八卦陰陽理論なんて知らなくても、八卦掌で十分に達人になることができる。確信している。
もっと言えば、たくさん伝わっている八卦掌の理論も、知らなくてもいい。
知ったところで、最初に素晴らしいスタートをきることができるわけでもない。途中で知ったところで、修行が大きく前進するものでもない。行き詰っている時知ったところで、その行き詰まりが解消されるものでもない。
37年の歳月の中で、理論を読み解いて技術が改善した記憶など無い。私の八卦掌の先生は理論を学べと言っていたが、私は同じ助言を、私の後に続く門弟に言うつもりは全くない(学ぶのはまったく自由)。
八卦掌成立時の、清王朝末期頃は、庶民の識字率など極めて低かった。中国王朝時代は、庶民が字を知り、反逆の知識・知恵をつけるのを恐れていたため、庶民に対する字の普及は意図的に避けられた。国体を維持するための国策だったのだ。
つまり、多くの拳法名手を生み出した清王朝末期~中華民国初期頃の修行者は、字など読むことも書くこともできず、ゆえに理論で技術を理解することもできなかった。それでもあれだけの達人らが出たことは、理論の学習が拳法深奥到達に必須でないことを意味するのである。
私は、冒頭に出た「八卦陰陽理論」など、勉強もしてないからほとんど知らない。ただ一つの箇所を除き。
後ろから迫る敵を引きつけ後退スライドして撤退戦をするとき、後ろから迫る敵は深追いをして「前方向に進む」慣性にどっぷりつかった状態となっている。
そこで追撃を狂わされ反撃される事態が生じたら、敵はその事態に対応できない。つまり、追撃という圧倒的有利な「陽」の状態のなかに、追いかける相手の変化に対応できない「陰」の要素が生じるのだ。
昔日スタイルの八卦掌は、その部分で撤退戦を仕掛ける。撤退戦を成功させるために、対敵イメージ走圏をし、ショウ泥歩で歩ごとに居着かない歩き方をし、扣歩→擺歩の後退スライドを練習する。
私が正式門弟となった人間に話す八卦陰陽理論は、その部分だけだ。それ以外を話したことがない。読んだことはある。
敵が入ってくる方向や、それに対する変化などを、八卦の卦にて説明する、極めて難解なものだった。八卦掌の術理に気づき、身体を自在に動かして捕まらない状態と、電撃戦をどこからでも仕掛けられる状態となった後のことだった。
しかし、その理論で我の動きの裏付けをすることなどできないと即座に感じた。
移動遊撃戦は、相手や我のその時の動きによって、その都度変わるもの。到底理論などで、移動遊撃戦の緒戦から終戦までを、説明できるものではない。
私の成長とともに技術を上げてきた女性門弟たちも、その考えになっていった。洗脳したわけではない。彼女らは、私に匹敵するくらい練習する。その中で、十代半ばにして、そのことに気づいたのだ。
「理論で、私の動きを妨げないで欲しい」と、強がりでなく、誇り高く宣言する彼女らに、私は大きな手ごたえと嬉しさを感じた。
理論に触れず、「これは大事だ」と、我の修行の過程の中の気づきだけで判断した「中核部分」で、門弟が強くなる過程を目の当たりにすることができたからだ。
八卦陰陽理論は、それを作った人(八卦掌の技術体系を八卦陰陽理論で裏付けた人)、作った人に直接学ぶ門弟、陰陽理論に触れて心底感動して悟った者とその者に直接習った者のみ、意味がある。
八卦陰陽理論は、自然の法則を人間が頭で考えて、当てはめたもの。であるならば、当てはめた人は、彼の表現としてまとめ上げたのだから、大変意味がある。そして、彼に習う門弟も、八卦陰陽理論を通して八卦掌をとことん理解した彼に習うのだから、意味があるのだ。
残念ながら、八卦掌水式門の水野義人には、この理論はしっくりとこなかった。しっくりこない理論なのに、八卦掌内で権威があるから、有名だから、という理由だけで理論教授や技術指導をされても、水野義人の門弟が分かるはずが無いのだ。そもそも、水野が深い箇所まで、説明しつくすことができないのだから。
私は八卦掌が、(1)創始者が、清王朝の宮廷に入った宦官(身体能力的弱者)であったこと、(2)斜進戦法を特徴とする力のぶつからないスタイルを採っていること、(3)手の動き、創始者の逸話のなかに、刀術のにおいが立ち込めていたこと、(4)師から「八卦掌は多人数専用の武術である」と言われ続けたこと、(5)八卦掌が、おとり作戦で守るべき人を守る悲壮な護衛拳法であること、などから、長い繰り返しのなかで、「単換掌の術理」と「前敵スライド離脱攻撃の術理(順勢掌の術理)」に気づいた。
気づいた時、すべてがつながり、目の前が開け、身体の動きが今までの次元を大きく超えたことを、抑えられないくらいに実感した。あの時の感動と胸の高鳴りは、今でも忘れられないくらいだ(どれくらい泣いたか覚えてないくらい、ずっと泣いていた)。
私にとって、単換掌の術理は、八卦陰陽理論で八卦掌を説明した天才にとっての「八卦陰陽理論」に匹敵するくらい、重大な真理なのである。
だから、この真理は、正式な門弟にしか指導しない。講習会や体験で時折来る、斜に構えて様子をうかがいに来る、八卦掌の「初歩の初歩」すらわかってない人間、デモンストレーションと実戦を区別もできない暇つぶしの動画視聴者になど、教えるはずもないのである(習う気もないからである)。
私はいつも思う。修行をしている者には、他の門派の内情や、他の拳法のデモンストレーションなんかに目もくれず、とにかく習っている門派の中核部分を繰り返して欲しい、と。
繰り返す理由はただ一つ。習っている中核部分を、その修行者の身体を通して、その修行者の理解方法で、理解してもらいたいからだ。
水式門の承継人には、いつも言っている。「君の気づいた理解プロセスに絶対的自信をもち確信し、君の理解の仕方で解釈したものを、八卦掌の術理として伝えよ」と。
修行者から指導者となったその者にとって、気づいた術理は、どんな有名先生の説く理論よりも真実に近い。その瞬間、彼にとっては、彼の理解の仕方で悟った八卦掌理こそが、「真実」なのだ。
彼に習う門弟は、彼が気づいた「真実」をもとにして、また新たな、門弟にとっての「真実」へと進むことができる。これこそが、伝承である。
先生は、自分自身の、膨大なくり返しによって気づいた真理に忠実となり、それをあますところなく伝える義務がある。その義務をしっかりと果たす指導者こそが、「良師」なのである。
誰それ先生に習った、とか、そんな上っ面なものにこだわっているだけの先生は、間違っても良師ではない。
そういう点で私は、梁振蒲伝八卦掌の伝人の道を捨ててでも、我の真理に向き合って指導しているため、「良師」なのである。我の真理に従って進んでいるから、胸を張って指導することができるし、これからも進化していくだろう。
講習会や体験で、一回習っただけで来なくなるような人間はいくらでもいた。きっと期待外れだったのだろうが、それについて、何ら気にもならない。
指導者になる際それを心配する人もいるが、「大丈夫だよ、そうなったからといって、君の真理がつまらないとかではない」と心の底からアドバイスしている。
八卦掌をやるなら、ここまで行こう。人を導く立場になろう。そのために、君の真理まで行こう。そこまで行くと、指導する以外にも、色んなことができる。
仕事で、自信をもってお願いができる。危険かどうかがわかる。野生動物の気配を感じとることができる。その瞬間、トップスピードで、その場から離脱することができる。これらは具体例。もっと素晴らしいことができるかもしれないのだ。
その世界を見てみたいと思わないか?誰それ先生の名でなく、君の名で、自由に堂々と、伝承活動をしてみたいと思わないか?
不安なんて感じる必要はない。私自身、人が来ないだけで、すべてうまくいっている。自分が目指す世界へまっしくぐらだ。
水式門でなくてもいい。君が習いたいものがあるなら、今すぐ動くがいい。人生は短いぞ。動けば、大変なこともあるけど、それがまた、君の「真実」へと、君を連れていく。
習っている最中は、先生の真実に素直になれ。でないと、上達しないし、失礼でもある。なぜなら、君は何もわかってないからだ。しかしひとたび一通り学んでわかってきたら、人の考えたものを崇拝するな。君の真実への、足掛かりとせよ。