ホームぺージの師匠の助言が、私の初心を思い出させた

八卦掌水式門のいじめ護身部のメッセージ集。その誕生のきっかけとなった、コンテンツの師匠のアドバイス。

拳法を少し離れ、パーソナルな部分を打ち出してみるのもいい。そうすると、人格に興味を持った人の中から、拳法への道につながる

最初は、「私みたいな無名の中年の書いた文に、興味を示すのだろうか?」と思わず言ってしまったが、彼の言う通り、私の人格のままに、過去の苦い思い出も含めて、さらけ出した。

そうしたら・・・そこから、真剣に私の記事を読んでくれる人が来始めて。技の解説ページにも、明らかに真剣に学習しているであろう訪問者も増え始めて。

何より、真剣に見てくれる人がいることがうれしくて、以前と比べ物にならないくらい、執筆に気合が入るようになった。ずっとずっと、弱者がいじめに対抗する護身術を伝授することが大きな夢だったので、この現象は、私の心を震え立たせた。原点に返った気分だった。

久しぶりに師匠に逢った際、イラストをプロに頼んでみるのもいい。そのアドバイスを受けて、まずサイトの写真を、プロに頼むことにした。

遊撃八卦双短棒をブレザーで演じる発想は、私のものである。その発想の良しあしはさておき、撮影の細かい設定については、プロのカメラマンに従って正解だったと感じている。

師匠といえど、年齢は私より20歳以上も若い。その若さで、人に技術を教える立場になっており、私に比べあまりに前途洋々な若者である。人にものを教わるのに、年齢も関係ないようだ。

スキルを得るまでには、血のにじむような練習・反復を要する。

残念ながら、最近のネット広告でも、変わらず「手軽に、早く、高収入」というようなものが見受けられる。

しかし人に教える立場、人にプロのサービスを施す立場になるには、昔も今も、万単位の時間が必要なようだ。

私自身、現在の境地に達するまで、3万時間以上を要している。私の場合、移動遊撃戦に達するまで、具体的な技術指導を受けたことがなかったため、模索と検証に時間を要し、多くの時間がかかった。

しかし、私の例は、珍しいことではない。そこが、先生に敬意を払う必要性の根拠となる。多くの「先生」と呼ばれる人は、人に教える立場になるまで、多くのトライとエラーを繰り返し、多くのお金と時間がかかっている。

たまに、プロとして仕事をしている人に、お金を払いたがらない人がいる。多くの場合、サラリーマンである方に多い。私は自営業者であり、自営をするまでに多くの犠牲と時間・費用をかけてきたため、払うお金を惜しむことが考えられないのだ。

今回写真を撮ってもらった時でも、プロのアドバイスは的確であり、仕上りも私が自分で撮ったものとは雲泥の差であった。次元が違うのだ。改めて、プロの道に進んだ方の技術力の高さに頭が下がった。

そしてそれは、私自身も言われることとなった。自信と気迫が出てくるようだ。強がりやはったりを超えた、内からにじみ出る気迫があるから怖い、と複数人に指摘されるようになった。

そのように言われるようになってくると、ドラマが多く発生し始める。人が来はじめ、自信が「躊躇(ちゅうちょ)」を無くし、どんどん次の扉をノックするのだ。

私のコンテンツ師匠は、先ほど言ったように、20代中盤であろう。しかし、先生からは、死線を超えた武術家のようなにおいがするのだ。

小さいことでおどおどしない。自信を感じるのは、持っているスキルを、血のにじむ努力で手にしたのだと思う。こんなふうになりたい

『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップ

八卦掌水式門ホームページ:いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

最低3連・目標5連・究極10連~対一人で必ず当てるために

八卦掌水式門で指導する八卦掌の中核技法は、単換掌で学ぶ術理「単換掌理(たんかんしょうり)」である。

単換掌理は、後敵対応の技法であり、力と力がぶつからないための、弱者のための術理である。これができないと、昔日の八卦掌の提唱する、弱者生存は実現できない。

八卦掌は対多人数移動遊撃戦である。遊撃戦の渦中では、対敵のパターンはこちらの想像を超えるのが常だ。後敵だけで済むものではない。前敵に対する攻防も考えておかなければならない。

しかし前敵に対して、一般の拳法のごとくまっすぐ入り身をして攻撃したのでは、まともに力がぶつかり、勢をそがれ、移動速度が遅くなり、体力を奪われ、前敵のみならず後ろから迫っている敵にも捕捉される。

よって単換掌理からの派生術理として、前敵に対するスライド離脱攻撃が考えられた。これを弊門では、「順勢掌理(じゅんせいしょうり)」と呼んでいる。

名前はどうでもいいのだが、少し言及する。順(じゅん)とは、逆らわないこと。となると、順勢掌とは、勢(せい)に逆らわない技となる。順勢掌の名付け親の意図もくんで、ではないが、我々も、移動遊撃戦を乗り切るため、この名の通り、勢に逆らわない身法でもって前敵に対することにしよう。

私が自身の拳法スタイルを確立するうえで、極真空手の拳士の方のアドバイスは、極めて大きな転機となった。

対多人数移動遊撃戦の技術が確立されてきた際、当然想定される、対一人眼前攻防になった際の攻防が乱れる事態が生じた。

長いこと、近代スタイルに取り組んできたが、対多人数移動遊撃戦身法を、激烈に繰り返したことによって、身体推進力が大幅にあがり、敵の側面にとどまることができなくなった。

そこで基本に立ち返り、清朝末期頃スタイル八卦掌の三身法のうちの一つ、内転翻身法を磨いて、敵側面から、移動推進力によって弾かれない技術を磨きなおした。

敵側面にとどまるスキルを磨いていく際、敵側面にとどまってどれくらい圧力をかければ、敵にダメージや圧力をかけることができるかの疑問が生じた。この疑問は、眼前攻防専修時代であっても明確に把握してなかった。

その時である。極真拳士の方からアドバイスをいただいたのは。五連続攻撃まですると、手技で防御する敵になら、攻撃を当てることができる、と教えていただいたのだ。

このアドバイスは、大きな目安となった。五連続攻撃という目安があるならば、それを実行し得る技術を磨けばよい。

最初は、三連続攻撃あたりで、移動推進力に負けて敵側面から弾き飛ばされた。

内転翻身法の技術、そして斜め後方スライドの運足技法の円滑化、定式八掌身法の無意識化によって、五連続までの滞在が可能となった。

しかしこれは、あくまで攻撃をしてこないスポンジ支柱の横での話。実際の敵は、当然に動き、攻撃し、防御する。よって、自分は、10連続攻撃をやり通すノルマを課した。

回数を増やそうとすると、大きな問題が生じる。回数を稼ぐために、移動しなくなるのだ。それでは八卦掌ではない。

一箇所にとどまって攻撃をすれば、前敵の攻撃をまともに受ける可能性が生じ、かつスライド離脱攻撃ができなくなる。

私は、対一人攻防の技術を、対多人数移動遊撃の渦中でも活かすことを考えていたため、とにかく移動しながら打つことにこだわっていた。

結局、アドバイスを受けてから、そのアドバイスを活かして技法が展開できるようになるまで、1年と半年近い時間がかかった。

拳士の方に報告した際、とても嬉しそうに対応していただいた。私は、真摯にアドバイスをしてくれた方に、その技法をマスターして示すことが、最大の恩返しであると考えている。

このブログは、その拳士の方も見ておられる。今日は、10連攻撃の動画をもって、ささやかな成果報告をしたい。あの節は、本当にありがとうございました。

『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップ

八卦掌水式門ホームページ:いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

原動力は、君だけのもので。君だけの原動力が、未来をひらく

原動力。人に言うのが恥ずかしいようなものでもいいのではないか。

犯罪めいたものや、人を悲しませたりするうえで成り立つようなものでない限り、君だけのオリジナルでいいと思っている

長年、八卦掌を練習してきたが、その原動力は、常に学生時代のいじめだった。自分に対するものではなかったが、自分の弱さが原因で人が苦しみ、自分が思いつめて抱えたことが原因で、人の未来が変わった。

人に言わせれば「極めて重たい」原因だと思う。信頼できる人に話したこともあった。しかしその人は対応に困り、嫌がり、自分が原因で人を追い詰めていることを痛烈に批判した。

その指摘は間違っていないのだろうが、10代の少年にその言葉と内容はあまりに過酷で、人に話すことが怖くなってしまった。その後、完全に心を閉ざしていたと思う。

せめて人を守る仕事に就こうと考えて、柔道を習ったり、勉強をし続けた。人には、「なんでそんなに凝り固まるのか」とあきられたが、その原因を決して言わなかった。

この場は、いじめを受ける君へのメッセージでもあるため、腹を割って話しているが、一般の人には理解されないようだ。仕方ない。

八卦掌を練習し始めてから、すぐに、人に教えることを考え始めた。技術がうまくなるにつれて、その願望はより具体的なものになっていった。

『弱者生存の理で貫かれた護衛護身術「八卦掌」を日本全国各所に広め、誰もが、大切な人・自分を守る技術を学ぶことができる環境を創る』

しかし現実は厳しく、無名な自分、流派の後押しなど無い自分に、誰も気をとめることはなかった。試みすべてがうまくいかない。周りから「それ見たことか」と嬉しそうに揶揄され、無礼な問い合わせにも翻弄され、気持ちが何度も折れそうになった。

でも、忘れられない言葉や想い出が、ここぞという時に、背中を押して支える。何度それを感じたことか。

うまくいかなくて、ふとんに顔をうずめ叫ぶ。当然視界は真っ暗だが、そうすると、どこかの底に落ちるような気がして、そこで、フッと、思い出すシーンがある。

「八卦掌水式門」。門の名前の由来は、私のプロフィールでも軽く触れている。

同級生の、いじめを受けている辛い時期のさなかの、つかの間の笑顔での同級生との会話。

「水野式人(しきと)だから・・・・水式館?水式塾?・・・・・やっぱり水式門だね」

そんな他愛もない言葉だったが、自分には確かに、嬉しそうに見えた。正直、イラストのように、その場が海岸であったのか、田んぼの土手であったのか、覚えていない。しかし、同級生の後ろには、青い空が広がっていて、同級生が笑顔であったことだけは覚えている。

もう、40年近く前の話なのに、心から離れず、何度夢見たことか。

対多人数移動遊撃戦の練習では、日によって、設定した時間を到底もたせることができないと感じる日がある。そういう時、自分に負けそうになる。手が止まり、足がふらふらになり、そのみじめさが余計動きをにぶらせる。

でもそんなときも、いつも思い出す。そうすると、もう動かない、と決めつけていた身体に、思わぬ力が入り・・・それが一層自分の息を切らすのだが、やり切ってしまう

このシーンは、練習時だけではなく、全国展開のイメージの原動力ともなっている。

八卦掌を教える際、名称に全く迷うことはなかった。

「水式塾?水野式のことか?宗家きどりか」と批判されることもあったが、まったくどうでもよかったね。理由を言う気にもならない。水野式のつもりではなかったが、八卦掌成立当時の移動遊撃戦を指導しているところは国内では水式門だけ。

事実上の「水野式」になってしまってる。八卦掌を超えることはないが、人から見れば、水野式に見えるのだろう。それで結構。

私は、同級生のその言葉があるから、前に進む。たとえ、誰にも相手にされない現状でも、信じて疑わない、とはまさにこのこと。

原動力は、君のオリジナルであればあるほど、力が発揮される、間違いない。

何が言いたかったのかというと、原動力を見直してほしかったのだ。君の原動力たる理由を語る時、それが本当の心で選んだものなのか?そして君の心を動かすものなのか?

人に話すものでもない、鳥肌が立つような、心が震えて泣けるようなものが、原動力たりえる。

社会に適合させる必要もない。私は、ずっと、社会に適合させるために、夢の軌道を変えたりした。そのようなものでは、辛い時の動きを維持できない。

原動力を明確にし、時間をかける覚悟をしたとき、八卦掌は多くの人を救う存在となる。そう信じている。

君にとっては、何が原動力となる?

みんなと友達になりたい・・・素敵だね、叶うと、きっと思い出だらけの学生生活なるよ。

あの子が好きだから、情けない自分でいたくない・・・素晴らしい、それこそ青春だよ。

彼女に怖い思いとか、一切させない・・・・なんて崇高な想いなんだ。かっこいいよ。彼女は幸せ者だね

私は、このような、心から湧き上がった、シンプルな原動力がまぶしくて大好きだ。

心からのものだからこそ、辛い時、倒れそうなとき、支えられるのを実感できる。

自分を支えるものくらい、自分の心の直感でえらんでみないか?きっと未来が変わる。

『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップ

八卦掌水式門ホームページ:いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

独学では無理?描いた未来を得るカギは独学に有り

本当の「最初」から本当の「最後」まで、全部ひとりで学ぶ。それはあまりに大変である。まず、学ぶための教材を用意しなければならない。教材の選別作業はかなり大変である。

私が佐藤先生の本に出会うまで、多くの時間を要した。最初は空手の本で練習をしていた。それも大いに役立ったのだが、運命というものをかんじなかった。同級生をいじめていた連中の仲間が、空手をやっていて威張っていた経緯もあったため、印象もよくなかった。

八卦掌の本は、全く違った。求めていた矢先、名もなき本屋で、パッと目に入ったのだ。空手を一人で練習をしていたが、相手をあっと言わせるような違ったもので対抗したいと思っていた。何かないか?とずっと考えていた。

アンテナがはられていた状態だったんだね。独学は無理なんて言葉を気にせず、空手を練習し、本屋をめぐるという行動をしていたからこそ、佐藤先生の本に巡り会った。運命を感じたね。

そして・・・本を一通り読んだ後、「これは複数を想定したものだ、いける!」と直感したんだ。今読み返しても、本の中に、「対多人数移動遊撃戦」の文字はひとつも書いてない。掲載技法も、近代八卦掌の技法なのに。

対多人数で負け、体格で負け、武器で負けて。あの負けは、八卦掌が想定している「不利」すべてを含んだ「負け」だった。それすらも、今考えると、何かしら因縁めいたものがあった。

近代スタイルではあの時に戻ったらまた同じように負けてしまう、という気持ちが、昔日のスタイルに自分を導いた。それもまた運命的だった。

独学でスタートしたことは、これほどまでに、多くの連鎖を引き起こした。人生を変えたと断言できる。これまでは、野球とスキーにしか興味がなかった。ブルース・リーの映画は野蛮で嫌いだった(今は彼の思想が大好きです)。そんな少年が、「独学」で行動したことで、すべてが変わった。

独学をすると、本を見つけたり、道場の情報が流れ込んできたりする。

「そういえば、あそこに、なんらかの道場があったな・・・」その思い付きは、実はかなり大事。

さっそく調べてみよう。なんなら、電話して許可をもらい、訪ねて体験をしてみるといい。そういう行動が、未来につながるからね。

私のところでも、先生に学ばなければ理解できない部分がある。一人ではわからないところがある(そもそも、人に習わないとわからない部分しか水式門では教えてない)。一人で自習できる部分は、指導動画で出すが、それ以外は、やはり習いにきてもらわないと伝わらない。

もし君が、習いに行くのが面倒くさい、怖い、お金がもったいない、本でいいでしょ、なんて考えているなら、すぐやめてしまえ。拳法の練習は面倒くさい。先輩は怖い。お金はかかる。本に真実は書いてない。それが理由だ。

独学の定義はひとつではないため難しいが、拳法の練習はほとんどが独学なのは事実。しかし皆の言う独学と、私の考えている「独学」は大きく違う。

例えば、君が「本でいいや」と思ったその本に、一人の人間の膨大なノウハウと真実がつづられていたら、独学の大きな味方となるだろう。しかし味方となるだけだ。拳法なんぞ、しょせんは対人の制圧・殺傷技術。人と向き合うことをしないで完結するはずがない。

そして、さきほどもいったが、多くの八卦掌(拳法)の本を見ればわかるが、本当に伝えたい部分は書いてないもの。特に八卦掌は昔から秘匿性の強い閉鎖的な性質があるため、書いてない。

ネットでよく見る「独学では無理」の理由を見ると、先生にチェックしてもらえないから無理、とか、ちゃんとした先生でないから無理とか、実にとんちんかんな意見が多い。しかしそういう理由ではなく、独学では「強くなるための中核技法に触れる機会がないから困難なのだ。

では、先生のところに行けば強くなるか?知人に聞いたが、日本の中国拳法愛好家の中では「良師三年」という言葉が有名らしい。どういう意味かと思って聞いてみると、「良い先生に習わないと強くならない。だから良い先生を三年かけてでも探して教えをうけろ」とのことだ。

先生任せもいいところである。先生が君を強くするんじゃない。強くなるのは、強くなりたいという強いエネルギーがそうさせるのだ。

拳法の練習では、有名先生のネームバリューは、強さになんら影響しないと確信している。有名先生のもとで学んでいる人が自動的に強くなるのなら、達人だらけとなる。そして苦労もしない。

多くの有名先生の門弟と関わったが、その定義は当てはまらないようだ。自分で道場を開く際、自分の実力不足・信用度を補ううえではいいかもしれない。しかし本当の実戦では、何ら役にも立たない。

先生の名前に頼っていたら、たとえば、門に来る言うことをきかない礼儀知らずに、言うべきことも言えなくなる。自信のなさというものは、すぐに人に伝わるものだ。先生の経歴を誇るのはいいが、そんなものよりも、自分のいいところを誇ることにつながるような練習・経験を積み重ねたい。

先生の居ない環境の中で、己で考え抜き、工夫して、苦労して、パッと境地が開いた時、とてつもない自信がつく。私は、八卦掌修行期間40年のほとんどが、一人での自習である。自信があるのは、雑草のごとき這いつくばるような練習環境の中で、自分で考え、気づき、それがすべてつながったからだ。

習い始めの師匠は、佐藤金兵衛先生の本であり、次は無名な中国人就労生先生であり、次は柔道初段で小学生らにバカにされていた道場のコーチのおじさんだった。でも本や彼らに学んだことこそが、今まさに役に立っているのだ。

少ない技情報から真実を推測するくせは、佐藤金兵衛先生の本で学んでいる時に身についた。対多人数移動遊撃戦の身法と度胸は、就労生先生の薦める練習方法から学んだもの。乱戦時の弱者の身法は、柔道初段のおじさんから学んだもの。指導方針も、人を導く姿勢も、コーチのおじさんから学んだ。

後に正規の八卦掌の伝人に教えを請い、十数年を経て指導許可を得たが、その先生に習ったのは、ほぼ梁派の基本のみ。その先生も「八卦掌は対多人数想定の拳法」と言っていたが、教えてくれたのは、眼前攻防時の身法のみ。

一人でもがいていたころの失敗の経験のほうが、今のレベルを構成する大きな部分となっていることに改めて気づいた。

自分で考え、失敗し、よかれと思って取り組んだ練習が、後で役に立たなかったと気づいたとしても、そういう積み重ねこそが、実戦や、後の指導、そして自分の強さの構築に役立つのだ。確信している。

有名先生のもとで習わないと強くなることができないという意見はいまだに聞く。潜在的にそういう気持ちを持っている人間が多い。多くの人と話してみて、強く実感した。

そういう色眼鏡は、目の前にいる真の「いい先生」との出逢いを無駄にしてしまう。

みんなのやたらと大好きな拳法の達人も流派も、一般人はまず知らない。そもそも、実戦では、言う暇もないし、聞いてもくれないし、言う気持ちの余裕すらない。

「やあやあ、我こそは!○○門○○伝門人、○○先生の弟子○○ぞ!いざ尋常に勝負せよ!」

鎌倉時代の武士ではない。さすがにこんなことは言わないが、有名門派のブランドのこだわるのはそれと同じくらい実戦では意味がない。

中国拳法の練習なんぞ、先生の所にいって技を習ったら、あとはひたすら家で、膨大な数の反復練習を積み重ねるのみである。

「変なクセがつく」として独学を批判する者もいるが、そもそも、変なクセがつくためには、何千時間の積み重ねが必要である。変なクセがつくまで繰り返し練習している人など、そうはいない。だからその点についても心配する必要はまったくない。

いいクセも簡単につかないのと同じで、変なクセも簡単にはつかない。よって、悪いクセがつくという心配も批判も、練習時間をあまり取ることができない現代人にはほとんど関係がない。

先生に習って、家でひたすら自習して、何か月後かに訳が分からなくなってくるものだ。その時先生のもとにいって再び習えば、また違った理解がある。だから通うのだ。

家の自習時間と、先生の所に行って習う時間の比率は、私が通っていたころで言うと、およそ88時間:5時間(※2週間に一回、先生の所にいって習っている場合のたとえ)だった。ほとんどが自習である。

私は、自習=独学だと定義しているため、独学こそ、拳法が強くなるための基礎だと思っている。

独学を批判している人の中で、一週間のうち多くの時間を、先生のもとで学べる環境を持っている人は少ない。言っている連中だって、結局は多くの時間を一人練習に費やしている。

そしてマンツーマンでもない限り、道場にいって先生に診てもらえる時間なんぞ、たかが知れている。有名先生のもとであれば、その先生自身に見てもらえないかもしれない。見てもらえるのは、その先生の弟子や先輩であったりする。

だから、強さを構築するに、自分以外の要素はあまり関係ない、ということだ。

先生のもとにほとんどいけなくとも、先生がまったくの無名であろうとも、先生の教える拳法が、未熟で実戦的でなくとも、本人がやる気さえあれば、確実に己の設定したところにたどりつく。

回り道してしまう?回り道をすればするほど、オリジナル性が出て、強さに深みが出る。人に教える際、生きた経験として、自然と、そして自信に満ちあふれた中で、弟子に技の説明ができる。

拳法の本に載っているような、分かりにくい中国語の拳訣や拳諺、「竜のごとく・・・」のような分かりにくい比喩に頼らず、自分の言葉で説明ができるようになる。これこそが「よい先生」。

いま、君がどんな環境で学んでいようとも、それは将来の強さにマイナスの影響を与えることは一切ない。言ったはずだ。当門八卦掌は、プラス思考で考えよ。たとえその日、一回しか技の練習ができなくとも、一回分達人に近づいたのだ。だから大丈夫、前に進めばいい。

やればやるほど強くなる。まったくの独学では、自信をもって繰り返すこととができない。だから、ちかくのカルチャーセンターに教室があるなら、そこで基礎を学び、繰り返すがいい。だから行動しよう。

健康の代名詞である簡化二十四式太極拳。その教材すら、護身護衛の熱い気持ちで繰り返せば、間もなく実戦で人を守るエッセンスに君自身だけで気づき、君だけの実戦拳法と化す。断言してもいい。すべては君の気持ちが決めるのだ。

動けば、行動すれば、その分確実に強くなる。八卦掌水式門でもいい。近くの道場でもいい。どこでもいい。君が習いたい拳法があるなら、門を叩き、もしくはコンタクトをとってみるがいい。

そこで習って、繰り返すための教材を手にしよう。大丈夫。君より下手な先生なんていないから。

「今一人で練習しているのですが、どうしたらここから先に進めますか?」

先生にそう尋ねる勇気を持とう。もちろん礼儀は尽くすこと。教えてもらったら、ありがとうございました、を言う。それだけが、必要品。

『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップ

八卦掌水式門ホームページ:いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

これだけでいいんでしょ?女性と八卦掌

「これだけでいいんでしょ、違うの?」とこの子はいう。

私が人に教え始めの頃、まだ自信とか、指導方針が定まっていないころ、この子は確かめるようにこう質問をしてきた。

今ならば、はっきりと「これだけでいい」と答える。

女性の筋力は、考えている以上に、男性より少ない。よって力と力がぶつかる技では、簡単に弾き飛ばされてしまう。

「私の攻撃なんて、弾き飛ばされるだけ」がこの子の口癖だった。

映画の影響で、「八卦掌=女性」というイメージを持っている人も多い。インターネットの検索エンジンでも、その言葉で調べている人が結構いる。

たしかに、斜進攻防の八卦掌は、敵の目の前から動かず、激しく打ちあう武術に比して、女性に向いてそうなイメージを持つ。

しかし多くの八卦掌は、斜形スタイルなれど敵とぶつかり合うスタイルである。我の力のベクトルと、敵の力のベクトルが、正面きってぶつかってなくとも、抗する形が少しでもあれば、その部分で負け始め、勝敗が決する

映画の八卦掌でも、攻防を見ていただければ、まともにぶつかり合っているのが分かる。

このスタイルは、女性にとって厳しい結果を生む可能性があるにせよ、見ていて格好のいいものだ。よって多くの人(男性も女性も)こチラのスタイルの方を採るし、憧れる。

しかし実戦では、見栄えが通用しないのは、常に言われていること。実戦でないにしろ、組手・散手・乱取り等で試してみると、いかに体格等の要素が勝敗に影響を与えるかがわかる。

体格の良い、筋力のある初心者が、鼻穴を広げて力任せに攻撃をしてくる。初心者なのに、力任せの攻撃で我の攻撃がおくれをとったとき、言いようのないむなしさを感じてきた。

多くの人間はここで「体格差があるから仕方ない」で終わらせる。

冗談じゃない、私は常に、そこから考え続けてきた。答えは、単換掌の術理の中にあった。

眼前攻防こそが八卦掌のたった一つのスタイルだと思っていたが、負けるたびに湧きおこる悔しさが、八卦掌成立当時のスタイルにたどり着かせた。

たどり着いた原因に、この子の「弾き飛ばされるだけ」の口癖は大きかった。

君がいじめられている原因が、色々な面での「弱さ」からならば、迷わず八卦掌を選ぶがいい。できるなら、昔日の八卦掌を学ぶがいい。女性であるならば、なおのことだ。

昔日の八卦掌の利点は、「弱者が強くなるためになぜ八卦掌が適しているのか?その理由」 で説明している。

理解でき、本当に克服したいと思ったら、さっそく動こう。動いた瞬間から、事態も動き始める。

『いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集』のトップ

八卦掌水式門ホームページ:いじめが辛い君へ|八卦掌の単招式・連招式で取返しに行こう

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

護身は、常に勉強の連続。戦術的な失敗経験にて。

「誰もが・・・」のスローガンのもとに、護身術そのものの八卦掌を練習し、そして伝えて三十数年。未だ勉強の連続だと、改めて思った。

生徒さんをまじえた練習会の場で、自分たちの練習に興味を持ってみておられる外国籍男性(以下、男性)と、おつきの女性(以下、通訳さん)が、寄ってきて、何をしているか尋ねてこられた。

言葉が通じないため、通訳さんと介しての会話。しかし男性は、興味を持っている雰囲気ながらも、立つ間合いが近く、すぐにファイティングポーズっぽいしぐさをするため、挑発的な印象をすぐに感じた(生徒さんは、男性が離れた位置でこっちを見ている時から挑発的な雰囲気を感じておあられた。見事である)。

声をかけてくる方の中には、技を受けてみたいと願う方も時折おられるため、技を示すことに。また男性からは「試してみたい」意図を感じたので、どんなもんかと組手をしてみたかったのもあった。

エスケープ方法を知りたいというので、単換掌理による斜進後方スライドを示すことに。その旨を通訳さんに伝え、かかってきてもらうことしたが・・・・男性は完全に攻撃の間合いを取り、我に攻撃意識を向ける(それはすぐにわかる)。

明らかに教えを請う感じではない。挑戦であることを確かめるための虚打けん制穿掌。兵法でいう「威力偵察」である。まさか、穿掌を相手に当てるわけにもいかない。

力の入った男性の防御と反撃。明らかに勝負の意図である。穿掌後の防御平穿が無ければ、私は男性の反撃をまともに喰らっていた。

その時点ですぐに手合わせを打ち切り、通訳さんに、入門等をするなら、このような攻撃的な態度ではよくない、生徒さんの安全を守るためにも、この態度では受け入れられない、と伝え、終わらることに・・・と話しているその時

その男性が、生徒さんに、手を出す仕草をしたため、生徒さんが、対敵防御。

驚き、生徒さんの説明を聞き、これはトラブルになりかねないと思い、お引き取りを願った。しかし再び近寄ってきて・・・・。

通訳さんをに対し、無礼な態度を指摘し、申し込みがあっても、入門は認めない、と伝え、場所移動をした。

今回の件で、家族には大いに叱られた。生徒さんが強かったからよかったものの、私だったらどうするの?手合わせしたかったら、一人の時にすればいいのよ、と大目玉。叱られて当然である。

反省点は、挑発的な態度を感じ取った時点で、その場から去るべきであった。結果、生徒さんに対敵対応をさせる結果となった。これは明らかに私の落ち度である。

指導の場である以上、生徒さんがけがをしないことを最優先させないといけない。私は、自分の組手願望を優先させたため、結果として、対敵対応をさせる可能性を作った。

何事もなかったのは、生徒さんの護身能力が高かったからにすぎない。先ほども書いたが、生徒さんは、男性がこちらを見ている時から、威圧的な雰囲気を感じ取っており、かつ、男性が近づいてきても、警戒を怠っていなかった。それは生徒さんの間合い取りと、立ち方でよくわかった。警戒をしてるな、と。

常に警戒を怠らず、その状況において起こりうる可能性に準備をする。私が通訳さんと話している最中でも、男性に気を抜かず、警戒を怠らなかったことが、鮮やかな対敵対応につながったのだ。

今回の件では、私の対応は、戦術局面としては低い点であろう(護身の戦略としては、なかなかだったと思う)。片や、生徒さんの対応は戦術局面的に関しては、実に多くのことを学び取ることができる。戦術は戦略を上回ることはないが、時に、戦略的成功を曇らせるくらいの、印象を与える。

指導中ということで、自由に離れるのもはばかられる。危険回避を自由にできない状況。その中でできることは、安全な間合いを取り、不意の最悪の行動に備えること。生徒さんは具体的・戦術レベル的に行動していた。心身共にスタンバイをしていた。それが、護身につながった。

数多くの経験をしてきた。その都度、状況を分析し、フィードバックをするのだが、100点の戦術的対応ができることはない。今回は最低点であると辛口に判断する。

戦略的分析では、今回の件も、戦術的分析と違ったものとなる。またそれは、機会があるときに。

常に勉強である。

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

立山連峰は見えないが・・講習会と報告と再出発

今日は、富山講習会。『「何気なく歩く」走圏から「基本姿勢・発力法」を練る明確な走圏に変える講座』講習会。

対多人数移動遊撃戦の土台であり、単換掌理における生命線・斜進後方スライドの機動力を確保する、極めて重要な基本。

講習会の告知でも、その重要性をしっかりと伝え、動画も作成して講習会でお伝えする内容も公開したが・・・・遠隔地門下生の方2名以外、誰も来られませんでした。

大変残念。伝え方が悪かったのか・・・?内容は実戦や散手・組手・乱取りで実証済みで、きっとこれなら、一人で奮闘しておられる方にもメリットがある、と思って、準備してきたが。

そもそも、ツイッターやホームページでも、当講習会の告知を、ほとんど人が見ることはなかった。当然私の力の及ばぬところも大きい。痛感する。しかしもう一つ、痛感することが。

「水野のスタイルは、今の風潮においては、大変だろうな。実戦重視とか言っておきながら、ネットで見ている連中の見たいもんは、対人用法の詰め合わせ動画だぞ。結局綺麗なのがいいんだしな」

「それじゃ、何もわっかんないだろ、足もうつってないやつある」

「わかる必要ないんじゃけ、戦いなんて、リアルじゃないんだから。一時、あざやかなもんに触れて、使える気になれればそれでいいんだからさ」

長年の武友との、会話を思い出した。コロナになってからずっと、この会話の内容がある意味で当たっていたことを、痛感させられてきた。

単換掌理は、当門が昔日の八卦掌を伝える稀な門であるゆえに、他では当門ほど重視されていない。当門では、単換掌理を指導するだけで、人によっては、ゆうに一年以上は時間を取ることもある。

しかしあまりにシンプルな動きに、講習会や出張講習で学んだ人の中には、残念そうな顔をする人もいる。仕方のないことかもしれない。

単換掌は、多くの人にとって、シンプルすぎる基本技の一つに過ぎない。深い意味を分かってない人も案外多い。

そして、単換掌をきっかけに学ぶ「単換掌の術理(以下:単換掌理)」は、「必倒」より「生存」重視の、逃げるのがメインのエッセンス。単換掌理にもとづく昔日の八卦掌は、近代八卦掌のように、合気道顔負けの流麗華麗な絡め技など、一切と言っていいほどない。

しかし私は、数年前、単換掌の術理・・・つまり単換掌理の重要性に気づき、涙も止まらないくらいの衝撃と感動を受けた。

「これならば・・・相手の状況に左右されることなく、生還できる。誰でも生還できる」

すでに私の練習相手が、その有効性を示していたのだが、今ほどの重要性を感じていなかった。眼前変化攻防に囚われていたからだ。「この戦い方で、どうやって多人数戦を戦うのだろうか?」とくすぶる疑問を持ちながらも、ひたすら変化攻撃ばかりを練習していた。

指導者の「まず一人からだ」という言葉を鵜呑みにし、「きっと対一人ができるようになったら、対多人数戦もできるようになるのだろう」と納得させ、やはり敵側面変化攻撃ばかりを練習していた。

しかし、記事 「倒さなくても、最後まで立っているだけでいい。昔日の八卦掌」 で触れたように、気の遠くなるような積み重ねの果てに、体重差や内功武術の使い手の膨張力の前に圧倒されたのをキッカケに心がくじけてしまい、そこで眼前攻防のスタイル自体を疑う気持ちが湧いてきた。

そして空しい日々がしばらく続いた後に・・・運命の言葉といってもいい

「単換掌理しかしない。私の攻撃なんて弾かれるだけでしょ」

それが、私の再出発でもあった。彼女はその時、私よりもずっと、八卦掌本来の姿に近い位置にいたのだろう。女性であるがゆえに、力と力がぶつかる世界にサッサと見切りをつけ、力がぶつからない世界に移動し、活路を見いだしていた。

今日の講習会は、私が最も重視し、志ある方に最も伝えたい内容だったがゆえに、大きな衝撃を受けた日であった。

ついでに・・・・楽しみにしていた、富山湾に浮かぶ立山連峰も、かすみがかって見えなかった・・・残念。下の写真は、富山県氷見市の窪海岸。遠隔地門下生の方のみの場合の練習場所。富山湾は綺麗だったが・・・。

さあ、再出発しよう。単換掌理と順勢掌理、それに伴う武器操法・・・・対多人数移動遊撃戦戦闘の理。すべてがまとまった今、「〇〇伝〇〇派」の”縛り”もない状態だから、ぞんぶんに前に進むことができる。

そのことを、富山の大切な人にも報告できた。喜んでくれていることだろう。前に進む。恐れるものは何もない。第九のテノール独唱部分の言うように

「進め、兄弟たちよ! お前たちの行く道を、そう、その道を!喜びに満ちて、勝利に迷わず進む英雄のように!」

ただ進むのみだ。もう、十分に練習はしきった。もう伝えていけ。もう、伝える段階なんだ!

4月より、八卦掌水式門は、再スタートをきる。我が門のスタイルに共感し、大切な人を守りたい、自分を守りたい、八卦掌を伝えたい、護身の法を知りたい、そう思う有志は、愛知に集え。

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

倒さなくても、最後まで立っているだけでいい。昔日の八卦掌

立っているだけでよかった。倒さなくても、最後まで立っているだけでよかった。それができていたら。

人を守るには、自分を守るには、害悪を与えてくる連中を全員、倒さなくてはならない。そう思い込んで、ずっとずっと練習をしてきた。それが、私が長年、眼前変化攻撃にこだわってきた理由だった。

八卦掌とは、そのような拳法だ。弱者使用が前提だから、敵の目の前において、側面に回り込んで、相手の逆を突いて、反対側から、敵の思わぬ方向から打つ・・・・そう思い込んで練習をしてきた。

柔道の乱取り、空手や意拳の人との組手、とにかくやり続けた。そしてずっとずっと負け続けてきた。技術に自信がない時は「練習不足」だと言い聞かせて、とにかく側面に少しでも速く回り込むことを考えて、足腰をひたすら鍛えてきた。

速度が上がり、側面から強引にでも、圧力をかけることができるようになってきた。でもそうすると、今度は体重差や力によって、踏ん張られて弾き飛ばされる。

体重が60キロくらいしかない私は、男性格闘愛好家の中では軽量級。体重差で負けることが悔しくて、やはり側面移動速度を上げることをエスカレートさせて・・・やっとなんとか、と思いきや。

今度は、内功による胸前空胸による内から外に張る膨張力によって対抗する相手に、微動だにせず弾かれて・・・。ならばこの側面移動の速さではどうだ、と変化攻撃の果てに虚を取るが、相手はわずかに身体の向きを変えただけで・・・涼しげに押し込まれて。

正直に覚えているのだが、その時は、あまりの衝撃に、帰りの車中では、涙が止まらなかった。いつになったら、「人を守ると言って負けて、同級生の学生生活をつぶしてしまった、あの瞬間に戻って違った結果を残すことができるようになるのか。いま戻っても同じことを繰り返すだけ」と泣けてしょうがなかった。

人生に挫折、というものがあるのなら、あの時も確実にその時だったと思う。

それからしばらくは、自己満足のための練習・・・。それでも自分はやってるんだ、あきらめてないんだと、思い込むための練習。それが続き、日に日に身体各所に、ガタが来始めた時・・・。

「私、単換掌理しかしないの。なまじ他のことやると疲れるし、最後まで立っていればいいでしょ。だって私の攻撃なんて、前に出ても、弾かれるだけでしょ」

と高校生女子の言葉。ハッとして、これは・・・・。ひょっとして・・・と思った。

そして、プロイセンの参謀長、モルトケの言葉を思い出す。

「目的はパリ、目標はフランス軍」

パリという目的を狙えば、我が決戦を望むフランス防衛軍は、かならず出てきて決戦となる。その言葉は、侵略軍側人間の言葉だが、逆に考えてみる

敵の目的は、自分が守るべき人。敵は、その獲物を確実に得る目的を達成するために、邪魔な自分をまず排除しようとする。威圧と力、もしくは数で。そこで、自分が敵に捕まらず、動きまくり、状況が変わるまで、いや、助けが来るまで立ち続けていられれば。倒さなくてもいい・・・立ち続けていられれば。

倒そうとするから、敵に近づき、敵の技術や体格による影響を受け、そこで動きが止まり、あの時のように、後ろから椅子の足で殴られ、つぶされるんだ。「先生や誰かが来るまで、立っていればいい」とあの時気づいていたら、あいつの前で止まらず、防衛戦はその後も続いていたのに。

決戦でフランス軍が負けないで残り続ければ、脅威は残ったままなので、プロイセン軍はうかつにパリを占領できない。そう、攻撃しても殲滅できない、しぶといフランス防衛軍であればよかったのだ。なんでそれを、誰もおしえてくれなかったのか。なんでその生き残りの知恵を、あの時私は思いつかなかったのか。

それからずっと、単換掌理による模索の日々が続く。単換掌理は知っていた。しかし眼前攻防による必倒スタイルが、それを軽視させた。

気づいてからの模索の日々でも、相変わらず負け続けた。どうしても前にでてしまう。前に出れば、もしくは技巧によって敵を抑えようとすれば、必ず敵と力がぶつかり、弾かれる。

でもうしろにスライドすれば、違った結果が出る。徹底して、敵と力がぶつからない道を考えた。すべての技術を検討し、検討を速めるために、技を厳選し・・・・・。そうすると、走圏の意味も、定式八掌のけったいな動きも、すべてがクリアになっていくのだ。

やっと昔日の八卦掌の形に触れることとなった。昔日の八卦掌は、武器と戦っていた。だから各種武器の形状や使いにくさ、不適合さから逆推して、昔日の戦闘スタイルを裏付けする作業が続いた。

移動しながら武器の先に推進力をのせる、は、移動しながら、という前提により、八卦双身槍や鴛鴦鉞、刀の技法や形状から容易に昔日の戦闘スタイルが把握できた。

下のイラスト図は、近代スタイルと昔日スタイルの特徴を簡潔に並べたもの。私自身、近代スタイルを挫折してしまうくらいまで長く向き合っていたため、その違いはよく分かる。図は近代スタイルの批判ではなく「違い」として見てほしい。昔日・近代、ともに長短があることがわかる。

対人での練習が重要な位置を占める単換掌理。眼前対一攻防が主流の現代において、掌理を理解し、実行・経験している人は少ない。

眼前対一攻防の近代八卦掌の優れた指導者は、日本各地におられる。

しかし私は「誰もが・・・守ることができる」の条件に、目をつぶることができなかったため、この道を行くことにする。流派のネームバリューもない昔日の「単換掌理」スタイルのみのいばらの道だが、構わないと思う。

なぜなら実戦では、「これなら私が心の底から願う目的を達成できる」と己が信じたスタイルで存分に戦い抜き、最後まで立っていることが最も重要だから。

いきなり木刀やリードにつながれた犬で襲ってきた人間たちには、当然、拳法をやっていることや流派の名前を知らせる時間的余裕はなかった。突然後ろから突進してきたイノシシには、当たり前だが言葉なんて通用しない。

幾多の経験もあいまって、拳法は何が重要であるか、八卦掌は何が重要か、そう「生存」すること、「生還」することが重要なのだ、と確信し、すべてがつながった。数多くの基本技法も、老八掌も、定式八掌も、武器も、すべてが、つながった時だった。

これからは、講習会を開き、通信併用科も近々開設し、単換掌理を中核とした昔日の「生存」第一の八卦掌を伝えていく。

「誰もが大切な人を守り、そして自分を守ることができる」技術を、全国各地で、有志が、少しの行動で学ぶことができる・・・その環境が提供されれば、「立っているだけでいいんだ」と多くの防衛者が気づき、弱者が救われ、笑顔が増える。苦しみがそこで終わる。

このことを、真剣に考えている。

弊門の講習会では、冷やかしや、無礼な対応で肩透かしをくらわされることも多い。伝承系統を示すことができなくなってから急増した傾向だ。

武を志す者の中にそのような人間がいることは大変残念。いざとなった時、または苦しい時、優しさよりも己の利を優先させ、人を踏み台にするような人間かどうかは断言できぬが・・・・拳法なんぞ究極は人を傷つける技術。そんな人間にかかったら、不幸な人間を増やすだけと思ってしまう。

もしあなたが、君が、「誰もが大切な人を守り、そして自分を守ることができる」という度真面目でくさいスローガンに少しでも共感できるなら、君は優しさの天才。間違いない。

そんな君やあなたにこそ、教えたい、と素直に思う。そんな優しい人には、全力で「最後まで立っている」技術を伝える、と約束できる。

どんな形でもいいから、興味が少しでもあるなら、来てほしい。愛知に集え。

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

目的は単換掌理「引き込み、虚打、転戦」を実行し生存する事

2023年4月16日・4月30日に愛知県刈谷市で行われる『強者に圧倒されない護身術に変える「生存」のための八卦掌「単換掌理」講座』講習会

講習でテーマとして採りあげる「単換掌理(たんかんしょうり)」は、八卦掌の真髄と私は確信しています。八卦掌は弱者が強者から生存し、己を守り、大切な人を守るための武術。己を守り、大切な人を守るための具体的な方法が「単換掌理」なのです。

私は学生時代の経験から、強者に打ち勝つための技術をひたすら求めてきました。しかし技術が上がるほどに性別・筋力・年齢あなどの身体的要素の脅威に打ちのめされてきました。

八卦掌は宦官の作った拳法(伝)。「私にはしょせん無理か。体格がよければ、運が悪かった、で終わってしまうのか」と挫折をしていた時、教えていた練習相手(女性)のスタイルから、ハッとしました。

「だって、どうせ前に進んで攻撃したって、私の攻撃なんて弾かれるだけでしょ?」

そういって老僧托鉢を繰り出す時、思い切り下がる少女。そういえば、もう一人の生徒さんも、同じことをいっておられた。気づかなかった。

これか!私はずっと、近世八卦掌の、猛然と前に出て、磨きぬいた巧みな技で圧倒するエリートスタイルに、出来もしないのに囚われていた。

八卦掌のエッセンス(真髄)と言える戦闘スタイル。「追撃してくる敵を間合いを保ち流し引き込みながら、不意に攻撃しつつ入り身、一気に身を翻し転戦離脱」。八卦掌では、この攻防を無意識でできるようになるために、全ての練習法が組み立てられ、そして帰結しています。

※転戦離脱時に前に現れた敵を斜進攻撃で引きつつ斬り込み攻撃するのは、単換掌理の派生性掌理である「順勢掌理(じゅんせいしょうり)」。単換掌理を理解すると順勢掌理も理解できる。

たったそれだけのものであるが、「追撃してくる敵を流し引き込みながら、不意に攻撃、一気に転戦離脱」の中に、弱者が強者に圧倒されないための工夫が、ふんだんに盛り込まれています。

八卦掌の練習目的は、この流れを実現するために考え抜かれた「工夫」を、どんな状況下でも実行できるようにすること。

圧倒的に多い独りでの想定練習と、想定練習におけるイメージを補うためのわずかな対人練習の組み合わせで、練習をする、と言ってもいい拳法。

このシンプルな流れの中にある、強者に負けないための工夫と練習法を、一人でも多くの、立場の不利な、でも自分を守り、大切な人を守りたい、と願う優しい人に確実に伝える。その一環として、今後も、「単換掌理」にからむ講習会は、人が来なくなっても開いていきます。

難しい技法は、やはり誰でもできるものではない。でも、水式門でとりあげる「単換掌理」ならば、練習を積み重ねれば、誰でもできる。内容は「え?これだけなの?」というもの。

上の動画中で、走圏で回っている最中に、後退しながら打つ、動作がある。ここが一番大切。これにたどり着くまでに、多くの失敗を繰り返してきた。

敵が向かってきたら、そのまま思い切り後退(もしくは横)スライドして、敵と離れながら、我の射程内に入る直前に、けん制攻撃(虚打)を放って、転戦、後方の敵に電撃攻撃をしていく。それだけ。

もちろん、練習が必要です。何度も何度も練習する必要があります。練習しないと、後方スライドができないし、そもそも歩きながら虚打を放つこともできない。

しかし後方スライドのおかげで、そもそも敵の攻撃はとどかない。届いたとしてもかする程度。自分の攻撃も届かない?届かなくていい。届いてしまうような、猛然と残酷に突っ込んでくる敵にだけ当たればいい。それ以外の敵に当てるために、あなたが危険な領域にとどまる必要はない。

生存こそが大事。立っていれば、守ることができる。

プロイセン総参謀長、モルトケは言った。「目的はパリ、目標はフランス軍」。わが軍がパリに進撃すれば、その過程で必然とフランス防衛軍がやってきて決戦となる。

少し意味は違うが、自分が立っていれば、生存していれば、敵は守るべき人ではなく、必然的に自分を攻撃してくる。獲物を確実に得るために、邪魔な存在である自分を排除するため攻撃をしかけてくる。

そして自分は、事前に鍛えぬいた八卦掌の両掌理で、徹底的に逃げまくって翻弄し、時に斬り込んで電撃戦を展開し、思うようにさせない。てこずらせる。そのうちに、助けが来る。相手を倒していない。でも、相手の意図が打ち砕かれた。

これだ!これしかない!10分もてばいい。

それを実現するための方法こそ、「単換掌理」。これから、解説ページ、動画、講習会、色んな場で伝えていきます。一人で練習する人も、昔単換掌を習った経験はあるがどう使っていいかわからない人も、そして今まさに習っている人も、是非見てほしい。そして実行してほしい。

八卦掌が、護身の切り札に変わることを実感できるはず。単純だけど、極めて実用的。いざという時に、自分と大切な人の命運を託すことができるようになるため、今すぐ練習しよう。

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ

八卦掌は対多人数戦専門の遊撃戦武術だから護衛武術たりうる

八卦掌は対多人数戦専門の遊撃戦武術だから護衛武術たりうる(対多人数遊撃戦拳法だから、大切を人を守ることができる)。これは、30年以上八卦掌と向き合い、考え続けて実践してきたうえで確信したことがだから間違いない。

この命題は、私の中では揺るぎない真実となった。師伝で「対多人数専門だから」と言われたから言っているのではない。人に言われだけのもので、断言などできません。よって、人が「それは違う」と言っても一切変えることもないし、考え直すこともない。

なぜこんなことをわざわざ言うのか?まず動機から。

それは、八卦掌を信じ、日々苦しい練習と向き合う優しき修行者を後押ししたいから。「対多人数戦専門の遊撃戦護衛武術・八卦掌」の言葉を信じて弊門をくぐってくれた有志を後押ししたいから。

守るべき人を守ることができず、どん底からここまでやってきて、その努力が報われた瞬間もあったり、うまくいかないこともあったり・・・そんなことを繰り返す中で、明確に確信した。この道を進みたいがために、流派のネームバリューにも、ライトポップな路線にも進まなかった。

その決断が様々な苦痛を招き寄せたが、今この瞬間も、しっかりこの道を進んでいる。

では確信している理由を。

敵側が多人数であっても、我が動き続ける以上、敵は誰一人として油断することができない。滑歩で移動する際の八卦掌の動きは、速さもさることながら、次に進む方向を読むことができない。

高機動力拳法であるゆえ、不意をつかれて逆を取られると、逆をとられて慌てて振り返っても、逆を取った先でも我は移動しつづけているため、とらえることは難しい。

敵は対多人数の有利さを活かすことができず、移動し続ける我に気を取られ、かつ警戒して気を抜けないため、八卦掌で戦っている護衛者が守っている「ターゲット」に近づく余裕がないのである。

分かりやすい例を話そう。「人を護衛するために八卦掌で戦う者は、太平洋戦争において艦船を護衛するために戦った戦闘機(ゼロ戦)と同じ」という話である。

航空機の出現により、艦船にとって空からの爆撃攻撃は大変な脅威となった。

太平洋戦争初期の日本海軍の爆撃機(主に中島99式艦上爆撃機の急降下爆撃)による攻撃命中率は、80%を超えていた。このセンセーショナルな攻撃能力によって諸外国は航空機攻撃の有効性を知り、日本艦船にも攻撃爆撃機の脅威が跳ね返ってくるようになった。

通常爆撃隊は、数十機の大編隊(時に数百機)で押し寄せてくるため、対空砲火だけでは、防ぎきることはできない。そこで、機動力に劣る艦船や爆撃機・雷撃機を守るため、戦闘機が大活躍したのです。日本海軍の主力戦闘機は、もちろん零式艦上戦闘機、ゼロ戦です。

ゼロ戦の戦い方は、その高機動力性から、旋回・急激転身・きりもみ旋回などでアメリカ軍の戦闘機や爆撃機を圧倒しました。その戦い方は、移動遊撃戦を採り、敵を翻弄し続ける八卦掌戦闘者そのものです。

日本艦船や爆撃隊を攻撃しようにも、ゼロ戦が飛び回って護衛している以上、アメリカ軍戦闘機はゼロ戦を無視できない。無視して艦船を攻撃しようものなら、対空砲火に加えてゼロ戦による追撃攻撃を喰らい、たちどころに撃ち落とされる。

よってアメリカ軍戦闘機は、まずゼロ戦を叩き、そののちに後続の爆撃隊に攻撃のバトンを渡す必要がある。しかし開戦当初のゼロ戦の搭乗員の技術はすさまじく、アメリカ軍戦闘機は歯が立たず、戦闘機も攻撃隊も多大な被害を受け続け、日本艦船に打撃を与えることができなかった。

※そこで、高機能レーダーの開発や、戦闘機の横で弾けるVT信管技術の開発などでアメリカ軍は挽回を図った

八卦掌で護衛を志す者は、この歴史の出来事を、修行の励み、そして参考としてほしい。

どこを「参考」にするか。それは、ゼロ戦の戦闘スタイルである。ゼロ戦は、搭乗員の操縦技術の高さと、機の高機動力性によって、護衛の目的を果たした。

高い技術による絶え間ない移動遊撃戦で、敵の戦闘機を圧倒し、敵爆撃雷撃隊を蹂躙し、日本海軍爆撃雷撃隊を守ってアメリカ艦船に対する空襲を支えた。

基本技術の徹底的な身体浸透化による操身技術と身のこなしで自由に動き回り、多勢にモノを言わせようともそのメリットを活かない移動遊撃戦に慣れていない敵を、移動遊撃戦の渦中に引きずり込み、ほんろうして、圧倒せよ。

日頃から「滑歩移動」の激しい身体流の慣性がかかる状況下で、技を打ち込む練習をし、通り過ぎながら突然打ち、すぐ離れ、違う角度・方向から打つ、を繰り返す。

息が上がることを恐れるな。息が上がっても動き続けることができる体力を、日ごろの練習で養うことだ。息が上がった状態で動き続けるための練習は、大変苦しい。しかしそこから目を背け、気持ちいい移動速度で練習しても、実戦ではすぐに捕捉され、役に立たない。

移動遊撃戦の土台は、有酸素運動の積み重ねによる基礎持久力だ。この基礎持久力は、年齢が70を越そうが、女性であろうが、身体の小さい者であろうが、積み重ねるならば、積み重ねていない者を圧倒する要素となる。

八卦掌は言い訳の効かない拳法である。日ごろから移動遊撃戦を練習していなければ、実戦で息があがり身体をコントロールできず使い物にならない。しかし、逆を言えば、日ごろから練習している者ならば、敵の身体的優位さを乗り越える可能性を味わうことができるのだ。

ゼロ戦たれ。ゼロ戦となって、あなたが守りたいものを守り切って見せよう。大編隊で飛んでくる思いやりのない敵を、移動遊撃戦の渦中に引きずり込んで、徹底的に撃退せよ。

「八卦掌は対多人数戦専門の武術だから護衛武術なのである」

辛い時は、この言葉を、私がしているように心の中で何度も唱え、大切な人を守っていこうぜ。

ブログトップ

八卦掌水式門ホームぺージ:トップページ