きの質・身体の体軸レベルなどは事前に分かるはずである。自分の技術レベルはそこでおおよそ推しはかることはできるであろう。

それでも「5,000円の月謝を払う価値があるかわからない」と映るなら、その人にとっては、私の伝える技法は、5,000円の価値すらも無いのである。価値を見いだすことができない者に、修行の継続は難しい。

膨大な時間を、修行に費やしてきた。会社に正規雇用で籍を置き、皆が楽しむことを一通りしながら、そのついでに空いた時間で練習を・・・ではない。仕事も最小限に抑え経営と練習ができる環境を、何年もかけて準備しそして時機到来後実行した。家族をかえりみること以外はその時間のほぼすべてを、八卦掌の修行と水式門の運営・指導に費やしたのである。

八卦掌に向き合った時間は「誰よりも」かは不明である。しかし、自分の中では最大限に、出来る限り、いや、経済的に追い詰められる状況があっても、向き合ってきた。「誰にも負けない」と胸をはって言える。

なんとなく八卦掌がよさそう、とか、始めたばかりで他の武術と天秤にかけ、どちらもつかずでスマートにこなす(本人はそう思っている)愛好家の人間に、出し惜しみをされることは極めて心外である。そのような人間に教える技法は、ここにはない。数千円程度の金額が惜しいなら、無料体験制ある教室に行き、想いを遂げればよい。

水式門では、有料仮入門期間中も、それが八卦掌である以上、使えないシロモノを伝えない。家に持ち帰って真摯に練習すれば、その身を守るための基礎となるものを真剣に指導する。

一度でも弊門を訪問したことがある人間なら、指導内容がシリアスなものばかりなのが分かるはずだ。ブラックボックス化し、よくわからない例えでお茶を濁す指導はしない。具体的な術理と、拳法成立背景の説明により、「八卦掌の目的」から導かれる理由で明快に指導する。

仮入門生にも、真摯に向き合う。本門生と同じように接し、指導する。命を賭けた技法なのである。当然である。

ここまで真剣なのである。時にわが命を守り、時に大切な人を守る護衛護身の技術だから当然である。そのような技法を、無料でライトにポップに指導などしない。

怒鳴ったり、殴ったり・・・そのような指導は、中国拳法界では行われない。許されない。弊門でも決して行わない。しかし、中国拳法界の伝統に従い、不真面目な者にはそれ以後の内容を指導しない。上達しなければ、その先を指導しない。そこは理解してほしい。中国拳法界の厳しいところはしっかりとあるのだ。

日本の道場であれば、不真面目者には先生がその点を指摘し、改善を促してくれる。しかし中国拳法の指導の場では、そんなこと言われない。上達しない者は、いつまでたっても何も教えてもらえない。これは、先生から大目玉を喰らうよりも、はるかに怖いことなのである。

私の八卦掌の先師・馬傳旭先生も、この厳しさがあったと、我が師より何度も聞いたことがある。上達しない者には、いつまでたってもその先を指導しない。わたしだって、何年もたってからは初めて、師に老八掌の単換掌を教えてもらったのだ。

八卦掌水式門における、無料体験制不採用の意味を理解していただけただろうか。

弊門は、職業武術家である私・水野義人が指導する、八卦掌専門の伝統門である。お気軽に、ライトに、楽しく気軽に、と考える愛好家には、不向きな道場である。

しかし、身体能力などがなくとも、真摯に練習するならば、こちらも真摯に指導する。

なぜなら、毎日真摯にコツコツと継続する者こそが、達人になる才能のある者だからである。ちょとばかし飲みこみが良くとも、継続して積み重ねない者は、決して達人になることはない。

八卦掌に向き合い、上達を願う者よ、その熱意と、大切な自分・大切な人を守りたいと願う優しささえあれば、私は大歓迎である。そのような者との出逢いが、とても楽しみである

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どこが悪い?行きたい場所へいつでも自在に行ける技術が。

自分は、『行きたい場所へいつでも自在に行けること』を目指して、練習してきた。

誰よりも練習したかどうかはわからない。しかし自分の出来る範囲を超えて、練習してきた。

生活レベルが最も低いレベルをまたいでも、マイナスになろうとも。

こういうことって、人との比較じゃない。自分次第で完結したい。人との比較ほど意味のないものはない。清朝末式八卦掌は、護身術で『他人次第』ではない。目指すところは『自分次第』の領域だ。

『自分次第』として目指す境地・段階。それは、『自分の行きたい場所へいつでも自在に行けること』ができる段階だ。

技術とか、メンタルとかで相手に勝つとか、ではない。武勇伝を見聞きすると、たいがい、相手をねじ伏せたりする話がおおい。

そうではなく、相手が何を言ってこようと、どのような立場だろうと、どんな技術を持っていようと、その場をやり過ごす技術があり、その場から離脱したり、相手から逃げ続けて長時間時間稼ぎができるなら、それでいいではないかと考えた。

そしてその段階を目指し、焦点を定め、練習してきた。気が楽になったね。敵の攻撃を、成功するかどうかわからない手技で対抗する不安から解放されたから。見た目はカッコよくもない。

逃げてばっかりと、八卦掌の目指す深いところを理解しない人には呆れられるが、そんなものはどうでもいい。心の平安、我が身安全第一、弱者なりの護衛方法を極めたいと思って、まい進してきた。

『自分の行きたい場所へいつでも自在に行けること』ができる段階に至るならば、私はどのような境遇に至ってもいいと考えた。そして、あと少しのところまで近づいてきたとき、息が上がっても動き続けることができるようになった。

息が上がっても、振り切ることができるようになった。そして自分行きたい場所へ、行きたい、行こうと判断した時、行くことができるようになった。行くことすら考えないで、無意識に、パッと目に入った誰も居ない場所へ、言い換えるなら、己の感覚が命じる敵のいない安全な場所へ、行くことができるようになった。

「本当に、野生なんかから・・・倒したのかよ」と言われた時、

「倒してないですよ、逃げてくれただけ。すぐ動ければ、やられないですね、見てみますか」

と堂々と言うことができる

野生との戦いをなめているのではない。野生の前では、人間など逃げるのみだ。野生の前では、武術のスキルなど、ほんのささいな差でしかない。

しかし、武術によって磨いた『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルは、野生の前でも、瞬間的な回避行動の発動として、威力を発揮する。この部分だけが有効である。

最近上げた動画は、その部分について少し触れた。瞬間的に、大きな力を発し、今居た場から少しでも移動する。これも自分次第である。瞬間的の大きな力で相手を打つ。当たらなかったらどうする?攻撃なんて、ほぼ当たらないもの。であるなら、自分を安全な領域に移動させる方に、発力(発勁)を使った方が確実ではないか。

今回の動画でも一定数のマイナス評価がつく。マイナス評価をする行為ほど、バカげたことはない。自分次第の領域で完結させるための発力に、なんのケチがつけようか。

この領域に至るまでに、どれほどの練習をしているか、どれほど考え抜いたか、どれほど繰り返したか、そんなことを想像もできず、ただ人のしていることにケチをつけるつまらない人間が嫌いである。

自分次第であり続ければ、たとえ誰かが、強大な力で人を倒すことを売りにして威勢が良かろうと、それはそれ、とみることができる。

自分のところに人は集まらないかもしれない。ロマンがないから。でも八卦掌なんて、護衛護身術。見世物ではない。自分を守ることで大切な人を囮(おとり)護衛できるなら、私はそれで必要十分だと確信する。

よって、人を強大な力で打つ練習などしない。手技で真っ向から、華麗に防御して攻撃するコンビネーション練習などしない。斜め後方へ安定して移動しながら、『勢』を保って対処する方法ばかりを練習している。

決して簡単ではない。難しいし、身体軸の安定が求められる。やればやるほど、『翻身旋理・刀裏背走理』の重要性を痛感する

まだ足りない。自分の目指す領域に到達すると、また新たな行きたい場所が見える。このシチュエーションで、より完成度を高めたい、そう思う。この道具を使っても、この術理で何なく実行したい、と思える。そう考えて、刀も、長棒も、双短棒も、連身藤牌も、扱ってきた

私の仮想敵は、野生である。イノシシである。鹿である。カモシカである。とんでもな筋肉とキバ・角で、命がけで立ち向かってくる脅威の敵である(熊は想像もつかない。逃げることすらも想像できない)。

『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルを磨いて磨いて、その場から回避する。その技術があることで、職責たる「闇を照らす」ことで犯罪を未然に防ぐことができる。野生が怖いからといって、闇を照らさないわけにはいかない。その職責を果たすために、『自分の行きたい場所へいつでも自在に行ける』スキルは欠かすことができないのだ。

その視点で、発勁動画もみて欲しいものだ。自分が身体移動に、瞬間的に大きな力を使う理由を。

これは、自分の動画に定期的にマイナスをつけて満足しているどうしようもない阿保たれに言ってるのではない。清朝末式八卦掌に価値を見いだしている、才能ある未来の仲間に言っている。

ブログ内容は、すべてこれらの天才に向けて発している。彼ら彼女らになら、届く。

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清朝末式八卦掌恩師・楊先生との思い出

私のサイトに、宦官(かんがん)として宮中に入っていた頃の、董海川先生のイラストが出てくる。

これは、清朝末期成立当時の頃の原初八卦掌(以下「清朝末式八卦掌」と呼ぶ)を私に指導してくださった恩師・楊先生をモデルにしている。

※楊○○先生。下の名称の漢字が不明である。当時私が記したメモ帳は、ほとんどがひらがなだった。技の名称も皆ひらがなのため、八卦掌水式門サイト上で記した技の漢字も、従来とずれている可能性がある。突然教室が無くなったこと、名前公表について先生の許可を当然得てないことから名字での呼称にとどめる。

董先生は、諸国漫遊の中で、異人と出逢い、八卦の術を授かったという。異人とは、平たく言えば、外国人・異民族のことだ。

当時の中国には、様々な民族がいた。そして外国人も。日本人もいたであろうし、インド人、ヨーロッパ人、ロシア人もいた。

漢民族でない誰かに、あのハイブリッドな拳法を習ったことは、一種のロマンである。そして私も、清朝末式八卦掌を、私とって「異人」の、楊先生に習ったのだ。

私が発する伝承証明書に、楊先生の名前は載せない(私の八卦掌のメインの先生の名前は当然記載している)。なぜなら、楊先生に習った期間は4年近くに及ぶが、内弟子となったり、指導許可を得たりしてないからだ。

事情は不明であるが、私が高校生の時、突如先生の道場が無くなり、清朝末式八卦掌の指導を受けることが無くなってしまった。

無くなる一年前近くから、多くの武器術を習うようになった。刀術から始まり、双身槍、遊身大刀、双匕首、果てに、連身藤牌まで。連身藤牌は、先生の演じる虎衣藤牌兵演武がかっこよかったので、なかば積極的に頼み、教えてもらった。

先生が高齢者の方々向けに指導している公民館っぽい施設の近くの広場で、八卦掌を習った。当時から外で習っており、習うのは外であることが、当時から当たり前だった。

今思えば、教えることができなくなるから、愛知から東村山まで習いに来る熱心な少年に、出来る限り伝えてくれたのだろう。

私は大学に行き、ある程度お金を稼ぐようになった(夜間大学だった)ため、機会を見つけては上京し、何度も何度も探した。

しかし結局見つけられず、お会いすることはなかった。大学を卒業し、結婚などを経ても、なお探し続けた。

私の八卦掌のメインの先生は、北京の高名な先生から指導を受け、正規ルートで伝承をする一種のエリートである。中国の体育大学を出て、有名な先生に複数師事している。楊先生のように、片田舎で、父親や祖父から習っただけの無名先生とは大きな違いである。しかし、メインの先生は「八卦掌は多人数戦専用の拳法」と言うなれど、正規に指導許可を得て八卦掌の第6世となっても、対多人数戦の技法を教えてくれることはなかった。

私が信頼されてなかったのか?とも思ったが、その先生の同門の有名先生の指導内容から、そうでないとわかった。

同門の先生は、公のメディアで、「八卦掌は螺旋の拳法」と発言をしており、明らかに多人数戦ではないことが分かったからだ(それは間違っている、とかではない。スタイルの違いだけなのである)。

まさかメディアで、指導しているものと違うことを言うまい(もしそうならば、それはそれでかなり問題である。一部の中国人の先生は、金をとってもへっちゃらで、日本人に違うことを指導するが)。

私が習った梁派は、対一人・対他流試合・強者使用前提の近代格闘術スタイルだったのである。清朝末式八卦掌は、「勢(せい)」の拳法である。目的からして、全く違うのである。目的が違うならば、当然、技術体系も違う。

全く無名の、福建省アモイ近郊の農村出の楊先生の道場は、名目上、太極拳の道場だったけれど、単換掌・双換掌は、斜め後方にスライドをしていたのだ。横に下がるのではない、斜め後方スライドなのである。これは大きな奇跡だったと感じる。

私が八卦掌を独学で練習していることを知るや、特別に、八卦掌を教えてもらった。その頃は、斜め後方スライドなど知るはずもない。

先生に就いて習うのは、楊先生が初めてだったから、八卦掌は、後ろに下がりながら去り打ち・後ろ斬りをする拳法だとなんとなくわかったし、そう思っていた。

※独学当時の佐藤先生の本は、近代スタイルだった。しかしその本からも、後ろに下がるのではないか、と薄々気づいていた。楊先生に習った時「やっぱり下がるのだな」と納得した記憶がある。

楊先生に出逢ったのは、まさに運命だったと思っている。当時は、日本に八卦掌の道場など無く、太極拳のクラスがある程度。

その中で、八卦掌に出逢い、またそれが、斜め後方スライド技法の残る、原初式八卦掌だったからだ。

なぜ楊先生の八卦掌は、近代格闘術化しなかったか?それは、先生が八卦掌を習った経緯にある。楊先生の実家は、先生によると、福建省アモイ近郊の片田舎(失礼)だったから。アモイは大都市だけれど、そこから何日単位で移動するほど、外れていたようだ。
 
八卦掌の本場たる北京や、近郊の黄河流域付近であれば、八卦掌を公に指導する有名先生の道場も多い。

そこで名をあげるには、他流試合で強い必要がある。移動遊撃戦で撤退戦を演じている場合ではないのだ。そして、他流派との交流の中で、近代格闘術化していくのは自然の流れである。

しかし楊家は、福建省の田舎、という孤立した土地柄にある。割と外界(特に八卦掌界)とは隔絶された状態で原初のままのスタイルが残ることになったのだと推測される。

私にとって、弱者護身のスタイルを学び、指導者となることは、目的を達成するための、大きな現実的目標であった。よって先ほど触れたように、楊先生を探し続けたのである。

メインの先生に習った近代八卦掌は、私の子らに教えることはなかった。そういう意味で、彼女らは純粋に昔日スタイル八卦掌家である。子らの修行の完成をも願ったゆえに、探し続けたのだが、叶わなかった。

日本の中国拳法愛好家は、やたらと先生の出自にこだわる。そして練習も大してしないくせに、有名先生に師事していることに異常に固執するのだ。○○先生伝という上っ面の看板だけで実力を判断し、使えもしない技術ばかりを増やしている。

八卦掌の門を開いていると、「○○先生に紹介状を」などというくだらない問い合わせがまれに来る。「○○先生は紹介状なんて条件を掲げてないから、問い合わせて習いに行けばいい」と最初は答えていた。しかし最近は無視している。

有名先生に最初から特別扱いをしてもらいたいのだろう。しかし、特別扱いしてもらう方法はただ一つだ。門に入り、地道な基礎を積み重ね、練習に誠実に向き合う長きの実績で、認めてもらうことだけなのである。私が楊先生にそうやって認めてもらったように。

私が梁派の継承の道を捨て、その記載をサイト上から消した以後は、本当に問い合わせが減り、そして無礼者の問い合わせが増えた。舐めているのだ。

しかし実戦を幾度も経験した者として言うならば、有名先生に師事していることなんかは実戦では何の役にも立たない。暴漢やならず者、輩(やから)らは、有名先生や達人の名前なんて一切知らない。そもそも、「○○先生にならったんだぞ」なんて馬鹿げたことを言う暇もない。鎌倉武士じゃあるまいし。野生動物なら、そもそも言葉も通じない。

楊先生は、そのような日本の愛好家からすれば、何ら価値もない先生であろう。しかし私にとっては、ずっと探したい人であり、追い求めたい先生なのである。

落ち着いたら、アモイの近郊にも行ってみたいと思っているくらいだ。きっとご存命であろう。およそ60代後半くらいであろうか?ぜひお会いし、あの時のように身振り手振りで習ってみたい。

今私は、楊先生から習った楊家伝の技術を整理している。近代梁派とごちゃまぜになっているからだ。楊家連身藤牌の型を公開したのは、その一環である。

楊先生から習った技法は、私の代で責任をもって整理し、公開し、後代に伝えるつもりである。連身藤牌は、すでに子らに伝えたが、その他の技法は、まだまだ伝え足りない。

清朝末式八卦掌全伝」のカテゴリーにて、術理を公開し、修行者の参考に供する。また機会があれば見て欲しい。まだまだ未完成であるのはご容赦してほしい。

春先の富山~立山連峰に匹敵する悲しく美しい人形山

春先富山を尋ねる際、見たいもの。それは、立山連峰と人形山。

氷見と言えば、富山湾上に浮かぶ立山連峰である。この景色を自身の生活の一部にしたくて、氷見に移住してくる人もたくさんいるらしい。

私も、何度もこの絶景を見たが、何度見ても、キレイだと思う。初めてこの場所に連れてきてもらったときは36年前。突如の訪問だった。

免許取りたての家内によって、海に浮かぶ立山の存在を知り「式人に見せてあげる」とのことで、家内の妹と、私の三人で氷見に来た。

北陸道しかなかった時代。とんでもなく時間がかかったこと、そして、6月だったからうっすらと山の稜線しか見ることができなかったこと、家に帰ってひどく怒られたことを鮮明に思い出す。

その人と一緒に見ることが当たり前になり、立山を見る感動が少しづつ薄らぎ、見ることにこだわりがなくなってからしばらくして、一緒に見ることが難しくなり、そして一緒に見ることができなくなって、気が付いたら一人で見ることになって、改めてこの景色の美しさに気づいた。

見える時はここしえに美しく、気づいたら、また全く見えなくなって・・・そこに在るのに、見えない。

意図せずして見えることがあるが、心底見たいと思った時は、なぜかずっと見ることができない。今の自分の状況に、重ねてしまう。富山県人でない私にとって、ないがゆえに特別な存在となってしまった。

今は、感動ではなく、胸に迫るものがある。美しさは何ら変わらない。自分と自分を取り巻く環境が変わったようだ

「今日は山は見えないのか」「今日は山は見えるなぁ」これらは、私の無意識の口癖らしい。たまに、一番弟子に「また言ってる」と指摘され、言ってる自分に気づいていない自分に驚く。富山本科の門弟は、この口癖を耳にするかもしれないが、気にせず聞き流して欲しい。

むかしよく足を運んだ雨晴海岸には、今は立派な道の駅ができて、多くの人が訪れている。なぜか電車好きの三番弟子が、はしゃいでキハ40(という気動車の名前)を撮っていた。

富山の山は、私にとってはかないものである。

昔、小学生の頃、日本昔話でやっていたお話。五箇山の人形山。にんぎょうさん、にんぎょうやま、ひとかたやま、色々と呼名があるようだ。

「平村(たいらむら)の貧しい農家に、農業の無理がたたって父親を亡くした、幼い姉妹を持つ母親がいた。

母親は、その姉妹を育てるべく、自身が信仰している白山権現様にお祈りしつつ、毎日懸命に働いた。

そしてその姉妹も、身を粉にして働く母親の姿を見て、懸命に働く。しかし母親は、無理がたたって病に伏す。姉妹はそれでも、白山権現様にお祈りしつつ、母親の分も働きつづける。

ある時、姉妹は同時に、白山権現様から夢の中で、母親の病を治すいで湯があるから、そこに母親を連れいけと、お告げを受ける。姉妹はそのお告げ通りに、その湯に母親を何度も連れていき、その甲斐あって母親は病が回復に向かう。

姉妹はある日ふと思い立って、白山権現にお礼参りをしに行こう、と思い立ち、山に入る。しかし山は女人禁制の厳しいおきてがあり、それがためなのか、帰りにひどい吹雪に巻き込まれる。姉妹は母親のもとに、戻ることはなかった。

辛く悲しい冬が過ぎ、その母親が残雪残る山をふと見ると、そこには、手を取り合って天に昇るかのような、姉妹の形をした雪形が残っていた

地元の人は、春先になると必ず現れるその雪形を悲しみあわれみ、いつしか山を「にんぎょうやま」と呼ぶようになった・・・」

そのあまりに悲しい話を聴いてから、いつしか、その雪形を見たいと、何度も通った。そして何枚も撮った。春先富山の来訪時には、東海北陸自動車道では五箇山インターで降りて、その雪形を見に行くのが恒例となった。

姉妹が、まるで今自分が置かれている苦しい現状から解放され、手を取り合って共に天に向かって旅立つかのような形である。その形があまりに悲しい。

「今でも見えるのがすごいよね。なんかとても不思議」といつの時か、二番弟子がそうつぶやいた。

「ただ、嬉しくて、お礼がしたかっただけなのに・・・今で本当に良かった」と一番弟子が続く。

本当にそう思った。昔話を聴くと、神が畏怖の対象であったのが分かる。時に願いも聴いてくれるが、何か約束を違えるようなことをしてしまうと、その時の事情も何もなく、容赦なく・・・。まさに、自然の摂理だな・・・と。

この話はきっと江戸時代の頃のお話しだろう。ある時、何らかの形で大切な人を失った誰かが、もしくはそのような話を知っていた誰かが、山に見える残雪を見てその形に大切な人の姿を重ね、ひとに話し、それが広まったのかもしれない。

しかし長い時を経てもなお、それを見る人に悲しみやはかなさの感情を引き起こさせる。

もしその話が本当にあったことであったなら、全く同じでなくても本当にあったことを題材にした話ならば、今なお多くの人の心に残って、心を揺さぶっていることは、少しの救いではないか。

八卦掌水式門富山本科イメージ