倒さなくても、最後まで立っているだけでいい。昔日の八卦掌

立っているだけでよかった。倒さなくても、最後まで立っているだけでよかった。それができていたら。

人を守るには、自分を守るには、害悪を与えてくる連中を全員、倒さなくてはならない。そう思い込んで、ずっとずっと練習をしてきた。それが、私が長年、眼前変化攻撃にこだわってきた理由だった。

八卦掌とは、そのような拳法だ。弱者使用が前提だから、敵の目の前において、側面に回り込んで、相手の逆を突いて、反対側から、敵の思わぬ方向から打つ・・・・そう思い込んで練習をしてきた。

柔道の乱取り、空手や意拳の人との組手、とにかくやり続けた。そしてずっとずっと負け続けてきた。技術に自信がない時は「練習不足」だと言い聞かせて、とにかく側面に少しでも速く回り込むことを考えて、足腰をひたすら鍛えてきた。

速度が上がり、側面から強引にでも、圧力をかけることができるようになってきた。でもそうすると、今度は体重差や力によって、踏ん張られて弾き飛ばされる。

体重が60キロくらいしかない私は、男性格闘愛好家の中では軽量級。体重差で負けることが悔しくて、やはり側面移動速度を上げることをエスカレートさせて・・・やっとなんとか、と思いきや。

今度は、内功による胸前空胸による内から外に張る膨張力によって対抗する相手に、微動だにせず弾かれて・・・。ならばこの側面移動の速さではどうだ、と変化攻撃の果てに虚を取るが、相手はわずかに身体の向きを変えただけで・・・涼しげに押し込まれて。

正直に覚えているのだが、その時は、あまりの衝撃に、帰りの車中では、涙が止まらなかった。いつになったら、「人を守ると言って負けて、同級生の学生生活をつぶしてしまった、あの瞬間に戻って違った結果を残すことができるようになるのか。いま戻っても同じことを繰り返すだけ」と泣けてしょうがなかった。

人生に挫折、というものがあるのなら、あの時も確実にその時だったと思う。

それからしばらくは、自己満足のための練習・・・。それでも自分はやってるんだ、あきらめてないんだと、思い込むための練習。それが続き、日に日に身体各所に、ガタが来始めた時・・・。

「私、単換掌理しかしないの。なまじ他のことやると疲れるし、最後まで立っていればいいでしょ。だって私の攻撃なんて、前に出ても、弾かれるだけでしょ」

と高校生女子の言葉。ハッとして、これは・・・・。ひょっとして・・・と思った。

そして、プロイセンの参謀長、モルトケの言葉を思い出す。

「目的はパリ、目標はフランス軍」

パリという目的を狙えば、我が決戦を望むフランス防衛軍は、かならず出てきて決戦となる。その言葉は、侵略軍側人間の言葉だが、逆に考えてみる

敵の目的は、自分が守るべき人。敵は、その獲物を確実に得る目的を達成するために、邪魔な自分をまず排除しようとする。威圧と力、もしくは数で。そこで、自分が敵に捕まらず、動きまくり、状況が変わるまで、いや、助けが来るまで立ち続けていられれば。倒さなくてもいい・・・立ち続けていられれば。

倒そうとするから、敵に近づき、敵の技術や体格による影響を受け、そこで動きが止まり、あの時のように、後ろから椅子の足で殴られ、つぶされるんだ。「先生や誰かが来るまで、立っていればいい」とあの時気づいていたら、あいつの前で止まらず、防衛戦はその後も続いていたのに。

決戦でフランス軍が負けないで残り続ければ、脅威は残ったままなので、プロイセン軍はうかつにパリを占領できない。そう、攻撃しても殲滅できない、しぶといフランス防衛軍であればよかったのだ。なんでそれを、誰もおしえてくれなかったのか。なんでその生き残りの知恵を、あの時私は思いつかなかったのか。

それからずっと、単換掌理による模索の日々が続く。単換掌理は知っていた。しかし眼前攻防による必倒スタイルが、それを軽視させた。

気づいてからの模索の日々でも、相変わらず負け続けた。どうしても前にでてしまう。前に出れば、もしくは技巧によって敵を抑えようとすれば、必ず敵と力がぶつかり、弾かれる。

でもうしろにスライドすれば、違った結果が出る。徹底して、敵と力がぶつからない道を考えた。すべての技術を検討し、検討を速めるために、技を厳選し・・・・・。そうすると、走圏の意味も、定式八掌のけったいな動きも、すべてがクリアになっていくのだ。

やっと昔日の八卦掌の形に触れることとなった。昔日の八卦掌は、武器と戦っていた。だから各種武器の形状や使いにくさ、不適合さから逆推して、昔日の戦闘スタイルを裏付けする作業が続いた。

移動しながら武器の先に推進力をのせる、は、移動しながら、という前提により、八卦双身槍や鴛鴦鉞、刀の技法や形状から容易に昔日の戦闘スタイルが把握できた。

下のイラスト図は、近代スタイルと昔日スタイルの特徴を簡潔に並べたもの。私自身、近代スタイルを挫折してしまうくらいまで長く向き合っていたため、その違いはよく分かる。図は近代スタイルの批判ではなく「違い」として見てほしい。昔日・近代、ともに長短があることがわかる。

対人での練習が重要な位置を占める単換掌理。眼前対一攻防が主流の現代において、掌理を理解し、実行・経験している人は少ない。

眼前対一攻防の近代八卦掌の優れた指導者は、日本各地におられる。

しかし私は「誰もが・・・守ることができる」の条件に、目をつぶることができなかったため、この道を行くことにする。流派のネームバリューもない昔日の「単換掌理」スタイルのみのいばらの道だが、構わないと思う。

なぜなら実戦では、「これなら私が心の底から願う目的を達成できる」と己が信じたスタイルで存分に戦い抜き、最後まで立っていることが最も重要だから。

いきなり木刀やリードにつながれた犬で襲ってきた人間たちには、当然、拳法をやっていることや流派の名前を知らせる時間的余裕はなかった。突然後ろから突進してきたイノシシには、当たり前だが言葉なんて通用しない。

幾多の経験もあいまって、拳法は何が重要であるか、八卦掌は何が重要か、そう「生存」すること、「生還」することが重要なのだ、と確信し、すべてがつながった。数多くの基本技法も、老八掌も、定式八掌も、武器も、すべてが、つながった時だった。

これからは、講習会を開き、通信併用科も近々開設し、単換掌理を中核とした昔日の「生存」第一の八卦掌を伝えていく。

「誰もが大切な人を守り、そして自分を守ることができる」技術を、全国各地で、有志が、少しの行動で学ぶことができる・・・その環境が提供されれば、「立っているだけでいいんだ」と多くの防衛者が気づき、弱者が救われ、笑顔が増える。苦しみがそこで終わる。

このことを、真剣に考えている。

弊門の講習会では、冷やかしや、無礼な対応で肩透かしをくらわされることも多い。伝承系統を示すことができなくなってから急増した傾向だ。

武を志す者の中にそのような人間がいることは大変残念。いざとなった時、または苦しい時、優しさよりも己の利を優先させ、人を踏み台にするような人間かどうかは断言できぬが・・・・拳法なんぞ究極は人を傷つける技術。そんな人間にかかったら、不幸な人間を増やすだけと思ってしまう。

もしあなたが、君が、「誰もが大切な人を守り、そして自分を守ることができる」という度真面目でくさいスローガンに少しでも共感できるなら、君は優しさの天才。間違いない。

そんな君やあなたにこそ、教えたい、と素直に思う。そんな優しい人には、全力で「最後まで立っている」技術を伝える、と約束できる。

どんな形でもいいから、興味が少しでもあるなら、来てほしい。愛知に集え。

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