「型=真理×」。「型=ヒント〇」。形式主義に陥るな。

型を絶対的な真実ととらえている人間がいる。

特に、「名門」などと言われている道場に通っている人間に多い。彼らは、底に伝えられている型を、まるでコピーするかにように、リアルに細部まで、再現する。

「型=真理」と捉えているからである。だから自分から、その内容を変えることはない。その内容と違ったものを、たちまち「誤伝」「亜流」「悪いクセ」といって批判するのである。

大東流合気柔術。日本ではやたらと有名な流派である。私に言わせれば、日本に数多く存在する柔術流派の一つに過ぎないが。そこの門弟らは、そんな風に思っていない。我こそは、選ばれし武術の、正当な門下生である。我こそは・・・。

私のところに体験しに来た者に、大東流の者たちが結構居た。

ある人は、「私は大東流を習ってきた。だから入門しても、しかるべき扱いをしてほしい」とのたまった。何やりに来たんだ?そんなに大東流に誇りを持っているならば、習った場所で、一筋に習えばいいだろうに。

彼らは、自分の習った型を、絶対的な真理だととらえている。なぜそのようにとらえるのか?権威に寄り掛かる方が安心だからである。自分に自信が無いのだ。

武田そうかく先生?佐川幸義先生?崇拝するのは大いに結構であるが、私のその人たちに会ったこともない。技術を見たこともない。すごいかどうかわからない。そして、崇拝するかれらも同じである。なぜ会ったこともない、現在生きてもいない人に、現在のこの時をゆだねるのか。

あなたはどこ?あなただって、彼らと同じなのに、なぜそれほどまでに、彼らに真理のバトンを渡してしまうのか?

よく覚えておいて欲しい。

型とは、ヒントである。あなたがあなた自身の真理に気づくための、ヒントに過ぎないのだ。

董海川先生が残した型は、単なるヒントである。楊家伝武術の開祖が残した転掌式も、ヒントに過ぎない。そして、水野義人が、後代に伝えたものも、単なるヒントである。絶対的なものではない。絶対的でないのだから、いくらでも変化し得るのである。

私が、一通り習うまでは、素直に師の指導に従え、というのは、絶対的なものを伝えているからではないのだ。ヒントといえど、それはひとつの一貫した、術理・戦闘理論に沿っている。だから一通り、一貫した術理で構成された技術体系を、素直に学べ、と言っているのである。

日本の愛好家には、深くかかわらず、武術をたしなみたいと考える都合のいい考えを持つ者が多い。だから中国の先生や、中国の先生に真剣に学び、真伝を伝えられた日本人に相手にされないのだ。

私も、楊師より、その学習態度を特別に認められ、転掌を伝えられた者の一人である。一般的な自分護衛の段階は指導するが、その先は、何を考えているか分からぬ者には、伝えないのである。日本人は、口では「中国拳法は保守的」と言うが、そのリアルさを分かっていない。

本当に保守的なのである。日本人、というだけで、その日本人が真摯で誠実であっても、金だけ取って、ウソを教えるのである。日本人であれば、そんなことはしないだろう。しかし異国の、侵略されつくされた歴史を持つ国の、秘伝武術なのである。私たちが想像している以上に、保守的で秘密に徹しているのだ。

私は梁派門に居た頃でも、楊師の教えを守り、転掌の技法を見せたことはなかった。あくまで梁派において習った技法で、組手等をこなしていたのである。楊師のことは話したことがない。「関東で昔、斜めに進む劈拳を習ったことがある、それを八卦掌として教わった」と言っただけである。

嘘ではないし、楊師の師伝により、転掌の中核は、真剣に学ぶ者のみに伝えよ、と言われていたからなのだ。

「イー・レン、今まで教えたのは、先代の遺したヒントだ、真実となるかどうかは、お前次第だ。多くの場合、それ(型)はヒントとして、役目を終えるけどな。お前の場合、きっとそうなる。」

とおっしゃった。今思うと、深く、かつ、私をさりげなく評価してくださった言葉だったのだ。

さりげない言葉であったが、その教えが無ければ、多くの者は、伝えられた型に囚われ、自分なりの真実にたどり着けなくなるだろう。

この言葉を思い出す時、ブルース・リーという天才が、彼の夫人に言っていた言葉をも、思い出すのだ。

「僕は君の期待に応えるためにこの世にいるのではない。そして君も僕の期待に応えるためにこの世にいるのではない」

 

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